伴侶と生きる(結婚生活)

 

1980316日−21

タンマサート大学生への講義

 タンマに関心がある学生のみなさん、今回の講義は、注文通り「結婚生活」と題してお話しますが、「伴侶がいなければならない生活」と、少し意味を拡大させていただきます。前回の講義を復習してみてください。タンマと呼ばれるものについて、いろいろな角度から熟慮検討しました。知らなければならないことは、命とタンマの関係です。

しかし仏教教団員の手法でより深く見れば、それ以上で、二つは同じです。命はタンマであり、タンマは命です。なぜならタンマでない物は何もないからです。これは憶えておいてください。タンマはあらゆる物だと、何十回もお話してきました。

 タンマとは自然

 タンマとは自然の法則

 タンマとは自然の法則の義務

 タンマとは義務の遂行で生じる結果

 これを理解する努力をしてください。そしてこの四つの意味のタンマという言葉を、基本として憶えてください。そうすれば後でタンマを勉強する時に便利で、完璧にできます。なぜならタンマは何一つ例外のない、ありとあらゆる物を意味するからです。みなさんがアタムと呼ぶ、タンマでないものも、タンマです。タンマとは、何一つ例外のないすべてのものだからです。

そしてこの命は体も心も、どちらも自然(タンマ)です。タンマは自然の法則です。体の中に、命の中にタンマの法則が隠れて支配しています。だから母親の胎内にいる時から、生まれてそして死ぬまで、自然の法則で経過し、自然の法則に支配されています。自然の法則が強制的に変化させるので、生き物は自然の法則に従う義務があります。

体を構成している個々の細胞にも、義務があります。細胞の義務に従って単体になり、固まりになり、部分になります。元素から筋肉や血液まで、何でも義務があります。それらにも義務があり、人は人の意味の義務があると言います。

 次に、その義務から生じる結果はどんな結果でしょうか。幸福か苦かは、何の義務をしたかによります。このように完璧な意味でタンマを見ておけば、タンマというものを全部理解できます。しかし、人々はそれらをタンマと呼ばないと、知っておけなければなりません。自然と呼び、自然の法則と呼び、義務と呼び、結果と呼びます。そして別の呼び方をするものもあります。他の言語、他の宗教ならば、もっと違う呼び方をします。

私たちは、たとえば自然の法則をタンマと呼びますが、他の人たちは、神様、創造主、支配者、破壊者と呼ぶかもしれません。何でもいいですが、仏教の原則では、タンマ一語ですべてのものを意味すると知っておいてください。だから命をタンマと見ることもできます。命とタンマは同じです。しかし違う意味の場合もあります。

 命はそれの法則に従って変化している自然の一つで、すべてをタンマと呼び、体を構成している土、水、火、風もタンマと呼び、心や精神もタンマと呼び、それを変化させている法則もタンマと呼び、全体もタンマと呼びます。

 いま私は、「自然と関わりのある」あるいは「生きる道に分かれた」命(あるいは人生)を主題にしています。そして人生はタンマでタンマは人生です。道とはタンマであり、義務です。義務という言葉に含まれます。道がなければなりません。あるいは旅をしなければなりません。これは十分話し、タンマでない物は何もないと説明しました。だから命(あるいは人生)とタンマは同じです。多少は意味の違うものはあっても、それもタンマと呼びます。つまり自然に変化し、自然と関わっている自然の流れです。

 初回の講義で、「命(あるいは人生)は知らなければならないもの」という話をしました。つまり、知らなければならないタンマです。命はタンマで、命が実践しなければならないものもタンマなので、成り行き任せにしてはいけない、必ず、タンマの規則に従って正しく経過させなければならないと、初回の講義でお話したように、みなさんは命について知らなければなりません。

 その次は「命(あるいは人生。今後は省略)は闘いであり、生きることは闘いである」と話しました。すべての進化には障害があるので、進化の流れには闘いがあり、負ければ消滅し、勝てば残ります。初めからの進化の流れは非常に長くても、それには闘いがあり、今私たちは人として勝ち残っています。今後も生き残るためには、まだ闘いがあります。

基本的な闘いは生き残ること。病気、あるいは飢え、あるいは何ででも、死なないための闘いがあります。人間の終点、最高地点にたどり着く目的のために闘わなければなりません。外部にも内部にも障害があり、凶悪な障害は内部、つまり命自体です。ここで言う命は、心と呼ぶものが中心にあり、心が低ければ低い方へ傾き、心が高ければ高い方へ傾き、心に入り込むもの次第です。

そこで心は自覚し、自分を大切にし、自分自身の拠り所になる高い心であるように、そして低い心を追い出す義務をしなければなりません。心以外に、どこにも何も援けてくれる物がないというのは、とても挫けそうです。自助努力をし、自分を知り、自分で苦闘しなければなりません。そうすれば危機を脱して高い心になります。

