世界はどのように生まれたか

どんな思想的根拠があるか





 この質問の答えは、大部分が一番の答えと関連があります。しかし検証も兼ねて、もう一度手短かにお答えします。

 世尊は世界を造った人物について言及していませんが、世界を生じさせた初めの原因について、パーリ(ブッダの言葉である経)のローヒタサヴァッカ チャトゥカで「それは無明」と言われ、「世界と苦は、意味としては同じ」と言われ、そして至る所で「欲望は何らかの望みであり、困難に遭遇したくない、こうなって欲しいというような望みも、苦を生じさせる原因であり、この欲望は無明、つまり知識がないことによる自然が隠している盲目の一種」と言われています。

 この検証文は、現象として現れている世界です。

 世界は美しいでしょうか。純潔でしょうか。

 幸福でしょうか。

 止まっているでしょうか。穏やかでしょうか。

 すべて正反対です。悪品種の鶏は当然悪品種の父鶏と母鶏から生まれるように、汚れた世界には汚れた源があります。本当の神様なら、純潔な神様が汚れた世界を作ることはあり得ません。

 最新の科学の研究によると、世界は人間の願望、たとえば戦う必要などから生まれたことが分かっています。戦争や身を護ること、あるいは快適さへの要求によって、新しい物、珍しい物が発明されました。新しい物が人間の期待や欲望から生まれたことは、現代だけを見ても良く分かります。どんなに遡って見ても同じです。

 生物の進化によって単細胞のアメーバーからより高等な生物、爬虫類になり、猿になり、最後に人間になったのは、すべてそれらの生物の段階的な欲望や願望の結果です。神様に依存しなくても、神様に聞き従わなくても、願望によってどんどん進化を遂げ、最後に素晴らしい動物になりました。

 しかしそれらの願望や欲望は何が原因でしょうか。それは無明、無知が原因です。進化は苦、発生、あるいは存在、そして果てしなく輪廻することは苦と知らないからです。知識があれば願望はありません。そして願望がなければすべての生物の進化もありません。そしてこの世界に現在のような人間もいないので、執着がある、あるいは自分や世界があると理解している間は常に世界にある、神様の話の空想もありません。

 無明は世界を維持させる分だけ、まだ盲目な分だけあり、間違った教義や信仰を作ります。それらの人々が揃って神様が来てくれるよう祈っているにも関わらず、世界は貧困と悲しみと、戦争その他がいっぱいあります。

 神様(つまり無明)が世界を造ったのなら、更に人間が祈ればどんな結果になるか、私たちは神様を消滅させてしまうのが良いか、それとも神様にひれ伏すのが良いか、私が考えてみます。人間が「神様が世界を造った」と知ってから、人々が祈った甲斐がある、世界が平和で穏やかで純潔で冷静だった時代がたった一日でもあったでしょうか。歴史の中には見当たりません。

 人が何かを望むことが、それを手に入れるために努力をさせます。人間が世界をああしたい、こうしたいと望み、個人的なことをあれこれ望み、あるいは何らかの恐怖が自分の神経を妨害すると、それ以外は見えなくなるので、普通ではない物の威力を期待して、自分自身を慰めて気持ちを明るくする必要があり、そうすれば安心できます。

 そして自分自身を騙すことから生じる安心感を神様から授かったものと信じ、この種の人間の心中の、実体のない神様への信仰を更に強固にします。しかし、望みどおりすべての苦に勝利したと指摘して見せられる人がいるでしょうか。できなければ「死ねばできる」と考えを変え、再び自分を安心させます。しかし生きている間にできないことが、死後にできるか、考えてみてください。

 誰も証人を連れて来ることができないから、あるいは証明できるかも知れないので、死の時に結果が出ると信じることは、神様を信じる教義の心臓部になります。

 だから「神様に祈っているのに世界はなぜ汚れているのか」という問題を、誰も解決することができません。そして神様の信仰は少しずつ強まっています。手相や星占い、あるいは他の投資と同じように、少なくとも何らかの安心感が得られるからでしょう。

