他の教義の無我

                                                     仏教以外の教義の無我は、仏教の無我と混同しないために聞いておく必要があります。それは、仏教の教えで誤った見解と見なされる部類と、誤った見解とまでは言わないけれど仏教の考え方ではない、あるいはブッダが残したものとは違う部類の、二つに分類することができます。

   

誤った見解である無我についての見解

 仏教の教えで誤った見解と見なす無我の主張、あるいは婉曲な説明は三種類、つまり無作用論(キリヤディティ)、無因果論、又は唯物論(アヘトゥカディティ)、虚無論(ナッティカディティ)があります。ブッダの時代のブッダのライバルだった人の哲学的な考見解、つまり「仏教と違う教えがある人の」という意味で『六師外道』と呼ばれる人の見解です。

これらの教祖の考え方は、どこにでも入り込んでいる無我の教えということに出合います。中には仏教と同じように、国王のような高いレベルの人に受け入れられるほど深遠で緻密な考え方もあり、今日でも、良いライバルです。

 六人の教祖の中の(1)プーラナ カッサバの考え方(道徳否定論)は、徳も罪も善も悪もありません。殺し合いも盗みも、他人の妻を盗むこともありますが、それによる罪はなく、たとえすべての生き物を殺して肉を剥いで山と積み上げ、世界中を剥いだ肉の海にしても、あるのはその行為だけで、誰の罪でもありません。

 生贄を捧げたり、世界中のサマナ・バラモンに布施をしても、その行為があるだけで誰にも徳は生じません。神聖なガンジス河の右岸、あるいは左岸でしても、信じられているような徳や罪は生じません。この主張では、行なった行動、あるいは目の前にある物質以外には何もありません。たとえば殺生は生き物を刃物で切ることでしかなく、結果は生き物が傷つくか死に、あるいは少し上ならその肉を食べられることで、その裏に潜んでいる罪も徳もありません。これが徳や罪を作ることを否定する行動説です。

 これは現代人の考え方と同じで、科学者のある人たちは物質しか認めず、宗教の考え方を古いと見ますが、物質しか認めない考え方はブッダの時代からあり、ブッダが生存している時から競合していたと知らないかもしれません。

このような考え方も自我を否定し無我を示唆しています。つまり物質がすべてで、自然のものであり、そして徳や罪を作る誰の自我もありません。仏教と比べると、この考え方はまだ自我を捉えている人の徳や罪を否定しているので行きすぎであり、同じ自我を捉えないレベルでも外面しか見ていません。それでもこの教義を信じる人はたくさんいるので、この人は有名な教祖の一人になりました。 

(2)マッカリ ゴーサーラが弟子たちに教えたのは「命は自然の塊で自然に循環していくだけだ。循環のどの部分も同じで、最後には止まるか消滅し、それ自体として残るものは何もない。誰も徳や罪を積む自分にできず、少しもそれを変えることはできない。それに毛糸玉の糸端をつかんで玉を放り投げると、玉は転がりながら少しずつ解けていき、糸がなくなれば自然に回転も止まるから止める努力をする必要がないように、早く循環を止めて消滅させるために、急いで純潔にする心配は要らない。

 無理に純潔にしてもしないのと変わらない。そして純潔あるいはその消滅は、誰も急かせたり遅らせたりすることはできない。だからそれを憂鬱にしたり純潔にしたりする理由、あるいは威力はない。純潔の原因である善行や憂鬱の原因である悪行はただの欺瞞だ」という考え方(宿命論的自然論)です。

 この考え方は何もする必要がなく成り行き任せなので、支持する人がたくさんいます。自我、あるいは自分の力をすべて否定する哲学です。純潔と憂鬱の違い、「人が何らかの原因を作って憂鬱になるか純潔になるかはその人の行動次第であり、その結果は、世俗の言葉で「自分」と呼ぶその行為をした体と心にある」と教える仏教と、その点が違います。

 第一義のレベルでも、仏教が『あらゆるものは無我である』と言うのは、憂鬱はない、純潔はない、あるいはそのようにする原因もないと否定しているのではありません。マッカリ ゴーサーラの考え方は、すべての生物は徐々に高く進化していく現代科学の進化の法則と同じで、避けているのは、その中で私たちが進化を遅らせるよう妨害したり、早めるよう促進したり、均一でなくする威力や原因を作ることです。

