誰のために生きるのか

 

1980316日−21

タンマサート大学学生への講義

 タンマに関心のある学生のみなさん、今日の講義は、みなさんが決めたように、「誰のために生きるのか、なぜ、どのように生きるのか」と題してお話します。本当は、この答はどこにでもあります。前の講義では、特定して答えずに、筋に従って講義するだけでしたが、これらの講義を全部理解していれば、その中に、誰のために生きるのか、なぜ生きるのか、そしてこれからどう生きるのかという問の答があります。

 それらの理解が良く連携するため、あるいはより明白にするために、全部の講義の内容を順に復習してください。初めに、自分の意思ではなくても、人生は始まっていると考えておかなければなりません。みなさんはこの真実が見えなければなりません。命はもう生まれています。そしてそれを「私」と感じる感覚があります。最初の部分は自分の意思でなくても、もう既に生まれています。

 「自分の意思ではないから自分ではなから何でも構わないと」という角度で弄ぶ人がいるかもしれませんが、そう言うことはできません。なぜならそのようにすれば、自分で自分を耐えられなくすることに等しいからです。だから私は生きていると、そして命は自分のものと認めます。仮定で話せば、一般庶民が感じるように話せば、そのように感じるはずです。

命、あるいは何でも、それは自分ではない、自分のものではないという深遠なタンマの言葉ではありません。それはまた別のレベルです。一般の普通の人のレベルは、私たちの感覚では、「私は生きている。私は命の所有者。」と感じます。どの意味に注目するかで「命は私」にもなるし、「私の命」にもなります。

 ほとんどの人は「私」と感じます。普通の感覚では「私」と感じます。しかし「私」という意味は、隠れています。潜んでいます。主人公になる自分がいるから自分の物語があります。命のあるものは、命はその生き物のものと感じます。本能的に感じます。つまり自然に生じ、自然に感じます。だから自分という感覚は、厚く深くなり、振り棄てにくくなります。

それに、振り棄てようと考えたことがありません。だから後になって、捨てなければならないと知った時、自分ではないと振り棄てるのが非常に難しくて、捨てることができません。本能で「自分」、「自分のもの」と掌握しているからです。

 憶えておいていただきたい言葉があります。「アハンカーラ、ママンカーラ、マーナヌサヤ」という言葉です。それが生きる意味です。アヌサヤ(隋眠)、あるいは繰り返している考えは、いつでも強く貼りついて、繰り返し繰り返しています。「私、私のもの」と強く粘り着いて、繰り返している感覚です。「私は」とアハンカーラ(尊大になり)、「私のもの」とママンカーラ(身勝手になり)、アヌサヤは、強く粘りついて繰り返している感覚です。

 母の腹から生まれたまだ幼い頃は何も強く感じませんが、そのように、つまり私、私のものと感じる種は有ります。本能、つまり心のある生き物の感覚に、その種があります。生まれてきた赤ん坊は、その種の感覚の種を本能で受け取ります。同じ人物が輪廻を繰り返えすと信じる人は、前世のものと言います。そのような感覚は前世のものがついて来たと言います。

私は仏教の教えに従って、そのように固定しているものはないと言います。それは縁(要因)によって変化するもので、生じたばかりです。つまり生まれた赤ん坊があれこれ教えられて、何日か、何カ月かするとそう感じるようになります。みなさん自身で見てください。自分自身のことでも、すっかり忘れてしまって憶えていません。

だから小さな子供がどう喋り始め、憶え始め、何をどう始めるか、その結果私、私のものという意味になるのが見えます。人々は、「ボク食べなさい。ね、ボク」。あるいは何でも「ボクのもの」、「ボク」「ボク」と言って教えます。ボクの家、ボクのパパ、ボクのママ、ボクの何か、そしてボク自身です。ここで子どもはこの意味を受け取ります。「自分。自分のもの。私。私のもの」という意味が増えます。どんどん増えます。何日何カ月何年、若者になるまで、この意味を受け取り続けます。

つまりこの意味を聞き、感覚の中に受け入れ、アヌサヤ(隋眠)と言う習性になります。つまり私と感じさせます。これが一部分です。もう一部分は私のものです。それが非常に煮えたぎると、「俺、俺のもの」になります。つぎに若者や娘は、こういう気持がいっぱいになり、それからずっと後年寄りになるまで、強く粘るほどいっぱいになります。だから捨てるのが難しいのです。

 生き物は、このように「俺、俺のもの」の意味がいっぱいです。これ以上自分を持つよう教える必要がないほど、私たちは強く受け入れます。彼らは、自分と捉えるよう、自分のものと捉えるよう、自分が善くなるために善いことをするよう、そして善いことをすれば、後で極楽に生まれ、あるいは涅槃へ行くのでも、釘の頭を繰り返し打つように、そのような教え方をします。こういう教えは、ブッダが生まれる前から、人間が知恵を持ち始めた時からありました。自分がある教えはブッダ以前からあり、ブッダが生まれるまで教えられていました。

