(第一義諦による母の恩の考察)

 タンマにご関心のある善男善女のみなさん。今日の講義は「母の恩について第一義諦による考察」と題してお話します。これは因果律(あるいは縁生)の講義から逸脱する、と怪訝に思う人がいるかもしれません。私は、逸脱と感じません。なぜなら母親について正しく知っていれば、因果律に対しても正しくなるからです。母親について話してくれるよう頼む人がいたので、私は承諾しなければなりませんでした。一緒に働いているので、「気兼ね」と言うこともできます。

 もう一度考えてみると、私たちには母がいます。白髪頭になった子供にもいます。誰でも母親がいます。白髪頭になっても、まだ母親が必要です。どうぞみなさん、このように考えてください。白髪頭の子供が、まだ母の恩に報いていなかったらどう見えるでしょう。だから小さな子供の手本になるために、学ばなければなりません。

 ここで「母」という言葉について考えてみましょう。最初に考えなければならないのは、基準として使っているパーリ語は、なぜ「マーター・ピター」と言うのか、という点です。「父母」と言うタイ語と反対です。タイの文化は全部インドの文化が根源で、インドの言葉では「母父」と言っているのに、どうしてタイ語は「父母」と言うのでしょうか。なぜパーリ語だけが「母父」と言うのかについて、考察してみなければなりません。

 私は、母が先にいて、先に会って、先に教えるので、小さな子供は父より先に母を思い出すからだと思います。もう一つは、赤ん坊は「P」より「M」の方が発音し易いことです。子どもは「母(マーター)」の方が「父(ピター)」より発音しやすのでしょう。そして一般行動を見ると、母の方が父より先です。父は命を作り、母は魂(精神)を作ると結論することができるかもしれません。母はどのように子供の魂を作るのか、どうぞ興味を持ってください。

 私たちは、父よりもむしろ母から、暮らし方や行儀などの遺産を受け継ぎます。例を挙げれば、母には子供が繊細な性質になるように躾ける義務があります。たとえば母は、ご飯の皿をきちんときれいに洗うよう、そしてきちんとしまうように、服もきちんとしなければならないし、シーツもきちんと、手や足も清潔にしなさいと、厳しくしつけます。

 母は節約を教え、節約する習性を生じさせます。母は足を洗う水を大切に使うよう、水浴の水を大切に使うよう、炭を無駄にしないよう、紐や包装紙を大事に使うよう、焚き付けにする紙クズさえ節約して使わなければならないと教えます。

 母は、物腰が低く謙った性質を作ります。母が降参するよう教えるのは、自制することなので不名誉と見なしません。降参することで何も損はしません。それは安全です。降参する人は問題を起こさないので、誰からも好かれます。

  母は慈しみを教えます。「子猫に先に餌をやり、それから人がご飯にしなさい。動物は友達、乞食も友達。親類縁者のない人が船着き場で死んでいたら、助けなければいけないよ。自分一人で食べれば全部排泄してしまうけれど、友達に食べさせればその人の心に長く残る」と教えます。

 母は、弟妹を愛し、友達を愛すようしつけます。母は「下の子が上の子より有利でもいいけど、上の子が弟妹より有利になっちゃいけない。下の子が上の子にずるくしてもいいけど、上の子はずるくしてはいけない」と、このように教えます。

 母は、鶏はお互いにダニをつつき合うので、鶏にはダニがいないと教えます。小さなヒヨコも大きなヒヨコの体をつついてやります。顔やトサカにいるダニは自分でつつけませんが、鶏にはダニがいません。お互いに友達の義務を果たすからです。猿もお互いにシラミを取り合います。犬も自分で噛めない場所は、お互いにノミを噛んでやります。だから私たちも友達が必要です。

 母は恩を知る性質になるようしつけます。小さな子供に母の仕事の手伝いをさせます。大したことはできなくても、ナムプリック(ハーブを搗いてペースト状にしたもの。カレーやタレに使う)を搗くだけでもいいです。母が疲れている時には、母の脚を踏み、母の具合が悪い時には世話をするので、それが性質になり、いつでも年寄りや神様や僧を合掌して拝みます。

