8.理論で悟る





第8回講義の参考図

  1.シーラヴィスッディ : 戒の純潔(戒清浄)

  2.チッタヴィスッディ : 心の純潔(心清浄)

Ⅰ 3.ディッティヴィスッディ : 考えの純潔(見清浄)

Ⅱ 4.カンカーヴィタラナヴィスッディ : 疑いを超える知識の純潔(度疑清浄)

Ⅲ 5.マッガアマガニャーナダッサナヴィスッディ : 道と道でない物を見る知識の純潔

                                (道非道智見清浄)

Ⅳ 6.パティパダーニャーナダッサナヴィスッディ : 実践の知識の純潔(行道智見清浄)

   ①ウダヤッバヤーヌパサナーニャーナ : 発生と消滅を見る(生滅随観智)

   ②バンガーヌパサナーニャーナ : 消滅だけを見る(壊随観智)

   ③バヤトゥパッタナーニャーナ : 恐ろしさに満ちていることを見る

                       (怖畏現起智)

   ④アーディナヴァーヌパッサナーニャーナ : 害で満ちていることを見る(過患随観智)

  ⑤ニッビダーヌパッサナーニャーナ : すべてのものに倦怠を見る(厭離随観智)

  ⑥ムンチトゥカムヤターニャーナ : 強い滅苦願望を生じさせる知識(脱欲智) 

  ⑦パティサンカーヌパッサナーニャーナ : 滅苦の知識(省察随観智)

  ⑧サンカールペッカーニャーナ : 手放させる知識(行捨智)

  ⑨サッチャーヌローミカニャーナ : 聖諦を知る知識(諦随順智)

Ⅴ 7.ニャーナダッサナヴィスッディ : 正しい考えと知識の純潔(智見清浄)

   8.聖向聖果 :  涅槃  



 今回は理論で洞察を生じさせる方法について説明します。後世のアーチャン(先生)が作ったものなので、ブッダバーシタ(ブッダが言われた言葉)にはありません。習性が未熟で、自分の目で自然の苦の危険を見ることができない実践者に適した方法です。いずれにしてもこの種の規定でする方法は、自然の方法より素晴らしいという意味ではありません。直接三蔵を調べてみると、自然に経過する方法についてしか述べられていないからです。〔239〕

 しかし中には「それはバーラミー(涅槃に至る援けになる徳)を積んできた人や、習性が十分具わっている人、遊びのように簡単に知ることができる人だけの話で、バーラミーも資質もない人はどうしたら良いのだ」と考える人もいたので、初めから性急にする、厳密に規定どおりに実践しなければならない実践法を規定しました。〔240〕

 この洞察を生じさせる実践規則は、論蔵が生まれた時代に教典を学ぶことである「ガンタドゥラ(ダンマを学ぶ責務)」に対して「ヴィパッサナードゥラ(観をする責務)」と呼ばれるようになりました。ヴィパッサナードゥラは内面を学ぶこと、つまり直接心の訓練だけで、教典には関わりません。

 三蔵にはガンタドゥラとヴィパッサナードゥラという言葉はなく、アッタカターダンマパダ(発句経)のような後世に書かれた書物だけに見ることができます。それでも「ヴィパッサナードゥラは、熟視する努力で本気で滅苦をする仏教徒の仕事」という規定として使うことができます。〔241〕

 ヴィパッサナーという言葉には、多少混乱させるものがあり、時には心の面を厳格に二種類に分ける場合があります。つまりサマーディを生じさせるためにするのが一つと、智慧を生じさせるためにするのがもう一つです。サマーディを生じさせるためにするのをサマタバーヴァナーと言い、智慧を生じさせるためにするのをヴィパッサナーバーヴァナーと言い、ヴィパッサナーの意味を智慧の話だけに狭めています。〔242〕

 しかしヴィパッサナードゥラという言葉にはサマタバーヴァナーとヴィパッサナーバーヴァナーの両方、つまりサマーディと智慧がなければなりません。そればかりかバーヴァナー(望みに向かって努力すること)ではない戒まで、サマーディの部下、あるいは基礎として含まれています。ヴィパッサナーの実践を良く理解させるために、当時のアーチャンは好んで項目を作りました。初めの項目は

