涼しい命(穏やかな生活)

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 タンマに興味のある善人のみなさん。マーカ期の土曜法話、第八回目の今日は、いつものとおり「タンマは人生を発展させるもの」という大きな題ですが、今日は「涼しい命(穏やかな生活という意味もある)」という小さな題でお話します。

 連続してお話してきた「人生の発展」の話は、段階的に熟慮して理解し、心に刻んでいなければ、混乱する人がいるかもしれません。だからもう一度簡単に規定できる話、つまり「涼しい命」についてお話します。命とはどんなものか、命はどんな縁や環境によるのか、命と命を涵養するものの関係はどうかについて、初歩の段階で知るべきことをたくさん話してきました。本能をボーディ(悟り)の方向へ発展させることで発展できます。煩悩などの方向へ発展させてはいけません。すべては最高に重要なもの、涼しい命というものを知るためです。

  

 人間の言葉は曖昧だと、いつでも理解してください。昔も今も、タイ語もパーリ語も曖昧なので、今何の話をしているのか、どのレベルかを知らなければなりません。そうすれば曖昧でないので、私は今、どの面のどの角度で話しているか、言わなければなりません。

 だから涼しい(註:原語には、涼しい、冷たい、寒い、冷める、冷静、穏やかなどの意味がある)。という言葉は、一般の人のタイ語の涼しさが一つと、タンマ語であるパーリ語のレベルがあります。タイ語では、風が吹いている木陰にいれば涼しいです。涼しさは望ましいことですが、完全に冷たくて少しも熱がなければ死ぬので、それも敵いません。多少の熱がなければ、冷たさは死です。だから涼しいという言葉は曖昧な言葉になり、時には涼しいという言葉が、望ましくない意味の時もあります。

 たとえば「この人は、何をするか分からないほど非常に心が冷たい」というのは、こういうのは堪りません。腹を立てないように我慢できるという意味の冷静なら良いです。言葉の曖昧さを見たら、私がどの意味で、どのような形で話しているかを良く知っておきます。パーリ語も同じで、いろんなレベルがあります。庶民のレベルの「涼しい」は、「ニップタ」と言い、最高に高ければ涅槃と言います。そしてパーリ語の「涼しい」という言葉は、いろんな意味に使うことができるので、これから見て行きます。

 要するに、道徳の「涼しさ」と、第一義諦の「涼しさ」は違います。道徳の涼しさはパーリ語でニッブティと言い、安心という意味があります。もう一度観察して見てください。僧が持戒の功徳を「シーレーン ニッブティ ヨンティ=ニップティになるのは戒ゆえ」と言う時のニッブティは、冷静という意味ですが、まだ涅槃ではありません。つまり庶民が欲しがる涼しさ、安心をニッブティと言います。

第一義諦のレベルなら、煩悩が絶滅した涼しさを意味しますが、そういう涼しさはニッブティと言わず、ニッバーナ(涅槃)と言います。涅槃は心の部分の涼しさ、心の深い部分の涼しさです。このように一般の道徳面の涼しさという意味と、最高レベルの第一義諦の意味があります。最高の涼しさは、心の面、精神の面の話で、一般の人は好きでなく、欲しがらないかも知れません。庶民は欲しがらないと言うくらい涼しいです。煩悩のある人は、涅槃と呼ばれる種類の涼しさを欲しがりません。

 これが曖昧さで、こんがらかります。何も加工するものがなく、清潔で、明るく、最高に静かで、人は淡泊すぎると言います。あるいは愛することを知らず、愛を知らず、憎まず、怒らず、嫌わず、恐れず、何かに驚かず、未練も気掛かりもなく、誰も妬まず、誰も侮蔑せず、他人をけなして自分を誉めず、嫉妬も妬みも知らないので、普通の人は淡泊すぎると言います。彼らは何か興奮させるもの、楽しくさせるものがあるのが好きだからです。

 

 初めに道徳の形の涼しさ、つまりニッブティについてお話します。ニッブティはパーリ語で、聞いておくべき言葉、憶えておくべき言葉、そして道徳面の言葉だと理解しておくべきです。つまりまだ世俗にいて、世俗の成り行きになります。私たちは時々、「心が涼しい(安心)」という言葉で話しているかもしれません。こういうのは涅槃を意味しません。

 パーリ語のアッタカター・ダンマパダ(発句経)に、この言葉を観察できる話があります。ゴータマ一族のゴータミーの女性が、『この男性が』、シッタッタ王子のことですが、『誰かの息子だったら、彼の母親はニップタ(穏やか)、彼の父親はニップト(穏やか)、誰か女性の夫だったら、その女性はニップタ(穏やか)』と叫んでいます。こういうのは涅槃ではありません。ニッブティの意味の涼しさ、穏やかさであって、ニッバーナでないことは明白です。

 庶民が一般に欲しがるのは、安心(心の涼しさ)です。善い息子がいれば、両親は安心で、善い妻がいれば夫は安心で、善い夫がいれば妻は安心で、善い友達がいれば友達は安心で、善い弟子がいれば安心で、善い使用人がいれば安心で、善い主人がいても安心で、良い家畜、良い犬猫鶏がいても安心です。「猫は一緒に財産を作り、犬は一緒に財産を作り、鶏は一緒に財産を加工する」というのを聞いたことがあります。何か知りませんが、意図は同じで、良い犬猫鶏がいれば、主人は安心です。本当はとても興味深いです。そういうのがいれば安心です。普通の人が感じることができ、そして欲しがる普通の意味の安心を、道徳の涼しさと言います。まだ涅槃ではありません。

