世界から解脱する(つづき)





 人を世界に縛り付けている物の八番目をマーナ(慢)と言います。自分自身について「あの人より劣る、あの人と同じ、あの人より優れている」とああだこうだと理解する感覚のことです。自分が劣っていると感じれば悔しく、優れていると感じれば思い上がり、同等だと感じれば競争心が生れ、あるいはその人より良くなろうとします。これは普通の「傲慢・高慢」という意味ではありません。

 普通では、あの人より劣っている、優れていると、このように感じさせないようにするのは、当然非常に困難です。この煩悩はほとんど最後の八番目で、当然捨てるのが難しいから最後の方にあるということが分かります。最高レベルの聖人だけが捨てることができる物で、私たちは普通では捨てることはできません。〔310〕

 自分は人より優れている、同じ、劣っているという感覚は一種の執着から生じますが、「執着」という言葉を使わず「マーナ(慢)」という言葉を使われています。心が善悪より上になってしまえばこのような感覚はあり得ませんが、私たちの心はまだ善悪の価値に負けているので「あの人は良い。あの人は悪い」あるいは「同じ」という感覚があります。そう感じることは心が動揺する原因になり、まだ本当の穏やかさではありません。〔311〕

 十結の九番目はウッダッチャ(落ち着きがないこと。掉挙)と言い、何か興味がある物に出合うと気持ちが波立つように、波立つ、乱れる、静まらないことを意味します。人間は常に心の中に望みがあり、特にあれが欲しい、あなりたい、あれは欲しくない、ああなりたくないと望み、自分の望みと一致する物が目・耳・鼻・舌・体を通過すると、当然「目の色が変わる」と言うような心の揺れがあります。

 良い意味の関心もあれば、悪い意味の関心もあり、怪訝に感じると猜疑心という関心が生じます。まだ欲しい物があり、まだ恐怖や心配や疑惑があるので、触れてきた物への興味を抑えることができないからです。普通の人はそうです。欲望と一致する物なら心を抑えることは難しく、肉が踊るほど興味を示して我を忘れるほど喜び、悲しい話なら心が萎れて干からび、幸福は消えます。これが掉挙の状態です。〔312〕

 初めの三種類の聖人は、まだ何かへの興味と関心が残っていますが、阿羅漢は何にも興味がなく、何にも関心を示しません。阿羅漢の心はすべての物に渇きがなく、恐怖も嫌悪も、心配も疑いも、何かを見たい知りたい気持ちがなく、自由な心があり、誘惑して興味を起こさせる物は何もありません。欲望が無いので、興味、あるいはどんな疑問もないからです。いろんな問題に関わる疑問は、知りたい望みなど何らかの欲望から生じる、あるいはあると理解しておいてください。〔313〕

 すべての物は無常であり、苦であり、無我なので「欲しい物もなりたい物もない」と見ることで欲望が消滅すれば、何にも関心がなくなり、すぐ傍に雷が落ちてもその方は驚きません。死の恐怖や、生きたいという気持ちがないので、何か凶悪なことが起きても、世界に新しい知識や考えが生まれても、その方にとって意味がないので、驚きも興味もありません。

 それがその方に何をもたらすかというようなことも、何も望まないので知りたいと思いません。だからどんな状態にも目の色を変えません。阿羅漢の心は普通の人は絶対到達できないくらい純潔、あるいは静かです。〔314〕

 十結の最後の煩悩をアヴィッチャー(無明)と言い、名前を明示しないその他の煩悩すべてを集約しています。無明とは知識がない状態で、この場合の知識は本当の知識、正しい知識という意味です。通常すべての動物はまったく知識が無くては生きられませんが、その知識が誤っていれば知らないのと同じです。だから人は無明があります。あるいは常に誤って知っているので真っ暗です。

 人間の最も重要な問題は「何が本当の苦か。何が苦を生じさせる本当の原因か。どういう状態が本当に苦のない状態か。そして本当に苦のない状態にする本当の方法は何か」という問題です。本当の知識のある人を「無明のない人」と言い「明のある人」と見なします。〔315〕

 述べ切れないほどたくさんあるすべての知識は、ブッダは知る必要がない知識の部類と言われ、ブッダの悟りは知るべき話の範囲です。ブッダはすべての知るべきことを知っています。サッパンニュー(一切智)は知るべき範囲だけを知ることであり、滅苦のために知る必要のないことまで含めません。〔316〕

