3.万物の普遍的な状態・三相





 この章では、すべての物は三相と呼ばれる状態、あるいは無常・苦・無我の三つがあることについて述べます。〔68〕

 無常とは不変でないこと、すべての物は常に変化している状態があり、変わらない物は何もないことを意味します。苦とはすべての物は苦の状態があり、見れば憐れを誘い、明らかな見解がない人の心を苦にするという意味です。無我とは自分がないことで、すべての物には自分という意味がないので、「これは自分」「これは自分の物」と捉えて良い状態は何もないという意味です。本当に正しく明らかに見えれば、すべての物には自分は無いという感覚が自然に生じます。迷って自分があるように見るのは、正しく知らないからです。〔69〕

 ブッダはこの三つの普遍的な状態について、他の教えよりも多く教えられていると知ってください。すべての教えを集めた頂点は、無常・苦・無我を見ることにあります。直接説明していることもあれば、他の言い回しをしていることもありますが、要旨は同じ真実の説明をしています。〔70〕

 すべの物は不変でない話は、ブッダ以前にも説かれていましたが、ブッダのように深く解説していませんでした。苦についても同じで、以前から教えられていましたが、ブッダの悟りのように十分に苦について知らなかったので、深遠でなく、理由の部分がなく、そして完璧な滅苦の方法を示すことができませんでした。

 自分がない話について教えているのは仏教だけです。これは「何が何か」を最高に知っている人だけが「すべての物には自分はない」と知ることができると説明して見せる物なので、何が何かを本当に最高に知り尽くした人物である、ブッダによってだけ教えられています。〔71〕

 この三相を明らかに見るために実践する方法は、非常にたくさんあります。明らかに見えるまで実践すれば、一つの観察項目に到達します。つまり執着する物は何もない、手に入れる物は何もない、なりたい物は何もないと分かるまで見えるようになりたくなります。

 要するに「何もいらない。何にもなりたくない」です。何を所有することであれ、何の立場になることであれ、それらは欺瞞であり、所有するべきでなく、立場になるべきでないと本当に見えれば、それが無常・苦・無我を正しく見ることです。一方「無常・苦・無我」と毎朝毎晩、何百回何千回唱えている人は、聞いたり唱えたりして見える物ではないので、何も見えないこともあります。〔72〕

 理論で考えたことは、「タンマが見える」と言うような「明らかに見る」ことではありません。タンマを見るには、理論で考えても見えないので、本当の心の感覚で明らかに見えなければなりません。自分自身を痛めつけている物、自分が惑溺している物、本当に触れ本当の心の感覚になっている物を、倦怠が生じ、憐れみが生じるまで熟慮して見ます。こういうのを「タンマが見える」あるいは「明かに見える」と言います。〔73〕

 このような明らかに見ることは、すべての物を手放せる最後の話まで、段階的に進歩していきます。一方毎日毎晩「無常・苦・無我」と唱え、あるいは熟慮していても、すべての物に倦怠、つまり「何も欲しくない、何にもなりたくない、何にも執着したくない」という感覚が生じない人を、「まだ仕方を知らない人」と言います。だから無常・苦・無我を見ることは「何も欲しくない」「何にもなりたくない」という感覚が生じるまで見ることとまとめます。〔74〕

 仏教には究極の言葉「空」があります。空っぽという意味で、自分である物としての意味はありません。私たちが「これは自分、これは自分の物」と全力で捉える意味はありません。すべての物は「それ」と捉えられる意味はない、と熟慮して見ることは本当の宗教であり、仏教の教えの実践の心髄です。すべての物に自分はないと明らかに知れば、仏教を最高に知ったと言います。〔75〕

 自分(実体)がないという一言で、無常・苦・無我のすべてをまとめるに十分です。常に変化していて、永遠不変な部分がなければ、空と呼ぶことができます。見れば憐れを感じるもので満ちていれば、私たちが執着するべき部分はないという意味です。熟慮して「それ自身の実体がある物として維持できる状態はなく、自然の法則で変転していく自然であり、それ自体と呼ぶことはできない」と見れば「自分がなくなった」と言います。〔76〕

 すべての物の空が見える人は、見えると同時に「欲しがるべきではない。なりたがるべきではない」という感覚が生じます。欲しくない、なりたくないという感覚だけでも、自分を支配する十分な威力があり、どんな感情、あるいは煩悩の奴隷になることはありません。この種の人は、その後悪事はできず、何かに惑溺して執着することも、魅惑する物に傾くこともないので、その人は当然常に自由な心があり、苦はありません。〔77〕

