ブッダの「無我」

 

序文

 これは、私たち仏教の『自我』と『無我』に関わる考えを正しく把握し、非常に似通っている他の教義の考えを間違って仏教のものと捉えないようにするために、他の宗教、あるいは他の教義とどう違うかという真実を探求し、「佛教新聞」紙上で見解を表明するために書下ろします。

仏教は世界のどの宗教とも違い、どの宗教より深遠なのは、厳格に自我を否定し、実践者に「あるのは自然だけ」と見せている点です。一種類の自然はそれを作ったり変化させるもの、つまり五蘊(形、受、想、行、識)であり、もう一種類は作ったり変化させるものがなく、生老病死もなく、消滅もなく、五蘊が滅した状態、あるいは五蘊の消滅しかなく、自我や自分はどこにもありません。

他の教義には、輪廻する魂の自我を否定するものもあり、仏教教団員の中にも後者の自然、あるいは涅槃と呼ばれるものには実体があるとする人もいるので、仏教の本当の考え方による無我とは何かという、ややこしい問題になります。そこで今回、できるだけ詳細に考察してみることができます。

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【何故書くのか】

無我について書くのは気が重い仕事です。というのは仏教の心臓部であり、その深遠な話にふさわしい深さになるかどうか、躊躇いが生じるからです。レベルが低くなってしまえば、人は仏教をそれだけのものと理解するので、仏教にとって間違った講義をするのと同じくらい悪い結果になります。

たくさんの友人が自分の考えや気がかりな点などを話してくれ、意見を十分聞くことができ、今は次第に確信になり、書かないよりは書いた方が多少は良い結果になる、あるいは少なくともこの問題を終わらせることができるという真実を掴むに至りました。

書かないより良いというのは、まだためらいがあり、理論的ないろんな面が理解できない人がいるので、講義をしてそれらの疑問に答えるだけでも善い結果であり、私の満足する所で、完全な理解まで考える必要はありません。もし考えた以上に良い結果になれば、あるいは一度にすべて解決すれば、それは儲け物です。

 

【自我−無我は、際限のない問題ではない】

自我はあるのか否かとういう観点の無我の問題は、際限のない問題と見る方がいるかも知れません。つまり理解が一致することは無く、終わりのない他の問題と同様に、最後には世界が二分してしまう問題だと。しかしこの問題は終わりのない問題ではなく極めて限界のある問題で、ただ深遠なだけで、その深遠さゆえに人々に良く理解されず、食い違う見解が生まれます。

たとえば動物を殺すことは罪かどうかというような問題です。他の宗教では僧でも狩猟ができる教義があるように、動物を殺すことは罪ではないとする人たちもいます。しかし仏教教団員は罪と見なします。宗教に関わらない部分でも違った見方をする人たちがいます。こういった問題を際限のない問題と見るべきでしょうか。

私たち仏教教団員は際限のない問題と見ず、そして罪であるとします。心に動物に対する慈愛が微塵でもあるほとんどの人は、罪と考なければなりません。仏教界だけを見ればこれらは際限のない問題ではなく、真実確定している問題と見なすことができます。

自我−無我の問題も同じで、特に仏教教団では、取り上げて判断すれば、厳格な答に出合うことができる問題です。終わりのない問題になるのは、殺生の問題を動物の命に価値はないと見る人たちと比較するように、無我の意味が分からないほど低い、あるいは浅い宗教と比較するからです。

 

【論争相手】

いずれにしてもこの問題は、仏教界に生じ、それで論争相手を掴まえて熟慮してみると分かります。最高に真実に正しく言えば、この問題は『仏教には永遠で不変の自我があるのか』と言わなければなりません。この問題はむしろ大乗とテーラワーダあるいは小乗との間に生じる問題であり、小乗だけの私たちの内部に生じる問題ではありません。

私たちタイの仏教教団員は、通常自我あるいは自分〔Self or Ego〕はないと見ています。しかし中に「自我があってもおかしくはないない」という大乗と同じ見解の人たちがいるのは、自分の教義への理解が十分でないことが一つで、もう一つは大乗の小さな糸口が密かに誰かに教えられ、それが自分が信じている考え方と一致するので、最後には掴んで本物にしてしまうからです。だから論争相手は大乗(の幾つかの宗派)と私たちテーラワーダです。

大乗の考え方が分かれて小さな宗派に分裂するように、テーラワーダも分裂して、大乗と同じ考え方をする人がいるのも当たり前です。つまり一つのグループの中に、他のグループと同じ分裂した考えをする人が出るのは防ぎようがありません。しかしどの集団がどんな考え方をしているかを知るには、すべての集団の歴史的経緯と本当のタンマの教えを広く勉強しなければなりません。

私たちタイのテーラワーダだけを見れば、大乗に傾いた考え方をする人はごく僅かで、良く調べもせずに自分だけの新しい考えだと溺れていても、大乗ではずっと昔からその考えを主張していると分かります。

