すべては触から始まる

 

1974年2月3日

 タンマにご関心のある善人のみなさん、マーカ期の五回目の今日の講義は、「仏教のイロハ」と題してお話します。別の言い方をすれば、第五回目として「イロハ」についてお話します。

 意味が分からない人は、幼い子供がイロハを勉強するのが楽しくないように、煩しい、あるいは非常に煩わしいですが、繰り返し勉強してイロハを憶えなければなりません。これから仏教のイロハをお話します。五回だけ、五日しか勉強していないのですから、それほど多くはないかもしれません。今日の「仏教のイロハ」は、「すべては触から始まる」という題でお話します。すべてのものは、触だけから始まります。

 このように述べると、すでに何度も話してきたことと同じなので、意味が分かり、あるいは全貌が見える方もいると思いますが、イロハの形、つまり最も初歩の形で、もう一度お話します。あまり観察しないことなので、重要さが見えない、つまりあらゆるものの始まりはたった一つ、「触」と呼ばれるものだけと見えないからです。

 触について話すと、「分かっている」という人がいます。触を理解している人はいても、確かなことは、理解の仕方が違うことです。その人がこの言葉をどんな形で聞いたかによって、多かったり少なかったり、中にはあちこち寄り道している人もいます。だから、触と呼ぶものは、すべての始まりである唯一つのものだと、明らかに見えるまでもっと良く知るために、改めてお話する必要があります。

 「発生」という言葉についても同じです。理解していると考える人もいますが、まだ理解が少なすぎます。ほとんどの人は「あらゆるもの、世界と呼ぶものも常に発生と消滅をしている」と理解していません。

 「この世界は常に発生と消滅をしている」と言うと、まったく理解できない人もいます。そしてバカみたいな言葉だと、あるいは愚弄する言葉だと、あるいは凝った言い方をしすぎると非難します。世界と呼ばれるものも絶えず発生と消滅をしていると明らかに見えない人は、まだ仏教のイロハのレベルのタンマを知りません。

 仏教は、あらゆるものは常に発生と消滅をしていると見るよう教えています。発生と消滅が遅いか早いかは、それを感じる心次第です。勉強したことがない人、そして物質面しか見ない人は信じません。世界の大地はいつでもあると見るからです。そして何十万、何百万、何千万年か分からないほど、このように存在していると学んでいるので、「発生と消滅」と呼ぶことなどできません。仏教では、それを感じる瞬間ごとに、絶えず発生と消滅をしていると言います。

 「これほど違う。これほど系統も意味も違う」と、熟慮して見てください。科学で勉強する大地は、何百万年も何億年もそのように存在していますが、今みなさんは仏教の勉強をしているので、科学の勉強ではなく、仏教の原則で学ばなければなりません。

 なぜそのように違う勉強をするのでしょうか。あっちの勉強では滅苦が出来ないからです。ブッダが教えているように世界は常に発生と消滅をしていると学べば、滅苦ができます。ブッダが教えているように勉強するのは、滅苦を可能にするためです。

 人が世界をどう学んでも、自分がしてきた勉強にふさわしい結果があります。たとえば世界は変わらない、あるいは変わらない本当の具体だという形で学べば、その人は世界と呼ぶものに執着する結果があります。別の言い方をすれば、世界に強く括りつけられている人で、世界と一緒に回転して、そこから出ることができないので、世界と一緒に転んだり這ったりします。

 次にもう一人は反対の状態で学び、「世界とは何か。どのように絶え間ない発生と消滅があるのか」を真実のままに学びます。この種の知識は世界に執着させません。つまり世界に括りつけられる必要がないので、世界と別の心があります。だから世界と一緒に七転八倒する必要はありません。正反対の、あるいはそれ以上の違いがあります。

 それに関して十分知らなければ、それに執着し、それで混乱しなければなりません。このサンカーラ・身体も、変わらない物、自分の物と見れば執着です。そして心が重くなり、上がったり下がったりしなければなりません。サンカーラはそれ自身の理由で変化しなければならないので、ほとんど必ず苦になります。

 外部の事も同じです。財産や名誉名声、いろんなもの、命や死なども、すべてそれ自身の法則で、それの原因と縁で変化しなければなりません。変わらないものと、あるいは自分のものと執着すれば、そうなることはあり得ないので、どうしても泣かなければなりません。蒼ざめなければなりません。いろいろしなければなりません。

 これは、身につけた知識次第で、その知識の威力による心、あるいはその傾向の心になると指摘しています。誰でも、好きな知識を得られます。誰も文句を言わないので選ぶことができます。誰もが苦しまないで良い方を選ぶと信じています。しかし選び方を知っているかいないか、正しく選べるかどうかは別問題で、その人が苦を知っているか否かによります。

「滅苦をする」と言いながら、苦とはどのようですかと質問すると、知らない人がいます。それほど愚かです。苦が見えないのに、滅苦の方法を教えてくださいと言います。これはバカな人です。つまり本当に感じている苦がないのに、苦を滅したいと言います。

 役に立つ知識は、本当に問題である、本物の知識でなければなりません。本当に苦があれば、本当に滅苦の方法を探します。だから苦の面から世界を勉強することは不可欠です。つまり本当の苦を知る助けになります。問題は苦にあるので、問題は苦から始まるからです。苦がなければ問題はありません。先にこれを見ます。今堪え難いのは苦があり、そして問題があるからです。

 苦があって問題になると、どのように生じたか見やすく、最後に「それは触と呼ばれるものが原因だ」という項目と一致します。だからイロハの話は、本当にすべての始まりですが、いろんな角度から説明できます。触という一語も、様々な観点で説明できます。これから仏教のイロハについて、最後までお話していきます。

 これまでのおさらいをすると、初めに要素の話をしたのを思い出すと思います。要素は、いろんな物が生まれる基本だからです。あるいは要素と呼ぶものから始まります。だから六処と触を生じさせるすべての要素を知ることは、その後の基礎であり、初歩の基本です。触は六処で生じ、六処はすべての要素で始まるからです。しかしどれもまだ、何らかの要素(ダートゥ)と呼ぶことができます。