 仏教では、いずれにしても涅槃は終着点であり、誰でも到達しなければならいと信じられていますが、この項目には例外があます。現世で生きているうちに到達する原因を作ることもできるし、それをしたことで一劫(世界が一回生まれて消滅するまでの間)の間中苦界に身を沈めなければならなくなり、進歩を遅らせてしまう原因があることも認めています。仏教は原因の力を認めているという意味です。

この考え方は断固として否定し、それは少しも変えることができないという立場で、原因について考えません。その考えを無因果論と言って、原因がないという意味です。言い換えれば善や悪を積むと仮定した自分がないという意味です。

 

(3)アジタ ケーサンカンバラは現在ニヒリズムと呼ばれるものと同じ、すべてのものを否定する教え(唯物論、快楽論)を説いています。つまり何もありません。たとえば父母がいて先生がいて、尊敬があり、積善があり、この世があり別の世があり、神様やサマナやバラモンなど立場の違ういろんな人がいれば、迷ってあれこれと呼ぶので、お互いにあれやこれや振舞わなければなりません。

本当にあるのはマヤカシと空だけであり、人間は単なる元素の集まりで、消滅する時は元の一つ一つの元素に分かれ、死んだら焼かれて灰になるだけで、魂もなければどこへ行くこともありません。

生贄を捧げるような善行は、それらを焼いて灰にするだけで、徳も徳の結果を受け取る人も何もありません。積善や布施は、臆病な人たちが功徳があると決めただけで、ただの嘘、出まかせです。善人も悪人もなく、愚か者も学識者もなく、ただ元素の集まりにすぎず、死んでしまえばすべてが終わり静かになります。

 この考え方は、この世もあの世もこの世界もないと言われるように、すべてのものは本当にはないと否定します。あるのは、止まることを知らず集合と分裂を繰り返している元素だけです。この教理は面倒でなく、あれこれ気を使わなくて良いので信じる人を安心させます。そしてすべてが成り行き任せで、何が起こっても喜んだり悲しんだりしません。

この考え方が仏教と違うのは、仏教では、まだ人に煩悩や取がある段階では「それらは言われている通りに全部あり、自分や他人を困らせない正しい行動をしなければならない」としている点です。

 その「体と心」が行動する人であり、最後に完全に消滅するまでいろいろな名前で呼ばれ、体と心が消滅する時に、その人と一緒に消滅します。仏教は凡人、あるいは世間の人が仮定していることを否定しないので、教えられ信じられているように捉えて行動しなければなりません。ローグッタラ(脱世俗)へ行くためのローギヤ(世俗)のレベルと言います。

この考え方を「虚無論」と言い、「何もない。言われているようなものは何もない」という意味で、むしろ身勝手に行動するために否定する無我で、怠けるためでなければ物事を好きなように不潔にするためで、この考え方を「断見」と言い「死ねばそれだけ」という意味です。

 

(4)パクダ カッチャーヤナは生物は七種類の物質、つまり土・水・火・風・幸・苦・命の集まりで、それらはどれもそれ以上細かく分解できない(無因果論的感覚論)。それは永久不変で、誰もそれを傷めつけたり変化させたりすることはできず、聞くことも、受け取ることも怒ることも何もできないと教えています。

だから誰かが誰かの頭を切り落とし、肉を大小片に切り分けても、誰が誰に何をしたとは言いません。水を刃物で切っても、水に溶けている元素の原子が分かれて刃物が通過しただけなように、ただ同じ元素の混入、あるいは通過(誰もそれ以上はできない)にすぎません。誰かが誰かを養護することもなく、誰かが誰かを切断することもなく、誰かを殺す人もなく、誰かの面倒を見る人もなく、同じ元素の間の移動と交代があるだけです。