        ヴィパッサナーの居場所、住む場所である基礎は何か。

        ヴィパッサナーと観察できる状態は何か。

        ヴィパッサナーと呼ばれる仕事は何か。

        ヴィパッサナーの最終結果は何か、です。〔243〕

 ヴィパッサナーの基盤、住む場所は何かという問の答えは、戒とサマーディです。ヴィパッサナーは本当に見て明らかに知ることを意味します。それはその人の心にピーティ・パモーダヤ(喜悦歓喜)があり、心を憂鬱にする物がない時に生じるので、これには戒が一番助けになります。純潔な戒があれば喜悦歓喜があるので、初めに戒がなければなりません。この言葉は直接三蔵を引用していて、パーリの中部には実践の純潔を七種類に分けて、最後は聖向聖果に到達すると述べたものがあります。〔244〕

 七段階の純潔の最初に戒を挙げ、行動の純潔をシーラヴィスッディ(戒清浄)と言います。行動の純潔は心の純潔、チッタヴィスッディ(心清浄)を生じさせ、心の純潔は考えの純潔、ディッティヴィスッディ(見清浄)を生じさせ、見清浄は懐疑を乗り越える知識の純潔、カンカーヴィタラナヴィスッディ(度疑清浄)を生じさせ、

 度疑清浄は「何が道で何が道でないか」明らかに知る純潔、マッガーマッガニャーナダッサナヴィスッディ(道非道智見清浄)を生じさせ、道非道智見清浄はその実践に関する知識の純潔、パティッパダニャーナヴィスッディ(行道智見清浄)を生じさせ、行道智見清浄は最後のニャーナダッサナヴィスッディ(如実智見)、つまり聖果と対である聖向を生じさせます。聖向から避けようもなく聖果が生じるので、実践の最後である聖向についてだけ述べています。〔245〕

 戒とは体と言葉の害のない振る舞いという意味で、まだ行動や言葉に正常でない物があれば、戒の意味の正しい、完璧な戒がないと言います。正常なら、つまり体と言葉が静かなら当然心の静かさが生じ、その後心の実践をするのにふさわしくなります。つまり見清浄、度疑清浄、道非道智見清浄、行道智見清浄、そして智見清浄が本当のヴィパッサナーで、戒清浄と心清浄はヴィパッサナーの入口とします。〔246〕

 初めのヴィパッサナー、見解の純潔(見清浄)は、呪術など道理のない迷信から自然に関した誤解まで、環境的、あるいは昔からの誤った見解をなくすことです。たとえば「この体と心は不変な物だ。幸福だ。自分の物だ。動物だ。人間だ。神だ。梵天だ。幽霊だ」など、何か霊験がある神聖な物と見るばかりで、それらをただの四大種、あるいは形と名、体と心と見ることができません。

 自分と見、実体があると見、魂が体から出たり入ったりすると考え、それを蘊、つまり形・受・想・行・識と見ることができません。目・耳・鼻・舌・体・心の触にすぎないと見ることができないので、それが誤った考えの元になって神聖な物、霊験のある物への執着に傾きます。

 その結果恐怖が生じ、誤った信仰や見解でいろんな儀式をしなければなりません。これを「まだ純潔でない見解」と言います。最初に粗い段階の、このように下らない誤った見解をすべて捨てることから始めなければなりません。そうすれば初めのヴィパッサナー、見解の純潔になります。〔247〕

 二つ目ヴィパッサナーである疑義を超える知識の純潔(度疑清浄)は、根源について熟慮考察することです。見清浄は「人はただの体と心」と見ることですが、度疑清浄では体と心がどんな原因で創られたのか分けて見なければなりません。だから知識や欲、執着、カンマ、食べ物などが巧妙に緻密に体と心を作り上げる、というところまで深く見て行きます。度疑清浄は疑念を乗り越えさせる知識の純潔なので、すべての物の原因と縁を明らかに見ることを意味します。〔248〕

 ヴィパッサナーの規定で、著者は疑義を二十九から三十に分類していますが、要約すれば自分はあるのか否か、自分はあったのか否か、今後自分はどのような状態であり続けるのか、という問題です。この疑義を超えるには「自分はない。あるのは蘊と処、無明・欲・取・カンマ・食べ物など、本当の自分なしに体と心を作る様々な原因と縁だけ」と知る原因に依存しなければなりません。そうすれば「私はいる。私はずっといた。私はい続ける」という愚かな理解はなくなります。〔249〕

