人間は何のために生きるのか・人間の最終目的はどのようか

 

 仏教の考えでは、人間は自分を作った神様(無明)を消滅させるために闘い、すべての苦からの脱出を自分のものにするために生きています。そして人間の最終目的は神様の手、あるいは無明の結果である苦の塊から逃げきることです。この「逃げきる」ことを解脱と言い、捕縛するものから逃れて、捕縛するもののない場所、捕縛のない場所へ行くことです。

創造主である神様を信じる人たちは、当然神様を敬い感謝していますが、仏教教団員は感謝しません。作ることは直接捕縛だからです。無明は私たちを作った人ですが、私たちは反対に作った人を殺してしまおうとし、そして首尾よく殺すことが目的です。

パキンナカヴァッガに『親を殺してしまい、王を殺してしまい、税吏を殺してしまえば、その人は苦を消滅させた素晴らしい人になるだけ』というブッダの言葉があります。ここで「親」と言うのは愚かさや、ああ生まれたい、こう生まれたいと望む元である「煩悩」という意味で、最後には本当に生まれます。

王とは人間の心の上にいて人間を押さえつけ、心を自由晴々とさせない「煩悩」という意味で、税吏というのは、苦で贖わなければならないことをさせる原因である「煩悩」という意味で、これらには無明だけに根源があり、あるいは集約することができ、そして何としても消滅させる努力をします。私たちを作って支配している誰か、あるいは何かは、当然捕縛して所有と存在あるいは有(三界)と呼ぶものに縛り付けます。

たとえば生まれるのは生きる闘いに縛り付けられることなので、食べ物を手に入れる手段を探し、身を守って保護し、そして生老病死と闘うなど、自分が生きるために必要なものをかき集める努力をしなければなりません。

だから道は一つしかありません。つまり作った人を殺してしまい、捕縛している人を殺してしまうことです。そうすれば自然の一つである心、私たちが「人」と呼ぶ(原子の)集まりの中心である心は、解脱と完璧な自由に出合います。

だから私たちの義務は、創り主を殺すことであり、私たちの目標はそれ以後誰にも抑圧されない「自由になる」ことです。殺されるもの、つまり私たちの創り主、あるいは親と呼ばれるものがこうならば、同じ意味で「創造主である神様を殺してしまいなさい」と言うこともできます。

神様には私たちを捕らえる縄や足枷、つまり善悪があります。善と悪の二種類は、善人か悪人か、幼稚か知識者かで、私たちを悲しませたり喜ばせたり、落胆させたり楽しくさせたりする世界の味です。私たちが生きていられる理由は一つです。つまり自分が善いと考える、あるいは自分が好きな何かを望むからで、幼稚な人と知識者で百八十度違っても、望むもの、そしてその人が良いと考える点で同じです。

知識者たちはタンマの方面で有名になるというような、社会が善いと認めるようなことを望み、それを作るために生きています。ならず者が乱暴を働き続けるために生きるのと、あるいは愛し合う人が愛する人のために生きるのと同じです。

悪を捨てることができると私たちは非常に満足します。その満足は善の満足であり、はっきり言えば善中毒で、古い所有や立場を捨てることができると新しい所有や立場を作り、それで安全で自由と思っているのでしょうか。そうなりません。それは同じ束縛で、多少違う点と言えば、悪は縛り付けるだけでなく、その上火で炙って苦しめる点です。

もう一つの縛り付けるものである善は目を欺くので束縛するようには見えず、その上非常に楽しく安楽にしてくれるので、愛の首かせに繋がれている若い男女が解放されるのを喜ばないように、善や徳に執着している人も善を放したがりません。

禅定・遠離の幸福に浸っているヨギーのように、哲学者は学んで知ることに夢中になり、布施をする人は布施をして天国へ行くことに迷い、政治家は名声に夢中になります。

極楽の天人は五欲に恍惚とし、梵天は五欲のない純潔な禅定の味が混じった、五欲のない淡白な味に恍惚とします。しかしこれらは縛りつけないでしょうか。そんなことはありません。だから善も動同様に、束縛する首かせと見ることができます。二種類の首枷、つまり善と悪に勝利することができれば、仏教の理想である解脱と呼ばれます。これに関して「繋いでいるものを二つとも、つまり徳と罪を越えた人を、私は、苦もなく塵もなく純潔である素晴らしい人と呼ぶ」というブッダの言葉があります。