 最高に基本の要素は、六要素、つまり土・水・火・風・気・魂水・火・風・気・魂です。基本としてこれについて出来るだけ理解するよう、そして身体面の日課と同じに復習するよう、何度も繰り返しお願いしてきました。食事や水浴や排泄など何でもいろいろ繰り返すように、心のことも、要素と呼ぶものについて繰り返し熟考して、日常的に理解と明確さを生じさせてください。

 だから私は、基本である要素の話から始めます。つまり土・水・風・火・気・魂です。そしてその次に基本の要素があります。それは目・耳・鼻・舌・体・心で、内部に、自分の中にあります。そして外部の要素は、形・声・臭・味・触・考えで、外部の要素です。

 内部の要素と外部の要素が存在するには、土・水・火・風・気・魂と呼ぶものが必要です。だから初めの六要素は、その後の要素、目・耳・鼻・舌・体・心、形・声・臭・味・触・考えの素です。そして二番目の要素はその後の素になって、より高い、より緻密な要素を作り、形・受・想・行・識になります。最初に六処になり、それから触になり、そして受・欲望になります。あるいは受になり、順に高く想になり、行になり、識になります。

 いつでもこのように復習すると、最高に重要なこと、つまり空、あるいは無我、あるいは他の名前でも呼び方次第ですが、それが明らかに見えるようになります。まとめれば「自分ではない。人でも動物でもない」話です。空も要素、要素の一つと言うことができます。最高レベルの空っぽの要素で、結果に焦点を当てれば、涅槃要素で終わります。涅槃要素、空要素は無為なので、すべてが終わります。

 原因と縁のある要素から出発して、そして最高になるまで、原因と縁のない要素になるまで変化して終わります。要素の話で始まって、それからずっと要素になり、最後の要素、つまり変化させる縁のない要素であり、流転変遷の終わりになって、すべてが終わります。しかし細かいのはいろいろあります。だから勉強して基本の段階を知ってください。基本なのでイロハと言います。

 

 次に「すべては触一つから始まる」という題は、人間の、あるいは世界全体の、あるいは何もかもすべてのイロハ(始まり)だということを見て行きます。

 最初に人間についてお話します。人間のイロハは、幾つものレベルの複雑な意味があります。人間が勉強しなければならないイロハ。こういうのもあります。人間は初めにこれを勉強しなければならないので、人間のイロハと言います。こうでもいいです。しかし本当はそれ以上です。つまり人間が何かから始まれば、それを「人間にするイロハ」と呼ぶべきです。それが触の話を理解しやすくします。触がある時人間と呼ぶものがいます。触がない時は人間と呼ぶものはいません。「触がある時、つまり何かを感じた時、人間がいる」と言います。触の働きがなければ、何も感じないので、人間と呼びません。

 ここで大地の例えを紹介したいと思います。ある人が、「地球の大地はいつでもある」と見ます。しかしもう一人は、「自分が地球を感じているときだけ地球は存在する。それを感じなければないと見なすべき、あるいは無いのと同じ」と見ます。たとえば眠っている時、前者は「眠っていて何も分からなくてもそれはある」と信じています。普通の人はそう言います。しかしもう一人は、「私が眠っている時、私は地球と呼ばれるものを感じないので、地球は無いのに等しい」と言います。この二人は、どちらが愚かで、どちらが賢いでしょうか。

 たとえば睡眠薬を盛られたりして意識のない人は、何かがあると感じません。その人にとっては地球は無いと見なします。しかし「ある」と反論する人もいます。その人は死んで棺に入っても、地球はまだあります。しかしもう一人は、その人が死んで棺に入れば、死んだ人にとって地球はないと見なします。この「ある」あるいは「ない」という言葉の定義は、どちらが確かか、良く考えて見てください。

 

 仏教では、「ある」も「ない」も、それに意味があること、結果を出す価値があるという点を見て、何も意味がなければ、ないのと同じと見なします。たとえば盲目の人にとって、いろんな絵はないのと同じで、聾者にとっていろんな音はないのと同じです。鼻が利かない人にとって臭いはないのと同じです。鼻がまったく利かない人に何かの臭いを嗅がせても、意味はありません。どんな香りを嗅がせても意味がありません。味も、体の感触も全部同じです。その人が感じなければ、すべての感覚は意味がありません。

 次に苦を見ます。苦は心に現れる現象で、心がない物には現れません。耐えがたい痛みである苦は、感じるもの、つまり心のある物にとって意味があります。石のような物には意味がありません。植物は中くらいで、半分くらい感じることができます。半分か半分でないか知る必要はありませんが、感覚はあります。植物が食餌を得るために闘う状態を見たことがあります。痛みを感じなくても死ないために闘う感覚があり、いろんなものを求めます。良く観察すれば、植物の生きる闘いが見えます。

 苦は、感覚のあるものにだけ意味があります。だから感覚のあるものを基準にしなければなりません。つまり心があり感覚がある人間を基準にします。人間という言葉は、感じることができる高い心があるもの、という意味で、言葉にも表れています。涅槃を知るくらい高い、ということもできます。そうでなければ人間ではありません。普通の人すぎ、凡人すぎ、畜生になってしまいます。

 タンマの話はすべて、それを知ったら自分の原則にできるレベルの人間を基準にします。それを「ヴェーナイヤサッタ」と言い、何とか話が通じる人間、何とか理解できる人間、連れて歩ける人間という意味です。つまりブッダが連れて歩ける人間なら、ヴェーナイヤサッタと呼びます。話して意味が通じないほどなら、ブッダが連れて歩くことはできないので、ヴェーナイヤサッタとは呼びません。ヴェーナイヤとは、「連れて歩ける」という意味です。タンマはヴェーナイヤサッタ、つまり連れて歩くことができる生き物の話です。

 この世界に、ヴェーナイヤサッタである人がどれくらいいるでしょうか。誰でも例外なく、比丘も沙弥も清信士・清信女も、すべてを含めて、ブッダが連れて歩けるヴェーナイヤサッタが、いったいどれくらいいるでしょうか。沙弥はまだ保証出来ません。心が在家より後退してしまった人もいるからです。だから五欲やいろんな物に夢中になっている比丘や沙弥は、ブッダも連れて歩けません。

