2.仏教は万物の理を教える





 宗教という言葉は「道徳」という言葉より意味が広く、道徳は人間の幸福や利益になる一般的、基本的な実践項目という意味で、ほとんどの宗教で一致しますが、宗教は一段高い生活規則で、それぞれの宗教によって違います。

 道徳は一般社会の決まりを守らせ、他人や自分を苦しめない善人にしますが、すべての項目を完璧に実践しても、生老病死に起因する苦から逃れることはできません。煩悩が暴れまわる苦から脱すこともできません。道徳の威力は、欲や怒りや迷いを滅ぼす前に、生老病死に関わる苦を滅ぼす前に、終わってしまいます。〔40〕

 宗教の限界はもっと遠く、特に仏教は直接煩悩を撃退すること、生老病死に起因するさまざまな苦を消滅させることを目指しています。これは、宗教と道徳はどのように違うか、仏教が一般の道徳よりどれほど深遠かを表しています。このように理解すると仏教に興味が生じます。〔41〕

 仏教は「何が何か」を知るための実践規定と知識です。仏教を早く簡単に理解するために、この定義に関心をもってください。〔42〕

 みなさんは「何が何か」を知っているかどうか、熟慮してみてください。自分とは何か、人生、仕事、職業、お金、物、名誉、名声とは何か知っていても、自分は最高に知っていると主張できる人がいるでしょうか。本当に何が何かを知っていれば、当然すべてに誤った行動はありません。正しい行動だけをしていれば、苦が生じることは絶体にありません。

 今私たちは、まだ何が何かを知らないので、多かれ少なかれ間違いをし、その分だけ苦が生じます。仏教のタンマの実践規則は、「すべての物は何か」を知るための実践です。本当に明らかに知れば、その知識が煩悩を消滅させるので、当然いずれかの段階の、あるいは最高の聖向聖果に達するという意味です。〔43〕

 「すべての物は何か」を本当に知れば、自然に倦怠と、欲望の弛緩と、苦からの解脱が生じます。私たちは誰でも、何が何か知っていない段階、特に無常や無我を知らない段階から実践の努力を始めます。この時、迷って愛して喜んでいる物は、無常であり、苦であり、無我であることを知らないので、それらの物を愛して夢中になって執着します。

 仏教の手法で真実を知れば、すべての物は無常であり、苦であり、無我であり、本当に関わるべき物は何もないと明かに見えると同時に、心はそれらの支配していた威力から解脱します。〔44〕

 この定義は、みなさんが自分の実践に使うにふさわしく、そして十分な定義だと主張させていただきます。三蔵にあるブッダの教えのすべては、四聖諦の四項と、この定義がどれだけ一致するか照合するために、「何が何か」について言及しているだけだからです。〔45〕

 四聖諦の第一項は、作られた物はすべて苦であると説きます。これは直接「すべての物は何か」を教えています。すべての物は苦の基盤ですが、誰も「すべての物は苦」と知らず、見えないので、誰もがそれらを欲しがります。それは苦であり、欲しがったり所有したり夢中になったりするべきではないと知れば、その人は欲しがりません。〔46〕

 四聖諦の第二項は、無明で欲しがることが苦の原因であると説きます。すべての人がまだ、欲望が苦の根源と知らず、見えず、理解しないことが、あれが欲しいこれが欲しいと、何でも欲しがる原因です。無明で欲しがることは何かを知らないからです。〔47〕

 四聖諦の第三項は、滅尽、あるいは涅槃は欲望がすべて消滅すること、苦がないことと説きます。どこででも到達できるものなのに、つまり欲望が消えた所にあるのに、多くの人はまったく知りません。これは「何が何か」を知らないことです。だから欲を消滅させようと望む人、涅槃を望む人は誰もいません。涅槃とは何かを知らないからです。〔48〕

 道諦と呼ぶ四聖諦の第四項は、欲を消滅させてしまう方法です。このような行動をすれば欲望が消えると理解できる人、欲望を消滅させてしまうことができる、八正道に興味のある人は誰もいません。自分の拠り所になる物は何か、何を必死に探究すべきかを知らないので、この世界の人間の学問の中で最も素晴らしい学問知識である、ブッダの八正道に興味がありません。これがぞっとするような「何が何かを知らないこと」です。〔49〕

 すべては、四聖諦は「何が何か」を、残らず明らか見るよう教える知識と見ることができます。願望の話では、願望と戯れれば苦があると教えています。私たちは逆らって願望と戯れるので、その結果苦に満ちています。これが「何が何か」を真実のままに知らない愚かさです。だからすべての実践が間違いになります。たまに正しい行動があっても、少なすぎます。そして多くは欲望煩悩のある人から見た正しさで、自分の望みどおりになると、それを正しい実践と見なします。こういうのはタンマの方では正しいと見なしません。〔50〕

