5.仏教の実践の段階

三学





 この章では取を断つ方法について説明します。これに関わる仏教の教えは「戒・サマーディ(三昧)・智慧」で、これらの実践項目を三学と言います。〔136〕

 学ぶべき項目の最初を「戒」と言います。他人を困らせることも、自分を困らせることもない、一般の教えで善い行い、正しい行ないを意味し、五戒・八戒・十戒・二二七戒他などに分けられています。地域や社会、その他の生活に必要ないろんな物に関わる、自分の体と言葉の害のない行動、初歩の段階の秩序ある行動のための実践です。〔137〕

 学ぶべき項目の二番目を「サマーディ」と言います。自分の心を自分の望みどおりに、最も利益のある状態にすることです。サマーディという言葉の意味の、この観察点を正しくしておいてください。みなさんは、サマーディとは丸太のようにどっしりと安定して揺るがない心、あるいは静まった純潔な心と聞いていると思います。しかしこの二つの状態だけが、サマーディという言葉の本当の意味ではありません。

 ブッダの言葉にその根拠があるからです。ブッダは心の状態をもう一つの重要な言葉「仕事をするにふさわしい」という意味の「カンマニヨー(適業性)」という言葉で説明されています。この言葉はサマーディという心の状態を説明する最後の言葉です。〔138〕

 学ぶべきことの三番目を「智慧」と言います。すべての物を真実のままに見る、正しい完璧な知識と理解が生じるよう訓練することを意味します。私たちは通常、何かを真実のままに正しく知ることができません。自分の思い込みから見て正しいだけ、あるいは世界が正しいと仮定しているだけで、真実ではありません。だから仏教には最後にもう一つ、理解を生じさせ、すべての物を真実のままに完璧に明らかに見られるよう訓練する「智慧」という実践規定があります。〔139〕

 「理解」と「明らかな見解」はタンマの面では同じではありません。「理解」は道理で考え、あるいはいろんな理由から推測する過程を通過します。「明らかな見解」はもっと遠く、理屈で考えることでなく、自分自身で経験して、あるい熟慮判断に依って、継続してそれに注目し続ける心があり、その結果それに飽き飽きして、本気でそれに夢中にならなくなるまで染み込んでいることでなければなりません。だから仏教で言う智慧は、現代の知識、現代の教育で行われているような理論から得た智恵という意味はありません。まったくの別物です。〔140〕

 仏教の智慧は何らかの方法で実際に体験し( Spiritual Experience )、実感として明らかに見、明らかに知ったことで、心に深く刻まれて薄れない物でなければなりません。だから智慧の方の熟慮は、それまでの自分の人生で経験したいろんなこと、少なくとも自分の心に衝撃が生じ、不変でなく、苦であり、自分でないすべての物に本当に倦怠させるに十分重みのある話を、熟慮する素材として使わなければなりません。〔141〕

 理論の系統で無常・苦・無我を熟慮する状態でいくら考えても、できるのは理解だけで、心に衝撃を受け、世界の物に倦怠する術はありません。心が飽き飽きして、それまで愛していた物への欲望が緩む行動状態が、ここで言う「明らかな見解」と良く理解してください。仏教では「明らかに見えれば必ず倦怠感が生じ、明らかに見える状態に止まっていることはない。明らかに見えると同時に、そのものに対する倦怠と欲望の減少が生じる」とハッキリと規定しています。〔142〕

 戒学は、私たちが平穏な暮らしをするために、心を正常にするのを援ける初歩の準備段階である学習、実践にすぎません。戒の功徳はいろいろありますが、一番重要なのはサマーディを生じさせることです。ブッダは幸福になるとか、天国の天人に生まれるなどの功徳を直接の目的とせず、サマーディを生じさせ、発展させることを直接の目的としています。戒は簡単にサマーディが生じるのを援けます。心を妨害する物がたくさんあれば、私たちの心はサマーディになれません。〔143〕