ブッダがブッダになると、本当にはそれは自分ではないと感じました。しかし人々が自分に強く囚われているので、彼らにそのような自分はないと教えれば、愚かな人と喧嘩をすることになるので、それはできないと思い、いつか善に厭きるまで、自分の善に厭きるまで、自分が善くなるために善い行いをし、自らの拠り所になる「自分、自分のもの」にしなさいと、自分があるように教えました。

自分の善に厭きたら、「本当には自分ではない」という話を教えます。だから無我の話、自分がない話は後になります。私たちは自分がある教義を十分信じた後、それから、仏教の自分がない話を学びます。

 長い歴史はこのようです。特にさまざまな宗教が生まれたインドについて言えば、インドの人々は自分がある話を教えたので、人は強く自分と捉え、その結果、変えることができないものと信じました。まるで年号を変えるようにブッダの説に変えるにはいろんな支障があるので、ブッダは、自分がある話を教えて、その後に自分がない話を教える、知識と能力がありました。確実不変で、不死身とか何とか言われる類のものがあるのも認めましたが、それを自分と見なしません。それはそれだけのもの、そういう自然のものとしました。

 他の人たち、あるいは大部分、あるいは大分以上の大部分は、変えようとしないで、まだ自分がありました。だから私たちがまとめてヒンドゥーと呼ぶ、バラモンやヴェーダの人たちは止めるのを認めず、自分という言葉を変えようとしないので、彼らにはまだ自分あり、善くなっていく自分があります。自然に感じる自分ではありません。

 彼らも同じように、自然に「俺、俺のもの」と感じるものは本物ではなく、無明であり、煩悩なので捨てなければならず、その種の自分を捨てた時、本当の自分、永遠の自分に出合う、と教えます。だから彼らには永遠の自分があります。そして永遠の自分になって終わります。あっちのヒンドゥー、バラモン、ヴェーダを一まとめに、バラモン教と呼ぶことにします。

 仏教では、自分が無くなって自分が無くなったのが見えたら、心に自分がなく、何も捉えていないのが見えたら、その空であることを終りとします。だから涅槃とは究極の何もないこと、自分がないことです。早く言えば、彼らは永遠の自分があることで終わり、私たちは永遠に何もないことで終わります。あるのは自然に変化して行くものだけです。

 変化するものは変化し、変化しないものは、変わらずに存在します。それでも私たちは、自分と呼びません。だから私たちにも同じように、無為である、涅槃である、永遠に変わらない自然はありますが、自分はありません。

 時には、「自分と呼ぶべきではない」としか言わないこともあります。本当に涅槃があり、本当に苦が終わり、本当に煩悩が終わっても、それはないのではなく、あります。ありますが「自分」とは呼びません。涅槃である自分と言いません。あるいは、後で手にする誰かの自分と言いません。これが大きな教えである自我と無我の話です。仏教が他の宗教とどう違うかを勉強したければ、非常に重要な教えです。

 これを良く理解しなければ、混同し、錯綜し、あるいはぼやけて明解に理解できないので、間違って話すこともあり、何もかも複雑に混さってしまいます。

 次に、みなさんは何をもって命とするでしょうか。母親の胎内で始まったもの。これも命です。私たちは自分と理解し、自分のように行動し、自分のように執着します。しかし最後の真実は、「おや、自分ではないと」正反対のことを知ります。涅槃になっても、その涅槃を自分にしたくありません。

だから、「仏教は理解し難い」という言葉があります。ブッダも、この話は理解が難しいと感じました。ブッダが大悟したばかりの頃、これを理解するのは難しい、生き物に教えても理解するのは難しいと感じたほどです。だから「教えない。この話は教えない。この大悟した話は、教えないことにした。これは難しすぎて、理解できない」と心が挫けました。

 その後、理解できる人がいるかもしれないという考えが生じて、教える気持ちになりました。そして教えられるだけ教えました。だから現在明らかになっているだけ教えました。自分がない話は理解が難しいので、ここはバラモン教の方が有利です。なぜなら動物の本能的感覚で自分があるからです。成長したら自分の話を主張し、その自分は善くないので、もっと善い自分に変えます。もっと善い自分に変えていくのは簡単です。自分がある普通の生き物の感覚と一致するからです。

だから彼らには、永遠の自分があります。カーマニット物語(デンマーク人が書いた物語)の作者は、この教えをこの話に借用して使いました。カーマニットは、最後には永遠の自分に到達することができました。これは仏教の教えではありません。だからカーマニット物語は仏教の教えから見て正しいと信じて主張する人がいると、非常に厄介で、非常に往生するように見えます。

その話のような「永遠の自分」があるのは、仏教の教えではないからです。しかし中には、この物語で仏教を説明できると信じ、あるいは理解している人がいますが、あり得ません。つまり仏教の教えではなく、あっちの、ヒンドゥー教あるいはバラモン教です。

