仕事の中の天国





1989年6月4日

 タンマにご関心のある善人の皆さん。みなさんが、人生や仕事の発展のため、あるいは高いレベルの成功のために、タンマを求めてお出でになったことに、お喜び申しあげます。

 人生は発展しなければなりません。つまり自然の目的を認めなければなりません。自分で生まれる決意をしなくても生まれてしまったのですから、拒否できません。闘いたくなくて、何もしたくなくて自殺を考えるのは、理由がありません。

人生は発展できるものなので、この機に「発展させるために生まれて来た、発展させるために作られた」と考えを自然と一致させて、どんどん発展する機会を探しましょう。そうすれば人間が出会うべき最高のものに出合えます。

 このような時刻に座って会話するのには、意味があります。朝遅くまで寝ている人が知らない世界を知ります。朝寝坊をする人はこのような雰囲気、この時刻の世界を知る機会がありません。彼らはまだ眠っているからです。このような夜明けは興味深い、知るにふさわしい時刻、あるいは悟るにふさわしい時刻です。

 ブッダはこのような未明に、まだ夜明け前に大悟なさったからです。ブッダばかりでなく、他の教祖たちも同じです。だから私は特別な機会と見なします。まったく別世界のようです。まだ暗いうちに、あるいは夜明け前に目覚めない人は、この種の世界に触れる機会がありません。

 そして私たちは木陰に座っています。木陰は気分を良くする自然です。そして不思議なことに、ブッダが生まれたのも木陰で、大悟したのも木陰で、そして涅槃に入ったのも木陰です。仏教徒にとっては「自然に近い人」、あるいは「最大限に自然を愛す人」というような意味があります。

 今日お話しする題は「仕事の中の天国」です。私が「職務の中に天国がある」と言うと信じない人がいて、「バカだ」と言う人もいます。信じないのは正しいです。しかし、それがどのようにあり得るか、考えて、熟慮して見てください。仕事は生き物にとって必要不可欠だからです。いつもしなければならないので、仕事が天国なら良いです。問題はありません。

 仕事を天国にするにはいろんな角度があります。それなりに見えるようにお話します。


(1) 最初の角度は、力を合わせて、自分にとっても他人にとっても最高に価値ある世界を作り上げる、あるいは世界を発展させます。

 次に、仕事は大昔から非常に変化し、今仕事、経済、工業は発展しています。あるいは突っ走っています。その結果、雇用者と労働者と呼ばれる制度が生まれました。そういうのは昔はありませんでした。大昔にあったのは生老病死の友だけで、生老病死の友として、お互いの利益になることをしました。

 世界が変化して産業が生まれ、資本家と労働者が生まれました。しかし幾つかの悪い結果、つまり益々ひどくなる利己主義もついて来ました。野蛮な暮らしをしていた頃は、利己主義は滅多にありませんでした。強欲に奪い合う必要がなかったからです。森で採ってきた物を食べる時代、朝採って夜食べていた時代には尚更です。森に自生している麦を採って食べても、何も問題はなかったと言います。

 しかし貯めること、集めること、経済的威力がある社会制度ができると、その結果知恵のある人、権力のある人が独占するくらいすっかり変貌して、資本家と労働者が生まれました。しかし利己主義はなくならず、倍増して影のようについて来ました。労働者は資本家より有利になろうと画策するので、資本家との闘いが普通のこと、当たり前のことになりました。

 世界は今、資本家と労働者という意味の資本家と労働者の闘いで混乱しています。これは間違った望みで、自然の望みに反しています。あるいは宗教の望み、特に生老病死の友として生きるよう教えている仏教の願いに反しています。

 私たちは自分でこの問題を解決します。労働者、あるいは被雇用者と呼ばれる側も、考えを変えることができます。自分を被雇用者と見ないで、資本家も含めたすべての人間を「生老病死の友」と捉え、世界を美しくすることを目指して働きます。

 しかし給料を賃金でなく費用と見なします。賃金ではなく、世界を美しく平和で穏やかにする義務を行なう、ただの経費です。今みなさんがしているホテルの仕事は、宿泊客に快適さを提供することで、この世界を美しく、快適にします。

