第二章 仏教の目的

 

 多くの人が「仏教の目的は人を極楽へ導くこと」と理解しているので、極楽は人が行くべき所と教えられ、極楽は最高に幸福な場所なので極楽を望むよう、来世で極上の欲情を望むよう勧めます。真実を知らない多くの人は極楽にあこがれ、極楽へ行くことだけを目指し、そこは自分が望みどおり歓楽を味わうことができる場所であり、善を行なわせるために人々を騙す道具である異教の天国のように、自分が思い切り快楽を求めることができる国です。だから人は仏教の本当の目的である現世での滅苦に興味がありません。これは大きな障害であり、仏教の目的を理解できなくさせる最初の項目です。誰もが欲望・取を目指すからです。

 だから教え方を改めなければなりません。そして「極楽は行かなければならない場所」と言うのは人叙法(人物を主体に述べる述べ方。ブッカラーディターナ)の言い回しだと、仏教教団員は正しく理解しなければなりません。つまり名のもの(抽象)を形のもの(具象)あるいは物質と言う、そういう言い回しは一般の賢くない人、知性が十分でない人に信じさせる効果がある話し方で、苦が滅すという意味の「涅槃」という言葉も、どこにもある精進料理レストランにいる(中国系の)おばさんたちの、阿弥陀仏がいる極楽浄土と同じ、稀に見る素晴らしい国、不死の都になります。

極楽浄土の本当の意味は、おばさんたちが理解しているような意味ではなく、「涅槃」の意味は煩悩がないこと、苦がなくて明るいことです。阿弥陀という名のブッダがいる西方にある美しい国という意味ではありません。そこへ行った人は誰でも、美しいものや、人間や天人が受け取ることができる最高に楽しいものに囲まれているので、すべて自分の望み通りに満足できる。これはすべて人叙法で話しています。

 禅宗はそのような「阿弥陀仏」を信じません。阿弥陀仏という言葉は、慧能が言う「自性」、黄檗希運の言う「空」の呼び名です。精進料理レストランにいるおばさんたちの「阿弥陀仏」や「極楽浄土」は、賢い人には子供の玩具かバカバカしいものになります。

 だから仏教の目的は何かと問えば「世界中のすべての人の日常生活の問題を解決して、世界で苦がなく生きられるようにすること」と答えます。簡潔に言えば「苦の大軍の中で苦がなく暮らす」で、例えて言えば「世間の骨に刺されないで世間で暮す」、あるいは「燃え盛っている溶鉱炉のような世界で、最高の涼しさを感じること」です。

「仏教は、今ここ(現世)で人の苦をすべて取り除くことを目指している」とまとめさせていただきます。どこにあるか、本当にあるか、死んだ後本当に行けるかどうかも分からない極楽へ連れて行くことではありません。昔から言われていることを理由もなく信じる以外に、誰も証明できる人がいないので、結局もう一つ愚かさになります。

 中には仏教の教えは段階的になっているので、人成就(人間の段階で成就する結果)、天成就(天人の段階で成就する結果)、涅槃成就(涅槃を成就する)と言われるようにこの世界で発展し、それから次の世界で発展して、その後で世界を超えた発展をするなど目的も段階的であるはずだと反論する人がいるかもしれません。それは、この三成就は死んだ後に極楽へ行くのではなく、そしてもっと何十世も後に涅槃になるのではなく、今この世界で何としても到達しなければならないと彼らが知らないからです。

 正しい意味では、人成就は普通の人が汗や垢と引き換えに利益を得るという意味で、その結果普通の人が得るべき安楽な暮らしに到達することができ、天成就は知性や徳や権力や特別な福分がある人が掴むことができる利益で、汗や垢と引き換えにしなくても財産と名声名誉と欲情面が満ちた発展した暮らしができ、涅槃成就は貪り・怒り・迷いに苦しめられないという意味で、前の二種類の人たちは得ることができない種類の利益です。

なぜならそれらの人々は、貪・瞋・痴のいずれかの毒で、まだ当たり前にイライラ・カッカしているからです。それでもこの三成就は現世で、つまり今、生きているうちに到達するよう努力しなければならないいろんなレベルの利益と熟慮して見るべきです。そうすれば仏教がすべての人に、特に智慧に欠けていない人に与えるべきものを受け取ったと言われます。