 つぎは涅槃(ニッバーナ)という言葉です。涅槃という言葉には、低いものから最高に高いものまで、長い歴史があります。つまり人間が「涼しい」という言葉を知っているのは、凡人の最低のレベルの涼しさを言い、その後少し高い智慧のある人が現れ、「これだけでは涼しくない。私はこれ以上のものにしよう」と考え、そして最高の、本当の涅槃に到達するまで高くしました。だからパーリ語の涅槃という言葉は、道徳にも達しない最低レベル、ただの自然の涼しさから、それから道徳の涼しさ、つまり高くなった美徳も、どれも涼しさ、つまりニッバーナと言います。

簡単に分かるので、先に知った人間が、望ましい教えと見なしました。涼しさについて教える先生がいれば興味を持ち、そして段階的に涼しくなるために実践しました。まだ非常に愚かで、野蛮人、森の人だった時代には低いレベルの涼しさを知っていました。まだ心に関わらない物質の時代から知っていました。水などは、あるべきと感じる物の筆頭です。だからこの涅槃という言葉は、物質面から肉体面、それから心の面、精神面まで順に高く使われてきました。どうぞ涅槃という言葉について理解してください。

 物質面の涅槃は、たとえば真っ赤に燃えている炭が消えて黒くなるようなのも涅槃と言います。つまり炭が涅槃しました。燃えていた炭が涅槃します。それから炊きたてのご飯や、作ったばかりのお粥は熱くて食べられないので、涅槃になるまで待たなければなりません。このように台所や家の中で使われていた言葉です。熱い物が冷めること、熱い物を冷やすことを、涅槃にすると言いました。パーリ(ブッダの言葉)の中に金細工師の話があります。彼は金を熱したら水をかけて冷やします。そこで「それを涅槃にする」という言葉が使われています。涅槃という言葉は、これくらい普通の言葉で、冷ますことを、物質的な涅槃にすると言います。

 野生動物、獰猛で危険な動物にも使います。訓練されていない森の動物は非常に危険なので、懐くまで訓練します。簡単に見られる例は、野生の象はどんなに獰猛でも、捕まえて来て何カ月も訓練をしないで猫のように懐きます。野生の象、野生の水牛、野生の何でも懐くまで訓練しなければなりません。これも涅槃にすると言います。野生動物を冷まして涼しくます。これも一つの意味です。

 次に人の涅槃の話ですが、人の感覚は違うので、好きな涼しさにします。しかしパーリ(ブッダの言葉)で語られているのは三段階あります。最初は五欲に満足できれば、五欲のすべてに満足すれば涼しいと言い、涅槃と言いました。涅槃が五欲です。現代「欲情を涅槃にする」と聞くと滑稽で、耳障りです。もっと高い物を見つけたアーチャンが、「こんなのはたまらん。駄目だ。形色禅定を涅槃にする」と、形禅定を涼しさの終わり、涅槃にしました。その後もっと高いもの、つまり無色形禅定を発見したので、形禅定を止め、無形禅定にしました。ブッダ以前は、それが最高でした。

 ブッダが最後に弟子入りした先生は、非想非非想処を教えました。ウダカ・ラーマブッタか何かそう言う名前の先生がブッダに教え、「これが苦の終わり、つまり涅槃」と言いました。しかしブッダは認めませんでした。つまり受け入れられないのでその先生の門を出て、独自のものを探究し、執着しないことである、満足できる涼しさを発見しました。

 「自分、自分のもの」があると感じないこと、何も自分のものと執着しないことは、どんな煩悩も生じません。貪りが生じることもなく、恨みが生じることもなく、惑溺が生じることもありません。自分という執着がないので、どんな煩悩も生じることができません。これを終わりと見なし、終わりと見なすべき涅槃と満足し、そしてそのように教えました。そして今日までずっと教えられていますが、誰もそれ以上に高い涅槃を規定できません。それ以前は低いレベルしかなく、それからどんどん高くなり、涼しい命が涅槃になり、ブッダが発見して教えた、無明・欲望・自分という取が絶滅し、そしてどんな煩悩も生じない地点で終わりました。

 煩悩はすべて熱で、どんな煩悩も生じていなければ、熱がないので涼しさがあります。しかしそれは心の面、精神面です。熱が残っていなければその人は死んでいると見なす医者のような、物質面、物理面の涼しさではありません。このように違います。心の面、精神面の残っている熱がまったくなく、貪りと怒りと愚かさが絶滅すれば、人は死にません。

それに涼しい(冷静。穏やか)です。涼しくて死にません。涅槃は死ではありません。涅槃が死なら簡単です。殺虫剤を一瓶買って飲めば涅槃になります。涅槃が死を意味するなら、何も大変ではありません。だから涅槃は最高に正しい涼しさ、つまり心の涼しさと知ってください。心の面、精神面の熱がなければ涅槃と言います。あるいは第一義諦の最高レベルの涼しい暮らしです。

 もう一度短くまとめると、道徳面の涼しさならニッブティ、安心で、家の中にあるすべての涼しさで、怒りになりません。それだけです。それしかできません。まだ自分があり、何らかの妨害がありますが、危険な敵と見なすほどではありません。家庭内の低いものが欲しいので、安心だけで十分です。これも涼しい命(穏やかな生活)と言います。