 ここで仏教の核心、あるいはアッサジガーターと呼ばれるパーリ(ブッダの言葉である経)について熟慮してみます。アッサジが出家前のサーリプッタに出会った時、サーリプッタが仏教の要旨について「ごく簡単に言うと、どのようですか」と質問すると「生じさせる原因があって生じた物は何でも、如行様はその原因を説明なさいます。原因が無くなったことによる消滅も説明なさいます。偉大なサマナはこのようにおっしゃいます」。

 これは「すべての物事には原因があり、その原因が消えるまでそれが消滅することはない」と教えています。これは「何かを永遠に変わらない物と見てはいけない。あるのは原因があって生じ、原因によって発展し、原因が終われば消滅する物だけ」という教えです。だからこの世界のすべての現象は、原因によって作られた物ばかりで、休まず加工する自然の威力で、すべての物は休まず加工され、変化し続けています。〔51〕

 仏教は「すべての物には実体(あるいは自分)はない。あるのは加工することと、その中にある苦だけ。自由がないので、原因の威力で変化しなければならない。苦がなくなるのは止まる時で、止まれるのは、変化させる原因が消える時」と、私たちに教えています。これは、知性のある人が教えられる最高に深遠な「何が何か」で、仏教の本当の要旨と見なします。

 これは「すべての物は仮の物で、好いたり嫌ったりするほど執着してはいけない。心を本当に自由にできれば、つまり原因の威力から出てしまえれば、それが原因の消滅で、その後は好んだり嫌ったりして苦になる必要はない」と教えています。〔52〕

 もう一つ、ブッダはどんな目的で出家なさったか、ブッダが出家した目的を観察して見るよう指摘したいと思います。これに関わるブッダバーシタ(ブッダが言われた言葉)は、「何が善か」を探究するために出家したと明言されています。ここでの善とは、最高に正しい知識、特に『苦は何か、苦の原因は何か、滅苦は何か、滅苦に至る方法は何か』を知るという意味です。本当に完璧に正しく知ることが賢さであり、最高の知識だからです。だから何が何かを完璧に知ることが仏教です。〔53〕

 三相はもう一つの知らなければならない重要な教えで、「無常・苦・無我」の短い三項があります。これを知らなければ仏教を知らないと言います。無常・苦・無我は、すべての現象は不確実であり、苦であり、自分ではないという真実を開示しています。〔54〕

 無常というのは、すべての物は常に変化していて、一時も留まっている物はないということです。苦というのは、すべての物はそれ自体に苦に耐えている状態、恥ずべき、嫌悪すべき疎ましい状態があるという意味で、無我とは「これが自分」「これは自分の物」と言える物は何もなく、執着すれば苦にならなければならないと言います。

 そして、すべては火よりも危険です。赤々と燃えている火なら誰も近づきませんが、すべての物は見えない火なので、自分から進んで近づいて抱きしめるので、永遠に苦と言います。これは、三相の面からすべての物は何かを教えます。仏教は私たちに「何が何か」だけを教える知識と実践規定と、明らかに指摘して見せています。〔55〕

 すべての物は何か、知らなければならず、そしてどう実践するかについて述べたら、ならばどうすれば自然の法則と一致するでしょうか。もう一つパーリの教えにオーワートパーティモッカと呼ぶものがあります。すべての教えの中の代表である教えという意味で、「一切の悪を行わない」「精一杯善を行う」「心を憂鬱のない純潔にする」の三項目があります。これは実践のための教えです。〔56〕

 すべての物は無常であり、苦であり、無我なので、惑溺、執着してはならないと知ったら、私たちはすべてに対して注意深く、正しく振舞わなければなりません。つまり悪を避けるとは煩悩による貪りを捨てるという意味で、悪を行うために風俗や道徳に反した投資をしません。もう一つは智者が善と仮定している、仮定の善だけを行います。しかしこの二つは道徳の段階でしかなく、心を憂鬱にする物が何もない、純潔で清潔な心にする第三項目が直接仏教です。

 心を自由にすることを意味し、心がまだいろんな物に支配されていれば、心は清潔純潔になれません。心が自由になるには「何が何か」をとことん理解しなければなりません。よく知らなければ、まだ何かを、迷って愛したり憎んだりすることは避けられないので、本当の心の自由と言うことはできません。人間にあるのは、満足と不満の二種類の感情だけです。〔57〕

 人が感情の奴隷に落ち、自分自身に自由がないのは、感情、あるいはすべての物は何かを知らないからです。満足は、何かを掴んで自分に引き寄せる状態で、不満は、何かを押して遠ざける状態です。このような二種類の感情があるうちは、何らかの物を愛したり憎んだりするので、すべての物の支配から純潔になる術はありまぜん。心はまだ自由ではないということです。

 以上の理由により、最高レベルの仏教の教えでは、可愛い物、憎らしい物に執着することを否定し、善や悪に執着することまで否定します。そうすれば心がすべての物から自由になり、いろんな感情より上にある純潔になります。〔58〕

