本当の命に出合う




1980年10月30日

 還俗しなければならない公務員である僧のみなさん。犬のシッポを継ぎ足す大学式の、十時間の講義の九回目の今日は、「本当の命に出合う」と題してお話します。この講義は今までの回、つまり「清潔で明るく、そして静かなこと」と、連結していなければなりません。心に清潔と清明と静寂があれば、本当の命に出合えます。これから、引き続き本当の命と言われるものについてお話します。

 本当の命は、自分(自我)があるかないかという問題と関連があります。本当の自分があれば、本当の命があり、自分がなければ本当の命ではありません。自分でない物は、本当の命ではありません。だから問題は、自分があるかないかという点にあります。そして世界を二分する問題でもあります。仏教界でも今日まで、自分があるかないかと論争しているのは滑稽です。時には恥ずかしくなります。

 これにはいろんな理由があります。たとえばブッダの言葉の中にも二種類あります。つまり「サッペー タンマー アナッター」、「あらゆる物は自分ではない」と、「アッター ヒ アッターノ ナートー」、「自分は自分の拠り所」です。このように二つの側面があります。だから仏教教団員は、自分があるかないかという話で論争します。

 自分(自我)という言葉の意味も曖昧です。あるいは別々の、種類の違う意味があります。そして最高に古い言葉です。自分という言葉は、仏教以前の人間の言葉、古語です。しかし自分の意味は常に変化して安定せず、最後には、ブッダの時代のインドで最も重要な宗教のアートマンと呼ぶ、最高に本当の自分になりました。

 誰もが「自分はある」と信じている人たちの中に生まれて、ブッダはどうしたでしょうか。直接それを撤廃するような、強引なことは多分できません。ブッダにはそういう手法はありません。

 以前にお話したように、矛盾する項目が生じたら、ブッダには、「私は肯定も否定もしません。あなたがそう言うのはあなたの正しさです。しかし私のはこうだと話して聞かせましょう」と言う原則がありました。そして論争することなく喧嘩することなく、交代に話しました。誰もが何らの自分があると信じている人たちの中に生まれて、ブッダはどのようにしたか。みなさんがこれを理解すれば、ブッダの最高の才能が見えます。

 さて、自分があれば善くしなければなりません。善い自分があるようにしなければなりません。つまりそうします。しかし本当には自分はありません。最高に善い自分でも、苦は無くならないからです。人々が「最高に善い」と言う自分は、まだ完全に苦が滅していません。自分という感覚が無くなった時、完全に苦が絶滅します。そうすれば無我、自分がないことが生じます。

 他のタイプの無我、幼稚な無我もありました。虚無論(ナッディカディティ)は自分がなく、何もかも無くなってしまいます。これも人は無我と呼びますが、幼稚な無我です。

 ブッダの無我は、ちょうど中間にあるようです。自分があると考えればあるので、しなければならないことを正しくし、苦にならないようにします。しかし本当は、すべての物は自分ではありません。

 自分があるかないかは、今日まで放置されてきた問題です。パーリ(ブッダの言葉である経)にも二種類あります。その上「私たちは生があるのも当然、老いがあるのも当然、病気があるのも当然。生・老・病を越えることはできない」と言うほど曖昧です。「超えることが出来ない」という言葉を使いながら、どうして、生を越え、老を越える実践を教えたのでしょうか。生を越え、老を越え、病を越え、死を越えることが涅槃でしょう。

 ブッダの言葉にはこのように二種類あります。本当の意味が理解できない人は、これには非常に難儀します。毎日、生老病死を越えることはできないとパッチャヴェーカナ(考察)して、しかし生老病死を越える涅槃を教えます。

 私たちは認めるしかありません。パーリに二種類あるのですから、どうすることもできません。自分があるならどうあるのか、自分がないなら、自分である物がないならどのようか、二通り話さなければなりません。

 次に本当の命についてお話します。本物である種類のものに到達しなければなりません。だからこの話をします。清潔・清明・静寂静の話の後に、続けて話します。理解して見えれば、その後、清潔・清明・静寂に到達した命は、本当の命になると見えます。つまりそれは苦でなく、それ以上に死にません。誰も死ぬ人はいません。