ここで、この三つの利益、つまり人成就、天成就、涅槃成就のうち、どれが仏教の本当に目指す利益か、どの利益が小骨のある魚のような利益で、どの利益が小骨のない魚で、そしてどれが小骨を避けて小骨のある魚を食べられるようにするか、最高に注意深く熟慮しなければならない問題です。これは多少知性のある人なら、人成就と天成就は小骨が見えているか隠れているか、あるいは太いか細かいかだけで、それなりに骨のある魚だと、自分で見ることができます。

人が終わりを知らないように笑ったり泣いたり交互に繰り返さなければならないのは、人成就、天成就だからです。繰り返し苦に耐えなければならないのは、この二つは直接苦だからで、それを求める時に必ず間接的な苦、あるいは隠れた苦があり、思いどおりになった時、あるいはそれを味わっている時、あるいはそれを維持している時でも、まだその人が三番目の成就をしていない分だけ、その人が幸福と誤解しているものの中で繰り返し苦しまなければなりません。

三番目の成就をした時、その人は初めの二種類の成就の毒から解放され、その後は、初めの二つの成就の抑圧がない自由な生活ができます。どの種の成就をすれば善いものを手にしたと見なせるか、どの種の成就をすれば仏教の本当の目的に出合えるか、自分自身で熟慮してください。

仏教を理解する障害である誤解はもう一つあります。人は往々にして「仏教の空や無我に関する教えには目的がない。あるいは一般の人には使えない。使うことができるのは洞窟や森に住んでいる修行者か、急いで涅槃に到達することを目指している出家だけ」と理解しがちで、そして家にいる在家にふさわしい別のレベルの教えがあるはずだと、勝手に決め付けます。この人たちは人成就、天成就という言葉に執着し、自分にも他人にも人成就と天成就だけを目指すよう教えます。

彼らは涅槃成就は一般人には不可能としているので、言及することさえしません。だからこれらの人たちは本当の仏教の教え、つまり空の話と無我の話を聞くことから離れてしまい、この世で幸運な人になり、来世で美しく生まれて、最後には極楽の保護を受け、あるいは宮殿を与えられる類の布施や積善だけに夢中になってこの話を繰り返しします。

だから知恵の劣る人々の社会でも哲学者の社会でも、涅槃成就の話は恐ろしいものになります。涅槃に到達することは、捕まえられて、底のない空漠とした渕に放り投げられるように感じるからです。しかし仏教の最高のものと言われているので捨ててしまうこともできないので、話すのを禁止するしかできません。だから長老や住職である人や一般庶民も、本物の仏教の話、あるいはブッダが目指した本当の仏教の教え、あるいはすべての人の利益のためにある教えを聞くことから離れてしまいます。タイの仏教のすべてのレベルがこのような状態なのに、それでどうして「仏教を伝承するために出家する」と言えるでしょうか。

 「空の話は在家が関心を持たなければならない話」というのは、サンユッタニカーヤ(相応部)や、該当するその他から知ることができます。そのパーリ(ブッダの言葉)の意味を要約すれば、何人かの裕福な庶民がブッダに拝謁し、そして彼らは家を治める人で妻や子供に囲まれて沈香の粉を塗り、一般人のような仕事を営んでいるという事実を伝えてから「そのような状況にある私たちの利益になるとお考えになるタンマを説いてください」とお願いしました。

そこでブッダは、直接その人たちの利益になると見て空の話を教えました。そして「空の話はブッダが教えた教えであり、それ以外の華麗な言葉で綴られたいろんな話は後世の人の教え」と、いつでも原則にするよう主張されました。住民たちが「空の話は高度すぎるので、その下の話を説いてください」と言うと、ブッダは涅槃の流れに到達する人になる準備の話、つまり預流に到達するための実践項目を説かれました。

要約した要旨は、ブッダとプラタム(教え)と僧に揺るぎない信仰があり、阿羅漢が喜ぶ類の戒、つまり自分で自分を貶すことができない類の戒があり、そして何に関しても簡単に信じないこと、あるいは実践しないことです。住民は満足を表明し「私はそれらに執着していました。この話は仏教の本当の目的を理解するために詳細に熟慮しなければならない話です」と言いました。ブッダが家を治めている人たちに空の話をされたのは、彼らの期待どおり庶民の利益になるからで、在家たちが空の話を聞いて有益に使うことを望まれたからです。