 無明は苦であるものを、喜んで苦の海を泳ぎ回るほど幸福と誤解させ、間違っているものを掴むほど苦の原因を誤解します。あるいは病気や不運の原因は神や精霊などの罰だと言い、正しい治療や解決をしないで、神や精霊の前で祈願や祈祷をするなど、新しい愚かさが生まれます。これを『無明は最も低い苦の原因』と言います。これが例です。〔317〕

 滅苦の話の無明は、煩悩欲望を絶滅させることについて何も知らないことです。それは直接苦の根源であるものを静かな幸福と、あるいはサマーディや禅定から生じる無感覚を完璧な滅苦と勘違いさせる原因です。これはブッダの時代にはどこにでもあり、現在でも信仰されています。情欲は必要不可欠な物という教えを信じている人がいるように、時には情欲を滅苦の道具にできます。

 あるいは命の食べ物の一種、衣食住薬、つまり食べ物と着る物、住まいと治療薬の四つに情欲を加えて、この五つを生活の必需品とする人達もいます。だから情欲で苦を滅すことができるとして、彼らの精舎内で卑猥で破廉恥な行為を行なう教義や宗派が生まれます。〔318〕

 何としても苦を滅す道を知らない無明について知らない人は、当然自分の愚かさ、あるいは欲望煩悩の威力、自分の望みで行動します。例えば自分の外部の物を信じ、宗教のない人の様式で神や精霊に頼るだけです。生まれた時から仏教教団員でも、煩悩の威力でそこまで迷います。

 無明の威力が八正道を実践する滅苦を理解させない、あるいは喜ばせないので、線香とロウソクに火を点けて、自分が神聖と信じる物に祈願して自分の苦を消滅させます。通常人は知識を望みますが、その知識が間違っていれば、知れば知るほど間違いが大きくなり、目隠しする知識になります。〔319〕

 「光」という言葉にも気をつけてください。無明の光、つまり目を眩まして迷わせ、不注意にさせる光ということもあります。今自分は無明の光に目隠しされていると思い至ることができず、苦に勝つことができず、意味のないつまらない物に夢中になり、「誰でも死ぬ前に味わうべき人間にとって最高のものだ」と、いろんな情欲に惑溺し、それで「別の理想でしている」と言い訳はできません。基盤である情欲を狙って天国に生まれたいと願うのは、何でも情欲だけに夢中になっています。無明が誰も逃さないように心を支配しているからです。〔320〕

 パーリ(ブッダの言葉)のあちこちに『無明は世界全体を包んでいる厚い皮のように、誰にも真実の光を見せない』という譬えがあり、ブッダは無明を最後の煩悩と規定されています。つまり阿羅漢になる時、後半の五つの煩悩、形貪、無形貪、慢、掉挙、無明の全部を断つことができるということです。十結全部を断てば仏教での最高の聖人、阿羅漢になります。〔321〕

 四種類の聖人、預流、一来、不還、そして阿羅漢は出世間地(ロークッタラブーミ)にいる人で、達成したタンマを出世間法(ロークッタラダンマ)と言い、九つに分類できます。

 預流の状態は、煩悩を断っている段階を預流向と言い、煩悩を断つことができれば預流果と言います。「向」と「果」が対になって、預流向と預流果、一来向と一来果、不還向と不還果、阿羅漢向と阿羅漢果で、この四対に涅槃を加えた九つを出世間地と言います。〔322〕

 出世間地の人は、最後は苦が完全に無くなるまで、段階的に苦が減った人です。すべての物を真実のままに正しく見る洞察があれば、出世間地である結果が生じ、その人の心を世俗の人の領域より上にいさせます。その後世界の満足や不満足の基盤であるいろんな物は、その人の心を支配することはできません。あるいはその人はすべての種類の煩悩を完全に捨てることができたので、その人の心より威力がありません。〔323〕

 「涅槃」と呼ばれるものは、出世間の話なら世界の何物とも違う一つの状態を意味します。つまり世界の何物のようでもなく、世界の物と異なり、世界、あるいはすべての物の状態がどのようでも、それらのすべての状態と、それらの領域を中止してしまうことができれば、涅槃と呼ぶものが残ります。