 常に待ち構えて自覚し、そして知性があるようにするサティと呼ぶ一つの大切なタンマがあります。小さな子供を見てもいいです。母の腹から生まれると、それ自身が教えます。自然が教えると言うこともできます。自然とはそれ自身のことです。子どもは食べることを知り、順々に、何でも知ります。自分自身の中に「教えること」があるからです。触れることで教え、受が生じて、そうすると、何が危険か、何が利益になるか、だいたい分かるので、だんだん危険なものを避けることを知ります。学習することが増えれば、どんどんたくさん知ります。

 どうぞみなさん、この種の経過に興味を持ってください。それは、そのようにならなければならない大切な自然です。中には、私は他人から学ぶ、他のもの、親や先生から、外部のものから学ぶとだけ見ている人がいます。しかし本当は、自分自身で学ぶことほど多くはありません。自分で学び、自分で教え、自分で試し、順々にそうして今日に至っています。

親や先生から学ぶことはあっても、自分で触れたことほど真剣でなく、確実でなく、深く刻み込まれません。正誤、損得、苦楽、勝ち負け、自分自身に教わったことは何でも、十分に明瞭です。そしていつでも目、耳、鼻、舌、皮膚、心で触れ、いつでも感じ、いつもそうなって、常に学んでいます。その部分が一番大切です。なぜなら、真実であり、真実になる話だからです。

本で勉強することは、真実にするために使う、真実の路線にすぎません。最高に良くても、記録しておく真実で、彼らは次々と教え伝えます。しかし自然は自分自身の、そして最高に真実を教えます。苦い、甘い、酸っぱいなどの味を考えて見てください。誰が教えられるでしょうか。味見をして、苦い、甘い、酸っぱいと感じる以外に、誰も教えられる人はいません。苦いとはどんなか、甘いとはとんなか、言葉で教える方法はありません。これは些細な事です。

 次にもっと意味のあること、これも教えることはできません。自分で経験し、自分で触れ、自分で感じなければなりません。命は、自分自身でこのようにしてきました。自分が自分に教え、自分が自分に学び、自分で試験し、自分でだんだんに昇級して、ここに座っているみなさんになり、これからも知り続けたいと思っています。

教えることができるのは、後の世代が同じことを探求する時間を無駄にしなくても済むように、観察して勉強した人の記録を話して聞かせるだけです。私たちがブッダからタンマを聞いて勉強するのは、同じように探求しないで済むためで、節約できるのはこの点です。しかし、聞いて全部知ることができるという意味ではありません。聞いたらそれを経験して消化し、自分自身のことに、自分自身の知性にしなければなりません。そうしたときだけ利益があります。

タンマの話も物質面のこと、物質面の知識と同じです。特に科学の話は原始時代から伝承してきました。原始人が火を知り、水を知り、知ることが増えて科学になり、月の世界へ行くと言うほど増えました。大昔の、何も衣服をまとっていない時代の原始人から始まった、科学の知識に依存して、彼らが最初に知ったことを言い伝えました。彼らを見くびらないでください。

これを、人間の知識の伝承と言います。動物にはできません。動物はこのように伝承できません。だから動物はここに止まっています。ここで停滞しています。まだ何万年も前と同じようにしています。

 人間は伝承することができます。後の人は有利で、昔の人が記録したものを勉強して、勉強して、何万年も生きている人のようにたくさん知るので、何でもできます。いま私たちはそうしています。牟尼や仙人(どちらも修行者の類)や教祖が、千年も万年も前に考え、発見し、知っていた知識を、次々に伝承し調整し継ぎ足してどんどん高くし、最高にし、そして伝承します。

どのように苦を滅すかというブッダの教えなどは、初めに教え、それから伝承してきました。私がここで話していること、今ここで話していることは、伝承してきたことの一部です。どうぞみなさん、タンマとは何か、命とは何かに関するもの、あるいは生きることそのものを、上手に伝承する努力をしてください。

 次に、タンマとはあらゆる物の真実である、と繋ぎたいと思います。世界という言葉を使うこともあります。世界、世界のこと、世界を生じさせること、世界を消滅させること、世界の消滅に至らせる方法、それがタンマです。

 だから石、土、砂、木の葉、植物の本当の姿はすべてタンマなので、関連していて切り離すことができません。形のもの(物質)と名のもの(抽象)、つまり体と心は切り離すことはできません。肉体面、物質面の正しさが体を作っています。それは心と呼ばれるものの居場所であり、生じる場所、働く場所なので、依存し合っています。

だから心は、何でも知らなければなりません。体のことも知らなければならず、物質である体に関することも知らなければならず、名誉、名声、損得、勝ち負けなど体に関することも知らなければなりません。どういう心か、どういう名か、自分自身で知らなければなりません。この部分はより深く、より難しく、学ぶのが難しいです。つまり、どうしたら心が心を知ることができ、そして正しく生きるように、間違った方向へ落ちないように、つまり低い変化にしないで、高い方へ変化するように自分自身を管理できるか学びます。

この部分は見る価値がある、あるいは非常に不思議です。心の話ほど不思議なものはありません。すべての人間の話の中で、心の話のように深く不思議なものはないという意味です。だからほとんど心の話になります。私たちは特に心のことを勉強しなければなりません。体のことはちょっと勉強すれば終わりますが、心の勉強は終わりません。それに、もっと多くの勉強しきれないこと、勉強できないことについては、言うまでもありません。