涼しい命には、道徳と第一義諦の二種類あるということです。それぞれにいろんなレベルがあります。どれをどれだけ、どれくらいの期間目指すかで、いろんなレベルになります。種の残っていない涅槃、煩悩が残っていない涅槃。煩悩が残っていない涅槃は最も高いですが、まだレベルで分けられます。

 現代人が実践できる範囲の涼しい生活についてお話します。できれば善いです。まだ煩悩を絶滅させた阿羅漢に到達しなくても、それを管理することを知ってください。煩悩を現さないでください。煩悩が現れれば熱い(苦)と、理解しなければなりません。現れないように管理できれば熱くありません。熱くならなくていいです。もう一つは煩悩が絶滅します。それは問題がありません。しかし問題があればまだ煩悩があるので、それが現れないように管理しておかなければなりません。火と同じで、燃え上がらせなければ火事になりません。

 だから煩悩のある人は、ひたすら現れないように管理しなければなりません。目・耳・鼻・舌・体・心の餌があっても、理性で煩悩が現れないように良く管理すれば、涅槃と同じ味を味わえます。完璧な涅槃、最高の涅槃でなくても、満足できる、あるいは満足するべき涅槃です。煩悩が姿を現さないのは、内部に貪りや怒りや迷いの種があっても構いません。心がそれを現さないように出来れば、非常に涼しいです。

 だから知性と自覚でこれらを良く管理します。内面も外面も、つまり目・耳・鼻・舌・体・心と、形・声・臭・味・触・考えが火として現れなければ、涅槃の形の冷静な命と言います。住民の涼しさであるニッブティ以上です。

 涅槃の涼しさの原則のために言えば、

1) 何にも執着しないから、無常・苦・無我で見るから、触れて来たもの、あるいは内面にあるものをいつでも無常・苦・無我で見ます。たとえば五蘊や六処を、無常・苦・無我と見ます。それらを「俺、俺の」と執着しないで、「それはその様だ。それには実体がなく、空である」と見えるまで、いつでも人間の無常・苦・無我を見ます。そして最高に善いのは、「なるようになる」と見ることです。

 私は何回もこの話をしてきました。どうぞ復習して見てください。「なるようになる(真如)」という言葉について、何十回も話してきました。しかし誰も役に立てる人、有益に使う人はいません。完璧に正しく「なるようになる」と見れば、如来の一人になってしまいます。このように大変な思いをして座る必要はありません。

 どうぞ最高の「スンニャター(空)」「タターター(真如)」という言葉を憶えておいて、不変ではないと無常を見、不変でないから苦だと苦を見、そして誰も抵抗できないので無我と見ます。全部合わせると、「それには自分(実体)がないぞ。それは空だ、空だ」です。更にまとめると、「そういうこと。なるようにしかならない」です。スンニャターとタターターが見えれば何にも執着しません。何にも、「自分、自分の」と執着しません。これが「何物にも、自分、自分のものと執着しない」という第一項です。

2) 第二項は加工しません。この言葉は意味が分かり難いかもしれません。加工しない、変化させないというのは、説明し難く、理解し難いです。加工すれば熱い物があり、煩悩があります。加工と言うのは、内部で加工することです。外部での加工は物質の話で、何も問題はありません。内部で加工することが問題です。形が目から入り、声が耳から入り、匂いが鼻から入り、何でも心に到達すると加工します。

識を加工することもあり、触を加工することもあり、受を加工することもあり、欲望や煩悩を加工することもあります。これらの縁で「加工すること」があり、どんどん加工します。煩悩のレベルになると「俺、俺の」があり、そして確実にここで苦になります。自分があると重いからです。自分を背負って、自分を引っ提げて自分を維持し、身勝手になるので最高に重いです。このように「加工すること」がなければ、何も問題はありません。サンカーラ(行)、つまり加工することがあるので、何もかも問題になります。

良く加工すれば良さでバカになります。良さで混乱し、良さに酔い、良さに狂い、悪く加工すれば苦で、困難、痛い混乱になり、苦になります。非難される恐れがあるので、こういう話はあまりしたくありません。徳に加工すれば徳で混乱し、罪に加工すれば罪で混乱します。加工しないでください。徳にも罪にも、善にも悪にもしないでください。加工することを無くしてください。

 次にどうすれば加工しないで済むかですが、サティ、理性、サマーディ、智慧、タンマの四つが揃ってあり、何が来てもこの四つで対決できます。常自覚が一番大切です。サティの話をすれば、サティがあれば加工することが止まります。つまり加工しません。そして加工する工程も止まります。加工することがあれば、流れている工程がありますが、サティはこの流れを止めます。サティには、加工することを止め、加工する過程を止め、そしてこれから生じる加工する流れを止める利益があります。

 サティは一番大切なタンマです。サティという言葉に興味を持ってください。サティがなければ、サティに欠ければすべてが駄目になります。どこへ行くにも正しく行けません。何をしても正しくできません。サティがあれば、思い起こすことができ、善悪正誤を思い起こすことができ、学んできた智慧を思い起こして、感情(心の対象)の接触から生じた出来事に対処します。

その出来事を解決できるだけの智慧がほしいのであって、全部ではありません。それは何種類も、幾つもあるので、全部を思い出すのではありません。状況に合ったものを常自覚の形にして出来事を護ります。目を離さないで見守り続けます。これが常自覚です。そしてサマーディ、つまりサティの正しさになるように全精神力を注ぐ、十分な力があります。ここでサマーディを使えば、感情(心が捉えているもの)と闘うことができます。