 だから清潔、清明、静寂という言葉の意味を復習して、本当の命、あるいは本当でない命を理解する道具にしなければなりません。偽物の命は清潔でなく、明るくなく、静かでなく、普通にありますが、彼らは命と言い、本当の命と言い、その命を大事にしています。しかし私は、まだ不潔で真っ暗でイライラしているので、本当の命ではないと指摘します。清潔で明るく静かになれば本当の命になるので、自分があるか否かという話と繋がります。

 次に、簡単に理解するために、パーリ語でなくタイ語を基準にしたいと思います。煩悩が自分なら、「俺、俺の物」なら、こういうのは本物ではありません。本物でない煩悩である自分です。本物ではありません。タンマを私にすれば、タンマである私は本当の私です。

 誰でもある煩悩を自分にすれば、その自分は煩悩の思い込みです。煩悩が自分なら本物でなく、タンマが私なら本物ですが、すっかり私と呼んでしまっています。これがタイ語の話です。パーリ語では一語、つまりアッターしかありません。自分と訳すことも、私と訳すこともできます。タイ語にすると意味が分かれます。自分とは俺、俺の物です。

 「煩悩を自分にする 」「タンマを自分にする」。この二つの言葉をしっかり憶えておけば、「煩悩は自分、タンマは自分」、二つは違うと保証することができます。しかしパーリ語には、このように分かれた言葉はありません。一語を使っているので、本当の自分と本当でない自分と言わなければなりません。

 この自分は本物でない自分です。自分を本当の自分と捉える、それもできません。パーリ経典に『サッペー タンマー アナッター』、すべての物は自分ではないとあるからです。つまり私たちが掌握し、執着し、絡みついている物、それらは本当には自分ではないということです。

 次にパーリ(ブッダの言葉である経)で言う『アッター ヒ アッタノー ナーダトー、自分は自分の拠り所』というのも、『アッタティーパー アッタサラナー、灯である自分、帰依する自分になりなさい』というのもあります。ブッダは、拠り所になる自分になり、帰依できる自分になりなさいと言いました。そして『タンマティーパー タンマサラナー、灯火であるタンマ、帰依するタンマ』と、意味を説明しました。

 私はこれに依存して主張することができます。ブッダは「拠り所である自分」に続けて、「帰依するタンマを持ちなさい。灯火であるタンマを持ちなさい。他の物に帰依してはいけない」と言っているからです。自分という言葉をタンマと入れ替えれば、灯火である自分は、灯火であるタンマになります。だから帰依する自分は帰依するタンマなので、「帰依するタンマを持ちなさい」になります。

 ブッダがタンマを自分にすることを目指していたことが、パーリで明白に見えます。だから分かり易いように、文章を整理しました。煩悩を自分にするのは駄目、タンマを自分にするのは大丈夫。しかし執着して自分の実体にする自分ではありません。タンマの自分だけは拠り所にすることができます。このように分類できます。

 煩悩を自分にし、タンマを私にします。言葉をこのように正しく使えば、これから先ずっと理解できます。私は自分という言葉を、マヤカシという意味で使っているからです。俺、俺の物である「自分」は、本物ではありません。「私」ならタンマで、本物です。確実な私、タンマの私で、私の自分ではありません。タンマであるものを拠り所にします。だから本当の命は、タンマの私でなければなりません。偽物の命は「俺、俺の物」であり、これが自分です。

 次に本当の命について話します。本当の命は清潔・清明・静寂に到達した命で、まだ到達していなければ、その命はまだマヤカシであり、欺瞞し、デタラメでふらふらしています。命でも心でもいいですが、前の講義で詳しくお話したように、その命の心が清潔、明るく静かな状態になった時、その時本当の命になります。だから私は、本当の命と呼びます。つまり清潔で明るく静かな状態に到達した命です。

 本当の命は、話している本当の我に到達した命です。本当の我に到達した命が、本当の命です。タンマの自分を命と連結させます。命が本当の我に到達すれば、拠り所にできる、満足すべき本当の命です。

 本当の命は煩悩を自分にしないで、タンマを自分にする命です。煩悩を自分にするのは、前に説明した縁起の一部である、執着を自分にすることです。縁起の流れには触があり、受があり、欲があり、執着があります。自分、自分の物はこの部分です。その自分を煩悩の自分と言います。無明が作ったので本物ではありません。

