第三章 解決するべき唯一のこと

 

 「仏教の教えは絶望させる」あるいは「世界のすべてを悲観的に見るので聞いた人を憂鬱にし、朗らかにしない」という仏教を本当に知らない人たちの誤解である考えは、仏教が空(からっぽであること)、無我(自分が無いこと)について話し、すべてのものは苦であり人が執着するべき意味はなく、極楽でさえ陶酔するべき良いものはない欲望と執着の話なので夢見るものでも望むべきものでもなく、ほとんどの人が誤解しているような良くも素晴らしくもないと教えるからです。

 たまたま外国人がこのように聞くと、あるいは一部分だけを勉強すると、仏教は悲観的な面に注目していると考え、もっとひどいのはすべてを否定する人達で、仏教は何も掴まないので、結局得るものは何もないと決めつけます。このように感じればその人の考えは間違った方向になり、すぐに何らかの邪見になります。仏教の要旨まで勉強しないタイ人も同じように考えます。

そしてこれらの人が仏教を広める仕事に関わると他人を間違った見解にし、仏教にとって、そしてそれを聞いた人々にとって非常に悪い結果になります。人々は「この人は知識があるから招かれて仏法の講義をし、庶民の質問に答える」と理解するからです。仏教を教える人の中には、庶民のご機嫌をとり、あるいは愛や怒りや恐れや自分の愚かさによる偏見で、ブッダの教えを避けていることが時々明らかになっています。

もう一つは勉強(学習)するのが嫌いな、あるいは勉強ができない仏教教団員で、これは非常にたくさんいます。この人たちには信仰しかなく、そして布施することに非常に勇猛で、功徳は現世でも来世でも幸福に発展させると確信していて、他のどんな説明も聞きたがりません。このような人たちは仏教を正反対に見ます。つまり良い面だけで、あれをもらう、これをもらう、あれになる、これになると考え、そして誰の言葉も聞きません。誰かが親切に正しい説明をしても聞こうとしないばかりか腹を立て、あるいは説明する人を間違った見解と見ることもあるので、危険がその人に降り掛かります。本当の仏教を知らないからです。 

だから仏教は悲観的に見る人たちでも楽観的に見る人たちでなく、すべてのものには利益と害があると見る空っぽの心のある人、あるいは何にも動じない中立の人です。何を見ても一面的に良い面だけ、あるいは悪い面だけしか見ないのは間違った考え幼児の見方で、何でも自分が見ただけで「すべてそれはそのようだ」と言います。

だから仏教は外面も内面も、すべてのものを真実のままに見、そしてそれらのものと自分にとって苦のない状態、善中毒と呼ばれる症状や悪で立腹しない状態で適切に関わると理解するべきです。仏教は何もないと否定していません。すべての物はあると認めていますが、すべての物は「自分、自分のもの」と執着するべきでないだけです。

「自分、あるいは自分のものは何もない」と言うのは、何もない、何も手に入れない、何も食べたり使ったりしないという意味ではなく、私たちにふさわしい使う物、食べる物はありますが、心でそれを「実体があるもの」、あるいは誰かのものと執着しないだけです。それはいつでも心を冷静さと、心身の軽さを得るためです。「私は必要な便宜を得るため、部下として使うためにだけ手に入れる」と言い、それ以上は受容しません。

だから所有は、所有しないのと同じ価値しかありません。しかし重要なのは得ることや失うことで心が動じないこと、苦しまないこと、あるいは狂喜しないことです。この種の心は得ることも拒否することも望まないので平常心でいられます。仏教はこのような心でいるよう、つまり俗人の範囲を超えた自由な心をもって、考えも話すことも行動も世界のすべての情況に動揺しないのですべての苦より上にいるよう教えています。

仏教は興味を持つべきもの、あるいは手に入れるべきものは何もないと否定しているのは事実ですが、興味を持つべきもの、あるいは手に入れるべきものも確実にあると認めています。それは苦がまったくない状態、何にも「自分、自分のもの」と執着しないことから生じる状態で、命や名誉、名声、あるいは一般の人が執着している他のすべてのものに執着しない、つまり心がすべてのものより上にある自由で、それを短く「解脱」と言います。何から解脱するのかと問われれば、「心を支配し、自由でなくしているすべてのものから解脱する」と答えます。

仏教の教えを掴む複雑さは、仏教の本物を理解する障害と見なします。それぞれの人があの話この話、あの部分この部分を仏教の教えと捉えていますが、下らないものを掴むことから脱せないからです。つまりタンマの実践をしても成功せず、成功しないのはその人の前からの執着に関わり、その人に以前からの信仰があれば、自分の知識や信仰と一致する面や角度だけで仏教を見るのが好きだからです。そして他人にも間違った教えを掴ませます。その人が仏教の布教に関わる大学者で、競ってこれが仏教の教えだと聴衆に教えるからです。

