否定されている自我

 ブッダが否定した自我、あるいはアートマンという言葉のほとんどすべては、無我を説明する糸口としているだけと分かります。たとえばパーリ無我相経には「不変でない物、常に変化する物、自分の思いどおりにならない物、これらを無我と言う」という内容があります。しかし「反対のものが自我である」と説明されていません。

しかし私たちは、論理的に反対のものを自我とすることができると容認しています。これが歪曲した理解を生じさせ、自我があってほしい人たちが途端に「涅槃などの無為であるタンマは不変で変化しないので、確実に自我に分類されるべきだ」と言います。

そしてブッダが『自分は自分の拠り所』と言われている「自分」という言葉は、これに違いないと主張します。だからいつも「涅槃は自我であり、自分である」と執着します。この人たちは、涅槃は誰の威力下にもなく、どうしたいと望むこともできず、そのうえ誰かの望みより上にあることを忘れています。

 無我相経を根拠に涅槃あるいは無為を自我と捉えるのは、聞いて納得できません。つまり私は、執着を否定する「意味」である自我はどんな状態か、知ることができないということです。

 パーリ小部その他に『すべてのタンマは無我である』とあるのは、すべてのものを否定しているのであって、世俗で言っている自我はどのようか、あるいは人々が何を自我と執着しているかも知ることはできません。そこで簡単に、ブッダも世俗の言い方と言っている、世俗で自我と呼んでいるものは何を表しているのか、つまり「体と心」か、あるいは何かを問題にしてみます。

 答えはパーリのポッタパーダ経にブッダの明解な言葉があるので、簡単に明白に分かるように詳しく学ばなければなりません。ここではブッダバーシタ(ブッダの言葉)の形で幾つかの部分に分けて取り上げます。かなり長いですが、詳細な考察のため我慢してください。

 内容は、ブッダのように精神的な知識を教えるために遊説して歩いているポッタパーダという修道者がいて、ある日ブッダと出会い、想の消滅、つまり率直に言えば想がなくなること、あるいはサマーディの言葉で「想が失われれば死と同様だが死んではいない」という問題について会話しました。

その修道者は「ある教義について討論する機会に、この問題について討論したことがありました。ある人たちは『想にはそれをコントロールできる物は何もなく、自然に生じて消えると言いました。想がある時に人は存在し、想または意識が無くなれば自覚はない。遅いか早いかを知ることはできない』と言いました。

もう一つのグループは『そうではない。自我こそが想だ。自我が私たちに入っている時はその間中想があり、出て行ってしまえばまた戻ってくるまで想はない』と反論しました。また別の人たちは『この世界には不可思議な威力のある人物がいて、その人が人間の想を生じさせたり消したりしている』と反論しました。最後のグループは『そうではない。天人が私たちの想を作ったり消したりしているのだ』と反論しました」。

 質問した修道者はブッダは大悟したと信じていたので「きっと意識についてご存知でしょうから、どうぞ説明してください」と言いました。ブッダの答えの要旨は「想と見なされるものにはそれを支配する原因と縁はないとする人たちは、確かに間違っています。想は、私たちの行動によって生じたり消えたりすることもあります」と言って、初禅から非想非非想までに到達する僧について説明しました。

  そして例えを分けて説明しました。たとえば初禅に励めばカーマヴィタッカ欲尋。愛欲について考えることである想、あるいは感覚は消え、カーマヴィタッカである想が消え、代わりにヴィタッカ(尋)からピーティ(喜悦)、スッカ(幸福。喜悦から生じる満足)の想が生じます。これを想は定の上達に従って生じたり消えたりすると言います。これでも想には生じたり消滅させたりする原因や縁はないと言えるでしょうか。 

