理論で悟る

 

8回講義の参考図

 

  1.シーラヴィスッディ           戒の純潔(戒清浄)

  2.チッタヴィスッディ           心の純潔(心清浄)

機。魁ゥ妊ッティヴィスッディ         考えの純潔(見清浄)

供。粥ゥンカーヴィタラナヴィスッディ     疑いを超える知識の純潔(度疑清浄)

掘。機ゥ泪奪アマガニャーナダッサナヴィスッディ 道と道でないものを見る知識の純潔

                                    (道非道智見清浄)

検。供ゥ僖謄パダーニャーナダッサナヴィスッディ 実践の知識の純潔(行道智見清浄)

   .Ε瀬筌奪丱筺璽魅僖汽福璽縫磧璽福   “生と消滅を見る(生滅隋観智)

   ▲丱鵐ーヌパサナーニャーナ       消滅だけを見る(壊隋観智)

   バヤトゥパッタナーニャーナ       恐ろしさに満ちていることを見る

                       (怖畏現起智)

   ぅ◆璽妊ナヴァーヌパッサナーニャーナ  害で満ちていることを見る(過患隋観智)

ゥ縫奪咼澄璽魅僖奪汽福璽縫磧璽福    ,垢戮討里發里坊饌佞鮓る(厭離隋観智)

Ε爛鵐船肇ゥムヤターニャーナ      強い滅苦願望を生じさせる知識(脱欲智) 

Д僖謄サンカーヌパッサナーニャーナ   滅苦の知識(省察隋観智)

┘汽鵐ールペッカーニャーナ       手放させる知識(行捨智)

サッチャーヌローミカニャーナ      聖諦を知る知識(諦隋順智)

后。掘ゥ縫磧璽淵瀬奪汽淵凜スッディ      正しい考えと知識の純潔(智見清浄)

  8.聖向聖果                涅槃  

 

 今回は理論で洞察を生じさせる方法について説明します。後世のアーチャン(先生)が作ったものなので、ブッダバーシタ(ブッダが言われた言葉)にはありません。習性が未熟で自分の目で自然の苦の危険を見ることができない実践者に適した方法です。いずれにしてもこの種の規定でする方法は、自然の方法より素晴らしいという意味ではありません。直接三蔵を調べてみると、自然に経過する方法についてしか述べられていないからです。〔239〕

 しかし中には「それはバーラミー(涅槃に至る援けになる徳)を積んできた人や、習性が十分具わっている人、遊びのように簡単に知ることができる人だけの話で、バーラミーも資質もない人はどうしたら良いのだ」と考える人もいたので、初めから性急にする、厳密に規定どおりに実践しなければならない実践法を規定しました。〔240〕

 この洞察を生じさせる実践規則は、論蔵が生まれた時代に教典を学ぶことである「ガンタドゥラ(ダンマを学ぶ責務)」に対して「ヴィパッサナードゥラ(観をする責務)」と呼ばれるようになりました。ヴィパッサナードゥラは内面を学ぶこと、つまり直接心の訓練だけで、教典には関わりません。三蔵にはガンタドゥラとヴィパッサナードゥラという言葉はなく、アッタカターダンマパダ(発句経)のような後世に書かれた書物だけに見ることができます。それでもヴィパッサナードゥラは熟視する努力で本気で滅苦をする仏教徒の仕事という規定として使うことができます。〔241〕

 ヴィパッサナーという言葉には、多少混乱させるものがあり、時には心の面を厳格に二種類に分ける場合があります。つまりサマーディを生じさせるためにするのが一つと、智慧を生じさせるためにするのがもう一つで、サマーディを生じさせるためにするのをサマタバーヴァナーと言い、智慧を生じさせるためにするのをヴィパッサナーバーヴァナーと言い、ヴィパッサナーの意味を智慧の話だけに狭めています。〔242〕

 しかしヴィパッサナードゥラという言葉にはサマタバーヴァナーとヴィパッサナーバーヴァナーの両方、つまりサマーディと智慧がなければならず、そればかりかバーヴァナー(望みに向かって努力すること)ではない戒まで、サマーディの部下あるいは基礎として含まれています。ヴィパッサナーの実践を良く理解させるために、当時のアーチャンは好んで題目を作りました。初めの題目は