「プラプーム(家の敷地に住んでいる神様又は精霊)を拝んで祈願することは、仏教教団員であることを損ねないでしょうか」と質問する人がいると、この種の哲学者は「仏教教団員であることを損ねはしません。プラプームの信仰は三蔵の信仰より少ないからです」と答えます。これが口から出まかせの見本です。最高レベルの外国人学生も眩暈がするので、四依を寄進するおばあちゃんたちは言うまでもありません。だから「現在でも仏教徒は、本当の仏教の教えが何かを掴むことができない」と言うのは非常に正しいです。

ブッダの反逆者でない人は、四聖諦や八正道、三学、三相、縁起、あるいは「悪事をせず、あらゆる善を行ない、そして自分の心を純潔にする」の三項が仏教の教えだと主張します。互いに違う面を見ているので、たくさん教えが林立する状態になり、四依を寄進する人たちは何を勉強すれば良いか分かりません。

もう一つ厄介なのは、幾つかのタンマ集に理解できない言葉があることで、本当の意味、あるいはブッダの意図と違う訳をしたので、内容が反対になってしまいました。困惑すればするほど説明を書く人が増えるので、書けば書くほど間違って遠くなります。しかし新しい解説に哲学者風の表現を使うので、聞いた人読んだ人は理解が難しければ難しいほど仏教の重要な教えと誤解して、それらの説明にめいっぱい執着します。

述べたような症状は縁起などの話に生じ、分厚い本になるくらいたくさんの解説が生まれて非常に名誉を受け、好んで学ばれて目覚ましく普及しましたが、結局意味がなく、縁起を説かれたブッダの本来の目的と一致する、利益がある実践原則として使うことができません。アビダンマと呼ばれる解説も寝言のような状態に陥り、隅々まで理解できなくなります。あるいは私たちが仏教から利益を得られなくするいろんな妨害を熟慮することで、実践を有益に使うことができません 

原因はただ一つ、手がかりが掴めないだけです。つまり理解しやすく、そして一般の人の考えと一致する実践しやすい明解な教えでないので、広い世界のすべての人が自分の実践規則として使える教えを掴めるようにしなければならないという考えが生まれます。なぜならタンマは真理であり、公共のものであり、自然のものであり、取り巻いている状況に合わせて人が規定できる道徳ではないからです。

しかしそうするためには、前からある教えを仏教の一般の教えと一致するように、注意深く完璧に維持する必要があります。そうすれば良く学んでいる仏教教団員に受け入れられるものになり、そして四依の寄進者やおばあさんたちのような教育のない仏教教団員でも簡単に理解できます。そのためには一般の人がすぐに理解できる普通の言葉にしなければなりません。しかし内容は教典にあるままです。そして大切なことは教育のない人でも、あるいは老人や間もなく死にそうな病人でも面倒な勉強をしないですぐ実践でき、タンマの理解が間に合うようにすることです。

だからこれから説明することが今まで聞いたこともない新奇ものでも、読みたくなくなるほど怪訝に思わないでください。好き勝手に、口から出任せに言っていると理解して無関心に読まないで、仏教教団員の目前の問題を解決するために、このような状態で話さなければならない講演者の決意を知ってください。

 提唱したい解決法は「私たちは『無我』と『自分』と『自分のもの』以外には何も勉強する必要はない」、これだけです。ブッダとタンマと僧について考える必要はなく、仏教史も含めたあの名前この名前のタンマの項目を一切思い出す必要もないので、内緒で教典を全部端へ寄せてしまいます。それらの経典のたくさんの難しさは、無駄に疲労困憊させるので、「自我」と呼ばれるものだけを「苦と完璧な滅苦」の面から学んで探求し熟慮判断します。ブッダが『昔も今も、私は苦と滅苦に関わる話だけを規定する』と言われているからです。

だからこれから「私、私のもの」がどのように苦を生じさせるか、そしてどう対処するかを熟慮します。初めの段階で悪い自分を消滅させて善い自分だけを残し、それから少しずつ善い自分に執着するのを減らし、最後の段階はどんな「自分、自分のもの」という感覚も心に残しません。それで終わりです。三蔵全部の終わり、あるいは仏教のすべての終わりです。そうすればその人はどんな状況下でも永遠の平安に出会います。「私、私のもの」というものがすべての苦の原因だからです。

「私」「私のもの」をパーリ語で「アハンカーラ」「ママンカーラ」と言い、心理学の言葉では「自我」「我所有」と言います。どれも著しい身勝手で悶々としている心、道徳を考えず、あるいは善悪正誤を考えずに、すべてを自分の思い通りにしようと悶えている心を意味します。

