世界の苦はどこから来るのか

 

 世界の苦は神様、つまり創造者であり、それらの生き物に苦の淵に沈ませるものを作るよう誘う無明です。無明は世界の生き物が「何が苦で、何が滅苦か。」を知らなくさせます。そしてその無知がどのように愚かさでカンマを作るよう強制したり、導いたりするのか、たとえばあれこれ願望が生れると、欲望と呼ぶ望みで行動し、願望は針に餌をつけて魚を引き寄せる釣り人のように、生き物を周りに引き寄せます。天国へ行きたければ、その天国が、内部に毒が隠されているタイプの、苦の基盤であっても、天国へ導くカンマを作る努力をしなければなりません。

だから天国へ行きたい願望も無明と見なしますが、徳と呼ばれるレベルです。生き物の愚かさがそれらの生き物に、幸運や名誉、財産や五欲、天国などがあれば苦を無くせると思わせるので、あるいは誇らしく善いものに見え、針の餌を食べたがる魚のように欲しがるのは、それが釣り餌と知らないからです。

いろんな五欲は悪魔が仕掛けた餌で、針についた餌を食べた人は、輪廻と呼ぶ回転する輪に繋がれます。生まれ、老い、病んで死ななければならないこと、そして生きるために、世界に常にある無常で苦で無我の状態と苦闘しなければならない苦の中を循環しているという意味です。その餌を食べたい望みを欲望と呼び、それを手に入れたいという意味です。

 もう一つ愚かさ、あるいは無明は「所有すること、何かになること」が苦の家と知らずに、あれになりたい、これになりたい、あれこれの状態になりたいと望ませます。手に入れること、何かになることには、「発生」に依存しなければならず、発生自体が一種の変化なので、発生には必ず変化があります。「ある」とは自分があるという意味で、「なる」とは自分であるものが望みどおり、あれやこれになるという意味です。

この「得たい、なりたい」は無明から生れ、それが生まれた時、自分だけがすべて願望どおりに得たり、なったりすることはできないので、その願望は一連の掻き寄せる行動、あるいはその後の何らかの行動の原因になります。

どちらも外部のいろいろな物に依存しなければならず、その外部のものも、存在を支える他の物に依存しなければならず、どちらも原因と結果の威力下にあり、変化の法則に支配されているので、自分の望みどおりにすることはできず、満足が生じることはありません。あるいは何一つ思い通りにできるものはなく、原因次第です。 

いずれにしても所有すること、何かになることは、影あるいはマヤカシです。なぜならそれは「私はこれだ」「私はそれだ」というような所有すること、何かになることに迷う愚かさに依存しなければならないからです。

所有すること、何かになることはそれに迷うことで、時々満足することができます。自分の愚かさが作った、あるいは想像した神様の近くにいたいと望み、まだ迷いがあれば、まだ神様と一緒にいないにも関わらずその間中満足があります。

神様という意味を善と解釈すれば、善人になりたい、善の近くにいるために、あるいは善人になるために、善を行う努力をします。想像しなくても私たちの智恵で明らかに分かります。私たちは、善人になったら「所有すること、何かになること」で苦が消えるだろうか、あるいは苦から脱出できるだろうかと考えますが、できません。そのように考えればまだ愚かです。たとえ善でも抑圧する首かせであり、巻き付く鎖であり、私たちが落ちて沈む泥沼だからです。

善は「仮定したもの」にすぎず、悪と同じ無明の範囲内の中にあります。善はまだ人間社会の側もので、別の呼び方でローキヤタム(世俗のもの)と言います。善はまだ他の原因と縁に依存し、そして時間とともに衰退する支えてもらわなければならない状態です。

仏教の理想は善悪を越え、徳と罪を越えたロークッタラ(世俗を越えた世界)と呼ぶ高くへいくことを望みます。すべての所有すること、何かであることの上にいて、善いこと悪いことを仮の物と見ます。なぜならどんな種類の所有、何かの立場は、すべて一時的だからです。

この理由で仏教哲学には「所有すること何らかの身分であることは苦」という原則があります。しかし更に繊細で、他の教義の人には簡単に理解できないほど繊細ですが、緻密に考える努力をすれば理解は不可能ではありません。

この世界のどんな教義も、世俗を超えなければ善悪を越えることはできず、悪を越えることができても善に執着します。そして善への執着は、人を世界あるいは無明から抜け出せないようにしている非常に凶悪な本能〔instinct〕の一種です。

善よりも一段高い所へ脱出する世俗を脱す話を、仏教以外で聞いたことがある人がいないので、まだ善に執着している人は聞いて意味が分かりません。所有すること、何らかの身分になることも苦であるというのも理解し難いです。しかし善と呼ぶものの自然について分かるまで学んで真実はどのようかが知れば「善は闇、あるいは無明と同じだが、悪とは種類の異なる闇」と知ります。