 人間として重要なことは、ヴェーナイヤサッタである点にあると、良く考えて見てください。だからこれからお話するのは、ヴェーナイヤサッタである人、つまり何とか理解でき、ブッダが教えたブッダの知識になる人のレベルの話でなければなりません。こういうのを本当の人間、つまり高い心のある生き物と言います。人間のイロハは、ここから始めなければならないという意味です。知るべきことを知ることから始め、心が多少高くなれば、「人間のイロハが始まった」「人間の誕生」と言うことができます。

 人間のイロハという言葉については、このようにいろんな意味があります。しかしまとめれば、人間とは「人間らしい智慧がある」という意味でなければなりません。人に生まれれば人間になるのではありません。人に生まれても、誰もまだ人間に達していないと、私は見ます。私も、誰でも、母親の腹から生まれた時は、まだ人間ではありません。ブッダのタンマを理解できる高い心のあるヴェーナイヤサッタではありません。

休まずしつけや教育をされ、それが正しい方法なら、人間と呼べるくらい心が高くなる人もいます。つまりブッダが連れて歩くことができるヴェーナイヤサッタの範囲に入ります。それ以外の人はブッダと一緒に行けずに、輪廻の中で死んでいます。俗世の中で死んでいます。

 だから人間らしい智慧のある人を人間と見なします。胎内にいる時は知らなかったので、生まれたら、人間になるためにイロハを学びます。イロハを学んで知識にするのは、人間になるためです。だからこれは人間のための話と見なします。つまり人間がどのように人間になったか、そしてどの方向へ向かい、どこで終わるか、自分を知ることです。最後の話はまだそこまで行っていないので話さないかもしれません。しかしイロハと呼ばれるスタートについてお話します。

 人間であることのイロハは、他の人たちが話しているものと違います。私は仏教教団員なので、ブッダが教えているように、あるいは仏教の教えでお話します。

 「仏教の教えで」という言葉になると、どの種の仏教かという問題があります。今の仏教には、非常にたくさんのタイプがあります。少なくともテーラワーダと大乗があります。そして新たに分岐した、何と呼んで良いか分からないほど奇妙な仏教もあります。今はテーラワーダ仏教ということにします。つまり三蔵と呼ばれるパーリ語で書かれた教えを守る側だけにして、大乗仏教は除けます。

大乗にも三蔵がありますが、私は「変貌した」と見なします。それに話す目的、教える方法が違い、私は興味を失くしました。私たちが今日使っている経典、つまりテーラワーダのパーリ三蔵のテーラワーダしか興味がありません。

 テーラワーダの三蔵のすべてには、いろんな側面があります。つまり人間として必要な実践、直接人間であることの始めである面です。この部分は、ほとんど誰も関心がありません。もう一部は学習の面で、パラマッタアビダンマ(論蔵)まで高くなりました。これは学習の面です。この部分は益々関心が持たれ、ますます拡散しています。つまり実践から遠のいています。実践から始めないで、たくさん知ること、たくさん喋れることから始めます。説明すること、話すことだけは得意ですが、心に実践がありません。自分の本当の人間性も知りません。つまり今私が話しているようなイロハを知りません。

 同じことを話しても、同じ名前のタンマについて話しても、意味が違います。たとえば触について話しても、あるいは目・耳・鼻・舌・体・心について話しても、学習者のように話します。それにも一つの正しさはあります。しかし実践者のように話すのと意味が違い、目的が違うので、このように違う道を歩きます。実践者は急いで直接滅苦を目指します。髪に火がついているように、急がなければなりません。

学習家にはそういう問題はありません。彼らは、更に知ろうとするだけです。絶えず増え続ける疑問に答える結果、膨れ上がります。知る必要を越えているので、こういう言葉を使わなければなりません。だから「知りすぎると苦難が長い」という言葉が生まれます。あるいは「愚か者はワラ束を抱える」というのは、学習家のためにだけあります。こういう言葉は実践者にはありません。

 「実践についてだけ話すべきだ」と良く観察して見てください。本当のテーラワーダも実践面だけを話し、学習面の話をする必要はありません。終わらせるのが難しく、終わりにできません。読書家なら、ますます際限なく説明できます。実践面にすれば、「初めに問題である苦がある」と、終始一貫理由があります。どこにどう苦が生じるかを見て、苦はどのようか、どこにあるか、あらゆるものはいつ問題になるのかまで、その始まりを知ります。

 生活で関わっているいろんなものは、いつ問題として始まるのでしょうか。答は先ほどお話したように、触と呼ばれるものがある時に始まります。触があった時、あった場所で問題が始まります。目の触でも耳の触でも、鼻の触でも舌の触でも、体の触でも心の触でも、触があればその時問題があります。

 しかしここでもう一度理解しなければならないのは、触にも二つのレベルがあることです。これは説明したことがあります。ただの触、パンパンとぶつかる触も一つの触です。もう一つの触は、心が意味を知った時の触です。この触が無明の威力で問題を生じさせるので、彼らはアヴィッチャーパッサ(無明触)と呼びました。無明の威力による触、愚かさの威力による触です。知識や智慧の威力での触なら問題はありません。苦を生じさせるものは何もありません。しかし私たちは無明や愚かさの威力で触れるので、問題になります。

 目が愚かなら「可愛い。嬉しい。自分。自分のもの」と執着するべき立場で形に触れます。耳が愚かなら、「可愛い。嬉しい。俺。俺のもの」という立場で声に触れます。鼻が愚かなら、魅力的な香りとか、いろんな触れ方をします。愚かな目・耳・鼻・舌・体・心は、可愛い、嬉しいという立場で触れ、このように執着する状態を無明の威力による触と言います。これを「すべての物の始まりである、今言っている触」と言います。

 大部分を見れば、母親から生まれた赤ん坊のほとんどすべては、このような形で世界を見ます。それで考えて見てください。赤ん坊は世界を正しく知るでしょうか。ある人たちは「正しく知るよ」と言います。目も良いし耳も良いし何でも良いので、一般の人が知っているように知るので、正しいと見なします。