この考え方は仏教とは異なり、仏教は同じ元素(大種)について教えていても、お互いの間で振舞うタンマに適った行為を保証し、まだ執着がある間は、元素が通過しているだけだとは見なさず、執着がなくなってもそのような行動を世俗の仮定では善とか悪と呼ぶという感覚があります。それを自分のものと執着しないだけで、人間や動物や、あるいは創造者に作られた人と仮定した集団のものとします。

例えば人間が自動車を作れば、それはいろんな元素を組み合わせただけだと知っていますが、自分たちにとって役に立たない物とは考えないで状況にふさわしく使い、ただ、ああだこうだ、あるいは命があるなど強い愛着による苦を生じさせるほど愚かに執着しないだけです。この考え方は、強盗団のように殺戮を好む人たちを満足させ、誰も殺される人はいないのだから罪ではないという教えは、普通以上に勇気づけます。インドの戦士の中には、昔からこの考え方を支持する人たちがいました。

 

(5)サンジャヤ ヴェーラッティプッタは「すべてのものは何でもないので、名づけたり、何とかいう名前で呼んだりできない」という(懐疑論、不可知論)教理を教えました。

たとえば人は死んだらまた生まれるのかと言えば、そうではなく、死んだら生まれないのかと言えばそうでもなく、生まれたり生まれなかったりするのかと言えばそうでもなく、生まれるというのでもなく、生まれない訳でもないというのも違い、生まれることがあるのとも違い、生まれないことがあるのも違い、そのようなのかというのも違います。

これは「何もこうだと規定することができない」と言いたい例で、ヴィカケーパラッティ、あるいはラッティサーイと言います。もしかしたら規定する聡明さがないからかも知れません。仏教の中にも、例えば涅槃は自我でもあり、無我でもあり、自我でも無我でもなく、何でもないというように否定する集団、あるいは人がいます。

この考え方を滅苦に役立つ哲学の形にすれば「何かを気にしてはならない。確実なものは何もないから、それを何かだと捉えることはできない。すべてのものを捨ててしまっても良い。恐れず、それについて考えなければ、それらのものすべてから心が抜け出すことができる」と理解しなければなりません。分かり易いです。一方仏教は、仮定や規定を、仮定として、規定として認めています。

述べたのはすべて、仏教の規定では仏教ではないとしているものであり、アッタカター(パーリ経典の注釈書)のアーチャンたちは誤った見解としているものです。

 

(6)ニガンダ ナータプッタの教理(自己制御説)。仏教の教典であるパーリ・沙門果経に見られるニガンダ ナータプッタ(ジャイナ教教祖)の説明は、仏教の教えとあまり変わらず、違いと言えばアートマンがあるだけですが、それでもブッダは間違った見解としています。パーリ・沙門果経に見られるニガンダ ナータプッタ(ジャイナ教教祖)の考え方は、ニグローダナになる修行をする人は、次の重要な四項の努力を極めなければならないとあります。

つまり罪を防ぐタンマで罪を防ぎ、身につけるタンマを身に付け、罪を消滅させるタンマで罪を消滅させ、罪を消滅させるタンマで梵行を極めること。このようにできればアートマンに到達したと言われ、修行が終わって永遠に無我の生物になります。この人の見解は最初から現在まで仏教のライバルです。

仏教の翻訳経典(アッタカター)のレベルの書籍ばかり読まないで、一方に傾いていない公正な歴史書や歴史関係の本を見れば、この教義は仏教と同じくらい、あるいは仏教より信奉されていることが分かります。

ブッダの時代の国王級の人たちも同レベルと称賛しています。仏教のアッタカターの時代には、異常に執心して悪意で他派を非難していたにも関わらず、それでも消滅することなく、所により、ある国には異教徒の信者や弟子が仏教徒より多かったとあります。

 

 

誤った見解とまでは見なされない無我

  誤った見解とまでは見なされない無我の考え方は、カーラーマ姓のアーラーラ仙人と、ラーマプッタのウダカ仙人の考え方から知ることができます。この二人の教祖はブッダが大悟する前に弟子入りして学んだことがあり、他の人よりもはるかにレベルが高いとブッダが保証しています。

つまりブッダが大悟して、誰を初めに救ったらよいかと考えた時、この二人の修行者は滅苦に最も近い人なので、訪ねて行って救済すればすぐに結果があると考えられましたが、二人とも既に亡くなっていました。