 雇い主が賛同しなくても、あるいはこの考えを認めなくても気にしません。みなさんには、そのようにする精神的自由があります。みなさんがそのようにしても雇用者に損害はなく、却って良い結果になり、どちらにとっても良い結果になります。そうすれば可能な限り世界を美しく平和にする、善である仕事をする徳のある人になります。働けば働くほど楽しくなり、仕事の結果も大きくなり、雇用主も大きな結果を受け取ります。だから彼が知っても、反対や妨害はしないと信じます。

 だから名誉な仕事ができると関心をもってください。つまり世界を作ります。仕事は美しい世界を作ることです。互いに生老病死の友なので、友達のように力を合わせて世界を作ります。

 「この世界は、資本家と労働者の構造では解決できない」と、私はこの考えを提案します。資本家と労働者の構造は、利己主義や有利になることの基盤なので、私たちは生老病死の友として暮らし、協力し合って美しい世界を作る仕事をして、世界を共有するべきです。この制度を「タンミカ社会主義」と呼びたいと思います。

 彼らは「社会主義はすべてコミュニスト」と誤解しています。あれは「コミュニストの社会主義」で、タンマによるタンミカではありません。コミュニストは利益を奪う悪い目的の人たちです。つまり独占している資本家を、一方的にやっかみます。復讐者の社会主義はタンミカ社会主義ではありません。

 「私たちは一人では暮らせない。共に生きなければならない。自然によって集団で暮すように作られたので、集団のことを考えなければならない。自分一人のためでなく、人間たちのために働かなければならない」と見る人の社会主義は、教えに則って正しくしなければならないので、タンミカ社会主義という言葉を使わなければなりません。

 コミュニストではありません。復讐者の社会主義であるコミュニズムは掃滅するだけです。タンミカ社会主義と言います。話したら Dammic Socialism と訳した人がいました。関心があったら読んでみてください。

 生老病死の友として協力して世界を発展させる理想は、資本家と労働者の状態で暮すのでなく、生老病死の友の形で暮します。一人一人が力の限り働けば、この世界は美しくなり、人間は安楽に暮せます。これが職務の中の天国で、職務に満足を生じさせます。これは自然の法則でも正しいです。

 ブッダは「天国は目・耳・鼻・舌・体・心の正しい行動にある。地獄は目・耳・鼻・舌・体・心の間違った行動にある。すべては生きているうちにあり、死んだ後ではない」と言われました。

 「天上にある天国、地下にある地獄」は、ブッダが生まれる前に、インドでは非常に強烈に教えられていました。ブッダが生まれても、ブッダは、時間の無駄なので反論しないで、それは目・耳・鼻・舌・体・心にあると教えました。心次第で、正しく行動すれば天国になり、間違って行動すれば地獄になります。

 どうぞ正しさで生きてください。人生を正しく発展させれば、それが生きているうちの天国です。信じなくても結構です。しかし本当かどうか後で考えて見てください。あり得そうだと思ったら、試してみてください。そうすれば自分自身を喜べることに満足を発見します。これが「仕事の中に天国がある」という最初の項目です。仕事は、世界中の人が協力して世界を美しくすることで、偉大な善です。


 (2) 二項目は仕事をスポーツにします。

 スポーツは見ると楽しく興奮するので、たくさんお金を使うと知られています。高いお金を出してスポーツを見に行くのは、人はスポーツが好きだからです。本能でもスポーツが好きで、環境によって愚かにされるので、スポーツを好みます。しかし私は仕事をスポーツにすることができます。これには秘訣があります。

 知性と思考力とサマーディの力のすべてを集めて仕事に注ぎ、最高に本気でしなければなりません。そうすると、成功と失敗の間で闘っている感覚が生れ、仕事がスポーツになります。成功するかしないかの闘いになり、心はスポーツをする人です。

 一方は最善を尽くす決意をし、もう一方は怠け者で気まぐれで欠点があります。しかし最善を尽くす決意をし、最大限の常自覚があれば、二つの間に闘いが生じます。自分、あるいはこの心がスポーツをする人です。このような状態があれば、その人は自分の仕事に最善を尽くす決意があります。

 そして障害、妨害と呼ぶものが生じたら、闘いが生じたらスポーツにして、最終的に高い側の心に勝たせなければなりません。善で美しい側が勝つまで、スポーツのような闘いがあります。このような決意があれば仕事は楽しいのです。