しかしタンマの側では、この赤ん坊は世界を正しく知ると見なしません。この赤ん坊は苦と苦の原因について、何も知らないからです。だからその子は普通の人が知っている意味の世界を知り、苦はどのようか、苦の原因は何かを知りません。だから人がこの世に生まれるのは、明や智慧の威力ではなく、中くらいの状態と言います。世界を知るか知らないかと問われれば、知らないと答えます。

 これについてブッダは、「赤ん坊は、初めからチェトーヴィムッティ(サマーディの力による解脱)やパンニャーヴィムッティ(智慧の力による解脱)の知識がある訳ではない。何かを自分のものと執着し、形・声・臭・味・触を自分と執着する無明があるから縁起になり、苦になる」と言っています。普通の赤ん坊はこうです。赤ん坊が大きくなって十分勉強すると、世界をありのままに知るので、赤ん坊から脱したと言います。

 彼らはここからイロハを学び始めます。四五歳の時から学校で勉強するのではありません。学校の勉強は文字を知り、世界を物質的に知るためです。しかしこの赤ん坊は、「こう考えると、いつも苦しくなる」と、自分の本当の心で苦を知り、苦の原因を知り始めます。目・耳・鼻・舌・体・心に触があり、受があり、このように執着するといつも苦しくなります。これを、「赤ん坊はブッダのイロハを知り始めた」と言い、そして「直接ブッダから学ぶ」と言います。

 そしてその人は、「無明による触だから、目・耳・鼻・舌・体・心、形・声・臭・味・触・考えに執着が生じる」と、今話しているように知ります。「問題が明らかに苦になる」と言います。無明による触で目が形を見れば、すべてのものに意味が生まれます。つまりあらゆるものが苦を生じさせます。知識や智慧があれば、苦がないこともあります。しかし世間一般の人のように放っておけば、何もかも苦になります。世間一般の人は胎内から知識や知性を持って来ないので、勉強しなければなりません。今このようだと、つまり真実から学ぶと知りました。

 しかしそれは、ブッダが教えた知識と一致します。ブッダに会う機会がなくても、三蔵を読む機会がなくても、良い感覚と智慧があれば、「こう考えるといつも苦になる。そう考えれば、そう感じれば、いつも苦になる」。あるいは「こうすると、いつも問題が生じる」と気づきます。

 しかし自分でこのように知るには、時間が掛かりすぎるので、ブッダの大悟から利益を得る、つまりブッダの教えを勉強すれば時間の節約になります。そうでなければ、何のためにお寺に来るのですか。説教を聞くのは、時間を節約するためです。ブッダの知識で、早く知ります。全部自分で考えるより早くできますが、一致しなければなりません。正しければ、一致するということです。

 どういうのを正しいと言うのでしょうか。「正しい」と言うのは、滅苦ができることです。哲学式の正誤にしないでください。キリもなく繰り返して、どんどん愚かになります。哲学の「正しい」「誤り」には、何十もの枝がありますが、仏教のはすごく簡単です。滅苦ができれば確実に正しいです。たくさん滅苦できればたくさん正しく、少し滅苦できれば正しさも少しで、全部滅苦できればすべて正しいです。だから自分の智慧で知ることができ、他人を信じる必要はありません。カーラーマスッタの十項目で禁じている、盲信をする必要はありません。

 先生の言葉も信じる必要ありません。ブッダの言葉も信じる必要ありません。ブッダは、「すべての弟子は、私の言葉で話してはいけない。すべての弟子は、自分が明らかに知っている、心にある知識で話しなさい」と望まれました。自分の教祖の言葉で話す必要はありませんが、ブッダが言ったことと一致します。

 これは、全員が努力して真実を正しく知るよう、そして滅苦ができるよう望まれたという意味です。そして、「正しければ滅苦ができる。そしてブッダの言葉と一致する」とつぶやきました。こういうのを、「自分の教祖の言葉で話す必要はない。自分の心の感覚で話しなさい」と言います。それで教祖の言葉と一致します。こういうのを本当の弟子と言います。「結局その人は自分の教祖の言葉で話す必要はない。自分の内面の感覚で話すが、それでもこのように一致する」と、このような原則にしました。

 絶えずイロハを知って、それから本でも何でも全部知る人はこのようになります。自分の心から言葉を発し、パーリ経典の話をする必要はありません。三蔵で話す必要もありません。何の話もしないで、心の感覚で話してください。そうすれば滅苦ができる正しさです。そして三蔵の中のブッダの言葉と一致します。こういうのを私は、実践者のイロハと言います。学習家のように勉強しないで、あるいは記憶し、思索や考察するのではなく、実践者式に勉強します。

 さて「すべては触から始まる。生まれるのも触で生まれ、消滅するまで触に在る。そして苦の話なら、無明の触で、苦でない話なら、明・智慧の触を意味しなければならない」と、最高に重要な一項を発見します。人は通常、すべて無明で触れています。無明で触れるので必ず生じ、無明の触にあり、新しいものを探すために無明による触が消滅すると同時に、消滅します。それが終われば消滅し、新しい話が始まります。

すべてが触から始まり、触で生まれ、触にあります。愚かな触も賢い触も、触が働いている一瞬しか存在しません。触が働かなければ消滅します。だからこれは発生と消滅の話で、絶えず発生と消滅をしています。地球全体も、絶えず発生し消滅しています。体について言えば、この体も、常に触の感覚で発生と消滅を繰り返しています。心も触の話で、いつでも発生し消滅しています。これを、「体も心も感覚もすべて、触の力で時間どおりに発生し、消滅する」と言います。これは内面の世界です。

 次は外面の世界で、形・声・臭・味・触・考え、あるいは目・耳・鼻・舌・体・心から受け取るものも、常に発生し消滅しています。触次第で、触の威力で変化します。触がある時生まれ、触が消滅すると消滅します。このように見える人は、「世界に自分はない」と見えます。この世界に、自分と執着できる部分はないので、執着しない心の人です。

