ブッダの無我と言うと奇異に感じる方がいるかも知れません。このように限定して言うのは、ブッダの無我は、非常に似通った教義はあっても、他の教義と意味が違うからです。他の教義の無我はどのようかについては、この後の章で述べます。
ブッダの無我は非常に範囲が広く、あらゆるものに自我、あるいは自分があると見ない、あるいはその物、その部分を自我、実体と見ない教えがあります。最も自分があると見そうな物は、一時的なマヤカシでなく、何かに作られなくてもそれ自身で生じ、何もそれに介入して変化させることができない物で、タンマの言葉では有為の反対の無為と呼ばれるものです。
有為は他の物によって作られ、あるいは加工された物であり、他者に依存して存在するので一時的なマヤカシでしかありません。つまり世界、あるいは精神的なものも身体的なものも含めた、世界のすべての物です。無為である真実の状態、あるいは涅槃についてだけ言えば、変化せずに現れている自分があるので、最も自分があり、自我であると考えさせます。
しかし他の物のようにマヤカシでないものが現れていても、それは自分ではなく、誰の物でもありません。それに誰かの物と理解するべきではなく、あるいはそれ自体の物、あるいは誰の物とも捉えるべきではありません。
これについて『すべてのタンマは無我』というブッダバーシタ(ブッダの言葉)があります。解説すれば、すべての物はただのタンマ、あるいは個々の物でしかなく、すべて自然の物であり、有為と無為の二種類に分けられます。
有為は現象として現れたもので、目・耳・鼻・舌・体・心のいずれかで触れることができ、物理学の手法で学んだり関わったりできる範囲にあります。この種のもの、あるいはこの種のタンマはすべてマヤカシです。つまり様々な物が集まって出来ていて、時間の威力の下にあり、形や大きさがあり、それらは止まることなく常に変化しています。それらをまとめて有為と呼ぶことができます。あるいは現象〔Phenomenon〕がある物に相当します。
無為は正反対で、物質面も、ただ触れるだけの精神面でも現象として現れず、それを作ったものはなく、時間の威力下になく、どんな形も大きさもなく、現象として現れる物の規則で測ったり数えたりできません。それを知るには、論理で推測〔Inference 〕するしかありません。道理のある智慧が、それら(無為であるもの)と関わる器官です。
「心が涅槃を感情として留めておく」、あるいは「涅槃の味を沁み込むように味わう」などと言われるのは、涅槃を実体として引き止めておけるのではなく、当然理論的推測による確かな信頼、あるいは確信を意味すると知らなければなりません。自分の心の中で確信になるので「そのようだ」と見ることができるのは自分だけです。人に教えようとするとどう説明したら良いか分からず、話すことはできません。
そして涅槃を味わうことを砂糖の味を味わうように理解すると、明らかに誤解をしてしまいます。本当は、涅槃は味も色も形も、他の何もありません。「涅槃の味を味わう」という言葉は、心に煩悩がなくなった時、涅槃と呼ぶ状態になった時、その状態に味わいがあるという意味です。
水浴で汗や垢を洗い落とせば爽快になりますが、それを清潔の味と言うことができないように、それは清潔に関連があるだけで、清潔に味はありません。しかし体が清潔になると、そのことに新しい味わいがあります。
煩悩がなくすっかり清潔になった心、涅槃も同じです。タンマ、あるいは涅槃の状態には物質的実体はなく、ハッキリ現れる味もないので、触で触れることはできません。心で触れることができる幾つかのもの、例えば愛や記憶や満足などは触れることができ、涅槃に依存する幸福の味も、私たちは触れることができますが、それは心の問題で心の中にあり、時と共に変化し、まだそれを変転させ形を変えさせる物があり、無為あるいは涅槃でなけれならないので更に深くなります。つまり味ではありません。
ここでまとめると、無為は説明し難いものなので、少しずつ観察して勉強し、自分自身で明らかにしなければなりません。ここではただ、無為は現象でないこと、そして有為と正反対であることと述べておきます。特に無為は変化せず、死なず、死を知らず、生まれる必要も維持する必要もありませんが、それでも不変であり、そしてマヤカシではありません。述べたような状態のものを無為と言い、現象のないもの〔Noumenon〕です。
存在するすべての物は、有為と無為の二つしかないという糸口を示した時、続いて「どちらにも実体はなく、その自体の物、あるいは『私の物』という種類の自分はない」と理解しなくてはなりません。
あるのは自然の状態だけで、違いは、有為は一時的なマヤカシであり、もう一つの無為はマヤカシでなく、どちらもただの自然です。このように見させるのは、心に生じる色々なものを受け入れないよう、あるいは振り捨てることができるよう、そして心が何かを自分の物と捉えないようにするためです。
心が執着する有為の側は、身体、自分の心、自分で行なった徳と罪、財産、栄誉、名誉などから、希望・愛・怒り・身勝手などの煩悩、生・老・病・死・衰退・発展などすべて、そして最後は、心に常にある誤解、あるいは輪廻の原因である取です。