 この四人組のタンマが一番重要だと憶えておいてください。そうすればチームワークになります。つまりサティ、智慧、自覚、サマーディが一緒に働きます。このように並べれば発生順になります。初めに思い起こせるサティがあり、何か出来事が起きたら、正しさや智慧を思い起こします。智慧がほしいのでサティが智慧を思い出します。

全部の智慧ではなく、出来事にふさわしい部分の智慧を使います。智慧の種類は非常に多いので、出来事にふさわしい智慧を理性にして、その出来事を管理します。心の力が弱ければ闘えず、挫折するので、サティと、安定しているサマーディがなければなりません。そうすればその出来事は悪い方に行けないので、正しい方へ変化します。

 サティ、智慧、自覚、サマーディは大きな軸で、重要です。この四種類をタンマの四人組と名付けます。タンマの四人組は、どんな出来事との闘いにも使え、そして煩悩や欲望・執着そして苦を加工することがありません。加工しないように止めておくことができるので、苦はありません。加工しないので、命は涼しいです。

 この「加工すること」もサンカーラと呼ぶことを忘れないでください。サンカーラは体だけではありません。あるいは他の意味のサンカーラではなく、加工することもサンカーラです。加工するという意味も、加工する人の意味も、加工される物の意味もあります。加工することがなければ、加工する人も加工される人もいません。つまり加工しないので、煩悩は生じません。

 初めは、それはただの内処入と外処入だけですが、それが触れ合うと加工されて六処の識になり、目・耳・鼻・舌・体・心の識が生じて識になります。二つの処入と一つの識の合計三つが一緒に働けば、触と言います。触が生じます。触が生じると受(感覚)を作り、受は欲望を作り、欲望は執着を作り、執着は界と生を作り、そして苦になります。長々とお話したのは縁起です。簡単に言うと、順に作って最後に「俺、俺のもの」が生まれると問題になり、苦があります。加工することがなければ、問題も苦もありません。

 第一項を「何も自分、自分のと執着しない」と言い、第二項は「何も『自分、自分のもの』で加工しない」と言います。

 第三項は、「対のもの(善悪、苦楽などの対)に溺れない」です。これは省略して、最後にしてもいいですが、初めから関連があります。加工して対のものになってしまったら、溺れません。対のものに迷いません。第三項は「対のものに迷わない。対である意味に溺れない」です。

 対のものは、今子供が学校で勉強する科学の言葉で、プラスとマイナスに集約できます。プラスは善、つまり得ること、満足で、マイナスは得ないこと、不満です。ポジティブ、ネガティブ、そして仏教の教えで言えば、今後まだポジティブになるかネガティブになるか分からないものを含んでいますが、西洋人にはこれがありません。彼らにはネガティブとポジティブしかありません。仏教は、まだポジティになるかネガティブになるか分からないものも含んでいます。これも対のもので、見方次第です。

 この項目は、勉強するのも理解するのも難しい項目の一つです。だから特に受の話に興味を持ってください。受は、幸福である受、苦である受、そして幸福でも苦でもない受です。幸福でも苦でもない受がどうして欲望を生じさせるのかは、本気で教え説明しなければ理解できません。ナックタム(僧試験)一級の学校でも、これを教えません。幸福の受は手に入れたい欲望を生じさせ、苦の受は攻撃したい欲望を生じさせ、幸福でも苦でもない受はどんな欲望を生じさせるのかを、このように詳しく教えません。

ブッダも「三つの受があり、三つの受は同じように欲望を生じさせる」と言っています。幸福でも苦でもない受は、幸福になるか、苦になるかまだ分からない受です。これはポジティブとネガティブしかない西洋の科学より上です。それも煩悩を生じさせるものであり、煩悩を脱したものではないからです。

 対のものとは、プラスとマイナスです。まだプラスになるかマイナスになるか分からないもの、それが痴の話です。痴(迷い)は瞋(怒り)の伴侶です。プラスなのは貪、あるいは欲の伴侶で、マイナスなのは瞋あるいは怒りの伴侶で、幸福でも苦でもなく、まだプラスかマイナスか分からないのは、喜びか苦か、嬉しいか嬉しくないか判断できない無知が原因なので、痴の伴侶です。どうぞ三種の受を知ってください。そうすれば完璧です。受に関して、あるいは仏教の原則ついて完璧になります。

 

 自分で分類して見てください。対になっています。人間が知っている、話しているものだけでも構いません。普通の凡人は、不苦不楽受(アドゥッカマスッカヴェータナー)に関心がありません。人は不苦不楽受を理解できないので、話す必要はないので、そうすれば残るのは、プラスかマイナスか、幸福か苦かハッキリしている対のものだけです。だから私たちには、善-悪、徳-罪、幸福‐苦があります。どの対も、まだ普通の人間の世界にあります。

 思い出せるだけ数えて見たことがあります。三四十の対がありましたが、大切ではないので、忘れてしまいました。もっとあるかもしれません。善悪、徳罪、幸不幸、損得、勝ち負け、有利不利、利益損失。そしてまだ自然の対があります。上下、上部下部、陸海などいろいろ対があります。対でなければならず、反対がなければ意味がないという点が面白いです。悪がなければ、善には何も意味がなく、罪がなければ徳には意味がなく、苦がなければ幸福には意味がありません。逆に言えば、善がなければ悪には意味がなく、徳がなければ罪に意味はありません。互いに意味を生じさせる対でなければならないからです。