 今はそう見えないので執着します。執着すれば結果は煩悩です。煩悩があれば煩悩の結果があり、つまり愛や怒りや嫌悪や恐れが原因の苦です。ほとんどこの四種類です。これは大きな項目で、それからたくさんの小さな苦に分かれますが、大きなのは、愛と怒りと嫌悪と恐怖です。

 だからこれを勉強するには、これらを知らなければなりません。愛と怒りと嫌悪と恐怖を先に知ります。本当は時々生じていますが、生じても知りません。感じるだけで知りません。愛しいと感じ、怒りを感じ、嫌だと感じ、怖いと感じるだけで知りません。感じますが、それが何か、本当は何かを知りません。

 要するに、「ありゃー、それはただ無明の威力による触の話で、愛、怒り、嫌悪、恐れという結果になる」と知りません。それが消えると、また心に入って、再び心で触があります。あるいは今のように目と耳が開いていれば、目・耳・鼻・舌・体から入ってきます。それ以外の時なら心の話で、記憶として、理解として心に残っている以前の感覚で、自然に考えることもあります。これが、「苦は愛、怒り、嫌悪、恐れ、望みどおりにならない形である」という、最初に知らなければならない真実です。先ずこれを良く知らなければなりません。それからぼちぼち、それらはどう生じるか、どう消滅するかを知ります。

 今これらのイロハについてお話しているので、急いでその先の話はしません。触を良く知るために、今日のテーマ「すべては触から始まる。それは触から始まる」と、ここだけを強調します。

 目からの触は他のものより多いです。目を開けているので、耳が一回音に触れる機会より、鼻が一回臭いに触れる機会より、たくさん見えます。あるいは舌が一回味に触れる機会は少ないです。舌が触れる機会は、何かを食べる時しかありません。暑さ寒さを感じることもあるので、体の方が機会は多いですが、異性間の接触について言えばたまにで、これも少ないです。だから目が形を見るのは、他のものより多いので、「目・耳・鼻・舌・体・心」というように、一番先にします。

 しかし最高に敏捷なのは、最高に簡単に触れるのは、心の話で、一瞬にして考えることができます。一瞬で、過去のことを考えることができます。そして大々的に、世界に溢れることを考えることもあり、それが心を苦しめます。だから心の話は、注意深くしてください。目・耳・鼻・舌・体・心のどこから来ても、みな同じ「触」と呼びます。そして無明による触なら、どれも必ず苦が生じます。

 今日触の勉強をするのは、「触のために目があり、触のために耳があり、何かに触れればいつどこでも、何かが生じる」と、これ一つだけを勉強します。目の触があれば、形と呼ぶものがあります。目の触がなければ、その形は生まれないか、あるいはないのと同じです。声も同じです。耳の触があれば音があります。防げば、耳が聞こえなければ音はありませんが、今は健常者の話をしているので、触がある時はそれ(形・声・臭・味・触・考え)があります。形・声・臭・味・触・考えの外処入は、内処入の触がある時だけあります。

 さてこの触、あるいは接触はどんなものかと言えば、対のものと言わなければなりません。対の物がなければ触れることはできません。触れるとはぶつかるという意味なので、ぶつかるには、少なくとも二種類の物がなければなりません。いろんな物があっても、二つに別れなければ接触はありません。だから触とは接触することで、接触には二つのものが必要です。

 次にこの二種類は、自然に触れ合う物でなければなりません。触れ合う物でなければ、触れることはできません。たとえば目で声に触れるなど、そういうことはできません。声は耳と、目は形と対なので、目で声に触れることはあり得ません。だから正しい対でなければならず、それは六組あります。そして識があり感覚がある生き物である人間を基本にします。

 ブッダが六つに分けた内処入は、目・耳・鼻・舌・体・心で、人間を基準にしているからです。他の動物を基準にすると確かではありません。それに複雑にする必要も、他の動物を知る必要もありません。たとえばミミズを基準にしても、私たちはミミズではないので時間の無駄です。ミミズに幾つの六処があるか知る必要はありません。カニや魚やアリや虫に幾つ処があるか知る必要はありません。

しかし推測するなら、同じ六処があると推測しますが、十分でないものもあり、十分すぎるものもあるかもしれません。タンマは人間のためにあるので、人間を基準にし、そして目・耳・鼻・舌・体・心があり、触を生じさせる対として形・声・臭・味・触・考えがあります。それから順に反応があって、最後に苦になります。何になるかは、その話し次第です。

 ブッダ以前の昔の人も、接触するには対象がなければならないという知識があったので、いろんな話が生まれました。中国の陰陽は何千年も前で、ブッダの時代より古いです。意味は同じですが、別の呼び方をします。陰陽と言うだけで、出合えば何らかの反応が生じる、正反対の二極を意味します。

 今この知識は衰退して、陰陽しか残っていません。それは天と地ですが、別の意味の天と地です。言っている天と地は、触れ合えばいつでも問題があり、それが陰陽です。現代の科学では、プラスとマイナスと言います。一方はプラスの状態があり、もう一方はマイナスの状態があり、触れ合うと問題があり、表出する反応があり、エネルギーであり、いろんなものです。

これは、昔の人も正反対の二つの側があると知っていたということです。二つが触れ合えば問題が生じます。善いことか悪いことかは言う必要はありませんが、必ず問題が生じます。何でもこのような状態が基礎にあり、そして触があれば、いろんな話が始まります。その前はないからです。

 この対が高くなって、最高に高くなると精神の話、名のものである心の話になります。特に最後の対は、善と悪の話と理解します。善と悪が出合うと比較が生じ、価値が生じ、私たちを混乱させて苦しめ眠らせない、善の価値・悪の価値になります。

 物質面は、プラスとマイナスで電流が生じるだけで、善悪に関係ありません。しかし人の心の話は、善と悪の最高の意味があり、望むべき方を善と言いますが、愚かな人だけです。善を望むのも、悪を望むのも愚かな人の話です。ブッダのように賢い人は、これらのものより上にいるので、悪に苦しめられず、善に苦しめられず、それらにどのような執着もしません。