 仏教の教えは、当然現世で始め、現世で結果を得ることが重要です。現世ですべての苦に勝利し、完全に心の中の苦を撲滅させたいと願っています。最後に「苦は貪りと憤怒と惑溺から生じる。苦がないことは貪らないこと、怒らないこと、溺れないことから生じる。作ってくれる人、按配してくれる人は必要ない」とまとめることができます。

 苦を生じさせる原因があれば苦があり、原因が消えれば苦も消え、神様の手を借りなくても自然に経過します。一度火を掴んで火脹れになったことのある子供は二度と火を掴まないように、神様に強請らなくても、人間は苦の原因を絶つことができます。

 自分で委ねない限り、神様の話にしなければならないほど神秘である物は何もありません。世界はすべての物を集めたもので、食べ物、住まい、道具、敵など、さまざまな縁に依存しています。そしてそれらの物もまた、それ自身の原因に依存しています。

 だから私たちは、いろんな物が神様の目の前で生じたり、消えたり、発展したり、衰退したりするのがを見ます。どんなに深く探究しても、すべての物は互いの原因になり結果になり、次々と繋がり合っているのが見えるだけです。

 神様の話にしてしまわなければならないほど神秘な話は、因果の法則を信じない人々、あるいは道理を探求する智慧のない人々の中で生まれます。先生レベルの人が質問された時に答えられないと、先生の立場がないので、他の答えをしようにもどう答えたら良いか分からず、神秘的な話の主人公である空像の神様を作り上げました。

 最後に、神様を信じる人たちと道理を信じる人たちの、明らかな違いを見ると、前者は神様、あるいは人間を作ったものを祭り、後者は雲が増えて低く垂れこめて雨が降っても、雨に感謝したり、雨が私たちを愛していると理解したりする必要がないように、そしてその雨は、神様の恵みによるものでなく、ただの道理なので神様を崇拝しません。

 雨はただ自然の法則で、あるいは季節によって降っているだけです。時や場所によって人間の期待と一致し、時には一致しません。火や雨や山など、何にでも精霊や神様がいると考えた未文明時代の人の愚かさが、地学や気象の知識がないことから生まれたように、どの時代でも、神様の信仰は、当然因果の法則に関する知識の欠如から生まれます。このような無知の奴隷である間は、苦からの脱出は望めません。

 しかし真実をありのままに知れば、この隠された物への恐怖や迷いが消えるので心が自由になり、自然を人物だとか、誰が誰を作ったか、誰につくられたとか信じません。あるのは私たちが発生と呼ぶ集合して何かになることと、私たちが死あるいは崩壊と呼ぶ拡散を止まることなく繰り返している自然の循環だけです。

 太陽やその他たくさんの惑星と比較すれば、地球は一掴みにもなりません。小さな塊、つまり地球は、科学的見地から言えば太陽から抜け落ちた時から、あるいは一つの塊として誕生してから進化する時代には進化し、引力、あるいは太陽や月のように宇宙にある磁力の影響で崩壊する時代あるいは時期が来れば、破滅しなければなりません。

 太陽と合体、あるいは衝突、あるいは太陽が無くなるというようなことがあれば、地球も同時に終焉を迎えます。何百万体の神様が力を合わせても、地球と太陽と、その他の星の異変を止めることはできません。

 ある時代にそれらは存在せず、またある時代に現れ、それ自体にある巨大な原因と縁で変化し、確実不変な物は何もありません。確実なのは「発生と変化と、新たに発生するための消滅」の三つの状態がある、原因の威力で経過することだけです。

 秩序あるすべての惑星、あるいは太陽系惑星の秩序は神様の業だと教える人がいます。それは非常に幼すぎます。その人は限られた宇宙だけ、そして短い時間だけを見ているからです。仮にこの宇宙が存在し、回転する寿命が何百億年として、私たちが知っているのは科学の歴史に刻まれている部分だけで、せいぜい何万年です。それでどうして盤石な宇宙の秩序が、神様の業であり得るでしょうか。

 蚊の寿命を二週間と仮定して、生まれて十四日間人間を見て死んだとします。その蚊はたぶん、人間は老いることも死ぬこともないに違いないと考えるかもしれません。その蚊が生まれてから死ぬまで、人間は誰も変化せず、元のままなので、その蚊は自分が生きた十四日間以外の時間を知らないからです。