 この「欲しい物、なりたい物は何もない」と言うのは、ちょっと気の利いた言い回しです。ここで言う「欲しい」「なりたい」という意味は、陶酔や執着で、全心全霊で「欲しい」「なりたい」と願うという意味で、人は何も持たず、何にもならず生きていけるという意味ではありません。通常人は常に何かが必要であり、何かにならなくてはなりません。

 財産や妻子、田畑もなければならず、善人にならなければならず、敗者になったり勝者になったり、有利になったり、常に何らかの状態があるのに、なぜ仏教は「いらない」「ならない」と考えるよう教えるのでしょうか。〔78〕

 仏教は「何かを所有し、何かになることは世間の仮定の一つでしかなく、無知(無明)の威力で経過する」と教えているという意味です。第一義諦と呼ばれる最高の真理で言えば、人が手に入れる物、所有している物は不確実で、苦であり、実体がないので、人間は何かを所有したり、何かになったりすることはできません。しかし真実を知らない人は当然「私は手に入れた」「私は持っている」「私は何々である」という感覚になります。これは仕様がありません。〔79〕

 「要る」「(何かに)なる」という感覚が心を重くし、あるいは苦を生じさせます。「要る」「なる」というのは欲望の一つ、今持っている物、今ある状態を失いたくない、手放したくない感覚です。苦は「欲しい」「なりたい」という欲望、パーリ語でタンハーと呼ぶ物から生じます。〔80〕

 欲しがるのは、すべての物は欲しがるべきではないと知らないからです。それは本能に付いて来た誤解で、生まれたばかりの赤ん坊の時から欲望を知っています。そして結果は、欲望が叶うことも、叶わないこともあります。望みどおりの結果が得られれば欲望が増え、望んだとおりの結果にならなければ、その後望みどおりになるまで転げ回って何かをします。何かをすれば何らかの結果を受け取り、煩悩→行動→結果・報いの輪になって循環します。こういうのを輪廻と言います。〔81〕

 輪廻とは前生と現生と来生を循環することだけ、と早合点しないでください。より真実は、三つの物の間を循環する話、つまり欲望→欲望での行動→行動から何らかの結果を受け取り、そこで欲望を止めることができず、また何かを欲しがって行動し、そして結果が出、それがまた新たな欲望を刺激し、このように尽きることがない輪です。尽きることなく回転する輪なので、輪廻と呼びます。〔82〕

 人間が苦に耐えなければならないのは、この輪に繋がれているからです。この輪から抜け出せる人がいれば、確実に苦から脱せるということです(涅槃)。〔83〕

 貧しい乞食でも大富豪でも、大王でも皇帝でも、天人も梵天も、すべてこの輪に落ちていて、その人の欲望にふさわしい何らかの苦があります。だから輪廻の輪の中は大きな苦で満ちていると言うことができます。道徳や倫理はこの問題を解決できないので、高い教えである仏教の本物に依って、この問題を解決させなければなりません。すべては、ブッダが四聖諦の第二項で、直接欲望を苦の原因と規定しているように、苦は欲望から生じると見ることができます。〔84〕

 欲望には三種類あります。最初の欲望を愛欲と言い、形・声・臭・味・触、何でも可愛いくて満足させる物を欲しがることです。二番目は有欲で、ああなりたい、こうなりたいと、自分がなりたいように望むことです。三番目は無有欲で、ああなりたくない、こうなりたくないと望むことです。この規定は、今述べた三種類以外に欲望があるなら、誰でも反論又は証明してくださいと挑むことができます。〔85〕

 みなさんは「欲望がある所に焦燥があり、欲望で行動すれば当然行動の一部として苦がついて来る。結果が出ても欲望を止めることができずに欲望し続け、その後も心の苦は続く。まだ欲望に支配されているので、欲望の奴隷でなければならないから」と見えます。以上の理由で、悪人は悪事をしたくて悪事を働くので、悪人の苦があり、善人は善人式に善行をしたがると言います。〔86〕

 しかしこの項目は、善行を止めなさいと教えている、と早合点しないでください。ここでは、苦にはいろんなレベルがあり、普通の人には理解できない緻密な物まであるので、「善行だけでは十分ではない。善以上の、あるいは善を越えた物、心をすべての種類の欲望の奴隷であることから脱出させることをしなければならない」と指摘している、ブッダのような人物の知性に依存しなければならないと指摘しています。これが、世界のどの宗教にも負けない仏教の要旨です。この部分で競合、あるいは比肩できる物はありません。だからしっかり憶えておかなければなりません。〔87〕

