読者のみなさん、ポッタパーダ経のある部分で、世尊がポッタパーダという修道者に「ポッタパーダさん。私はこの三種類の自我を捨てさせるためにタンマを説いています。このタンマを実践すれば心の曇りや憂鬱は薄れて、純潔が生じて発展し、自分自身の智慧で智慧の完成を明らかにし、人間であることを満たすことができます。
それには楽しさがあり、喜悦があり、安定があり、サティがあり、隅々に行きわたる感覚(常自覚)があり、そして幸福に暮せます。」〔C.T.9/242〕と言ったのを憶えているでしょうか。
この純潔な物です。重い自我中毒である探求者が、三つのレベルすべて否定されているにもかかわらず、再び迷って自我と捉えてしまうのは。つまりその清浄を涅槃、あるいは自我と捉え、人にも拠り所として捉えるよう教えます。
その上世尊が「自分は自分の拠り所」と言われた言葉の、初めの自分は清浄な自分という意味で、苦である自分は、述べたように自分を援けられないと主張します。この種の自我を、ここでだけ「探求者の自我」と名付け〔何かのために簡単に示せる名前をつける必要があるので〕、モルヒネ中毒のように自我中毒になっている探求者という意味にさせていただきます。
もう一つこの種の自我は、仏教以外の教義がブッダの時代以前から教えているものであり、仏教の考え方と非常に似ている、あるいは近いと知らなければなりません。
私たちと似ている彼らの考えの要旨は、世界、あるいは発生と消滅がある変化するすべての物への執着を捨てた時に現れる本当の自我で、サンスクリット語でアートマンと言います。このレベルの自我は不変で、永久に幸福で、そして非常に清浄で、一人一人の自我であり、一つになれば世界の自我になります。
この自我は、私たち仏教教団の一部の人たちが信じ、そして仏教の教えとして他の人に信じるよう教えている自我と同じなので「第一義諦家の自我」と呼びます。こう呼ぶのは、以前から強い自我中毒であり、それを過ぎて頂点に近い第一義諦の段階になった第一義諦家者に、残煙(大麻をキセルで吸った後に残っている煙)として残っている自我にずぎないからです。彼らが執着しなければ、あるいはもう一枚剥いでしまえば、自我の足枷から逃れられます。
このような第一義諦のレベルの自我は、わずかに残っている誤解でしかありません。最後の段階であり、頑固に執着しなければ、誤った見解と見なしません。ただ道を外れた智慧の銃弾、あるいは少し残っている無明の残煙であり、そして既に三つの段階である粗い体の自我と、天の体の自我と、想あるいは意識がある自我を捨ててきたように、彼らが最後にもう一度捨てるために残っているだけだからです。
本当はこのような自我は、以前に自我に執着しすぎた人にだけ生じ、誰にでも生じる訳ではません。そうでなければその人の教義が「何が本当の自我か」を探求する系統で、特にヒンドゥー哲学です。
しかし「何が苦の消滅か」を探求する系統の教義ならこのような残煙が生じることはなく、この段階で再び自我を捨てなければならないこともありません。五比丘などは、五蘊の自我を捨てた時、五蘊への執着を捨てた純潔を本当の自我と捉えて執着しなかったので、阿羅漢になりました。この場合には『重荷を下ろすことができたら、二度と他の重荷を手にする必要はない』というブッダバーシタ(ブッダの言葉)があります。
みなさんがこのような自我を仏教の教典で見ることがないのは、そのとおりです。ブッダは教えておられないからです。ただある時代に、何者かがブッダの言葉の中に混入させただけです。そして自我を愛すように教えたので簡単に受け入れられ、信じられました。普通の人は、自分である本性があるからです。
このような忌まわしいことは、その人が教育を十分うけていない、あるいは学問的な教育を受けたことがないことで生じました。だからそれは、その人のニャーナ(智。知る力)から浮上した考えでしかありません。三蔵を学ぶ人の想の知識でないと言わざるを得ません。そしてどのように三蔵を学ぶ人も、ヴィパッサナーの面の実践をする人でも、信じてはいけないと教えています。
要するに私たち仏教教団員の世界にも、この種の自我が突然浮上することがあります。博学でないこと、タンマを抑圧し自分の欲求や便宜を追求すること、自分の教えが聴衆の気に入られるよう、ある人の無知による軽率さゆえ、自我がぎっしり詰まった本性で推測して述べることの害です。
でなければ教える人も弟子も、どちらもタンマに陶酔して目を開けることができず、タンマを引きずり下ろして自分の自我にする一方です。これは仏教界の違う主張あるの人について述べています。
仏教でない人々、たとえば独自の哲学があるウパニシャッドのある派は、当然この第一義諦の、ブッダ以前からある自我を捉えています。彼らの重要部分は何が本当のアートマンか、あるいは自我かを問題として学習を進めるので、何が苦の終わりかを問題にして進める私たち仏教と違います。
ヒンドゥー哲学もブッダの時代以来ずっと変革し続け、時代に合わせて変化してきましたが、サンカラーチャーンなどの時代に改変されたヴェーダーナタの新しい考え方などにしても、当然まだ目標であるアートマン、あるいは自我がある哲学のままです。それは彼らの哲学がそうであり、そのように望んで満足し、それ以上に崇高な物が見えないからです。それが世界中にさまざまな哲学が生まれる原因です。
〔ここで私の意図を述べさせていただきます。ここではブッダの哲学と他の哲学のどちらが良いか悪いか、あるいは高いか低いかを比較するつもりはありません。どちらも独自のものがあり、それで満足しているのですから。ここでこれらに関して言わなければならないのは、混同して混乱しないため、あるいは他のものを仏教のものと間違えないようにするために、それがどう違うのかを指摘して比較するためです。
更に狭めれば、ブッダの考え方は、当然そのようなヒンドゥーの考え方と違うと主張したいと思います。そして仏教教団員のみなさんは、彼らの物を自分の物と勘違いしないでください。どちらの側にとっても良くない結果になります。もっと狭めれば、ブッダの考え方はこのようであって、ある人たちが「こうだ」と主張しているヒンドゥーやバラモンと同じ考え方ではないと主張します。〕