善悪を超えれば明るくなり、つまり世俗に留まっていません。善悪は世界であり、世界の物で、まだ神様の範囲内にあり、まだ神様を越えられず、神様を崇拝しています。つまり無明、あるいは何であっても、解脱〔independence〕ではありません。

善悪を越えれば解脱で、誰にも作られず、誰も作りません。ここで言う善とは、もしかしたら五欲の類を手に入れるような、物質的な面だけを意味すると理解する人がいるかも知れません。

しかし正しい意味ではもっと高い、例えば梵天など、まったく愛欲に関わらない純潔な所有や立場で、たとえ一劫(世界が一度終わるまでの時間)の間存在しても、それも原因と縁の威力の下にあるので、後で揺れたり変化したりするので、このような理由から、所有すること、何らかの立場になる〔existence〕ことは苦と見ることができます。

何らかの物を手に入れたい、何らかの立場になりたいという願いは苦を生じさせる原因であり、私たちは有愛と呼び、有愛は愛欲、つまり初めの項で述べた世界の餌を食べたがることと同じ苦を生む原因の一つで、二項目です。

最後の三番目の項目は、もう一種類の欲望で、欲しくない、なりたくない、今のままを維持したい願望、何も所有せず何にもならずにいたい願望で、無有愛と言います。この願望は所有すること、何かになることは苦、あるいは例えば生老病死のような変化の基盤であるという知識がありますが、自分への執着に迷い、あるいは自分への執着を捨てきれず自我への執着を無くせないので、所有せず、何にもならずに自分を維持したいと思います。ここでは「欲しくない、なりたくない」と言います。

心の面の努力をしたことのある人の願望ですが、極めていないか、あるいは方法が正しくない人の願望です。自分あるいは自我の執着がなくなれば、この種の願望もなく、普通の人にはちょっと理解しにくい願望ですが、実例を検証して熟慮すれば、理解できることもあります。

たとえば一羽のヒヨコが「私」はいると考えれば、いつでも鷹が「私」を捕って喰うことができますが、「私」がなければ、私も自分を非常に惜しむ「私」のことを好きでないので、どうぞ自分のない私でありますようと願い、そうなる努力をします。それから得られる結果は自分という感覚はあっても、居たくない類の自分はなく、まだあるのは「それは自分ではない」と考える自分なので、鷹は喰えません。

しかし最終的に迷いの威力から脱すことができず、自分自身がなく存在すると感じないので、反対に鷹になってヒヨコを喰います。それでもかならず変化し、最後にはいつか消滅するという意味です。

形体のある梵天がかつては形(体)に満足し、その後形があるから生老病死があると考えて形を持たないことにして、精励努力して形のない梵天の一団が生れました。形が無ければ形の老いと病は本当にありませんが、間もなく死、つまり識は死ななければなりません。

形のないタイプの存在もまだ所有であり存在であり、他のものに作られ維持されなければならないので、かならず変化があり、それ自体に自由がないからです。この種の願望は苦から逃れられる、あるいは苦に勝利できるものではなく、非常に緻密でも、まだ苦の基盤です。

 私たちが知っているような、生まれることも老いも死もない神様になりたいなら、それはつまり所有もせず、何にもならないで存在したい願望、あるいは所有したくない、何にもなりたくないが消滅もしたくないという願望です。

その所有、存在が、縁である他の物に依存しなければならず、そして回転しなければ維持できないと知っていても、それでもまだ自分があるよう望み、あるいは自分自身を維持すること、それを取と呼びます。仏教の考え方では、この取を捨てられない分だけ、その人は滅苦に到達できません。だから自分が幸福だと感じる所有や立場で暮らさなければなりません。しかし本当は最高の幸福ではなく、まだマヤカシの状況ですが、これでもまだ完璧な勝利、あるいは涅槃と呼ぶものではないと理解し難いほど上等です。

だからこのような願望は、直接苦の原因としていますが、自分があるとしか考えたことがなく、それが最高の物だと本当に理解している人よりははるかに上です。

 所有欲、存在欲は、所有すること、立場であることに何かを期待しているからで。たとえば神様と一体になりたいとか、神様と同じ状態になりたいとか、神様になってしまいたいということでも、この願いは「私」から生まれ、私はもう一つ、つまり自分が好むものが欲しい、自分が好むものになりたい、自分が好かないものはいらない、なりたくない。この気持ちが科学の原則に著しく反しても、つまりあり得ないことでも、それを思わずにはいられません。仏教は、このような探究で苦に勝利するよう教えません。それ以上に、それは苦を生む欲望と言っています。

つまり無明、あるいは愚かさの側です。仏教では、すべての所有すること、立場であることは、望むことも含めてマヤカシであり、確かなものではないと考えるよう教えます。

 「自分」がいるのは、自分があると信じる考えから生まれ、「神様」がいるのは、神様があると信じる考えから生まれます。つまり、人々がほしがる特別な「所有、立場」です。

 物質も心も考えもマヤカシにすぎず、考えて取で執着しているもので、たとえば自分あるいは自我も、自分あるいは自我を作ったものもどちらもマヤカシで、二重のマヤカシです。だから一重のマヤカシより理解し難く、そして抜き取り難いです。