最初は「仏教で自我(実体)があるのは涅槃、あるいは無為と呼ぶものだ」と本気で主張していますが、その後は格好悪いと見て横に避け、ただそう呼びたいだけ、そう仮定するだけになる人もいます。中には、一度は自分の著書の中で自我があると主張したにも関わらず「涅槃に自我があるのではなく、ないのでもなく、どちらでもない」と、くるくると発言を翻す人もいます。

そして最後は「涅槃に自我があると言ったのは、低俗な人達がもっと真剣になるように言ったのだ」と、ボロボロになって引き上げます。いずれにしても佛教新聞に原稿を書いて主張していることからも分かるように、仏教には常に自我がある(つまり涅槃には実体がある)と信じている人がいます。

 

【争点】

しかし大乗も小乗も同じ仏教教団員と認め、論争者を二派に分けなければなりませんが、争点である教えを、どの宗派のどの集団のものか上手く把握できません。大乗にはたくさんの宗派があり、それぞれの宗派の考え方が一致しないからです。そして私たち小乗にも述べたような大乗の考え方をする人がいます。

だから二つのグループに分けることしかできません。一方は第一義諦の言い方をしても、つまり世俗的な浅い仮定でない言い方をしても、仏教には自我があると見なし、「本当に自我があるものは涅槃、つまり無為と呼ぶもので、この考えはブッダの言葉と一致する」と主張します。

もう一方はブッダの言葉を別の理解をして自我はないとします。これがもう一つのグループです。「仏教には自我はない。何もかも、涅槃でも自我ではない。実体はない」と主張します。ブッダの言葉に自我という言葉があるのは世俗的な言い回しだけ、あるいは聞いて理解できるように世間の仮定に従って使っただけと見なします。

もう一度まとめると、一つのグループは「仏教には自我があり、ブッダはそれを探求して拠り所にするように教えた」と捉えています。(このグループをアッタヴァーティと呼びます。)

もう一つのグループは「仏教には自我はなく、ブッダは自我を探求するよう教えていない。反対に自我があるという感覚をすべて捨てるように教えている。そうすれば苦から脱すので何にも頼る必要がない」と見なします。(今後このグループをアナッタヴァーティと呼びます。)

最後に、自我があるいは自分があるとするグループが自我はないとするグループと争っていると、論争相手を掴むことができます。(この場合の論争とは見解が違い一致しないという意味であり、殴り合うことではありません。)

二つのグループは、それぞれどんな論理があるのか、この問題を取り上げて判断する部分で詳しく述べることにして、前書きでは、ややこしい問題を考察する重要性について、もう少し述べたいと思います。

無我の話は、時代や国を越えて滅苦を探究するすべての人と、すべての思想家が愛す仏教の核心と述べてきました。まだ仏教の信仰を受け入れるのが好きでないヨーロッパの学者たちも、自分の脳の上等な餌として学ばずにはいられず、そして無我だけは他の宗教にない仏教独自のものと見なしています。

それでも西洋の学者の中には、仏教の考え方を誤って理解をする人もいて、たとえば大乗に傾いたり、小乗の教典を本当のブッダの言葉と見なさなかったり、もっと酷いのは他の見方、例えばウパニシャットたちのヴェーダーナタを間接的に仏教の考えとする人たちまでいます。これらの学者が学識的に著名で高い学位があれば、あるいは有名大学の先生なら、それらの人の言うことを信じてそう見なす人が非常に増えるので、ますます分裂が増え、最後には勉強する人たちに混乱と眩暈を生じさせます。

現在は大乗も小乗も、外国語で書かれた仏教書や仏教新聞が数多くあり、どの考えのどのグループも、自分たちの考え方で述べていますが、一番重要な違いは無我に関する考え方です。現代的な宣伝と説明をするだけでなく、一般人の感覚と一致する自我、あるいは self  があるという考え方なので、いつも大乗がリードしています。だから思考好きな脳の餌として学んでいる外国人の仏教徒なのに、なぜ高レベルの学者や思想家の間に分裂が生じるのか訝る必要はありません。

 

   宗教学習の四つの段階

 宗教学の学習には、どんな宗教でも当然学ばなければならない四つの段階があります。

1.教祖の伝記と教え〔life & Teaching〕。仏教教団員ならブッダの伝記といろんな経です。

2.初等の実践項目全般〔Exoteric Doctrine〕。その宗教の信徒が、誰でも知って実践しなければならないこと。すなわちすべての人が本当に苦から抜け出すことができるその宗教の道徳。

3.最高の真実あるいは哲学〔Esoteric or Philosophy〕。たとえば仏教のアビダンマ(論蔵)のようなタンマの項目の実践と無関係な論理由で詳細に分類したもの。考えるためだけの論理的教えなので実践者はそれを知らなくても実践でき、苦から脱すことができます。