苦もなく塵もなく純潔で素晴らしい人というのは、この場合阿羅漢を意味し、命の最終目的に到達して、あるいは人間であることを満たして、梵行の仕事が終わった人です。

冒頭部分で善と悪は世俗の域のものと述べましたが、ここで善は悪と対になっているので、どうしても世界から脱すことができないと、詳しく説明します。先のブッダの言葉である教えは、阿羅漢、あるいは最終目的に到達した人は、当然徳と罪、つまり善と悪を超えなければならないと説いています。

この項目は、あらかじめ人間に関わりのあるすべての状況を見なければ、理解できないことを意味します。仏教の教えでは、人間に関して二つの分類があり、ローギヤプーム(世俗、あるいは世界のレベル)とローグッタラプーム(世俗あるいは世界を超えたレベル)です。

世俗であるプーム(境地)あるいはレベルは、まだ所有することや立場になること〔existence〕に関わっているレベルで、「私はいる」「私はああだ。私はこうだ」と捉えています。このローキヤプームを、さらに細かく三種類に分けることができます。

まだ愛欲に関わっているレベルで、喜んで関わっているカーマワチョン(愛欲の人)と言うものは、まだ愛欲を切望しているすべての生き物のことです。畜生であれ人間であれ、天人または地獄等の生き物であれ、愛欲を切望するほど心が下劣なら、それらはカーマワチョンのレベルと呼びます。

更に高く、つまり愛欲を喜ばないくらい高い心を持つ生き物〔ここで言う愛欲とは、心を誘惑するすべてのもの、どんな形・声・臭・味・触でも、欲しがらせれば「愛欲とします〕、愛欲を喜ばない人たちは、愛欲のない淡白で純潔な生き方を喜びます。

形身がある生き方に満足する、あるいは形のある物質に関わっていればルーパーワチョン(形の人)のレベルと言い、体あるいは形のある物質を必要としないタイプの生き方に満足すれば、アルーパーチョン(無形の人)のレベルと言います。

カーマワチョン(愛欲の人)のレベルであれ、ルーパーワチョン(形の人)のレベルであれ、アルーパーワチョン(無形の人)のレベルであれ所有すること、何らかの立場であることに関わり、まだ仮定である、あるいはあれこれと規定した善と悪があり、まだ無明による願望になる何らかのカンマを作る考え、あるいは主義があれば、アルーパブラフマ(無形梵天)のような高等な、あるいは無明の薄いレベルでも、この三つのレベルをローキヤ(世俗)レベルと呼び、世俗に関わっているレベルです。

もう一種類のロークッタラ(世俗を脱した。聖)のレベルは、世界あるいは何らかの所有や立場はマヤカシで、作られた物の循環以外に、生き物も人間も何もないという真実が見え始めて世俗を超えた、あるいは抜き取ったレベルです。

このレベルは、元からある間違った考えを一部分、あるいは全部抜き取ることができたレベルで、四段階ある聖向聖果と言います。最後は最終目標に到達したレベルで、神様あるいは無明を完全に殺害します。このレベルにいる人は、まだ生きている人間でも「自分がある」あるいは「自分の所有」「自分の立場」という感覚、あるいは理解はありません。

あるのは自然、あるいはすべての作り出されたものの循環だけで、これらの自然を振り払ってしまえば、残るのは回転しない、循環しない類の自然だけで、後者の自然を涅槃と呼びます。苦は循環の一種ですから、循環がないことは当然滅苦を意味します。だから循環しないこと、あるいは涅槃には苦はありません。

もう一つ述べなければならないのは、幸福という言葉です。幸福という言葉は、同じように循環している感覚の一種にすぎず、最高の真実で言えば苦と同じものです。社会の普通の人の言葉では、善悪のように苦と対になっていますが、善と苦がいつでも束縛であるように、幸福と苦も循環であり、どちらも苦です。