        ヴィパッサナーの居場所、住む場所である基礎は何か。

        ヴィパッサナーと観察できる状態は何か。

        ヴィパッサナーと呼ばれる仕事は何か。

        ヴィパッサナーの最終結果は何か、です。〔243〕

 ヴィパッサナーの基盤、住む場所は何かという問の答えは、戒とサマーディです。ヴィパッサナーとは本当に見て明らかに知ることを意味し、それはその人の心にピーティ・パモーダヤ(喜悦歓喜)があり、心を憂鬱にするものがない時に生じるので、これには戒が一番助けになります。純潔な戒があれば喜悦歓喜があるので、初めに戒がなければなりません。この言葉は直接三蔵を引用していて、パーリの中部には実践の純潔を七種類に分けて、最後は聖向聖果に到達すると述べたのがあります。〔244〕

 七段階の純潔の最初に戒を挙げ、行動の純潔であるシーラヴィスッディ(戒清浄)と言います。行動の純潔は心の純潔チッタヴィスッディ(心清浄)を生じさせ、心の純潔は考えの純潔ディッティヴィスッディ(見清浄)を生じさせ、見清浄は懐疑を乗り越える知識の純潔カンカーヴィタラナヴィスッディ(度疑清浄)を生じさせ、度疑清浄は何が道で何が道でないか明らかに知る純潔マッガーマッガニャーナダッサナヴィスッディ(道非道智見清浄)を生じさせ、道非道智見清浄はその実践に関する知識の純潔パティッパダニャーナヴィスッディ(行道智見清浄)を生じさせ、行道智見清浄は最後のニャーナダッサナヴィスッディ(如実智見)、つまり聖果と対である聖向を生じさせます。聖向から避けようもなく聖果が生じるので、実践の最後として聖向についてだけ述べています。〔245〕

 戒とは体と言葉の害のない振る舞いという意味で、まだ行動や言葉に正常でないものがあれば、戒の意味の正しい完璧な戒がないと言います。正常なら、つまり体と言葉が静かなら当然心の静かさが生じ、その後心の実践をするのにふさわしくなります。つまり見清浄、度疑清浄、道非道智見清浄、行道智見清浄、そして智見清浄が本当のヴィパッサナーで、戒清浄と心清浄はヴィパッサナーの入口とします。〔246〕

 初めのヴィパッサナー、見解の純潔(見清浄)は、呪術など道理のない迷信から自然に関した誤解まで、環境的な、あるいは昔からの誤った見解をなくすことです。たとえば「この体と心は不変なものだ。幸福だ。自分のものだ。動物だ。人間だ。神だ。梵天だ。幽霊だ」など、何か霊験がある神聖なものと見るばかりで、それらをただの四大種、あるいは形と名、体と心と見ることができず、自分と見、実体があると見、魂が体から出たり入ったりすると考え、それを蘊つまり形・受・想・行・識と見ることができません。目・耳・鼻・舌・体・心の触にすぎないと見ることができないので、それが誤った考えの元になって神聖なもの、霊験のあるものへの執着に傾き、その結果恐怖が生じ、誤った信仰や見解でいろんな儀式をしなければなりません。これを「まだ純潔でない見解」と言います。最初に粗い段階の、このように下らない誤った見解をすべて捨てることから始めなければなりません。そうすれば初めのヴィパッサナー、見解の純潔になります。〔247〕

 二つ目ヴィパッサナーである疑義を超える知識の純潔(度疑清浄)は、根源について熟慮考察することです。見清浄は「人はただの体と心」と見ることですが、度疑清浄では体と心がどんな原因で創られたのか分けて見なければならないので、知識や欲、執着、カンマ、食べ物などが巧妙に緻密に体と心を作り上げる、というところまで深く見て行きます。度疑清浄とは疑念を乗り越えさせる知識の純潔なので、すべてのものの原因と縁を明らかに見ることを意味します。〔248〕

 ヴィパッサナーの規定で、作者は疑義を二十九から三十に分類していますが、要約すれば自分はあるのか否か、自分はあったのか否か、今後自分はどのような状態であり続けるのかという問題です。この疑義を超えるには「自分はない。あるのは蘊と処、無明・欲・取・カンマ・食べ物など、本当は自分がなく体と心を作る様々な原因と縁だけ」と知る原因に依存しなければならず、そうすれば「私はいる。私はずっといた。私はい続ける」という愚かな理解はなくなります。〔249〕

