正しく生きる





1985年8月3日

 タンマにご関心がある善男善女のみなさん。アーサーラハ季の土曜法話は、基本的な自然の話の三回目です。一回目は自然の基本、つまり自然の経過はどのようかということについて話し、二回目は基礎である自然から生じる問題、つまり基本的な自然の原則に反した行動から生じる苦について話し、今回は基礎である自然で、正しく生きることについて話します。

 みなさんこれらの内容を、「基本的な自然はそのようになっている。正しく行動しなければ苦が生じるから、私たちは正しく生きなければならない。つまり基本的な自然で正しく生きなければならない」と、関連させなければなりません。

 今日は冒頭で述べたように、基本である自然で正しく生きることについて話します。私たちは命を維持させる、あるいは生きると言うこともできますが、それを基本的に自然の原則に合うよう調整しなければなりません。

 初めに「命」という言葉について話して、それから基本的に自然で生きることについて話したいと思います。この生きるという言葉は、仏教教団員には仏教教団員の意味があり、庶民や他の分野の学生には、それぞれの意味があります。

 たとえば科学では、細胞核が新鮮なことを言います。細胞核がまだ死んでいないで、組織になっていて、そして成長する状態があることを「命」と言います。これが科学で言う基本的な「命」です。

 庶民の言葉の意味の「命」は、誰でも「命がある」「どう生きている」と使っているので、だいたい理解しています。要約すれば、まだ死なないこと、まだ呼吸をしていること、まだ動けることです。庶民の言葉の「命」は、このように簡単な意味です。

 次にパーリ語のアーチウォー、アーチワという形の「命」という意味の言葉は、生きているという意味です。つまり生きていることを命と言います。正しく命を維持していることを、正しく生きると言います。ここで言う維持とは、生き延びるよう、死なないよう、そして自分の望みどおり病気にならないよう、可能な限り望ましく、満足できる状態を維持する努力をする行動を意味します。

 サンカーラ(この場合は心身)の普通の命は当然変化し、苦の受(感覚)がありますが、それも命の問題です。私たちはその種の命を、可能な限り望ましい状態で維持します。このような状態の命という言葉は、生きることすべてを意味します。

 次にアビダンマの言葉で言えば、彼らは「形(カーヤ)」と「心(チッタ)」と「意(チェッタシカ)」の、三種類の結合を「生きている」と言います。形とは身体で、これも正常であり、そして感じたり考えたりできる主体である心の部分、これも正常で、そして意は心の特徴、あるいは心に生じる物、心の状態を変化させる物で、これも正常で、全部が良い状態にあれば、身体と心と意のすべてが良い状態にある時、生きていると言います。

 次に庶民が話す言葉より高いタンマの言葉、経典でも述べていて、研究者は、現代の形而上学という様式で研究しています。形而上学の「命」という言葉は、永遠の命を意味し、まだ死ぬことがある命は「命」と言いません。二度と死ぬことがなく、永遠に生きることを、アビダンマよりもっと高い意味の「命」と言います。

 形而上学と呼ぶものは永遠の命です。生まれては死に、生まれては死んでいるスズメの子は、まだ命ではなく、永遠の命になった時、生まれも死にもせず、変化もせず、何もしなくなれば命と言います。これは興味深いです。

 次に、このシリーズの講義の意味、あるいは目的の「命」という言葉は、問題や苦がある物、問題があり、苦があり、それ自体に望ましくない物があるものを意味します。早く言えば「命(生きること)の中の苦」が命です。だから「苦は命。命は苦」と言うことができます。命は作られた物であり、そして変化し、生滅を繰り返すからです。「苦は命」でも、「命は苦」でも、どちらにもできます。だから苦と命は同じです。

 命という言葉には、このようにさまざまな側面と角度があります。話す時に捉えている物が違えば話が通じません。今私たちは話が通じなければなりません。「生きることの苦は命」と捉えるので、それに対処しなければなりません。つまり耐えられる状態、あるいは苦でない状態を維持しなければなりません。

 愚かな凡人の生きることは、自分、自分の物に執着しすぎるので、苦と共に生きなければならず、苦が生きることになってしまいます。次に彼らは、知識と理解を授ける教えを聞いて、苦が軽減するまで実践します。その苦が減って苦と感じなくなれば、身体が生きることは苦でも、それは体の問題として経過させ、心は苦と感じません。こう言っても、誰も信じないかもしれません。あるいはごく普通の生き方をして、苦を感じないなんて不可能だと反論する人がいるかもしれません。

 ここで、それはあり得ると理解してください。あり得るから仏教です。プラタム(仏法)はこれを目指しています。まったく苦を感じなくなること、心が苦から脱出すること、あるいは苦を自分の物と掌握しないことを目指しています。

 阿羅漢について考えることも出来ます。阿羅漢になってもまだ人間で、生きている人間なので、ご飯も食べなければならず、水浴もしなければならず、排尿排便もしなければならず、健康管理もしなければなりません。身体はまだ病気になりますが、苦があるすべての人のように、苦ではありません。

 痛みが生じても、「これは神経が感じている痛みにすぎない。苦である自分はない」と感じます。苦の所有者である自分はいません。自分はありません。だから阿羅漢には、苦に勝利した命(生活)があります。

 心が非常に良く訓練されたので、知識があり、理解があり、洞察力があり、精神力があり、普通の人にある苦をすべて鎮めることができるものが揃っているので、恐怖、あるいは苦闘・苦悶という意味の苦はありません。苦の受(感覚)である痛みはあっても、ただの感覚、それはただの感覚で、自分の苦ではないと見ます。