 自分を否定するところに理解の難しさがあります。欧米人たちが仏教を学びに来て、この部分になると、どうにも理解できません。欧米人は、negative と言って、仏教は否定する考え方、否定する教義で何もないと片づけます。反対はヒンドゥー教やバラモン教で、positive、つまり有って有って、永遠にあります。これは人の感覚と一致します。だから彼らはそういうのを好み、目いっぱい受け入れます。彼らは、仏教はnegative で否定するだけと決めてしまいます。

教えの教えの一部には否定する形はありますが、彼らに従って negative と理解しないでください。仏教は negative ではありません。外国人とレベルの高い哲学の会話をするなら、仏教はnegativeではないと彼らに教えなければなりません。つまり、同じものはありますが、私たちは自分と呼ばないだけです。

 涅槃もあります。望ましいものもありますが、私たちは自分と呼びません。何もない訳ではありません。何もない negative で、間違った見解ではありません。彼らは nihilism と呼びます。彼らは、すごく悪質で危険な教義だと感じます。Nihilism は、インド人がナッディカディッティ(虚無論)と呼ぶ教義のように、何もかも無いと否定します。仏教はそれではありません。永遠不変の滅苦ができるものがあります。だから negative ではありません。

そして彼らのように、自分のものでなければならないタイプの positive でもありません。negative positive の間にいると言うこともできます。つまり愚かなほどあるのではなく、何もないのでもなく、「これが縁(要因)としてあればこれが生じる。これが縁(要因)としてある時、これが生じる」というタイプの「ある」です。

つまり以前にお話したことがある縁起です。そしてこれからも絶えず、何が何でも理解するまで勉強しなければなりません。「ある」と言うのも間違いで、「ない」と言うのも間違いです。仏教の教えでは、「これがあるからこれがある」と言えるだけです。これがあるからこれがあり、それがあるからそれがあります。彼らはこれを、マッジマーパティパダー、中道と呼びます。つまり真ん中にいます。

 自分はあるのかないのかと問うなら、私は、「あるけれど自分と呼ぶべきではない」と答えます。原因と縁によって変化して行くものでしかありません。彼らが自分と信じているもの、それは私もあると認めます。しかし彼らがそれを「自分」と信じるとき、私は「自分ではない」と信じます。

 私は、これがある時これがある、これが縁の時はこれがあるという形の、自然による変化だけだと見なします。これがある時これがある。これが縁としてある時これがある。ずっとこのようになっています。これを縁起と言います。

世界中の何にでも使うことができます。原因であるものがあるから、それがあります。それが原因だからそれがあり、どこまでも際限なく続いています。勉強してみてください。私たちの体全部が、こういう状態になっています。これがあるからこれがあります。髪も、体毛も、爪も、歯も、皮膚、骨、肉、筋、何であろうと、これがあるから、これがあります。

 心や考えも同じです。心に感覚を生じさせる原因と縁があるから考えます。あれこれ考えます。それには本当の自分(実体)はありません。「これがあるからこれがある」という変化をさせる流れがあるだけです。もし私が、「自分はあるのか。自分とは何か。命はあるのか。命とは何か」と訊かれれば、私は極めて的確な、最高に良い答を探します。本当の命はありません。この段階に至っては、あるのはこの法則による変化の流れだけです。

そして、今生きている人のようなまだ死なない命と呼ぶものにも、永遠に変わらない実体はありません。簡単に死にます。原因と縁が変化し、何かが欠ければ死にます。命はこのように壊れやすく、簡単に死にます。これが深い意味の、あるいは本当の意味の命です。「命は自分」にはなれません。それ自身のいろんな縁に依存しているからです。

私たちは、「命」と呼ぶ当てにならないもの任せです。しかしそのように感じません。考えて見てください。そうすれば認めます。誰もそう感じないのは、いつでも「自分、自分のもの」という感覚があるからです。さきほどメモするように言った、アハンカーラ、ママンカーラ、マーナヌサヤ(私、私のもの、傲慢)と言うこの感覚がいつもあるので、「おっと自分はない。自分のものはない。あり得ない」と自覚する人は誰もいません。自分、自分のものという感覚が常にあるので、何かが生じて触れて来ると、自分があるように考え、自分があるように変化します。

 何かが目に触れると、「私は見た」と感じ、そして私は愛す、私は愛さない、あるいは私はそう考える、私はこう考える、になります。何かが耳に触れるとそう考え、匂いが鼻に触れるとそう考えます。舌も同じで、皮膚も同じで、心も同じです。だから私たちは常に自分、自分のものという感覚で生きています。

 これを、「私たちはいつでも自分、自分のものという感覚で生きている。夜は夢を見、昼は精いっぱい自分、自分のものという感覚で生きている。だから非常に強く張り付いている」と、科学の勉強のように明らかに見ます。