 命も自然なので、自然で経過し、体と心は一緒に行きます。タンマを勉強する人たちが憶えやすいように、昔の人が話した譬え話があります。一人は手足が不自由で、もう一人は目が見えない他はすべて健全な二人の人がいます。そこで手足が不自由で目が見える人が盲人の肩に跨って、盲人に指図して何でもさせます。つまり体は、目は見えないけれど丈夫な人のようで、心は、盲人の肩に跨っている、目は良いけれど手足が不自由な人のようなので、一緒に行きます。

 昔の人は、心と体が一緒でなければならない命を譬えて、自然はそういうものだと言いました。彼らは、そのように有り様を見、そして観察するように教えました。つまり私たちを、ですよ。私たちは体が丈夫で目が見えない人のように、体を正しく使い、そして手足が不自由で目が良い人のように、心を正しく使わなければなりません。二つ併せれば上手く行きます。それが命になったら、動物であれ、植物であれ、それが人に、動物に、生き物になったら、自然の法則で経過しなければなりません。

 前に、命が何を意味するのか見えるまで、命を物質的な科学、生物学の面と、心の面、宗教の両面から見るようにアドバイスしました。たとえば植物にも命があり、生き物として感じることでき、望むことができますが、人ほど高くありません。人は最高に感じること、望むことができます。なぜでしょうか。それは先ほど言ったように、伝承するからです。

動物は感覚などを継承できないので、それだけです。私たち人は、たくさん継承することができます。だから動物と違います。同じ生き物でも、感じること望むことができても、大きな違いがあります。しかし共通点は、どちらも命です。だから軽蔑しないでください。危害を加えないでください。同じ命という点を、同じ生き物という点を見てください。

教えでは、共に生老病死をする友と教えています。動物も生老病死の友です。心が十分繊細なら、命ある植物も生老病死の友と認めます。植物も死にたくない、生き延びたいと願っているからです。自分で勉強してみてもいいです。生物学あるいは物質面は、動物や人と同じように、植物も死にたくない、生きたいと感じていると知ってください。

 次に、死にたくない、生きたいということについてお話します。それが生きることのポイントです。つまり生存したい、生きたい、死にたくないことです。それが生き物です。自然は巧くできています。生き物が生きたい、種を絶やしたくない、種を絶やしたがらなければ、必ず生殖します。つまり次々に継承します。ずっと継承して来なければ、いま何も残っていません。ここに座っているみなさんもいません。これは先祖たちによる生殖です。

 次は、神様にはどんな秘密があるのか知ることができない、生殖という言葉になりました。確実不変なことは、生殖には必ず雌雄がなければならないことです。雌雄がなければ生殖できません。元からあるものと区別したいからです。だから生き物には、雌雄の接触による生殖があります。生殖がなければすべては無になり、何も残らないので、生き残るために生殖があります。

神様を信じれば、神様の望み、あるいは神の摂理です。神様を信じなければ、自然を信じます。自然がそうなるように望んでいるからです。だから自然には雌雄があります。共通の言葉なら雌性、雄性という言葉を使わなければなりませんが、人間に使うなら男性女性です。しかし性の細胞核について見れば、雌性雄性という方がいいです。生き物には、かならず雌性、雄性である性の重要な部分があります。

 植物を見ると植物にもかならず卵があります。それが雌性であり実になり、そして雄性である花粉があり、混じり合って実である新しい命が生まれ、そして育つから絶滅しません。

 植物も、この生殖したい気持ちは非常に強烈です。勉強しなければ知りません。詳しく勉強すれば、植物も生殖したい、絶対に絶滅したくないと知ることができます。そして幸運なことに、自然が自然のものを案配しました。一つの花に雌雄揃っている種類もあり、別々の花の種類もあり、別の木の種類もあり、別の街にある種類もあります。一つの街のおしべが水に浮かんで流れて行って、別の街でめしべに会うというのもあります。これを別の街にある植物でも生殖でき、実を結ぶと言います。

あるいは風が運ぶこともあります。これが、雌雄がなければならないと言われる話です。これが基礎になります。 動物は、簡単に見えます。人はもっと簡単に見えます。男性女性があり、雄性と雌性があるのは、自然が作りました。一種類は生き物の体のため、命のために卵を作り、もう一方は命を育てるもの、オスの胤(種)で、それが混ざり合うと新しい命が生まれます。混じり合わなければ無駄死にで、消滅して何も残りません。

 だから生殖はもっとも重要であり、もっとも強烈です。そのために自然は、かならず両性が出合わなければなりません。私は、夫婦で暮らすこと、あるいは夫婦生活には秘密があり、生殖本能に依存していると言います。これは、夫婦生活の話の最初のポイントです。夫婦生活と言われるものには深刻な秘密があり、一番深いのは生殖本能です。

 すべての本能については、生物の本にはっきりと書いてあるので、探して読んでみれば、生き延びるための闘う本能の重要性を強調しているのが分かります。それからご飯を食べて大きくなると、生殖本能になります。生き物は教えなくても生殖を知っています。植物も、自然に生殖します。簡単に繁殖できるようになっています。風が運ぶのでも、水の流れが運ぶのでも、最終的に生殖します。