 似たような話が三蔵長部のパーリ(ブッダの言葉である経)の梵網経にあります。世界が一度崩壊して新しい世界が生まれた時、初めに極光浄天の天人が誕生しました。しばらくすると「一人きりは良くないので、他にも似たような生き物が生まれてほしい」と望み始めました。すると本当にそっくりな動物が生まれました。

 先に生まれた方の動物は「私は梵天だ。大梵天だ。私より偉い人はいない。すべての出来事を知っている。他の人たちより権力がある。創造者であり、支配者であり、すでに生まれた動物とこれから生まれる動物の父である。それらの動物は私が造ったのだ。私が望んだらこれらの動物が生まれたのだから」とこのように考えました。

 後から生まれた動物たちは「あの方こそ梵天だ。大梵天だ。あの方より偉大な人は誰もいない。すべての出来事を知っていて、誰よりも権力がある。創造主であり、支配者であり、すでに生まれた動物と、これから生まれる動物の父である。なぜなら私たちが生まれた時、あの方はすでにいたのだから」と考えました。

 それから長い時間が流れて、後の時代に生まれた動物はもっと苦しく、もっと短命になりました〔つまり人間〕。たまたまその中の一匹が群れを離れて心を静めると、前世を見ることができる修行を達成しました。しかし威力が弱すぎて、後から生まれた大勢のバラモンの一人に生まれ、自分は大梵天だと考える人たちと一緒に暮らしていた一つの世界しか見えず、その前は思い出せませんでした。

 そこで「その前は何もなかった。バラモンの祖先がすべての動物を作った。祖先は確実で永遠不変で変化することはなく、天地がある限り存在する。だから大梵天によって作られた私たちは、不確実で永遠不滅ではなく、当然死があるように生まれてきた」と考えました。

 この話は、後から生まれた寿命の短い動物は、悠久の時間を有するすべての真実に関してひどい誤解をする、ということを指摘しています。だから「宇宙に秩序があるのは、支配している人がいるからに違いない。そして創造者、支配者は神様に違いない」という教えを信じるのは誤りであり、そして教えの中の神様は寿命が短く、宇宙の一つの時代だけと見えます。

 これは近目すぎる害、そして誤解です。しかし譬えとして話した、ブッダの言葉である梵綱経にあるように、誤解して、それから人々に教えて信じさせれば、信じられる完璧さになります。

 そのブッダの言葉から、私は、創造主である神様は誤解だけで造り上げられてしまうと見ることができます。初めに生まれた梵天が「自分は創造主だ」と考えたので、そのようにでっち上げてしまい、間もなく他の動物が生まれると、後から生まれた方は「初めに生まれた人は創造主だ」とでっち上げます。その方が誰よりも先に存在したのと、とてつもなく寿命が長いからです。

 ずっと後の普通の人間の時代になると、更に大きな誤解をします。創造主である神様を信じる教義は、このようにして見事に作り上げられました。深く熟慮すれば、初めて神様が生まれたのは、それ自体の原因によって、現れては消滅する幾つもの時代のたった一つの時代だと分かります。

 長い目のある人はすべての時代が見えるのでこのように迷わず、「世界は転回している自然のある時代、ある部分にすぎない。大きな部分も小さな部分も確実不変の物など何もない。変わらないのは休まず巡回していることだけで、回転が止まる時はすべてが完全に滅亡する時」と見えます。


 次にある時代に現れた、あるいは消滅した世界の初めに戻っても、確実、あるいは規則的な物は何もないという規則を発見します。こうなるか、そうなるか、ああなるか、あるいはどうなるかは、世界を作り上げる、あるいは世界を押している原因次第です。

 ある時地球が現れ、その上に人間世界が生まれ、発展し、そして消滅し、また生まれ、何度も何度も、あるいは何百、何千回かも知れません。人間世界の一つ一つの発展した時代には、初期と中期と末期があり、神様を信じ、精霊を信じ、カンマや自然の法則、科学と呼ぶ物質的自然の法則、間違った哲学的な考えなどを信じるので、それらの信仰から受け取る結果は様々です。

 世界がそれまでと違う変化をするには、それで十分です。地球に関して言えば、地球の一時代は当然人間の一時代より長いので、私たちは更に複雑さに遭遇し、そして個々の世界の発生と変化と消滅は、全部それ自体に依存するという明らかな法則を発見します。