 サマーディ学は心を管理して、あるいは心を使って自分の義務を最高に有益に行わせることです。戒の段階は体と言葉の善い行動で、サマーディの段階は心の善い行動です。誤った考えや憂鬱、散漫などがなく、己の義務を行える状態にあることをサマーディと言います。〔144〕

 世界一般の利益に関わる部分でも、サマーディはどんな場合にも必要です。何をするにも、サマーディのある心でしなければ良い結果は望めないので、ブッダは、サマーディを大人物と呼ばれる人の状態としています。世界の面でもタンマの面でも、大人物にはサマーディが資質として身に着いていなければなりません。〔145〕

 小学生でも、サマーディである心がなければ計算はできません。このようなサマーディは天然の力の弱い段階で、今私が話している仏教のサマーディは、自然に身に着いているものより、更に深くする訓練をしたものです。だから訓練が終わると、心は能力と力と特別な特徴と、他にも色んな物がある心になります。〔146〕

 サマーディからこれくらいの利益を得られることを「自然の秘密をもう一枚知る段階まで来た人間」と呼ぶことができます。普通の人の能力以上の働きができるように、心を管理する方法を知っているという意味です。戒の段階はまだ上人法(人間として偉大な徳)と誇れるレベルと見なしませんが、サマーディ、定(四形禅定)、サマーパティ(五無形禅定)まで来れば上人法と見なすことができます。但し僧がこの上人法を自慢することは禁じられていて、自慢すれば場合によって「良い僧ではない」「僧にあらず」と言われます。〔147〕

 サマーディまで来たら、私たちは彼らより高度な道具があるので、結果として普通の人たちがしているよりはるかに良い仕事をするのに、できるだけふさわしいサマーディになるまで、投資して忍耐して、学んで実践しなければなりません。だから古くさいとか、バカらしいとか、時代遅れの迷信と片づけないで、興味をもってください。

 いつでも使い続けなければならない最高に大切なものです。このように火が点きそうな時代で、世界のいろんな物の回転が早ければ早いほど、ブッダの時代以上にサマーディが求められます。お寺の問題とか、信じ易い人の問題と迷って考えないでください。〔148〕

 次に「サマーディ学」と「智慧学」の関係について説明します。ブッダは『心がサマーディなら、当然すべての物が真実のままに見える』と言われています。心に義務を行なえる状態のサマーディがあるという意味で、心にこのような状態があれば、すべてが真実のままに見えます。〔149〕

 これはちょっと奇妙ですが、私たちが知りたいこと、あるいは片づけたい問題は、普段は心の中に隠れていて、自分で知ることはできません。つまり常に意識の深層( Subconscious : 潜在意識)にあり、取り出して片づけようとしても、心の準備が整っていない状態では出てきません。しかし心が正しいサマーディになると、つまりカンマニヨー(適業性)と呼ばれる状態で心が働く条件が整うと、笛や太鼓で追い立てなくても、何もしなくても心がサマーディになった後に、心の深層に溜まっていた問題の答えがひょこっと出てきます。〔150〕

 それでもまだ出て来なければ、もう一つ方法があります。自分が直面している問題に心を傾けて熟慮します。このようにサマーディの力で熟慮することを「智慧学」と言い、少なくとも智慧学に含めます。ブッダが大悟した日の前夜、縁起である鎖のように連なった「何が何か」を悟ったのも、述べたようなサマーディによってです。ブッダはこのことについて詳しく語られていますが、要旨をまとめれば「良いサマーディになると、心はその問題の熟慮に傾く」と言います。〔151〕

 すべては、サマーディと智慧は常に関わっていなければならないという説明です。しかし心が静かで涼しく、妨害する物が何もない良いサマーディの時、心に掛かっている問題の答えなどを考えることができるサマーディに依存している智慧は、時には私たちにまったく見えません。〔152〕