本当は、誰もが間違った見解と言う教義がこの世界にあるべきではありません。あっても維持できそうにありませんが、却ってあり、小さな分派も数に入れると、時には正しい見解より多いと思われるくらいです。だから他の教義の哲学を別の物と捉えるのは、少しも変ではありません。それは他の人たちの教義なのですから。
しかし仏教は、六人の教祖の教義を否定し、非常に似ているアーラーラ仙人のサーンカヤとウダカ仙人の教義を否定したように、その教義の哲学の主張を段階的に否定することで、他の教義の哲学の主張を通過して形作らているので、仏教哲学を明確に理解するため熟慮するなら、違いを知るためにそれらの教義まで遡って比較しなければなりません。
特にブッダが否定または反論していることを考え、そしてそれが正しいと分かるまで、あるいはどれだけ本当の苦の終わりに近づいたか分かるまで(自分の側の見解を通して)順に考察します。
読者のみなさんは、世尊がまだ大人物であった頃、アーラーラ仙人の考えを否定したのは、間違った考えと言って否定したのではなく「それはまだ苦の終わりではない。苦の終わりはもっと高くなければならない。もう一度アートマンを捨てなければならない」と否定したということを知らなければなりません。
あるいはアートマンを苦の終わりと解釈しても構いません。しかし、もしそうなら、仙人が説明したものはまだアートマンではありません。アートマンがあると捉えることは、まだ苦が残っている証拠だからです。しかしその仙人や仙人の弟子たちがその種の滅苦、あるいはそれだけに満足している実践面の事実があり、そしてその教義は仙人の物なので、少しも変ではありません。
しかしある教祖の弟子が他の教祖の主張を自分の教祖のものと詐称したり、自分の智慧で悟ったと言い、それがブッダの教えと同じで、ブッダの望みと一致すると詐称すれば、それは非常に奇妙です。
そのような第一義諦のレベルの自我に執着するのは、ブッダの考え方ではありません。ブッダの考え方は、この自我をもう一度捨て、そして厳格に本当に純潔にならなければならないと知るために、ブッダ以前からあるその種の考え方と比較すると、誰の考え方がどのようかが良く分かります。そしてそれが「残煙の自我」、あるいは「第一義諦家の自我」の部分の解説を長々としなければならない理由です。
仏教の第一義諦家の自我、あるいは残煙の自我はヒンドゥー哲学と同じと述べてきました。それがどう同じかは、向こうの哲学の考え方を考察するだけで十分です。みなさんがヒンドゥー哲学とブッダの主張は同じではないと信じ、自分で、道理に従って熟慮できるよう望みます。彼らがバラモン教と仏教が分けるのは、この部分の主張の違いが、要旨の大部分だからです。でなければ幾つもの宗教に分かれる必要はありません。
第一義諦の自我に関するヒンドゥー哲学は、バガバッタギターが一番分かり易く、一番普及している教典と見ます。その中のアートマンは、最高の真実がない宗派を除くヒンドゥー哲学の主な宗派のほとんどに共通します。〔私たちはすべてをまとめてヒンドゥーと呼んでしまうので、ヒンドゥーの教義には第一義諦(最高の真実)レベルの哲学がない教義もあることを知ってください〕。
述べているアートマンは不死であり、生まれることも死ぬこともなく、作る人もなく、体と心、あるいは世界のすべての物を下ろした状態を自分と捉えるよう教えています。更に価値のある自我、古いものより本当の自我を捉えることが出来るので、奮起させるには、あるいは煽るには向いています。そして軍隊にも非常に向いています。
〔ヒットラーのナチス軍が何万冊もこの本を注文し、兵士に配ったという話を、ヒンドゥー教の友人から聞いたことがあります〕。
その本はアートマン、あるいは本当の自我について明解に説明しているので、特に注釈を加える必要がある部分以外は、私の言葉で説明するよりも、全文を引用して考察する方が良いと思います。(非常に膨大なので)引用していない部分に説明がある場合には、注釈を加えます。そして重要な部分は、関心のある人がより的確な考察ができるように、サンスクリット語の文章を挿入します。(註;日本語訳ではサンスクリット語は省略します)
バガバッドギターのアートマン
1.その方(アートマンという意味)は生まれず死なず、そして存在もせず、存在を休止していて、生まれず、変化せず、終わりもなく、永久のものであり、体が切断されても、その方が殺されることはない。〔2章20〕
2.武器もその方を切ることができず、火もその方を燃やすことはできず、水もその方を濡らすことができず、風に吹かれてもその方が萎れることはない。〔2章23〕
3.その方を誰も切り分けることはできず、火で燃やすこともできず、濡らすこともできず、枯らすこともできず、永久にあり、すべてのものを確実に永遠に支配していて、尽きることがない。〔2章24〕
4.その方は、誰も見ることができず、想像することもできず、変化するものではないと言えるものなので、あなたはそのようにその方を知れば悲しみはない。〔2章25〕
5.私たちは、その方は誰も消滅させることができない人で、その方はすべての物の中に宿っていて、病むことも死ぬこともできないその方を破滅させることは誰もできないと知るべきである。〔2章17〕
6.この体の中の(仮定でしかない)私たちが、子供から青年に、青年から老人になるように、その方もこの体を経て、新しい他の体に宿る。〔2章12〕
7.私たちが古くなった衣服を脱ぎ棄てて新しい物を着るように、「この体を管理するその方」も、古くなった身体を抜け出て、新しい体に宿る。〔2章22〕
8.その方は「殺す人」と理解している人、そしてその方は「殺される人」と考えている人は、どちらも愚かな人たちである。その方は誰も殺さず、誰にも殺されない。〔2章19〕