 他の宗教は、悪を避け、善にだけ執着させることを好み、善に夢中にさせ、究極の善である神様に執着させ、愛させます。仏教はそれよりはるかに遠くまで行き、自分にも何にも執着させません。善への執着は初等、または中等の正しい実践でしかなく、もっと高い実践をする時は駄目です。初めに悪を避け、次に精一杯善を行い、そして高い部分では善悪の支配より上に心を浮かばせます。〔59〕

 善の結果に夢中になることは、まだ完全な苦からの脱出ではありません。悪人には悪人の苦があり、善人には善人の苦があるからです。天人のように善でも天人の苦があり、梵天にも梵天の苦があるので、苦が完全に無くなって善と呼ぶものより上に行った時、ロークッタラ(出世間)になります。聖人になってしまい、最高に高くなった人を阿羅漢と呼びます。〔60〕

 仏教とはどんな意味でしょうか。「ブッ」とはブッダのこと、ブッダとは知る人、仏教とは、知る人である智者の宗教という意味で、仏教徒とは智者の宗教で実践する人という意味です。知るとは何を知るのでしょうか。すべてを真実のままに知ることです。仏教とは「何が何か」を教える宗教、本当の知識に関わる宗教と言うことができます。

 だから私たちは、自分で知るまで実践しなければなりません。すべてを知り尽くせば、心配しなくても、煩悩欲望はその知識で消滅し、無知(無明)は知識(明)が生じた途端に消えます。だから明を生じさせるためのいろんな実践項目があります。〔61〕

 みなさん、実践して「何が何か」を知ることで仏教に到達する道だけを深く心に刻んでください。お願いするのは、本当に明らかに知る、正しい知識であっていただきたいだけです。世界の知識のように善くない物を善いと迷い、苦を招く物を幸福と迷う、中途半端な知り方にしなければ、真実がだんだん見えてきます。それが本当の仏教、正しい仏教を知ることです。〔62〕

 この方法で仏教を学べば、三蔵に夢中になっているパーリ語の段のある僧がまだ到達できない間に、文字を知らない薪売りでも仏教に到達することができます。多少知性のあるみなさんなら、きっと熟慮して、すべてを真実のままに知ることができます。だから何らかの苦に襲われたら、それはいったい何なのか、生じた苦、自分自身を熱く焼き炙る苦はどこから来た何なのか、明かに理解できるまで学ばなければなりません。〔63〕

 みなさん、サティで待ち伏せして、述べた状態で注意深く、自分に生じて来る苦を捕え、意識し、熟慮すれば、それが仏教を最高に良く理解する道です。三蔵で学ぶのとは比較になりません。語学や文学の面で三蔵を夢中になって学んでも、何が何かを知る術はありません。

 三蔵は「これはこうで、あれはこうだ」という説明で溢れていても、彼らはオウムや九官鳥のように聞いて記憶し、暗誦できますが、すべての物の真実に到達できません。彼らが熟慮して、自分自身の心や人生の問題を見て、煩悩、自然の苦、彼ら自身に関わる本物の苦を理解する以外は。そうすれば本当の仏教に到達できます。〔64〕

 三蔵を読んだことも、三蔵について聞いたこともない人が、苦が生じて心が炙られる度に、詳細に熟慮して見れば、それを「その人は三蔵を直接学ぶ」、そして「三蔵を開いて学ぶより正しく良く学んでいる」と言います。

 毎日三蔵を撫で回していても、三蔵にある涅槃に導くタンマを知らなければ、自分があり、自分を使い、自分が実践するのと同じなので、自分自身に振り掛かって来るさまざまな問題を解決することはできません。まだ苦があり、まだ苦を生じさせる原因である欲望があり、年齢が増すにつれて増えていきます。それは自分自身についてだけ知らないからです。〔65〕

 まだ自分に被さっている全身全霊も知らずに、三蔵に隠されている深遠な真実を知るのは、何より困難です。だから方向を変えて仏教を学んでください。あるいは本物であるこの体と心を含めたすべての物から、そして「何が何か」だけを知らないから望み、望みによる行動があり、そしてその結果が新たな願望を育てて際限なく輪廻を繰り返す、あるいは苦の海を泳ぎ回らなければならない人生から、仏教を知ってください。〔66〕

 まとめると、仏教は「何が何か」を教える知識と実践規定です。何が何かを本当に正しく知ることができれば、誰に教わらなくても、あるいはアドバイスする人がいなくても、それに対して自分で正しく行動できます。

 そして煩悩は、自然に無くなります。私たちは煩悩が消えると同時に、いずれかの段階の聖人になり、何をしても誤りがなくなると同時に、人間が得るべき最高に善いもの、あるいは人が好んで言うところの涅槃に自力で到達することができます。何が何かを最高に正しく本当に知る知識があるだけで。〔67〕





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