 しかし仏教では、ブッダはサマーディと智慧の関係を、それ以上に「サマーディがあってこそ智慧があり、智慧があってこそサマーディがある」と説かれています。心を管理して、自然にある以上のサマーディを生じさせるには、サマーディを生じさるいろんな心の行動に依存しなければならないので、智慧のある人は次第にサマーディを増やしていくことができ、サマーディが増えれば支援し合って智慧は更に強力になります。〔153〕

 智慧があれば、必ず明らかに見ることがあり、その結果、それまで愛して執着していたすべての物に倦怠や憐れみを感じ、それらから離れて行きます。まだ愛や執着や惑溺でいろんな物に突進していれば、仏教の智慧ではありません。止まるとか退くと言うのは、それらを投げ捨てたり、叩き壊したり、あるいは山へ逃げ込むなどの行動ではなく、特に心で止まって後退すること、心を奴隷にしていた物から離れて自由になることです。〔154〕

 すべての物に対する欲望が薄れて飽き飽きする結果はこのようです。自殺するとか、あるいは山へ入って修行者になり、すべてを焼き滅ぼすことではありません。外部はどのようかと言えば成り行き任せで、それにふさわしい因果で経過します。しかし、当然心の中は自由で、その後は以前のように何かの奴隷ではありません。これが「智慧の功徳」です。パーリ語で「ヴィムッティ=解脱」と言い、すべての物、特に自分が愛している物の奴隷から解脱して自由になります。〔155〕

 私たちは愛してない物、嫌いな物でも、それの奴隷になり、無視することができず、憎まなければならない奴隷になっていて、わざわざ嫌って、焦燥して苦になります。それは愛している物と同じように心を支配しますが、支配の仕方が違います。だからすべての物の奴隷というのは、当然満足も不満足も意味します。すべては、智慧ですべて物の奴隷から抜け出して自由になれると説明しています。〔156〕

 だからブッダは『人は智慧で純潔になる』と、極めて短い教えを残されています。戒、あるいはサマーディで純潔になれると言われたことはなく、智慧で純潔になれると言われています。智慧はすべての物から脱出させるので、純潔になります。

 脱出でなければ不純・不潔で、真っ暗で焦燥がありますが、脱出すれば純潔で清潔で、明かるく澄みきって静謐です。それは智慧の結果、あるいは智慧が最高の働きをしていると見せている状態です。どうかみなさん、三学の三番目の智慧学がどのようか、どれほど高いか、良く熟慮判断してください。〔157〕

 仏教の智慧は、四取を全部消滅させることによって、すべての物から自分を抜き出させる智慧です。四つの取は私たちを縛り付けている縄で、智慧はそれらのものを切断して、その後何かに執着させる物が何もないようにする刃物のようです。〔158〕

 述べたこの三つの実践項目が検証に堪えるかどうか、本物の学問か否か、誰もが実践するにふさわしいか、どうぞ熟慮してみてください。〔159〕

 続けて見ていくと、その宗教が人間の苦であるいろんな問題を解決したいと望んでいるなら、この三項目はどんな宗教とも矛盾しないと見えます。仏教は当然どんな宗教の敵ではありません。他の宗教よりいろんな物があり、特に四つの執着を捨てるために実践する三学の最後の項目である「智慧」があります。

 心をすべての物から自由にし、天国の天人や精霊、その他の神などすべての物の奴隷、あるいはその威力下に落ちません。これです! このように勇敢に完璧な自由を教える宗教は、他にありません。だから述べたような仏教の趣旨を良く理解してください。〔160〕

 仏教には他の宗教にある物はすべてあり、他の宗教にない物もあると事実が説明しているなら、仏教はすべての人の物、あるいはどの時代のどの人にも通用する普遍的な宗教と見ることができます。人間は誰でも同じ苦、同じ問題があります。生老病死による苦、欲望執着に支配蹂躙される苦があり、天人も人間も畜生も、当然同じ問題があるので、しなければなららないことも同じです。主犯である煩悩欲望、あるいは誤った執着を、何としても断ってしまなければなりません。これが普遍的な宗教であることの意味です。〔161〕




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