 知識や智慧が関わらない普通の感覚では、自分があります。その人の感覚での自分があります。しかし智者の知性なら、「おっと! 自分はない。自然の変化の流れだけだ」と見ることができます。

 次に、誰のために生きるのか、命とは何か、それはどこかを問う前に、命はどこにあるのか、自分はどこにあるのかという問題があるので、質問者は、普通の意味の言葉で質問するかもしれません。私たちが七転八倒していると感じる普通の命とは、死んでいないことです。「命とはまだ死んでいないこと」というのは、誰のために死なないのでしょうか。それ自身の感覚では、自分のためです。

自然に感じる真実では、自分のためでなければなりません。自分、自分のものという感覚があるので、何でも自分のため、何でも自分のものでなければなりません。すべて自分のためです。みなさんがそう感じていれば、「みなさんは普通の人」と言います。それほど下劣で罪な心の人ではありませんが、しかし良く注意してください。普通の人の感覚は、穏やかな幸福を生じさせるでしょうか。それとも苦を生じさせるでしょうか。

 みなさんは自分、自分のものと感じる権利があります。そして自然に感じることができます。罪人、悪人とは見なしません。自然に感じるからです。しかし、そのような感覚があれば、結果はどうかという問題があります。結果は幸福でしょうか、苦でしょうか。ブッダは、教祖は、「この考えだ。この自分、自分のものという考えがすべての苦の原因だ。それが愛、怒り、嫌悪、恐怖、心配、いろんな苦を生じさせる。自分という考えが根源だ」と悟り、そう見えました。

だから、この「自分、自分のもの」は当てにならない。無明であり、ないのと変わらない知識だと、改めて見直してしまいます。「自分、自分のもの」という感覚は誤った知識です。そして強く執着するので、知識があってもないのと同じで、間違って知っていれば、心を重くする問題を生じさせます。

「自分、自分のもの」という感覚がなければ、心が自由になります。心が監獄に囚われるように囚われているのは、「自分、自分のもの」という感覚に囚われているからです。だから、輪廻に繋がれていると言います。「自分、自分のもの」という感覚がなければ解脱と言います。苦の塊から解脱しました。

 こういう真実があります。この命は誰のためかという話をしますが、誰のためと問うべきではないので、むしろ、この命は解脱のため、最終的に解脱するためと答えなければなりません。こう答えても、訳が分からなければ、答える必要はありません。もっと卑近にするべきです。

 世間一般の人、普通の人が誰のために生きるのかは、自分のためでなければなりません。つまり命のためです。私たちは生じた命があると知らなければなりません。そして自分と感じるので、それに対して道を求めると言われる、正しい対処をしなければなりません。タンマがその道です。

 仏教では、「タンマが歩む道」と言います。そして道という名前のタンマもあります。つまり聖道、八正道、八項目の正しさを道と呼びます。道というのはそのことです。自分が苦にならないために、命をその道に沿って歩かせます。つまりこのように歩きます。なぜ歩かなければならないのでしょうか。歩かなければ苦の中に沈んでいるからです。どう歩くかは、道と呼ばれる正しさで歩きます。

せっかく仏教教団員なんですから、この八語はすらすら言えるようにしてください。誰かに聞かれて、この前の話のように答えられなければ、あるいは、欧米人に聞かれて答えられなければ恥です。その八語は、すらすら言えなければなりません。

 正しい見解(正見)、正しい考え(正志)、正しい言葉(正語)、正しい仕業(正命)、正しい暮らし(正業)、正しい努力(正精進)、正しいサティ(正念)、正しいサマーディ(正定)です。見解とは、考えや感覚、意見です。知性による考えを見解と言い、正しくなければなりません。

 そして考えも正しくなければなりません。この項目は大丈夫です。見解が正しければ、自然に考えも正しくなり、そして言葉も自然に正しくなり、行動も正しくなり、暮らしも正しくなり、努力も正しくなり、正しいサティがあり、サマーディも自然に正しくなります。

だから初めの項目、見解が重要です。これを智慧と呼びます。「正しい見解」は、「正しく見る智慧」でもいいです。「正しい見解」は「正しい考え」でもいいですが、智慧です。だから智慧、あるいは正しい見解は、他の全部を正しく引っ張って行きます。

 だからブッダは、「智慧で危機を脱す。智慧で正しくなる。智慧で解脱する」と言っています。その結果、仏教は智慧の宗教と言われます。他の宗教は信仰を基礎とし、重要な力としているかもしれませんが、仏教は智慧を重要な教えにしています。他の宗教には、心の管理を重要な教えとしているものあります。彼らはヴィリヤ(努力。精進)と呼んでいます。私たちは智慧を教えにします。

あるいは私たちのブッダが、重要な教えである智慧のある人の部類だったので、重要な教えとして智慧を教えました。だからブッダは、「純潔になるのは智慧によってである。智慧のある生き方は素晴らしい生き方である。すべての苦から脱すのは、正しい見解、つまりこれらの智慧を学習するからである」と言っています。智慧で苦を脱すことができると言っているのは、非常にたくさんあります。だから私たちは智慧を道にします。