 何をするにも必要不可欠な常自覚で、常に最善を尽くします。サティ・常自覚・智慧・サマーディなどは、最大限になければなりません。文字を一字書くにも、最善でなければなりません。ちょっとした仕事をするにも、ちょっとゴミを拾うにも、最善に行なわなければなりません。どんなに些細なことにも最善を尽くせば、それが満足を生じさせ、最善を尽くしたことに満足します。低い気持ちと高い気持ちの闘いは楽しいです。仕事は、飽きることがない楽しいスポーツです。

 一つの心は勝つことだけを目指し、もう一つの心は堕落や煩悩の威力に引っ張りこもうとします。何でも自分で見れば、二つの気持ちに闘いがあるのが分かります。仕事はスポーツで、スポーツは楽しいです。仕事の中で発見できる類の一種の天国です。仕事は退屈なものでなく、飽きません。


(3) 次に勝目のある、勝利ばかりの仕事にします。子供は「ばっかり」という言葉を使います。私たちは勝利ばかりしかない仕事をします。この項目は深いです。どうすれば仕事に勝てるか、あるいは何にでも勝てるか、知らなければなりません。

 短く言えば「ダイヤモンドである心で働く」と言います。ダイヤモンドである心。勉強してきた自然の意味では、あるいは知られている意味では、ダイヤモンドは最高に固い物で、何でも切れる固さがありますが、他の物でダイヤは切れません。ダイヤは最高に固く、何よりも固いからです。どうすればこのように固い心を持つことができるか、少し勉強して知らなくてはなりません。

 ダイヤモンドである心は阿羅漢の心です。阿羅漢の心を借りて使います。盗むのではなく借ります。ダイヤモンドのような心の固さを、パーリ語でアタムマヤター(無関与)と言います。アタムマヤターという言葉が耳慣れなくても、どうぞ良く聞いて、良く憶えてください。アタムマヤターは最高度の拠り所です。

 何物も変化させられないダイヤモンドのように固くて自由な心を、アタムマヤターと言います。アタムマヤターがあればアタムマヨーと呼んで、阿羅漢です。アタムマヤターとは、何も変化させることができない心があることです。

 アタムマヤターがある人はアタムマヨー、つまり阿羅漢です。みなさんはまだ阿羅漢になることを望みませんが、段階的に、あるいはまだ阿羅漢でない基礎段階で、阿羅漢の道具を借りて使う努力をします。これは一般庶民に説明するのは難しい言葉です。何かに変化させられる心しかないからです。

 みなさんは何かによって変化させられる心しかありません。目の感覚は、心をいろいろに変化させ、耳の感覚も変化させ、鼻の感覚も変化させ、舌の感覚も変化させ、体の感覚も変化させ、心の感覚や考えも、ある方へ変化させ、私たちはこれらに変化させられています。特に旨さ、あるいはプラス面は、全身全霊で愛して満足するよう、人を変化させます。

 そしてマイナス面は、残虐で攻撃的になるよう変化させます。プラスの方へ変化させられれば嬉しく、マイナスの方向へ変化させられれば悔しく、恨んで残虐になります。だからいつでも喜びと悔いしかありません。

 普通の人の心は、このように変化させられて(加工されて)います。心に十分な知識があれば、変化させられません。何かが目・耳・鼻・舌・体・心を通して天国の味で魅了しても、変化させることはできません。人間の味は言うまでもありません。このような心をアタムマヤターがあると言います。あるいは簡単にダイヤモンドと言います。

 普通の人の心はダイヤモンドではないので、何かが引っ張って行くことができます。わずかなお金も引っ張って行けます。酒の瓶も、競馬場も、歓楽施設も引っ張って行くことができます。何でも引っ張って行くことができます。それらに関してバカになり、正常さを維持できないので、引っ張って行くこと、加工することができます。アタムマヤターの心があればダイヤモンドの心なので、何かが引っ張って行くことはできません。 

 簡単に要旨が掴めるように西洋人に話す譬えは、「ダイヤモンドの心のある娘はアタムマヤターで、頭の良い好色男が集団で来ても、口説き落とすことはできない」と言います。そのような心があることが、アタムマヤターの意味です。あるいはダイヤモンドの心のある青年は、美人でも天女でも、一固まり下りて来ても、彼と付き合うことはできません。