ヴィタッカヴィチャーラ(尋伺。いつも気に掛け熟慮すること)が消えた後の想である二禅に、サマーディから生じたスッカ(幸)である想が生じる。三禅で、スッカ(幸)の想が消えて、頓着しないことから生じるスッカ(幸)を味わう想が生じ、四禅でスッカの想が消えて、幸福でも苦でもない、捨によって純潔な想が生じます。無形の段階、空無辺処(アーカサナッチャヤタナ)の段階で、形になる部分の想は消えて無形になる想だけになり、識無辺処(ウィンヤーナンチャヤタナ)で形の想が消えて、明らかな知識、あるいは識である想が生じ、無所有処(アーキンチャンヤーヤタナ)で識の想は消えて何もない想が生じ、最後の段階である想受滅で、何もないという想が消滅し新しい想も生じません。だから想の完璧な消滅です。

そのような状態がずっと続くその時、感覚がないのですから想があると言うことはできません。しかしサマーディから出れば再び想が戻るので、想が無いと言うこともできず、死んでいると言うのも死んでいないと言うのも違います。これが、私たちの行動の力によって存在し得る想、あるいは意識の完全な消滅です。

最後に「今までこのように聞いたことはありますか」と修道者に向かって尋ねると、彼は実に怪訝に思いながら「最高に正しいのに今まで聞いたことはありません」と答えました。

 この部分の話の意味は、想あるいは意識の発生と消滅は自我と呼ぶものが入ったり出たりするからではなく、それに威力のある人が操作しているのでもなく、どこかの天人の威力でもなく、縁がない訳でもなく、定に達した人の力で発生させたり消滅させたりでき、完璧に消滅させることもできると明白に分かります。

それらは原因と縁の威力下にある、つまり行動する人、あるいは本当に努力する人にあると言うことができます。この部分の要旨は、人がチェッタプートあるいはチーヴァと呼ぶ出たり入ったりしている自我を、きっぱりと否定していることです。

ここでブッダが示唆されている自我はマヤカシにすぎない、あるいは意識を生じさせたり消したりするために、出たり入ったりする自我があると信じる人たちの愚かさです。同時に人間の意識を消したり戻したりする威力のある天人・神様による自我も否定しています。 

私は、三蔵のすべての項目の中の自我の否定について述べたもので、ポッタパーダ経ほど深遠で断固としている部分はないと言っている、三蔵について非常に造詣の深い西洋の学者である Rhys Davids  教授の言葉に賛同します。

 ポッタパーダは「私たちの自我というのは想のことですか、それとも想と自我は別のものですか」と質問しました。世尊は「あなたが意味しているのはどの種の自我ですか」と言いました。ポッタパーダは「形があって簡単に見え、四元素でできていて、食べ物として言葉がある自分です」と答えました。

 「それならば想とあなたが意味している自我は別のもので、同じではありません。生じた時の想と消滅した想とが同じ想ではないなら、一つの想が自我ならば、もう一つの想は当然自我でないと理解しなければなりません。だから想とあなたが意味している自我は、本同じものではありません。〔パーリ経典231頁〕

「それならば私は、心で作られ体の各部分が満足に揃い、根も揃っているという意味にします」と言いました。「それでも想とあなたが意図する自我は別のものです。あなたの言う自我について話しても時間の無駄です。というのは、発生する想と消滅する想はまだ同じでないからです。〔前功と同じ理由で〕だからあなたが言う想と自我は同じではありません」。〔パーリ経典231頁〕

ポッタパーダは「それならば私は、想によって生じる形のない自我という意味にします」と言いました。(たとえば水に風が吹くと波が生じるが、水と波とは同一かどうか、と質問しました)。

 「それでも同じではありません。あなたが言う想から生じる形のない自我の話をしてもするだけ無駄です。生じた想と消滅した想は同じではありません」と答えられました。

〔上記と同じ理由で、つまり一方の想を自我とするなら、最初の想と同じではない、自我とすることができない想がまだ残るので〕だからあなたが言う想と自我を同じとすることはできません。〔パーリ232頁〕〔ある時の水とその後の水が同じでないように、波と水は同じだという話はしても無駄です〕。