人はもっと簡単です。生殖できるようにすべてを整える、知識も能力もあるからです。しかし秘密は生殖本能にあります。つまり我慢できないで、生殖するために必死で努力します。だから生殖できる年齢になると、必死になるので、教えなければならない話ではありません。

自然が全部案配してくれるからです。我慢できないように自然が強制します。植物でさえ生殖したがっている様子が明らかに見えます。開花し、罠を仕掛け、待ち伏せし、植物のサガで、何でも待ちます。

 動物も我慢できません。必ず出合わなければなりません。生殖する季節になると、別の地域、別の村でも、何としても相手を探します。ナーンエー山の上で、昔は一月二月になると、トラが相手を探す声が聞こえました。闘牛で牛が角を突き合わせる時に出すような声です。

一晩中、その季節の間いっぱい聞こえました。トラは相手を探すために、相手に出合うために吠えます。眠りません。私が寝て起きてもまだ吠えています。眠らずに一晩中吠えていました。朝九時まで吠えていました。見てください。生殖したい猛烈な威力で、一晩中眠らずに吠え続けます。

 生殖本能は、生き物と呼ばれる物に深く埋め込まれています。だから自然は生殖のために特に前立腺を作りました。Mager 域に達したと言われる年齢になると、前立腺が我慢できなくなり、生殖するための苦闘を知らなければならないので、問題が生じます。見事にすることも、みっともなくすることも、社会に悪い結果を作ることも、社会に悪い結果がないことも、どれもあります。

 だからみなさんより前に生まれた人、大昔の先祖の時代には、原始人の時から、お互いにそう行動させる、生殖に関する作法を知っていました。このような道徳規定を、西洋人たちは道徳の時代に規定しません。彼らは、Tabooと言って、道徳の時代以前に規定しました。つまり家長や老人が、自分たちの社会に危険や損害を生じさせないためにそのように決めたので、この子、この若者、この少年、この少女は、娘になるまで、結婚するまで、このような品行をし、正しい行動をします。

 見て美しい形の道徳制度になったのは、後になってです。人間はこのことを良く知っていました。あるいは、初めからこの項目の問題、つまり生殖に関わる問題に遭遇して来ました。それは非常に熾烈な感覚だからです。どれくらい熾烈かは、自分で感じて見てください。誰にでもこの感覚があります。

そして、道徳のない人、規律のない人が性的な問題に関して、どれくらい悪劣で非道徳的な振る舞いをしているかを、見ることができます。望みどおりにならないと、ロクデナシになり、鬼より悪魔より凶悪になり、殺人までします。生殖に関したことが望みどおりにならないと、自分の親を殺します。本性の中に隠れている生殖本能は、非常に強烈です。

 生殖は、生き物にとって必要だとお話しました。生殖がなければ、。今の私たちのような生き物は何も残りませんません。生き物が絶滅しないために生殖があります。生き物には生殖がなければならないので、生殖したい威力は、非常に熾烈です。

 次は二つ目の秘密です。自然は最高に良い賃金を用意して人を雇い、生殖させます。生殖は、普通なら厭わしく不潔で疲れます。だったらどうか、自分で見てください。したくありません。しかし人は最高の賃金、つまり欲情で雇われます。欲情が、自然が支払う賃金です。欲情で生き物を雇って生殖をさせます。

みなさん、情欲にどれほど味があり、威力があるか見てみてください。不潔で疲れて、ものすごく面倒なことができるのは、最高に心を騙す賃金、つまり欲情があるからです。この状態は、人の集団に顕著に見られます。集団に、欲情面の意味の最高に目隠しされた味があるのは、人に生殖をさせるためです。

動物も同じです。興味を持って近くで観察すれば、動物に生殖をさせる欲情の味があるのが見えます。魚のような単純な生き物でも、飼育している人は、群れの中で生殖をする時に、情欲の味があるのが見て分かります。この感覚が生じなければ、魚は生殖をしないで普通にしています。前立腺が最高になると、腹の中の卵が熟すと、生殖したい感覚が生じて、そして欲情の味を求めます。

 生殖する魚の習性で押し合う時は、最高の欲情を味わう時です。人間だけではありません。動物も最高の欲情を味わって、自然から賃金をもらい、そして生殖します。植物も、もし精密な計測器があれば、同じように非常に必死になって、そして生殖の瞬間に満足しているのが見えます。雄蕊と雌蕊が触れ合う時が、欲情の幸福を感じる時です。

 私がこう言うと、彼らはすぐに「バカだ。自分で勝手に言っている」と言います。この話は、植物の感覚を測定できる、現代科学の最高の機械を使って、測定して見てください。死の恐怖や食べ物を求めることや、植物のその他の何を測るよりすごいです。この種の書物があり、ある協会が設立され、最高に現代的なエレクトロニクスによって植物の感覚を測定できる計測器を作りました。

