4.いろんな見解の比較





 ごく簡単にまとめれば、すべての考え方を二つに分けることができます。一つは自我、あるいはアートマンがあると言うグループで、もう一つは自我、あるいはアートマンはないと言うグループです。

 自我があると言うグループにも、ある物には自我はないが、ある物には自我があると言う人たちもいます。(アーラーラとウダカの)二人の仙人は、世界、あるいはいろんな世俗のもの「ローキヤタム」には自我はないとしましたが、解脱、あるいは世俗の物から解脱したことを知る自分を捉え、それが自我です。

 ヴェーターナタも似ていますが、違うのはアートマンが悟った人でないことです。つまり心が世俗から解脱した時に、明らかな智慧が生じた状態であり、いつでもどこにでもある物と同じ状態です。そして二人の仙人と同様に、世界のすべての物には自分はないと言っています。


 パクダ カッチャーヤナなどのグループは、チーヴァと呼ぶものがあります。たぶん自我を意味し、不死のもので、たぶんそれ以外の物は無我と否定すると理解します。

 ニカンダナーダプッタ(ジャイナ教)は本当の自我があり、ブッダの時代にあったヴェーターナタの主張のような形と理解します。現在のヴェーターナタとの違いは、昔より説明が詳細になったこと、そして哲学的な面をより重視していることです。それまでは実践に重点が置かれていました。

 このグループをまとめれば、生じない、消滅しない、何も作り出さない無為、無限に存在する物を、本当の自我、あるいはアートマンとしています。これらの主張は、その後苦がない物にアートマンを探求しているからです。そして生老病死が苦であることを知っているので、アートマンは、少なくとも生まれず、老いず、病まず、死なない物でなければなりません。アーラーラ仙人は、自分がそのよう(アートマン)だと知った人の状態が生まれず老いず、病まず死なない自分と考えました。

 自我がないとするグループはアジダ ケーサカンバラなどの主張、あるいは Nihilism と呼ばれるもので、人が呼んでいるようなものを何も認めず、自我も無我も否定するということです。涅槃、あるいはすべての苦が消滅した状況がなければ、涅槃は自我か無我かという問題もありません。

 ブラナ カッサバの考え方も同じようですが、現象として現れている物質を多少認め、何もかも自分の目で見えるだけと言っています。要するに、何もかも自我はない、あるのはただの影かマヤカシで、そして消えて行くだけのものです。要するに、永遠の自我があるグループは常見で、永久に変わらない物があり、何も自我はないとするグループは断見で、言われているような物は何もない、あるのは消滅していく物ばかりで、何もありません。

 私たち仏教では、常見のような永久不変の自我を認めません。無為のものは、生じず、滅びず、永久不変に存在することは事実ですが、それは自我ではなく、そのような自我はありません。あるのは消滅、あるいは世俗の物、あるいはすべての有為の消滅だけで、その人たちが執着しているような自我、あるいは永遠にあり続ける自我ではありません。

 だから仏教の見解は常見ではありません。別の主張をすれば、仏教には永遠の自我はありません。永久不変のものは本当にありますが、自我ではなく、消滅した状況にすぎません。あるいはすべての永久不変でない物が消滅した状況だけで、そしてそれを涅槃あるいは無為と呼びますが、自我ではありません。

 もう一面、仏教は虚無論、あるいはニヒリズム(虚無主義)のように、何もかも否定せず、断見のように死んだら消滅すると考えません。仏教は次のような不変の教えをがあります。

1.原因、あるいは原因と縁で生じるすべての物なら、縁あるいは原因がある間中存在し続けますが不変ではなく、縁の変化によって常に変化します。死と呼ぶものも、発現させる、あるいは再び生れさせる原因と縁がなければ、完全に消滅します。しかし私たちは生(誕生)や死と捉えることを好みません。それはただ原因と縁で変化していく一つの状態にすぎず、それの満足で(誕)生まれたり死んだりしないからです。