 人間世界が戦争か何かによって焼き滅ぶとすれば、それは人間の考えが原因です。神様が好もうと好むまいと、人間は核爆弾を作り、必ず投下はあると考えれば、そしてうっかりすれば、人間は絶滅するかもしれません。神様の話を教える人は、それは神様に対して過ちを犯したから、神様を顧みないで武器を作ることにばかりに夢中になっているからと反論するかも知れません。

 神様を信じない人たちは、神様を信仰するヨーロッパがそのような考えをする、と反論するかもしれません。神様を信じない仏教界、あるいはインドのウパニシャット時代、ブッダの時代と同時代は、神様を信じない教義がたくさんあり、爆弾を作る類の考えはありませんでした。

 神様を忘れれば爆弾を作ることを考える、という批判は成立しません。仏教教団員は神様について考えませんが、爆弾は作らないからです。反対に神様を通り越すこと、神様から脱すことを考えます。だからここでの真実は、すべての物は、主としてそれを取り囲んでいる〔 Causative Environment 〕原因で回転していくということです。

 深い部分の環境がそれを作り上げ、普通の環境が傍で転がしていて、それはアビダンマ(論蔵)のパッターナの要旨で二十四に分類できます。だから世界は、それ自身の原因と縁で回転しています。

 だから世界の平和の問題は、世界に真実、あるいは取り囲んでいる本物を見せること次第で、でっち上げた神様を信じさせることではありません。論理で完璧な頭脳の人々には(信じられないので)、神様の話よりもっと高度な話をするべきです。

 科学などの高い知識がない時代に今のような道理を教えても、人々は聞いて意味が分からないので、私たちは神様のような神聖な物の話を教えなければなりません。そうすれば世界の平和を維持することができます。世界に論理を重視する科学の脳味噌が沸騰している時代は、神様などの神聖な話は、子供や山奥の野蛮人に教えるものになります。

 神様は指を全部切り落とされ、世界の平和に手を差し延べる術がありません。残っているのは人類の賢さだけで、十分なら世界を破滅から守ることができます。だから道理を教えにする教義が非常に求められています。

 世界の人が「人間の熱狂によって、世界は出現と消滅を何百回とも知れないほど繰り返している」と深慮して見ることができれば、これ以上ドラマを繰り返すことに倦怠を覚えるかも知れません。帰依する物として無明(無知)を信じ続けることを考えても、何も楽しくないからです。

 そうなれば世界は平和になります。このようになれば、架空の神様を借りてきて現代人を脅して嘲笑されなくても、世界は平和になることができます。世界は神様と関わりがないことが、非常に明らかに見えるからです。

 神様の話は、世界にまだ知識がない時代に必要があって生まれただけで、必要がなくなれば、世界は神様を見捨ててしまい、一度世界が壊滅して再び神様を信じるにふさわしい脳がある時代に進化するまで、神様を崇拝することはありません。


 世界の発生から壊滅までの一つの周期を、幾つもの時代に分けることができます。火や他の物によって消失する時代。動物が存在し始める時代。神様を信じるには至らない愚かな人間の時代。神様を信じるにふさわしい時代。神話の欺瞞に気づき、その後は信じないで、道理だけを信じる時代。

 精神面を見落として物質面と論理だけに夢中になる時代。そして我を忘れた物質的欲望が自然の崩壊を生じさせ、遂にはすべてが崩壊する時代。このすべての時代の中で、神様に居場所があるのはたった一つの時代だけと見ることができます。

 世界の主人が動物たちで、まだ人間が存在しない時代に、その動物たちに神様の話の知識がなくても、世界は進化することができます。神様に祈ることを知る話ばかりしないでください。

 このように述べるのは「世界は欲望、あるいはそれ自身の望み以外に、どんな神様にも関わりらずに経過して来て、これからも経過して行く。そしてその欲望は世界の愚かさ、あるいは無明から生まれるので、世界はまだいつでも困難に遭遇していく」と指摘する意図だけです。

