第一章・理解を改める

 

 タイの仏教徒は、他の人たちからは厳格なように見られますが、本当はまだ、本物の仏教を理解していない人が実にたくさんいます。そしてこれらの人たちは頭が固くて頑固に信じ、あるいは自慢して他人を貶します。

 彼らが仏教について良く知っている古い方法や先祖代々伝わって来た迷信の行動は、代々実践してきても、仏教の本物を理解させることはできず、できるのは積み上げて重ねることだけで、その結果新しい誤った見方が生じ、全部仏教の肉腫になって本物の仏教から離れ、聖向聖果涅槃に到達することを怖がります。

現代のタイ人仏教教団員の中で「涅槃について話してはいけない」と禁じ、敢えて話せば、その人は自慢していると、あるいは不可能なことを話すと非難され、そしてどの宗教にもある普遍的な聖向など低い話だけをするよう懇願されると良く聞きます。

 これがタイの仏教の教育と実践の実態で、タイ人仏教教団員は自分の宗教の異教徒になってしまう結果がります。だから私たちは仏教の教えを学び直し、実践を始めるべきです。「自分は長い間仏教と共に暮らしている。タイには仏教の本、テキストを書いている人もたくさんいる」と考えて、外国人より仏教を良く知っていると夢中になって誤解しないでください。

それで間違った仏教、あるいは仏教の内皮だけを掴んで、新しい肉腫の仏教を掴んで「これが本当の仏教だ」と主張して自慢します。だから書かれる本は、後で大変なことになると知らないので、インドの他の教義を仏教に混入させ、本当の仏教でないものが四割から五割含まれています。十分精通していない人は知らずに入れ替えて使ってしまうほど似ているものもあります。仏教を嫌う心がある神父の言葉など、その神父が著名で広い範囲の人に尊敬されていれば、読む人に信用されるものになります。

 私は長年、このような本を時々見てきました。仏教にとって大きな損害であり、純粋な意図で学ぶ決意をした仏教、あるいは関心のある仏教を誤って理解するので、読者にとって大きな危険と見なします。たとえば「善行善果、悪行悪果」、あるいは「行為をした人はカンマの結果を受け取る人」というカンマの話は、仏教以前からある教えであり、大きな宗教ならどの宗教にもあります。

 だからカンマの法則だけを仏教の教えと捉えるのは滑稽な話です。本当の仏教は、もっと高いカンマの話を教えているという事実があるからです。つまり「言われているカンマの結果はマヤカシ(仮のもの)なので信頼できない。善いカンマ、悪いカンマの威力をすっかり洗い流してしまう三番目のカンマがある」と、完璧に教えています。

そしてすべてのカンマより上にいることができる種類もあります。聖向聖果涅槃に到達するための実践は、他の宗教は説いていない三番目のカンマを作ることです。これが仏教の教えの正しいカンマです。仏教には人間をカンマで生きるより上にいさせる目的があり、「善行善果、悪行悪果。徳を積めば極楽へ行き、罪を作れば地獄へ行く」という教義ではありません。

「体が生まれて死ぬ輪廻は、仏教の教えではない」と敢えて言うことができます。それは仏教以前の簡単で浅いカンマの教えと対の話で、人や動物が死んだら、際限なく生まれては死ぬと、つまり輪廻を繰り返す永遠の「自分」または魂があると昔の人は信じ、教えました。終わりはそれぞれの教義の規定によって違います。だから「仏教にはそのような身体的な輪廻の話がある」と言うのは、これも嘲笑すべきことです。

なぜならブッダの悟りは「本当には人も動物もない」という真実の発見だからです。無知と執着が心に生じるので、それが人や動物に「自分は本当にいる」と誤解させ、そして「生まれる」、あるいは「死ぬ」状況を自分のものにし、それが「人がいる」「動物がいる」「誕生がある」「死がある」と確信させます。ブッダの宗教の開示は、人が「自分、あるいは自分のもの」と感じるものはないという真実を知ることができる、あるいは理解できる実践法と共に真実を開示したので、生と死と輪廻する問題は無くなりました。

 このような事実がある時、赤ん坊に歩き方を教えるレベルの昔のバラモン教の信仰で、「仏教は死んで再び生まれる教えがある」と主張するのは、他の教義を仏教と主張することであり、仏教にとって公正ではありません。これが仏教を最高に理解し難くする点で、タイ人や外国人が仏教ではないものを仏教の教えと信じさせる本を何冊も書くほど、この二、三十年間にたくさんあります。

