4.執着の威力(取)





 私たちは無常であり、苦であり、実体がないすべての物から、どうしたら自分を抜き出せるでしょうか。答えは「何が欲しがらせて執着させるのか、学ばなければなりません」。根源を知れば、執着を断ってしまうことができます。すべての物に執着する煩悩を、仏教では取と言い、四つに分類しています。〔108〕

 1.欲取(愛欲、あるいは一般の愛している物に執着すること)は、私たちは普通、形でも声でも臭いでも味でも接触でも、可愛い物、満足すべき物に夢中になることに見ることができます。人間の本能は、当然この五欲を味わうことに愉しさや陶酔、あるいは美味しさを感じます。仏教の教えでは、五欲にタンマーロム(想念)を加えて六欲にしています。タンマーロムは心に浮かんでくる想念で、現在・過去・未来でも、外部の物でも内部でも、ただ考えるだけでも、味わっている時心の中に美味しさと陶酔を生じさせます。〔109〕

 人が生まれて六欲の味を知ると、その感情に執着し、次第に普通の人が教えることはできないほど、執着が強くなります。だからそれらの物に正しい知識と理解がなければならず、正しく対処しなければならない重大な問題です。でなければ執着は破滅に導きます。一般の人の破滅を熟慮して見てください。普通は何かしら、述べたような愛す物に執着した結果と見ることができます。

 凡夫がしていることは何でも、すべて根源は愛欲にあります。人が愛し合い、争い合い、憎み合い、妬み合い、殺し合うのは、あるいは自殺も、必ず愛欲に原因があります。〔110〕

 人が必死で働かなければならないこと、探求、あるいは何をするのも、問題を手繰り寄せていくと、その人は何かを手に入れるためにしていることが分かります。その人が一生懸命勉強して職業に就くのは、職業から得られる結果が欲しいからです。それで自分に奉仕する形・声・臭・味・接触の快さを探めます。布施や天国へ行けるよう祈願する話も、愛欲の望みが根源にあります。要するに世界の複雑困難な物はすべて愛欲が根源です。〔111〕

 愛欲にこれほど凶悪な威力があるのは、欲取の威力、つまり愛欲に強く執着するからです。ブッダはは直接世界に関わりのある問題の譬えとして、世界の破滅でも何でも、特に愛す物に執着する欲取が原因と言われました。自分がどれくらい愛欲に夢中になっているか、どれほど強いか、本当に捨てることができないのか、自分自身を熟慮するべきです。〔112〕

 世界の事件で言えば、愛欲への執着は家族を愛させ、財産や名声の探求に勤勉にさせるので、大きな利益がありますが、タンマの面から見れば、隠れた苦悩の発生源と感じます。だからタンマでは、愛欲への執着は、最後にはすべて捨てなければならならず、捨てればすべての苦が消滅すると教えます。〔113〕

 2.見取(自分に以前からある考えに執着すること)は何とか見え、難しくなく理解できます。私たちがこの世界に生まれると、執着するためにある見解を持つようしつけ教育され、誰も簡単には譲れません。これをディッティ(誤った見解)と言います。自分の考えや見方に執着する状態は、自然の成り行きに任せて、あまり非難し合いません。

 そして禁じられるものでもありませんが、愛している物への執着に負けない凶悪な害があります。自分の以前からの見解に頑固に執着していれば、自分の見解をより正しく、より善く、より高いものに、つまり誤った見解から正しい見解、より正しい見解、そして最後には聖諦を知る類の最高の見解になるまで、調整しなければならない段階かも知れません。〔114〕

 頑固な見解にはいろんな原因がありますが、ほとんどは宗教教義や習慣に関わりがあります。頑固な見解は個人の部分で、人が少しずつしつけられて増えてきた風俗習慣のように多くはないので、まだそれほどではありません。〔115〕

 このような見解は無知(無明)から生じます。知らなければ自分に前からある愚かさで勝手に理解し、「これは目を欺く幻影にすぎず、無常で、苦で、無我だ」と見ないで、「これは可愛いから欲しい。これは永遠に変わらない幸福」と見ます。自分が理解して来たものは何でも間違いと認めず、時には自分で間違っていると感じているような時でも譲りません。〔116〕

 このような依怙地は自分にとって大敵、あるいは障害と見なします。それは人を善い方向へ変わらせること、あるいは以前から信じている誤った宗教や信仰を改めるのを不可能にします。〔117〕

 この問題は、当然まだ低い宗教を信仰している人達たちに生じます。自分でも低くて間違っていると知っていても、先祖代々信奉してきたと信じてしまうので、変えることができません。本当に言い分けにする理由がなければ「ずっと信奉してきたから」と言います。以上の理由により仏教では、自分の古い考えに執着することは凶悪な煩悩であり、非常に危険な物の一つと見なします。最高に無くす努力をしなければ、何も善くなりません。〔118〕

 3.戒禁取(目的を誤った勤めや実践に執着すること)は理由もなく、永い間継承されてきただけの迷信、あるいは人が好んで神聖と呼ぶ物、変化しないと考えられている物に関わる行動に執着することを意味します。〔119〕

 タイ人全般も他の民族に劣らず、この種のものをたくさん信じています。お守りや霊験のある物、いろいろなマジナイもあります。朝起きて聖水で顔を洗ったり、排泄するにもあっちに顔を向け、こっちに顔を向け、食事をするにも、夜寝るにもマジナイや儀式をしなければなりません。幽霊やお化け、精霊や聖木、霊験のある物を信じるのは、極めて理由のない行動です。理由を考えたこともなく、たぶんあるのは、本で読んで執着したか、慣習になっているので変えたがらないだけです。〔120〕