 世界はそれ自身によって造られ、神話で語られているように神様が造ったのではありません。神話は意味を掴むために遺して、あるいは擬人化した言葉を事柄本位に解釈し直せば、要旨は一致します。世界を造った人がいるかどうか熟慮すれば、仏教徒の見解がどのようかが分かります。

 仏教教団員が信じられるのは、仮定で言えば、私たちは何種類もの元素が混じり合ってできているという道理の原則だけです。元素が混じり合ったものは成分〔Element〕からできていて、成分はその分子〔molecule〕でできていて、 分子は分子を構成している原子〔atom〕でできていて、一つ一つの原子は限定された空間で回転しているエレクトロン〔electron〕とプロトン〔proton〕によって構成されていると、科学では教えています。

 神様が造る余地があるとすれば、エレクトロンかプロトンを創ることです。それ以外の物は自然の法則によって、それ自身によって創り出すことができるからです。しかし私たちのタンマはもっと深遠で、最後の物は作る人〔つまり行、あるいは無行〕の状態によって作られ、その作る人の状態は第1項で述べた縁起の意味の無明です。

 命はどうして生まれるかという詳しい経緯を知りたい方には、それを読んでいただけるようご案内したとおり「命と涅槃」いう本で長々と述べています。世界を造った神様とは無明のことで、人が神様と呼ぼうと何と呼ぼうと、それは無明にすぎません。

 だから仏教の見解では、世界は無明から生まれます。創造者と呼んでも、ただ自然と呼んでも構いませんが、世界がただ何となく生じることはなく、神様の考えのように一回だけ造られることもありません。

 法則と限りなく連なっている原因で、少しずつ回転していくだけで、私たちは進化、あるいは evolution と呼んでいます。だから仮定の段階では「世界を作る人がいる」と言うことができ、それが自然の法則です。それ自体の無知な状態である無明が根源です。

 しかし述べてきたことはすべて仮定のレベル、あるいは世俗の言い方です。ブッダの哲学はもっと奥深く、仮定のレベルを抜き取ってしまい、無明を厳密に消滅させます。つまり世界も動物も人もなく、いろんな名前はただの仮定、あるいは話すために規定した言葉にすぎません。

 一つの自然、一つの元素も、話すためにすべての元素に名前を付けなければなりません。人とはたくさんの元素が自然の回転力で固まった物で、体も心も自然の一つに過ぎません。それについてよく学んで十分熟知すれば、最高に不可思議な物である私たちの心、あるいは神(訳註;Godではない。シン。神経、精神、失神などに使われる、心の一部である神)も、次々に連続して関連し合っている自然以外ではないという真実を発見します。

 この真実に出会った時、「自分自身はない。自分とは、文法的な一人称の名詞として仮定しただけ」と感じます。〔自分と仮定した〕この自然の集まりは、他の物より緻密な能力の威力で、話すことでも何でもでき、話ができれば、話すためにいろいろな言葉の意味を規定します。

 鳥や虫たちにも仲間に意味を伝える鳴き声があり、単純で何種類もありませんが、意味があります。話す「モノ」である自然の集まりを意味する時、意識せずに「私」という音を規定し、使い続けてきました。たった一つの理由、つまりこれらの自然が進化することで、私たちが人間と呼ぶものにまで高まったので、話すことができ、そしていろんな意味があります。

 人という言葉も、世界という言葉も、何という言葉も一つの自然、あるいは一塊の自然を指す言葉にすぎません。仲間内で名づけた自然の外には、「私」も「世界」も何もありません。

 以上の理由から「私はない」「世界はない」「実体のある確たる物としては何も存在しない。あるのは自然の法則と、止まることなく回転する自然だけ」ということです。世界の出現も、世界の消滅も、終わりを知らない、非常に時間の長い自然の回転の一時期でしかありません。それで、造った人も造られた人もいるでしょうか。

 明のレベルに到達しなければ、あるいはこのように悟れなければ、まだ無明という意味で、まだ迷ったまま「私」「世界」「あれ」「これ」と呼び、迷った呼び方で執着するので、苦や世界に勝利できません。

 無明と正反対の明に達した時、動物も人も世界も、何もかも無くなり、これらを造った人も一緒に消滅し、智慧の光の中に現れるのは、果てしなく変化している自然の集まり〔phenomena〕だけです。




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