9.世界から解脱する





 ヴィパッサナーは苦悩が支配できなくなるまで心を高める実践なので、何も執着する物はないと明らかに知ることで苦から脱せば、その後世界のいろんな物には、愛したり憎んだりさせる威力はありません。それを「心が世界の人の領域を越えて、ブッダがロークッタラブーミ(心が世界を脱した境地。出世間地)と呼ばれるレベルまで高められた」と言います。出世間地を明らかに理解するために反対のローキヤブーミ(世間地)について知らなければなりません。〔278〕

 世間地とは心が世界のいろんな物の威力下にある段階のことで、大きく三つに分類できます。カーマヴァチャラブーミ(欲界地)はすべての愛欲に満足している段階で、次のルーパーヴァチャラブーミ(形界地)は欲情に満足するほど低くはないけれど、欲情に関わらない形に注目した禅定から生じるた静謐な幸福に満足していている心の段階で、その次はアルーパヴァッチャラブーミ(無形界地)、もう一段高い心の静かな幸福に満足している段階で、形のない物を感情として掴むことで静謐な幸福が生じます。〔279〕

 「ブーミ(境地)」と「バヴァ(三界)」を対にすることもできます。境地は心のレベルまたは状況で、界は心のレベルにふさわしい生活状態を意味します。だから欲地の人は欲界、形地の人は形界、無形地の人は無形界と対です。境地は心の状態という意味で、界はいろいろな心の人が住んでいる場所を意味するので、三地三界に分類できます。〔280〕

 世間地は普通の動物の心の状況で、人間、天人、畜生、あるいは地獄の動物と仮定した呼び方は違っても、その三つの境地の中にあり、世界の一人一人が、その時々にいずれかの心の境地にいることができます。不可能ではありませんが、通常人の心は、形・味・臭・声・触の旨味の威力下にあるので、ほとんどの人は当然欲地に落ちています。〔281〕

 しかし時と場合によっては、それらの魅惑的な物の威力から脱すことができます。心は形、あるいは無形の物に注目することから生じた静かさに依存し、注目次第で人間の心は形界地になり、無形界地になるからです。ブッダ在世時のインドにはそのような人が非常にたくさんいたと見なします。形地や無形地レベルの静謐な幸福を探求する人が、どこの森にもいたと言えるので、現代は非常に少ないですが、それでも誰でも到達できる境地と言うことができます。〔282〕

 それに、心がいずれかの境地にある時、その時その人が住んでいる状況がそのまま同じ名前の界になると言うこともできます。たとえばこの世界の誰かが今形禅定の幸福にいれば、その人にとっての世界は形界地になります。その人は形界地以外の物を感じることができないので、その時その人にとっての世界は、いつか他の界地に変わるまで形界地の価値しかないからです。〔283〕

 この三つの境地にある人は、石ころや土塊や材木のような幸福や静かさを味わっていても、まだ自分に執着があり、最高に上等な欲望までいろんな種類の欲望に依存していて、たとえば自分に今ある立場や状況が改めなければならないほど気に入らないと、そのために願望の威力でいろんなカンマを作るので、世界より上にいると言わず、出世間地でなく世間地と見なします。〔284〕

 一方、出世間地は俗人の境域を越えた心があり、世界の状況を実体である本質がない物と見るので、心は世界の何物も欲しがりません。出世間地にいる人を、仏教の教えでは預流・一来・不還・阿羅漢の四段階の聖向聖果に分け、この四種の聖人であることは出世間地という意味です。〔285〕

 出世間地というのは「世界の上にいる」、あるいは「俗世より上の」という意味で、心を意味するのであって体ではありません。体はどこにいても構いません。出世間地である人が生活できる状態ということなので、地獄や苦界(地獄、餓鬼、阿修羅、畜生)、あるいは獄中のような苦のある場所は、聖人にふさわしい界ではありません。〔286〕

 出世間地は四段階に分けられ、それぞれの段階の違いは、捨てなければならない煩悩の違いです。この部類の煩悩を十種類に分けてサンヨージャナ(十結)と言い、強く縛りつける物という意味です。この十の捕縛具が人間や動物を世界に縛りつけるので、人間はこの境域から抜け出せず、世間地に落ちています。縛りつけているものを断ち切ってしまうことができれば、順に少しずつ俗人の境域を脱すことができ、完全に断ち切ることができれば心が世界を脱して世界より上に行くので、完全な出世間地です。〔287〕