 このような疑念が静まればヴィパッサナーの二つ目と呼ぶことができますが、もっと微妙なものがまだ残っているので、「自分はある」という取をすっかり抜き取ったという意味ではありません。これらの疑念が静まるのは「いろんな原因と縁が作る」という知識が「自分はある」という信仰を抜き取るからです。〔250〕

 三つ目のヴィパッサナーは、このような疑義を越えると道と道でないものを知る知識の清浄(道非道智見清浄)、つまりこれから進む道はどれか、進まない道はどれかが正しく分かる純潔な知識が生じます。ヴィパッサナーをしている時に生じる、前進を妨げる障害はたくさんあり、たとえば目を閉じていても明るい不思議な光線が現れるのが見えるなど、心がサマーディになっている時によくいろんな奇妙なものが現れ、やり過ぎる人の心を魅了し、いろんなものを見ようと心を傾ければ傾けるほど、大変なことになります。〔251〕

 「これがヴィパッサナーの成果だ」と勘違いし、「これは素晴らしい。私にはこれで十分だ」と喜べば、当然それは聖向聖果を明らかに見る道を阻んでしまうので、作者はこれを誤りとしています。もう一つの例は終始心に喜悦や満足が生じて溢れてしまい、その後何も熟慮できなくなり、あるいは「これが現世で見る涅槃だ」と理解すれば、停滞して前進できないので、これもヴィパッサナーの障害物です。また作者は「形や名を洞察する満足でも、時には自分はタンマが見える素晴らしい人物だと勘違いさせ、それに関わるいろんな誤った見解で慢心し散漫になることもある」と言い、これもヴィパッサナーの障害物です。〔252〕

 時にはサマーディをする人が自分の心の力で体を硬直させることがあり、タンマを熟慮するサティ、あるいは高くなっていく努力に傾けるサティがないことがあり、これもその後の進歩にとって極めて障害と見なします。そして人は「卓絶した人だ。聖向聖果だ」と褒めるのが好きです。座って体を硬直させ、感覚のない禅定に満足して酔っている人は智慧に進めないので、非常に憐れです。〔253〕

 まだあります。もっとも有りがちなことで、例えばかつて味わったことのない、そして説明のしようもない不思議な喜悦幸福が生じ、その人を想像できないほど満足させます。なぜならその時体と心がそれはそれは幸福で、いろいろな悩みはちぎって捨てたように心から消え、以前愛していたものを思い浮かべても愛しくなく、憎んでいたものを思い浮かべても憎くなく、恐れていたもの、ぞっとしたもの、気掛かりで心配だったことを思い出してもそのような感情が生じて来ないので、自分はすべての煩悩から解脱したと勘違いをしてしまいます。その人の心はそういう状況にある間中、一時的に本当に煩悩から解脱した人と同じ状態、あるいは同じ症状になるからです。その人がそのような状態に満足してしまえば、それだけでヴィパッサナーの進歩の道は断たれてしまい、そして幾らもしないうちにそのような状態は薄れて消え、再び以前恐れていたものを恐れ、愛していたものは前と同じように愛し、何もかも元の状態に戻り、以前よりひどくなることもあります。〔254〕

 もう一つ信仰に関して、たとえば三宝(ブッダ・タンマ・僧)あるいは他の自分が信じるものでも、それまであまり強くなかった信仰が非常に強くなります。タンマの満足なども強烈になって、すべてのものに対して淡白な症状が際立ってきます。すべて自分は涅槃に達したと勘違いさせる症状ばかりです。〔255〕

 このような状況を初めて体験する人が、それをヴィパッサナーの道を妨害するもの、障害物と理解するのは非常に困難で、反対にこれこそヴィパッサナーの絶頂と見てしまうばかりです。これらはヴィパッサナーの道を妨害するものと明らかな知識が生じた時、微妙な煩悩を絶つことができる段階であるヴィパッサナーの三つ目、何が正しい道で何が誤った道かが分かる知識の純潔と見なすことができます。その人はすべてにおいて本当に正しいヴィパッサナーの道に明らかな知識が生じるまで学習し、訓練し、いつまでも正しい道を歩み続けるよう自分を維持しなければなりません。〔256〕