これらの本の著者は「カンマと転生」を第一章に、あるいは仏教の最重要な要旨とし、自分はない、あるいは自分のものはないという話、このような空に到達する実践方法は彼らにとって明らかになっていないので避けてしまい、言及しても口篭もったように言葉を濁し、明解ではありません。だからこういう仏教のテキストの著者は仏教を知らない人、そして仏教の真理を消滅させる人と言わなければなりません。

 仏教の教えの間違った理解は、当然仏教の本当の目的に到達させません。このような状態が実践面でも理論でも実践する人を愚かにし、間違った見方で実践形式に執着するので、「長老が鉢を透かして見る(訳も分からず真似をするという意味)」式の実践が生まれます。

 つまり他人がしているのを見て、非常に哀れに真似をします。たとえば仏教をまったく知らない西洋人がタイへ来ると、突然どこかの教習所へ行って必死でヴィパッサナーをし、終わっても何も知らないまま、あるいは愚かさは変わらず、その上何らかの誤解に執着します。そのタイプのヴィパッサナー教習所では、タイ人でも同じ症状が見られ、仏教のあるレベルができたら必ずヴィパッサナーをしなければならないという執着が生じるので、形式だけになってしまいます。

目的を知らないで真似ることが、ブッダの時代にはなかった非常に多種類の念処(瞑想法)が生まれる原因になり、これらを全部「戒禁取」と言います。つまり目的を知らずに、あるいは間違った目的でする戒と修行です。

 この騙されやすさは、出家が「これは仏教だ」と言って宣伝するので、布施から始まって戒、頭陀、そして念処まであり、人はこれらに執着し、少し高くなると厳格な戒を「これが本当の仏教だ」と言って執着し、執着は、自分と同じように戒を遵守しない人を軽蔑するほど強くなり、更に高くなった実践者は、念処や難しくて珍しいヨガの技法などを「本物の仏教だ」と執着します。

この種の人たちの誤解は多く、仏教以前からあるもの、同時代のもの、仏教以後のもの、仏教ではないヨギーのいろんな手法を掴んで、全部仏教に入れるほどで、その結果ブッダが、『人がすべての苦から純潔になるのは、戒によってでも、変わった修行によってでも、それらに執着することによってでもなく、本当は「苦と、苦の原因と、滅苦と、滅苦の方法」を正しく理解することに因る』と言われているのにふさわしいくらい、沢山あります。

 これは実践者は苦の話(聖諦)を、自分が熟慮して片づけなければならない問題の重要な根源と見なさなければならないという意味で、珍しいもの、外国のもの、あるいは「霊験のある素晴らしい手法だ」と大評判になっているものに満足して始めるという意味ではありません。これは若者が仏教で出家をする動機と同じ愚かさで、執着する人は自分自身の場合もあり、親などの他人の場合もあり、風俗習慣によることもありますが、彼らのほとんどは、何かしら間違った執着があります。苦の危害を正しく見て出家する人、そしてブッダの時代の人のような本物の出家は非常に珍しく、ほとんど無いと言って良いほどです。本当の動機が違えば、彼らは本物の仏教を掴むことはできません。

 もう一つかなり滑稽なのは仏教の皮の外までかけ離れた執着で、仏教学教授と持ち上げられているある西洋人は、ベジタリアン、あるいは動物の肉を食べないので、自分は本当の仏教教団員だと主張し、妻がベジタリアンになれないので仏教徒でないことを遺憾に思っています。この話は、考えて見ると憐れです。これは精進料理レストランにいる(中国系の)おばさんたちにとって、多分嘲笑すべきことで、あのおばさんたちは動物の肉を食べないばかりか、いろんな種類の味や香りの強い野菜も避けます。ベジタリアンの人は動物の肉は食べませんが卵や乳は食べ、そして野菜は全種類食べます。これは儀式的伝統習慣の執着だからです。