植物の愛情や怒りや恐怖などを計測できます。植物を嫌いな人が、その植物に近づくと、すぐに計測している針に現れます。その人が離れて、他の人、植物を好きな人が近づくと、針は反対の方を指します。

 物質面の話になってしまいました。感覚の話、欲情の話も同じです。稲に音楽を聞かせると、稲穂がびっしり実る話もその中にあります。つまり物質的に、欲情面の幸福の感覚があります。

 自然でもいいし、神様でもいいですが、生き物に生殖させる賃金である、最高の欲情の味があるので、人間の神経感覚系統の中で、欲情の系統、特に生殖器ほど最高の感覚系統は何もないと結論して、終わりにします。この感覚は、どの系統よりも最高です。欲情も目、耳、鼻、舌、皮膚、心に依存していますが、性に関わらなければ最高ではありません。性に関われば最高です。

 目が形を見た時、性に関係なければ、形が美しくてもあまり興味はありません。しかしその形が性に関係あれば、その形は心に残り、心にとって最高の結果になります。声も同じです。性に関係ある声、性に関係のある臭い、性に関係のある味、性に関係のある接触、性に関係した考えや望みの六種類は、性に関係すれば最高、あるいは強烈です。

 だから性という言葉に集約される意味があります。性に関する欲情は、人を我慢できなくさせ、生殖を求めさせる威力があります。嫌らしく不潔で疲れることもできます。そして全力でします。教育がなく自制がない人、あるいは教育がなく何も調教されていない動物が、めいっぱいするのが見られます。

 神経系統で感じることができる、最高点の性の欲情こそが、自然が生き物に生殖をさせる賃金です。すべての生き物は雇われ人に陥っています。誰も助けてくれません。みなさん良く見てください。自然に生きて自然に感じ、十全な前立腺の大きさになれば、健康な人、健康な動物なら、生殖のための自然に雇用される威力に陥っています。そしてそれ以上に、自分から志願します。性に関わる無明の威力による愚かさや陶酔のせいで、志願以上です。

自然のままにすれば、このようです。最高の欲情の味を味わうために、人は生殖をします。普通ではしたがりません。しかし人間は、生殖のために働いて、罰を受けることなく欲情を味わうことができると言うくらい利口です。現代の人間はずるいことができます。神様を騙し、自然を騙し、生殖しないで欲情を味わいます。

昔の人はしたことはありません。現代は受胎調節器具があるので、生殖をする必要がないのに思いっきり欲情の行為をします。現代人が昔の人と違うのはこの点です。だから騙すようになり、自然を騙し、賃金を騙し取り、生殖をしないで欲情を味わいます。

 しかし怖がらないでください。代わりに必ず他の問題が生じます。いい気味です。試してみてください。試しにして見てください。この問題で神様を騙し、自然を騙し、幾ら騙しても代わりに他の問題が生じて報いるので、その後神経の病気に、狂った人、他の何かが欠けている人にします。防げません。

ところでみなさんは、いま雇われているか、いないかだけです。これは、夫婦生活という話に関して、話すべき問題です。みなさんは結婚をし、欲情のためだけに自然に雇われるような結婚生活を目指しています。自分で見てください。今みなさんは、十分自然に雇われているかどうか、言わない方が良いでしょうね。

 みなさんが一生懸命勉強するのは、なぜでしょうか。法学を学ぶのでも、何を学ぶのでも、何のために一生懸命勉強するのでしょうか。それはそこへ行き着きます。今は卒業証書のためでも、学位のためでも、最終的にはそこへ行き着いて終わります。結果のため、つまり最高の欲情を受け取るためです。

みなさんがお金を持ち、権力を持ち、いろんな物を持てば、全員が最高の欲情(五欲)を目指します。なぜ一生懸命勉強するのか、そして将来の目的は何か、すべては最高の欲情の縁になってしまいます。他にもまだたくさんの問題があります。人を騙し、するべきでないいろんな汚職をするのも、最高の欲情の要因を手に入れるためで、そこへ行き着くことを目指しています。

 さてここで、結婚生活は生殖本能次第であり、それにはこのような秘密があるとまとめて、みなさんはどうしたら良いか、という問題を設けて見ます。するといま一生懸命この問題に接近しているのが見えます。みなさんは普通の人で、普通の生き物で、普通の感覚があるので、この問題を避けることはできません。

 次に結婚生活について、あるいは伴侶がいなければならない生活について、みなさんが知らなければならない話の要旨を問題にしてみます。どうしたら最高に恥ずべき雇われ人の状態から脱出することができるでしょう。それとも恥ずかしくないと見る人がいるでしょうか。つまり何もかも欲情のため、自然の雇われるためで、もらう賃金は欲情です。しかも汚らわしい嫌らしい仕事、つまり生殖のためです。

これを恥ずべき状態、恥ずべき被雇用者と見れば、どうしたらこの種の被雇用者の状態から抜け出せるかが問題になります。それが、みなさんはどう振る舞うか、どう実践するか、今から私が話すタンマです。「雇われ人にならないでください。一日一日、煩悩に雇われないでください」と、答えさせていただきます。