 私たちを縛りつける十種類の繊細な煩悩の一番目をサッカーヤディッティ(有身見)と言い、「この体は自分のもの」と考えること、つまり自分があるという誤解、あるいは取による理解を意味します。この誤解は、一般の人は体と、体に関わっている心以上の物を知らないので、「この心と体は自分」と理解して、それを「私」と括ってしまうことから生じます。「私はある」という本能は、誰でも当然「私」と「私の物」はあると考えるほど強くなります。

 それが身を守り、食べ物を求め、生殖し、命を維持させる根源だからです。しかしここで有身見と呼ぶものは、人を身勝手にさせる粗い段階だけで、他の物よりも先に捨てなければならない最初の煩悩と見なします。〔288〕

 サンヨージャナ(十結)の二番目はヴィチキッチャー(疑)と言い、ためらいや自信欠如の原因になる疑念を意味し、ほとんどは滅苦の実践に関わる疑念のことです。それがいったい何なのか、滅苦の実践は自分に合っているのか、自分にできるのか、本当に他のものより良いのか、本当にできるか、ブッダは本当に正しく悟った人なのか、本当に苦から解脱したのか、ブッダの教えやブッダの教えの実践は本当に滅苦に到達させるのか、聖人は本当に苦から解脱したのか、など真実を知らないから躊躇います。〔289〕

 躊躇いの原因は無明、つまり水中にしか住んだことがない魚が誰かから陸上の話を聞いてもきっと信じないで、信じたとしても半信半疑のような無知です。情欲に溺れている人も同じで、水の中の魚のように情欲に慣れている人が、愛欲を越え世界を越える話を聞いても理解できません。多少理解できる人も躊躇いがあります。

 低俗な感覚が本性にあり、高い感覚はまだ萌したばかりで、低い感覚と高い感覚がせめぎ合っている状態、それが躊躇いです。心の力が十分でなければ、低い感覚が勝ちます。疑、あるいは善のためらいは誰にも生まれた時からあり、誤って躾けられた人は増えるかも知れません。仕事や日常生活の中にある善や正義や滅苦などに自信を失わせる、ためらいの害を熟慮して見なければなりません。〔290〕

 十結の三番目はシーラバッタプラーマーサ(戒禁取)と言い、戒や勤めの正しい目的を誤って執着することです。要旨では「誤解によって長く続けてきた行動への執着」で、ほとんどは伝統教義に関したことで、呪術の儀式を信じること、呪術の実践をすることなどは、疑うまでもなく戒禁取です。〔291〕

 仏教の話でも霊験や能力が生じるとか、神通力が生じて自分を守ることができると誤った理解で実践すれば、それは誤った結果を望む道理のない実践です。たとえば戒や純潔を守るのは、本当は煩悩を絶滅させるためですが、霊験や神通力を生じさせ、それで煩悩を断つことができると理解すれば、それは本来の目的と違う誤った執着です。まったく同じ実践も理由のない執着でしたり、神聖で霊験のあることと見れば、全部戒禁取です。〔292〕

 持戒も天国の天人に生まれたいと考えて教条を遵守すれば、こういうのは疑うまでもなく、仏教の目的から見て誤った戒や勤めの捉え方になり、その人の戒や梵行を汚れた物にします。律の目的は、サマーディの基礎にするために体と言葉の粗い煩悩を消滅させ、後で智慧に至るためであり、天国に生まれることではないので、こういうのは誤った執着、誤った考えの威力で自分の戒を汚すと言われます。

 布施でも持戒でもサマーディに励むことでも、それらの行動の本来の目的を誤解してすれば、必ず仏教から外れた行動になります。〔293〕

 だから仏教の世界の実践でも、霊験や神聖さを期待するなど、煩悩欲望に支配されるほどの誤解ですれば、戒禁取になると理解してください。庶民が至る所でしている小さなこと、地鎮祭や他の何かの際の読経などの時に、ブッダの霊に供えるようにご飯と料理の膳一式を仏像の前に供えなければなりません。あるいは膳を供えるのは、ブッダの霊が供えた食事を食べると信じています。このような気持ち、あるいは理解ですれば、間違いなく百パーセント目的を誤った実践です。〔294〕