9.すべての動物は、振り撒かれて生まれさせられ、そしてそれらすべての物は、常にその方が宿っている。その方を崇める実践のために、私たちが自分の務めである仕事に真剣に取り組むことは、私たちをこの上なく優れた状態に到達させること。〔18章46〕
10.自分(低い自分、あるいは仮定の自分)を征した人は、その人の「自分」〔つまりアートマン〕は涼しい時も暑い時も、幸福な時も苦しい時も、誇らしい時も不名誉な時も、当然いつも同じである。〔6章7〕
11.あるいはあなたが、「その方」に常に生まれることと死(仮定の言い方として)があると考えていても、その方はそれゆえに泣き嘆くことはない。〔2章26〕
ここで少し説明させていただきます。ここで「その方」あるいは体を管理する主人とは、どれもアートマンを意味しています。ここでいうアートマンは、彼らにとって本当の自我という意味であり、生まれず、死なず、変化も何もしない状態のもので、私たちが無為、あるいは涅槃と呼ぶものと同じ状態です。
彼らが「アートマンはすべての物に宿っている」と言うのは、私たちが「涅槃はどこにでもある」、あるいは「無為はすべての中にある」と言うのと似ています。そして彼らが「アートマンは体を変える」と言うのは、それは生まれず死なないので、体と一緒に死なず、心と一緒に滅びないという意味で、何度生まれ変わっても同じ物であり、そして体から脱出するまで、あるいはすべての世界の物から脱出するまで同じという意味です。
モッカサと呼ぶのは本当のアートマン、つまり自由で、本当の自分、あるいは崇高な自分と呼ぶものは、仮定の自分、つまり体や心を自分と見なすような、普通の本能で執着する自分とは違います。心はまだ生じては消える物なので、この本当の自分は心を指すのではないと、はっきり理解しなければなりません。他に呼びようがないので、彼らが呼ぶようにアートマンと呼ぶしかありません。
私たち仏教教団のアーチャンの中には、無為、あるいは作らない物は、有為あるいは有為の物の本質で、有為の物を覆うために成長し、生滅と変化があると教え、そして「無為と呼ぶ物は、本当の自分、あるいは涅槃」と教え、この自分を探求するよう教える人もいます。煩悩と世界の物すべてを除いてしまえば、自分、あるいは本当の自我が現れると言い、それが「仏教の原則」と主張します。
そのような発言、あるいはそう教えることは、ブッダヴァチャナ(ブッダの言葉)に対して非常に凶悪な盗人行為です。ブッダヴァチャナでは、ヒンドゥーのようなアートマン、あるいは自分を探求するよう教えていないからです。そしてアートマン、あるいは本当の自分を拠り所として執着させる教えもありません。
『自分を自分の拠り所としなさい』という言葉の、後の自分の拠り所である初めの自分はアートマン、あるいは涅槃で、後の自分は仮定で捉えた自分と理解し説明する人がいます。このような理解は、ブッダヴァチャナを混乱させ、消滅させ、仕舞には他の教義の考え方に飲み込まれることもある行為です。本当の自分、あるいは涅槃である自分を拠り所とするよう教えるのはヒンドゥーの主張です。
それらの教えは、
12.私たちは「大我(アータマーという意味)」で自分を抜き取らなければならない。そして自分を悲しませてはいけない。その大我は自分(小我、あるいは普通の自分)の本当の友達だからである。しかしその大我は敵になることもできる。〔6章5〕
13.つまり「大我」は、大我の支配を容認すれば自分の友達になるが、大我に征服されていな自分の敵でもある。〔6章6〕
この項目に関しては、大我、あるいはここで言うアートマンは、涅槃を意味するものと同じタンマ、あるいはタンマの法則という意味の、この教義の主張をよく理解するべきです。自分、あるいはタンマである自分は、タンマの威力に従う人、あるいは降参した人と呼ばれるタンマを信じる誰にとっても友達です。
しかしタンマの自分を否定する人は、この自分が敵になります。だからこの自分に頼るには、負けを認めてしまわなければ頼ることができません。要するにタンマという意味です。そして彼らはタンマ、あるいはタンマの法則をまとめてアートマンとしています。言い換えれば同じ自分で、彼らは同じ自分と言い、そして全部同じアートマンと呼んでいます。
仏教では自分、あるいはタンマである自分を「自分」と呼ぶのを認めません。無為の物でも、「タンマ」と呼ぶだけです。ブッダが『自分が自分を頼る』と言われたのは、普通の自分という意味で、つまり苦しんでいる自分がいれば、その自分が自分を助ける、あるいは頼るという意味です。
どのように自分に頼るのでしょうか。自分に頼るとはタンマを行うこと、特にブッダバーシタ(ブッダが言われた言葉)と明示されている四念処に励むことです。そうすれば自分、あるいは自分への執着(我執)がなくなり、自分がなくなれば、その後は何も拠り所を求めません。その後あるのはタンマだけです。有為であるタンマは循環し、無為であるタンマはそれまでも静止していたように、静止し続け、いずれにしてもそのような静寂を維持します。
この段階では、私たちに自分はなく、そしてタンマを引っ張り出して自分の物にして拠り所と執着しません。涅槃はタンマの一つなので、まだ知らない時の誤解以外に、私たちは自分の拠り所である自分として涅槃に頼りません。
次にヴァガバッドギターの、仏教に最も似ていると言われる部分を紹介します。どれくらい違うか違いが分からないほど似ています。違うところと言えば、アートマンがあると信じるか否かだけです。
14.偽物には本当の存在はなく、本物は本当の存在に欠けることはない。この二種類の真実は、すべての「本物」が見える人に見える。〔2章16〕
15.粗い体である自分は、カルマの威力から逃れることはできない。その方〔アートマン〕はカルマからきっぱりと抜け出しているので、真実解脱した人と呼ぶべきひとである。〔18章11〕
16.善、悪、そして善悪混ったもの、この三種類のカルマの結果をまだ捨てることができない人は、行動した後に受け取らなければならない。しかしこの三種類は本当に解脱した人にはない。〔18章12〕