4.深奥に秘められていること〔Myticism〕。たとえば宗教の誰かが規定したのではない真実であり、自然の真実。概要のほとんどはどの宗教も大体同じで、たとえば「最高の善を行えば、その後は永遠に変わることのない幸福な状態になる」などの項目です。そのような状態が涅槃であり、神様であり、パラマータマン(大我)であり、極楽であり、あるいは何であろうとすべての宗教の目的はすべてこのレベルにあります。そしてどの宗教にも共通なのはこの永遠に幸福な状態です。この教え一つに注目すれば、この世界、あるいはどの世界であろうと一つの宗教しかありません。つまり真実の宗教、あるいは自然の真実の宗教で、人間が正しい行動をすれば、変化することのない最高の幸福に出会います。

 

     無我の話は哲学の段階

 自我と無我の問題は、今取り上げている意味では第三段階、哲学のレベルであり、第四段階とも関連があります。第三段階はすべて理論に関わる問題であり、マヤカシであること、あるいは人間や動物、あるいは自然の威力で他の物によって作られたすべての物には、本当の自我がないことを指摘して見せ、それらを大きな塊を構成している最高に微細な物質に分けるよう、それらが何から生まれ、どう生まれ、どう変化し、そしてなぜそうなのかを教えます。

 無我の話が第四段階にも関連があるのは、無我の意味はすべての宗教に共通する永遠に穏やかで幸福な状態、涅槃も含まれるからです。違うのは、他の宗教は「人間は自我、あるいは永遠の幸福になる自分がある。世界の自分、あるいは神様の自分と呼ぶ大きな自分が」と見なす点だけです。仏教は、これらの自分をすべて否定します。それらは本当にありますが自分ではありません。あるものは一時的なマヤカシであり、マヤカシでないものもただの自然、あるいは自然の一つにすぎないので、それに自分があると見なせば、心が絡み付いてその考えから抜け出せなくなり、緻密な、あるいは自分では気づかない苦に耐えなければならなくなるので、実体があると見てはいけません。

 述べただけで、無我がどんなに深遠で繊細か、どれほど仏教の中心であり本質かを指摘して見せています。無我の真実を学べば、世俗の範囲の物も世俗をより上の物も、形ある物も形のない物〔Phenomenal or NoumenalMundance  or Ultra-Mundance 〕も、広く、そしてすべての真実を知ることができます。

 そして「珍しい物は何もない、今後は執着したり惑溺したりするものは何もない」と感じさせるので、すべてのもの動じない人になります。言い換えれば、精神をリードし心を本当に脱出させることができるどんな哲学体系があるのかという点に注目すると、無我に関わる哲学こそが精神の道案内〔Spieitual Guide〕であり、最高の自由と完璧な脱出に導くことができると分かります。無我に関わる哲学がどのように心を脱出させるのかは、無我の概要を先に述べなければならないので、最後に述べます。

 

仏教が深いのは無我の教えがあるから

 隠れた意味あるいは最後ろに、すべての宗教には永遠の幸福を目指す共通の教えがあると言えば、それではなぜ宗教によって高低、深浅いの違いがあるのかという問題が生じます。それはその宗教の教祖が、いろんな状態を永遠の幸福と悟っているからです。

たとえばキリスト教やイスラム教は神様のいる天国であり、ウパニシャット時代のバラモンたちはパラマータマン(大我)、あるいは他の人たちがブラフマと呼び要点は同じです。仏教では「涅槃」、つまり「心がパラマータマン、あるいはブラフマ、あるいは天国や神様やその他、すべて執着するべきもの、あるいは自分の物にしたり一体になったりする自我があるものの執着を捨てることができた時、心が到達するある種の状態」と言います。

これに関しては、人間には、より善い物から始まって段々に高くなり、最後には最高の物を求める本能があると知らなければなりません。どんな状態、あるいは状況が最も善い状態、最高の幸福かという問題になれば、その地域あるいはその時代の最も善い答え、あるいは最も善い教えを説いた人が、後に教祖に祭り上げられます。

 物質主義〔Materialism〕に傾いている社会では、自分が気に入っているものを手に入れることに一番重きを置くので、望む物が何でも揃っている神様の天国が生まれ、天国があると教える教祖が現れ、その後意味が深くなって終わりのないもの、あるいは不死のものになります。

 その後考えや教育が深遠になった時、あるいは精神に重きを置く〔Spiritualism〕社会では、心にヤーン(智)、あるいは心を悶えさせない、憂鬱にしない、あるいは闇にしない知識のある状態が最高の幸福、最高の善でなければならないと気づき、それらの人々の中から、気づいたものに高さや深さの差がある教祖が生まれ、そのほとんどすべてはどんなに心を清浄純潔にできても「自分。自分はいる。自分の幸福」という感覚があります。

そして最後の段階である最後に、ブッダが『自分があるという感覚、あるいは執着のない清浄、あるいは自分のない純潔な状態でなければならない。そうすれば心は最高の幸福、最高の純潔、そして最高に完璧な滅苦に到達したと言われる』と、至高のものを発見しました。心が「自分」と感じれば、その時はいつでも心が自分に囚われているので、まだ心の解脱ではありません。これから詳しく説明します。

 この話は長いので、読者の方は文節ごとの要旨を憶えるよう努力してください。でないと堂々巡りになって、最後には意味が分からなくなります。     

 


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