 智慧は明かりに譬えられます。明かりでなければ、何が智慧に匹敵するでしょうか。明かりは方向であり、道を照らす灯であり、道そのものであり、すべてです。

 誰のために生きるかを問題にすれば、さまざまなレベルの答えがあります。子どもに話す答もあり、十分勉強した智慧のある大人のレベルなら、別の答があり、最高度なら、「自分はありません。命も自分もありません。命とは、自分を牢に閉じ込めている気持ちです。この考えから抜け出せば牢から、自分から解放されます」と、それぞれ違う答になります。

子どもに答えるのか、大人に答えるのか、智者に答えるのか、最高度の智者に答えるのか、区別しなければなりません。自分があるように答えるなら、「自分のため、道を正しく歩むためです。目的地に到達すれば、自分は自然になくなります」と答えます。

 第一義諦でなく道徳で答えれば自分があるので、善い自分のためです。この言葉も、役に立つので憶えてください。一般の人に受け入れられる道徳で話せば、自分があります。彼らが言っている自分、死んで生まれる自分、何の自分であろうと、道徳で話せば自分があります。これが道徳レベルの話です。第一義諦のレベルで話せば、同じ質問でも違う答になります。

 第一義諦とは、最高に高度で深遠な意味があるタンマという意味です。そのレベルでは自分はありません。道徳レベルは、世界の中に自分があります。私がこのように質問されたら、初めに普通の人間同朋のことを考えなければならないので、先に道徳レベルで答えます。道徳の話が終わったら、それから第一義諦で答えます。

一般レベルの、自分がある道徳レベルの答えは、「生きるのは自分のため、そして自分の友達のため」でなければなりません。道徳レベルでは、友達のためでなければならないと憶えておいてください。自分だけのためなら、バカみたいな狭い道徳です。利益は自分と、そして自分の友達のためでなければなりません。ブッダが道徳を教える時は、「自分と他人のために」と言いました。自分のためばかりでなく、両方のためでなければなりません。

 だからこの命は、自分と友達、「共に生れ、老い、病んで死ぬ友」と呼ばれるすべての同朋のためです。意味的に十分な本当の仏教教団員なら、動物も友達になります。自分の友だちという言葉は、人間同士だけでなく、動物も含まれ、それに植物も含めたいと思います。植物にも命があり、感じ、考えるからです。それが私たちの友達です。

だから誰のために生きるのかは、自分と、自分の友達のためです。しかし人々は、よく他人という言葉を使います。他人という言葉は聞きにくいです。他人はすぐに仇敵と自分になってしまいます。自分以外というのは、自分と正反対です。

このように言う時は、良く意味を解釈しなければなりません。自分と他人のためというのには、あまり教えにできない意味があります。つまり十分明瞭ではありません。自分のため、そして自分の友達のための方がいいです。そしてこの自分の友達はすべてです。人間も動物も、生きているものすべてです。

 次に道徳の教えには、私たちは世界で一人では生きられないという道徳の基本があります。自分があり、そして世界で一人では生きられないのは、道徳の基本です。だから自分のためだけにしないで、共に生きる友達のためにしなければなりません。だからお互いに善い行いをするようにしなければなりません。自分の求める利益があったら、他の人もその利益を得られるように、教え、アドバイスし、どんな援助でもします。

どうしてそうするのかを、自分があるように言えば、私たちは世界で一人では生きられないからです。これは道徳的に正しい言葉です。しかし第一義諦で見ると、利己的すぎるように、自分を基準にしすぎるように見えます。聞き苦しいです。世界に一人で生きられないからするのは、最高レベルの人にはちょっと違う、変な話に聞こえます。しかし普通の人のレベルの道徳の話ならば、良い話です。

私たちは世界に一人では生きられないので、みんなが秩序をもって暮らせるようにしなければなりません。だから自分が世界で幸福に暮らすために、自分の友達全員が世界で幸福に暮らすために、道、つまりタンマの道にそって旅をしなければなりません。このように広い心なら仏教教団員です。身勝手なだけなら仏教教団員ではありません。

 次に別の角度で、なぜそうしなければならないのかと訊かれれば、人生を最高に価値あるものにするため、と答えることができます。みなさんは、つまりこの人生がどれくらい善くなるのかまだ分からないけれど、どれくらい善くなれる、どれくらい素晴らしくなれるという限度があるなら、限度いっぱいに善く、素晴らしくなるようにしなければならないと、更に詳しく見なければなりません。

 人々が道徳の教えで話す時、彼らは、この人生は最高に価値があると、ダイヤモンドより何より価値があると言います。しかし全員がそこに、その価値に到達することはできませんが、私たちは、人生にこれだけ価値があるという教えを捉えたら、人生にそれだけの価値を持たせるようにします。世俗的に生きるなら、金持ちで名誉があり、友達や親戚がいて、世俗で非常に幸福なら、この世俗的な生き方は最高に価値があると言います。