 本当の命はタンマを私にし、煩悩を私にしません。こういう意味です。煩悩は最高でも「俺、俺の物」にしかなれません。煩悩は最高でもそれだけです。

 本当の自分と言うなら、タンマにしなければなりません。そして何のタンマかは、もう一度改めて話さなければなりません。しかし今は、清潔・清明・静寂である結果になるタンマとしておきます。あるいはタンマの中の中心的なタンマ、たとえば自然の法則、タンマの自然にします。あるいは自然の法則であるプラタム(ブッダの教え)でもいいです。これがタンマの私、自然の私です。

 次に先ず、偽物の自分、本物でない自分についてお話します。本物でない自分は、偽物の自分、縁起の流れの欲から生じた取の自分です。これが本物でない自分です。この種の自分は熱くて重く、そして苦なので分かります。この自分は本物ではないと知ってください。その度に知ってください。熱くなってイライラした時、気持ちが重い時、苦しい時、あるいは望ましくない状態にある時はいつでも、みなさんは本物でない自分になっていると知ってください。

 みなさんは、本当でない自分がどう生じたかを知らなければなりません。何が生じさせた原因かと言えば、すでにお話した縁起です。愚かな触があり、愚かな受があり、欲があり、取があります。これが本物でない自分、偽物の自分、取の自分の誕生です。

 本物でない自分が生まれる発生源はどこかと言えば、取のある五蘊の一つ一つ、あるいは五蘊全部から生じます。愚かさで自分と執着する物も、取のある五蘊に生じます。

 時には身体を自分と捉えることもあります。体が体の義務を行なっているからです。受が美味の時は、受を自分にすることもあり、想を自分と思い込むこともあります。想で、想は自分と理解するので、想を自分にします。

 時には行、つまり考えられることを「自分に違いない」とします。西洋の哲学にもあります。「我思う、ゆえに我あり」というのは、デカルトという有名な哲学者です。だから時には、目・耳・鼻・舌・皮膚からの識を自分にします。見たり聞いたり嗅いだりできるので、それを自分にします。こういうのを「識を自分にする」と言います。

 だから時には形(形蘊。色蘊。体)を自分にする時もあり、受を自分にする時もあり、想を自分とする時もあり、行を自分とする時もあり、識を自分とする時もあります。それは本当の自分ではありません。偽物の自分は、取のある五蘊で生じます。

 本当でない自分は、常見(サッサタディティ)によって生じます。常見とは「確実な自分がある」という見解で、ブッダの時代よりずっと前からありました。常見である教義の常見の自分は、本物ではない自分、偽物の自分です。その見解は、自分という信仰を生じさせるからです。だから常見の自分は本当の自分でなう、偽の自分です。

 今の私たちにもあります。私たちタイにもインドからこの教義が入ってきました。インド人が教えました。大昔はチェッタプートと言いました。チェッタプートが体に出入りして、死ぬと新しく生まれる場所を探し、またそれが死ぬまでそこにいて、それが死んだら新しく生まれる場所を探します。このチェッタプートが、その教義の自分です。

 あるいは、その教義の意味の魂と呼ぶこともあります。仏教の意味の識(ヴィンヤーナ)ではありません。魂が体に入り、魂が体から出て、魂が新しい体を探すのは、今話したチェッタプートです。「チーヴォー」「アッター」という言葉を使う時もありますが、意味は体に出入りするチェッタプートと同じです。

 庶民が話しているほとんどは、チェッタプートです。みなさん、昔風の人と話して見てごらんなさい。彼らはチェッタプートのある教義です。それは本物でない自分です。ブッダの時代より前からある常見の自分ですが、まだ信じている人がいます。一般レベルの庶民の底辺であり、知識者でも仏教でもありません。

 最初に生まれた教義なので、すべての人の心に深く刻み込まれました。執着することができ、彼らの知識で信じることができました。それに根拠があります。それに、自分があり、チェッタプートがあると信じることには、道徳面での利益があります。自分が生死を繰り返すので、善い行ないをしなければなりません。