これはキツネに抓まれたようで、聞いて意味が分からないと思うので説明します。つまり人間が幸福と呼ぶものは、心で感じることができる感覚や気持ちにすぎません。心も気持もどちらも不安定で、作ったものと維持しているものがあるので、すぐに違うものに変化し、あるいは最後に心が消滅する時に、心と一緒に消滅します。

だから幸福の感覚、あるいは幸福はマヤカシで、心にある物〔prosperity〕の一つにすきません。心も循環する自然です。自我、あるいは soul という状況は全部、まだ感覚があればまだ心で、そして本当は、ある種の感覚を、私たちが誤解して自我としたので、幸福は二つ以上ものが混じって生じたものなので変化し、そして変化は当然苦です。

要するに苦、あるいは幸福という気持ちはただの感覚に過ぎず、そして循環は苦、あるいは別種の苦の状態に落ちなければなりません。循環が止まった状態、あるいは涅槃は、必ず所有や立場である幸不幸より上に、善悪より上にあります。それは複雑で、創造神よりも理解が難しい「所有」や「立場」です。

涅槃には、砂糖や遊びの楽しさのような味はありませんが、「涅槃は究極の幸福」は、意味を読まなければならない慣用句です。

たとえば「クルンテープ(バンコクのこと)は最高に楽しい」と言うのは、クルンテープを好きな人の心が楽しいのであって、クルンテープが楽しいのではないことはよく知っています。クルンテープは不潔で苦かもしれないし、違う状態かもしれませんが、クルンテープが楽しい人でもあるように「クルンテープは楽しい」と言います。

「涅槃は幸福」というのも同じで、涅槃を見た人、感じた人の心が究極の幸福という意味で、その幸福が涅槃ではありません。涅槃は幸福でもなく苦でもなく、そして「何だ」と言うことができません。世俗の範囲にある言葉の表現の領域を超えているからです。

しかしそれでも涅槃を仮定して話さなければならない必要がある時には、話さなければなりません。今取り上げて判断するのは、「涅槃は究極の幸福」と聞いたことのある人が、それはどういう意味なのか、正しく理解していただくためです。

そうすれば涅槃、あるいは幸不幸を超越したロークッタラレベルを簡単に理解でき、最後には、このレベルは世俗、あるいはどのような所有、立場とも関わらないと理解できます。そして最も重要なことは、涅槃が私たち人間の最終目的だということです。

その意味では、人間は悪を避け善を行うことを学んで知るために生きていると説いて見せています。最後に、善にも悪にも執着するべきではないと学んで知った時、善も悪も、すべてはマヤカシ、仮のものなので、心を執着、あるいは迷いから抜き出すべきです。

私たちが「本当に善い」と言うものは、見破れないほど巧妙なマヤカシです。仮に神様のように生きることは幸福ばかりで、そして背負うため、執着するために「私はいる」「私はこうだ」と感じれば、間もなく必ず飽きて、再び死にたくなります。そのような所有や立場は、迷いと取と呼ぶ執着によって維持されているからです。

執着がなければ自分はなく、そして幸福もあり得ません。そしてその「ない」ことは、その幸福より一段上になった、あるいは幸福を捨てて、あるのはたぶん、誰の幸福にも苦にもなったことがない自然の状態だけです。

そして私たちが「自分」、あるいは「幸不幸」と呼ぶものはマヤカシにすぎないという真実が見えた時、迷い、つまり無明、あるいは私たちを作った神様に勝利したという意味です。このような理由から、善と悪、幸福と苦はマヤカシ、つまり今ある所有、立場は、その人の誤解によってあります。

世界のすべてのもの、あるいは私たちがまとめて世界と呼ぶものは、「それは世界」と迷っている間は存在します。まだ取にまとわりついていて、これはこれ、それはそれ、動物、人間と迷って見れば、まとめて世界と呼ぶものです。

迷いが治って取がな消えれば、それらすべては瞬く間に消え、世界も何もなく、あるのは一瞬も実体のない、自然の循環の螺旋だけです。私たちにこの真実が見えないのは、あるいは見ることが難しいのは、心が無明に包囲され、その循環の後を追い駈けてばかりいるので、同じ速度で並行して走っている汽車に分乗して見つめ合っている二人は、どちらが走っているのか、変化しているのか分からないように、循環を見ても見えません。しかし取、あるいは世界に夢中になっている無明は、それよりはるかに知らん振りをします。