 このような疑念が静まれば、ヴィパッサナーの二つ目と呼ぶことができます。しかしもっと微妙なものがまだ残っているので、「自分はある」という取をすっかり抜き取ったことを意味しません。これらの疑念が静まるのは「いろんな原因と縁が作る」という知識が「自分はある」という信仰を抜き取るからです。〔250〕

 三つ目のヴィパッサナーは、このような疑義を越えると道と、道でないものを知る知識の清浄(道非道智見清浄)で、これから進む道はどれか、進まない道はどれかが正しく分かる純潔な知識が生じます。ヴィパッサナーをしている時に生じる、前進を妨げる障害はたくさんあり、たとえば目を閉じていても明るい不思議な光線が現れるのが見えるなど、心がサマーディになっている時によくいろんな奇妙なものが現れ、やり過ぎる人の心を魅了し、いろんな物を見ようと心を傾ければ傾けるほど、大変なことになります。〔251〕

 「これがヴィパッサナーの成果だ」と勘違いし、「これは素晴らしい。私にはこれで十分だ」と喜べば、当然それは聖向聖果を明らかに見る道を阻んでしまうので、著者はこれを誤りと述べています。もう一つの例は終始心に喜悦や満足が生じて溢れてしまい、その後何も熟慮できなくなり、あるいは「これが現世で見る涅槃」と理解すれば、停滞して前進できないので、これもヴィパッサナーの障害物です。

 また著者は「形や名を洞察する満足でも、時には自分はタンマが見える素晴らしい人物だと勘違いさせ、それに関わるいろんな誤った見解で慢心し、散漫になることもある」と述べています。これもヴィパッサナーの障害物です。〔252〕

 時にはサマーディをする人が自分の心の力で体を硬直させることがあり、タンマを熟慮するサティ、あるいは高くなっていく努力に傾けるサティがないことがあります。これもその後の進歩にとって極めて障害と見なします。そして人は「卓絶した人だ。聖向聖果だ」と褒めるのが好きです。座って体を硬直させ、感覚のない禅定に満足して酔っている人は、智慧に進めないので非常に憐れです。〔253〕

 まだあります。もっとも有りがちなことで、かつて味わったことのない、説明のしようもない不思議な喜悦幸福が生じ、その人を非常に居満足させます。その時体と心は、それはそれは幸福で、いろんな悩みはちぎって捨てたように心から消え、以前愛していた物を思い浮かべても愛しくなく、憎んでいた物を思い浮かべても憎くなく、恐れていた物、ぞっとした物、心配だったことを思い出してもそのような感情が生じて来ないので、自分はすべての煩悩から解脱したと勘違いをしてしまうからです。

 その人の心はそういう状況にある間中、一時的に本当に煩悩から解脱した人と同じ状態、あるいは同じ症状になるからです。その人がそのような状態に満足してしまえば、それだけでヴィパッサナーの進歩の道は断たれてしまい、そして幾らもしないうちにそのような状態は薄れて消え、再び以前恐れていた物を恐れ、愛していた物は前と同じように愛し、何もかも元の状態に戻り、以前よりひどくなることもあります。〔254〕

 もう一つ信仰に関して、たとえば三宝(ブッダ・タンマ・僧)あるいは他の自分が信じるものでも、それまであまり強くなかった信仰が非常に強くなります。タンマの満足なども強烈になって、すべてのものに対して淡白な症状が際立ってきます。すべて自分は涅槃に達したと勘違いさせる症状ばかりです。〔255〕

 このような状況を初めて体験する人が、それをヴィパッサナーの道を妨害するもの、障害物と理解するのは非常に困難で、反対に「これこそヴィパッサナーの絶頂」と見てしまうばかりです。これらはヴィパッサナーの道を妨害する物と明らかな知識が生じた時、微妙な煩悩を絶つことができる段階であるヴィパッサナーの三つ目、何が正しい道で何が誤った道かが分かる知識の純潔と見なすことができます。

 その人は、すべてにおいて本当に正しいヴィパッサナーの道に明らかな知識が生じるまで学習し、訓練し、すべてに正しい道を歩み続けるよう自分を維持しなければなりません。〔256〕