 ヴィパッサナーの四つ目は正しい道と正しくない道をこのように完璧に理解すれば、当然その後の知識も正しい知識になり、すべての行の真実を最高に明らかに見ることから、心が何にも動じなくなり、卓絶したレベルのダンマの特徴である心が四聖諦を知ることに到達するまで順に進歩します。行道智見清浄と言い、実践方法に関する知識の純潔という意味で、ヴィパッサナーの四つ目、あるいは純潔(ヴィスッディ)の第六段階です。〔257〕

 三蔵には、直接このニャーナ(真実を知る能力。智)について詳しい説明がないので、後世のアーチャンが実践の道の知識を九段階に分けて九ヴィパッサナーニャーナと呼びました。〔258〕

 1.ヴィパッサナーが正しく進行し、行の発生と老病死を最後にしっかり注目熟慮したら、それらの行の発生と消滅の状態が極めて明らかになるまで、つまりキラキラした海原は波から生じた泡の発生と消滅で満ちているように、すべての状況は発生と消滅で満ちていると見えるまで注目熟慮し、この時得られる知識をウダヤッバヤヌパッサナーニャーナ(生滅隋観智)、発生と消滅を見せる知識と言い、略してウダヤッバヤニャーナと言います。これらの見ることはいろんな物に執着することに倦怠して執着を捨てる力があるようにするために、その知識が心を染めるよう、沁みつくまで十分長く、熟慮して明らかに見ることから生じます。これがヴィパッサナーニャーナの第一段階です。〔259〕

 2.発生と消滅を同時に注視熟慮するのはまだ雑で、一方だけを注視熟慮するより効果が小さいので、一方を捨ててしまって滅だけを熟慮させます。つまり発生の側に注目しないで、崩壊あるいは消滅を極めて深く強く見るために滅だけを見ると、驟雨がどこもかしこも一帯に降るように、この世界には崩壊や消滅以外に何もないと感じます。このような感覚のある心をパンガーヌパッサナーニャーナ(壊隋観智)と言い「崩壊や消滅を見せる知識」という意味です。略してパンガニャーナと言います。これがヴィパッサナーニャーナの第二段階です。〔260〕

 3.崩壊が十分たくさん見えたら、三番目の明らかな知識、つまり「所有すること、何らかの立場になることは、どれも恐ろしいことだ。欲界も形界も無形界も、どの界も恐ろしい状況がいっぱいだ」という明らかな知識を生じさせます。常にすべての行の崩壊があるので、明らかに見える人の心に恐怖が生じ驚愕します。そしてその正しい恐怖は常に心にあり、「三界に詰め込まれているものは、毒薬や武器や強盗のように恐ろしい物ばかりだ。それ以外には何もない」と見る洞察の一種です。このような感覚をバヤトゥパッターナニャーナ(怖畏現起智)と言い、「すべての状態は恐ろしさで満ちていると明らかに見る知識」という意味で、略してバヤニャーナと言い、ヴィパッサナーニャーナの第三段階です。〔261〕

 4.すべての状況は恐怖でいっぱいだと十分感じると、続いてすべての状況は凶悪な害しかないので、猛獣がそこかしこにいる森は森の愉しさを満喫したいと願う人にとって愉しい場所にならないように、それらと関わる時の安全などないと明らかな知識が生じます。このようにすべての状況が害に満ちていると明らかに見る感覚を、アーティーナヴァヌパッサナーニャーナ(過患隋観智)と言い、「すべての行の害を見せる知識」という意味で、略してアーティーナヴァニャーナと言います。ヴィパッサナーニャーナの第四段階です。〔262〕

 5.このように熟慮して「すべてのものはこのようにどこからどこまでで危険に満ちている」と見えれば倦怠が生じ、すべての状況は家の燃え殻のように見え、火災に遭った家の残骸ようと見れば何の魅力もありません。すべての作られたものと混じっていなければならないことに飽き飽きすることを、ニッビダーヌパッサナーニャーナ(厭離隋観智)と言い、「倦怠を生じさせる知識」という意味で、略してニッビダーニャーナと呼びます。ヴィパッサナーニャーナの第五段階です。〔263〕