善いものも世界であり、悪いものも世界で、世界に関わる真実の法則と、世界が生まれる原因、世界の消滅と世界を消滅させる方法の四つをまとめてプラタムと呼び、私たちが学んで実践し、最後には結果を受け取るためです。

この真実は、心も含めた身丈二メートルばかりの体に見つけることができます。世尊はそのようにして悟りました。この学習と実践のどちらも、現世ですることができ、そして実践の多少により、すぐに結果を受け取ることができます。実践すればこういう結果があると分かった時、自分で順々に行動し、自分の智慧で注目する、あるいはする時、自分で説明できる理由があり、たとえ先生でも、他人を信じる必要はありません。教祖は、誰でも自分ででき、レベルに応じて次々と継続し、自分で明らかな成果を出せる方法を教えました。「とりあえず信じておいてください」という類の、あるいは死後に結果が出る類の信仰に依存する必要はありません。

初めの段階で私たちは、悪、あるいは悪いことについて熟慮し、行うべきでないと明らかに見、以前は非常に誤解していたので悪を行いましたが、今は断固として捨て、悪を捨てた後で善を行います。あるいは悪を行わないので善が現れます。たとえばタンマで規定されているいろいろな悪を行わなければ、善いことをした、あるいは善があるという意味です。

そして引き続き智慧を訓練して、善と善の結果を熟慮すれば、善もまだマヤカシあるいは仮定であり、人を迷って強く執着する人、あるいはそれに縛られる人にし、それと一緒に回転しなければならないので、自分自身が溺れていることに憐れみを感じ、嫌気がさし、善悪に興味がなくなると分かります。そうすれば誰に教えてもらわなくても、自分は手放したと分かります。

あるいは神様の手を借りなくても、神様に願わなくても、祈りに関して全く無知でも、自分を世界から、あるいはすべて私たちの誤解や執着から生まれたマヤカシにすぎないいろんな「得ること、なること」から抜き出すことができます。

私たちが誤解をして、循環する自然、あるいは進化する自然の集まりの一つを「私」「あなたにするのは、人間の愚かさがあるからできます。そしてまだ、例えば自分を作った人、つまり神様がいるというような誤解を重ね、あるいは間違った信仰をします。

私たちが何らかのカンマを作り、奇妙な結果が返ってくると、理解ができず見えないので、神様が罰を与えたとか、褒美をくれたと信じます。私たちは常に、自分の疑問に対する答えを求めているので、

環境的な縁によって何らかの迷いに誘い込まれたように、心に埋め込まれているその教義に迷わなければなりません。この種の迷いは自由に考えさせず、その上いつでもその迷いに依存しなければなりません。

仏教の理想は、このような自由に考える機会を与えない信仰あるいは迷いを求めません。世尊は「誰も信じていけません。最初の簡単なことから最高のものまで、あなたの智慧で順を追って見るように考えなさい」と教えています。

「先生を信じてはいけない。テキストを信じてはいけない。長い言い伝えを信じてはいけない。考えてみるためにだけその言葉を聞き、実践すれば良い結果になると思ったら実践してみなさい」。世尊は敢えてそのように教えました。

仏教教団員は「私たちの教祖は私たちが鵜呑みに信じることを望んでいない、いつでも考えには理由と根拠がなくてはならない」を、一つの理想としています。私たちの最終目的は、明らかに知ること、あるいは鋭い智慧であり、信仰あるいは実践だけではありません。

ある時ある人は基礎として非常に信仰に依存しなければならないことがあっても、その信仰には、常に智慧があることに依存しなければなりません。

 

神様が作れるのは、善いものと悪いものだけなので、私たちは創造主である神様を求めません。善悪を超えたものを作ることは、誰にも、あるいは何にもできないからです。それは誰にも作れない、そして作りたくない状態です。

神様が私たちに与えるものが善いものと悪いものだけなら、神様は善悪の根源という意味になります。私たちは善悪の根を断ち切って二度と心を抑え込んで欲しくないので、神様を殺してしまいたいのです。 