 この項目を良く理解するよう努力しなければなりません。そうすれば苦に関して良く理解できます。阿羅漢は病気にならないのでも、人々にあるような症状がないのでもなく、あっても「苦である自分がいる」、あるいは「自分の苦」と感じません。

 当たり前の自然でそこに生じた、その器官に生じた受だけと見ます。そのように感じなければ、「私は」その受の所有者であり、その受は「私の物」と感じます。もしそうなら、一般の人が苦しみと呼ぶ苦を受け取らなければなりません。つまり心も自分という感覚も苦になり、私は今非常に苦しい、私は死にそうだ、そのような物になります。

 受を切り離してしまえれば、自分ではない、自分の物ではないとしてしまえば、感覚はまた別になります。これを「この命、この身体で直接滅苦をする」と言います。このようにできます。つまり愚かに迷い、その痛みに飛びついて自分の苦にしないで、すべての受の中の一つの受にしておき、世界の当たり前の自然の、受の成り行きにします。

 このような状態で生きることは、その生きることを苦でなくします。苦はあっても、成り行きによる受と行の物で、自分の物にしません。あるいは自分と捉える心の物にしません。

 これは非常に重要なことです。そして仏教のすべてです。何も自分と執着しないことは、本当の初歩から頂点まで、どこでも基本の教えです。例を挙げさせていただくと、子供も執着しない知識があるべきです。さもなければ非常に痛みがある時など、悶え苦しみます。

 あるいは玩具、その子の人形などが壊れた時、死ぬほど泣きわめきます。あるいは非常に執着する子供は、試験に落ちると死ぬほど泣きます。自殺してしまうこともあります。こういうのもあると聞いたことがあります。それは執着しすぎるからです。

 だから小さな子供でも、基本として執着しない知識を持っていなければなりません。それが変化する度に苦しまなければならないほど、何かを自分、自分の物と強く思い込みすぎないでください。自分を正しい状態、あるいは適切な状態で維持し、食べなければならない、使わなければならない、しなければならないことがあったら適切に関わり、執着する必要はありません。

 あるいはそれが変化したり壊れたりした時、非常に苦になるほど、必要以上に、自殺をするほど、自分、自分の物と思い込む必要はありません。子どもの話でも、子どもたちでも、執着しない話の知識があるべきです。

 青年になれば、なお執着しない話の知識が必要です。そうしなければ、非常に泣かなければならない話があります。そして自殺が日常的にあるように、失望して、愛の問題で非常に絶望して、そして自殺すると言うように、自殺しなければならない話があります。

 次に夫婦で暮らしている人でも、執着する必要はありません。これも執着しない話の知識がなければならないかもしれません。夫婦の問題で失望しても、自殺しないで済みます。そして他人を殺さなくても済みます。今は問題が起きると誰でも殺して、そして自分も自殺します。これを「ひどすぎる」と言います。執着があるからです。

 次に年寄りはだんだんに手放して、執着しないことを知らなければなりません。そうでなければ、いろんなことが自分の望むようにならないので、苦にならなければなりません。もうすぐ棺に入ろうという年寄り、爺さんは、執着を捨てて減らし、見事な人生にすることを知らなければなりません。

 老人も執着が減っていけば幸せです。若返ったように明るく爽やかです。つまり心が若返ります。身体は老いて干乾びても、心は若返ります。穏やかな幸福で、苦で転げ回ることがありません。この知識が、執着しないことの知識があるので、何が起きても、どんな時でも微笑んでいられる人です。

 だからみなさん。執着しない話は何人かだけ、あるいは年寄りだけに教えるのでなく、誰にでも必要と見るよう望みます。私がこの執着しない話を広めると、反対され、叱られ、なじられ、罵られ、「教えるべきでない話を教えるバカ」と言われました。

 これは言う人の愚かさです。そう言う人は、執着しない話は、子供でも知らなければならない重要な知識と知りません。知っていれば、苦が少なくなります。だから子供にもこの話を、子供にふさわしく教えなければなりません。そうすれば苦が少なくなります。

 それ以上に、良い出発点になります。その子は、正しい集発点である知識があり、そして良い出発をします。この知識はだんだんに増えて、年が増せば執着を減らすことを知ります。最期の時に間に合うかも知れません。つまり死んで棺に入る前に、執着が絶滅します。このように良いことです。

 これ以外に仏教の心臓部はありません。つまりあらゆる物に執着するべきでないと知ることです。小さな子に教え、大きな子に教え、家長や主婦に教え、年寄りに教えて、この話を分からせることが、本当に仏教を教えることです。本当の仏教であり、本当に教えておくべき仏教の本当の要旨なので、仏教教団員として仏教を信奉することが無駄になりません。

 今、どうしたら基本的な教えに従って正しく生きられるかという項目になりました。普通に生きていると、当然変化があるので、知らない人は苦になり、あるいは転げ回り、変化に従って上下します。上がるのも下るのも、どちらも疲れるだけです。飛び上がるのも飛び降りるのも疲れるだけです。喜ぶのも悲しむのも、同じだけ疲れます。

 愛も憎しみも、嫌悪も恐怖も、何でも同じだけ疲れます。穏やかでも休息でもありません。私たちは、この命を休ませることを知らなければなりません。いろんな感情の形で近づいてきて、持ち上げたり突き落としたりして、喜びや悲しみを生じさせるよう煽るサンカーラ(行蘊。この場合は考え)に従って踊らないでください。