17.振り捨てることができた人は、純潔と智慧に浴し、まったく疑念のない人であるその方は、当然魅惑的でないカルマを嫌わず、魅惑的なカルマと関わらない。〔18章10〕
18.智慧が滞っていない人は、あらゆる場所で自分を苦しめて欲望を捨てることができ、その人の「手放すこと」によって、すべての物から完璧に自由で、最高に素晴らしい(アヌッタラ)状況に到達することができる。〔18章49〕
19.最高の状況に到達した人は永遠の命を得ることができる。智慧の最高レベルはどんなものか、私たちから簡略に学びなさい。クンティー(神話の中の女性の名)の血を引くみなさん。〔18章50〕
20.ブッディ(Buddhi)、つまり自分自身を深い安定で管理し、自分を拭って純潔にする道具である智と一体のものに到達しなさい。すべての根を誘惑するものと、誘惑する声を振り払ってしまい、愛と憎しみを捨ててしまいなさい。〔18章51〕
21.離れた場所で静かに暮らし、欲望が少なく、足ることを知り、自分の体と言葉と心を、常にサマーティのある心の威力下に置き、煩悩のない人を拠り所にしなさい。〔18章52〕
22.身勝手、気まぐれ、自慢好き、欲望、憤慨と貪りを振り捨ててしまいなさい。そうすれば身勝手でなく、穏やかで幸福な人になる。このような人は「永遠の命」になる準備が整っている。〔18章53〕
23.「永遠の命」になればアートマンの中で明るく輝き、悲しみはなく、その後何も望まず、すべての動物と一体になり、自分を最高に尊敬する人と呼ばれる。〔18章54〕
24.その人は「自分は誰か、自分は何か」と尊敬することで真実のままに理解し、自分を真実ありのままに知れば、そのとたんに最高に素晴らしい状態に到達する。〔18章55〕
これらの内容から、ヒンドゥーにも仏教と非常に似ている教えがあり、そして仏教と同様に非常に道理があると分かります。違うのは、彼らのはアートマンあるいは本当の自分が常に主役である点だけです。
私たちの主張では、自分をすっかり捨ててしまい、残るのはただのタンマだけにし、回転するタンマは回転させなければなりません。今この文章を引用して紹介したのは逸脱のようですが、仏教とヒンドゥー教の考え方がどれほど似ているか、よく見えるようにするには、本当は重要です。
そしてどこで別れたか知らなければならない部分はアートマンの部分で、彼らはアートマンを見つけた途端にそれを解脱と見なし、幸福と執着し、そして彼らの最終段階は、最後に紹介する引用文にあるように、アートマンに出会った心、あるいは智慧です。
25.すべての種類の欲望を捨てることができた時、そしてアートマンの威力でアートマンに満足した時、その人は不変の心を持った人と呼ばれる。〔2章55〕
26.風のない場所のロウソクの炎は、パタパタと揺らめくことがないように、心の訓練をしたヨギーは、座して「アートマンを狙うヨガ」に没頭している。〔6章19〕
最後の文章から、彼らのヨガ、あるいはヴィパッサナーの狙いはアートマンであり、アートマンに出会った時に達成すると見ることができます。アートマン、あるいは「自我」に専心し、「これこそがアートマンだ」と感じ、「アートマンは自分で探求した物であり、迷って捉えていた偽物の自分に代わる本当の自分」と心から満足します。
私たち仏教教団員にも「涅槃は本当の自分」と信じる人がいますが、同じように何かを迷って涅槃と執着しています。何かを自我と感じる気持ちが少しでもあれば、本当の涅槃が現れることはありません。涅槃が現れた時には、自我という感覚は残っていないからです。
ジャイナ教のアートマン
次にジャイナ教、あるいはニガンダ(ニグロンダ。異教の修行者)について、どれくらい似ている教えがあるか熟慮していきます。これらはブッダの時代から仏教のライバルでした。ブッダの時代にマハーヴィーラ、あるいはニガンダナーダプッタという教祖がいて、短い教えしか残しませんでしたが、その後説明を加え、分かり易く解説しました。それでも文句は元のままで、要するに目標であるアートマンがあります。
たとえば、
〔イ〕ニャーナ(智)で注目する人は、当然明らかに内部のアートマンを知る。そして油断を完全に捨てた時、当然目標であるアートマンに出会う。〔クラパッタラチャーンのサーラサムッチャヤ 218章〕
更にジャイナ教の考えには「涅槃」という言葉があり、同じように使っていますが、サンスクリット語形の「ニルヴァーナ」で、その文章は、ニルヴァーナとアートマンは、同じであることを明示しています。その文章は、
〔ロ〕その人がすべての危害から解放され、アートマンの自然の状態である最高のニルヴァーナに到達した時、その人は当然スガタ(善く行った人という意味)と呼ばれる。〔アープタ スヴァルーパ〕
この文章から、ニルヴァーナ、あるいはパーリ語でニッバーナと呼ばれる物は、彼らがアートマン、あるいは自我と呼んでいる物と見ることができます。苦、あるいはすべての危害から解放されることがニルヴァーナで、そしてそれは、水の常態が濡れていることのように、アートマンと呼ぶ物の普通の常態です。だから向こうの考え方では、ニルヴァーナに到達することはアートマンに到達することであり、アートマンに到達することはニルヴァーナに到達することであり、それが本当の自分です。
そしてカルマと涅槃との関係が、仏教の教えと非常に似ていることが分かります。つまり私たちが涅槃、あるいはロークッタラ(出世間)の最後の段階に到達すれば、古いカンマは威力を失い、新しいカンマも行動にならない仏教の教えと同じで、アートマンが現れればカルマは威力を失います。ジャイナ教の教典、つまりクンタクンターチャーン師のサマヤサーラ198項に、
〔ハ〕カルマを作る原因である漏、貪欲、恨み、迷いは、当然正しい見解の人には現れない。アートマンに到達すれば漏は消滅しているので、カルマが重い苦の原因になることはない。