神様を信じる人たちは「神様は善だ」、あるいは「神様は善を集めたものだ」と言います。この言い方は正しいです。そして世界の大部分の人は、モルヒネに溺れるように善中毒になり、あるいは「善い」という声に溺れていて、善に強くまとわりつきます。

だから猟師の投げ輪や罠に掛かった鳥のほとんどが逃れられないように、この足枷から逃れられる人はほとんどいません。誰かが説明してやり、救助する努力をしても、結局は聞いて意味が分からないので信じることができず、だから善と呼ぶレベルの所有、立場に溺れています。仏教には段階的な教えあります。

1.すべての悪を捨てなさい。

2.十分善を行いなさい。

3.心を、善にも悪にも執着しない純潔にしなさい。

これがすべてのブッダの教えです。

こういう教えで、善に溺れる本能のある生き物を三番目のレベル、つまり仏教の涅槃に到達させるのは難しいです。ほとんどは聞いてもまったく理解できません。善は非常に豪華な「所有や存在」の一種で、見苦しい悪と正反対ですが、苦から抜け出すにはどちらからも純潔にならなければならず、そして豪華さもありません。

 通常人間が生まれた時初めは賢くないので、有(三界)、つまり自分の所有や存在〔existence〕に首丈になり、自分の所有や存在を豪華に維持することに掛かり切りになり、これを有の足かせで繋がれると言います。

しか深く考えてみると、幼い子供がなぶられて踊らされたり、窒息するほど笑わされたりするのと同じように、むごい状態だと見ることができます。たったこれだけの豪華さしかない普通の範囲の所有や存在でも耐えがたいのに、神様レベルの所有や存在は非常に豪華なので、私たちは味見さえ望みません。普通の足枷でも懲りているからです。

他のすべての生き物より純潔な梵天は何劫も生きられると言われているのは、拘禁される罰で、善に熱中して最高の所有、存在を欲しがった罰です。その所有や存在は、解脱ではないからです。

述べた理由で、仏教教団員は「何としても所有と存在の輪から抜け出してしまわなければならない」という最後の理想があります。所有と存在の輪は、染め付ける善でしか与えないからです。

しかしまだこの段階に至らない人は、善を十分行うレベルで努力しなければなりません。あるいは初歩のレベル、つまり悪を捨てている最中なら、悪を行う人、あるいは間違った方向と見なしません。そのレベルに張り付いていても、まだ上達できないから張り付いているなら、誤りと見なしません。

しかし「それはまだ終わりではない」あるいは「本当の人間、十分な人間の最終目的ではない」と知らなければなりません。仏教には三つのレベルが用意され、誰でも自分に合った段階を選ぶことができ、このように本当の終わりに至ることができます。

しかし最後のレベルは、作られること、支配されること、あるいは内部に自分があること、取である所有・存在という足枷から脱出するレベルでなければなりません。

 

 

 宗教はどの宗教も本質的には一致します。つまりすべての苦を無くす点に注目しています。しかし「苦」という言葉の意味あるいは理解に高低、あるいは深浅があるので、差を生じさせます。

たとえばある教義は、自分が望む所有・存在を切望します。自分が期待して思い描いていることが、実現不可能なことでも、自分の好みに合っていれば信じることに満足しています。自分が望む結果が見えなくても、あるいは「来世で叶う」としても、信じている人は当然心が温まり、あるいは徳が生じるからです。これは信じる人の信仰をますます強くし、満足させます。

「永遠の幸福」という言葉は、くじけず努力するために心を発奮させる嗅ぎ(気つけ)薬のようなもので、そういうものがあると信じているすべての宗教の宣伝コピーです。幸福という言葉、この種の幸福は子供でも理解しやすい言葉であり、自分なりの意味で誰でも知っています。

欠点と言えば、その幸福と呼ぶものが思い通りにならないだけで、つまり必ず去って行ってしまいます。あるいはまったく訪れません。自分が前から知っている幸福と呼ぶものを簡単に必ず手に入れる方法を教えると宣伝する人がいれば、その上確実で永遠に変わることがないと聞けば、当然欲しくなり、満足して従うのは当たり前です。