 「取」とは心が強く囚われることで、五蘊つまり体と心を「自分」と強く執着すること、そして「自分のもの」に関わる気に入ったものに執着することです。もっと細かくすれば心を「自分」と執着し、そして身体と感覚、記憶、そして考えの四種類を「自分のもの」と執着します。ブッダの言葉に『要するに取がある五蘊は苦』とあります。だから「自分」「自分のもの」という取のある人は苦である五蘊があります。

つまりその人にとって耐え難い症状が現れ、そしてそれを見た人は誰でもうんざりする厭わしい症状が現れます。執着に支配されていない五蘊は苦ではありません。だから純潔あるいは解脱という言葉は、『すべての人は、取で執着しないことで解脱する』というブッダの言葉があるように、直接「自分」「自分のもの」という執着からの解脱を意味し、まだ取があれば、苦から脱しません。「自分、自分の物」というものはすべての人を繋いでいる苦の首縄で、この首縄を切ることができなければ、その間中苦しまなければなりません。

 ブッダの言葉に『この梵行(清浄な行ない)には、功徳として思いがけない幸運や賞賛はない。功徳として極楽の愛欲の幸福はない。功徳として梵天界の梵天になることはできない。しかし解脱が功徳である』とあるように、解脱は仏教のタンマを実践する目的です。ここでの解脱は、思いがけない幸運や賞賛、極楽の幸福、梵天になりたい願望の威力から解脱するという意味です。

「自分、自分のもの」という感覚が、思いがけない幸運や賞賛、極楽の幸福や梵天になることを期待させる真犯人です。それは「欲しい。なりたい。手に入れたい」という気持ちなので、取で得たりなったりすれば、当然その間中苦が生じていて、その取を捨てることができればすべての「得ること、なること」は苦になりません。

 重要な要旨は取で「手に入れる」「求める」「何かの身分になる」ことで、もう一種類は取がなく知性で「手に入れる」「求める」「何かの身分になる」ことです。そしてここで言う知性は本当の知性という意味で、取に支配されている知性ではありません。例えば世俗面の教育は極度に発展したと見なされている、現代のすべての凡人の知性、心は反対に「自分、自分のもの」という取に沈んでいます。

だから彼らの知性は純粋でも純潔でもなく、仏教の意味の智慧ではありません。彼らは常に知性に管理されている暮らしがなく、「自分、自分のもの」という取に支配されている暮らしがあるので、現代の世界の空気は身勝手が至る所を包囲し、そしてますますひどくなるばかりです。それが「自分、自分のもの」と呼ぶものの毒であり、何もかも発展していると自慢しても、目を瞑って眠れないほど世界の人が直面している大きな危険です。教育も発展し、発明や生産も進歩したと自慢しても、反対に自分の心を妨害する苦を払い除けて脱すことができないのは、たった一つ、つまりこの著しい身勝手の威力があるからです。

だから現代人は、自分の仕事の能率を上げれば上げた分だけ、その能率はその人を輪廻の方へ押し流します。つまり何度でも繰り返し苦があり終わりがなく、涅槃あるいは滅苦、永久で本物の平和に流れて行く部分はなく、あるのは本当の平和から遠退くばかりです。

 だから現代人の能力は、道を誤った能力になるだけと見ることができます。それで滅苦を望んでどうなるでしょう。先ず「自分。自分のもの」と呼ぶものを捨てておしまいなさい。そうすればこの世界には能力、あるいは望ましい行動があります。これが「自分、自分のもの」を勉強しなければならない重要性です。そしてすべての人間には当然同じ問題があるので、仏教に限らずどんな宗教でも、最速で到達できる一般の課題と呼べるものとして、すべての人の仏教の学習のための唯一の項目と捉えるようお願いします。

人間は同じ問題があり、同じ頭と胸があるので、どの国の人でも、世界のどこに住んでいても、あるいはどんな宗教を信じていても、今世界中が困窮しているのは、この「自分」があるからです。要するに社会が困窮し、個人は本当の幸福が求められないのは、財産や権力や知性は豊かでも、「自我」と呼ばれるもの、あるいは著しい身勝手があるからです。

 私たちは「神様から罰を与えられたのではなく『自分、自分のもの』があると信じることの毒から生じた私自身の困難だ」と正しく理解しなければなりません。人間の困苦が酷くなった時、これらの困難を無くす方法を考え出したので、「人間は互いにこう振る舞わなければならない。自分自身にこう振る舞わなければならない」と様々な教えを発見し、そして人に信じさせるため、あるいは非常に強く執着させるために「神様」という信仰を仮定しました。

本当は正しい知識や理解が現れることが、本当の神様が現れることです。だから誰でも自分で「神様を創ったのは私だ」と見なければなりません。仏教は「自分、自分のもの」から生じる害や苦を排除しなければならないので、初めから最後まで段階的な実践方法があり、神様や精霊、天人、すべての神聖なものなど、外部のものには一切関わりません。しかし神様の話や地獄極楽の話に直接反論したくないので、これらの問題は信じられているように、そして信じたい人の望みどおりにしています。