この二人の修行者の考え方を無我・自我に関してだけ簡単に言えば、「心が最高に純潔になれば、最高度あるいは限界に達したと感じる。最高点に達したと感じる人をケータンユーと呼び、私たちが到達したいと願っているアートマンである極限を知る人で、すべての苦の終わりである」というものです。

どうしたら心を最高に純潔にできるかは決まった様式があり、前者(アーラーラ仙人)は現代人が呼ぶところの無所有処で、後者(ウダカ仙人)は非想非非想処です。これについてはそれだけを詳しく解説した本があります。今私は、その実践の結果である無我に関わる考え方を熟慮します。

理解し易くするために、この二人の修行者は、ブッダと同じようにカンマについて教え、生贄や様々な儀式に反対したことを知らなければなりません。ブッダがまだボディーサッタ(菩薩。ブッダは悟る前の自分をそう呼んでいる)だった頃、苦の終わり、あるいは苦が全くない状態について質問するために訪ねています。

その時師(アーラーラ仙人)は「私の方法(私たちが呼ぶところの無所有処)を完璧に実践すれば、純潔の極み、あるいは苦を脱した感覚、あるいはヤーナが自然に生じ、心がそう感じている時だけある。その知るものがアートマンだ。〔しかしその派の考え方では、アートマンは心でも、ヤーナ(智)のある心でもありません。心ではないアートマンがあるからです。〕そのアートマンがすべての苦から脱したことである。そうなるまで努力しなさい」と答えました。

(ブッダは)「それをアートマンと呼ぼうと何と呼ぼうと、それを意識する、あるいは知ることがあるうちは、それをすべてから脱出したと呼ぶことはできない」と反論されました。それを知ることがあれば、それの価値〔Quality〕に囚われていると言われるからです。何かを知ることはその価値を知ることであり、その知識あるいは価値に囚われるので、本当に苦から脱出しても、最後のレベルでも厳格な滅苦でもありません。ブッダはもっと高度なものを求めました。

ウダカ仙人の主張はアーラーラ仙人より高度な実践でも結果は同じで、「知る人」が現れ、そしてそれが苦の終わりです。違いはほんの少し、修行方法が初めの先生よりも緻密で、その時の心を「生きているのでもなく、生きていないのでもない」と呼べるほどでしたが、結果は同じ、つまりアートマンです。そのアートマンが純潔の極みに到達した自分自身を知り、無限にそのような幸福の状態が続きます。要するにこの二人の目標は、述べたようなアートマンがすべての苦の終わりということです。

 

P. Carus のブッダの伝記には、ボーディサッタは『すべての生き物が奴隷でなければならないのは自分という見解を脱ぎ捨てないからです』と反論したとあります。

『私たち人間の考えでは、ある物質とその性質は違うと考えます。しかし本当は、あなたが火と熱を切り離すことができないように、火と熱が別のものだと言う私たちの考えはあり得ないのです。今あなたはある物の性質を取り出して、性質のないただの物にすると言いました。もしあなたの論理が最も正しいとお考えなら、あなたが最終的に出合うのは、今あなたが理解、あるいは主張しているようなものではありません』。

〔註: 仙人が「執着である性質あるいは知識がないアートマンにするが、脱出した自分がある」と感じると言うので、あなたは熱くない火があるとおっしゃっているようなものですと例えました。プッタタート比丘〕

『人は、智者たちが蘊と呼ぶいろんなものが集合した形ではないでしょうか。私たちは物質である体と感覚、意識、考え、そして最後に明らに知ることがあり、これが人々が「私」と呼ぶものです。「私はこうだ」「私はああだ」と言う時、それらの蘊以外に他の意味はなく、「私」はこれらの蘊が集合して生まれます。

私たちの考えの中以外には、どこにも私自身はありません。自分というものがあって、はっきり分けることができると信じている人は、あらゆるものに関して正しい見解のない人です。アートマンを熱狂的に探求するのは、誤った行動であり、誤った目標であり、姿勢です。真実がないので、誤った方向へ導きます』。