 本来の目的を誤った行動は、仏教界の至る所に蔓延している道理のない迷信でする行動と見なします。それらの人々の愚かさと迷いが、美しく善い実践項目を汚してしまいます。これが戒禁取の意味です。〔295〕

 この煩悩は痴、つまり愚かさと誤解から生じると見ることができます。人は誤って教えられ、誤ってしつけられるので、昔から神聖な物や霊験ある物を信じてきました。だからほとんどすべての人にこうした信仰があります。差し障りがあるのであまり詳しく言いません、この教えで自分自身を審査してみてください。〔296〕

 私たちにある三種類の煩悩、有身見・疑・戒禁取を完全に捨てることができれば、出世間地の第一段階、つまり預流にいると言います。〔297〕

 この三つの煩悩を完全に捨てるのは難しいと見るべきではありません。この三つの煩悩は野蛮な人にある野蛮なもので、発展がない野蛮人のものです。良い教育があるとか、発展したと言われる人にあるべきではありません。もしまだあれば、その人の心はまだ野蛮と見なさざるを得ません。

 この三種の煩悩を捨てることができた人は聖人になり、まだ捨てられなければ愚かな人、迷った人で、最高に良い呼び方をすれば凡人(プトゥチョン=凡夫)で、智慧の目が厚い蓋で塞がっている人という意味です。「プトゥ」とは厚い、つまり智慧の目を塞いでいるものが厚い人という意味です。〔298〕

 この三つの煩悩を捨てることができた人は、当然心が世界の捕縛より上に行き始めます。この三つの煩悩はすべて心を世界に縛りつける物であり、真実を隠す愚かさであり、世界に夢中にさせる物なので、その三つを捨てられれば、縛りつけていた三本の紐を切ったのと、あるいは隠していた物を剥いだのと同じです。だから心は世界より一段上がった初等の聖人と言い、出世間地の初めの段階です。その人を涅槃の流れにたどり着いた人、将来確実に涅槃に到達する人、預流と呼びます。〔299〕

 出世間地の二番目は述べた三種類の捕縛するものを完全に捨て、更に貪り・怒り・迷いの一部をもっと薄くし、欲界への未練がごく僅かしかない高い心があることを意味します。この世界へもう一度だけ戻って来ると信じられているので、一来と呼びます。〔300〕

 ここで預流という言葉の意味を理解する方が、一来という言葉を理解し易くなると思います。預流とは流れにたどり着いた人という意味で、何の流れかと言えば涅槃の流れです。預流は涅槃の流れにたどり着いただけで、まだ涅槃には至っていません。この流れは蛇行しながら涅槃へ至り、ます。川が海へ注ぐように、涅槃の流れも涅槃へ傾いているので、心がこの流れに落ちれば確実に涅槃に到達します。〔301〕

 この流れにたどり着いたことは、将来確実に涅槃に到達することを意味しますが、それにはまだ時間が掛かるかも知れないので「確実に涅槃に到達する」という要旨だけにします。二番目の一来は更に涅槃に近づき、世界の暮らしへの未練は本の僅かしか残っていません。貪り・怒り・迷いが非常に減少しても、まだ絶滅した訳ではないので、もし人間のような感情が戻っても一度だけです。〔302〕

 三番目は不還と言い、この段階の聖人は一来のような初等の煩悩を捨てるだけでなく、更にサンヨージャナ(十結)の四番目と五番目を捨てた人です。十結の四番目を欲貪(カーマラーガ)、五番目を瞋恚(パティガ)と言います。欲貪は預流や一来では完全に捨てることができず、まだ残っている「愛欲する物への満足」という意味です。有身見・疑・戒禁取の三種の煩悩を捨てることはできても、すべての欲貪を完全に捨て去ることができないので、一部残っている「愛欲する物」に満足しています。

 しかし三番目の不還になるとすべて捨てることができ、微塵も残っていません。瞋恚(怒りや恨みの感覚)と呼ばれる煩悩は、一来でほとんど捨てることができ、残っているのは内面の不満や焦燥だけです。不還は全部捨てることができるので、欲貪と瞋恚を捨てられた人と言います。〔303〕

