滅苦はすべての人の義務




 タンマにご関心のある善人のみなさん、このような状態、滅苦の方法、あるいは滅苦の役に立つ知識を求める状態でお出でいただいたことに、お喜び申し上げます。

 このように地面の上に座ることを、どうぞ「ふさわしい」「適切」と捉えてください。なぜなら、タンマは地面の上で生まれたと言うことができるからです。私たちは、ブッダは地面の上で生まれ、地面の上で悟り、地面の上で教えたと知っているので、三蔵のほとんどすべては地面の上で生まれ、地面の上で教えられたと言えるほどです。

 ブッダは地面の上で暮らしていました。何階もある高い建物ではありません。そして最後は地面の上で涅槃に入られました。どうぞ地面の上にはどれほど最高の名誉があるか、地面の上はブッダが生まれた所、悟った所、そして教え、住んで涅槃に入った所と、地面の意味を知ってください。

 このように地面に座ったら、理性があり、迂闊でなく、散漫でなく、理解する心がなければなりません。地面に座ることは、地面の上で生まれ、地面の上で悟り、地面の上で教え、地面の上で暮し、地面の上で涅槃に入ったブッダに心を近づけるばかりです。みなさんはブッダの座臥所に座っているようなものです。

 こう考えて、心の中をこのようにすれば、心はタンマを勉強し、タンマを聞き、タンマを熟慮し、タンマを理解するにふさわしくなります。つまり心を地面の上にいるのにふさわしくします。つまり地面の上に座ることを今の心の基準にします。

 次に滅苦とは何かという話をします。タンマとは何かと問えば、滅苦の方式と答えることができます。知識と、実践すれば滅苦ができる実践、それがタンマです。説教の声でも、唱える声でも、紙に印刷され記録されたものでもありません。

 本当のタンマとは、滅苦ができる、実践すれば苦が消滅する方法体系です。それには先ず正しい知識、正しい理解がなければならないので、知識と理解を滅苦の方式に加えます。

 みなさんはたくさん望み過ぎ、何を望みすぎているのか知りません。滅苦だけを求めないから話がややこしくなります。あれが良い、これが良いと言って、あれを実践し、これを実践します。滅苦を望んで滅苦だけを目指さないので、滅苦に出合えません、何年経っても、滅苦に出合えません。

 滅苦は重要です。仏教の要旨であり、仏教そのものであり、仏教のすべてです。

 ブッダは『過去も、現在も、私は滅苦の話しかしない』と言われています。みなさんが興味を持ち過ぎているのは何の話か知りませんが、奇跡の類の、神聖で霊験のある、理解できない珍しい話です。終わりのない支離滅裂な話なので、滅苦の話、あるいは滅苦になるタンマがありません。だからみなさん「滅苦の話を理解するよう目指し、是が非でも滅苦の実践をする」と決意をしてください。

 次に「苦とは何か。どこでどう滅すか」という話になりました。苦(ドゥッカ)という言葉はパーリ語で、二つの意味があります。一つの意味は、ひどい痛みや虐待に堪えることを苦と言います。もう一つの意味は「すべてのサンカーラ(原因と縁で変化した物)は苦である」という意味の苦です。

 だから苦には苦の状態があり、幸福もすべてサンカーラなので、苦の状態があります。幸福も不変の物でなく、変化する物であり、騙す物であり、「俺の幸福」と執着する愚かな人に噛みつくからです。

 だからブッダは「幸福と呼ばれる物にも苦の状態がある。たとえば石など、感覚や命や心がない物でも、苦の状態があると言うことができる」と言われています。つまり変化し、消耗し、変化の力によって、いつか石は消滅します。しかしこれは遅いので、人間はあまり観察できません。これらの石は、昔は存在せず、そして存在し、消滅に向かって変化しているので、苦の状態があると理解できません。

 私が苦と言っているものには、このように二つの意味があります。生も苦、老も苦、病も苦、死も苦です。これには苦の状態があるので、それを自分の物と捉える人はたちまち噛まれ、苦になります。突然苦になるような苦があります。これが本当の苦です。

 苦の状態があるすべての物に「自分、自分の物」と執着すれば、たちまち噛みつかれます。「苦がある」と言う苦の状態があるのは、苦は重いからです。重い物を持った時、提げた時、背負った時、頭に載せた時を思い出してください。「重い物を持つと重いのでどんなに苦しいか。下ろしてしまえば苦ではない」と言います。