 この対の話が人間の問題を生じさせます。つまり煩悩を生じさせ、煩悩の意味の望みを生じさせるからです。良ければ欲しくなり、悪ければ殺したくなり、攻撃したくなり、つまり不満です。徳なら欲しくなり、罪なら欲しくありません。どちらも害があります。徳は徳の方へ変化させ、罪は罪の方へ変化させ、善は善の方へ変化させ、悪は悪の方へ変化させます。時には最高に凶悪な対、夫と妻もあります。夫と妻の対は最高に凶悪で、問題を加工して変化させる対です。夫婦の話は、今人間を支配している最高に凶悪な対です。

 これらの対に迷わなければ、何も問題はありませんが、これらの対から逃れることはできません。この世界(俗世)にいれば、これらの対を避けることはできません。残されているのは、これらにどう対処すれば、苦や害が生じないかだけです。善で対処するか、悪で対処するかで違った結果になります。問題を生じさせないでください。

欲情の問題、夫婦の問題、男女の問題、何でも正しく対処してください。それに意味を持たせ、苦になって簡単に自殺するほど、対の意味に心を支配されないでください。絶体に対のものに迷いません。利益と損失、名誉と不名誉、世俗とタンマ、得と損、称賛と悪口、幸福と不幸など、すべての生き物はどのように対のものに迷っているか、すべて対の話です。

 別の話もできますが、この三つで十分だと思います。第一項は「自分、自分のと執着しない」で、第二項は「加工して自分を苦しめない」で、第三項は「対のもの、あるいは対の意味に迷わない」です。

 そしてもう一つ、どちらになるか、という問題があると知ってください。どちらになるか、良いか悪か、まだハッキリしてなく、良くなるか悪くなるか、得するか損するか、勝つか負けるか分からなければ、同じだけ心を妨害します。ポジティブとネガティブしか勉強していない人に、ポジティかネガティブかまだ分からないものがあり、同じだけ心を苦しめる問題になると、教えてあげたいです。

不苦不楽受という言葉は意味がないのではありません。幸福な受も、苦の受も、不苦不楽受も同じ受であり、同じだけ欲望を生じさせ、同じだけ苦にします。まったく受がなければ問題はありません。しかし、まだ苦とも楽とも形を現さない種類の受があります。それも受であり、心を支配し、どう疑っているかによって、どの方向にでも望みや動揺を生じさせます。

 

 次に満足する側、喜ばしいこと、善や幸福、徳などのイッターラマナ(望ましい物。好所縁)でも、苦の種類と穏やかな種類に分類できると、詳しく見て行きます。

 最初に極楽です。極楽には熱い(苦の)種類と涼しい(穏やかな)種類があり、この世界の五欲は極楽です。

 善にも、熱いものと冷たいものがあります。非常に低級なのは凡人の善で、バカな善、迷っている善、酔っている善もあります。善にも熱いものと冷たいものがあり、幸福と呼ぶものにも、熱いのもあり冷たいのもあります。これが望ましいもの(好処縁)です。

 徳も熱いのと冷たいのがあります。苦である徳は煩悩の徳、無明の徳で、執着しすぎて噛まれます。自分にも熱い自分と冷たい自分があり、熱くない自分の方がまだマシで、本能になるだけ、本能で感じるだけで、煩悩執着のレベルまで高じていません。だから自分にも熱いのと冷たいのがあります。財産も熱いのと冷たいのがあります。惑溺して陶酔し、執着している財産は熱い財産で、執着していない、溺れていない財産は冷たい財産です。

 名声も熱いのと冷たいのがあります。名声にも熱いのと冷たいのがあるので、良く注意してください。少なくても絶えず妨害する人がいます。他人に妨害されたくないので、私は他の人のように名声は欲しくありません。名声にも熱いのと冷たいのがあります。友達にも熱い友達と冷たい(穏やかな)友達がいます。友情も欲しいですが、時には熱くて難しいものになります。団結による交際にも、熱いのと冷たいのがあります。国中が熱く団結するのもあります。

 だから非常に望んでいるイッターラマナ(望ましいもの。好所縁)である物も、熱いものと冷たいものに分類できます。そうでなければ、「熱いお金、冷たいお金」という言い方はしません。こういう言葉は、熱いお金はどう熱いか、冷たいお金はどう冷たいか、良く理解できます。

熱いお金は所有者を焼き炙り、すぐに無くなってしまいます。冷たいお金はそうではありません。他人から盗んだ財産は熱いお金で、他人を騙して手に入れたお金は熱いお金です。お金にも熱いのと冷たいのがあります。本当に善い側、本当に望ましいもの、本当にプラスのものでも、まだ熱いのと冷たいのがあります。良く知っておいてください。

 熱い極楽−冷たい極楽の話は、説明するのが難しいです。普通の意味の極楽は、欲情がいっぱいです。一人の天人に五百人の天女がいて、たぶん四六時中狂っているので、涼しいはずはありません。だから極楽も、熱いのと冷たいのがあります。そして極楽は良く知っています。普通の意味の極楽という言葉は至る所にあります。思いっきり愛して満足するもの次第で、どれもみな極楽になります。それが熱い極楽、冷たい極楽の話です。