そして現代のジャイナ教の修行者であるシーターラ パルサータ師は「ジャイナ教の教えから言えば、ニルヴァーナとは、カルマの威力から、そしてあらゆる種類のカルマを作る原因である感情から解放されたアートマンの一つの状態である。粗い体、精緻な体、すべての体から解放された状態であり、あらゆる種類のローキヤ(世界の物)が消滅した物であり、幸福と平和と明るさに溢れ、そして永遠の命であり、その後転落することはない」と講演しています。
この文章を読むと、ジャイナ教の主張もブッダがポッタパーダ経で否定しているように、粗い体と素晴らしい体を否定していると見ることができます。そして当然名身、つまり想も否定しています。カルマを超えた状態を意図して言っているからです。
だから学習者のみなさん、この教義の考え方が仏教の考え方と関わりがあり、どれほど酷似しているか、もう一度心に銘じてください。自分の考えだけで話すと、気づかないうちに仏教の教えが他の教義の教えになってしまう危険があり、その危険を回避できません。
私が「酷似して絡み合っている」と言うのは、ほとんどの部分が同じで、ある面だけが違うという意味です。特に(仏教には)アートマン、あるいは述べた「自分」という感覚、あるいは涅槃と規定する物がありません。私たちはアートマンという感覚がなくなったレベルに到達した時を、そこが少し越えていることは事実ですが、それを涅槃と見なします。
しかし少し越えているのは事実ですが、正反対まで越えていません。つまり智慧の感覚の中にアートマンがあるか否かの違いだということを、考えて見るべきです。私たちはまだアートマンが残っている智慧を、正しい見解と認めることはできません。
彼らは、純潔なアートマンは憂鬱な時も、世界の物に覆われている時も同じアートマンだと言い、そしてそれがいつでも本当の自分だと言います。ただ憂鬱な時は世界の物が「自分」の立場を奪っているので、自分自身を知ることができないだけだと。
しかし本当のアートマンは安全を求めて、あるいはいつでも世俗の物から解脱しようと足掻いていて、そのような行動をそれの義務(Duty)、あるいはそれの自然の状態と見なしています。
ラーマヤナのある章に「自然が飛ぶために作った鳥のように、そして流れる川のように、アートマンもそれ自体の義務を行うためにある」と書かれています。このように綴られているということは、脱した時も、まだ脱しない時も、私たちにはいつでも自我があると見なし、あるいは認めています。そこは仏教の教えと正反対です。
インドの神様を信じる人々の哲学を熟慮して見ると、再び彼らの素晴らしい批評家ぶりを見ることができます。つまり神様はアートマンで、アートマンはすべての物に潜んでいます。神様を信じる人たちの言葉ではブラフマ(大梵天)と呼びます。彼らがブラフマを人である神様〔Personal God〕と信じるようになったのは、下層の人たちだけの信仰で、取りあえずそう信じる必要がある、と言います。
そして彼らがブラフマ、あるいはアートマンを知るのは、後で智慧が熟してからと言います。だからブラフマを神様と捉えることは、最初の段階だけの、信仰を強めるようにしておく柵、あるいは捕縛具のような物です。
この項目で、私は私たちの仏教をすぐに思い浮かべました。涅槃を自我、あるいは本当の自分と捉えるよう教えることは、最初のレベルで柵、あるいは繋いでおく紐を作るのと同じで、自我がないために寂しがらせておくより良く、後で彼らは、最後の自分を捨てることができます。
学者の考え方
ベイジャ ナス カンナ〔Baij Nath Khanna〕は Light of Bhagawad Gita という本を著していて、この本で私たちは良く理解することができます。「アートマンは物質的なカルマの結果より上にあり、神様の部類〔Divine Region〕であり、世界にはそれに関わる結果は何もない。だからアートマンは真実神聖な力がある」と書かれています。〔10頁〕
「神様は永遠に存在する。時間的にも空間的にも無限である。生まれることがない物は、当然死ぬことはあり得ない。アートマンは消滅と死から解放され、初めがないので、終わりもない」。〔6頁〕
この文章は、自分たちと神様は一体だと感じさせるので、明らかにその宗教を信じる人の気分を良くさせます。本当の自分はアートマンであり、神様も同じアートマンです。もっと意味を狭めて言えば、神様はこまごました動物を一つにまとめた物です。しかしアートマンは時間と空間〔Time & Space 〕の制限のない物なので、体積であれ時間であれ、何であれ測ることができません。
だから小さなアートマンも大きなアートマンもなく、本当に一つだけです。だからアートマンが見える人は、神様と一体になり、世界の自分〔Universal Self〕で、最後には、世界中の人からすべての種類の動物まで、全部同一の動物と言うことができます。
魂、つまり世界、あるいは私たちの本質も一つきりです。神様と一体になるキリスト教の考え方と同じで、誰が見てもその魂と一体になり、そして最後には永久に「自分」があります。あるいは永遠の命があります。
この段階で、もう一段階深い哲学はどれほど深遠な哲学か、比較するために、この種の第一義諦家の自我、あるいはアートマンがどれくらい深遠か、そして一段階深い哲学はブッダの見解、あるいは仏教哲学と、もう一度推測して見ます。
西洋哲学の自我
それでも仏教哲学に戻って熟慮する前に、西洋哲学の考え方、つまり西洋の物には残っている自我である違いがあるか、述べてきた物より美しいかどうかを探ってみます。しかしインド、つまりセンブ州で哲学が繁栄していた時代には、ブッダと同時代のアートマンに関して、ヨーロッパにはまだこの種の無為に関した哲学の光は射していないと歴史に現れていることを知らなければなりません。
多少出てくるのがローマ時代で、だいたいブッダ在世時の最後〔ブッダが亡くなってから間もなく〕に当たりますが、ほとんどは集会で論議する哲学で、形而上学〔Meta Physics〕的に知り難いもの、心や自然について述べた神秘的な問題の探求は、まだ始まったばかりと見なします。