 暇な時間に野菜を植えさせます。トウガラシやナス、レモングラス、ジャスミン、パイナップルも植えさせます。その他に「鳥が食えば徳になり、人が食えば布施になる」という泥棒を防ぐ呪文を教えます。私は今でも憶えています。鳥が食べれば自分の徳と見なし、泥棒が持って行けば布施をしたと見なします。そうすれば一生泥棒に遭わず、その度に布施になります。動物が食べれば徳になるので、動物を撃たなくても殺さなくても済みます。

 母は、賭け事をしないようしつけます。マークルット(将棋に似たゲーム)も駄目です。音楽が好きなら、隠れて演奏しなければなりません。闘鶏、闘魚は言うまでもありません。母が禁じなくても、酒やタバコは自然に嫌います。父や叔父はそれらに手も触れたことがないので、子どもは、竹のキセルでゴロゴロ音を立てて大麻を吸うのを見ると、英雄のように思いますが、自分で試す気にはなりません。

 これらは全部、絶えず口やかましく教える母親から受け継ぐ性質です。見てください。父が命を作ると同時に、母は性質を作り、心を作ります。ほとんど、あるいは全体として、母は輪の中にいて、父は輪の外にいます。

 今の子供たちは親を尊敬せず、親の言うことを聞かず、親を愛さないという問題を見なければなりません。揃ってロクデナシになっているのは、母のことを知らないからです。問題が増大しているのは、母とは何かを知らないからです。これらの子供たちは、親を泣かせることがどんなに重大な罪悪か知らないのです。だからそのような行動をしているので、私たちは「母とは何か」を教えなければなりません。

 「母とは何か」は、誰もが知るべきことであり、しかも深遠な第一義諦で知らなければなりません。第一義諦では、「母は世界を作る人」と言わなければなりません。世界が良いか悪いかは、世界の人次第です。世界の人が善いか悪いかは、母親がそれらの人の性質をどう作ったかによります。善い性質に作れば、人は善くなり世界も良くなります。悪く作れば世界も悪くなります。だから「母」は神様のように、世界を作る人(創造者)の立場にあります。母は子供の魂を作る人です。

 母は、決して父の義務をしてはいけません。母が父の義務をすれば父が失業するので、世界は悪くなります。魂を薫陶する人は誰もいません。中には、「収入が足りないので、共稼ぎをしなければならない」と言い訳をする人たちがいます。それは何も知らずに言っています。その人は、得るものより失うものの方が大きいと見えないからです。もし母が働いて父を助けなければならないなら、母の義務を損ねてはいけません。つまり子供の面倒を見ながらできる仕事なら、まだマシです。子供と離れないために子供を肩に背負っている人もいます。

 母は家の中のことが上手にできるようしつけをし、父は家の外のことが上手にできるようにしつけをします。しかし父よりも母の方が、子供の性質を作ります。私たちはいろんな行儀作法や習性を受け継ぎ、今日まで身についています。慎ましさも行儀正しさも勤勉さも、直接母から受け継ぎました。「母のしつけのお陰で身代を築く」と言います。

 父は私たちに食べ物と安全を与えて援け、母は私たちの魂を作る援けをしていると認めます。父は輪の外で私たちを愛していますが、母は、母の乳を飲み、母の胸の血を飲むと言われるくらい、心で私たちを愛します。「母からの性質を最も多く受け継ぐ」と言います。闘鶏や闘魚の繁殖家が繁殖に使う親を選ぶ時、オスよりもメスに重点的に選ぶと言います。彼らは最高に良い種類のメスを母種として選び、父種はそれほど重要ではないと言います。これは興味深いです。

 次にしつけについて見てみます。子供にしつけをするとき、他人の考えの奴隷になるのを恐れて、誰も拝ませない人がいます。中には子どもに、何も見なくても良いくらい誰でも拝むよう教える人もいます。こういうのはどちらも間違いです。私は、人を選んで拝むよう子どもに教えるべきだと考えます。休まず拝んでいるよりも、まったく拝まないよりも良いです。子どもは選んで拝むことを憶えます。選んで拝む是非を知ることは、誰も拝ませないより善いことです。

 幼稚園の初めの日は、「お母さんとは何か」を勉強する方が、字の勉強をするより良いです。幼稚園の段階から風変りに、外国語を教える必要はありません。大きくなって母とは何かを知らず、どんな恩があるかも知りません。