 今この世界は、クルンテープ(バンコク)でもどこでも、非常に多くの人が、煩悩でしかない欲情(五欲)を買い求めるために、経済力やいろんな力を必死で掻き集めています。その欲情を望む気持ちは煩悩であり、いろんなことの真実を知らない無明が根源です。みなさん、雇われ人にならないでください。被雇用者にならないでください。雇われるほど愚かにならないでください。

タンマがあるとは、欲情である賃金をもらうために、そして面倒でみっともないことをするために、自然に雇われなくても良い類の知識があることです。あるいはみなさんが生殖を望むなら、そのように醜く嫌らしく行動しないタンマもあります。つまり被雇用者の形でしないでください。

 次に勉強します。つまり煩悩に雇われた人から、、生殖は善悪正誤を知っている知性のある人間の話に変えて、そして義務として生殖します。それはしなければなりません。自然では、自然の法則で正しくしなければなりません。高い心、つまり畜生より高い心がある人間らしく、生殖が原因の問題を生じさせないでください。だから人間には動物のような、あるいは動物のように安易で愚かで低劣な生殖はありません。

 人間には、人間らしい仕方があります。ここで言う「人間らしい」とは、誰にも苦や困難を生じさせないことです。自分にも他人にも、誰にも生じさせません。煩悩に雇われた人から、何が善いかを知っている人間に、話が変わりました。生殖するにふさわしい時機が来た時、つまり熟す前に奪いません。熟す前に奪うのは、自然の法則で正しくありません。あるいは道徳の規定も、自然の法則で規定されています。

 次に純潔の義務が終わったら、つまり自分自身を最高に善くしつけ終わったら、在家でいるなら、人間として理念のある夫婦になります。煩悩、あるいは欲情の言いなりになるのではなく、人間としての理想をもちます。つまり高い心があるという意味です。人間とは高い心があるという意味だと、何回か分からないくらい言っているので、うんざりしているかもしれません。ただの「人」と解釈しないでください。そう理解することには何の利益もありません。「人間とは人のこと」という意味で理解しても、何の意味もありません。

 人間とは、高い心があるという意味です。高い心がなければ人間(マヌサヤ)ではありません。「マナ」は心で、「ウサヤ」は高い、「マヌサヤ」は『高い心』です。つまり絶えず教育され、しつけられ、明るく豊かで高くなった心を人間と言います。そうでなければ、畜生全般と同じように低劣で、高くありません。

 私たちは高い心を持った人のようにしなければなりません。生殖をするなら、畜生のように低い心でなく、高い心を持った人間のようにします。マヌッサヤ(人間)という言葉を、マヌーの一族と解釈する人がいます。マヌーとは、インド・アジアの歴史では最高の人です。人間をマヌーの一族と解釈しても、高い心という意味から外れません。マヌー神は、人間の最高の人と信じられているからです。つまり高い心の人です。本当にマヌーの一族なら、人間はマヌーのように高い心がなければなりません。

 私は簡単に、言語面だけで十分とします。マナとは心、ウサヤは高いという意味なので、マヌサヤは高い心という意味です。だから高い心の人になってしまえば、高い心の人らしい生殖の仕方があります。そして、心の高い人の夫婦生活としての生き方があります。煩悩の言うままになりません。煩悩に雇われません。理想のある人間なら、何でも人間らしくしなければなりません。だから理想のある結婚は、何も知らない、つまり自然に雇われて生殖する動物の生殖と違います。

 理想の夫婦とはどのようかは、詳細はいろんな本や教科書にあるので、ここで時間を割いて説明する必要はありません。ナワコワーダなどのタンマの本は、一冊幾らもしませんが、夫婦とはどんなものか、最高の理想とはどのようなものかについて述べているすべての経を取り上げて教育しています。

それは良く知られている道徳で、正直、誠実、忠実、愛、煩がなくタンマがある団結です。タンマが関わらなければ、本能の感覚は低くなり、煩悩の威力で経過し、タンマが関われば別の成り行きになります。夫婦で暮らしても、何も知らない動物の自然のままより正しさがあります。

 みなさん勉強してみてください。ブッダがいろんな経典で話している在家の行動規範が、先ほど言った本に集められているので、夫婦の暮らしを管理するタンマのある人になります。

 もう一度、菩薩戒という言葉を紹介したいと思います。来たばかりの日に、菩薩戒を遵守するべきだと言いましたが、何人が遵守しているかは知りません。その八戒です、在家にふさわしい規律があるのは。生殖に関しても人々は制御できます。毎日しなければならないことでもないし、あるいは何も調べもせず、惑溺ですることでもありません。制御できなければなりません。適当な頻度、あるいは量でなければなりません。

 五戒の五項目は、みんな知っているので説明しません。六項目の戒は、過ぎた食事をしません。七項目は余計なことである、歌や踊り、化粧や身を飾ることをしません。八項目は、高価すぎる、良すぎる、余計な道具を持ちません。

 これは、善い在家のための規則の一つです。過剰なものから守るものである菩薩戒を遵守する努力をしてください、ともう一度主張させていただきます。過剰なものを防いでください。時代遅れで迷信臭いと軽蔑してはいけません。菩薩戒をしっかり勉強すれば、善い意味に気づきます。そして、危険を生じさせない善い夫婦の生き方を見つけます。そういう意味です。