 花札が好きな人なら、花札仲間がその人の極楽で、花壇が好きな人なら、花壇に入れば、その人の極楽で、欲情の歓楽が好きな人は、そこへ行けば極楽です。子供は自分の極楽へ逃げて勉強しません。

 高尚な心の人は、美しい山の頂へ行くと、その人の極楽で、あるいは綺麗な海岸で最高に満足を感じれば、海岸がその人の極楽です。しかし花札賭博が好きな人は否定します。極楽は花札の世界にあり、美しい海岸に行くことはできません。ちょっとうるさい清信士・清信女なら、お寺が極楽です。お寺で徳を積むのが極楽ですが、それが極楽にならない人もいます。

 本に狂っている人は、図書館がその人の極楽です。私もそうだったことがあります。ある時代は本キチガイで、完璧に揃っている図書館が極楽で、極楽へ行ったような満足を感じました。インドで完璧な図書館を見た時は、図書館で実に極楽と感じました。煩悩になるくらい好きなものは、すべて極楽です。

 最高に良い極楽を一つ紹介させていただきます。それは義務を行なうことです。義務なら何でも愛して、満足して、うっとりと義務を行なえば、義務を行なうことに幸福があり、極楽は義務の遂行にあります。こうすれば危機から脱せます。義務の遂行に極楽がある人は、危機を脱して楽しく働けます。時には雨が降ったら雨に濡れながら草を抜いても楽しいです。満足している仕事は極楽になります。満足する仕事は極楽になります。

だから自分の満足で発見できる、様々な極楽があります。この世界は、なぜいろんなものを極楽にしないのでしょうか。満足を生じさせるものに満足することが極楽です。花札仲間から始まって、それが熱い極楽か冷たい極楽か、本当の極楽かニセの極楽か、永遠の極楽か一時的な極楽か見てください。煩悩の感覚で満足して全身全霊で迷えば極楽です。賭博場も、この理由で極楽になります。こういうのは涼しい生活とは言えません。この種の極楽は涼しくない、熱い極楽です。

 

 次に正反対のもっと善い極楽、つまり煩悩に依存しない極楽を見ます。妨害が何もない状態を知っている人は誰もない、と言いたいと思います。誰にも妨害されないことを、パーリ語でヴィヴェガと言います。ヴィヴェガの「ヴィ」は「すっかり」という意味で、「エガ」は「一つだけ」という意味で、ヴィヴェガは「すべてが一つ」という意味です。ヴィヴェガとは何も妨害するものがありません。

何も妨害するものがなかったら、どんなに快適でしょうか。人にも妨害されず、煩悩にも妨害されず、外部の出来事にも妨害されず、自然や自然でない様々な出来事にも妨害されず、何の責任を負うこともなく、これくらい妨害するものが何もないと言います。こういうのは快適でしょうか。涼しいでしょうか。

 そして信じなくてもその人の自由ですが、「極楽でないのが極楽」と言います。極楽でないものが極楽です。この言葉は、パーリ語を勉強したことがなければ、意味が分かりません。極楽という言葉はタイ語で、パーリ語ではサッガ、サンスクリット語ではスヴァラガと言います。サッガもスヴァラガも、「束縛」「関係する」という意味です。

 極楽と呼ぶものは、動物の心を引っ掛けて留める物で、サッガ(極楽。天国)とは「関わり。纏わる」という意味です。引っ掛かり纏わるものを極楽にするのは、人がどれ程バカでしょう。関わり纏わるものがなければ、極楽ではありません。

 しかしそれが、つまりヴィヴェガの極楽です。関わるものは何もなく、妨害するものは何もないので、極楽でないものが極楽です。サッガはその人たちの極楽ですが、私は、アサッガ=何も関わる物がないことを本当の極楽と言います。

 極楽でない極楽が、本当の極楽になります。サッガの極楽は妨害ばかりです。欲界の生き物レベルの極楽は愛欲が妨害し、形禅定の極楽はそういう幸福が妨害し、無形禅定はそういう幸福が妨害するので、極楽と言えば妨害するものになります。極楽でない極楽、それが本当の極楽です。

 ここで、「極楽とは神様の住んでいる所。神様は極楽にいる」と、世間一般の人が信じている問題があります。こういうのは仏教ではありません。仏教には神様も、神様のための極楽もありません。煩悩のある人の話である極楽があるだけです。欲情に満足して、欲情に惑溺し、欲情でしたいようにして、ある時代ある時期ある人たちは、それを涅槃とすることもあります。

しかし極楽でない極楽と言えば、神様の住む場所です。神様は最高の人でなければならないので、善より上、悪より上、徳より上、罪より上、すべてのものより上にいるので、関わるもののある極楽に住むことはありません。関わるもののある極楽にいるなら、本当の神様ではなく、偽の神様です。極楽に心酔している神様は、本当の神様ではなく、ニセの神様です。

 私たちは極楽とは何かを知っています。熱い極楽もあり、涼しい極楽もあります。極楽でない極楽が涼しい極楽、つまりすべてヴィヴェガで、妨害するものが何もありません。極楽でない極楽は、絡みつくものが何もありません。しかしそれが満足するべき本当の極楽です。今は陶酔できる極楽、惑溺できる極楽があり、この種の極楽は熱いだけです。