 だからすべての触には二つの結果があります。つまり、善悪と呼ぶ、一般の人が望むものと、一般の人が望ないものです。この世界の対であるものは、問題を生じさせるためにあると知らなければなりません。昔の人のように、中国の陰陽のように言えば、一方ともう一方が出合えば問題が生じます。今私たちは仏教で、六内処(目・耳・鼻・舌・体・心)と六外処(形・声・臭・味・触・考え)の一対があり、触れ合えば問題があると言います。それは六組の対になっていて、内部の六と外部の六が対で、出合えばいつでも問題があります。この出合いを触と言います。

 内部にあるのは目・耳・鼻・舌・体・心で、人間、つまり感覚のある生き物のものなので、感じることができます。目・耳・鼻・舌・体・心は、知る物という意味で、基本に知覚や何やらがあるので、外部の形・声・臭・味・触・考えを感じます。しかしそれらが触れ合わなければその知覚を知らないので、知覚は生じません。何を知ったか分からないからです。目の中にも知る物があり、耳の中にも知覚する物があり、鼻の中にも知覚する物がありますが、触れて来るものがなければ、何を知ったか分かりません。だからその中でジッとしています。

 形が目に触れて目が知覚することを視覚と言い、それが見ることです。声が耳に触れると、耳を通した知覚があり、それを聴覚と言います。臭いが鼻に触れると、嗅覚という鼻の知覚があります。味が舌に触れると、味覚という舌の知覚があり、舌で味を感じます。何かが体に触れて、冷たい、熱い、柔らかい、固い、滑らかなどと体で知ることを触角と言います。抽象である感情(心が捉えるもの)が心に触れると、心がそれを感じ、それを意識と言います。これが対である二つの物の接触によって生じる反応です。一つは内部の六処、一つは外部の六処で、これが触れ合うと視覚という三つ目の部分が生じます。

 この話は、何度も繰り返ししたことがあります。「目にも依存し、いろんな形にも依存して、当然視覚が生じる」というブッダの言葉を引用しました。しかし漫然と聞き、サイが笛の音を聞くように聞きます。誰でもそうです。暗記もでき、唱えることもできますが、聞いてもサイが笛を聞くのと同じです。目と形に依存して視覚が生じると聞いても、声を聞くだけで、本当に自分自身の心に生じているものを感じません。

だからこれからはイロハから始めてください。実践のイロハです。目が形を見たら、視覚を感じてください。耳が声を聞いたら、実際に聴覚を知ってください。だから迂闊でないことがなければなりません。夢中になって愛し、夢中になって怒り、夢中になって嫌い、夢中になって恐れ、夢中で何かしないでください。触れ合いがあった時意識する常自覚があり、接触して目や耳などの触がある時、どう知覚が生じるかを知ってください。

 簡単にまとめると、内部と外部、内の物と外の物がぶつかり合うと、二つの間に識(知覚)という感覚が生まれます。内部とは目・耳・鼻・舌・体・心で、外部とは形・声・臭・味・触・考えで、内部と外部が触れ合えば、その門に識と呼ぶ三番目の物が生まれます。

 三種類が完璧に接触すれば触と呼びます。外部と内部が触れ合あうことを触と呼ぶのは、まだ完璧ではないと見なします。識(知覚)が生じた時に完璧な触と見なします。だから、ブッダは、『ティンナン タンマーナン サンガティ パッソー=この三つのタンマが同時に来ることをパッサ(触)と言う』とハッキリと言われました。サンガティは、一緒に来ること、一緒に到着することです。三つのタンマが同時に来ることを触と言います。これが、「すべては触と呼ぶものから始まる」と今日話している触です。

 

 次は「触とは何か。いつ、どこで、どのように」です。今までより良く分からなければ勉強したと言えません。だから繰り返しイロハを勉強すると言います。触がある時は、目・耳・鼻・舌・体・心に現われる、意味のある形・声・臭・味・触・考えがあります。それが世界です。世界とはそれのことです。

  世界とは、目・耳・鼻・舌・体・心に現れるもので、それを世界と言います。世界と呼ぶものは地球ではありません。物質である地球ではありません。ここで言う世界とは、私たちに触がある瞬間、つまりその物を感じている間、目・耳・鼻・舌・体・心を通じで現れたものという意味です。それを感じていなければ、それはない、生じなかった、まだ生じていないと見なします。触がない時、世界はまだ生じていないので、世界はまだ生じていないと見なします。

触があり、触の結果が心に現れれば、世界が生じたと言います。世界がどんな形をしているかは、その触のある人の愚かさ次第、賢さ次第、無明次第、明次第なので、世界はいろいろに見えます。しかしいずれにしても、「世界は触によって現れた現象。触があるから世界がある」と言うことができます。

 なぜ世界は意味があるのか、そしてなぜ目・耳・鼻・舌・体・心から入ってくるものには意味があるのか、という点を見れば、危険があり、あるいはヒヤッとし、興味深く、注意すべきだからです。そのように触が生じると受(感覚)が生じ、受が生じると煩悩・欲望などが生じるからです。

 もっと詳しく話せば、受があれば、愚かさがその受を引っ掴んで、大切なものとし、自分の物にします。幸福の受ならある種の執着で、苦の受ならまた別の執着ですが、想である理解でその受に執着します。「私」という想、「私の」という想、「美しい」という想、「美しくない」という想、「幸福」な想、「苦」という想。想はたくさんありすぎて、数え切れません。

 このような想があると、「自分はどうだ」といういろんな考えが生まれるので、「それはどうだ」と考える状態を世界、本当の意味の世界と呼びます。だから「私は人間だ」とか、「私はこうだ」、「私はどうだ」、「私は動物だ」、「私は人だ」という考えになります。時には真実でない考えのこともあり、真実と一致しない呼び方、あるいは執着をします。たとえばその考えのせいでイライラしても、いま地獄に落ちていると言いません。熾き火のように熱い、方向を誤った考えは、本当は地獄の生き物と呼ぶべきです。その時間は地獄の生き物です。