 ヴィパッサナーの四つ目は、正しい道と正しくない道をこのように完璧に理解すれば、当然その後の知識も正しい知識になり、すべての行の真実を最高に明らかに見ることから、心が何にも動じなくなり、卓絶したレベルのダンマの特徴である心が四聖諦を知ることに到達するまで順に進歩します。行道智見清浄と言い、実践方法に関する知識の純潔という意味で、ヴィパッサナーの四つ目、あるいは純潔(ヴィスッディ)の第六段階です。〔257〕

 三蔵には、直接このニャーナ(真実を知る能力。智)について詳しい説明がないので、後世のアーチャンが実践の道の知識を九段階に分けて九ヴィパッサナーニャーナと呼びました。〔258〕

 1.ヴィパッサナーが正しく進行し、最後に行の発生と老病死をしっかり注目して熟慮したら、それらの行の発生と消滅の状態が極めて明らかになるまで、つまりキラキラした海原は波から生じた泡の発生と消滅で満ちているように、すべての状況は発生と消滅で満ちていると見えるまで注目熟慮します。この時得られる知識をウダヤッバヤヌパッサナーニャーナ(生滅随観智)、発生と消滅を見せる知識と言い、略してウダヤッバヤニャーナと言います。

 これらの見ることは、いろんな物に執着することに倦怠して執着を捨てる力があるようにするために、その知識が心を染めるよう、沁みつくまで十分長く、熟慮して明らかに見ることから生じます。これがヴィパッサナーニャーナの第一段階です。〔259〕

 2.発生と消滅を同時に注視熟慮するのはまだ雑で、一方だけを注視熟慮するより効果が小さいので、一方を捨ててしまって滅だけを熟慮させます。つまり発生の側に注目しないで、崩壊あるいは消滅を極めて深く強く見るために滅だけを見ると、驟雨がどこもかしこも一帯に降るように、この世界には崩壊や消滅以外に何もないと感じます。

 このような感覚のある心をパンガーヌパッサナーニャーナ(壊随観智)と言い「崩壊や消滅を見せる知識」という意味です。略してパンガニャーナと言います。これがヴィパッサナーニャーナの第二段階です。〔260〕

 3.崩壊が十分たくさん見えたら、三番目の明らかな知識、つまり「所有すること、何らかの立場になることは、どれも恐ろしいことだ。欲界も形界も無形界も、どの界も恐ろしい状況がいっぱいだ」と、明らかな知識を生じさせます。常にすべての行の崩壊があるので、明らかに見える人の心に恐怖が生じ驚愕します。

 その正しい恐怖は常に心にあり、「三界に詰め込まれている物は、毒薬や武器や強盗のように恐ろしい物ばかりだ。それ以外に何もない」と見る洞察の一種です。このような感覚をバヤトゥパッターナニャーナ(怖畏現起智)と言い、「すべての状態は恐ろしさで満ちていると明らかに見る知識」という意味です。略してバヤニャーナと言い、ヴィパッサナーニャーナの第三段階です。〔261〕

 4.すべての状況は恐怖でいっぱいだと十分感じると、続いてすべての状況は凶悪な害しかないので、猛獣がそこかしこにいる森は、森の愉しさを満喫したいと願う人にとって愉しい場所にならないように、それらと関われば安全などないという明らかな知識が生じます。このように「すべての状況は害に満ちている」と明らかに見る感覚を、アーティーナヴァヌパッサナーニャーナ(過患随観智)と言います。「すべての行の害を見せる知識」という意味で、略してアーティーナヴァニャーナと言います。ヴィパッサナーニャーナの第四段階です。〔262〕

 5.このように熟慮して「すべての物は、このようにどこからどこまでで危険に満ちている」と見えれば倦怠が生じ、すべての状況は家の焼け跡のように見え、火災に遭った家の残骸ようと見れば何の魅力もありません。すべての作られた物と混じっていなければならないことに飽き飽きすることを、ニッビダーヌパッサナーニャーナ(厭離随観智)と言います。「倦怠を生じさせる知識」という意味で、略してニッビダーニャーナと呼びます。ヴィパッサナーニャーナの第五段階です。〔263〕