 母は、子供が高い心の子になるように、心と性質のしつけをするべきです。母は、子供を美味しい料理を食べさせる店、高級な玩具や高額な衣服を売っている店へ連れて行き、「これはみんな私たちを愚かにするためあるのよ」と教えます。子どもは小さい時から、「これらはみな、私たちをどう愚かにするためにあるのか」と考えることを憶えます。綺麗な服、美味しい食べ物、玩具や可愛い人形なども、全部私たちを愚かにするためにあると母は教えます。そうすれば子どもは何とか考え、どんな理由があるか、だんだん自分で知ります。

 人はどうするべきか、何を所有すべきか、何を食べるべきか、何を使うべきか、何を尊重するべきか、何を大切に護るべきかを、子供に教えて分からせます。最高に正しくするなら、「食べ物も愛欲も名誉も、一方に使えば破滅し、もう一方に使えば発展する両刃の刀だ」と子供に教えます。子供は「俺、俺の」の話はどう善くてどう害があるか、少しずつ、それなりに第一義諦を知らなければなりません。

 子供たちは、自分を産んでくれた時の母の痛みを思って、母のために我慢し、奉仕することを知らなければなりません。子供たちに、「すべては正しく平安に義務を行なうためにある。執着するためではない」と教えます。子供たちは自分は何のために生まれてきたかを知るべきです。生まれて来たのだから、生まれたことを否定することはできません。後は「何をしなければならないか」しかありません。

 次に、両親は子供をどう育てなければならないか、つまりどう本能を育てるかを見ていきます。赤ん坊は善を愛す本能があります。見てください。私たちが「良い、良い」と言うと、彼らは喜んで腹をポンポン叩きます。子供は喜んで働き、仕事をしたがります。「これは自分でしなさい。これは自分でしなさい」と教えれば、生涯、仕事を好む本能を発展させます。

 子供は他人を愛すこと、他人と社会を愛すことを知らなければなりません。私たちは友達を助けなければなりません。私たちには友達がなくてはなりません。友達を助けなければ、自分たちも暮して行けなくなり、性質の悪い人になります。子供は、楽しく働けば働いている時幸福であることを知ります。正しいと感じることが、本当の幸福です。

お金を使う必要はありません。その子供が大きくなると、お金を使わずに心の幸福を求めます。生きることと仕事は同じでなければなりません。仕事は人の最高の名誉です。楽しく働くことは最高に大切な基本です。つまり「因果律」で正しく旅をすることです。楽しく働く人は、「因果律」に従って歩いています。

 子供が大きくなって若者や娘になったら、第一義諦の深遠な部分を説明してやり、愛欲と生殖は別のものだと教えるべきです。愛欲は煩悩の話で、結果は血迷うだけです。血迷うだけなのが愛欲なので、それの奴隷になってはいけません。しかし生殖は人間の義務ですから、正しく行動しなければなりません。今若い人たちは愛欲と生殖を混同して、そして間違って行動するので、愛欲の奴隷になってしまい、人間に生まれた機会を無駄にしてしまいます。誰が溺れてもその人の勝手ですが、みなさんはそうならないでください。

 愛欲で結婚する必要はありません。「私たちには人間として生殖する義務があり、何としても人間を涅槃へ旅させる義務がある」と善悪正誤を弁える気持ちで結婚します。その人が到達できない時は、後の人が到達します。結婚は役割を分担し、人間の義務を早く便利に完璧に行なうためです。結婚は一緒に考えるため、楽に前進できるように助け合うため、人間として完璧になるためです。涅槃への旅の道連れと言っても間違いではありません。しかし人は嘲笑します。笑うのは愚かな人です。気にする必要はありません。

 結婚は、人間としての義務や苦労を分け合って楽にするためにするのであって、ほとんどの人がしているように、愛欲に溺れるためではありません。結婚のために何もかも犠牲にしてお金をかけますが、その結婚は愛欲のためで、人間の最終目的に向かって前進するためではありません。気をつけないと、こう言う度に叱られます。これを聞いて話す人も、叱られてしまいます。それでも私は言います。母は子供に、人生とは何か、結婚とは何かを教えましょう。誰に叱られても構いません。母の恩を尊重するために、私は我慢して続けます。