 あると信じなければ善い行ないをしませんが、あると信じれば善い行いをします。まだ何回も生まれなければならないからです。だから人々はこの自分、常見の自分を受け入れ、信じました。

 そして自然でも、自然に自分があると感じます。生まれた赤ん坊には、母親の胎内から持ってきた知識はありませんが、生まれると、自分と感じさせる環境があります。自分の物があり、何もかも自分の物で、そして自分があります。だから自分と、自分の物がなければなりません。子どもは自分で感じることができます。子供の時、この感覚がどう生まれ、どう変化して来たか、自分のことを思い出して見てください。

 これを「人間の自然で理解する自分」と言います。感じる心のある物は、生まれた時からこの種の自分があり、それからずっと、今もあります。いろんな物が取り囲んで自分と感じさせ、いつでも主役にします。死ぬまでということもあり得ます。自分を愛し、自分のことを考え、一所懸命勉強して仕事に就くのも、すべては私の感覚の私である自分のためです。これらをみな、本当でない自分と言います。

 さて次は、正反対の話になりました。本当の自分はタンマの自分、と言わなければなりません。「タンマティーパー タンマサラナー」は、「アッタティーパー アッタサラナー」と対であり、それにはタンマの自分でなければなりません。「俺、俺の物」である自分ではありません。

 タンマの自分を、俺、あるいは俺の物にすることはできません。それはそういうタンマです。そういうタンマの自分です。その種の自分に到達してください。苦を完全に追い出し、拠り所になります。タンマの自分なので、俺の自分の拠り所になります。今私たちには、俺の自分、煩悩の自分があります。だから苦です。その苦を無くすには、「タンマは拠り所、タンマは帰依」という、タンマの自分を使います。

 本当の自分にすれば、偽の自分は自然に崩壊します。「アッタティーパー アッタサラナー」、灯火である自分があり、帰依する自分があるというのは、「タンマティーパー タンマサラナー」、つまり灯火であるタンマがあり、帰依するタンマがあることです。自分という言葉をタンマに変えれば、この種の自分、タンマの自分は、無為を意味します。

 有為と無為の対は、憶えておかなければなりません。それを作り出す原因と縁があれば、すべて有為のタンマ(有為の物)と言います。それが、それを作る原因と縁を必要とせず、自然にそれ自体で存在すれば、それを無為のタンマ(無為の物)と言います。有為の物は作られた物ものであり、無為の物には、それを作った物はありません。

 次に自分の、みなさん一人一人の知性で、良く調べてみてください。見つかるのは、原因と縁によって作られたものばかりです。作っている原因と縁がないものは、簡単に見えるものより深くて難しいので、勉強しなければなりません。

 形の物(具象物)も名の物(抽象物)も、どんな行動や状況も、すべて作り出す原因と縁がある有為の物です。形の物は、発生原であり根源である太陽が、あの世界この世界、あの星この星になりました。

 空、土、火、風、植物、動物、人など、すべては作った原因と縁があり、原因であり結果でもあると言われるように、次々と作り出しています。原因であり結果であり、原因でもあり結果でもあります。それが作ることです。私たちも、私たちの命もこれに含まれるのが、簡単に見えます。

 次は無為と呼ぶ正反対の物です。最初は、自然の法則について言及したいと思います。自然の法則はすべての物より威力があり、誰も作ることができません。だから自然の法則は変化を知らず、滅亡を知りません。無限に自然の法則です。作った物はありません。存在がなくても、存在がある物と同じように存在します。

 存在がある物には、有という存在があります。有はいろんな存在です。だからこのような存在があります。一方無為に有は必要ありませんが、存在はあります。だから非常に不思議です。無為について良く勉強しなければなりません。

 涅槃は無為に含まれます。涅槃の自然は涅槃であり、涅槃の自分であり、それが自分であるタンマです。そして無為で、作れる物はありません。つまり変化させることができる物もなく、私たちが作ることもできません。

 人々が間違って言っているように「涅槃を生じさせる」と理解しないでください。涅槃を生じさせるという言い方は、間違っています。しかし「涅槃が心に現れるようにする」ならできます。涅槃は既にあり、私たちが涅槃を作るのではないので、それを私たちの感覚に現れるようにします。私たちの識は、目・耳・鼻・舌・体・心で、涅槃を感じるかもしれません。涅槃は無為であり、涅槃の自分、タンマの自分が本当の自分です。

