いろいろな見解の比較

 ごく簡単にまとめれば、すべての考え方を二つに分けることができ、一つは自我、あるいはアートマンがあると言うグループで、もう一つは自我、あるいはアートマンはないと言うグループです。

 自我があると言うグループの中にも、ある物には自我はないが、ある物には自我があると言う人たちもいます。たとえば(アーラーラとウダカの)二人の仙人は、世界、あるいはいろんな世俗のもの「ローキヤタム」には自我はないとしましたが、解脱、あるいは世俗のものから解脱したことを知る自分を捉え、それが自我です。

ヴェーターナタも似ていて、違うのはアートマンが悟った人でないことです。つまり心が世俗から解脱した時に、明らかな智慧が生じた状態であり、そしていつでもどこにでもあるものと同じ状態です。そして二人の仙人と同様に、世界のすべての物には自分はないと言っています。

 パクダ カッチャーヤナなどのグループは、チーヴァと呼ぶものがあり、たぶん自我を意味し、不死のものです。たぶんそれ以外のものは無我と否定すると理解します。

ニカンダナーダプッタ(ジャイナ教)は本当の自我があり、ブッダの時代にあったヴェーターナタの主張のような形と理解します。現在のヴェーターナタとの違いは、昔より説明が詳細になったこと、そして哲学的な面をより重視していることです。それまでは実践に重点が置かれていました。

このグループをまとめれば、生じない、消滅しない、何も作り出さない無為、無限に存在するものを、本当の自我あるいはアートマンとしています。これらの主張は、その後苦がないものにアートマンを探求しているからです。そして生老病死が苦であることを知っているので、アートマンは少なくとも生まれず老いず病まず死なないものでなければなりません。アーラーラ仙人は、自分がそのよう(アートマン)だと知った人の状態が生まれず老いず、病まず死なない自分と考えました。

 一方自我がないとするグループはアジダ ケーサカンバラなどの主張、あるいは Nihilism と呼ばれるもので、人が呼んでいるようなものを何も認めず、自我も無我も否定するということです。涅槃、あるいはすべての苦が消滅した状況がなければ、涅槃は自我か無我かという問題もありません。

ブラナ カッサバの考え方も同じようですが、現象として現れている物質を多少認め、何もかも自分の目で見えるだけと言っています。要するに、何もかも自我はない、あるのはただの影かマヤカシで、そして消えて行くだけのものです。要するに、永遠の自我があるグループは常見であり、永久に変わらないものがあり、何も自我はないとするグループは断見であり、言われているようなものは何もない、あるのは消滅していくものばかりで、何もありません。

 私たちの仏教では、常見のような永久不変の自我を認めません。無為のものは、生じず滅びず永久不変に存在することは事実ですが、それは自我ではなく、そのような自我はありません。あるのは消滅、あるいは世俗の物、あるいはすべての有為の消滅だけで、その人たちが執着しているような自我、あるいは永遠にあり続ける自我ではありません。

だから仏教の見解は常見ではありません。別の主張をすれば、仏教には永遠の自我はありません。永久不変のものは本当にありますが、自我ではなく、消滅した状況にすぎず、あるいはすべての永久不変でないものが消滅した状況だけで、そしてそれを涅槃あるいは無為と呼びますが、自我ではありません。

 もう一面、仏教は虚無論、あるいはニヒリズム(虚無主義)のように、何もかも否定せず、断見のように死んだら消滅すると考えません。仏教は次のような不変の教えを捉えています。

1.すべてのものは、原因によって、あるいは原因と縁で生じるものなら、縁あるいは原因がある間中存在し続けますが不変ではなく、縁の変化によって常に変化します。死と呼ぶものも、発現させる、あるいは再び生れさせる原因と縁がなければ、完全に消滅します。しかし私たちは生(誕生)や死と捉えることを好みません。なぜならそれはただ原因と縁で変化していく一つの状態にすぎず、それの満足する(誕)生でも死でもないからです。