 ここで意味深い要旨は、ブッダの教えでは、生じた時の想と消滅した時の想も〔禅定の各段階で説明したように〕同じ想ではなく、それを作り上げて支えている原因と縁によって次々と変化し、これらは止まることを知らず、絶えず循環しているものにすぎず、それ自体である部分はどこにもないと言います。

想あるいは意識があることは自我ですかと質問する人がいても、ブッダは答えようがありません。ブッダの考え方には、どこにも自我がないからです。しかし何としても理解するために、自我と呼ぶものを、修道者がどんな意味で言っているのか問い返して説明させました。

男が答えると、世尊は同じものではあり得ないと指摘して見せ、あるいは別の言い方で、今話していること、つまり意識があることを自我と呼ぶことはできないと言われました。前者と後者は同じものではないので、実体のある自我とすることはできないからです。

修道者ポッタパーダが想、あるいは意識があることと一致する自我の状態を探し出せないということは、自我は自分の中のすべての感覚という理解は崩れ去るということです。

何も感じない自我、あるいは実体のある自我を探し出せた時、それを自我と呼んでも利益はありません。これらの人たちはそれまで、自我とは感じるもの、考えるもの、自分に関わる何もかもと信じていたことを忘れてはいけません。この意味から、ブッダの主張で言えば、私たちの感覚である自我を探すことはできません。あるのはそれ自身の原因と縁で変転して行く自然、あるいは物だけです。

 その教義の自我は三種類あります。

1.一般に「これが自分」と理解されているような体と自分。

2.心で出来上がった天の自分。

3.意識がある自分。

 しかしブッダは、意識がある、あるいは意識がなくなるのは、すでに説明したように定の威力でできると証明しました。自我をこのように威力のないもの、あるいは自分で意識があるかないか感じられないものにしてしまうことはできません。それはまだ自我と呼ぶことはできません。

まだそのようなら、それ自身の力によって意識を生じさせたり消したりすることができないという欠陥があり、自我と呼ぶにふさわしい長所がないので、彼らが言っているような状態が本当にあっても、それを自我と呼ぶことはできません。

この威力がある自分、そして永久不変で一つだけと証明できる何かを見つけなければ、自我もないことになり、想や意識があることを自我とすることはできません。いつでも別々のものに変化し、発生し消滅する一組の想も同じものではありません。あるのは発生と消滅を続けるものだけです。それについては縁起の章で説明します。

 修道者ポッタパーダは続いて「想と自我が同じものか別のものか、私が知ることは出来るでしょうか」と質問しました。

 「ポッタパーダさん、それはあなたが知るには難しすぎます。あなたは違う見解に慣れてしまい、別の正しい見解があり、他の考え方を喜び、他の先生についているからです」。

 ポッタパーダは話を戻して「私が他のグループで学んだ『世界は不変か不変ではないか、世界は終わりがあるか終わりがないか』等々は、どれが本当でどれが正しいのでしょうか」と別の質問をしました。

 「それは私があなたに託宣する〔あるいは教える〕ことではありません」。

 彼がなぜこの話を託宣しないのですかと質問すると「それは何の利益もありません」と答えました。私たちは、世界が不変か不変ではないかの問題は直接自我に関わる問題ですが、ブッダの主張に自我はない、あるいは自我とは何かを知らないと知るべきです。

 ブッダ式の滅苦は、それらの問題、あるいは初めに自我を探求する道を通過する必要がありません。ブッダ式は、あらゆるものはタンマであると、あるいはすべては変転している自然のものにすぎないので、何にも執着するべきではない、自分と執着してはいけないと、真実のままに見ることだけしかありません。

 だから「そういう話は何の利益もありません。滅苦のためになりません」と言って、その日はこれだけでその修道者と別れました。朝方、町へ托鉢に行く直前に出会ったからです。