 私たちは無為を自分の自我と、あるいは誰の自我とも確信することはできません。私たちが何も自分と、あるいは誰の物とも思い込まなければ、無為の物に到達できます。思い込めば作ることなので、無為に到達することはできません。何かに執着している心は、無為の物に到達することはできません。だからすべて正反対です。

 有為は有、存在があることで存在します。無為は存在なしに存在しています。つまり他のすべての物と違います。しかし「ない」と言うことはできません。ありますが、すべての有為のように、存在によって存在する必要はありません。

 だから無為である物は永遠で、永遠に存在します。誰も何もできないからです。変化しないので永遠です。生じて存在して消滅して、また生じて存在して消滅すると言われる状態がありません。そういう機会はありません。これを永遠と言います。永遠なら不死なので、アマルッタム(不死の物)と呼びます。死なない物は存在がなく、存在する状態がなく存在でき、発生と存在と消滅がないからです。

 だから無為、あるいは永遠の物には、過去も現在も未来もありません。つまり時に左右されません。時に左右されれば、有為でなければなりません。つまり時が変化させ、変化を生じさせます。時に左右されなければ変化しません。だから永遠の物、無為には、過去も現在も未来もありません。

 これが本当の自分、タンマの自分です。本物でない、愚かさで作られた有為であり、愚かさによって生じ、発生し、存在し、消滅し、常に変化している、それを自分にすれば熱く、あるいは重く、あるいは苦になる「俺、俺の物」ではありません。だからまとめて、本当でない自分は俺だけ、無明、取で作られた、マヤカシの俺だけと言います。本当の自分と正反対です。本当の自分は到達でき、感じることができます。

 私たちがそれを作ると考えないでください。しかし良い実践をすれば、心は清潔、清明・静寂に到達し、不死である、永遠の本当の自分を発見します。インドの別の言い回しでは、アマルッタム(不死の物)という言葉を使います。だから誰もがアマルッタムを欲しがります。何か知らなくても欲しがります。私たちタイ人が、仏教徒が、涅槃を涅槃が何かを知らなくても、誰でも涅槃を欲しがるのと同じです。

 質問して見たことがあります。誰でもこの言葉を聞いたことがあるので、涅槃を欲しがります。涅槃を欲しがりますが、その人の心では、「涅槃とは、彼らが今知っているよりもっと楽しく美味しい何かを得ること」と思い込んでいて、そう解釈するので涅槃を欲しがります。自分がなく、何もなく、何も掌握せず、喜んだり悲しんだりしない空っぽのことだと教え、それで欲しいかと聞くと、首を横に振ります。首を振って涅槃はいらないと言います。

 それまでは涅槃を欲しいと言いました。彼らの意味の涅槃を欲しがります。しかし私が不死のこと、こういう永遠のことだと説明すると、頭を横に振ります。インドでも同じです。昔、それが何かも知らないで、涅槃を欲しがりました。

 これはすべて、自分の感覚の自分を欲しがるということです。自分を、今あるよりもっと楽しく美味しくしたいので、その意味の涅槃を欲しがります。涅槃はそういう物ではありません。涅槃は本当の自分であり、煩悩の望みに応えることはありません。

 これを「本当の自分はタンマの自分なので、自分の拠り所にすることができる」と言います。自然の法則や涅槃と同じ無為で、誰かの自分にすることはできません。誰かの何かと理解しなければ、無為に到達します。そして永遠で、死がなく、それにとって過去も現在も未来もありません。

 本当でない自分と、本当の自分について話しました。続けて話さなければならないのは、本当の命と本当でない命です。本当の自分になれば本当の命であり、偽物の自分なら、本当でない命です。

 さて、本当でない命はどのようでしょうか。それは凡夫が感じている命です。この命は、生きていることを意味します。生きていること、つまり死にません。彼らは死を恐れます。生きたがります。つまり命を欲しがります。しかし凡夫の感覚で、非常に低い意味です。