 述べた三種類の欲望に勝つことが苦からの解脱、あるいはすべての苦の消滅です。〔88〕

 私たちは、どうすれば欲望を撃退、あるいは制圧、あるいは根こそぎ抜いてしまうことができるでしょうか。答えは、欲しがるべき物は何もないと見えるまで熟慮して、「手に入れた時、その立場になった時、その人に何の苦ももたらさない欲しがるべき物、なりたがるべき物があるだろうか。何かを手に入れて、あるいは何らかの立場になって、気苦労を伴わない物があるだろうか」と、無常・苦・無我を見ることです。〔89〕

、  妻や子を持つことが心や体を軽快にするか、それともいろんな重荷を増やすか。職位が上がることが平安をもたらすか、それとも重責をもたらすか、考えて見てください。この意味では、すべては重荷や重責をもたらすと簡単に見えます。なぜでしょうか。それはすべての物は無常であり、苦であり、自分がないので、重荷でしかないからです。

 何かを手に入れれば、自分の物であり続けるよう、自分の思い通りになるよう、あるいは役に立つよう対処しなければなりませんが、通常それらの物は不確実であり、苦であり、誰の物でもないので、つまり誰かの期待と関係なく、その物の性質や原因で変化していくだけなので、私たちの努力は変化という名の自然の法則との戦い、あるいは抵抗になります。だからすべての物を維持するため、あるいは自分の望みどおりに変化させるために、困難や苦が生じます。〔90〕

 すべての欲しがるべきでない物に対処する方便もあります。それは「煩悩欲望があれば、何かを手に入れ、何かになった時の感覚は当然一つの状態になり、煩悩がなく、何が何かをすべてを正しく見る智慧だけがあれば、その人が得た時、なった時、手に入れた時の感覚は別の状態になる」と見えるまで熟慮します。〔91〕

 簡単な例は食べることです。欲望、あるいは美味しくしたい望みで食べれば、欲望でなく常自覚で食べる人、あるいは何が何かを知っている人の食べ方と違います。同じ人間でも、一人は欲望で食べ、もう一人は常自覚で食べるので、当然食べ方が違い、食べる動作や感覚も違い、食べることの最終的な結果も違います。〔92〕

 私たちは、欲望や味覚の欲がなくても食事はできると理解しなければなりません。煩悩欲望がまったくないブッダや阿羅漢たちも、何でもでき、どんな立場にもなれ、欲望で行動する私達よりたくさんのことをすることができました。ブッダは何の威力で仕事をしたのでしょうか。私たちのように、ああなりたい、こうなりたい欲望でしたでしょうか。〔93〕

 答えは、ブッダは智慧の威力で、何が何かを最高に明らかに知る智慧でしたので、何でも欲望でする私たちと違います。私たちの結果はほとんど絶え間ない苦ですが、ブッダは何も欲しくなく、何にもなりたくないので、得られた結果は、ブッダの慈しみによって他の大勢の人達に分配されました。無為に過ごさず、これをすべきと教える智慧があったので、仏教を今日まで維持継承することができました。そして他にもいろいろ利益になることをしています。〔94〕

 煩悩欲望のない体と心は、智慧で食べ物を求めて摂り、以前のように欲望煩悩で求めて摂りません。ブッダや多くの阿羅漢の足跡を追って、苦から脱したいと望むなら、煩悩欲望で行動しないで、何をするにも智慧でするよう、自分を訓練しなければなりません。勉強している学生なら、「非常に学ぶべき」と善悪正誤を弁える心で学び、何らかの職業に就いていれば「誰でもしなければならないことだ。そして知性が与えてくれる冷静さで最善を尽くすべきだ」と弁えて仕事をします。〔95〕

 欲望ですれば、している間も焦燥し、し終わった後も苦ですが、管理する智慧の威力ですれば苦はありません。結果はこのよう違います。だから私たちは「すべての物は無常であり、苦であり、自分でなく、欲しがったりなりたがったりすべきでないので、それらの物と関わるなら智慧で関われば、私たちの行動が欲望煩悩の井戸に落ちることはない」と、常に知っておかなければなりません。〔96〕

 知性ですれば、最初から最後まで苦はありません。心には「ほしい物、なりたい物」という執着がなく、空っぽの心で伝統習慣、あるいは法律に任せます。財産として土地などを所有していても、心配で苦しくなるほど執着する欲望を感じる必要はありません。法律が所有権を守ってくれるので、くよくよ心配しなくても、土地はどこへも逃げません。〔97〕