 「今自分は地獄だ。自分は地獄の生き物だ。今自分は地獄に落ちている」と考える人がいるでしょうか。誰もいません。愚かな感覚や考えでも、今自分は畜生だと認めません。外を走り回っている犬や猫や鶏やカラスなどが畜生だと考え、内部にあると、つまり受や想や行、そして愚かさを生じさせる触にあると知りません。しかしそのとき内部に畜生がいます。飢えがあれば内部に餓鬼が、恐怖があれば内部に阿修羅がいます。しかしそう見えません。

 だから「何もかも触にある。触の結果だ」と見えないので、ブッダが言っていることを聞いても意味が分かりません。理解できません。ブッダは、すべては触にあると言っています。触で世界が生じます。そこが動物や人物や、地獄や極楽や、悪魔や悪魔の世界や梵天の世界を作ります。何もかも触次第です。

 どうぞみなさん、自分で試験して見てください。自分にはこういう考えがあるどうか、測定して見てください。世界はそこにあり、動物は触にいます。人間も天人も触にいます。あらゆる物、たとえば大地も触にあります。大地に触れなければ、大地はありません。あるいは世界を作り上げるのも、全世界、地球全体も触にあり、感じなければありません。

 ブッダ式にイロハ(発端)を学べば、このように知ります。深遠すぎる話、あるいはイロハでない話にしないでください。まだ非常に誤解をしている人が、「これはイロハではない」と言うのは自由です。彼らが何をイロハとしても、彼らの勝手です。しかし私はいつも、目・耳・鼻・舌・体・心、形・声・臭・味・触・考え、そして触がいろんな物になる話がイロハだと主張しています。

 興味をもってイロハを勉強し直すよう懇願させていただきます。絶対に油断しないください。哲学者になりたがって、膨張した話を探求すべきではありません。あれこれ勉強するのは哲学者です。イロハを知らない人、つまり目・耳・鼻・舌・体・心と、形・声・臭・味・触・考えが識・触・受を作ると知らない人は、非常に滑稽で、哀れむべきです。

 今世界中の人、非常に賢い西洋人でも、仏教を正しく勉強しないので仏教を知りません。そしてイロハの始まり、つまり今私が話しているような目・耳・鼻・舌・体・心の話を学びません。彼らは他の面を勉強します。そして哲学やら何やらたくさん勉強し、アビダンマを勉強します。本物の目・耳・鼻・舌・体・心を勉強して、実際に体に生じているものを知りません。自分の体と言葉と心を教科書にするという意味です。彼らは別の物、経典を教科書にし、何を教科書にするべきかを知りません。体と言葉と心が教科書です。

 だから、このサンカーラの集まりを自分と仮定して、自分にとって最高の利益を期待している人は誰でも、自分という執着を抜き取ってしまうために、ブッダが教えた最高の利益を得てほしいと思います。努力して目・耳・鼻・舌・体・心の話であるイロハを勉強し、すべて発生の始まりである触と呼ぶものを知り、どのように苦になり、どのように消滅するか、触を正しく管理なさい。防ぐなら、触の所で防ぎ、解決も触の所で解決します。聖果に到達するのも、触の時に完璧な理性があればそうなります。本当に何でも触にあります。

 このようにしなければ「不注意な人」と呼びます。その油断は他でもない、目・耳・鼻・舌・体・心を知らない愚かさ、迂闊、軽率があり、それが油断です。目・耳・鼻・舌・体・心に関して賢くない人と言うこともできます。聞くと滑稽です。誰もが、「彼は賢い。できる。自分を知っている」と言いますが、本当は、日常の目・耳・鼻・舌・体・心の話に賢さがありません。こういうのを油断のある人と言います。在家でも出家でも、まだ迂闊な人です。今人が注意深くないので、仏教は不毛です。

 さて次は、ブッダの弟子である仏教教団員に関係のある話を少ししたいと思います。ブッダは、「アウシタン ブタフマチャリヤン アーラーカ ソー イムスマー ダンマヴィナヤ=彼らはパッサーヤータナ(知覚器官)についての真実を知らない」と言っています。パッサーヤタナ、つまり触の器官について正しい知識がありません。それを、梵行(素晴らしい行ない。ブッダの仏教の修行)をしないと言います。彼らはこのダンマヴィナヤから隔たっています。

その人が行動しない梵行。その人はこのダンマヴィナヤ、つまりこの宗教と離れている。つまりその人はこの宗教外だと言っています。その人がパチャーナーティでない時、つまりパッサーヤタナ=目・耳・鼻・舌・体・心の話を明確に知らない時、その人はこの宗教の梵行をしていません。

 発生と消滅を知らず、魅力を知らず、凶悪な害を知らず、その器官の威力を排除する方便を知りません。ハッキリと知るために、/┐呂匹生じるか、⊃┐呂匹消滅するか、触の美味しさ、あるいは魅力はどんなか、た┐龍Оな害はどんなか、イ匹Δ靴燭蕕修譴望,討襪、の五つに分類し、この五つを知らない比丘は、梵行(素晴らしい行ない)と言われません。この宗教の外にいる、このダンマヴィナヤの外にいると言われます。

 その人は触の五つの状態、あるいは様相を知りません。触がどう生じるかを知らず、どう消滅するかを知らず、触にどんな旨味、あるいは魅力があるか知らず、触にどんな凶悪な害があるか知らず、どうすれば触を抑えられるか、あるいはその凶悪さを消せるか知りません。この五つの形で触を知らなければ、その人はこの宗教の梵行をしていない、この宗教の外にいると言われます。怖いです。

 これを原則にしたとき、自分はこの宗教の梵行をしていると主張、あるいは宣言できる人がいるでしょうか。誰かに判断してもらう必要はありません。誰かに言ってもらう必要はありません。自分は今、この宗教の梵行という種類の行動をしているかどうか、自分で審査し、自分で判断します。この宗教のイロハ、つまり触の話を遊び半分にしないでください。仏教のイロハ、つまり「触の話を知らないほどバカな人は、この宗教にはいないが、他の宗教にはいる」と主張させていただきます。

 触はいつ生じ、いつ触が消滅するか、触の魅力は何か、触に潜んでいる害は何か、触の威力に勝つ方便は何か、自分で勉強してください。これを正しい、あるいは十分な触のイロハと言います。

