執着の基盤、取が掴む物は何でしょうか。取の基盤は世界です。仏教で言う世界は、一般の意味よりも広い意味があり、何もかもすべてを意味します。人間も天人も梵天も畜生も、地獄の動物も、悪霊も餓鬼も阿修羅も、あるだけすべてを世界と言います。〔162〕
世界を知る意味は、世界は幾重もの神秘に包まれている点にあります。私たちが知っているのは「仮定の段階」と呼ばれる外側で、一般人の知性で知っているという意味です。だから仏教はいろんな段階を見るよう教えています。ブッダは世界を物質と心に分け、物質を「形」、心を「名」と呼びます。名の部分を更に四つに分けて形と合わせると五つになり、それを五蘊と呼びます。人間と動物の世界を構成している五つの部分という意味です。〔163〕
世界を見るとは、世界の動物、特に人を見ることです。問題は人の話にあるからです。体は形(ルーパ)、あるいは形蘊と呼ぶ物質であり、心は次の四つの部分に分けられます。〔164〕
初めは「受(ヴェーダナー)」と呼ぶ三つの感覚です。幸福、あるいは満足が一つ、苦、あるいは不満が一つ。もう一つは幸福とも苦とも言い難い状態で関心がないという感覚ですが、これも同じ感覚です。このような感覚は人に常にあり、毎日毎日感覚で溢れているので、ブッダは人を構成する物の一つと見なし、「受」あるいは「受蘊」と呼びました。〔165〕
二つ目は「想(サンニャー)」と言います。感じることで、今目覚めている、眠っていない、失神していない、死んでいないというように意識することです。一般には記憶・認識と説明されていますが、間違いではありません。述べたように酔ってなく、失神してなく、眠ってなく、死んでいなければ、目・耳・鼻・舌・体を通して何らかの刺激がある時、赤や緑、長い短い、あるいは人か動物か等々、それが何かを感じたり記憶したりできるからです。それを「意識がある」、あるいは「想」と言います。〔166〕
三つ目は「行(サンカーラ)」と言います。混乱するほどいろんな意味があります。初めに抽象的な意味について話すと「加工する」という意味で、人の心の中の行動です。たとえば考えること。何かをしようと考え、話そうと考え、ああだこうだと考える良い考えも悪い考えも、どんな系統の考えも、すべての考え、心の中で作り出され、考えとして沸き上がってくる感覚を「行」と言います。
他での行には生まれさせる善・徳という意味もあり、体、あるいは支配している心と一体の体という意味もあります。いろんな意味がありますが、どれも「加工する」という意味が含まれている点で一致します。〔167〕
四つ目は「識(ヴィンニャーナ)」と言います。目・耳・鼻・舌・体全体から自分の心で感じることまで、感じる義務をする心を意味します(多くの人が理解しているような魂ではありません)。〔168〕
この五蘊は、説明した四つの取が掴む物です。もう一度その章を読み返して熟慮し、取はこの五つの部分を掴んでいると知り、良く理解してください。この部分は、ヨチヨチ歩きの幼児が転んでドアにぶつかった時、ドアを叩けば痛みと怒りが治まるように、その人の愚かさ次第で、それぞれの部分を自分と掌握することができます。この例は形である本当の木のドアを、実体と掌握しているという意味です。それは最も低いレベルの取です。〔169〕
大きな子どもが自分の体を叩き、頭を壁にぶつけるほど体に当たるのは、これも先ほどの幼児の例のように、体を自分と掌握しています。もう少し賢くなると受・想・行・識のいずれかを自分と執着し、区別できなければ五蘊全部をまとめて自分と執着することもあります。〔170〕
「形」の次の「受」は、幸福・苦・どちらでもないという感覚で、一番自分と掌握されるものです。自分が満足である幸福に溺れることを例にして見ると、味わっている愛欲の幸福、特に手に入れた形・声・臭・味・接触の味の場合の「受」は幸福の味です。それからその幸福やその味に夢中になり、その美味しさ、特に皮膚の接触を嫌う人は誰もいません。