 完璧な在家の実践は、いま話している戒を遵守して暮らし、そして探して勉強するように言ったタンマを身につけます。ここで意味が変わります。つまりみなさんは、欲情に夢中になるために生きるのではなく、世界の善い人間になるために生きます。欲情に陶酔すれば、醜く嫌らしい方向へ突っ走り、そして最後には破滅します。

今みなさんが管理できれば、この世界に価値があるもの、つまり善い人間がいるようにする、善い人間です。世界に正しい善い人間がいなければ、この世界に価値はなく、地獄になってしまいます。だから正しい「人間」になります。

夫婦で暮らしても、世界を価値ある物にすることができます。夫婦生活は避けることができない、自然のものだからです。避けることができない人にとっては自然の話なので、一緒に世界にとって害のない、正しくて善い夫婦生活にします。これを、普通に公平に話すと言います。

 次にもっと高い秘密が欲しいと思います。つまり夫婦の生活に友達の意味を持たせるべきです。人生の友達、人生の伴侶と呼んでもいいです。生きる伴侶になります。一緒に夢中になる友達ではありません。正しくなるために、正しい品行をする友達です。そうすれば負担を分け合うことができます。

人間が一回生まれてきて、しなければならない事がどれだけあっても、夫婦はそれを半分ずつ分け合うためにあります。分け合えば苦労は半分です。一人でするほど重くありません。こうすれば人生の友達、あるいは人間の義務を簡単にし、半分ずつ分け合う友達である伴侶と言います。

 だから夫婦生活を正しくすれば、人間であることが快適になります。次にこの友達はどこへ行くのか、ですが、最高の理想は涅槃へ行くことです。だから最高の人生の伴侶は、涅槃へ行くために相談し合う友達です。相談し合う友達がいるので、人生は一人で寂しく歩くことではなくなります。理解できなければ、冗談と見ます。理解できれば、それには利益がある、つまり理想の夫婦だと分かります。

理想の夫婦である人間にはタンマがあるので、その自分自身の体でタンマを学び、生きることで無常と苦と無我を学びます。在家の暮らしは、必ず無常、苦、無我を見せる物に遭遇し、七転八倒の苦を体験するからです。管理できれば、それが無常、苦、無我を教えます。

 だからその夫婦は、最高の真実、つまりいつでも無常、苦、無我の角度で人生を学びます。彼らは一度も喧嘩をせず、一度もいがみ合わず、一度も嫉妬しません。普通の人がするようなことは何もしません。だから、最高のタンマ、つまり涅槃へ旅する友達になります。

聞いても信じられません。多くの人が、夫婦生活が正しくなれば涅槃へ旅する道づれになると、信じないと思います。つまり、世俗のいろんなことを良く知れば、最高に良く知れば、どこにも行くところはありません。涅槃以外に、どこへも行けません。

 人がこちら側のことをすべて知れば、何も良い物はないと知ります。何も崇拝すべきもの、賞賛すべき物はないので、残るのは向こう側だけです。それで向こう側を目指すので、向こう側へ旅する道づれになります。子ができ孫ができたら、涅槃へ旅する相続人にします。両親が到達しないで、ここでのろのろ這っていて先に死んだら、子や孫に歩き続けさせます。そうすれば、人類としては涅槃に到達します。この世代が到達できなければ、後々の世代が必ず到達します。

 だから親の後を継いで涅槃まで旅をする子や孫がいます。そうすればこの夫婦は、涅槃へ旅する道づれの形になります。もし自分が行き着かなかったら、その後歩き続ける相続人がいます。理想の夫婦、あるいは理想の結婚生活はこれほど最高だと、私は言います。これ以上遠くへは行けません。つまり、人間という意味で正しくタンマを実践する夫婦であり、人間の手本で、このことで過ちを犯しません。

普通ではしたがらないことを、欲情で自然に雇われてしません。そして彼らは生きる知識が増えます。人生の真実を知るために相談できる友達です。これを涅槃へ旅する道づれと言います。次に子や孫ができたら、親が到達できなかった時歩き続ける相続人にすれば、人間の名で、人類の名で、涅槃へ到達します。

 だからこのような伴侶がいれば、理想の極みと見なします。夫婦で暮らさなければならない生き物には、これしか理想はありません。

 もっと善くしたいなら、もっと遠くまで行きたいなら、それもあります。しかしみなさんは質問しないでしょう? 話してないので、話をすっかり終わらせてしまってもいいです。これ以上に善く、これ以上に遠いのは、異性の意味を越えます。異性であることから脱します。つまり煩悩に雇われないで、欲情に雇われないで暮します。それを通り過ぎて、これらについて熟知している夫と妻、父と母、祖父と祖母です。

心は、二度とそういう奴隷になりません。それらより上にいたいと望みます。つまり涅槃を目指します。夫婦の関係が終わった生き物なので、それぞれ涅槃に向かいます。崇高な生き物で、最後には配偶者と結婚する代わりに、人間同士で結婚する代わりに、涅槃と結婚すると言い、心が涅槃の味に満足するようになります。世俗の暮らしの味に満足しません。これを涅槃と結婚する、あるいは空と、つまり俺がないことと結婚すると言います。