 どう生きたら基本の教えで正しくなるかと問うなら、私たちには教えとして遵守するパーリ(ブッダの言葉)があります。つまりブッダが今にも涅槃に入られようとする時、スパッダという異教徒に答えられた「スパッダさん。これらすべての比丘が正しく暮らすなら、この世に阿羅漢が欠けることはありません」です。

 非常に中立に「これらの比丘が正しく暮らすなら、この世界は阿羅漢に欠けることはない」と言います。どう生きるかと問うなら、私は自信を持って「世界に阿羅漢が欠けないような生きる」と答えます。

 みなさん、世界に阿羅漢が欠けない種類の生き方をする決意をし、目指してください。阿羅漢になると自慢していると、誰かに非難されても構いません。その種の生き方は滅苦ができ、苦を防止でき、完全に苦を消滅できるからです。世界に阿羅漢が欠けないように生きることを最初の教えにする。それが基本の教えで正しい生き方です。この言葉は、最初から最後までどこでも、基本原則にできます。

 さて次に、どう生きれば世界に阿羅漢が欠けないか、と問わなければなりません。それは仏教の教えに従うことです。一番近道で、一番聞き慣れていて、一番早道なのは、八正道にそって生きることです。

 この話は、何度も何度もお話しています。八支ある道、八項目から成る道を八正道と呼びます。その項目は正しくなければなりません。つまり法と律で正しく規定された教えどおりに、正しく実践する項目という意味です。その八項目は、至る所で聞き慣れています。そして全員、あるいはほとんどの人は暗唱できます。

 つまり八正道の経を唱えられますが、それが何か、どんな位置にあるか、どう利益があるか、深く広く見ません。そのようなら、ただオウムや九官鳥のように唱えているだけです。それでは十分ではありません。その八項目は八つの正しさがあると知り、明確に理解しなければなりません。

 初めの正しさのグループは、考え、見方、信念、理解などの正しさで、これをサンマーディッティ、「見解の正しさ(正見)」と言います。

 見解の正しさがあれば、サンマーサンカッパ(正志)という目標、あるいは望みの正しさがあります。サンマーサンカッパとは、正しい目標、正しい望みがあることです。サンカッパは、ある人たちが言っているように「考え」という意味ではありません。

 サンマーサンカッパを正しい考え(正思)と訳すのは、言語的に正しくありません。サンカッパとは望み、願いという意味で、つまり考えの一種です。望みである考えをサンガッパと言います。つまり目標でもいいし、憧れでもいいです。それがサンカッパで、私たちは正しいサンカッパがなければなりません。

 この項目は大丈夫です。ディッティ、つまり考え、知識、あるいは信念、最初の項目である理解が正しければ、目標、あるいは望み、夢も正しくなるのは当たり前です。正しい見解で経過するので、心は、心にある知識のように望むからです。

 二番目のグループは言葉の正しさがあります。サンマーヴァーチャ(正語)という話すことで、使う言葉も正しく、話し方も正しく、正しい言葉によって関わり合います。これが一種類で、言葉の正しさと言います。

 そしてすることの正しさ(正業、正行)で、サンマーカンマントーと言います。身体面の戒の全項目を遵守することと明示されています。何戒でも、身体面の戒の全部の項目を正しく実践すれば、体の、つまり行動の正しさがあると言います。

 そして正しい生業があります。生活しなければならず、生活に必要な物を増やさなければならないので、正しく必需品を増やします。つまりサンマーアーチヴォーと呼ぶ正しい生業(正命)です。

 次に三番目のグループにはサンマーワーヤーノー、正しい努力(正精進、正勤)があります。それには、努力を管理して正しい努力にするサティ(理性)がなければならず、そしてサンマーサティ(正しいサティ)があり、たゆまぬ努力があり、その努力を正しい状態に管理するサティがあり、これをサンマーサティ(正念)と呼びます。それから心が全力で正しさの中に安定していれば、サンマーサマーディ(正定)と言います。

 どうぞ、これを良く理解するまで、たくさん興味を持ってください。唱えられるだけにしないでください。ただ唱えられるだけでは何も利益はありません。どうぞ、全項目を行動できるようになるまで知って、この命に、八項目の正しさの全項目でする行動があるようにすることを知ってください。八項目の正しさと呼ぶ方が分かりやすいです。八正道と呼ぶより分かりやすいです。

 しかしそれは同じ話です。八正道は八つの正しさが一つの道のように合わさっていて、この命の道を「八項目から成る命の正しい道」と言うからです。これを基礎である教え、正しく生きることの基礎である教えと言います。八正道の行動が身につくまで、自分自身に八項目の正しさがあると見えるようになるまで、八正道を理解するよう、特にお願いします。

 次は話す教えとして「八項目の正しさは、戒・サマーディ・智慧と呼ばれる物」という話をします。ただ前後が逆になっているだけです。智慧を先に話しています。つまり正しい見解と正しい望み、これが智慧で、正しい言葉、正しい仕事、正しい生業が戒で、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディが定です。

 私はこの項目で叱られました。「智慧が先になければならない」と提唱するのは間違っていると、先生と称する人たちが非難しました。智慧が戒より、サマーディより先にあると言うのは、私が勝手に言っているのではありません。ブッダが八正道の教えで、全八項目の中で「正しくするためには、智慧であるものが先になければならず、それから戒の項目、サマーディの項目が続く」と言われています。