自分は仏教教団員だ、自分は比丘だ、長老だ、パーリ語の段がある、庶民に仏教を教える人だと主張するタイ人の社会でも、仏教のお陰で出世しておきながら、「仏教徒の家はサーンプラプーム(家の前に作る土地の精霊のための小さな家)を作って祭らなければならない。そうしない人は仏教徒ではない」と恥ずかしげもなく主張する人がいます。この項目はこの種の無益な人がどれほど誤解をし、自分の宗教を歪曲しているか証明するものです。

だから現代の仏教には神聖と考える儀式と物質しかなく、精霊や神聖なもの全般を仏教と考えて拝み、そして代々伝えます。仏教を教える職業の人だから仏教を良く知っているだろうと庶民から信じられている人たちでも、教典に精通するだけで仏教を理解できると執着している人がいます。二千五百年という時が流れてすべてが変化したので、当時の元々の仏教がどんなかを知るために経典をすべて学ばなければならないと考えるからです。

 だから三蔵、アビダンマ、そしてその他の教典の学習が障害になることもあります。「まったく学ぶ必要はない」と言うのは確かに正しくないのは事実ですが、「すべての教典を学ばなければ仏教を知ることはできない」と言うのはもっと正しくありません。あるいは間違いです。

本当のタンマは言葉や文字で伝えることができなくても、心にタンマが現れるようにする実践法は、言葉や文字で表すことができます。しかしその人たちの心が苦を知らなければ、いくら言葉や文字で伝えても彼らは受け取ることができず、話す言葉や文字に執着すればするほど、仏教を理解する障害になり、テキストに酔う人になります。溢れるほど知識があっても危機を脱すことができず、三蔵の学習はブッダが言われている毒蛇になります。頭脳の優れた西洋人でこの種の三蔵学習者になった人は非常に多いです。

世俗的利益や物質的利益のために三蔵とアビダンマを学んで俗物になってしまったタイ人については言うまでもありません。プラプーム(土地の神、あるいは精霊)を拝むことは仏教教団員であることを損なわないと発言するなど、ブッダの恩を知らない造反者になった人もたくさんいます。

 三蔵やアビダンマをたくさん勉強する必要はありません。それらの教典はいろんな枝葉である話をまとめたものなので、何千もあるすべての話の中で、私たちが探求して知らなければならないのはたった一つ、つまり「本当の滅苦」の話だけです。最高に拡大しても二つ、本当の苦と苦の原因の話です。(もう一つは苦のない状態になるための方法と、苦のない状態の話です)。この二つの要旨にだけ興味がある人は、間もなく三蔵のすべてを学んだ人になり、滅苦に使う十分な学習の要旨に到達できます。

 ブッダ在世時には述べたような形の教育に何分も、あるいは何日も時間を掛けなかったことを忘れないでください。ブッダが鋭く質問し、そしてその人の心の要求にふさわしいタンマを説明してやると、その人はその場で、あるいはブッダの面前で仏教のタンマに到達することができました。それはブッダ自身が教えた場合であり、そして大昔の話なので現代には通用しないと反論する人がいるかもしれません。この反論には正しい部分もありますが、間違っている部分、あるいは見落としている部分もたくさんあります。つまりタンマは時代に左右されず、そして教える人物にすべてが懸っている訳でもなく、十分な資質のある人は幾つかの文章を聞いただけで、タンマを理解できます。

 「十分な資質がある」というのは、心の面が成熟しているという意味で、その人は煩悩に繰り返し苦しめられることに倦怠が見えるレベルまで人生を良く理解しています。強制されて自由がないので息苦しく感じ、自分はそれらのものに対して何かしら正しく行動していないので煩悩に勝てない、とハッキリと見えます。その人は非常に何でも良く知っていて、まだ知らない、まだ掴めていないのは一点だけで、それを掴めれば、暗闇の中で電灯のスイッチを見つけたように、即座に簡単に苦から脱します。

 述べたような資質は、物質的な発展に夢中になっている現代人には滅多にありません。それらの人は物質の魅力に心を奪われて引き回されているので、自然の真実、特に心の面がどうなっているかについてまったく知りません。だからその人が賢い人で現代教育をたくさん受けていても、ブッダの時代の手法でタンマを理解する十分な資質があるかどうか分かりません。