2.しかし原因も縁もない物なら、ブッダが「涅槃はある」と言われたように、当然発生も消滅もなく、そして永久不変に存在します。つまり原因と縁がなく、そして原因と縁から生じた物がない存在の状況です。簡単に言えば、すべての原因である物と結果である物を抜き取ってしまった後に残る物、それを「原因でも結果でもない物」、「原因と結果が全くない物」、そして「すべての原因と結果の終り」と言うことができます。

 原因であれ結果であれ、この境涯になると、すべて残らず消滅しなければなりませんが、消滅した状況は永遠にあり、それがすべての苦の消滅の境地です。結果、あるいは結果と見なされるすべての苦は、原因である無明などの煩悩から生じます。涅槃が、原因と結果の消滅なら、涅槃は煩悩とすべての苦が消滅した状態です。

 この意味で仏教は永久不変な物、原因も結果もない物はあると認めていますが、それは自我でもなく、アートマンでもありません。そして他に永久不変でない物、つまりいろんな原因、煩悩、良いカンマ、悪いカンマ、幸、不幸、それに関わるすべての物があります。しかし後者は不安定で常に変化しています。だから仏教は虚無論ではなく、すべてを否定する断見でもありません。

 もう一度まとめると、仏教は永久不変の自我があるとしないので常見ではありません。原因と縁がある物は原因と縁次第で、原因と縁のない物は無限に存在すると考えるので、断見でもありません。仏教は「二つの状態があり、一つは有為と呼ばれる永久不変でない不安定な存在で、もう一つは無為と呼ばれる永久不変の存在」と見なしているので、虚無論あるいはニヒリズムでもありません。

 相違点、あるいは他の主張と同じでない要旨を探せば、永久不変の物と永久不変でない物があると認めてはいても、どちらも自我ではなく、無我なので、仏教には自我がないと分かります。自我があるなら、述べたような仏教以外のいずれかの見解です。そしてそれ以上に重要なことは、自我があれば、当然すべての苦を消滅させる状態、あるいは知識ではありません。これに関しては、涅槃は自我か無我かという章で詳しく述べます。

 要旨だけを比較して見ると、自我があると信じる側は、第一義諦のレベルまで高くても、まだ自我があると分かります。特にウェーダナタの考え方は、世俗の物から解脱したアートマンを最高の滅苦と見てモーカサ(解脱)と述べると分かります。

 もう一方無我の側は二つに分けられます。つまり虚無論、あるいはニヒリズムのように仮定の言い方、あるいは深遠な言い方でも「何もない」とすべてを否定する無我と言う人たちです。

 しかしよく熟慮してみると、このような考え方は自我にも無我にも関係なく、ただ一方的に否定することに注目しますが、偶然その否定が、自我あるいは無我を否定するように見えると分かります。

 仏教では無我と言っても、すべての物はあると、つまり二種類のタンマ、生じて消える物と、変化できる種類があることを認めています。この二つを世俗の言い方、つまり俗人の仮定では、心などを自分と呼びます。以前からそのような言葉で言い表していて、本能の言葉、つまり自分と感じる動物の普通の感覚なので、自分自身である全部をまとめて、自分と呼びます。

 しかし第一義諦の言い方、あるいは真実は、仏教には自分はなく、あるのは述べたような二種類のタンマだけです。もし何らかの種類のタンマを自分と呼ぶなら、発生も消滅もしない、あるいはその後変化をしない無為でも、それは世俗の言い回し、あるいは世俗の言い回しが更に口癖になっているのであって、第一義諦の言い方、あるいは厳格な言い方ではありません。

 ブッダは自我、あるいはこうした言い回しを避けられ、人々が話しているように世俗的な言い方で話す時、特に道徳の部分、あるいはまだ解脱しない部分で「自我」や「自分」と言う以外は、ブッダの哲学にあまり関わらせませんでした。

 もう一度もっと短くまとめると、第一義諦で言えば、最終段階でも自我があり、最後の自我が探求の目的である人たちの主張と反対に、仏教には自我はありません。同時に仏教では残らず手放すことを望みます。




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