 智慧が先になければ戒は正しくならず、道の外へ投げ出され、岩場や草むらへ入り、あるいは執着しすぎて、全部戒禁取(シーラバッタパラマーサ)になってしまいます。どんな行動も、全部戒禁取になってしまいます。つまりすべてを理由以上に「神聖で魔力があり、威力があり、奇跡がある素晴らしい物」と執着してしまいます。

 戒は外側の煩悩を捨てる助けになるというのなどは、神聖な話、霊験のある話、神秘的な威力を得る話、秘された話になります。これは、戒の本当の目的と違う、誤った目的の持戒なので、戒禁取になります。つまりその人の愚かさが戒を撫でまわして汚れた物にするので、神聖な話、霊験のある話、軌道を外れた話になってしまいます。智慧が先にあれば、そのようにできません。

 だから何がどうかを知る智慧から、すべての物は執着することはできないと知る最高の智慧まで、智慧が先にくれば、戒に執着して汚れた物にする必要はありません。

 戒の話は、戒に執着しないで戒を遵守しなさいと、よく憶えておいてください。つまり執着で戒に囚われないで、つまり智慧で適当に捉え、正しく掌握します、正しく行動することを遵守と言います。執着すれば、その戒を霊験のある物、神聖な物、異常な物と捉えます。執着による戒があり、そして執着による戒があるので自慢し、自分を褒め、他人をけなします。

 「執着」は強く囚われることで使い物にならず、「遵守」は、適切に掌握しておくことで、これは使い物になります。この二つの簡単な言葉を憶えておいてください。だから何をするにも、戒のある方法、つまり適切に捉えてください。強い執着でしないでください。そうすれば始めた途端に苦になります。愚かなので、執着で重いからです。

 執着は、いつでもかならず愚かさでします。知性があれば執着せず、適度に、ちょうど良く捉えます。知性で守れば遵守になり、無明・欲望で守れば執着になります。執着と遵守という言葉を、このように区別すれば安全です。

 八正道は戒とサマーディと智慧の話だが、順序が違うだけと指摘して見せています。私たちが「戒・サマーディ・智慧」と言っているのは、段階的に、価値が低い順に述べています。あるいは学問的に言っています。しかし実践、実践方法としては、「智慧・戒・サマーディ」と言わなければなりません。そうすれば本当に結果のある実践になります。

 戒・サマーディ・智慧で、戒やサマーディを導く智慧がなければ、戒とサマーディは道を逸れ、軌道を外れ、全部戒禁取になります。しかし管理している智慧、あるいは正しい見解があれば、軌道に乗ります。智慧が戒とサマーディを先導して、ますます義務を行なさせます。

 サマーディがますます義務を行なえば、智慧の力もますます強化され、智慧の力が強くなれば、戒とサマーディを更に正しく、更に高くなるように導きます。戒とサマーディが高くなれば、更に高い智慧を生じさせるので、最後の時まで、つまり最高の解脱の時まで、智慧は戒とサマーディを更に高めます。

 これが戒・サマーディ・智慧の話です。学問的に言えば、戒・サマーディ・智慧の順になり、実践で言えば、智慧・戒・サマーディになります。しかしあまり聞いたことがありません。ブッダは八正道の形で述べています。八つの項目をブッダは「智慧・戒・サマーディ」「智慧・戒・サマーディ」と言われていますが、私たちにはそう聞こえません。

 私たちには、正しい見解、正しい望み、正しい言葉、正しい仕事、正しい生業、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディと聞こえてしまいます。だから知りません。観察しない人なので観察しません。観察する人なら、すぐにブッダが実践法として言っている時は、智慧・戒・サマーディの順で話していると、自分で気づきます。

 次にもう一つ、その八項目の主人はサマーディ、つまり正しいサマーディと知らなければなりません。簡単に理解できるのは軍団の譬えで、サマーディは軍団を指揮統率する総大将のいる本隊のようです。代表である本隊です。正しい見解は前哨隊で、最前線を行かなければならない部隊で、先導して、その戦いが首尾よく行く方法を探索し、本隊に報告します。

 本隊は、どうしたら前哨隊の報告に合わせて実行するか、計画します。だから正しい見解が必要です。つまり前哨隊の正しさです。そして他の項目は、左隊、右隊、あるいは楽隊、食糧隊など、いろいろ合わせて八つになれば、利益があります。

 全八項目が本当に義務を行なえば、前の七項目は、最後の項目の家来ということが分かります。最後の項目はサマーディで、他の七項目はサマーディの家来です。こういうのを「七人の家来がいる聖なる正しいサマーディ」と言います。七項目が揃っていて、そして七項目すべてがサマーディの家来の状態なら、七人の家来を持つ聖なる正しいサマーディと呼びます。

 今までは同じ重さで分けられ、十分名誉のあるサマーディではありませんでした。しかし煩悩を断つ効果があるように本当に働く時は、七項目すべては、最後の項目であるサマーディの家来の働きをしなければなりません。このようにできれば、「七人の家来を持つ聖なるサンマーサマーディ」と名前が変わります。

 今までの名前はサマーディで、友達同士のようでしたが、完璧に義務を行なうよう組織されると、全七項目がサマーディを囲み、あるいは援け、サマーディは敵である煩悩と戦う義務を完遂できます。正しいサマーディはより高い栄誉を受け、七人の家来を持つ聖なる正しいサマーディになります。前の七項目は、このような状態の正しいサマーディの家来です。