もしこれらの話を取り上げて関わるなら、智恵の足りない人たちや以前にそのような信仰があった人たちは「自分、自分のもの」を完全に排除できないので、悪を捨て善を行なう気力にする道具として依存するだけです。だからこれらの話を本当の仏教と見なすべきではありません。彼らがすべての悪を捨ててすべての善を行ない、そして極楽へ生れて天人のような幸福になっても、彼らはまだ「自分、自分のもの」という束縛から逃れられないので、極楽で泣いたり笑ったりしなければならないという簡単な理由があるからです。

だから彼らにはもっと高い規則が必要です。つまり「自我」と呼ばれるものの威力を完全に消してしまうことができ、そして人間も天人も、どこででも使える教えでなければなりません。特に私は「現世で」を望みます。だから仏教に対して新しい人は、本当の仏教を理解するためにこの点だけを掴んで仏教に興味を持ってください。そうすれば自分自身も混乱しないし、哀れにも他人に間違って教えることはありません。

 社会を幸福でなくし、そして個人が穏やかさを得られなくするもの、それを退治しなければ「人間は苦のために生まれて来た」と言わなければならないほどのもの、言い方を変えれば、人間が得るべきものを得られなくするものがあることを忘れるべきではありません。

だから私たちは、どうしたら人間が手に入れるべき最高のものを人間の手で得ることができるか、競って探求するべきです。そしてそれは人間にとってどこにでもあるものでなければなりません。神様やいろんな教祖に期待すればするほど、苦を退治するものから遠退くので、神様やいろんな教祖の慈悲を期待する必要はありません。

 だから神様やいろんな教祖、あるいはブッダ・プラタム・僧もとりあえず他の場所にしまっておいて、本気で真剣に「自分、自分のもの」に関心をもつよう強調しなければなりません。成功して結果が出れば、神様やいろんな教祖、あるいはブッダ・プラタム・僧が私たちを訪ねてきます。あるいはし終わった行動に溢れています。なぜなら「自分、自分のもの」がない純粋・清潔・清浄が本当のブッダ・プラタム・僧、あるいは本当の神様であり、本当の拠り所だからです。

これと違えば神様あるいはブッダやタンマや僧の外皮にすぎず、そしてそれは執着の基盤になり、やがて新しい形の「自分、自分のもの」が生まれます。そうなったら人間は「自分」「自分のもの」を駆除するのどころか、「自分」と「自分のもの」に更にひどく騙され、いろんなお寺にいる出家集団も庶民も平和を求められなくなります。

これが、私たちが正しく見なければならない項目です。退治しなければならない敵は、ここで「自分、自分のもの」と呼ぶものに集約される一つだけなので、それを退治できれば「涅槃」と呼ぶもの、つまりすべての苦の終わりに出合います。

学習の便宜のために「自分」を幾つかのレベルに分類することができます。^い自分と∩韻ぜ分、Gくなっていく自分と「自分」があるという感覚のない自分の全部で四段階で、自分に関する実践には、三つのレベルがあります。

(1)悪い自分を根絶させ、(2)善い自分を作り、(3)仏教の要旨と言われる三項目の教えにふさわしく自分を薄くし、最後に絶滅させます。つまり悪を捨て善を行ない、そして心を純潔にするので、仏教はすべての人間の宗教です。仏教はゴータマという名前のブッダの宗教という理解は大きな誤解です。ブッダはタンマの所有者であること、あるいは宗教の所有権者であることをきっぱり否定し、そしてタンマはすべての物より前からあると主張されています。

 ブッダは人間にとって必要なものを発見したい一人の人間として発見しました。そして完璧な滅苦だけを発見し、そのタンマを尊重しています。同時にすべての人にタンマを尊重し、タンマを理解するように勧め『理解するべきもの、尊重するべきものは私(ブッダ)ではなくタンマです。私の体を崇拝してはいけません』と宣言されています。

すべては、そのタンマは「人間の人間による人間のため」のものと宣言しているようなものです。そして本当の仏教は、純潔なタンマという意味でなければならず、あるいはすべてのタンマは誰かのもの、あるいはいずれかの宗教のものであってはなりません。それは「自分、自分のもの」の話になってしまいます。仏教という名前はすべてを知り尽くした人の教えという意味であって、誰でも良く、そして知って教えたものがプラタムです。

だから仏教とタンマは同じと見てください。あの宗派が教えることはこの宗派は聞こうとしない読もうとしないことが原因で、タンマをこの宗派のもの、あの宗派のものにしないでください。そうすれば人間の凶悪な敵の集まりである「自分、自分のもの」を退治する道具として使うことができます。

 


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