 『自分があるというあなたの考えは、道理と真実の間にある考え方です。〔だから真実を発見できません〕。そのような考え方は捨ててしまってください。そうすればあらゆるものの真実を知ることができます』。

 『そればかりか、もし解脱してもそのように自分を感じる自分が残っていれば、どうして本当の解脱に到達できるでしょうか』。

 

 「純潔なものを掴んで、自分が苦の終わりに到達したと感じることがアートマン、つまり終点であり、人は必ず探求しなければならず、そうすれば自分がすべての苦から脱したと言われる」という二人の仙人の主張について述べる時、他にも似ている考え方の人がいることを知らなければなりませんが、繰り返しになるのでここでは割愛します。

 しかし最後にもう一つ、ウパニシャッドの考え方であるヴェーターナタの考え方についてお話します。これがブッダの時代にどうだったかを、仏教の教典に見ることはありませんが、いずれにしても歴史的に見て、ブッダの時代以前からあったと信じることができます。

 私はこの主張をヴェーダーナタパティーバであるある方から説明していただき、更にその宗派の本で勉強し、次のような要旨を掌握することができました。

 この主張の要旨は「私たちに明があり知識があり最高の純潔があれば、その人の心からすべての世俗的なものが抜け落ち、その人にアートマンが現れる」です。分かり易く言えば、アートマンがそれまでいつでも包んでいた世俗のものから抜け出します。

その時アートマンは自由になり、モッカサ、あるいはすべての苦からの解脱と呼ばれます。アートマンはどこにでもある物の名前ですが、心が世俗のもの(ローキヤタム)に覆われている時には見えません。

見えるようになればアートマンはどこにでもあり、どこのも同じで、自分のもの他人のもの、あるいはブラフマンと呼ばれる巨大な共通のものも、至る所のすべてのものに潜入しているのが見えます。私たちも、他の人も、ブラフマも同じです。だからアートマン、あるいは自分はすべて一体です。

人間一人一人に分けられたのは、世俗の物に覆われたからで、世俗のものをすべて抜き取ってしまえば、すべてのアートマンは一つになります。分かり易く譬えれば空気で、ビンの中の空気とビンの外の空気は本当は同じで、ビンを割ってしまえばそう見えます。しかし世俗のもの〔ローキヤタム〕に譬えられるビンが包んでいるので、あるいは遮っているので、別の部分に、つまりビンの中の空気に見えるだけです。

執着があれば必ず「自分」と感じます。小さなアートマンとパラマートマン、あるいは宇宙の大きなボロンマアッター(至高の自我)はすべて同じです。モーカサ(あるいは仏教の涅槃と同じもの)は小さな自我が世俗(ローキヤタム)から脱出することで、脱出する時に、当然アートマンが見えます。

大乗仏教のある宗派の有名なアーチャンは「ヴェーダーナタのアートマンは仏教の涅槃である」と証言していて、その宗派の本に書いてあります。そう言われると本当に同じであり、違うのは呼び名だけだと分かります。

なぜなら仏教には、心が無明などの心を包んでいるものと、無明から生まれたすべてのものから脱出すれば、それが解脱であり、純潔で穏やかで、苦が完全に消滅して静まり、そして心が苦が消滅した状態を感じれば、それを涅槃と言う規定があるからです。だから仏教では涅槃と呼び、彼らはアートマンと呼ぶだけで、苦の消滅という意味では同じに見えます。

 しかし問題があります。もしヴェーダーナタの主張がそのようであり、その上仏教以前からあったのに、ブッダはその教団に弟子入りされなかったのか、そうすればそれで片付いたという問題が常に生じます。

ヴェーダーナタパティーバのある人は、その人の著作物の中で、ヴェーダーナタの考え方はブッダによって説明され、極めて明解に公開されたと言っています。それ以前は深遠すぎて誰にも簡単に理解できなかったので、別のものと、つまり仏教の考え方とヴェーターナタの考え方は別のものと理解されていたと言っています。

  いずれにしても私はここで「同じではない」と主張します。どう違うのかについては、これから考察します。

 どうぞみなさん、仏教以外の教義の主張を、それぞれの教義の要旨で正しく定義してください。

 


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