空の話より下の話は、預流果に到達させる実践項目で、これは涅槃に到達する準備なので、間接的に空に到達すると見なします。人成就と天成就に溺れて無限に布施や積善をする話ではありません。しかし後世のタンマの解説者たちがこれらの話を天成就の話と絡ませて騙す形にし、どんどん宣伝して信じさせたので、それが涅槃の初めの階段の話や空の話をぼやけさせ、あるいは掠れさせました。

その結果現代の私たちは、仏教の空の話を聞く機会、あるいはブッダの本当の望みである、日常生活の苦を軽減するために本物の仏教を使う機会がありません。現代のタンマの解説者、説教者のせいで、私たちは日に日に仏教の要旨から遠ざかっています。

 ブッダが在家に空の話をされたのには、在家の複雑な問題は空の教えで解決しなければならないという意味があるはずです。在家の日常生活は、空の心に関する正しい理解で護られなければならず、そうすれば空の知識がいつでも心を護るので、何をしても間違いがなく、苦になりません。そうでなければ在家は、際限もなく笑ったり泣いたり交互に繰り返さなければなりません。在家がそうならないためにブッダは「在家を援ける利益があるもの」として空の話を教えました。

述べたように最高の仏教の教えは一つだけ、つまり空の話、あるいは空の心で、これは一般の在家も使うことができ、そして苦の中にいる在家が苦で汚れない人になるために、直接在家の苦を無くすことを目指しています。涅槃なら苦で汚れることはなく、永遠に絶対に汚れなければ涅槃に到達した人と呼ばれ、阿羅漢と呼ばれ、汚れが減って行くだけで涅槃に到達します。

初等のレベルの聖人になる段階、預流支(預流になるための四項)は、ブッダ・プラタム・僧、そしてアリヤカンタシーラ(聖人が満足する戒)に揺るぎない信仰がある合わせて四つは、空あるいは涅槃に到達する準備で、信仰はまだ「ブッダは空の話、つまり本当に滅苦ができる最高の話を悟った人で、そしてタンマは教えと実践とすべてに執着しない結果も含めた、本当に滅苦ができる空の話以外の何物でもなく、僧とは実践する人、実践の結果を受け取る人」と見るまで強くありません。

このように見えていれば信仰は安定して揺らぎません。つまり他のどんな教祖にも、どんな教えにも、空や涅槃を実践するよう教えない僧にも帰依しません。アリヤカンタシーラ(聖人が愛す戒)も同じで、「聖人が愛す」つまり聖人が満足すると言われるほど純潔な戒は、空と見ることに根源がある時だけです。完全でなくても必ず一部は、つまり少なくてもすべてのものに執着するべきではない、あるいは本当には執着できないという見解がなければなりません。そう見るだけでその人は、どの戒のどの項でも、何であれ破戒であるものを犯す意図がない人です。

特に幸受と、世界の幸受の基盤であるいろんなもの、執着の基盤であるものです。そして知ってはいても、戒を破らないよう努力はしていても私たちに戒を破らせるものは、抑圧が強ければ強いほど反動も強くなりますが、常に空の知識で抑圧を排出する方法があれば、簡単に純粋な戒を維持でき、逆らわず、あるいは何とも闘わないので、戒は聖人が満足するくらい純潔になります。

 すべては、このソターパッティヤンガ(預流になるための項目)の四項は、在家の人たちの「空の話は難しすぎる」という反論をかわすために言ったとしても、空の枠から脱してなく、普通の言い方をすれば「上手くはぐらかして、無理やり空の話を受け入れさせた」と見ることができます。

あるいはその空の知識は、将来確実に美しく成長するに違いありません。本当の信仰があり述べたような戒があれば、それは必ず空から生じた信仰あるいは戒であり、黄金の宮殿を所有して五百人の天女を従えた神になりたいなど、一般の人々が騙され陶酔させられている極楽を渇望してする戒ではありません。それはどんなに強い信仰や戒でも、しっかり安定したものでも聖人が満足するものでもありません。

だから揺らがない信仰と戒を持つなら本当の信仰と戒でなければなりません。他のものによる戒と信仰は困難を極め、ひどく騙されれば、当人もそのような信仰と戒に倦怠し、最後にはいつか根のある信仰と戒、つまり空に出合うので、庶民風に言えば「ブッダは前もって罠を仕掛けた」と言うことができます。その時庶民が必死に拒否して空の話を受け入れなくても、いずれにしても彼らが空の話の網から落ちることはありません。