それより遠い話をすれば、この人生で涅槃に到達することができます。涅槃に到達するために、涅槃に到達するよう手助けすることもできます。第一義諦のレベルでは、人生が最高になるように支援するので、人生は人生のためという言葉が生まれます。この人生が俺のためではなく人生のためなら、誰も欲しがりません。だから、世俗的なレベルの人生は俺のため、俺の何かのためです。

しかし俺がない最高レベルでは、人生のため、それ自体のためと見えるくらい、心が明るく広くなければなりません。色々あります。最高の話をすれば、人生はそれ自体のためでなければなりません。「俺、俺のもの」のためなら、まだ最高ではありません。自分のために生きてもいいです。間違いではありません。何も間違いではなく、罪でも悪でもありません。

しかし最高ではありません。執着しているので、かならず、掴んで提げて担いで背負っているように重いです。だから生きること自体が重いものです。タンマの教えではそう言います。五蘊、体、この名形は、執着すると重くなります。私たちが自分のものと強く捉えれば、執着すれば重くなり、現在遭遇しているような問題があります。生きることの問題、教育を受けることの問題、お金があり、能力があり、何があっても、いつでも重荷なだけです。

彼らは、生きることに関して重くないようにする特別な知識を関わらせて、生き方を整理し、そうなっても重荷にしないような生き方をします。つまり「自分、自分のもの」と執着しません。それでも、「なら何のためにするのだ」という問題が生じます。それは人生のためです。

だから生きるためと捉える人は、自分のため、あるいは自分の友達のためと言う人より高い心の持ち主です。これが、誰のために生きるのか、そしてなぜそうしなければならないのか、そしてどんな方法で、という、みなさんの質問です。

 一時間になったので、一度まとめます。庶民に関して言えば、俺のための人生で、最高のタンマで言うなら、人生のための人生がいいです。自然のため、神様と呼ぶ自然のためです。自分ではないことにしましょう。ではどうしたら、自分のためにも、高いレベルの人生自体のためにも、正しくすることができるかと言えば、それはタンマです。

いろんな題目でお話しました。前々回はタンマの実践でした。タンマの実践とは、人間の義務を正しく行なうことです。人間という言葉に意味を持たせるだけで十分です。ここで人間に対して義務を正しく行なえば、すべてタンマの実践になります。

 簡単明瞭に言えば、仕事をすることがタンマの実践です。ほとんどの人は、何冊か本を読んだことがあり、きっとこの言葉を聞いたことがあると思います。そして仕事はタンマの実践と捉えるよう、何年も話しています。どんな仕事もタンマの実践です。食べ物を探すことまで低くしても、仕事と呼びます。仕事はタンマの実践でなければなりません。

沐浴もしなければならないし、大小便もしなければならないし、体を維持するために何でもしなければなりません。それも仕事です。それも生きていくためのタンマの実践です。みなさんは勉強をします。勉強も仕事で、仕事はタンマの実践です。どうぞ今している勉強をタンマの実践にしてください。人間の正しい義務だからです。

勉強が終わったら、自分と人間同朋、国でも何でも、それらの利益になる仕事に就かなければなりません。その仕事はタンマの実践です。そして次に、後々子どもができ孫ができ、ひ孫ができた時のために言います。彼らが安全に生きられるよう援けるのは、仕事であり、そしてタンマの実践です。

 だから短くまとめると、仕事はタンマの実践であり、タンマの実践とは人間の義務を正しく行なうことです。何に対して正しくかは、人間であることに対しての正しさです。みなさんが仕事をすると、タンマの実践になります。それを歩くと言います。まだ知らないかもしれません。実践という言葉は、歩くという意味だということを知らないかもしれないと、みなさんを軽蔑しているのではありません。

パーリ語では歩くという意味です。パティバッティという言葉をタイ語では行動するという意味に使いますが、本当は歩くという意味です。それ自身の目的地へ向かって歩きます。タンマの実践をすることが歩くことです。だから人間の義務の実践がタンマの実践で、タンマの実践とはタンマの道に沿って歩くことです。

 だから人間として正しい仕事は、当然それ自体旅することです。そしてそれはどこにあるのかと言えば、私たちの身体、言葉、話すこと、考える心、考えや見解にあります。人には、知っておかなければならない、そして正しくしなければならない重要なことがあります。外皮である体のレベル、言葉のレベルも正しくなければなりません。そして心も、心の問題も正しく維持し、知性や考えも正しくなければなりません。

それは十分な学習に依存します。この正しい心は、一般的なサマーディを維持するので、心を正しくすれば、心は鎮まって(サマーディ)います。しかし十分な知性と見解があれば、たとえば努めて聞き、努めて考え、それをヴィパッサナーで見るなど、かならず努めて勉強するので、正しい見解、サンマーディティになります。