 欲貪と呼ばれるもの、あるいは愛欲に満足し夢中になることについては、欲取の項で十分説明しました。この煩悩は常に心に生じているもので、密着して一体のようなので、普通の人にとって理解し難く、洗い落すのも困難です。愛の基盤である物は何でも、形・声・臭・味・触の何でも、どんなレベルどんな種類どんな状態でも、すべて愛欲と言い、愛欲する物の満足で夢中になることを欲貪と言います。〔304〕

 瞋恚というのは不満に感じる心の反応です。満足なら欲貪、不満なら瞋恚で、私たちの大部分の感覚はこのようです。瞋恚は識のない物に対しても生じることがあります。それ以上になると、自分でしたこと、自分の心に生じた物にも不満を感じます。他人に対する怒りや嫌悪、恨みなどは非常に強烈な瞋恚で、初等以上の聖人は適度に捨てることができます。

 この三番目の聖人が捨てるために残っているのは、微妙な心の波立ちを意味し、時には心の中で不満としてほとんど外に現れず、顔色を見ても、イライラや煩わしい、思い通りにならない人や物が気に入らないなど、内心に不満があると分からないほどです。すべての種類の瞋恚を完全に捨てることができる人がいたら、どれほど尊敬に値するか、どれほど素晴らしい人か、考えてみてください。〔305〕

 述べた五種類の煩悩、有身見から疑、戒禁取、欲貪、瞋恚までを、ブッダは低い煩悩と規定されています。三番目の聖人は欲貪がまったくないので、全部捨てることができます。この種の聖人は二度と欲界に戻って来ないので、再び還らない人という意味で不還と呼ばれます。あるのは前へ脱して阿羅漢、涅槃になるだけです。あるいは愛欲に関わらない別の状況、形梵天界の先端になります。残っている高度な煩悩五つは、四番目の聖人、阿羅漢ですべて捨てることができます。〔306〕

 次の煩悩を形貪と言い、十結の六番目で、感情である形を熟視するヨギーたちのように、形禅定から生じる幸福に満足しテ欲しがるいう意味です。初めの三段階の聖人は、形禅定から生じる幸福への満足を捨てることができませんが、最高の聖人である阿羅漢に到達すれば、抜き取ることができます。というのも純粋な形から生じた静謐な幸福は、味見の涅槃と呼べるほど心を捕える味があるからです。

 味見の涅槃でも、味は本物と同じです。本物の涅槃と同じ味ですが一時的です。禅定の威力で煩悩が制圧されている間だけで、本当に煩悩が干乾びた訳ではないので、禅定の力が消えれば煩悩が戻ってきます。煩悩が禅定の威力で鎮まっている間だけ心が空っぽで自由で、本物の涅槃と同じ味がするので、癖になる原因になります。この状況を涅槃と規定した時代もありました。〔307〕

 無形貪と呼ぶ七番目の微妙な煩悩は、無形禅定から生じる幸福への満足、虜になることという意味です。六番目と似ていますが、もう一段繊細で緻密です。熟視する感情として形がある物を使う禅定に励むのは、当然形に関わっている静かさを得るので、形のない物を注視する禅定より粗く、様相や空などを感情にすると、形禅定である静かさより深く緻密な静謐が得られます。

 だから形禅定より高い段階と規定して無形と呼び、この種の静かな幸福に満足すること、虜になることを無形貪と言います。阿羅漢になろうとする人は、何から生じた幸受でも、どんな幸受にも溺れてはいけません。〔308〕

 阿羅漢は普段からどんな種類の感覚にも無常と苦と無我が見えるので、何らかの感覚に執着することができないので、形貪と無形貪を捨てることができ、森で形禅定や無形禅定を実践しているヨギーや他の修行者は幸受の秘密が見えないので、普通の若い男女が情欲の味に溺れて陶酔するように、禅定の味に陶酔しています。だからブッダは同じ「ラーガ=貪」という言葉を使われています。みなさんがこの問題を熟慮して本当に理解すれば、聖人と呼ばれる人に極めて満足します。あるいは尊敬を感じます。〔309〕




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