 すべての母親は、子供が到達するよう、そして両親よりも遠くまで行けるよう願っています。

 今日は母の日なので、母の義務について話さなければなりません。母の恩について、第一義諦の考察で話さなければなりません。深い意味の考察をすることを、第一義諦での考察と言います。

 こういう話は、「第一義諦よ戻れ」というシリーズの講義にもあります。道徳の基礎にするために両親に対して正しく振る舞うこと、あるいは親が子に正しく振る舞うことは、避けることができない道徳です。なぜなら本当に正しく振る舞うには、第一義諦のレベルの、つまり見るのが難しい最高に深い知識が必要だからです。

 父とは何か、母とは何か、子供とは何か、子孫とは何かまで、知性で熟慮考察すれば、深い意味まで実践でき、深い部分の利益を得ることができます。生まれて来て五欲に溺れるだけではありません。最高に良くても動物と同じに生殖するだけで、それ以上の目的がないのは、母とは何かを知らないからです。母は、子供が生まれたその日から、子供の魂を作る人だと知らないからです。

 母は母の義務を行ない、父は父の義務をします。母が父の義務をすれば、この世界に母はいなくなります。そうなったらどうでしょう。愛や恩に深く関わる人はいません。父という言葉より前にある母にふさわしくありません。タンマの言葉、パーリ語、宗教の言葉では、「マーター・ピター」母父と言います。「ピター・マーター」父母というのは見たことがありません。母の方が先に関係ができるからです。赤ん坊は「ポー(ピター。父)」より「メー(マーター。母)」の方が、早く良く発音できるからです。

 母は子供の深い部分の性質や人生や魂を作る義務があるので、第一義諦の考察をしなければならないと関心をもってください。このように第一義諦で考察すれば、道徳は、正しく、そして深く進歩する安定した土台があります。それは因果の法則です。人生の一歩一歩を、因果の法則で歩かなければなりません。百姓をするにも、あるいは涅槃に到達するにも、誰でも、神様のように厳格な自然の法則に従って正しく歩かなければならないという、厳しい法則です。

 母にも、神様と同じように、世界を作る義務があります。この世に生まれて来たすべての子供の性質を作るので、子供が大きくなれば、世界の善い力になります。母は神様のように、世界を作った神様の法則、つまり因果律に則って世界を作り、因果律に則って歩いて行きます。農民として生きるにも、涅槃に到達するにも、完璧に純潔にするという意味です。

低いレベルで、農民として腹と口を養うために生きるにも、因果律に従って歩かなければなりません。農民の母も正しい母であり、子供の善い先生であり、善い梵天であり、善い「要望に応える人」でなければなりません。一人一人の子供にとって、この点で母より善いものは何もありません。だから農民でも因果律で歩かなければなりません。

 もし進歩するなら、あるいは最高の涅槃に到達するなら、何から何まで正しく因果律に則って、段階的に歩かなければなりません。そうすれば私たちが涅槃に到達するのは不可能ではありません。つまり、生きているうちに穏やかな生活になります。死んだ後は疑うまでもありません。「生きているうちに穏やかな生活をする方が利益がある」と言います。生きているうちに到達すれば、死後は疑うべくもありません。死後の心配は要りません。生きているうちにすべてを完璧に正しくすれば、永遠に保障されます。 

 母は子供に、この知識を植えつけなければなりません。そうすれば子供は正しく歩けるので、将来、代々善い母、善い父になります。この話を全部を「母に関する第一義諦による考察」と言います。深い面の母の恩が見えれば、自分の番になった時善い親になるために、両親を敬愛し、非常に言うことを聞くようになります。

 父であり母である人は、この第一義諦の考察に興味を持ってください。小さな子供にも、白髪頭の子供にも必要な知識です。これからは、母と子の義務に関した失敗をしないでください。すべての親と子供が、十分にこの知識をもって行動し、自分の義務を落ち度なく行なうことを望みます。そうすれば確実に、いつでも幸福でいられます。

 この希望が、願いどおり叶いますよう。私たちは本当の仏教教団員の資質があるので、正しい信仰があり、正しい努力があり、正しい勇気があることでいつでも幸福であってください。


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