 たとえば、一枚目のマヤカシである体と心と考えを、自分ではないと振り払うことができても、まだ自分、あるいは自分であるもう一つの状態を大事に掴んでいます。この教義を信じる人は強烈なので、体と心と考えを払い捨てたとして、そこに何が残っているかと言えば自分です。そういうのもあります。だから二重のマヤカシは、非常に抜き取り難いことが分かります。

そして生老病死をしなくても良い自分と信じることができる「所有、身分」を、神様を信じる人たちは神様と仮定し、自我を捉える人たちはこの状態を自我と捉えます。そればかりか、自我を涅槃と誤認する人までいます。自分が自我に夢中なので、二重のマヤカシに迷うからです。

だからこのような状態のこの種の願望は、どんなに精緻で理解が難しいか、どんなに害があっても、どんなに巧妙に毒が混じっていても、誤解をすれば迷って拠り所にできると見ることができます。

他の教義がそれだけで満足しても、あるいはどうであっても、仏教は、それから脱してどんな所有にも存在にも執着したくないと望みます。自分もなく、自我もなく、人もなく、人を作った人もなく、それらすべて自分たちでそう呼んでるだけで、進化している、あるいは部分として循環している自然でしかありません。

このように進化している心は、いつでも、どのようにも二重のマヤカシを作ることができます。つまりただの自然、あるいは循環しなければならない法則による自然の循環だけで、本当の実体などどこにも、どんな少しもありません。それで誰が世界を作って話した問題の主人公でしょうか。それらのものには一瞬たりとも本物はなく、人間が循環をあれこれと規定しただけです。科学の原理でも仏教の教えでも、一瞬でも変わらない物、あるいは元のままの物は何もありません。すべての物が飛散すれば、心と同じように発生し消滅して循環している原子の要素しかなく、私たちの仮定あるいは決定を受け取る主体はいません。

だから私は、たとえば土、水、鉄、真鍮、象、馬など、普通の人の目には実体があるように見える循環を説明します。だから物質面でも非常に迷わされていることが分かり、心あるいは精神面も同じようで、もっと酷く、このような名のもの(抽象物)はもっと回転が活発(active)なので、最高に巧妙に実体があると理解させ、見破るのは困難です。

自分はなく、あるのは仮の物だけなら、誰が人で、誰が作られた人でしょうか。作られた人物がいなければ、作った人がいるはずがありません。しかしここで循環を作ることを、私はとても創造主と見ることはできません。循環がいろんな物であって、いろんな物が循環させているのではないからです。

人が循環の一部分を指して、あれだ、これだとしているのです。循環が命で、循環がなければ、創造主によって作られた物を世界にただ一つも見ることはできません。

この理由で「何もなく、あるのは循環だけで、そして循環は苦だ」と見ることができます。循環の一部が他の部分、他の時期の原因になり、ずるずると鎖のように繋がって、初めもなく終わりもなく連続しています。

生まれることの根源である無明も欲望も、ある教義がすべての物に実体、あるいは神様が潜在すると信じているのと同じように、ほとんどの部分に混入しているという理由でこの循環の一部分です。

述べてきたように、苦は循環の一部分の症状でしかないとまとめることができます。手繰り寄せれば、説明した三種の欲望による、無明と願望による執着の「所有」と「存在」を発見します。

学習のため、苦と呼ばれるものを消滅させるために、部分的に意味を限定して言えば、糸口として苦を掴んで欲望を狙い、そしてもう一段奥の、つまり無明を消滅させることができれば、それは欲望を消滅させられたことであり、苦を消滅させたことでもあります。断ち切られた鎖は循環できないので、苦は燃える物が無くなった火のように消えます。

苦しむ人もなく、苦を作る人もなく、苦を滅す手伝いをする人もなく、あるのはそれ自体の自然な発生と消滅だけです。消滅した部分も、私たちは循環する自然と見なし、他の部分はまだ発生と消滅の範囲内にある世界です。消滅すれば世界を越えて上に行き、ロークッタラになります。発生を越え、消滅を越え、善を越え、悪を越え、徳を越え、罪を越え、すべてを越えます。

この項をまとめると、苦とは循環であり、 ̄造鮨べたい。⊇衢したい、ある立場になりたい。所有したくない、ある立場になりたくないが自分を維持したいという、順に呼ぶと愛欲、有愛、無有愛と呼ぶ三種類の欲望、あるいは願望から生まれ、心の面の哲学の知識と教育の威力の高さで違い、そしてこの欲望はもう一段深い無明から生まれ、無明が世界を創り、世界は苦です。

 


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