 6.このように本当の倦怠が生じれば、それらのいろんなものから本当に抜け出したい気持ちが生じます。それはサマーディの力あるいは洞察力のない人達の解脱願望とは違います。普通の人達はヴィパッサナーニャーナの段階に応じて生じる感覚のように、本当に解脱したい訳ではありません。ヴィパッサナーニャーナで生じる倦怠は心全体がそうなり、恐ろしく感じた分だけ解脱したくなるので、解脱したい気持ちは本物です。作者は蛇の口の中でもがいている蛙くらい脱出願望が強いと譬えています。脱出したい気持ちがどれほど強いか、考えてみてください。厭離随感智のある人は、すべての状況からそれだけ脱出したいと望みます。投網に掛かって震えている鹿や小鳥が脱出したがるように、それだけ行苦(無常であることから受ける苦)から脱出を望みます。このように本当に脱出したい気持ちをムンチッドゥカムマヤターニャーナ(脱観智)と言い、滅苦願望を生じさせる知識という意味です。これがヴィパッサナーニャーナの第六段階です。〔264〕

 7.ここで十分強い脱出したい願望があれば、必死で脱出方法を探究する気持が同じだけ強く生じ、作者はこのような感覚をパーリ語でパティサンカーヌパッサナーニャーナ(省察隋観智)と言い、脱出方法を熟慮判断する知識という意味です。簡単に言えば「すべての状況がこのようなら、私はその状況から脱出したい」と注意深く見ることで、熟慮すると取が見え、いろんな状態に心を縛りつけ夢中にさせる原因である煩悩が見え、それから煩悩を衰弱させる方法を探し、煩悩の衰弱が見えたら煩悩を絶滅させてしまいます〔265〕

 煩悩を衰弱させることを、作者は次のように例えています。ある人が仕掛けで魚を捕りに行って蛇を捕り、蛇を魚と勘違いして持ち帰り、それは蛇だと誰が言っても信じないので、知性と慈悲のあるお坊さんが来て説得すると魚ではなく蛇だと知り、すると恐怖心が生じて蛇から逃れたくなり、殺してしまう方法を探します。蛇の首を掴んで頭上に持ち上げ、蛇が衰弱するまで、輪にして吊り下げ、落ちて死ぬように放置し、それでも死ななければ最後の一撃で殺します。この例えで作者は、人を非常に恐ろしく哀れないろんな状況に縛りつけているのは煩悩で、日に日に煩悩を衰弱させる方便がなければ煩悩を殺すことはできない、と明らかに見させる意図があります。煩悩は非常に力があり、十分でない智慧の力をはるかに超えているので、煩悩を殺すには智慧を熟させて増やし、同時に煩悩を衰弱させなければなりません。〔266〕

 すべてのものは無常であり苦であり実体がないので、「欲しいもの成りたいものはない」と見ること、それが煩悩の餌を断つこと、日常的に煩悩を衰弱させることです。そしてよりたくさん、より絶妙にしなければなりません。これが、小さな体の私たちが山くらい大きな煩悩に勝つ方法です。作者は、自分が小さな鼠だとしたら、大きな虎を二、三頭殺すくらいの勇気が必要だと言っています。私たちは小さな鼠にふさわしい方法を良く調べる本気の決意をし、正面から戦えなければいろんな方便を使って日に日に衰弱させ、それでも手を緩めずに、常に殺害の機会を狙わなければなりません。このような方便をパティサンカーヌパッサナーニャーナ(省察隋観智)と言い、ヴィパッサナーニャーナ(観智)の第七段階です。〔267〕

 8.煩悩を衰弱させることは、すべての物にどんどん頓着しなくなるので、次はすべての行に無関心にさせる知識という意味のサンカールペッカーニャーナ(行捨智)の段階です。このニャーナ(智)は「実体はない。人間はない。動物はない。つまり永遠不変でなく、苦に満ちているので幸福はなく、見れば飽き飽きするので美しくもない」とすべての行の空を熟慮して見ることに依存し、最後にはすべての物、すべての状況に平静でいられるようになり、以前は惚れて夢中になっていたものが石ころに見えます。〔268〕