 八正道について良く知っていれば、七人の家来をもつ聖なる正しいサマーディも理解できます。八項目あることは事実ですが、隊として防衛の義務を行なう時には、サマーディを主柱に、首領に、総司令官に引き上げ、それ以外は総司令官を取り囲み、総司令官が敵を撃退します。

 ここでのサマーディは、智慧が含まれているという意味で、だから敵を撃退することができます。正しいサマーディには、敵地に乗り込む兵力として加わった正しい見解があるので、それができます。その他は首尾良く行くように協力して援けます。

 これを良く見れば、人生(命)の話は戦争のような戦いであり、正しいタンマの実践は、戦争のようなものと、つまり煩悩と菩提の、知識と知識がないことの、あるいは苦と智慧のある心との戦争と見ることができます。

 このように生きることができれば、基本の教えで正しく生きると言います。人生は、敵を後退させる、あるいは火を噴いて何もかも焼き滅ぼしてしまう、重要な武器を持っている軍隊のように、常に煩悩を攻撃する経過になります。サマーディにはそういう力があります。

 だから八正道、八支聖道と呼んでも、七人の家来がいる聖なる正しいサマーディと呼んでも同じものですが、八正道の一つ一つの項目をこのように話しても、まだ戦い始めることはできないということです。七人の家来のいる聖なる正しいサマーディになれば、敵と戦う時、激しく敵を攻撃する時になります。全部同じです。バラバラの時は休憩しているようなもので、立ちあがって煩悩と戦う時は、最後の項目が大将、総司令官になり、残りの七項目は家来です。これが正しい生き方の基本です。

 しかし、まだ知らなければならない特別の話があります。細かい話ですが、時にはブッダは八正道を別の言葉で、「サマトー チャ ヴィッパサナー チャ」という言葉で説明していると知らなければなりません。こういうのもあります。

 つまり何が苦を滅すか、煩悩を滅すか、いろんな問題を滅すかという説明をなさる時、場所によって八正道と言う代わりに、サマトー チャ ヴィパッサナー チャと言われることもありました。「サマタも、ヴィパッサナーも」という意味です。二つだけで、戒はありません。

 次に怪訝に思う人もいます。あるいは愚かな反論者は、なぜ戒について言及しないのかだと、ブッダに反論します。このような場合は、戒について言及する必要はありません。戒はサマタに含まれているからです。戒はサマタの体系に含まれているので、サマタとヴィパッサナーの二つだけです。

 こういうのは「ブッダはいつでも正しい」と、よく理解しておかなければなりません。時には二つだけ、時には三つだけ、時には八つに拡大することもありますが、どれも同じ話です。

 八つにすれば八正道で、三つにすれば戒・サマーディ・智慧で、もう一つの形にすれば、サマタとヴィパッサナーと二つだけです。戒はサマタの中にあります。サマタの家来としてサマタという言葉に含まれます。つまり体と言葉と心の「静かさ」、そしてすべてを洞察する「ヴィパッサナーである智慧」があります。

 二つだけ話すなら、サマタとヴィパッサナーの二つしかしなくても、それで全部で、苦を絶滅させることができます。だから早く言えば、サマタとヴィパッサナーで生きることを、基礎である正しい生き方と言います。

 私は、八正道で話すこともでき、七人の家来がいる聖なるサンマーサマーディでも、戒・サマーディ・智慧でも、サマタとヴィパッサナーで話すこともできると説明してきました。全部同じです。名前が違うだけ、名前が長いか短いか、たくさんに分けたか少なく分けたかが違うだけで、一つの話、同じ話です。

 全体をサマタとヴィパッサナーに分ければ二つの話になり、戒、サマーディ、智慧にすれば三つの話になり、八項目の道にすれば八つの話になります。しかしすべては同じ話です。話し方は違いますが、話す話の本体は同じです。

 以上基本的な正しい生き方である生活規範についてお話しました。どうぞこれらの言葉を良く憶えてください。自然の当たり前の基本である、正しい生き方の三種類についてお話しました。


 次は他の種類の、十善という名前の、身体・言葉・心の正しさについて話します。不殺・不盗・不淫・不妄語・不両舌・不粗語・不綺語・不貪欲・不瞋・不邪見の十項で、身業が三種類、口業が四種類、意業が三種類です。みなさん見慣れていて、聞き慣れていて、たくさん読んでいます。

 体と言葉と心の面を正しくさせ、聖向聖果涅槃について述べていなくても、それ自体の中に聖向聖果涅槃があります。体の面の正しさがあり、そして言葉の面の正しさがあり、そして心の面の正しさがあれば、どこへも行きません。自然にサマタとヴィパッサナーが生じます。これは最も基本の段階を話しています。だから十善の教えは一般レベル、低いレベル、庶民のレベル、所帯をもっている在家のための基本の教えとされています。

 十善を勉強したことのある人は、所帯を持つ在家に一般の基本的な教えとしてブッダが話された時は、このように言われたけれど、この十善の教えは、サマタとヴィパッサナーの話に高めていくことができると、理解しなければなりません。特に貪らない、復讐を企てない、危害を与えない意業は、心の正しさです。

 このような正しさがあれば、当然サマーディ、サマタ、ヴィパッサナーが、順に、制止しようもなく生じます。しかし初歩の基本の教えとして話す時は、子供や初心者のために、このように簡単に話しておきます。

 しかし、始めれば止まっていることはありません。かならず終わりに到達します。だから十善を浅いとか、簡単とか、ここに止まって前進しないと軽く見ないでください。そうではありません。試しに十善に正しく励んでみてください。サマーディに到達し、ヴィパッサナーに到達します。