非常に多くの人、あるいはほとんど全員がこの「受」を自分と執着しています。無知、あるいは迷いが他の物を見えなくするので、美味しさしか見えず、それを「自分」と執着し、そして「自分の物」にします。〔171〕
満足、あるいは不満の感覚は、どちらも苦の基盤と言うことができます。好きと嫌いの感情は、タンマの意味では同じだけ心を苦しめるので、同じだけ苦と見なします。好きは心を膨らませ、嫌いは心を萎ませ、喜びと悲しみは同じだけ心を揺らし、同じだけ疲れさせます。すべてを「受を自分と掌握する」と言います。〔172〕
「受は自分」と執着することについて熟慮し、本当に正しく理解することが、受から自由になる道です。受は心より威力があり、私たちを後悔しなければならない状況へ引っ張って行きます。阿羅漢に到達するための実践で、ブッダが特に受について熟慮するよう教えられている物がたくさんあります。受を、苦から解脱するために熟慮する素材にして阿羅漢になった人も沢山います。〔173〕
受は人間が努力することの最高の目的なので、他の何よりも簡単に執着の基盤になります。私たちが一生懸命勉強していろんな仕事に就くのは、お金をもらっていろんな物を買うためです。生活用品や食べ物、生活を豊かにする物から異性の味まで、それらを手に入れて味わう目的はたった一つ、幸受である、目・耳・鼻・舌・体を通じた美味しい味が欲しいからです。〔174〕
私たちがすべての財力・体力・気力を投資するのは幸受が欲しいからと、誰でも内心で知っています。幸受の威力がなければ、誰も勉強したり、働いてお金を稼ぐことに投資しません。だから幸受は決して小さな問題ではありません。知識や理解があれば、常に心がそれらの感覚より上にあるよう支配でき、いろんなことを普通に、成るがままにするよりずっと良くなります。社会の複雑な問題も、この幸受に原因があります。〔175〕
国と国の衝突、あるいは世界を二分する争いも、突き詰めると、述べたような幸受の奴隷に陥っている真実を発見します。戦争や紛争の原因は主義や思想の違いではなく、本当の原因は利益や幸福にあります。どちらもたくさんの利益を目指し、自分の利益を掻き寄せるからです。主義は大義名分、あるいは隠れ蓑でしかなく、一番深い部分は幸受の奴隷に陥っていることにあります。
だから受を知ることは、私たちを煩悩の奴隷にする、あるいはすべての苦を受け取らせる重要な原因を知ることです。〔176〕
天人も人間と同じで、人間以上に幸受の奴隷になっています。「人間より素晴らしい」「上等だ」と、人が勝手に仮定しているだけで、まだ欲望、取、目・耳・鼻・舌・体を通した美味しさの話から脱すことはできません。〔177〕
梵天まで高くなると、情欲の味は除外しなければなりませんが、定、あるいはサマーディにいると言う、もう一つの心の味から脱すことができません。あるいはサマーディの時に生じた幸福の味に夢中になり、情欲には関わらなくても幸福の受であることに変わりありません。〔178〕
人間より低い動物は、当然人間より無秩序に幸受の威力の支配下に落ちています。だから受の感情がどのようかを知ること、特に受は自分自身でも自分の物でもないので、執着するべきでないと知ることは、本当に私たちの人生にとって利益があります。〔179〕
次は「想」、あるいは知覚についてですが、これも簡単に自分と掌握する機会があります。人が夜眠ると、魂とか何とか、呼び方は色々ですが、それが体から抜け出し、抜け出している間、体は丸太のようで五感は何も感じないけれど、それが体に戻って来れば意識も戻って来ると一般庶民はよく言います。人々はそのように信じているので、想、あるいは知覚は自分と(実体があると)執着する機会があります。〔180〕