 作者はこれを、かつて愛していた相手が自分を裏切ったと知った途端に愛想が尽きるようなものと例えています。例えば妻が浮気をしていた場合愛が冷めてしまい、縁を切って別れた後は、彼女がどこで何をしても平然としていられるのと同じです。心が第八段階のニャーナまで高くなると、以前は自分を楽しませていたいろんな味も何も意味がないと知るので、離縁した妻に関心がない人のようにどんな事態にも平然としていられます。サンカールペッカーニャーナ(行捨智)はヴィパッサナーニャーナの第八段階で略してウベッカーニャーナと言います。〔269〕

 9.このようにどんな状況にも平然としていられるようになると、心は聖人に導く道に到達させる類の四聖諦を知る準備が整います。このような状況にある心をサッチャーヌローミカニャーナ(諦隋順智)と言い、人を世界に縛りつける煩悩をすっかり消滅させ、いずれかのレベルの聖人にならせる類の四聖諦を知る準備が最高に整った見解という意味です。ヴィパッサナーニャーナの第九段階で、略してアヌローミカニャーナ(諦隋順智)と呼びます。〔270〕

 ウダヤッバヤヌパッサナーニャーナ(生滅隋観智)から最後のサッチャーヌローミカニャーナ(諦隋順智)まで、ヴィパッサナーの九つの段階を完璧に経過すれば、その状況をパティッパダニャーナタッサナヴィスッディ(行道智見清浄)と言い、四番目のヴィパッサナー、あるいはヴィスッディの六段階目で、明らかに知って煩悩を絶滅させる智慧が生じるまで熟慮する道を見せる智慧の純潔です。〔271〕

 五番目のヴィパッサナーからはニャーナダサナヴィスッディ(智見清浄)と呼ばれる七段階目のヴィスッディ(清浄)で、正しい見解の純潔、つまりアリヤマッガニャーナ(道智)です。これはヴィパッサナーの最後の段階、あるいはヴィパッサナーの結果で、四つの道智が五番目のヴィパッサナーです。〔272〕

 サッチャーヌローミカニャーナ(諦隋順智)とニャーナダサナヴィスッディ(智見清浄)の間に、煩悩のある普通の人と聖人を分ける標であるゴータラブーニャーナ(種姓智)がありますが、種姓智は一瞬存在して消えてしまうので道智見清浄と一緒にするべきです。まだ貪りや執着させるものと関わっている善の側だからです。〔273〕

 まとめればヴィパッサナーの学習の基礎は戒・サマーディ・智慧にあると見ることができます。何を熟慮するかは、すべてのものを熟慮すると答えさせていただきます。世界、状況、行、あるいは五蘊、どんな呼び方をしてもいいです。すべての状況には五蘊以上のものはないからです。何を熟慮して見るかは、たとえば発生と維持と消滅を見て「恐ろしいもの、うんざりするもので満ちている。何も欲しがるものはない、何もなりたいものはない」と見えるまで世界のあらゆる状況に満ちている無常・苦・無我を見てくださいと答えさせていただきます。これはヴィパッサナーに現れなければならない様相です。〔274

 ヴィパッサナーの仕事は何かと言えば、ヴィパッサナーとは明らかに見るという意味なので、直接の仕事は愚かさをなくすことです。ヴィパッサナーの結果は何かは、明らかな知識が生じてすべてのものに洞察が生じ、煩悩を絶滅させ、清潔で明るく静かになり、心を世界のいろんな状況に縛りつけるものが何もないので、愛欲に夢中になっている人がいる世界から解脱したと言う状態が生じます。心にどんな欲望も望みもないので、その後苦はありません。このような状態を作者は、仏教でしなければならない仕事の終りと言っています。〔275〕

 すべては私たちの智慧がこのように進んでいく流れを指摘して見せ、つまり純潔清浄に関する七段階と、このように繋がっていなければならない世界を突き抜ける智慧が進んでいく九段階の順で、合わせてヴィパッサナーと言い、後世のアーチャンが規則、あるいは理論の形にしました。〔276〕

 枝葉の部分は、アーチャンが書いた本で続けて読むことができます。しかし仏教の最高レベルのタンマの実践に関わる誤解が生じるのを防ぐために、このように理解しておいてください。今、ヴィパッサナーでないものをヴィパッサナーと勘違いして信じている人が大勢いて、そしてお金儲けのヴィパッサナー、仲間を増やすために信じさせて新しいタイプの聖人を作り上げる非常に憐れな状況のヴィパッサナーが生まれています。〔277〕

 


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