 二、三日後、修道者ポッタパーダはチッタ クァーチャンと一緒に世尊を訪ね、ポッタパーダが「あたなは世界は不変か不変ではないか等々について一言もおっしゃらないのに、私があなたの言葉に賛同したら、同じ修道者たちに酷く責められました」と言うと、ブッダは繰り返し「それは無益なこと」と言われ、もう一「聖諦は直接梵行の利益になります」と言われました。そして、

「ポッタパーダさん。ある修行者たちが『人間が死んだ後、自我は何にも妨害されない最高に幸福な所へ行く』と考え、そう言っていました。私は彼らを訪ねてその考えと発言は本当かと尋ねると、本当だと答えました。

私が、あなたは幸福だけしかない(まったく苦がない)世界を見たことがあり知っていますかと尋ねると、彼らはないと答えたので、私は『たった一日一晩だけでも、あるいは半晩半日だけでも、幸福だけしかない自分を、みなさんははっきりと知っていますか』と尋ねると、彼らは『ありません』と答えました。

そこで私は『この修行(そのとき彼らがしていた)が世界に幸福だけを出現させるのですか』と尋ねると、彼らはそうではないと答えたので、私は『みなさんは、幸福だけしかない(まったく苦のない)世界の天人たちが、幸福だけの世界に行くためにみなさん善い行ない、まっすぐな行ないをしなさいと叫ぶ声を聞いたことがありますか』と尋ねました。

『私もそのような修行をすれば、幸福だけしかない世界に到達できるのですか、そうなのですか』。そう尋ねると彼らはまた、そうではないと答えました。ポッタパーダさん、聞いて見てください。彼らの言葉に善い教えがあるでしょうか」。

 彼は、教えはありませんと答えました。世尊はそこで、

「ポッタパーダさん。これは『私はこの村のある美しい娘を愛し、ほしいと望んでいます』と言い出す男と同じです。

村人が『誰だ? 王の娘か、バラモンの娘か、庶民の娘か、それとも身分の低い労働者の娘か』と尋ねると『知りません』と答え、村人が再び、『姓は何だ、名は何と言う、背は高いのか低いのか、それとも中背か。色は黒いのか白いのかそれとも黄色か。どこの村に住んでいるのだ。どこの郡、どこの都だ』と聞くと『知りません』と答えました。

人々は一斉に『兄さんは会ったこともない美人を愛して、欲しいと望んでいるのかい』と聞くと、男は『そうなんです、みなさん』と答えました。ポッタパーダさん。あなたはこの若者の言葉のどこにどんな意味があるか考えて見てください。(自我はあると言って、問い詰められたら知らないと答えた)その修行者たちの言葉も同じです」。〔パーリ234〕

 「ポッタパーダさん。でなければお屋敷に梯子を掛けようと四つ角に梯子を持って来る人と同じです。村人たちが取り囲んで『どこの屋敷に梯子をかけるのだ。どっちの方向にあるのだ。東か西か南か北か。高いのか低いのか、それとも中くらいか』と質問すると、『知らない』と答え、人々がまた口々に『あんたは見たこともない屋敷に梯子を掛けるのかい』と質問すると、男は『そうなんです、みなさん』と答えます。ポッタパーダさん。この男の言葉のどこに意味があるか、見てご覧なさい。(幸福だけの自我があると言った)その修行者たちの言葉も同じです」。

「ポッタパーダさん。自我を見つける方法は三種類しかありません。三種類とは何か。一つは四元素でできていて、食べ物として言葉がある粗雑な身体に自我を見つけることができ、二つ目はそれぞれの器官も悪くない根も揃って、心で出来上がった体がある自我を見つけることができ、そしてもう一つは想でできた形身のない自我を見つけることができます」。〔パーリ経典241頁〕

 「ポッタパーダさん。私はこの三種類の自我を捨てさせるためにダンマを説いています。このタンマを実践すれば、心の曇りや憂悶は薄れ、清浄なものが生じて美しく成長します。そのような状態は苦ではないかという疑念が晴れなければ、あなたは(自分で実践して)自分自身の智慧で智慧の完成と人間性の充満を明らかにすることができます。