 自分は仏教教団員だ、清信士、清信女だと主張している人でも、一つや二つはそういった慣習があります。ブッダの弟子、出家僧と名乗る人でも同様に取で執着しています。更に神様や天人、霊験のある神聖な物を崇拝する宗教や教義の人なら、その種の物を非常に信仰します。仏教徒にはそのようなことはあるべきではありません。〔121〕

 いずれかの項目のタンマを実践する時、本当の目的を知らず、理由も考えず、霊験がある物と信じて祈願をするだけなので、これらの人たちは持戒するにも、タンマの実践をするにも、昔からしてきたような伝統で、手本どおりにするだけです。理由も知らずに習慣になるまで行動するので、解決できない類の強い執着が生じます。こういうのを誤って伝承されてきた実践、あるいは理由のない迷信に執着すると言います。〔122〕

 現在行動されているヴィパッサナーカンマターン(観業処)やサマタカンマターン(止業処)も、終始、本当の目的や理由を良く知らないですれば、目的を誤った執着の威力で経過しなければなりません。疑うまでもなく愚かさの一種です。〔123〕

 五戒、八戒、十戒、あるいは何戒でも、霊験のある人や神聖な人、神通力のある人になるために遵守すれば、戒禁取の威力でする目的を誤った勤めになります。仏教以外の奇妙な行動は言うまでもありません。だから細心の注意をしなければなりません。〔124〕

 仏教の教えでの実践は、煩悩を消滅させる見方が生まれた時から、結果に満足することまで正しくなければなりません。そうすればその行動は常軌を逸した理由のない迷信にならず、そして時間の無駄になりません。〔125〕

 4.我語取(自分という執着)である自分という執着は、非常に重要な、そして隠れた問題です。すべての動物にはどうしようもなく、自分という感覚があります。動物の最初の本能であり、他の本能の根源なので、食べ物を探して食べる本能、危険と戦う本能、危険を回避する本能、生殖本能等々は、すべて自分と感じる本能に依っています。自分への執着があるから死にたくなく、だから食べ物を食べて体を養い、生き抜くために闘い、あるいは生殖します。〔126〕

 自分がいるという執着は、すべての動物にあります。そうでなければ危機を脱すことはできません。しかしそれは食べ物を探すにも、闘い生殖するにも、何をするにも苦を生じさせるので、すべての苦の根源と言います。〔127〕

 これについてブッダは、次のような要旨を述べられています。『執着のある人が掴んでいるいろんなもの、それが苦、あるいは苦の根源』。あるいは『人が取で執着している体と心は苦』。〔128〕

 この取が命の発生源であり、いろんな苦の発生源です。『命は苦。苦は命』というブッダの言葉は、こういう意味です。命と苦の発生原を知ることは、もっとも深遠なこと、知るべきことを知ることと捉えるべきです。苦を完全に排除できる道なので、これは世界のどの宗教にも見られない、仏教独自の知識と誇れるものです。〔129〕

 取に関して可能な限り最大の利益のある実践方法は、執着、特に我語取について知ることに依存しなければなりません。それは命の根源であり、自然に生じ、誰に教えられなくとも自然に、それ自身にあるからです。〔130〕

 人間や動物の子が母親の胎から生まれた時、既にこの本能があります。子猫のような小さな動物でも、人が近づくとフーと威嚇することを知っていると見ることができます。心の中に自分である物があるので、威力を表すこの取を禁じることはできません。一つだけできるのは「仏教が教える方法で断ち切る」と言われるように、タンマの面の知識で発展し、この本能に勝つまで最大限に管理することです。〔131〕

 まだ普通の人、凡夫なら、この本能に勝つ方法はありません。最高位の聖人阿羅漢だけがこの本能に勝つことができます。これはすべての動物にとって重大な問題なので、小さな問題ではないと理解しなければなりません。全身仏教教団員になりたいなら、つまり仏教の利益を全部受け取るには、これを最大限に学ぶことで、これに関わる誤解に勝たなければなりません。そうすれば苦は段階的に減っていきます。〔132〕

 日常的に私たちに関わる物の真実を知ることは、偉大な善、あるいは最高の賢さの一つと見なします。だからみなさん、是非是非「自然では執着する価値も、手に入れる価値も、維持する価値もないのに、誰もがこれらの奴隷になっているのは、この四つの取の威力があるから」と説いて見せている、この四つの取に興味をもってください。だからこの危険で害のある物について、最高に理解しなければなりません。

 これらの危害は火のように危険な姿を見せてなく、武器や毒薬のように簡単に分かりませんが、すべては甘い味、芳しい香り、美しい姿や美しい音色の中に隠れています。〔133〕

 このような状態で近づいて来る時、私たちが気づく、あるいは支配するのは困難なので、ブッダの知性と知識に依存しなければなりません。そしてそれらの誤った執着が智慧の威力下にあるよう、学んで実践して管理すれば、苦のない生活をすることができます。あるいは苦を最小限にして職務を行うこと、あるいはこの世界で清潔、明るさ、穏やかさがある、静謐な状態で生きることができます。〔134〕

 まとめるとこの四つの取は、仏教教団員、あるいは仏教の要旨を知りたいと望む人は、何としても理解しなければならない問題です。仏教で梵行を維持する目的は、これらの間違った執着から心を解脱させるためだからです。みなさんもパーリ(ブッダの言葉である経)の阿羅漢に到達することについて述べている経の最後は、どれも「心が取から解脱する」という言葉で終わっているのを見ることができます。

 心が執着から解脱すれば、二度と世界の奴隷に縛り付ける物、あるいは輪廻に縛りつける物はないので、話は終わります。あるいは出世間になり、世界を脱します。以上の理由で、間違った執着から解脱することが仏教の最も重要な要旨です。〔135〕




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