本当のブッダはいつでもその人の心にタンマが現れた後に現れます。だからこのような場合には、初めにブッダについて話す必要はないかもしれません。みなさんにお願いするのは、自分を見ること、人生(命)を見ること、人生の真実の状態を真実のままに見る最適な熟慮を、ずっと続けるだけで、いつか私たちは、ブッダが「井戸端でお喋りしている下女のお喋りの言葉を聞く」と言われているように、些細な触発があるだけでタンマに到達するに十分です。もっと凄いのはアリや昆虫を見るだけ、あるいは小鳥の声や木々の葉擦れの音や風の音を聞くだけで、その人独自の方法で簡単にタンマに到達できます。

 もう一つ仏教を間違って理解させ、仏教に興味を失わせる誤解があります。それは、仏教は世の中に厭きた人や、世を捨てて森に住み、何も世間の人のようにしない人のためのものという理解で、これは二種類の恐怖を生じさせます。一つは世間の美しさや美味しさ、楽しさをすべて捨てなければならない恐怖と、もう一つは仙人のように森に住まなければならない苦の恐怖です。

それを恐れない人はある種の執着が非常に強くなり、「森に住むことはタンマの実践をする人には不可欠だ。森の中でする場合しか成功しない」と執着します。このように考えることはタンマの実践の障害になります。人は通常家の中の五欲や世界の生活の味に夢中になっているので、それらを捨てなければならないと聞くと、深くて暗い淵に落ちて行くように感じ、心に恐怖と惜しむ気持ちの両方があるので、仏教から利益を得ることができません。内心に抵抗する気持ち、あるいは避ける気持ちがあるので、人々が「森に住まなければ本物の仏教に到達できない」と考えている間は、職務の利益や物質的利益のために教えるだけ学ぶだけで、どんなに教え学んでも、本当の仏教を理解する道はありません。だから家に住んでいる人たちにとって、本当の仏教が与えられる十分利益を得る機会はありません。

中には、「仏教を正しく教える人や教団は、家を捨て、妻子や夫を捨てて森に住むよう勧める」と、勝手に推測する人までいて、その人自身もその教団に関わろうとせず、子供や孫が関わることも反対します。誘われて、あるいは説得されて森に行ってしまうのを恐れるからです。仏教にはそのような教えはありません。

森に住んでいる比丘について話し、森に住むことの利益を賞賛するのは、あるいは森で念処をするよう勧めるのは、森の中で苦しまなければならないという意味ではなく、森の中は妨害が無い場所なので、心のことをするのに便利で進歩するという意味であり、森でなくても同じように都合の良い所が見つかればそれで良いのです。仏教の比丘も庶民と関わって暮らし、誰にも会わない森の中に生涯住んでいた訳ではありません。「小骨を避けて魚を食べる方法を教える」と言われるように、庶民が世界で苦しまずに生きられるように援けなければならないので、仏教は直接世界にとって利益があり、庶民が世界の小骨に刺さらないよう庶民を援けます。

すべての比丘の統領であるブッダは、絶えず俗界の人と関わり、同時に世界の勉強をしたので「世間解」と呼ばれ、世界の苦を排除できるほど良く世界を知り、そして全員がそうするよう望まれました。世界から逃げるのではなく、世界に負けるのでもなく、常に勝利しているように暮します。

 だから「タンマの実践をするなら家を捨てなければならない」、あるいは「森へ逃げ込まなければならない」と言うのは真っ赤な嘘で、タンマを熟慮できる場所ならどこでも、そこにタンマの学習と実践があります。仏教は人を怖がらせるよう、あるいは世界のいろんなことを避け、そしてそれらに陶酔するよう教えていません。

だから「誰でも仏教を、世界の小骨に刺されること無く社会で暮らす道具にすることができる」と言うことができます。しかし非常に残念なのは、仏教に関心のあるみなさんがこの面を見ないで、学問と見たり、哲学と見たり、世界の知識の一つと見て、仏教で稼ぐために勉強することです。教える人が仏教の目的を知らなければ、勉強する人はもっと知ることができません。だから他の勉強をする前に、誤解を改めるよう強くお願いします。

    小鳥の群れはいくら見ても空が見えず

    魚の群れは冷たく透き通った水が見えず

    ミミズは食べている土が見えず

    ウジ虫は食べている肥が見えない

    一般人は世界(世間)が見えないから

    いつでもイライラ苦悶しなければならない

    タンマを状況に合わせて使う仏教徒は、

    すべてのものを真実のままに見る


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