 要するに智慧のある人たちの社会では、本当に自然に、誰でもタンマあるいは仏教の教え、つまり幸福を生じさせる滅苦を求め、知性によって差があるだけです。その人たちにふさわしいレベルの空の話ですが、非常に残念なことには、それらの人たちは、自分の苦にふさわしい滅苦ができるものを求めるよう教えられたことがなく、反対に軌道を外れるよう、彼らが勝手に思い描いている何らかの種類の幸福を追及するよう教えられます。

そのような状態では、宗教を教える人が毎朝毎晩宣伝している「極楽や布施に陶酔する首縄」に繋がれてしまいます。だから庶民が求めるのは滅苦、あるいは仏教の滅苦ができるタンマではなく、将来極楽に宮殿を築くと彼らが好き勝手に甘い夢を描く幸福になってしまいます。これが、すべての仏教教団員が仏教に本来の仏教の目的と違うものを望みすぎる原因です。

なぜなら仏教は人類にどのような本当の利益をもたらす目的があるか、そしてその手段である教えは何か、という教えを掴めないからです。だから「仏教は、空あるいは無我の知識と実践によって、すべての人が苦の海の中で苦がなく暮らせるようにすることを目指している」と、結論し主張させいていただきます。一般のお寺で宣伝して信じさせているような、極楽の宮殿に陶酔させるためではありません。どうぞみなさん、時間を無駄にしないために、これからは知識を改めてください。

 次の問題は、仏教の利益全体と比較した時、どうして現代人が得る利益は少なすぎるのかという問題です。どの動物よりも高等と見なされている人間社会にあるべき平和がなく、一般の動物の群れの方が人間社会より平和と言えるほどです。この問いの答えを知るために、仏教に関わる人たちは大きく分けて二種類いることを理解しなければなりません。 

つまり先祖から引き継いでいるから、あるいは伝統だからというだけで関わるのが一種類で、宗教に何かを求めて関わるのがもう一種類です。先祖がして来たように、あるいは伝統習慣で信じている前者は、その人にとって確かな結果はありません。もう一方の、何らかの目的があって宗教を信じている人は更に二種類に分けることができ、煩悩から脱したい、すべての苦から脱したいという純粋な目的の人たちは、可能な限りの賛同と支援を受けるべきです。

もう一種類はそういう意図はなく、愚かしい期待で宗教に近付き、神聖なもの霊験のあるものを求め、幸運を手にしたい、金持ちになりたい、絶対に勝ちたい、あるいは敵や幽霊やお化けから、病気や事故から逃れたいというような望みで霊験のある寺を探して、首が重さに耐えられないほどたくさんお守りを首に提げます。それは何か、何に原因があるのか、何のためかも知らないので、自分が首にかけているお守りは自分の問題を隠す敵になります。

 ある人たちが宗教的な知識を得るために出家し、自分の物質的利益のために生活道具である知識を求めることは更に煩悩を増やし、結局仏教の核心に到達できません。なぜなら到達する意志がなく、到達を好まず、あるいは「真理には現世的、金銭的な利益は無い」と見ているからです。宗教行事を支援する十億を下回らない庶民の投資は仏教の目的である結果がないので、投資に見合いません。彼らはブッダの本当の教えを求めず、ブッダが意図しないものばかり求めるからです。

 恐怖は宗教が生まれ維持できる本当の原因ですが、神様(一神教の神)も含めて天人や精霊の隠れた威力を恐れる人は、神様や天人や精霊に気に入られるためにだけ宗教を望み、それらがすべて無明、愚かさの一つにすぎなくても、貧困や不運を恐れる人は恐怖を消す手段として宗教に近づきます。生まれるとすぐにこの危険に遭遇し、そして死ぬまで遭遇し続けるので、本当の仏教教団員の恐怖は苦、あるいはどんな危険よりも大きな危害と見る自分の煩悩です。

だから直接仏教の結果を望む本当の仏教教団員は、仏教の目的と一致させることで急いでこの問題を片づけなければなりません。そうすれば疑うべくもなく、私たちが求めているもの、つまり個人と社会の永続的な平和に出合います。そして仏教が与える最高のものを受け取ったと見なします。自分と世界のすべての人に平和を築くこと以上に崇高なものはないと検証するよう、敢えて挑むことができます。

 


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