 いま、心は空と結婚してしまいました。つまり俺がありません。俺の終わりであり、永遠の命です。聞いたことがある人もいるかもしれません。変化することのない、滅亡することを知らない、終わりのない永遠の命。性を越えた人はこうです。夫婦であることを越えます。これは、今の人が聞くには、珍しすぎる話かも知れません。

 結婚という言葉は、満足する味があるという意味です。いま心は、世俗の上にいる、欲情より上で生きる味に満足します。目、耳、鼻、舌、体、心で変化するものがどのレベルでも、それらの味を超えます。上にいます。あるいは名のものである名誉や名声、出世や傑出するのも億劫になり、億劫になるくらい善人になります。だから空になる、あるいは涅槃になるくらい上ります。

 こういう話は、普通では、ごく普通の生き方を通過した人の話です。普通の生活を、さっき言ったように最高に善い人間として、正しく通過した年寄りの話です。その後はどこへも行く道がないので、あっちへ出て行きます。彼らは出て行くと言います。出て行くと言う言葉を使います。

こちら側、あるいはこの世界には、こういう話しかありません。最高に善くてもここにいます。ここで善いだけで、苦の終わりではないので、ここから出て行かなければなりません。完全に出なければなりません。そうすれば向こう側へ行けます。つまり涅槃の側、あるいは空の側、心が空の側です。それが人生の終点です。

いま夫婦であることから脱し、夫、妻、男性、女性から脱したので、空のように存在し、涅槃のように存在します。永遠で、無我に到達した一つだけの命です。そして死を知りません。自分の死を知らないので、人は永遠と言います。永遠の命です。完璧な形の夫婦になった後は、永遠の命の外に、どこにも出口はありません。

 これを望む人は、この種の夫婦の生き方を、最高に善くする努力をします。最高に善くなったら、頭を横に振るだけです。ここにはそれしかないので、その後は向こう側へ出て行きます。普通の俗世の生活を善く通過して、そこに未練がない人なら、なお一層この種の世界から出て行きます。こういうのを彼らは、俗世を越え、あるいは世界を脱して永遠の命になると言います。

 しかし、前の段階として夫や妻、子や孫などにどっぷり浸かった後でなければ、向こう側へ渡れないという意味ではない、と言いたいと思います。経典の中の話には、子供の時に、沙弥の時に阿羅漢になった人がいるからです。興味深いです。教典の中の話には、十歳余りの沙弥の時に阿羅漢になった人が、七、八人いるようです。

この種の人物は所帯も持たず、私たちが持たなければならない物を所有せず、通過しなければならないことを通過せずに最高に重要なことを学びました。つまり欲情や、他のいろんな面の価値を学び、「それだけのこと。そういうこと。それきしのこと。それ以上に素晴らしくはない」と見えます。だから欲しがりません。試さずに止めます。

なぜなら、すべて肝心なのは受だからです。感覚的な旨味である受は、何もかも試さなくても学ぶことができます。何もかもが欺瞞する幸福な受にすぎないので、目から入るものも受のため、耳から入るものも受のため、鼻から、体から、心から入るものも、この受のためです。

 ある子どもが、受と呼ばれるものの真実が見えるように教えられ訓練されれば、世界全体を断固として拒否します。だからたった十歳余りで阿羅漢になれます。今お話したのは、自分で見た話ではありません。教典にこのようにあるのを、お話しました。みなさんも興味を持って、心は不思議なものと勉強して見てください。正しい手法で訓練すれば、コミュニストと言われる人たちよりもっと長く、もっと遠くへ飛び、ローグッタラと呼ぶ世俗の外へ行くことができます。心のこととして勉強しておかなければならない話です。

 結婚生活は、最高に善くても、涅槃へ旅する道ずれでしかありません。続いて歩かせる子や孫を残して、それで終わりです。一人で生きれば、世俗から飛び出し、永遠の命、空になります。「一人で」「二人で」と言わなくても構いません。それは空です。

 さて今日は、夫婦生活、あるいは伴侶がなければならない生活についてお話しました。それには、夫婦生活のための道徳があります。詳しく勉強して、もっと道徳を増やしてください。これはただの見出し、あるいは糸口でしかありません。夫婦で暮らさなければならない生活の道徳を詳しく勉強して、そして正しい行動、品行をすれば、何も苦しみや痛みはありません。

そしてみなさんが一所懸命努力するのは、煩悩に雇われるためではありません。欲情に雇われるためではありません。だからみなさんは精いっぱいすることができます。一生懸命勉強してどんな仕事についても、最善を尽くせば、それは「正しく旅をする人間になるため」で、欲情のためではありません。

 だから欲情に仕えるタイプの夫婦生活と、涅槃へ旅する道づれである夫婦生活を知ってください。続けて旅をする子や孫がいることも、良く憶えていれば、事柄にふさわしい正しい選択をすることができます。それ以上善いことはありません。

 


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