 私たちの体(行動)に正しさがあり、話すことに正しさがあり、心に正しさがあり、知性、見解、考えに正しさがあります。他に正しさがある必要はありません。そしてあり得ません。私たちの体に正しさがあります。彼らはそれを神聖なものにして、体を神様の住む場所にすると言います。このような言い方は、神様のいる宗教で言われます。

私たちにも神様はいますが、神様はタンマです。私たちはこの体を、タンマの神様の住まいになるように調整します。この神様は本堂にいると信じるので、私たちはこの体を本堂に、神様の住む場所にします。私たちの神様はタンマで、タンマは自然の法則で、それが神様です。四つの意味のタンマを良く理解すれば、ある意味の神様がいます。

 私たちがその法則に合った正しい行動をしていれば、私たちの体の中に神様がいます。自分の体が神様の住まいで、そしてそれが旅をすることです。仕事はタンマの実践という言葉に、たくさん興味を持ってください。そうすれば確実に旅する人になります。そして最高に良く歩き、挫折しません。まだ自分があれば自分のためで、自分がなければそれ自体のため、つまり生きることのため、自然のためです。

このように二つのレベルで生きることができます。どのようにかは、タンマの実践をすることです。自分があれば自分のために、自分がなければタンマのためです。タンマのためにタンマの実践をします。なぜなら、実践しているものがすでにタンマであり、この体も命も心も、自然あるいは一つの意味のタンマなので、タンマの実践をする時に自分がなければタンマのためであり、タンマのためにタンマの実践をするからです。

 自分があれば、自分のためにタンマの実践をします。常に自分があれば、それだけ重いものを担いでいるのと同じです。気持ちを挫けさせるために言っているのではありません。そういうことだと教えているだけです。自分という執着があれば、それだけ重いものを担いでいるのと同じです。

 たまに自分のことを考えないで、自分を忘れていることがありませんか。その時は最高に爽快です。自分を忘れるという言葉には二つの意味があります。愚かな人の「自分を忘れる」ことは、愚かさに支配されている時に自分を忘れます。そういう「自分を忘れる」ことには、害があります。そのタイプの自分を忘れることがないようにしてください。

タンマの類の「自分を忘れる」ことは、「自分、自分のもの」という考えがない時です。その時はいつでもどこでも、非常に爽快です。考えてみてください。涙を流している時は自分があります。著しく希望を失った自分がいます。だから心に自分がない時、自分という感覚がない時、涅槃と一緒にいます。動物たちはあまり考えることができないので、一枚上だと言わなければなりません。

だから動物には、「自分」が少ししかありません。人より分量が少なく、時間的にも少しです。考え方を知らないので、くよくよ心配し、夜になってまであれこれ考えません。動物は考え方を知りません。人は、パーリ語で「夜は煙、昼は火」という言葉があるように、考えます。それが人です。それが人の話です。夜は考えの煙に蒸されて悶々と考え、夜が明けると火になります。何をしても火です。

動物はしたことがないので生きる重荷はありません。人は人になってしまったので、動物に戻ることはできないので、ひたすら前へ進むしかありません。心を高く賢くすることを知り、四六時中自分がないように、人らしく解決しなければなりません。この話は、私がここで話すのは、他の人たちのと違います。他のお寺、他のアーチャンは、私たちには常に自分がある、常に煩悩がある、いつでも苦がある、いつでも無明があると話すかもしれません。彼らはそう教えています。

私は受け入れません。信じません。私は、人は六処(目・耳・鼻・舌・体・心)に触れるものがある時、時々煩悩があり、時々信じることがあり、時々苦があり、時々無明があると信じます。みなさんがどちらを信じるか、自分で考えてください。私は、四六時中煩悩があったら、全員狂って死ぬと見ています。全員狂って死滅し、ここに来て座っていません。試しに絶えず煩悩があってみてください。少なくても神経症になって訳が分からなくなり、あるいは狂って死にます。

 だから私たちには、心に煩悩がない時間がたくさん、十分たくさんあります。心に煩悩がない時間を維持して、そして何をするにも、「私は何をするにも煩悩でしない」と言えるまで増やしてください。勤勉に勉強するにも、煩悩で勤勉にしないで、知性で勤勉にしてください。知性ですれば大丈夫です。煩悩でなければ苦はありません。煩悩の力でしないで、知性の力でしてください。

 動物を飼うにも、ただ飼わないで勉強し、観察すれば、「動物は煩悩が少ない。人より狭く短い」と教えてくれます。この犬はね、俺、俺のものが少ししかありません。少しの時間なので苦も少ないです。見てください。

 コレには明日はありません。コレは明日のことを考えません。私たちは明日のこと、明後日のこと、来月、来年のことも考えます。この犬は明日のことも考えません。明日何を食べるか、考えません。だから苦は少しで、人より少ないです。だから威張らないでください。コレは自分が少ないです。増やせません。