そして西洋人の考えのほとんどは、東洋の哲学を基礎にしていることは疑うまでもありません。フォニシエン、あるいはバビロニア人たちはインド-パレスチナ間に陸路の交流があったので、ブッダの時代よりはるか昔からインドと交流がありました。交流は古代から、西洋哲学の形ができて広まる以前からローマ時代まで続いていました。
西洋哲学の起源から現代までどんな経緯があっても、私たちが知りたいのは、彼らがアートマン、あるいは自我についてどう述べ、どんな原則があるかということだけで終わりにして、現代について考察します。
西洋のすべての時代の哲学者を一まとめにして、それを自我がある派と、無我の派の二つに分類することができます。自我がある派は、道徳的な教えの宗教に由来し、ほとんどの行為、あるいはカルマには、カルマを作る人、あるいはカルマの結果を受け取る人、そして苦を恐れる人である自分がなければなりません。
無我の派は、物質〔Material〕から始まり、それから心、あるいは精神〔Spiritual〕のレベルまで発展してきた科学的な考え方に由来しています。この派の無我の中にはナッティカディティ〔Nihilism〕までありますが、ここでは彼らの無我がどれくらい深いかに関わる考え方だけを探ります。
シセロ〔Cicero〕の言葉に原型である自我の兆を見ることができます。
「考えること、理解すること、望むこと、行動することを知る状態は、何であれ天国、あるいは神様である部分としなければならない。そしてそれは、終わりのないものでなければならない」。
この人は自我、あるいは Soul (魂)と呼んでいませんが、天国、あるいは不可思議な領域から分かれた理解できない何かを、肉体の中にある本質と認め、それが考える人、行動する人、感じ、そしていろんな結果を受け取る人であり、そうするため、あるいは限りなく永遠にそうするためにあると見なしています。
「礼拝堂は破壊されても神様は存在する」というベーリー〔Bailey〕の言葉からも糸口を掴むことができます。
これは彼らの、必ずあるに違いない不死の物、消滅しない物に対する信仰を表していますが、他の呼び方がふさわしくないので、神様と呼ばなければなりません。
エピクテッツ〔Epictetus〕は「私とは遺骸を伴っている自我(あるいは魂)」と言っています。
彼はこの言葉で、本当の彼、あるいは人間は体ではなく、自我、あるいは Soul と呼ぶ知り難い物を意味すると認めています。その自我が体を提げてあちこち移動するのであって、体はただの遺骸、あるいは骨でしかありません。
この意味で彼は、知る本能で捉えるより、つまり野蛮人や動物が知っているより深く「自分」を捉えているということです。そして彼は、それを本当の〔Essence〕人と呼ぶものとしています。この考え方はインドの古い信仰、あるいはポッタパーダが世尊に尋ねたのと変わりません。
ゴーテ〔Goethe〕は「私は『自我は消滅しない。そしてその活発さは永久に付いて回る』と確信する。それは私たちの目には、夜太陽は消えたように見えるが、本当は他の面を明々と照らしているのと同じである」。
この人は「アートマンは肉体のようには死なない。そしていつでも活発にその義務を行うことができ、死ぬ時はない」と信じていると見ることができます。私たちの死は目を欺くもの、つまり身体が腐るだけで、本物である自我は、違う所で再びそれまでと同じような「生」へ向かいます。
だから実際に太陽はいつでも存在しているのに、私たちが「太陽が昇り、照りつけ、そして沈む、あるいは消える」ように誤解しているのと同じです。太陽に掴まって同行することができれば、太陽はいつも変わらず、私たちが見ているように時々強く輝いたり弱まったりしないと見えます。
自我も同じで、体が生まれた時も、若者の時も、あるいは死に掛けている時も、自我はいつでも同じようにあり、永久に変わることはありません。この人の考え方は、ヒンドゥー教の考え方と一致すると見ることができます。つまり何かを自分と捉え、そしてそれは死ぬことなく存在し、変化することもないと信じています。
しかしこの人の考えは、しきりに自我の活発性に期待して、自我が永久に働き続けること、つまり尽きることなく働き続ける自我がありることをを願っています。いつまでも尽きることなく安楽(働かないで)に暮らし続けたいと願う教義と同じです。しかし働くという言葉を、幸福を味わう、あるいは幸福を味わうことが仕事と解釈すれば、これならあり得ます。
チャールズ ウェスレイ〔Charles Wesley〕も、休まず働く自我を信じる人もう一人です。「私にはしなければならない責務があり、讃えなければならない神様があり、天国にふさわしいように調整しなければならない自我(自分)がある」と述べています。
グーデーはまた「私自身の自我の活動に関する考えから、私は、私の自我と別の自我を確信している。私が死ぬまで休まず働いて、私の魂を支えることができなくなった時には、自然は私に別の身体を与えてくれる」と述べています。
この人は自我の転生を信じているので、終わりのない自我で「働きたい意欲は自我が存在する縁である」という教えがあるようです。この人が自我の終わりをどのように考えていたかを知ることはできません。もしかしたらヒンドゥー教の考え方のように、変わることのない幸福な生活を考えるだけで、自我の最後について考えなかったのかもしれません。
エジソン〔Addison〕は自我の状態を「最低でも、食べて大小便を排泄しなければならず、そして他の体の処遇から自分の要求を満たす物を求めることまで、生きるために重荷を背負っている人間と正反対で、それはそれ自身の存在に対して何の責務もない」と、非常に繊細に分析しています。
これは幸福の状態を非常に詳細に表現しています。不死であること、降りかかってくる物に動揺しないことにも言及し、これ、あるいはこのタンマは世界の範囲より上、あるいは深いということです。この人はまた、