 6.このように本当の倦怠が生じれば、それらのいろんな物から本当に抜け出したい気持ちが生じます。それはサマーディの力、あるいは洞察力のない人達の解脱願望とは違います。普通の人達はヴィパッサナーニャーナの段階に応じて生じる感覚のように、本当に解脱したいのではありません。ヴィパッサナーニャーナで生じる倦怠は心全体がそうなり、恐ろしく感じた分だけ解脱したくなるので、解脱したい気持ちは本物です。著者は蛇の口の中でもがいている蛙くらい脱出願望が強いと譬えています。

 脱出したい気持ちがどれほど強いか、考えてみてください。厭離随感智のある人は、それだけ、すべての状況から脱出したいと望みます。投網に掛かって震えている鹿や小鳥が脱出したがるように、それだけ行苦(無常であることから受ける苦)から脱出を望みます。このように本当に脱出したい気持ちをムンチッドゥカムマヤターニャーナ(脱観智)と言います。滅苦願望を生じさせる知識という意味です。これがヴィパッサナーニャーナの第六段階です。〔264〕

 7.ここで十分強い脱出したい願望があれば、必死で脱出方法を探究する気持が同じだけ強く生じ、著者はこのような感覚をパーリ語でパティサンカーヌパッサナーニャーナ(省察随観智)と言い、脱出方法を熟慮判断する知識という意味です。簡単に言えば「すべての状況がこのようなら、私はその状況から脱出したい」と注意深く見ることで、熟慮すると取が見え、いろんな状態に心を縛りつけ、夢中にさせる原因である煩悩が見え、それから煩悩を衰弱させる方法を探し、煩悩の衰弱が見えたら煩悩を絶滅させてしまいます。〔265〕

 煩悩を衰弱させることを、著者は次の話の男のようだと例えています。ある人が魚を捕る仕掛けに掛かった蛇を捕まえ、、蛇を魚と勘違いして持ち帰り、「それは蛇だ」と誰が言っても信じないので、知性と慈悲のあるお坊さんが来て説得すると、それは魚ではなく蛇だと知り、その途端に恐怖心が生じて蛇から逃れたくなり、殺してしまう方法を探します。蛇の首を掴んで頭上に持ち上げ、蛇が衰弱するまで、輪にして吊り下げ、落ちて死ぬように放置し、それでも死ななければ最後の一撃で殺します。

 この例えで著者は、人を非常に恐ろしく哀れないろんな状況に縛りつけているのは煩悩で、日に日に煩悩を衰弱させる方便がなければ、煩悩を殺すことはできない、と明らかに見させる意図があります。煩悩は非常に力があり、十分でない智慧の力をはるかに超えているので、煩悩を殺すには智慧を熟させて増やし、同時に煩悩を衰弱させなければなりません。〔266〕

 すべての物は無常であり、苦であり、実体がないので、「欲しい物、成りたい物はない」と見ること、それが煩悩の餌を断つこと、日常的に煩悩を衰弱させることです。そしてよりたくさん、より絶妙にしなければなりません。これが、小さな体の私たちが山のように大きな煩悩に勝つ方法です。著者は、自分が小さな鼠だとしたら、大きな虎を二、三頭殺すくらいの勇気が必要だと言っています。

 私たちは小さな鼠にふさわしい方法を良く調べる本気の決意をし、正面から戦えなければ、いろんな方便を使って日に日に衰弱させ、それでも手を緩めず、常に殺害の機会を狙わなければなりません。このような方便をパティサンカーヌパッサナーニャーナ(省察随観智)と言います。ヴィパッサナーニャーナ(観智)の第七段階です。〔267〕

 8.煩悩を衰弱させるのは、すべての物にどんどん頓着しなくなるので、次は「すべての行に無関心にさせる知識」という意味のサンカールペッカーニャーナ(行捨智)の段階です。このニャーナ(智)は「実体はない。人間はない。動物はない。つまり永遠不変でなく、苦に満ちているので幸福はなく、見れば飽き飽きするので美しくもない」とすべての行の空を熟慮して見ることに依存し、最後にはすべての物、すべての状況に平静でいられるようになり、以前は惚れて夢中になっていたものが石ころに見えます。〔268〕