 次に、何にも執着できないと言うのにふさわしい、有利な話法と言われる形でお話します。これは「あなたはどう実践しましたか。あなたにはどんな実践原則があり、どんな実践系統がありますか」と聞かれれば、私は「『すべての物は、それを自分として執着することはできない。基本的な自然、すべての自然は、自分と呼ぶことができない』にふさわしい系統の実践です」と、中らずとも遠からぬ答え方をするという意味です。

 だから私たちは何を実践するにも、「何も自分と執着することはできない」話と一致させなければなりません。これが自然です。(現象である)自然は、自分と執着することのできない、ただの自然にしておく状態で存在してきました。自分と捉えれば流れに逆らい、自然と闘って犬死します。だから、すべての物は自分と執着することができないという項目に合うよう、正しくなるように実践します。

 すべての物は「自分」と執着することができないという話を、非常にたくさん話しました。そしてみなさんが、すべての作られた物は無常であり、苦であり、無我である、つまりサンカーラと理解していると、理解しています。サンカーラとは加工するという意味で、簡単に「加工された物」と言います。

 次に加工された物という言葉には二つの意味があります。つまり他の物によって加工されてこのようになり、そしてそれは続いて他の物を加工します。加工するという言葉は、行動する側と、受動する側があり、受動する側は加工さるサンカーラと言い、そして続けて加工する義務があるので、まだサンカーラと言います。だからサンカーラには行動する側と、受動する側があります。

 サンカーラである物、つまり加工された物は、何も「これは自分」と執着できません。つまり無常・苦・無我です。だから私たちの暮らしや実践原則を、この項目の真実に合わせなければなりません。つまり「すべての物は、これは自分と執着することはできない」という真実です。この教えに反せば、すぐに噛まれます。自分と捉えているサンカーラが噛みつきます。すぐに戻ってきて噛みつきます。それが苦です。

 何も自分として執着することはできないという、厳しい自然の原則に合う種類の実践をしなさい。これが「サッペー タンマー ナーラン アビニヴェーサーヤ=すべてのタンマは、執着するべきではない」とパーリにある仏教の核心です。ここで言っているタンマとは「物」で、ここで言う「物」とはサンカーラという意味です。そしてヴィサンカーラ(無為)まで含めることもできます。

 サンカーラでなくヴィサンカーラの物でも、自分と執着するべきではありません。自然だからです。サンカーラはサンカーラ、ヴィサンカーラはヴィサンカーラなので、自分、自分の物と執着することはできません。だから涅槃は涅槃であり、誰も涅槃を自分にすることはできません。(訳注:「私は涅槃、涅槃は私」と言うことはできないという意味)

 次ni 個人の話に関しては、心に感覚や考えがあり、考えが執着の方へ向いて執着になります。しかしすべての物は執着できない時、心は何も自分と執着するべきではありません。この身体も、この命も、自分自身も、この心も自分と執着するべきではありません。

 たとえば徳、善、天国、涅槃など外部の物も、自然にある自然で、自分、自分の物と執着できません。涅槃はヴィサンカーラ(無行。無為)で苦はありませんが、それでも誰も「自分、自分の物」と執着することはできず、永久に涅槃です。

 「すべての物は、執着できない」というに相応しい実践でなければならないと、短くまとめます。

 次に話を続けます。次はもっと分かりやすく話します。何も愛したり、怒ったり、嫌ったり、恐れたり、惜しんだり、やきもち焼いたり、妬んだりする物はないという状態の実践をします。愛したり、怒ったり、憎んだり、恐れたりする物は何もないという教えで実践します。

 だから「奇妙、不思議、驚くべき」というまで行き、不思議な物に見えれば、その人はまだ愚かです。気をつけてください。ブッダ・プラタム・僧も、自然に自然の法則で存在するので、不思議でも、不可思議でもないと言うことができます。

 しかし普通に庶民の言葉で話すのは例外です。だから清信士(ウバソク)・清信女(ウバシカ)が「ブッダは本当に不思議だ、仏法は本当に不思議だ、僧は本当に不思議だ」と叫ぶのを聞いても、これは大丈夫です。これは感じたように言っているのであり、心に自分という理解はありません。彼らは感じたように言っています。

 こういう話は、パーリ(ブッダの言葉である経)によくあります。このブッダは本当に不可思議というのは、ブッダは言ったことがありません。ブッダはそのように言うことはできません。しかし私たち庶民がブッダ・プラタム(仏法)・僧を知ると不思議に感じるので、叫びます。これはただの感覚にすぎず自然の真実ではないということです。自然の真実では、すべての物は自然にすぎません。

 次に不思議と言うべき物は何もないという項目をお見せします。現代世界の不思議な物を、彼らは何でも作ります。すべての人が驚異的だ、非常に驚異的だと溺れ、テレビを買い、ビデオを買い、自動車を買い、いろいろ驚異的な物を買います。これは愚かです。

 これらの物を驚異的と感じるなら、まだ愚かさがいっぱい残っていると言います。しかし、それはそういう物だ、それはそれだけだ、そういうことだと知れば、愚かではありません。どんなに不思議に見えることでも、月の世界へ行くことでも、エレクトロニクコンピューターや何やらを作ることでも、まだ驚異的に感じれば、まだ愚かです。

 「そういうこと」と感じれば、組み立てればそうなると、作ればそうなると、そういうことと感じれば、こういうのを愚かでないと言います。だから、不思議、驚異的、あるいは怖い、びっくりするようなことは何もないというレベルになるまで、実践しなければなりません。