 昼も夜も触を知るよう、あるいは管理するよう、あるいは何としても触に勝つことを望み、不注意にならないよう努力してください。もっと仏教の結果を求めるなら、僧も沙弥も、清信士、清信女も、これしかありません。

お金を稼いで、お金を貯めて妻子を持ちたいなら、そういうのは求めないので、そのようにしてください。しかしそれより高い結果が欲しいなら、このようにするべきです。あるいはその中間にいることもできます。財産やお金や子や妻や夫や何に関わっていても、それなりに触の話を知っておいてください。そうすれば涙で膝小僧を拭わなくてもいいです。しょっちゅうそうする必要はありません。

触の話を知っていれば、その動物は苦が減ります。問題や苦は、触から生じるだけだからです。ブッダの弟子はイロハ、つまり触を学んで本当に知らなければなりません。少ししか知らない人は、努力して勉強しなければなりません。まだ知らない人は、もっと本気で学ばなければなりません。

 少し時間が残っているので、ブッダについて、サンマーサンブッダについて少しお話します。ブッダも触の話を重要なものとしています。つまり『この話を知らなければ、まだサンマーサンボーディアビサムプットーになっていない。私はサンマーサンブッダであると宣言しない』と言って、触の居場所である内処入の目・耳・鼻・舌・体・心と外処入の形・声・臭・味・触・考えを重要な話としています。サンマーサンボーディアビサムプットーとは、サンマーサンボーディを完璧に知った人で、今は短く、「サンマーサンボーディヤーナを悟っていない」と言います。

 ブッダは『もし私が内処入、外処入について知らなければ、まだハッキリ正しく知らないので、自分はサンマーサンブッダであると宣言しない』、つまり『まだ悟っていない』と言っています。ブッダの言葉に、このように明らかにあります。しかしあまりパーリ語を引用したくありません。興味のある人は自分で開いて見ることもできます。経典にも、三蔵にもあります。

サンユッタニカーヤ(相応部)には、処入についてたくさんあります。アーヤタナサンユッタという一つのサンユッタにまとめてあり、この経典は、処入に関した話だけです。今お話したのもあります。ブッダに限れば、「私がまだ内外処入の魅力、凶悪で劣悪な害より上にある方便を明確に知らなければ、その間はまだサンマーサンブッダであると宣言しない」と言っています。

 簡略に言えば、「ブッダが大悟してサンマーサンブッダになった」と言うこともできます。そして私たちはよく四聖諦を悟ったことを大悟と呼び、そしてサンマーサンブッダになった、とだけ知っています。しかし他のたくさんの箇所で、「もしこの話をこのように、その話をそのように知らなければ、サンマーサンブッダであると宣言しない」と、特にこの、内処入と外処入について、「これらの処入につて、その魅力はどうか、害はどうか、何としても勝つ方法はどうかについて明白な知識がなければ、まだサンマーサンブッダであると宣言しない」と言っています。

 ブッダ自身も、触の居場所である処入、あるいは処入で生じる触について知らなければ、サンマーサンブッダと言わないと規定し、弟子に対しては、「パッサーヤタナ、あるいは触の居場所である処入について知らなければ、仏教の梵行と呼ばれない」と主張しています。これだけで、私たちはどう触に関心を持たなければならないか、あるいはこの触、あるいは処入はどれほど重要か、興味を持たなければならない十分な重みがあります。

 しかしもしかすると、これはイロハであると、つまりすべての実践の話よりも最初に勉強しなければならないと私が見なしていることを、他の人はそう見ないので、食い違うかもしれません。彼らは「これは第一義諦で、こういうのは高すぎるから、他のことを先に勉強する」と言います。だからこのように妨害します。だから何を信じるかは、その人次第です。

 今お話していることは、信じてほしくはありません。自分自身で見て、そして自分を信じてほしいと思います。六処を知り触を知れば、その知識で心は高く成長します。つまり世界を良く知り、世界を生じさせる原因を良く知り、世界の消滅を良く知ります。これは四聖諦と呼ぶものですが、苦の代わりに世界という言葉を使っています。

 苦というものはハッキリしています。我慢できません。世界と呼ぶものは騙すものであり、壊れて消滅するものなので、拠り所にすることはできません。しかし人は、本物だ、確実だ、永遠だ、拠り所にできる、非常に望むべきものだと、このように理解してしまいます。

 次に、世界は何から生じるか、どこから始まるのか、どこにあるのか、そしてどこで消滅するのか、世界に関するすべてを知らなければならない、という話になりました。私が話したように理解すれば、世界あるいは苦に関するすべては触で生じ、触で始まり、触にあり、触と一緒に消滅すると見えます。再び生まれるのも触と一緒で、触にあり、触と一緒に消滅します。この言葉を良く見るだけで、仏教の本当のイロハと呼ぶものを知ります。

 さて、私はまだ仏教のイロハについて話しているということです。飽きた人は退屈ですが、私は飽きることを知りません。誰も聞く人がなくても、バカのように一人で話すこともできます。この話だけをするのは、仏教で最高に重要な話で、イロハのように基本であり、イロハのように重要だからです。すべての書物、言語学や一流の文学でも何でも、イロハで成立しています。イロハの音がない語学、文学はありません。最高に基本的なこと、あるいは何もかも、基礎も中間も先端も触の話だけで、他のものはないと見なすことができます。

 仏教では、「内の目・耳・鼻・舌・体・心と、外の形・声・臭・味・触・考えが触れ合って、処入を通した感覚が生じれば触と呼ぶ。触があれば問題があり、触がなければ問題もない」という話ほど重要なものはないと教えていると、繰り返し挑み、繰り返し主張します。

 だからすべての問題を絶つには、触の居場所である処入の話も含めて、触に関して注意深くなければなりません。一語で言えば、触の居場所である処入という意味のパッサーヤタナ、つまり内の目・耳・鼻・舌・体・心と、外の形・声・臭・味・触・考えがぶつかり合って、目・耳・鼻・舌・体・心に識が生じます。初歩の段階での仏教の本物はこの話しかないので、イロハと仮定します。時間になりましたので、今日のお話はこれで終わらせていただきます。

 


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