しかしこの布教の言葉は、その宗教教義がどんなレベルの人々の中で生まれ、どの時代の人に教えるか、どのような生活レベルかによって違います。世界の人は、同じ時代でも心や精神のレベルが違うので、自分のレベルで、あるいは政治や財産の威力などの環境によって、いずれか一つの教義を受け入れることができます。

いずれにしても普通のレベルの大衆は、自分の世俗的願望の結果をもたらす類の宗教を求めます。つまり有り余る豪華な所有と存在、五欲の面の豊かな物質に恵まれることです。

 反対のそういう所有・存在から脱出することが善いこと、高尚なことと、どうしても理解できません。

もしどうしても生まれなければならない時、思い通りにすべてが揃っているのと、何の所有、存在にも関わらず、すべてを消滅させることができるのと、どちらを選ぶかと聞かれたら、どちらを選ぶでしょうか。その所有、存在が束縛であり、苦であると理解できないので、ほとんどすべての人は前者を選びます。

所有すること、立場になることは、何であっても束縛です。つまり自分自身にある物に満足し、あるいは欲情することで縛られるので、自分にある物に満足し、欲情することが止まらず、それが惑溺させ陶酔させ、そして自分が満足している所有や存在から離す死を恐れさせます。そして本当は、あるいは普通の法則では、以上の理由により、所有しているものは例外なくいつか必ず変化し、消滅しなければなりません。なぜなら所有・存在は必ず発生があり、いつでも何らかの原因と縁で生じるからです。

しかしここで自分が望む幸福で生きるために、神様が死ぬことのない命を与えてくれるという自分の宗教の教義への信仰があるので、人々にはそのように見えません。だから神様の世界にも必ず死があると信じたがりません。

この理由で、神様の世界を信じる人たちがまだたくさんいます。そして揺るぎません。所有・存在はどんな種類もマヤカシであり、多少長く続いても必ず消滅するという真実を、背伸びして見ようとする人はあまりいません。

そしてもう一面、神様の世界に迷うよう教えるのは、たくさんの集団の人々を道徳の中に詰め込んでおくためだけに見えます。神様の世界へ行くには、道徳で行動しなければならないからです。

しかしたくさん考えられれば、神様と神様の世界は「なぜ永遠の幸福は変わらないのか」という問題を解決するためだけに作られたと理解できます。これはつまり、私たちは普通生老病死があると見えていて、そして私たちが満足している物もいつでも変化し、あるいは去って行き、あるいは去って行かなくても、長くなると自分が飽きることもあります。私たちにまだ生老病死があり、いつか必ず飽きるのに「永遠の幸福の何が良いのだ」という問題が生まれます。

この疑問を解決するために、教義を教える先生が神様あるいは神様の世界を創り上げ、そして「その世界へ行くまでは、人間には理解することができない」と厳格に規定しました。

ここで強い信仰をもつようお願いし、そして最後に神様の世界を信仰する人が出現します。それ以上に善いものがなく、そして普通の世界には苦、あるいは困難しかなく、ご覧のように不確かだでからです。このような理由で、有、あるいは所有・存在が永遠で確かなものになれます。つまり変化を知らない人の自我・所有・存在があり、いつでも十分喜ばせるものがあります。

仏教にはそのように実体のある神様はなく、自然の法則に反した所有と存在〔existence〕がある神様の世界もありません。世界を創った神様はなく、あるのは所有と存在と、そしてマヤカシの極みであり「所有している。私は何々だ」と自分に執着させる無知、闇だけです。

世界はある、あるいは私は存在するという理解は非常に凶悪な迷いです。本当に世界がなければ私たちも存在しないので、世界を創った人も、本当に私たちを作った人もなく、あるのは同じ迷いであるマヤカシだけです。だから神様は無明、あるいは世界と同じ迷いであるマヤカシです。

これらのマヤカシは、最高にマヤカシのように現れます。つまり目を欺くので、人間は「私、あなた、私たち、彼」などが「こうある、そのように存在する」と迷ってしまいます。これらのマヤカシは無知、あるいは自分自身について知識がないことから生じる循環の法則で存在することができます。

ただのマヤカシに過ぎない人間、あるいは世界がこのように生まれると、自分は無明、欲望、取、そして自分のカンマに操られている操り人形か、言われるままに演じさせられているドラマのような状態になり、同じマヤカシであるものに恍惚となります。