 これがアタムマヤター、あるいはダイヤモンドの心です。正しさで安定していて、あちこちへ傾きません。プラスやマイナスへ傾きません。非常に盤石です。その種の心が、終始一貫、正常に働かせます。くるくると変わることがないので、どんな障害も妨害できず、あらゆる障害を断ち切ることができるダイヤモンドのような働きをします。

 働いている時、何が引っ張りに来るか考えて見てください。怠慢が寝かせようと引っ張り、時には強欲が引っ張ってワイロを受け取らせ、いろんな物が引っ張って仕事を駄目にさせます。しかしダイヤモンドの心があれば、何も引っ張れる物はありません。だから楽しく働けます。働いて世界を作り、善である仕事をします。スポーツの類の仕事はずっと続けることができます。ダイヤモンドの心があるので、心配や気掛かり、驚きや疑惑がなく、最高に快適です。

 ここでちょっと、最高に快適なのは、プラスでもマイナスでもないと言わせていただきます。プラスは美味さ、マイナスは不味さでちょっと下品です。上品に言えば、喜んだり悲しんだりしません。どうぞ自分で比較して見てください。「嬉しい、嬉しい」と体が踊るほど嬉しいのは、穏やかな幸福ではないと誰でも良く知っています。

 別種の混乱であり静かさではないからです。悲しみや悔しさも穏やかでなく、形の違う混乱です。非常に喜んで、体が踊るほど嬉しくても眠れません。非常に嬉しくてもご飯が喉を通らず、喜んでいるだけです。悲しみも同じで、すっかり萎れてしまい、残念で眠れず、悲しくてもご飯が喉を通らず、ひどくなると自殺します。これは喜びと悲しみの比較で、白と黒のように違っても、どちらも心を妨害します。

 喜びも悲しみも感じない時が、最高に繊細で上品で柔和です。よく観察して見てください。そういう時が、時にはあります。無くはありません。普通の人にも、時には喜びも悲しみもない種類の心になることがあります。

 その時心は空っぽなので、快適で軽く自由で、阿羅漢の心です。普通の凡人でもそういう心になることがあります。プラスでもマイナスでもなく、喜びでも悲しみでもないのが最高に快適だと、どうぞ観察して見てください。

 このようにプラスでもマイナスでもないように維持するのが、ダイヤモンドの心です。ダイヤモンドの心はプラスでもマイナスでもなく、喜びも悲しみもせず、泣きも笑いもせず、勝ちとも負けとも感じず、得とも損とも感じず、対の感覚がなく、男性・女性という感覚もなく、ただの知性のある人間です。正反対の対の感覚があれば混乱があります。

 ダイヤモンドの心は、対より上にあります。損得を超え、勝ち負けを超え、徳と罪を越え、苦楽を超え、地獄天国を超え、男女を超え、すべての対を超えています。ダイヤモンドの心をアタムマヤターと言います。このように自由で強固な心は楽しく働き、働いている時幸福です。こうすれば仕事が天国になります。


(4) さて、お話したい最後の項目は「仕事は最高の善であり、最高の徳である」です。ブッダと同じように義務を尊重するからです。

 良く聞いてください。「ブッダのように義務を尊重」します。私たちはブッダを最高の人と信じています。しかしブッダより上にブッダが尊重している物があり、それが義務です。タイ語では義務と言い、パーリ語ではダンマと言います。あるいはタイ語訛りではプラタムと言います。これは同じ言葉です。

 ブッダは大悟してブッダになると間もなく、「ブッダになって、これからは何を尊重したら良いだろう」という疑問が生じました。これが大悟したブッダです。最後にブッダは『そうだ、義務を尊重しよう。タンマは義務、義務はブッダのタンマ。ブッダになった人の義務を尊重しよう』と納得しました。そしてブッダは義務を尊重し、義務に忠実にし、世界の誰よりも義務を行ないました。

 ブッダがどのように義務を尊重なさったか、少しお話しします。私たちの話でなくブッダの話でも、ブッダの後に続くことができ、そして良い結果があります。ブッダは一日中義務を行ないました。明け方、このような夜明け前に、人々が「世界を照らす、世界を見渡す」と言う熟考をし、今日明るくなったら誰を助けるか、誰を救うかを、人は「助ける」と言いました。