しかし仏教で言えば想は自分ではなく、想は良い状態の知覚、記憶、認識にすぎません。加工する状態が乱れるだけで、想、あるいは知覚と呼ばれるものは、途端に使い物にならなくなってしまいます。仏教が「想は自分」と認めないのは、このような理由からです。しかし一般の人は、自分と掌握する方へ推測、あるいは憶測するのが好きです。仏教の教育は、想は誰の物でもなく、想は一人の人の中に自然に作られた結果にすぎないと、反対の知識を得ます。〔181〕
次の蘊は「行」で、ああしよう、こうしよう、ああなろう、こうなろうという考えです。良い考えも悪い考えも、更に強く自分を表しているので、誰でも「考えが自分なら、考えている人間は尚のこと自分であるはずだ」と感じます。だから現代のある哲学者のように簡単に「我思う。故に我あり」という哲学になってしまいます。この科学の進歩した時代の哲学者も、考えを自分と捉えていた二、三千年前の哲学者と同じです。〔182〕
仏教は「受と想は自分」という考えを否定し、考え、あるいは考える心も自分ではないと否定しています。考えることができる状況は自然の話で、いろんな物によって作られた結果であり、言われているような実体である「私」がなくても、人間を構成する部分の集合の中に「考え」として出来上がっているものです。だからこの行、あるいは考えは無我と主張されています。つまり述べた他の薀と同じで、自分ではありません(実体はありません)。〔183〕
仏教の言葉では、加工する物という意味の行はいろいろな物によって加工されているので、更に自分ではないと明言しています。私たちの理解の難しさは、名(抽象)の物、あるいは心の問題を十分に知らず、知っているのは物質である形の話だけで、物質でないもう一種類についてはほとんど理解できない点にあります。だから抽象の「加工」の話を理解するのが困難です。〔184〕
ここでは仏教の教えで「名の物と物質を含めたいろんな物が加工することで、行、あるいは考えと呼ぶ物が心の中に生じ、そして考える人や魂や霊、あるいは体の所有者のような物がいると信じさせる」と言えるだけです。仏教ではそれらを完全に否定しています。別々の部分に分解してしまえば何も残らず、そしてどの部分にも自分はなく、考えの部分も、一般の人が考えているような自分ではないと検証できます。〔185〕
最後の「識」は、目・耳・鼻・舌・体・心を通して明らかに知る働きをします。これも自分ではありません。それらの器官は常に形・声・臭・味、接触を感じる能力があり、形が目に触れると同時に識が生じて(目と形と眼識)三つになり、目はどんな形か、人か動物か、長いか短いか、白いか黒いか等を認識します。〔186〕
このように生じる認識は自然に働く一種の機械のようですが、「それは心から出たり入ったりする霊や魂で、目・耳・鼻・舌・体の刺激を感じている」と信じ、そして「それは自分」と執着する人たちもいます。仏教の教えでは「そういう自然」と見なします。何らかの形が目と目の神経に触れれば、そこで眼識と呼ぶ「明らかに見る」行為になり、他には、自分も何も必要ありません。だから仏教の識は他の宗教の識と違います。[187]
形・受・想・行・識と各部分に分けて見てくると、どこにも自分があると見えないので、これらは誰の自分でもないと、自分についての誤解を解くことができます。欲望が生じなければ、すべての物を愛したり憎んだりすることもないので、「すべての物は自分ではない」と明らかに見えると言います。理論で考えても自分はないと信じさせることができますが、それは信じているだけで、「自分」と執着することを完全に断てる「明らかに知ること」ではありません。だから三学で学んで熟慮すれば、この話の執着を引き抜くことができます。〔188〕
五蘊の実践するべき義務は、愚かさを追放する明らかな知識を生じさせなければならないことです。そうすれば、執着すべき自分である部分はないと自然に見え、その時、執着は瓦解します。生まれた時からあった執着も、すべて瓦解します。だから自分という誤解の基盤である五蘊について、詳しく学ばなければなりません。