 生きたい、死にたくないという死の恐怖から生じる凡夫の感覚による命。これは凡夫の感覚の命です。もっと繊細なのは、縁起の流れの命です。愚かな触、愚かな受、愚かな欲、愚かな執着が生じれば自分と捉えます。執着から生じる縁起の流れの形の命です。

 次に最高に本当でない、最高に本物でない命は、物質の命です。植物を見ると命があり、アヒルの子や鶏の子にも命があり、単細胞の物にも命があります。つまり生物学の定義では、一つの細胞である Protoplasm (原形質)が新鮮なことと定義しています。一つの細胞の Protoplasm が新鮮なこと、それが命です。

 それを物質面の命の基礎と言わなければなりません。彼らも命と呼び、タイ語でも命と言います。だから非常に混同され、曖昧になります。生物学的な命は、更に本物の命ではありません。一時だけの命、駆けるように変化する命です。物質でない、凡夫の意味の抽象的な命も、無明、取で執着する命です。凡夫の解釈による抽象的な命も本当でなく、本当の命ではありません。

 簡単に観察できます。あると重く感じ、イライラして苦を感じる類の命は、本当の命ではありません。その命があると執着で重く感じ、煩悩で熱く感じ、苦ならば、それは本当の命ではなく、まだ本当の命に到達しない命だと、子供でも観察できます。お話してきた、まだ本当の自分に到達していない命は、本当でない命です。

 本当の自分、本当に無為に到達すれば、清潔で明るく静かになります。それが本当の命です。タンマの自分に到達した命は、本物に到達し、その命は真実も受け取ります。つまり苦になる必要がなく、生老病死する必要はありません。自分がないのが見えるので、あるのは純潔な心だけです。

 だからみなさんは、本当の命に到達するのは、純潔な心だけという主旨を掴みます。良く訓練されて清潔、明るさ、静かさに到達した心は、本当の命になれます。それには苦もイライラも何もありません。その命式に発生し、維持し、消滅しても、苦はありません。そして自分と捉えません。だから本当の命は、俺、俺の物と執着しない命になり、自然にタンマの物になります。

 これを「凡夫の感覚の本当でない命は、縁起の流れになり、形の物もあり、名の物もあるが、それを自分にすれば苦であり、重くてイライラする」と言います。本当の自分に到達しないので、それは本当でない命です。

 次に本当の命、つまり清潔で明るく、静かな状態があり、ブッダ、タンマ、僧がいる命に到達します。本当のブッダ・ダンマ・僧は、清潔で明るく静かな状態と、前に説明したことがあります。その状態が心にあれば、心にブッダ・プラタム・僧がいます。心に本当のブッダ・プラタム・僧がある命は、清潔と明るさと静かさのある、本当の命と言うことができます。

 だから本当の命は、永遠で不死、つまり死なず、永遠に存在するものに到達します。感じている心によって何かを作り出し(加工する)ません。そのように感じている物を本当の命と言います。その命は本当の自分に到達しました。冒頭で述べたように、本当の自分、つまり涼しいという意味の涅槃と一緒にいます。

 清潔で明るく静かなので、涼しい意味があります。だから本当の命には、何かに執着する重さはありません。本当の命は、煩悩に炙られる焦燥はありません。本当の命は無明の闇がないので、苦はありません。

 ブッダが言われた、ちょっと技術的な言葉で言えば、本当の命は受が完璧に穏やかで、死ぬまで完璧に穏やかと言います。受である根の感覚は、普通は熱くイライラする物です。愚かさで「私の物」と執着するので、受は熱いです。受に私の物と執着しなければ、受は穏やかです。重さやイライラや闇や苦を作らず、受は穏やかで、死ぬまで涼しいです。

 本当の命には、完璧に冷静な受があります。形も名も、体も心も、死ぬまで穏やかです。これが本当の命の状態です。

 本当の命に煩悩はなく、執着はもありません。空っぽの心についてお話した煩悩のない心であり、心に執着がないので苦はありません。こういうのを私は「空っぽの心」と言います。私を罵るために彼が好んで言う、ロクデナシの空っぽではありません。これはきちんと区別してください。空っぽの心と言うのは、こういう空っぽです。

 本当の命は空っぽの心に到達し、本当でない命は、空っぽの心に到達できません。空っぽの心になることができません。言い方を替えれば、空っぽの心なら本当の命に到達し、空っぽでない心は、本当の命に到達しないので、本当の命ではありません。