 ブッダはどこがどうなっているか、誰がどんな状態か観察していたので、今日明るくなったら誰を助けに行こうと決意して、そこへ出かけました。問題を求めてそこへ托鉢に行き、通るべき所を通りました。

 昔の托鉢は今と違って、招かれて家の中で食べました。あるいは他の場所で食べるにしても、家に上がって鉢に盛ってもらいました。だからブッダは、その日救おうと決意をした人と話す機会があり、ブッダの絶妙な話術で、その人にその項目を実践するよう興味をもたせ、満足させました。

 ブッダがその人に興味を持たせ、明らかに分かるまでどんどん興味を持たせ、その人が実践するようになったら「救うことができた」と言います。これがブッダの義務です。

 富豪を救い、貧しい人を救い、ライバルである出家を救うこともありました。ブッダは夜明け前に決意し、そして出掛けました。時にはそこで昼近くなって、森の外れ、村の外れ、都の外れで少し休憩して戻りました。道で会った人誰でも救いました。街道で誰に会っても、その人が興味を持って聞く話題を見つけ、話をして救いました。お寺に戻るのは午後で、それからお寺へ訪ねて来た人を救いました。

 お寺へ訪ねて行く人は午後や夕方が多いので、午後や夕方に説教をしました。宵の口になると常住している比丘や沙弥に教え、真夜中には、ブッダは「天人を救う。天人の問題を解決する」という言葉を使いましたが、天国にいる天人が、真夜中に降りて来ました。国王や大王など、この世界の天人と仮定されている人たちは、好んで真夜中に行きました。兵隊を連れて行ったと、ハッキリと書かれています。

 かがり火を焚いた兵を率いてブッダに拝謁に行きました。国王は敵が多いので、どこへ行くにも護衛兵がいなければなりません。夜中にブッダを訪ねて行くにも、かがり火を持った兵を連れて行きました。夜中は天人の問題を解決し、真夜中を過ぎるとそれも終わり、ほんの少し休みました。

 真夜中すぎから夜明け前まで休み、夜明け近くになると、今日は誰を救おうかと、世界を照らしました。このように循環していました。みなさんはこのような循環で働いているしょうか。

 ブッダと同じように義務を尊重するなら、このように完璧に一循環しなければなりません。ブッダがブッダの義務を尊重するには、あちらの街こちらの街を旅しなければなりませんが、自動車はありません。考えて見てください。ブッダの時代には自動車がありません。今あるいろんな物がありません。そして本当の出家は、牛や馬など動物に引かせる乗り物に乗らないので、ブッダは歩かなければなりませんでした。

 パーリ(ブッダの言葉である経)を調べた限りでは、ブッダが靴や傘を使ったという説明はどこにも見られません。私はそう思います。ブッダはカンカン照りの中を歩き、デコボコ道を歩き、こっちの街からあっちの街まで何ヨージャナ(1ヨージャナ=16キロ)も歩きました。義務を尊重したので、いつもそうしていました。どこかに住んでいれば完璧な日課を行ない、旅する時は歩かなければなりませんでした。

 歩いている途中でも、森の外れでも、救うことができる人に会えば誰でも、苦を消滅させる素晴らしい知識を与えました。そしてブッダは般涅槃する最期の日も、何ヨージャナも歩いています。昼間何ヨージャナも歩いて、般涅槃すると決めていた街に着いたという内容があります。涅槃に入ろうとする日の宵の口に、一人の異教徒が訪ねて来て、お目に掛かってお尋ねしたいと言いました。

 ブッダは間もなく般涅槃しようとしていました。僧たちは全員「世尊の般涅槃を妨害しないでください」と言って追い返そうとしました。普通の人のように、これほどの妨害を認めず、追い返そうとしました。ブッダはそれを聞いて「止めてはいけない。ここへ通しなさい」と言われ、会話してその異教の僧が最高のタンマを知るまで教え、それから間もなく、幾らもせずに般涅槃しました。

 亡くなるまで、最期の一瞬まで働いたと言うことができるでしょうか。これがブッダの「義務の尊重」です。

 パーリ語で義務をダンマと言い、タイ語では義務と言います。私たちはタンマをプラタムと訳すので、プラタムは義務です。義務は生き物にとって最も崇高な物です。生き物が義務をしなければ、死ななければなりません。必ず死にます。あるいは生き延びたとしても、ほとんど死んでいるような生き方で、義務をしないことによる苦があります。人も義務をしなければならず、動物も義務をしなければならず、植物も義務をしなければなりません。