 ポッタパーダさん。「そのように考えてはいけない。それには楽しさがあり、喜悦があり、落ち着きがあり、自覚があり、隅々にまで感覚があり、そして幸福に暮せます」と言わせてください」

「ポッタパーダさん。他の修行者たちの中に、私に「あなたが捨てなさいと説いている自我はどの自我ですか」と問う人がいれば〔自我はないと言っているのに〕、そう質問されたら私は、『あの自我もこの自我も、あなたが心ではっきりと捉えている自我で、あなたがそれを捨てれば幸福になる自我です』と答えます」。

 「ポッタパーダさん。この〔彼らが心で明らかに捉えている自我を捨てなさいと言う〕項目は、ある男が梯子を作って、ある屋敷に梯子を掛けようと持ってくると、町人が取り囲んで、あなたはどの屋敷に梯子を掛けるのですかと質問した時、男が、私が今下へ梯子を持って来たこの屋敷です、と答えるようなものです。あなたは私が言った言葉には根拠があると思いますか」。ポッタパーダは確かな根拠がありますと答えました。

 その時チッタ クヮーンチャンが「粗い体の自我を見つけた時は、心から生じた自我と想から生じた自我が見つからず、心から生じた自我を見つけた時は、粗い体の自我と想から生じた自我は見つからず、想から生じた自我を見つけた時は粗い体の自我と心から生じた自我は見つからないと私は思います」と言いました。

〔つまり自我に執着する時、三つ同時に執着することはできない。いずれかの自我に執着している時、その人が本当にあると感じるのは、その種の自我だけで、その他の自我は無効になる〕。

 「チッタさん。その人が『あなたに過去がないのではなく、あなたは遠い昔も存在した。そしてあなたに未来がないのではなく、あなたは将来にも存在する。そしてあなたは現在に存在しないのではなく、あなたは現在に存在している。そうではないですか』と聞かれたら、あなたはどう答えますか」。

チッタは「彼らは過去にも未来にも現在にも、本当に存在していると認めなければなりません」と答えました。

 「チッタさん。もし更に『あなたが過去に捉えていた自我、それが本物で他のものは偽物であり、あなたが未来に捉える自我、それが本物で他のは偽物であり、あなたが今捉えている自我、それが本物でその他は偽物だと、そう言うのですか』と聞かれたら何と答えますか」。

 チッタは「その人がある時代に捉えている自我はその時だけ本物であり、その他の自我が偽物だと言うのも、その時だけ偽物です。過去の自我が本物なのは過去の間だけで、未来の自我と現在の自我が偽物なのは、過去の自我が存在している間だけです。それ自身の時世になればそれは本物になり、過去では本物だった自我も、現在や未来には偽物になります」と答えました。

 「チッタさん。それと同じです。粗い体の自我を見つけた時は心から生じた自我と想から生じた自我を見つけることができず、心で完成した自我を見つけた時は粗い体の自我と識から生じた自我を見つけることはできず、そして識から生じた自我を見つけた時は粗い体の自我と心から生じた自我を見つけることができないのと同じです」。

 「チッタさん。それはすべて同じです。ヨーグルトは生乳から作り、濃いバターはヨーグルトから作り、澄んだバターは濃いバターから作り、そして澄んだバターである固いサッピーマンダは、澄んだバターから作りますが、まだ生乳の時は、それをヨーグルトとか濃いバターとか、澄んだバターとか、固い澄んだバターと呼ぶ人は誰もいません。それがヨーグルトになれば、生乳とか、バター等々とは誰も呼びません」。

 「自我も同じで、粗い体の自我を捉えている時は心である自我、あるいは想からできた自我は自我と見なされません。心でできた自我を捉えている時は粗い体や想からできた自我を、その人は自我とは見なしません。想を自我と捉えている時は粗い体の自我と、心でできた自我は自我とは見なされません」。