 こういうのは、意味が分からない人もいるので、簡単な物の方がいいです。たとえば腹を裂く時、人の腹を裂く時、あるいは牛や水牛や豚などの腹を裂いて、内臓を出して広げると、子供たちは怖がるばかりです。子供たちは怖がるだけで、大人でも怖がる人がいます。嘔吐する人もいます。怖いから、あるいは驚異だからです。

 怖い、あるいは不思議と感じるなら、こういうのはまだ何も分かっていません。本当に良く知れば、怖い物はありません。血をちょっとたくさん見ただけで卒倒するのは、「そういうこと」という正しい知識がありません。だから「そういうこと」という正しい知識があれば、不思議な物、あるいはびっくりすること、あるいは怖い物は何もありません。

 これはいつの時代にもある本当に当たり前のことです。人を解剖すると、あるいは動物の解体のように、動物を切り開いて内部を見せると、見たことのない人は怖がり、怖いと感じ、びっくりし、奇妙に感じます。何があっても、それはすべて「そういうこと」です。そうすれば不思議がらないで、驚かないで、怖がらないで済みます。

 私たちは「愛さなくてもいい、怒らなくてもいい、嫌わなくてもいい、恐れなくてもいい、惜しまなくてもいい、くよくよしなくてもいい、妬まなくてもいい、やきもち焼かなくてもいい、最後には自殺しなくてもいい」という原則で実践します。これを「正しい実践の結果で説明する」と言います。

 次は、古いカンマを抜き取る形で実践する話をします。古いカンマを抜き取る項目を知らない人もいます。そして「何もかもすべてカンマ」と、間違って知っている人もいます。誤解で、基本的に誤解しています。ブッダは「幸福や苦はカンマの結果ではない」と言われています。

 受け取る幸福や苦は、古いカンマの結果でなく、因果の法則に対して正しい行動、誤った行動の結果です。今ここで、因果の法則に反した行動をすれば、かならず苦になります。今ここで、因果の法則に合った正しい行動をすれば、苦はありません。

 本当に古いカンマがあって追ってきても、来させます。因果の法則で迎え、いつでも因果法則で正しい行動をすれば、感情が目・耳・鼻・舌・体・心に触れた時触があり、その時知性があり、触を支配する知識があれば、このようなら苦はありません。古いカンマがあっても、それが苦にすることはできません。

 これは、多くの人が誤解をして、何でも古いカンマにし、古いカンマに降参していると、観察して見ることができます。しかしブッダのタンマは、古いカンマのせいと言っていません。「幸福や苦は、古いカンマの結果ではない。今ここで因果の法則に合った行動をしたか、間違った行動をしたかの結果です」と言っています。

 古いカンマに何もさせないような、古いカンマが何もできないような実践をし、生活すれば、新しく作ったカンマだけになり、どんどん正しく良くなります。こういう実践は素晴らしいです。

 次は、精霊や幽霊、最後に神様の威力を抜き取る状態の実践をします。低級な精霊や幽霊の威力を抜き取る実践をし、愚かな霊、子供の霊、低級な霊から、精霊、神、そして神様、神様の王まで、それらが何もできなくします。私たちには道具である因果の法則があるので、それらの神々が私たちを呪って、私たちに何かすることはできません。因果の法則の教えがあるので、呪って何かにすることはできません。

 こう実践すれば苦がない、苦が生じない、こう実践すれば苦が生じる隙はない、という教えを信じているからです。私たちが間違って実践した時、因果の法則に対して間違った実践をしてしまった時、その時は苦にならなければなりません。罰を下すどこの精霊や霊もいらず、呪う神様がなくても、自分で苦にしてしまいます。

 因果律に対して正しくない実践、つまり苦を生じさせる実践をするからです。みなさん、精霊や霊や神様の威力を引き抜く類の実践をして、因果の法則で正しく生きてください。

 これが、そのような結果を受け取るために、実践の結果で述べた実践原則です。

 次は、運勢を追い払う類の実践をする、と言ってしまいます。占い師が「運が悪い、運勢が悪い、星座が悪い、何が悪い」と言うものを、因果の法則に合った正しい実践をすることで、すべて追い払うことができます。それが苦になることはできません。だから「運が良い、運が悪い」と言うのは止めます。星がいい、星が傷ついている、星がどうのというのは止めます。

 私たちは、因果の法則で正しく実践するので、それらに意味はありません。だから私たちにとって幸運・不運がない状態の実践をします。私たちは、運や不運、すべての呪術の威力より上にいます。

 星や星座や運勢の威力の、精霊や霊、まだ賄賂を取る神様の威力の外にいるようになるまで実践するようなものです。このように言うのは、彼らが事実どおりに話しているのを謗る訳ではありません。神様が話されているようなら、ワイロを取るものばかりです。

 あれこれお供えしてお願いしなければなりません。あるいは祈願しなければならず、祈願するには、一種のワイロが必要です。お願いしなければ、神様は助けてくれません。神様はワイロを取ります。つまり嘆願です。私たちには、このような神様の威力から出てしまう種類の実践があります。

 次に、私たちは因果の法則に反さない生き方を実践しなければならないとまとめて、終わりにします。私たちは、因果の法則に反しない生き方を実践しなければなりません。そうすれば、すべて解決します。

 因果の法則を良く学び、いつでも触を管理し、欲望煩悩を生じさせず、苦を生じさせません。因果の法則に背かない実践なので、問題は全部解決します。重要点はここにあります。そして基本である正しい実践とは、因果の法則に合った滅苦である実践、苦を止め、苦を滅し、苦をすっかり追い払う実践をすることです。