 だからみなさんに本当の命があれば、いつでもどこでも、どんな場所でも、あらゆる種類の危険、あるいは苦に勝利します。みなさんはいつでもどこでも、本当の命によってすべての危険、つまり苦、あるいはどんな問題にも勝利できます。

 本当の命は清潔で明るく静かで、永遠で不死で、何にも作られない涅槃の自分、本当の自分であり、重くなく熱くなく、苦でなく闇でなく、受は完全に冷え、死ぬまで煩悩がなく、苦がなく、執着がないとまとめます。本当の命があれば、いつでもどこでも、あらゆる危険から守る甲冑を着けているのと同じです。これを本当の命と言います。

 見つけるまで探しますか。それとも自分にはできないと挫折してしまいますか。現代人は簡単に諦めてしまいます。仏教に「したくない時はしない。勉強しても時間の無駄。望まない時は勉強する必要はない。興味があれば本物を得、仏教の本物に、本当に完璧な滅苦に到達する」と、このような教えがある時、自分にはできない。不可能だ。興味がない。このようではどうしようもありません。

 これはみなさんが憶えておいて、今後注意して観察し、試し、勉強する道具にしていただくための糸口です。私たちは今まで本当でない命でした。本当の命の話に興味を持ち、そして本当の命にしてしまってください。

 次にどうやって到達するか。どんな方法で到達するか。これは話す必要はありません。方法とは中道と、もうお話しました。前の講義で一度、中道こそがその方法と話した回がありました。中道がその方法です。素晴らしい道である道、八正道について話したのは七回目でしたね。それをここに入れてみてください。中道はこの道、本当の命に到達する道です。

 だから私たちは休まず旅をします。つまりサティがあり、知性で感情(心が捉えている物)に触れれば、本当の命に到達します。どんな種類の感情(心の概念)にも、知性で触れるサティがあります。この旅は本当の命を目指します。つまり煩悩にチャンスを与えません。サティが十分あり、俊敏で智慧が十分なら、感情が目・耳・鼻・舌・体・心から触れた時いつでも、サティが間に合う素速さで智慧を運んでくるので、煩悩は道を塞ぐことができません。

 サティは搬送波である電波のようです。その周波数は搬送波で、智慧は搬送波に重なっていて聞くことができる音波のようです。私たちが日々感情に触れる時に知性があれば、煩悩に機会を与えません。これが正しい旅であり、中道であり、手段です。

 いつどこでと問うなら、知性がある時いつでも、どこででもです。括弧して(仏教式の)としなければなりません。他の方式の知性では駄目です。仏教式の、つまりブッダが弟子である私たちのために残してくださった、ブッダ式の知性でなければなりません。この智慧の話も、前に中道の話の時にしました。

 みなさんは本当の自分と本当でない自分を知り、本当の命と本当でない命を知ったと言うことで、問題は全部終わります。本当の命を知れば、苦にならなくても良い成り行きになるだけです。

 聖諦とは素晴らしい本物という意味です。この話には、本当の命という言葉には、苦はこうであり、苦の原因はこうであり、完全に苦が滅すとこうであり、滅苦の方法はこうであるという話が含まれています。

 さて次は、最後のまとめの状態でお話します。仏教には、凡夫が「自我である」と理解しているすべての物に無我があると言います。Logic な言い方です。良く聞いてください。そして話が分かるように正しく聞いてください。凡夫が自我(自分)と見る物を、仏教では無我(自分はない)と見ます。

 凡夫は何でも自分と見ます。仏教ではそれに、つまり俗人が「自分」と、「俺、俺の物」と見ている何でも、無我があります。凡夫の「俺、俺の物」であるものに、仏教の教えでは無我があります。

 仏教にも、自分と捉えない物の中に自分があります。何かを自分と捉えなければ、「捉えないこと」があり、そこにタンマの自分が現れます。だから論理的に、自分があると捉えない時に、本当の自分、自我があると言います。自分と捉えれば偽物の自分なので、自分と掌握しない時、本当の自分があることになります。何も自分と捉えないでください。そうすれば自分であるタンマがあります。