 義務を行なえば生きていけます。義務はこのように重要です。ブッダにはもう一つの義務、つまり他人を助ける義務がありました。最高に自分自身のことをした上に、最高に他人を支援しました。これが義務です。

 だからみなさん義務を尊重してください。すべての仕事は義務であり、タンマでもあります。タンマは義務、義務はタンマです。義務の遂行はタンマの実践であり、タンマの実践は義務の遂行です。どんなに低い義務の遂行もタンマで、農民は田んぼを作り、商人は商売をし、公務員は公務をし、労働者は労働をし、乞食をする人も義務を行ないます。乞食の義務もタンマ、その人のタンマです。

 その人が正しく乞食の義務を行なえば、ほどなく乞食であることから脱します。義務が助けるからです。どうぞみなさん、義務に最善を尽くしてください。義務は命を養います。冒頭で述べたようにどこのオフィスの仕事も、それに最善を尽します。

 家で命を管理する義務は、朝起きたら顔を洗い、歯を磨き、水浴をし、排泄をし、朝食を食べ、皿やどんぶりを洗い、家の掃除をしなければなりません。どの義務も最善を尽くせば、それらはタンマなので、それらの義務を行なうことに喜びと満足があります。

 満足と幸福で顔を洗って歯を磨き、トイレに座って正しい常自覚で排泄をすれば、正しく満足します。座って排泄をしていても、洗顔や歯磨きをしていても、水浴をしていても幸福です。こういうのは、バカな人にはできません。バカな人は仕方を知りません。「義務はタンマ」と知りません。

 することに興味がないので、心が浮ついていて、常に感情で水浴をし、感情でご飯を食べ排泄をしています。体を管理する行動を喜ぶ機会がありません。だからみなさん、本気で体の管理、日常的に体を管理する義務を、正しく、最善にしてください。

 最後は助ける義務、つまり付き合いです。近隣社会と付き合う義務で、自分から見て第二人者はすべて社会と言います。

 両親を助け、妻子を助け、友達を助け、先生を助け、目上の人、指揮監督者を助けます。部下や自分の使用人も助けなければならないので、全部が付き合いです。パーリでは六方と言います。六方とは、前は両親、後ろは妻子、左は友達、右は先生、上は上司、下は部下で六方です。

 彼らに対して最善のお付き合いをします。これが社会的な義務です。そうすれば幸福と満足の感覚がいっぱいで、すべての義務に満足します。生きる義務、命を管理する義務、社会的な義務、すべての義務に正しく満足します。そして自分を喜び、自分に満足し、自分を尊敬でき、自分を拝めるくらい幸福です。

 これが今ここでの天国で、いつどの瞬間にも自分に満足します。義務を尊重しているので、どの瞬間にも正しさしかありません。ブッダが尊重していたように義務を尊重することは、何より崇高なことです。ね、四つ目の義務を尊重します。

 仕事は義務、そして最高の物として義務を尊重して働きます。これを「ブッダを手本にする」と言います。


まとめ

① 仕事を世界を創る一助にする
② 仕事を、満足できるスポーツにする
③ 何にも引っ張って行かれない、ダイヤモンドの心で働く。
④ 仕事を尊重されたブッダを手本に働く

 そうすれば職務の中に天国があり、それは義務を尊重し、義務を崇拝し、義務に落ち度がないことで、終点である涅槃に導きます。

,  今、仕事の中に天国があるように、楽しく幸福に働いて、働いている間中幸福でいてください。炎天下で汗を流して働いても、心が涼しく幸福なら、天国です。この四つの意味で、最高のことをするからです。

 みなさん、タンマという言葉を知ってください。タンマはこのよう、つまり義務です。世界を創り、スポーツにし、ダイヤモンドの心で成功させ、義務を尊重したブッダの後について歩いてください。そうすれば望みどおり、仕事の中に天国があります。

 この教えは、どんな人生のどの段階でも、生涯使うことができます。子供も青年も、主婦も家長も老人も、いつでもこの教えを使うことができます。何よりも人生の伴侶であるタンマがあれば、天国はすべて仕事の中にあります。




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