2.しかし原因も縁もないものなら、ブッダが「涅槃はある」と言われたように、当然発生も消滅もなく、そして永久不変に存在します。つまり原因と縁がなく、そして原因と縁から生じたものがない存在の状況です。簡単に言えば、すべての原因であるものと結果であるものを抜き取ってしまった後に残るもの、それを「原因でも結果でもないもの」、「原因と結果が全くないもの」、そして「すべての原因と結果の終り」と言うことができます。

原因であれ結果であれ、この境涯になると、すべて残らず消滅しなければなりませんが、消滅した状況は永遠にあり、それがすべての苦の消滅の境地です。すべての苦は結果であり、原因つまり無明などの煩悩から生じた結果とするので、涅槃が原因と結果の消滅なら、涅槃は煩悩とすべての苦が消滅した状態です。

 この意味で仏教は永久不変なもの、つまり原因も結果もないものはあると認めていますが、それは自我でもなく、アートマンでもありません。そして他に永久不変でないもの、つまりいろんな原因、煩悩、良いカンマ、悪いカンマ、幸、不幸、それに関わるすべての物質があります。しかし後者は不安定で常に変化しています。だから仏教は虚無論ではなく、すべてを否定する断見でもありません。

 もう一度まとめると、仏教は永久不変の自我があるとしないので常見ではなく、原因と縁があるものは原因と縁次第であり、原因と縁のないものは無限に存在すると考えるので、断見でもありません。仏教は「二つの状態があり、一つは有為と呼ばれる永久不変でない不安定な存在で、もう一つは無為と呼ばれる永久不変の存在」と見なしているので、虚無論あるいはニヒリズムではありません。

 相違点、あるいは特に他の主張と同じでない要旨を探せば、永久不変のものと永久不変でないものがあると認めてはいても、どちらも自我ではなく無我なので、仏教には自我がないと分かります。自我があるなら、述べたような仏教以外のいずれかの見解です。そしてそれ以上に重要なことは、自我があれば当然すべての苦を消滅させる状態、あるいは知識ではありません。これに関しては、涅槃は自我か無我かという章で詳しく述べます。

 要旨だけを比較して見ると、自我があると信じる側は、第一義諦のレベルまで高くても、まだ自我があると分かります。特にウェーダナタの考え方は、世俗のものから解脱したアートマンを最高の滅苦と見てモーカサ(解脱)と述べると分かります。

もう一方無我の側は二つに分けられます。つまり虚無論、あるいはニヒリズムのように、仮定の言い方、あるいは深遠な言い方でも、何もないとすべてを否定する無我と言う人たちです。

しかしよく熟慮してみると、このような考え方は自我にも無我にも関係なく、ただ一方的に否定することに注目しますが、偶然その否定が、自我あるいは無我を否定するように見えると分かります。

仏教では無我と言っても、すべてのものがあると、つまり二種類のタンマ、生じて消えるものと、変化できる種類があることを認めています。この二つを世俗の言い方、つまり俗人の仮定では、例えば心などを自分と呼びます。以前からそのような言葉で言い表していて、本能の言葉、つまり自分と感じる動物の普通の感覚なので、自分自身である全部をまとめて、自分と呼びます。

しかし第一義諦の言い方、あるいは真実は、仏教には自分はなく、あるのは述べたような二種類のタンマだけです。もし何らかの種類のタンマを自分と呼ぶなら、発生も消滅もしない、あるいはその後変化をしない無為でも、それは世俗の言い回し、あるいは世俗の言い回しが更に口癖になっているのであって、第一義諦の言い方、あるいは厳格な言い方ではありません。

ブッダは自我、あるいはこうした言い回しを避け、人々が話しているように世俗的な言い方で話す時、特に道徳の部分、あるいはまだ解脱しない部分で「自我」や「自分」と言う以外は、ブッダの哲学にあまり関わらせませんでした。

もう一度更に短くまとめると、第一義諦で言えば、最終段階でも自我があり、最後の自我が探求の目的である人たちの主張と反対で、仏教には自我はなく、同時に仏教では残らず手放すことを望みます。 

 


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