 要するに、本当に望ましいものにも、熱いものと涼しいものがあります。何も妨害するものがなければ涼しく、幸福で満足です。今は妨害するものがあり、五欲のレベルの極楽に住んでも、その種の極楽を味わう原因であるラーガ(欲貪)があります。梵天のレベルの極楽に住むと、梵天レベルの極楽をパーリ語の中立の言葉で言うと、「梵天のレベルを極楽」と呼ぶことができます。梵天レベルの極楽も、俺、俺という惑溺(痴)に妨害されます。誰よりも善い俺、生まれない、老いない、病まない、二度と死なない類の俺があれば惑溺があり、惑溺の火があり、梵天レベルの極楽を妨害すると言います。

 まとめれば、煩悩のある所に熱さ(苦)があります。最高の梵天のレベルでも、まだ俺、俺、という煩悩・痴があります。梵天は最高に死を恐れます。冗談ではありません。すべての生き物の最上レベルである梵天は、最高に死を恐れる人たちです。梵天である五欲、素晴らしい俺、最高の俺に満足しているので、最高に死にたくありません。最高に満足し、最高に喜べば、死にたくないので、梵天たちは非常に死を恐れます。

 梵天レベルは涅槃のように穏やかではなく、惑溺(痴)の火に妨害されます。貪りの火、怒り(瞋)の火は妨害しなくても、あるいはあまり妨害しなくても、思いっきり妨害する惑溺(痴)があり、煩悩に関われば熱いです。

 愛欲の火、貪りの火、迷いの火。これらの言葉に慣れていますが、これらの意味を正しく知れば、良く知ることができます。愛欲の火、あるいは貪りの火は、引き寄せて抱きしめて大切にするための火で、この火は引き寄せて自分の物にし、怒り(瞋)の火は、突き離し、殺し、すべてを消滅させます。迷い(痴)の火は、どうしてよいか分からないので、ぐるぐる回っていて、引き寄せもせず、突き離しもしません。プラスでもマイナスでもないのに近いですが、まだプラスにもマイナスにもなれるので、迷いの火は堂々巡りしています。これらの火がなければ、涼しいです。

 しかし涼しいという言葉の正しい意味には、注意してください。物理的な熱がない涼しさは死で、熱が残っていない生き物は死にます。あるいは、涼しすぎれば寒いです。寒さを経験したことのない人たちは、寒さは厭わしく腹立たしいもの、つまり「苦」と知りません。

 私はチエンマイで九度の寒さを体験したことがあります。九度まで下がりました。七転八倒の苦です。水浴をする以外は何も出来ません。朝の寒いうちに水浴をすると、針に刺されるよう、あるいは炎にかざされるようでした。我慢して浴びると多少気持ちが良くなって、何とか、何か出来るようになりました。それと、インドのダージリンで五度を体験したことがあります。言葉で言えないくらい寒くて、どうにもならなくて泣いてしまいます。毛布は何枚あっても意味がありません。厚いウールの毛布を三枚重ねても、何の足しにもなりませんでした。熱湯を魔法瓶に入れると、すぐに冷たくなります。寒ければ、涼しいのは堪りません。

 涅槃はそういう涼しさではありません。涼しいという涅槃は、そういう寒さの涼しさではありません。まったく熱がない涼しさは死です。煩悩がなければ涼しいですが、死ではありません。死ぬほどの涼しさではありません。

 この涼しさには重いものはない、と見ることができます。重いものがあり、体が重く、心が重く、精神を重くして苦しめれば、それは涼しさではありません。涼しさには重いものはありません。熱いものもありません。これらの煩悩がないことはお話しました。次に重いものもありません。何が重いものかと言えば、何かに執着することです。「俺、俺のもの」と執着すれば、それは重いもので、子供や妻や夫、財産、荷物やお金などを「俺」「俺のもの」にすれば、それが重いものです。

 人は誤解するかもしれませんが、誤解したら、どうして生きていけるでしょう。だから執着しないで暮さなければなりません。子供や妻や夫、財産、荷物やお金、名誉や名声などを、執着なしに所有します。それらを「俺、俺のもの」と執着しない俺がいます。

 理解はちょっと難しいですがが、できます。自分が欲しければ自分があります。しかし自分、自分のと執着しない自分がいます。俺がいても執着する必要はありません。財産や名声名誉があっても、「俺の」と執着する必要はありません。それらを利益があるように、使わなければならない仕事に使います。キリスト教にも、この項目について、「妻があってもないように」と教えている教えがあります。

「妻があっても妻がないように」とは、夫婦の間の義務をしないという意味ではありません。夫婦の手本に従って義務を行ないますが、「俺の」と見なしません。だから「妻がいても妻がいないように。財産があっても財産がないように」と言います。「俺、俺の」と執着して心に積み上げ、執着しません。象や馬や牛や水牛は野原に、お金は銀行にあり、心や頭にありません。これを「執着しなければあってもないのと同じ」と言います。

 執着しないことを教えにすれば涼しく、命は涼しいです。執着しなければ何もかも無くなる訳ではありません。お金も無くなり、夫婦は相手を捨てて逃げて行く訳ではありません。そういう意味ではありません。執着して気が重いものにしません。心を苦しめません。あるいは別れなければならないとしても、何も苦しむことはありません。なるようになります。これを、何にも「自分、自分の」と執着しないと言います。特に命は、自分の命と執着しないで、自分のものと執着しないで生きます。五蘊に分かれたものが命なので、五蘊に執着せず、目・耳・鼻・舌・体・心に分けても、自分、自分のものと執着しません。