 「チッタさん。これらの自我という言葉は世俗のニックネームにすぎず、世俗の言葉であり、世俗の言い回しであり、世俗が定義しただけで、私も同じように呼ぶことはありますがそう捉えません」。〔パーリ249頁〕

 ついにポッタパーダとチッタ クヮーチャーンは「この説法は非常に美しい説法です。伏せていたものを仰向けにしたようで、閉じていたものを開いたようで、道に迷って気弱になっている人に道を教えるように、闇の中にランプがあるように、目がある人ははっきりと見ることができます」と称賛しました。ポッタパーダは心を翻して修道を止め、ウバソク(清信士)になり、チッタは出家して間もなく阿羅漢になりました。

 

 パーリのこの部分の要旨

(イ)死んだ後は最高の幸福だけで、突き刺されるものは何もない自分があるとする教義の教祖は、「そういう自我を知っていますか。幸福だけしかない所へ行く自我の世界を知っていますか。その主張あるいは修業が幸福だけの世界へ到達させるのですか。その世界の天人が、そのように請け合うと叫んでいるのを聞いたことがありますか」と質問されると、何も肯定し主張することができないので、単なるに夢になってしまい、姿形のない娘を愛している若者、あるいは梯子を持ってきて屋敷に登ると言うけれど、その屋敷を見たことがない男に譬えられます。

(ロ)ブッダは自我を捨てるよう説かれ、捨てなさいと言っている自我はどこにあるのですかと問われると、捉えている所にあると答えられています。その人がどんな自我を捉えているかは、捉えている人の心ではよく分かるので、それを捨ててしまうべきであり、それを自分と見なしてはいけません。ブッダが捨てさせるのは、捨てるものが見えていて、実体がない娘を愛している若者や、家に梯子を掛けようと持ち出しても、その家を見たことがない人とは違います。ブッダが捨てさせる話は捨てられる自我、その人が捉えている自我です。

自我があると教える人たちの自我は、道理としてもその自我を捉えることができないので、ただの誤解で捉えているものになります。そしてその誤解は常に変化し、捉える人次第で今自我が粗い体になり、今自我が天の体になり、今自我は想、あるいは意識があることになります。時によって、その時どれだけ深い智慧があるかによって自我はその形を変え、現代女性の服装のように、どれが美しいと決まっていません。ブッダが自我と呼び、捨てるよう説いた自我についてだけ言えば、愚かさと誤解が作り上げた自分です。

(ハ)人々が捉えている自我には三種類あり、粗い体、あるいは普通の体全体を捉えることが一つ、遠くにいる友達と心で意志が伝え合えるような時、時々現れる天の体を捉えることが一つ、そしてもう一つは意識がある人、あるいは眠っている時、失神している時、あるいは死など意識を無くした人に、自我が出たり入ったりしていると捉えることと認めています。自我を捉えていれば、この三つから逃れられません。しかしブッダはこの三種類を捨てるように説いています。捨てれば心が清浄になり、智慧であふれ幸福になります。あるグループやある人たちが、この清浄や幸福を再び自我と捉えて「ブッダが探求しなさいと教えた本当の自我だ」と言うのはこの部分です。

この新しい自我を掴むのは、アートマンを探求するよう教えるヒンドゥー哲学と同じです。仏教教団員でもそう認めている人がいます。それがブッダが探求しなさいと教えているもの、つまり涅槃だと主張するほどで、短く言えば「涅槃とは初めの三種類の自我を捨てて探求するよう、ブッダが教えた自我」と言います。この項目については、この後で考察します。ここでは、ブッダは「自我を探せば三種類の自我しか見つからない。つまり、自我を捉える人の愚かな執着を証明するものは、肉体と天の体と心の三種類の自我しかない」と言われたことを銘記しておいてください。