ブッダはこれについて、他の問題より多く教えられ「五蘊は無我(自分ではない)」と短くまとめた要旨があります。そして哲学的にも、科学的にも、宗教的にも、本当の仏教の教えであり、仏教の要旨と見なします。真実のままに知れば誤解による執着は消え、どんな欲望も生じる余地がなく、苦もありません。〔189〕
なぜ人は、この五つの部分を真実のままに見ることができないのでしょうか。私たちは生まれた時はまだ自分の知恵がなく、教えられたように知識をつけ、彼らは「すべての物は自分」と理解するよう教えます。
生まれた時からある「自分」と執着する本能(我語取)は、日に日に厚く塗り重ねられ、「私、あなた、あの人、その人」という呼び方も、自分を益々強く意識させる一方です。この人はこういう名前、あの人はああいう名前、あの人の子、この人の孫、あの人の妻、この人の夫。すべては自分がある方向を明示しているので、毎日自分への執着を塗り重ねていることに気づきません。〔190〕
自分があると執着すれば利己主義が生じ、自分や自分たちの利益のための仕事に就き、自分と自分たちの利益を手に入れます。しかし賢さが生じて「これは欺瞞だ」と知れば、Aさん、Bさん、王様、大臣、将軍、動物、人間などという執着は、彼らが仮定して社会で呼び合っているだけと知ることで消滅します。このように理解できれば、社会の欺瞞を一枚剥いだと見なします。〔191〕
Aさんの全身を熟慮して見れば、形・受・想・行・識の連携であることが分かります。このように見えれば多少賢くなり、世界の仮定に夢中にならないと言うことができます。〔192〕
さらに細かく分けると、形蘊である体は、土・水・風・火の四大種に分けることができます。お寺の分け方でなく、科学的に炭素、酸素、水素と分けても同じです。こういうのを更に深く見ると言います。騙されることが一枚減るので「人間はない。あるのはいろんなダートゥ(元素。界)だけ」と見ることができます。
体は形界で、名界である心は小さな部分に分かれて、知覚、考え、神経などのいろんな働きをします。その時Aさん、Bさん、王様、大臣、将軍などという考えは消え、私の子、私の亭主、俺の女房という感覚も消えます。〔193〕
しかし第一義諦の面から見れば、土・水・風・火の四大種も、炭素、酸素、水素などの元素も、形・受・想・行・識も、すべては同じで、実体がない「空っぽ」の状態と知ります。土・水・風・火のどこにも自分はありません。それを仏教では空と言います。〔194〕
このように「すべての物は空」と見える人には、執着、あるいは取が生じる余地はなく、既に生じている執着も残ることはできません。すべて溶けて消滅し、まったく執着しなくなるので、人もなく、動物もなく、四大種もなく、蘊もなく、それ自身の自分は空で、執着がなければ苦が生じる余地はありません。誰かがその人を「善人、悪人、幸福な人、不幸な人」、あるいは何と呼んでも、その人にとって新奇ではありません。すべては四つの間違った執着を抜き取ることができるまで、五蘊の真実についての知識と理解と明らかな見方があることの結果です。〔195〕
まとめると、この世界のすべては五蘊という一語に集約されます。形・受・想・行・識のどの部分も、自分がないマヤカシですが、受の威力は騙して執着させ、一般の人に「欲しい。なりたい。なりたくない」と望ませます。すべては、外から見えなければ内に隠れた苦を生じさせます。誰でも三学(持戒・サマーディ・智慧)と呼ばれる実践項目に依存して、五蘊への執着を完全に抜き取らなければなりません。
そうすれば五蘊の支配下に落ちないので、苦はありません。世界はその人にとって穏やかな幸福をもたらす状態であり、何にも焦燥せず、生涯、心がすべての物より上にある人になります。これが、ブッダの教えで五蘊について知り尽くすことの結果です。〔196〕
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