「自分の存在に対して重荷のない自我は、短剣を振り下ろされて突き刺されても微笑み続けることができ、その剣の鋭い刃に、大声で挑むこともできる。永い時間に星がやつれ、太陽がぼやけ、さまざまな自然が衰弱しても、「その方」は常に不死の若さで輝いている。すべての物質の分子が破壊される最中でも、形ある物が崩壊する最中でも、そして世界中が粉々になっても何の影響もない」と言っています。
ロングフェロー〔Longfellow〕は「死んだ者たちの自我は、高められた陽光にすぎない」と言っています。
この人は自我の不死を信じる外に、それがより良くなって行くと、あるいは変化することのない幸福に近づくと信じています。この考え方は生物学の進化論と同じで、違うのは、こちらは一つの自分を捉えているのに対して、もう一方は仏教の教えのように、引き継がれていきます。
モンゴメリー〔Montgomery〕は「自我は不死である。それの先祖が死ぬことが無いように、死ぬことを知らない」と言っています。
ヒンドゥー哲学がブラフマと呼ぶもの、あるいは世界の自我、あるいは一般的な言い方をすれば創造主である神様がすべての物を生むように、これらの学者たちには自我の出所である信仰がある、と私たちを注目させます。そのように擬人化しなければ、大我、小我と呼ぶ、どちらもただのタンマ、あるいは自然の一種である仏教の考え方と同調できます。厳格な自然の法則は、当然すべての物を存在させる物の主役で、その物質が変化、または崩壊しても、自然の法則が変化することはありません。あるのは目に見えるか見えないかだけです。
しかしワーズワース〔Wordsworth〕の言葉から、これらの人たちは宇宙〔Universal〕の自我という種類の神様を信じていることが分かります。「人は誕生の時眠っていて記憶がない。命の重要性は私たちに現れる自我にしかない。それは遠い場所で生まれ、そこからやってきた。私たちは忘却や迷いの最中に来たのではなく、素裸でもなく、明るい雲に導かれて、私たちの家である神様から来た」と言っています。
これらの考え方は、直接創造主であろうと、あるいはヒンドゥーのアートマンと同じであろうと、自分自身への執着と安心がある神様に由来しているのかもしれません。つまり眠りと混沌の中に生まれてすぐに礼拝するほど、神様から長々と繋がっている自我です。
率直に言えば、生きている時は死んでいる時より悪く、このように自我が体と一緒にあれば、包まれ支配されて、そして非常にたくさんの憂鬱なことをするからです。しかしこの人の言葉で言えば、それでも体を捨てた時には純潔で清潔になります。仏教から見ると、命の中心、あるいは主役は強い有欲(有愛)に相当します。
ソメールヴィリー〔W.G.Somervilie〕は、物質あるいは世界と自我をはっきりと区別しています。
「土で作られた物は必ず土に還り・・・・私たちの自我だけが神様の一部であり、すべてのものが崩壊する時も、世界の消滅から逃れることができる」と言っています。
このように信じることは「自我、あるいは魂は体などに依存することなく、それだけで存在できるもの」と最高に執着します。このように信じれば「水がある時だけ波があるように、心は依存する場所である体が存在する間だけ現れる。私たちが自我と理解している物は心の感覚だけ、あるいは時々生じて、密に連続している心でしかない。そしてそれを支える形(体)に依存しなければならない」という仏教の教えと反対です。
別の言い方をすれば、形がなれば心の感覚もあり得ず、脳がなければ考えはありません。しかし彼が自我と呼ぶものの意味を発生も消滅もない物とするなら、ヒンドゥーのアートマンの考えと同じです。仏教には人がいないので、人の自我もなく、これらの人々が自分と呼ぶものも、自我と呼ぶものも、ただのタンマ〔自然〕の一種でしかありません。
ジュベナール〔Juvenal〕は、衣服を脱いでその下に隠されていたものを発見するように、身体を剥いで自我を発見しました。「このちっぽけな身体が、巨大な自我を受け止めているという不思議な真実、あるいはタンマを見せてくれるのは死だけだ」と言っています。
彼が言っているのは、真実を隠している身体が無くなった時、本当の自分、あるいは質量共に偉大な自我と呼ぶ物を発見するという意味です。それを受け入れるものとして、価値の少ない身体があります。この項目で非常に奇妙なのは、それまでは、あるいは通常は体を重要なものと見ていますが、アートマンに出会ったとたんに、反対に比較にならないほど価値のある中身を容れる小さな紙クズか何かのように見て、体への愛着や関心を捨てさせ、アートマンに向けさせようとすることです。
このような考え方は死の恐れなくし、体のことばかり考えないようにさせます。しかしこのような見方が哲学的にどれほど高く理に適っていても、それはまだ滅苦の極みではなく、滅苦の極みは更に高く、更に美しい物であることを知っておかなければなりません。それは自我より美しい、あるいは少なくても同じだけ美しい無我の哲学です。
このような考え方があると、嗜好や感覚が内部の自分に傾き、この自我を消すことが多くなり「それを知らない人は、人生を知らないのと、あるいは人間であることやその最終段階についての知識がない」というように、人間に生まれた味を十分に味わうことができません。
ジェリミー タイラー〔Jeremy Taylor〕の言葉から、このタイプの人たちの関心は、自我、あるいは内面の自分しかないと見えます。「天国の美しさを見るのは目ではなく、美しい音楽や偉大な幸運の知らせを聞くのは耳ではない。五欲と哲学両面の様々な味を感じるのは自我である。そしてその自我は何よりも素晴らしく高いものであり、その味わいはどんな味よりも高尚で深い」と言っています。
後の世代のエイブベリー〔Lord Avebury〕という人は、「私たちに身体はあるが、自分自身は魂である。身体は死ぬことがない本物(自分自身)の崩壊する物質だけ」と書いています。要するにこれらの人たちは、自我、あるいは死ぬことを知らない自分自身と信じている自我、あるいは魂に埋もれている知識があります。