(ニ)チッタ クヮーチャーンが「私たちはそれぞれ違う自我を捉え、時によっても違うのに、どう捨てることができる」と疑念を抱いたように、ブッダの言葉に疑念を抱く人がいるかも知れません。これに対して「人が何かを自我と捉えている時、同時に他の自我を捉えることはできない。生涯に幾つもの自我を捉えると言っても、同じ時ではない。今何を捉えているか、その人がよく知っているので、それを捨てるべきだ。何種類ものバターは、すべて雌牛から取れるが、いろんな工程で順に変化して行くように、今話しているものが何であれ、捉える自我がなくなるまで、自我を捉えることが終わるまで、あるいは自分の心で自我と捉えるものがなくなるまで、それを捨てなければならない」と言われています。

(ホ)最終的に自我とは、世間が「これが自分だ」と捉えているものを意味する言葉でしかないと、断言することができます。だからそれを捨てさせる目的以外に、深い意味にすることはできません。つまりその迷いを捨てさせるためにだけ話します。だから自我はマヤカシもの、あるいは捉えている時だけ目を欺くものを意味し、執着がなくなれば自我も無くなります。

夢を見ている時にしかない夢の像のように、自我も執着している時にしかありません。世間が名付けた、世間の言葉、世間の言い回し、世間が定義した、この四つの言葉は、無知あるいは本能に従って言った世間の話し言葉という意味です。

 仮にこの世俗の言葉を涅槃と重ねて「涅槃は自我」と言うこともできますが、子供あるいは世俗の人の性で自我を持ちたがる人のものです。しかし自我を捉えることが、本当に何らかの利益を生じさせることはありません。

つまりまだ自我を捉えていれば、あるいは捉えたい気持ちが本音の中に少しでもあれば、涅槃に到達することはできません。涅槃は自我の執着を捨てた時に現れるからです。だから子供、あるいは騙して涅槃を自我と捉える人が、本当の涅槃を知り、それを自我と捉えることなどできるはずがありません。

その人が捉えたと言うなら、捉えているものは何らかの愚かさから生まれたものだけで、そしてもう一度捨てる義務があります。そうすれば、本音として自我の種が残っている他の教義の涅槃ではなく、ブッダの涅槃のレベルになります。

 ここでもう一度短くまとめると、ブッダが時々言われている自我は、普通の無知の人が自分と捉えているだけのもので、具体的に言は話してきたような一般の人が捉えている三種類があり、自分という言葉は、そう呼びたい人の無明で世間の人が呼ぶ言葉です。

多少高さに違いはあっても一様に無明です。だから自我の状態は一定でなく、自我と捉えるもの次第です。一般的には、誤解による執着の基盤だけです。ですから自我と呼ばれるものは、捉える人の知識の高さと時によって変わり、いつでも誰でも同じではありません。

ゴーラサあるいは牛から取れる美味しい食べ物が、ある時は生乳を意味し、ある時はヨーグルト、濃いバター、澄んだバター、澄んだ固いバターを意味することもあり、最終的にゴーラサという言葉は自然が作った元素を意味するだけなように、状況でどんどん変化し、科学の化学の分野では、それは何か、どう変化したか、ゴーラサあるいは特別な優れたものと捉えるべきではないということが、良く説明できます。

 ブッダが時々意味した自我の形を説明すると、自我(自分)という言葉で話す時〔たとえば『自分は自分の拠り所』というブッダの言葉などは、本当は話すために借りて使っただけの世俗の言葉で、言葉の所有者である俗人のように捉えずに使っています〕、どうすれば適切かと言うと、私は普通の意味の自我に執着している俗人の自我を知っていますが、ある人たちが捉えている第一義諦の自我である別のレベルの自我もあります。つまり清浄、あるいは初めのレベルの三つの自我を捨てた時に智慧が溢れていること、あるいは三種類の自我すべてを捨てた時にいつでも、心が感情として捉えて引き止めている自我です。

 


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