 著者はこれを、かつて愛していた相手が自分を裏切ったと知った途端に愛想が尽きるようなものと例えています。妻が浮気をしていた場合、愛が冷めてしまい、縁を切って別れた後は、彼女がどこで何をしても平然としていられるのと同じです。心が第八段階のニャーナまで高くなると、以前は自分を楽しませていた色んな味も意味がないと知るので、離縁した妻に関心がない人のように、どんな事態にも平然としていられます。サンカールペッカーニャーナ(行捨智)はヴィパッサナーニャーナの第八段階で、略してウベッカーニャーナと言います。〔269〕

 9.このようにどんな状況にも平然としていられるようになると、心は聖人に導く道に到達させる類の四聖諦を知る準備が整います。このような状況にある心をサッチャーヌローミカニャーナ(諦随順智)と言います。人を世界に縛りつける煩悩をすっかり消滅させ、いずれかのレベルの聖人にならせる類の四聖諦を知る準備が最高に整った見解という意味です。ヴィパッサナーニャーナの第九段階で、略してアヌローミカニャーナ(諦随順智)と呼びます。〔270〕

 ウダヤッバヤヌパッサナーニャーナ(生滅随観智)から最後のサッチャーヌローミカニャーナ(諦随順智)まで、ヴィパッサナーの九つの段階を完璧に経過すれば、その状況をパティッパダニャーナタッサナヴィスッディ(行道智見清浄)と言います。四番目のヴィパッサナー、あるいはヴィスッディの六段階目で、明らかに知って煩悩を絶滅させる智慧が生じるまで熟慮する道を見せる智慧の純潔です。〔271〕

 五番目のヴィパッサナーからはニャーナダサナヴィスッディ(智見清浄)と呼ばれる七段階目のヴィスッディ(清浄)で、正しい見解の純潔、つまりアリヤマッガニャーナ(道智)です。これはヴィパッサナーの最後の段階、あるいはヴィパッサナーの結果で、四つの道智が五番目のヴィパッサナーです。〔272〕

 サッチャーヌローミカニャーナ(諦随順智)とニャーナダサナヴィスッディ(智見清浄)の間に、煩悩のある普通の人と聖人を分ける標であるゴータラブーニャーナ(種姓智)がありますが、種姓智は一瞬存在して消えてしまうので道智見清浄と一緒にするべきです。まだ貪りや執着させる物と関わっている善の側だからです。〔273〕

 まとめればヴィパッサナーの学習の基礎は戒・サマーディ・智慧にあると見ることができます。何を熟慮するかは、すべての物を熟慮すると答えさせていただきます。世界、状況、行、あるいは五蘊、どんな呼び方もできます。すべての状況には五蘊以上の物はないからです。

 何を熟慮して見るかは、発生と維持と消滅を見て「恐ろしい物、うんざりする物で満ちている。何も欲しがる物はない、何もなりたい物はない」と見えるまで世界のあらゆる状況に満ちている無常・苦・無我を見てください、と答えさせていただきます。これはヴィパッサナーに現れなければならない状況です。〔274〕

 ヴィパッサナーの仕事は何かと言えば、ヴィパッサナーとは明らかに見るという意味で、直接の仕事は愚かさをなくすことです。ヴィパッサナーの結果は何かは、明らかな知識が生じてすべての物に洞察が生じ、煩悩を消滅させ、清潔で明るく静かになり、心を世界のいろんな状況に縛りつける物が何もないので、愛欲に夢中になっている人の世界から解脱したと言う状態が生じます。心にどんな欲望も望みもないので、その後苦はありません。このような状態を著者は、仏教でしなければならない仕事の終りと言っています。〔275〕

 すべては私たちの智慧がこのように進んでいく流れを指摘して見せ、つまり純潔清浄に関する七段階と、このように繋がっていなければならない世界を突き抜ける智慧が進んでいく九段階の順で、合わせてヴィパッサナーと言い、後世のアーチャンが規則、あるいは理論の形にしました。〔276〕

 枝葉の部分は、アーチャンが書いた本で続けて読むことができます。しかし仏教の最高レベルのタンマの実践に関わる誤解が生じるのを防ぐために、このように理解しておいてください。今、ヴィパッサナーでないものをヴィパッサナーと勘違いして信じている人が大勢います。そしてお金儲けのヴィパッサナー、仲間を増やすために信じさせて新しいタイプの聖人を作り上げる、非常に憐れな状況のヴィパッサナーが生まれています。〔277〕




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