その自我は大我から生まれると信じる人もいますが、自分のことを何でもできる自由はあります。自分の自我はなく、神様の部下、あるいは僕、神様の玩具、あるいは神様が作って常に管理すると信じている宗教の、宗教的主張とは異なると見なします。
高さの比較
このような神様を信じる見解には、信じる人に反論させず、一方的に従わせる意図があるので、威圧的な教えの主張になり、自由な考えと行動を許しません。何もかもこのように神様次第なので、低級な自我の教義、ほとんど教育がない野蛮な人達に向いていると見なします。範囲を限定した自我の教義であり、子供時代、あるいは子供じみた考えの人のための教義と見なします。
大きくなると束縛から解放されることを知り、自我が芽生え、何でも自分のために自分のことをし、神様のためではありません。そして私たちは、もう子供のための神様に頼る必要はありません。
私たちは自分で作ったカンマを信じ、まだ生まれることに飽きないうちは、また生まれてくることもできます。そして私たちは常に自分で作っておいたカンマで経過し、現生だけでカンマを作らせ、記録されて最後の審判の時を待っている、神様の商用扉は閉ざされていません。
このような自分の物である段階の自我を捉えるのは、一段階高い、あるいは一段自由と見なすことができます。その上最高の善や美、あるいは純潔を行なっていれば、その後は変化することのない幸福な自我になる希望があります。そして東洋の哲学とも西洋の哲学とも一致すると見ることできます。
しかしいずれにしても二番目の段階、あるいは神様のではなく自分自身の自我でも、まだ最高の自由と見なしません。まだ自分自身に自分が閉じ込められています。牢獄である自分の執着、自分を背負うこと、自分に酔うこと、自分への陶酔に閉じ込められています。火で焼いていると感じずに、自分自身を焼き炙ります。自分に満足し、愛し、自分を好くので、仏教の考え方では最高の滅苦と見なしません。次のたとえ話を考えてみてください。
ある男が森へ行って鈴なりの果物を見つけ、「良い果物なので重くは感じない」と喜んで、採って背負えるだけ詰め込みました。歩いているうちにだんだん嬉しさが薄れ、疲れが出て重く感じたので、少しずつ選り分けては捨て、最後に一房だけになりました。それでもまだ重く感じたので、食べたり捨てたりして手ぶらになりましたが、まだその場に横になりたいほどの疲れを感じました。
しかし次の瞬間、辺り一面の金の固まりを見つけ、男は家へ持ち帰ろうと思って初めの果物よりもっと重い金をかき集めました。どこにそんな力があったのか分かりません。しかしその後、持ち帰れないほど重く感じたので、選り分けて捨てたり、次々に隠したりして、疲れていても持って行けるだけ、塊一つにしました。
しかし間もなく上等なダイヤモンドがいっぱいの宝の山を見つけました。男は金塊の時よりももっと重いダイヤを掻き集めました。どこにそんな力があったのか分かりません。しかし結局どんどん疲れが出て、最後には選りすぐって捨てなければなりませんでした。
その上幸運で心が舞い上がっていたので、道に迷ってしまい、男は少しずつ放り捨て、最後に空っぽになりました。すると、自分は何かを持っていると思わなくて良いので、あるいは普通より心が興奮しないので、とても幸福になりました。
最後のダイヤの一粒を捨てた時、呼吸が楽になり、穏やかになりました。最高品質の一粒のダイヤは持って行けないほど重くはありませんでしたが、心が抑圧されるので捨ててしまいました。最高級の一粒は重くはなく、持っても下げても行けますが、そうしなかったのは心が抑圧されたくなかったからで、男は結局に納得して捨ててしまいました。
これは、私たちに自分の自我があることと同じで、どちらを選ぶことも、どんな物をどれほど長く、あるいは永遠に終わることなく持ち続けることもできます。しかし結局は、長くいればいるほど、いつまでも自分を「背負って」いるだけで、自分という感覚がないことには敵わないと気づきます。
何が残っても、それを背負うことも、重いこともありません。これが、私たちがこれから自我の足枷から逃げ切るまで歩き続ける道です。私たちの自我がもう一段階発展して自我から脱出するレベルになれば、それ以後は誰も背負わなくても良い類の幸福が続きます。しかし背負う人がいる類の幸福を好む人は、その後は前進しません。
そして前進することの結果に目覚めない、あるいは理解できないので、そこに止まり、それで「みなさん、これが最高の幸福です」と叫びます。
述べてきただけで、自我の掌握は本物でも何でも、何をどのようにも、自分の望みどおり全く変化しないのでも何でも、自我があれば背負う自分があると、自我に満足すると、まとめてみなさんに見せるに十分です。私たちの自我のある状態は、価値(Quality)の一種とすることができます。その人の心がまだ価値から脱していないので、どんなに満足していても、執着や理解で価値を背負わなければなりません。
背負う人である自分がなければ、つまり「これが自分」と感じる自分がなければタンマだけであり、そしてそれが、仏教が教えて知らせようとしているすべての苦の終わりである「無我」です。
だから第一義諦家の自我がどれほど崇高でも、それは「残煙」でしかなく、そして非常に掴みどころのない自我に後退するだけです。だから第一義諦家の自我は、自分を騙して自分を背負わせる外に価値はありません。しかしそれはポッタパーダ経で述べている三種類の自我のように、背負っていると簡単に分からないように巧妙に背負っています。
自我〔自我という感覚〕をすべて払い捨てて、有為の類の自然で循環していくタンマだけにしてしまい、そして無為の類のタンマである状態で、すべての物、あるいはすべての行為を空にしてください。それが苦の終わりであり、自我がないこと、無我です。
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