 だから自然で無我であるすべての物は、偽の命で、本当の自分である物が本当の命に到達させます。自分があると捉えない時が本当の自分です。この本当の自分は、本当の命に到達させます。つまり清潔と明るさと静かさがあり、『アッタティーパー、アッタサラナ(灯火である自分、帰依する自分)』、『タンマティーパー、タンマサラナー(灯火であるタンマ、帰依するタンマ)』、タンマが自分であり、灯火であると言われる本当の自分です。

 ティーパーという言葉は、本当には光明という意味です。灯火には光明があります。サラナがあるとは、思い出す物があることです。ティーパーという言葉は島と訳すこともできます。海の中の島です。タイ語ではタウィーパと言います。パーリ語ではティーバと言いますが、それはタウィーバです。元の意味は光を意味しました。光は島と同じ拠り所です。

 サラナは駆けて行く所、心が駆けて行く所です。サラは駆けて行く、サラナは駆けて行く所です。光である、あるいは島である、あるいは拠り所である、心が駆けて行く場所であるタンマがあります。タンマを拠り所にすれば「本当の自分が拠り所」と言います。だから彼らには「本当の自分を探す」という共通の教えがあります。

 「自分を探す」という言葉は古い言葉で、ブッダの時代以前からあります。彼らは自分を必要としたので、本当の自分を探しました。一般庶民は自分があると信じたので、本当の自分を探しました。そして彼らは、信頼できない「本当でない自分」がいることも知っていました。だから本当の自分を探す教えがありました。

 みなさんがブッダの伝記のパッダワッキーのところで読んだように、彼らは逃げた女性を追って来て、ブッダに出会いました。ブッダは「善い自分を探しているのか、それとも善い女を探しているのか」と言われます。彼らの心には以前から教義があるので、善い自分を探していると答え、女を探すのを止めました。

 そして自分を探すために、そこに座って自分を探す話を聞いたので、聖向聖果に到達しました。正しい自分を探せば、自分であることにふさわしい意味がある自分、つまりタンマであり、無為である自分に出合うからです。

 有為にしても構いませんが、善の側でなければなりません。これは、善の側と呼ぶ自分です。しかし有為でない物と言えば、加工することがないので、より本当の自分で、善以上です。つまりこの方が本当です。そして私たちの滅苦の終わりは、善悪より上に、罪徳より上にあります。罪の上に徳があり、そして徳の上はローグッタラ(脱俗世)で、本当の自分です。

 本当の自分であることにふさわしいタンマを見つければ、死なず、死ななければ本当の命です。本当の命なら死にません。本当でない命は死にます。本当の命は死にません。死ななくても良いです。本当の自分、不死の自分を探し当てることで、不死にします。死があると感じないので、死の意味がありません。それが仏教です。

 それが仏教、生老病死を越えたいと願う、すべての苦を越えたいと願う仏教の教えです。マヤカシである自分という感覚を断って絶滅させ、本当のタンマの自分だけにし、心の中にタンマがあり、心に現れているタンマがあれば、本当の自分に出合い、不死の物に出合い、本当の命、永遠の命に出合います。

 だから自分を探しましょう、とまとめます。こう言うとみなさんは、「ブッダは、自分である物は何もないと言われた」と混乱すると思います。だからそのように複雑な解釈の問題にしないでください。一方では、やれ自分を自分の拠り所と言い、本当の自分を探しなさいと言い、それで躓き、もう一方では、やれ自分は無いと言うので、進めません。仏教教団員は、こういうことで迷うべきではありません。

 自分であるタンマがあり、タンマである自分を探し、自分を見つけることができれば滅苦ができます。ブッダが自分を探しなさいと言われている所は、何か所もあります。女性やお金や金銀などを探し回ってはいけないという意味です。このようにタンマである自分、自分であるタンマに出合えば、本当の自分に出合うので話は終わりです。

 今日のお話はこれだけです。本当の命に出合うとは、本当の自分がある命が本当の命に出合います。みなさん、生まれて来たのですから、本当の命に出合ってください。本当の自分に出合ってください。そうすれば人間に生まれたこと、そして仏教に出合い、出家し、そしてこの問題を相談したことが無駄になりません。時間になりましたので、これで終わります。




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