 奪いに来る人がいても、知性で抵抗防衛できるので、欲望煩悩で抵抗して、火である怒りで熱くなる必要はありません。法律の威力に依存して抵抗すれば、苦なしに維持して守ることができます。しかし本当に手を離れてしまったら、私たちに欲望があろうとなかろうと、どうにも仕様がありません。すべての物は無常であり、常に変化しているので、そう考えてしまえば苦はありません。〔98〕

 「なる」も同じです。あれになった、これになったと執着する必要はありません。本当はなって楽しいものなど何もなく、すべては何らかの苦をもたらすからです。〔99〕

 ヴィパッサナー、あるいは直接タンマの実践と呼ぶ、私たちが熟慮しなければならない簡単な方便は「なりたい物、あるいはなって楽しい物など何もない」と見ることです。みなさん。なったら楽しい物があるだろうかと自問して見てください。子、父親、母親、夫、妻、雇用主、従業員など、楽しいでしょうか。人間は楽しいでしょうか。梵天なら楽しいでしょうか。〔100〕

 もしあなたが「何が何か」を本当に知っていれば、何も楽しい物はありません。私たちは行動することに耐え、立場に耐え、任務に耐え、気づかずに「得ること、なること」にも耐えているのに、なぜわざわざ自分の体や命を差し出して夢中になって求め、夢中になって何かになり、煩悩欲望の威力でするべきでしょうか。私たちはそれらについて正しい知識を持つべきです。そして智慧で生活し、苦が最小限か皆無の状態で、それらの物と関わってしまえれば最善です。〔101〕

 もう一つ、友達でも、妻や子や身近な人でも、同じ世界で生きる人達に「すべてはこうだ」と、私たちと同じ正しい理解を持たせれば、家庭内、町内、世界中に妨害はなくなります。それぞれに何にも、あるいは互いに溺れて執着しない心があり、「本気で執着しなければならない物など何もない」と明らかに見る智慧で生活できます。〔102〕

 どうぞみなさん、すべての物は不変でなく、苦であり、本当の自分はないので、全ての気力で迷うべきでないという感覚を持ってください。「智慧で知る人は正しい見解がある」と言われる智慧で自制するべきです。そうすれば本当の仏教教団員と呼ぶにふさわしいです。〔103〕

 一度も受戒や出家をしたことがなくても、本当のブッダ・プラタム・僧に到達した人は、ブッダ・プラタム・僧と同じ心があります。欲しい、なりたいという執着がまったくない、純潔で明るく静かな心があり、「欲しくない、なりたくない」と、何物にも執着しないことで、その人は「何も欲しくない、なりたくない」という感覚が生じるまで無常・苦・無我を熟慮して見ることに依存して、簡単に完璧に本当の仏教教団員になれます。〔104〕

 最高に苦しい悪は、煩悩欲望で欲しがること、なりたがることから生じ、少し軽い悪は、軽い煩悩欲望ですることから生じます。すべての善は上品で善い欲望でし、善い方向の「欲しい、なりたい」です。最高の善も最高に上品な煩悩欲望でするので、人は悪と見なさないほどですが、それでもまだすべての苦から脱することはできません。

 苦から完璧に脱した人である阿羅漢は、欲望の威力による行動がなくなった人になり、善も悪も行うことはできません。できるのはすべて善悪を越えたことだけで、善悪の支配より上にある自由な心があるので、苦はまったくありません。〔105〕

 仏教の教えはこのようです。みなさんに出来ても出来なくても、望んでも望まなくても、滅苦の流れはこのようです。今日はまだ望まなくても、後で必ず望む日が来ます。悪を捨て終わって、精一杯善を行っても、心は幾つかの上品な欲望で、まだ憂鬱です。そして欲望より上に行く努力をする以外に、善い物でも悪い物でも、欲しがることなりたがることを越える以外に滅苦の方法を知らないので、欲望を完全になくさなければなりません。そうすればすべての苦から脱すことができます(涅槃)。〔106〕

 要するに何が何かを知り尽くすことは、すべての物は無常であり、苦であり、自分で(実体)はないと知ることです。本当に知れば、「欲望で何かになりたくない」という感覚が心に自然に生じます。しかし「得ること、なること」と呼ぶ何らかの物と関わらなければならない時は、欲望の威力で関わらないで、常自覚の威力、智慧の威力で関わります。だから苦はまったくありません。〔107〕





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