動物には体と心と脳に限界があり、それだけしかありません。お腹が空いたら食べ、満腹すれば満足し、また空いたら食べます。食べないでお腹が空いても、人のようにイライラしません。ずっと観察したことがあります。飼っている動物がお腹を空かせている時、食べさせませんでした。食べさせないので食べられません。

食べさせてもらえなくて腹が空いていても、人のようにイライラしません。人はお腹が空くと、非常に危険です。動物の方がずっと良いです。だからこのように、科学の勉強のように事実から学びます。哲学の勉強ではないので、考えません。

 脳が進化して活発になると、たくさん考えられるようになり、先のことまで考えるようになりました。そして非常にたくさんの執着する機会になり、煩悩も苦も多くなりました。だから人間の苦は、動物の苦よりも多いです。私たちは考えるのが得意だからです。

 要するに、自分があれば自分のため、自分が善くなる方法でするということです。もしその考えが終りまで行って自分がなければ、タンマのため、自然のため、タンマのもののためです。タンマのためにするのは、最高に美しく、どこにも醜さはありません。タンマのためにタンマの品行をします。一方、俺のためにタンマの行ないをするのは、いろいろ抱え込んでいます。少しも罪ではなくても、必ず苦があります。そして乱雑でみっともないことがあります。タンマのためにタンマを実践するようではありません。

 みなさんが聞いたことのある他のことにも、同じ原則があります。芸術のための芸術は非常に見事で、芸術家のための芸術は、バカです。彼らのコンクールを見てください。どんな種類も、彼らが純粋な心で創作するのは芸術のための芸術です。その種の芸術は深くて上品で、非常に見事です。しかし俺のため、売るため、騙してお金にするための芸術は、その種の芸術は非常に欺瞞し、まったく美がありません。芸術のための芸術ではありません。

 タンマの実践をする生き方を、純粋に生きるためにすれば見事です。しかし俺のために生きれば、ごちゃごちゃと混乱します。

 まとめると、誰のために生きるのかという質問の答は、自分があれば自分のためで、自分がなければタンマのためです。この話の良い答になる一組の絵があります。みなさんは二階の棚の鬼の絵の後ろにある、牛を捕まえている絵(十牛図)に気づかなかったら、まだ見ていなかったら行って見てください。全部で十の絵が、話になっています。

1.子どもがなぜ生まれたのか分からずにまごまごしています。。

2.子どもが地面に牛の足跡を見つけ、牛の足跡が見え始めます。

3.牛の足跡を追っていくと、終に牛が見えます。

4.牛を捕まえようと牛と格闘します。

5.牛を捕まえます。

6.牛の背に乗って笛を吹きます。

 これには良い譬えがあります。それが、自分があるタイプの人間の絶頂です。牛の背に乗るのは、一つの意味があり、利益もあります。牛の背に乗って、おまけに笛を吹いています。つまり妙なる音色があります。最高ですがそれだけです。利益と美しさ。美しい音色。世界はそれで終わりです。

 七番目の絵には牛はいません。人が上を向いて目を閉じて座っているだけです。首を長くして空を仰いで、もっと遠い、もっと高い、もっと善いものを眺めているという意味です。牛にはもう興味がありません。牛に跨って笛を吹きたくありません。あるいは何もしたくありません。最後には遠くを眺めるだけです。

次の絵は空っぽです。人も牛も笛も、すべて消えてしまいました。

その次の絵は、それまでの絵の中に、新しい絵が現れます。そして最後の絵は、物を配って「照らして」歩いています。最後の絵は、庶民に物を配って「照らし」ます。それからの人生が、そういう(世界を照らす)ことのためあれば最高に善いです。この人生は、順に体験するためであり、最後に「自分」のことが終わり、それからは他人のため、物を配って「照らす」ためです。これが最後の絵です。

後で見るために写真を撮るか、あるいはスケッチしても役に立ちます。この絵の由来によれば、千年も前の中国人の考えです。

彼らはそのように考え、そのように見ました。そしてそれは、たまたま仏教のタンマの教えと一致します。自分を最高に育成するために生まれ、自分が無くなったら他人のためです。誰のために生まれたのか、この人生は誰のためかという問いの答は、自分と他人のためです。俺が終わり、自分と他人が終わったら、すべての生き物のためです。「俺、俺のもの」ではなく、死ぬことのない命、永遠のタンマの命のためです。

 永遠の命には、「俺」の意味はありません。自分を辞め、自分を粉々にし、別の生き方をします。私たちは同じように命と呼びますが、永遠の命、不死で不死身です。そういうことのためです。到達できれば、人生の学習課程が終わったと言います。命の課程が終わりました。まだ到達していない人は、途中なので、「俺、俺のもの」のためです。

 時間もずいぶん超過してしまいました。今日の話はこれで終わらせていただきます。


ホームページへ                                           法話目次へ