 つまりすべてにおいて世界と正反対の状態、何かが作る(加工する)こと、あるいは何かを作る(加工する)ことにも依存する必要がない一つの自然。すべての「作る(加工する)こと」の終りです。結果の面から言えば、涅槃は何にも炙られない、叩かれない、突き刺されない、縛られない、支配されない状態です。心をいろいろと苦しめる原因である、すべての煩悩を消滅させることができれば、涅槃と呼ばれる状態に至るからです。〔324〕

 涅槃は一つの自然で、限界がなく、面積に依存する必要もなく、時間の経過に左右されることもなく、時代に関わりませんが、自分である(実体がある)一つの状態で、この世界の何にも似ていない、世界の状態が消滅した物です。ブッダは例えとして「すべての作られた物が消滅する所」と名付けられています。だから縛りつける物がない、何物にも叩かれ突き刺され苦しめられることがない、自由な自然です。これが出世間地の最後の項目の状態であり、仏教の最終目的である、仏教のタンマの実践の終わりです。〔325〕



 まとめ

 「仏教とはすべての物の「何が何か」を真実のままに知るための知識と実践規範」と、順を追って講義してきたように、すべての物には真実の状態、つまり無常・苦・自分がない状態があります。しかしすべての動物は誤った執着の威力で、すべての物を愛し、執着します。仏教には執着を断ってしまう道具として使うために「戒・サマーディ・智慧」という実践法があります。その取、執着には掴むものがあり、形・受・想・行・識である五蘊です。〔326〕

 五蘊を真実のままに知ればすべての物を理解でき、倦怠が生じて欲望が弱まり、何にも執着しなくなります。そして私たちは「正しい生活」と言われる生き方、つまり毎日正しい行動、美しい善である行動から生じる喜悦歓喜を満たすと、散漫な心が鎮まってサマーディが生じ、どんどん洞察が生じ、環境のふさわしさに応じて倦怠、欲望の減少、解脱、涅槃が生じます。〔327〕

 急いで結果を出すなら「ヴィパッサナードゥラ」と呼ばれる実践法があります。純潔な行動があることから始めて、純潔な心があり、純潔な見解があり、その上は智慧、つまり純潔な洞察があり、最後は人を世界の領域に縛りつけている煩悩を断ってしまうことができれば、聖向聖果に到達したと言います。〔328〕

 すべては仏教全体の概要の説明であり、最初から最後まで「仏教の教えはどのようか」を説明すると同時に、実践法の説明でもあります〔329〕

 みなさんは仏教の初めから最後の結果まで追ってきたということです。「すべてのブッダは当然涅槃を理想とする」という教えがあるように、すべての話は涅槃で終わります。だから私たちは学んで、知って、理解して、適度に到達しなければなりません。そうすれば仏教教団員(比丘・比丘尼・清信士・清信女)と呼ばれます。つまり明らかに見え、あるいは本当の仏教に到達します。そうでなければ仏教を知っているだけの人、理解しているだけの人であり、明らかに見える人ではありません。〔330〕

 だから誰でも自分の煩悩を熟慮して理解し、そしてそれを引き抜いてしまう努力をしなければなりません。半分でも抜き取れれば、多少は明らかな知識が生じます。煩悩の半分が本当に消滅すれば、結果は清潔が生じて悪が無くなり、迷いが消えて明るさが生じ、心の静謐も生じます。

 どうかみなさん、本当の仏教を理解するためにこのような状態の仏教を学んでいただくよう、提案すると共に伏してお願いします。人間に生まれて仏教に出合ったこの生が無駄になりません。少なくとも完璧な人間になることができます。〔331〕





人間それともヒト

 人間になるも可なり

 輝く羽根をもつ孔雀のように高い心があれば

 低俗な理解

 それも可なり

 しかし人だけなら 生まれてきた意味がない


 清潔な心 明るい心 静かな心

 すべてがあれば人間と呼ぼう

 つねに正しい言葉と正しい行動

 昼も夜も喜悦に満ちて 喜ばしいかぎり


 汚いこころ 闇 そして苛立ち

 それがある人を妖怪と呼ぼう

 誤った言葉と誤った行動

 すべてにルーズで 自ら破滅をまねく


 考えてもみなさい

 そこまで落ちたくない人は

 急いで心を高め

 急いでたゆまず努力すれば 

 体が死ぬ前に心を高めることができる


 それでこそ生まれた意味がある

 ぐずぐずしていてはならない




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