 徳や善のような外部のものも、自分、自分のと執着しないで所有すれば、善や徳として有益に使うことができます。何に使ってもかまいませんが、自分、自分のものと執着しないでください。重くなります。徳が重くなり、善が重くなって、その人の心を抑圧します。どんな名誉名声も、執着すれば重くなります。俺、俺のものにしないでください。そうすれば何も背負わず、何も担がず、何も頭上に載せず、何も提げません。「俺、俺のもの」と執着するものが何もなければ快適です。執着する自分がないので、自分のことばかり考えず、身勝手でないので、快適に暮せます。

 自分があって身勝手があれば心を苦しくします。つまり傲慢で、自分に執着するので苦しいです。身勝手なら一人で暮しても苦です。身勝手なら、うっかり他人に危害を与えて苦しめるので、世界中が苦になります。自分のことばかり考えなければ、自分も他人も困らせません。自分のことばかり考えれば、反対に自分を困らせ、苦しめます。自分を背負って執着し、自分の心配をし、自分のことばかり憂慮するからです。これを、「自分に執着し自分の事ばかり考えるので、自分を困らせる」と言います。身勝手なら、必ず自分を困らせ苦しめるので注意してください。身勝手でなければ快適です。

 身勝手でないことは、非常に素晴らしいことです。試しに身勝手を止めてみてください。身勝手な自分である必要はありません。身勝手でなければ、すべての人を愛することができます。しかし今は身勝手なので誰も愛せず、愛しているのは自分だけです。身勝手でなくなるとすべての人を愛すことができ、「誰もが友達」と言い、そしてすぐに共に生まれ共に老い、共に病んで死ぬ友達になります。

 すべての人と生老病死の友になりたかったら、口先だけで繰り返さないでください。何十回唱えてもできません。身勝手を捨てておしまいなさい。身勝手を捨てるだけで、すべての人、すべての生き物が生老病死の友になります。念じたり唱えたりする必要はありません。全世界の天人も人間も、全員生老病死の友になります。座って「慈・悲・喜・捨」を念じる人は口先だけで、心には「自分」があります。こっち側の自分、あっち側の自分、助ける側の自分、助けられる側の自分、愛す側の自分、愛される側の自分があります。だからまだ自分があり、自分に掛かりきりで、すべての生き物のことを考えられません。

 身勝手を捨ててなくしてしまえば、非常に善い、本当のブラフママヴィハーラ(四梵住)、あるいはアッパマンヤー(四無量心)になります。そしてすべての生き物が、共に生まれ老い病んで死ぬ友になります。これも涼しい命、穏やかな生活です。どうぞ本当にこうなって、本当にそう感じてください。命は涼しいものになり、敵はなく、恐れなければならないものもありません。心は何も恐れる必要はありません。何も恐れることなく、生きる時は生き、死ぬ時は死にます。これを涼しい命(穏やかな生活)と言います。

 

 さて、「涼しい命は関心を持たなければならないもの」と言います。お話した教えで興味を持って、正しく、そして十分に理解しておきます。これは実践できる心の話、精神の話で、物質の話ではありません。心や精神の話の言葉の中には、物質の話に使えない言葉があります。今、心や精神の意味を基準にして、涼しい(穏やか、冷静)という言葉を正しく知ります。インド人はブッダの時代以前からこの言葉を知って使っていたので、低い涼しさ、低いレベル、あるいは無明がたくさんありました。

それから高い涼しさを知り、最後にブッダが生まれて、誰もこれ以上の涼しさを教えることができない、最高レベルの本当の涼しさを教えました。自然が与えるためにあるのに、人間が受け取らないのは、人間がこれを知らないからです。自分に何があるのか、煩悩がどのようにあるのか、苦がどのようにあるかも知りません。どんな原因で煩悩があるのか、なぜ苦があるのかも知りません。これは、知ってしまわなければなりません。

 仏教教団員なら、尚のこと知らなければなりません。そうでなければ仏教教団員ではありません。焼き炙る煩悩があって熱ければ、仏教教団員ではありません。ブッダのように「知る人、目覚めた人、明るい人」にならなければなりません。そうすれば仏教教団員になれます。それに熱いものを冷たいと迷って、賭博場に極楽を求めないでください。これも重要です。誤解して逆にしないでください。義務をしなければなりません。滅苦の義務を正しくします。義務はタンマ、タンマは義務です。

正しく実践すれば熱くなく、涼しく、正しく満足します。何をしても正しいと感じ、そして満足します。この生活は涼しい(穏やか)です。確実に涼しいです。ご飯を食べるにも、水浴をするにも、食器を洗うにも、家の掃除をするにも、知性で正しく満足するようにすれば、命は涼しいです。

 最後に、穏やかな生活(涼しい命)についてある程度知ったら、穏やかな生活を維持する努力をすると知りました。涼しい命(穏やかな人生)は、お話してきたとおりです。どうぞ要点を良く憶えて対処し、行動し、準備か何かし、涼しく(穏やかに)なる道を歩んでください。熱いのは何も利益がないので、熱くなってどうします。

自然が最後に涼しさに出合うよう作ったので、最後に涼しさに出合って仏教教団員になり、人間に生まれて仏教に出合ったことを、無駄にしないでください。どうぞみなさん、涼しさ、穏やかさを知って、穏やかな系統で自分を進め、どんどん穏やかにしてください。

 時間になりましたので、これで終わらせていただきます。

 


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