 次に私たちは三地の中のどの地でも、最高に良い生き方を実践しなければならないという、最後の段階の、嬉しい結果を見ます。欲界地は、まだ五欲で生きなければなりません。これは地の一つで、正しく実践し、害毒が生じないよう正しく実践しなければなりません。まだ凡人であり、普通の動物なので、五欲に関わらなければなりません。だから五欲による害を生じさせない実践をします。つまりタンマの品行、せめて十善です。十善で行動すれば、所帯をもち五欲を嗜む人でも、何も害はありません。

 そして形界地の段階でも正しく実践しなければなりません。つまり五欲より上で、梵天も、形のある梵天も因果の法則で実践すれば、その界の苦はありません。五欲を捨ててしまい、五欲のない純粋な状態の暮らし、純粋な形、純粋な形の物だけでも、苦はありません。

 次はもう一段階高い無形界地です。無形界地は、無形梵天と呼ぶ形のない地です。欲界地は五欲があり、形梵天は五欲がなく、無形梵天も五欲がないと言うのは、高くなって三界地のどの界地にいても苦がなく、その界地の失敗がないという意味です。あるのは通過して、通過して、これらの地を出て、ローグッタラ(脱俗世)地へ行くだけです。この三つの界地から出ることができ、欲界・形界・無形界から出ることができれば、脱世界地へ行きます。

 次に、たくさん日常生活の中にさせるのは、前もって涅槃の味見をする状態の実践をしてほしいからです。日常的な涅槃の味見とは、煩悩に支配されない生活をし、そして煩悩に支配されない暮らしはどのようか、このように穏やかな暮らしが前もって味わう涅槃で、涅槃の味見だと、自分自身で感じることできます。体と言葉と心を注意深く維持し、煩悩を生じさせて支配されないようにします。そうすれば、その行動の中に、多少は涅槃の意味である静かさがあります。

 日常的に、前もって涅槃の味見をする種類の実践をします。そして満足が増えれば実践も増えます。永遠の涅槃になるまで、二度と煩悩が生じなくなるまで、満足が増えれば実践も増えます。今、「煩悩が生じない時、私たちは前もって涅槃の味見をする」と言います。

 そして煩悩が生じる頻度が減れば、涅槃の味見が多くなり、煩悩が生じないように支配できます。一日、一か月このようにできれば、一日、一か月涅槃の味見ができます。煩悩が絶滅して二度と生じなくなれば、それが本当の解脱で、本当に完璧な涅槃の状態に到達します。

 これがいろんな角度から見た基本の種類の正しい生き方です。良く熟慮検討すると、どれもこれも基本の生き方と見ることができます。日常的に涅槃の味見をする生き方も、基礎です。本当にそういう基本なので、涅槃の味がある時、つまり煩悩がなく、基本の妨害する煩悩がない時は、心配いりません。前進して前進して、完璧な涅槃に到達します。

 だから、現在の日常生活を前もって涅槃の味見をする話に、特別に興味を持たなければなりません。継続して味見をして行けば良い結果になります。つまり早く到達します。早く最終目標に到達します。煩悩が生じたら、それはどのようかを知り、どうして煩悩を生じさせたかを知り、煩悩が生じていない時はどんな結果があるか、どう静かかを知ります。

 煩悩を絶滅させ、煩悩を痩せ細らせて死なせて、時々でなく、途切れずに続いている完璧な涅槃になるまで、一時的な、時々ある涅槃の味見です。煩悩に機会を与えず、煩悩に餌を与えず、支援せず、煩悩が必要な物を与えないので、煩悩は痩せて死にます。これを「本当に基礎の、本当に基本の実践と言います。

 このように正しい基礎のある、自然の基本原則で正しい生き方をしなさいと、十分な時間説明してきました。八正道で生き、戒・サマーディ・智慧で生き、サマタ・ヴィパッサナーの教えで正しく生き、十善の範囲内にいて、そして何も執着することはできないという項目の正しい実践をします。

 そして、愛・怒り・憎しみ・恐怖・心配・哀惜を生じさせない方法で実践し、古いカンマを抜き取る実践をして古いカンマに挑戦し、古いカンマに門を閉ざし、追って来て苛めさせません。そして運・不運や運勢や精霊や霊、ワイロを受け取る神様をすっかり追い払います。そして因果の法則に反しないような生き方をします。因果の法則に反さなければ、話したようになります。

 どの界にいても、最高に出世した人になります。まだ欲界地・形界地・無形界地で生きていても、苦にならなくても良い生き方ができます。そして味見の涅槃を、日常的に受け取ります。そしてどんどん発展して、完璧な涅槃になります。間に合います。現在の生で終わり、棺に入る前に人間が得るべき最高のものを得ることができ、人間に生まれ、仏教に出合ったことが無駄になりません。

 今日の講義は、時間的にも講義をする者の体力的にも、ちょうど良い時間になりました。今日の講義はこれで終わらせていただきます。



十善

 1.動物の体や命に危害を加えない

 2.与えられていない物を盗らない

 3.他人が大切にしている物を犯さない

 4.事実でないことを言わない

 5.告げ口など仲違いさせる言葉を言わない

 6.際限のない話、無意味な話をしない

 7.悪口や陰口、中傷、他人を傷つける言葉を言わない

 8.貪らない

 9.恨みを抱かない

 10.正しい見解





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