心が執着する無為の側は、心が解放された時、あるいは有為のレベルを通過した時に到達して出合う新しい取のない状態、つまり推測して知ることができ、そして習性になっている執着の威力で「自分」と捉える涅槃です。
私たちが避けたり行ったりする徳や罪、善や悪は、何が恐れさせ、あるいは行わせるのか、無我を明らかに見なければ理解は困難です。つまり身体と心は行動する人であり、結果を受け取る人でもあり、それは次の有まで追って行きます。それは全部心と体に含まれています。
しかし体と心は自分ではなく、それを作っている様々な元素が結合している間は、それ自身で自然に、本能でそれ自身のために回転している自然にすぎず、その上まだそれを作る原因と縁があります。体と心は一時的なマヤカシなので自分ではありません。
心が自身への執着から抜け出すことができれば、即座に「自分はない。あるのは人形か、自然が感じたり考えたりできるように作った人形に近いものだけ。それで反対に執着し、あるいは自然が作った人形を自分と理解すれば、自分が生まれ、彼が生まれ、あの人この人、損得、好き嫌いが生まれる。これらはすべてマヤカシである心から生まれたマヤカシにすぎない」と自分自身で気づきます。
人間は通常、幕の表側しか感じていません。誰も無為の側へ行って見た人がなく、裏側があると考えたこともないので、すべてはそれ(有為)だけと自然に理解してしまい、体と心が一体になった物を「自分」と執着します。中心に心があり、もっと狭く言えば神(シン。註)が中心にあり、自分以上の物、あるいは自分以外の物は何もありません。だから自分への執着は非常に強くなり、考えや感情で変化する心と体が一体になった物の所有者になります。
(註:体と心の中間にある、体に密接した心の働きをする部分。神経は神の通る道)
だから普通に知ることができるすべての物は、有為の側の物ばかりです。幕を上げて後ろの無為の側を見たことがないので、無為の話を聞いても訳が分かりません。「体と心は自分ではない」と言うのは、述べたように低いレベルの部分しか知らないので、最高に意味が分かりません。
この意味で『すべての物は無我であり、自分はない』とブッダが言われたのは事実ですが、ブッダは体と心を合わせた物の反応である「徳と罪」を否定されていないと見ることができます。体しかない物ならただの(物理的)反応で、罪や徳とは言いません。「体と心」が無我ならば、徳と罪も体と同じで無我です。「心と体」が無我であることを明らかに理解すれば、途端に徳と罪も無我であることを明らかに理解できます。
その無我である物が、生老病死の形で変化し、罪や徳を積み、善や悪を行っていることを忘れないでください。私たちが幕の裏側に気づかないうちは、幕の前側、「この私は自分」と理解している側しか知りません。罪を恐れ、(自分で捉えている)自分自身のために善行をするのは、誰も自分と感じるのを止められないように、何にも禁止できない当たり前です。
だから本当の凡人である社会では、自我を避けることができないので、ブッダは罪を避け徳を積むよう教え、『自分は自分の拠り所』と言いました。つまり誰でも自分を超える(つまり自分を捉えることから抜け出す)まで、自分がなくなり、自分自身にも、他の何にも頼る必要がなくなり、あるのはタンマ、あるいは自然だけ、循環している物と、静まっている物だけになるまで、自分を自分と捉えて自分自身の拠り所にしなければなりません。
自分を捉えることから脱せば、つまり無我を学んで知れば自分より上になり、阿羅漢は徳・罪・善・悪の上にいると言われるように、徳と罪を作ることより上にいます。自分の自我より上にいるからです。
このように自分から脱出すれば、それ以上に抜け出す自分があるでしょうか。それはあり得ません。以前は体と心を合わせて自分にしたものがありましたが、自我はないと知って捨て、自分がない状態に達せば、その状態をまだ自分と捉えることは、まだ無明がある人か、あるいはまだ勘違いが多少残っている人ならできます。
しかし最後の段階、あるいは本当の滅苦の終わりには、自分があってはいけません。以上の理由から、涅槃に実体があると見なすのは、ブッダの結論ではありません。それは、ブッダより少し前に生まれた教義の考え方ですが、ブッダの死後「ブッダの考え」として仏教教団に甦えり、現代でも同じ考え方をする人がいます。
要するにブッダの無我の教えは、有為も無為もすべての物、あるいは別の言い方では幕の表側も裏側も、つまり無明も明もどちらも無我であると否定しています。「罪を避け、徳を積む自分」という言い回しを認めるのは、まだニャーナダッサナ(智見。真実を見る智慧)がない動物が誤解によって執着しているだけの自分にすぎないという意味です。
今までの説明は、重要な教えの概要でしかありません。詳しくはこの後の章で説明します。そこでは比較して仏教の本当の無我を知るために、先にブッダ以外の無我について考察します。それは、仏教の無我が違った方向になり、気づかないうちに仏教ではない教義の教えを教える人、あるいは説明する人になってしまい、非常にみっともないことになるのを防ぐ道具になります。
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