愚かな迷いで生きている間は、愚かな迷いの餌だけを目指すので、ごく簡単に言えば「自分が好きで、自分が望むもののために生きた」と言うことができます。彼らは、自分の生きる目的は自分が最も好むものにあると感じ、それらと離れたくないと思います。これは「永遠の幸福」の話にぴったりです。

これらの人間を、私たちは「凡人」あるいは「世俗の範囲にいる」と言い、自分の手本はこのようで、目的はこのように自分の物だけです。凡人とは、目を塞ぐかさぶたが厚いという意味で、自分とは何か、世界とは何かをかすかにも知りません。だから凡人界、または俗世界と呼ぶ彼らの様式、あるいは境地がなければなりません。

人生や世界を理解する十分な智慧があるもう一種類の人間が内面的、あるいは深遠なレベルの「世界とは何か」という意味で、自分が十分世界に知悉した時、この種の人たちは世界が真実のままに、つまり世界や命のマヤカシが見え始めます。かつては命に厚くあった執着が少しずつ薄くなり、手放せるまでになり、マヤカシにすぎない自分の回遊、循環を止めたいと望み、そして絶滅させて自由になりたいと望みます。以前は迷いばかりだったので循環しなければならず、座って休む、あるいは消滅させる、あるいはマヤカシでしかない物を自分の物と執着しないで、自然に生滅させる機会も自由もありませんでした。

今自分、あるいは自分の体、あるいは自分であるもの、自分のものが何もないので、この種の人は神様を求めず、永遠の命、あるいは永遠に幸福である実体のある自分を欲しがりません。求めるのは回転を完全に止めること、永遠に二度と生まれないここと、回転しないことだけです。

この人たちは煩悩を突き刺す智慧があるので、目を塞ぐ布がが薄く、透けて見えるほど薄いので、命や世界のを真実のままに見え、そして命から、あるいは自我があることから執着と誤解を抜き取ることができます。これらの人々は、すべての世界を超越したロークッタラの側と呼び、俗人と正反対のアーリヤプーム(聖人界)と言う素晴らしい人で、何としても真実を知って迷いを絶つためだけに生きています。

これらの人々の目的は、誤解や迷いからの自由、そして生老病死、尽きることなく繰り返し生れることを完全に消滅させること、私、あの人、神様、自然、いろんな考えを消滅させ、あるのは回転する自然と、もう一つの正反対の状態、つまりそれらの自然がない状態です。

最後に、仏教と創造主である神様のいる宗教は、仮定の人物をタンマあるいはすべてタンマの状態とすることで歩調を合わせるができると結論することができます。たとえば Man punishes the Action. God the Intention .とこのように言うとき、私たちは「カンマの法則は神様」という意味にするということです。そうでなければ理解し合える道はありません。一方は仮定の人物を信じる人々、もう一方は(人物と仮定した)タンマだけを信じる人々として袂を別たねばなりません。

世尊は天国、あるいは神様から与えられた言葉として仏教の教えを規定せず、命と、命の生れる原因と、命の消滅と、命の消滅に到達する方法だけを、真実の法則として規定しました。科学のような道理に由よる法則です。命は発生と、変化と、果てしなく繰り返すために再び戻ってくるための消滅あるいは崩壊を含んでいます。

そこで「苦だけが生まれ、苦だけが存在し、苦だけが消滅する。その他には何も生まれず何も消滅もしない」という教えがあります。この意味の滅苦は、当然苦、あるいは生れて変化して再び生まれるために消滅しなければならないことから解放されることを意味します。人間が幸福と呼ぶものはマヤカシにすぎず、生まれて変化して消滅することに含まれ、本当はそれ〔Ultimate Truth〕も苦です。

命、あるいは自分、あるいは世界を「ただのマヤカシ」あるいは「ただの自然でこのように変転していく」と見ることは、悲観〔Pessimism〕でも楽観〔Optimism〕でもなく、厳しい真実を見て、迷いが消え、命や世界を「自分、自分のもの」と執着することに倦怠を感じさせるだけです。執着がなくなれば、その後は幸福な人も不幸な人もいません。それが解脱です。あるいは仏教教団員の最終目的です。

 


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