 今私たちの心はいろんな物に執着して、自分や自分の物にしています。それを「掴んでおく。執着しておく」と言います。たとえば五蘊を私の形蘊(体)、私の受蘊(感覚)、私の想蘊(記憶)、私の行蘊(考え)、私の識蘊(意識)と執着します。自分の心で執着するので、心が重くなります。

 ただの五蘊にしておき、自分の物と執着しなければ、苦になりません。だからブッダは『五蘊への執着は苦である』と言っています。つまり、自分、自分のという執着で捉えている五蘊は苦です。

 次にその蘊はすべての物を意味し、世界にある何もかも五蘊に含まれます。あるいは四大種も、土・水・風・火も、それに含まれます。それを自分の物と捉えることはできません。内面の目・耳・鼻・舌・体・心を自分の物と捉えれば、すぐに苦になります。自分の物と捉えると重くなるので、苦になります。形・声・臭・味・触・考えの六つを自分の物と執着しても、たちまち重荷になります。何でも執着すれば、重荷になるだけです。

 簡単な譬えでは、石を持てば、あるいは提げれば重いです。金の延べ棒を提げても重いです。ダイヤモンドや宝石の固まりを提げても重いです。持って重くない物は何もありません。価値のない石や土や砂も提げれば重く、ダイヤモンドや金銀財宝などのように最高に価値のある物も、提げれば重いですが、提げなければ重くありません。

 だからブッダは『重荷を持つことは苦であり、重荷を置いてしまえば幸福』と言われています。たとえば「俺、俺の物」の話で悶々として、あの人に腹を立て、この人を罵り、あるいは鬱々としているのは何かを狙っていて、そして思い通りにならないからです。だから腹が立ち、悶々とします。

 下ろしてしまえば、振り払ってしまえば、俺の物と認めなければ、俺の物にしなければ、途端に軽くなります。何かで腹を立てている時、その問題を捨ててしまえば、途端に怒りが治まるのと同じです。

 受け入れて心が重いなら、「自分の物ではない」と振り払ってしまえば、とたんに軽くなります。このようです。「重荷を下ろしてしまえば苦ではなく、幸福と言う」と言います。重荷を提げていれば苦です。仕様がありません。

 みなさん、毎日の暮らしを良く観察して見てください。毎日自分の生活から学ばなければなりません。苦は内面である心にあるので、外部の話を基準にすることはできません。心は内面にあるので、苦があれば、心の中にあるからです。

 だから心の中を見て、今何に執着しているから苦があるのか、見なければなりません。たとえばお金や物のことで「もしかしたらいろいろ失うかもしれない」と苦になり、子供や孫や妻や夫のことでいろんな苦になり、名誉名声の話で気が重くなり、苦になる人もいます。

 それへの執着を捨ててしまわなければなりません。「自分」「自分の物」でなく、「関わって来ただけの物」にし、そして「俺、俺の物」と執着しない類の良い対処をします。どんな対処でもしてください。物、お金、財産、孫や甥姪、子、妻、夫、名誉、名声、何でもするべき対処をしてください。「俺、俺の物」にしようと思わなければ、苦はありません。苦にならないで、いろんな準備ができます。

 田んぼの仕事をしたければ、楽しくしてください。苦になるほど何かに執着する必要はありません。果物を作るのも同じです。楽しく働いて、「俺、俺の物」と執着して苦になる心を持たないでください。

 聞くと不可能な話に、あるいは夢のような話に聞こえますが、本当にできる話で、しなければ苦があるだけです。他に道はありません。捨てずに掴んでいれば、必ず苦になりますが、掌握しなければ苦になる物は何もありません。どんなに仕事が多くても、苦を生じさせずにすることができます。

 これです。練習し直してください。稲作でも果樹園でも、商売でも公務員でも、どんな仕事をするにも、きつい仕事の労働者でも、軽労働でも乞食でも、何かを「俺、俺の物」と捉えないで、自然の物、原因と縁でなるようになる物にしてください。

 手に入れなければならない物は、そのようにし、対処しなければならないことは、そのように対処してください。しかし敢えて「俺、俺の物」にしてはいけません。途端に噛みつかれます。

 善や徳と呼ばれるものも同じで、ブッダは「俺、俺の物」と執着してはいけないと教えています。執着しないでします。お金が欲しければお金を手に入れる行動をし、快適さが欲しければ、快適さを手に入れる行動をします。煩悩の餌である物を煩悩の餌にしないでください。「俺、俺の物」の話にしないでください。

 だからみなさんは「俺、俺の物」と執着しないで、思い込まないで、子や妻や夫を持つことができます。こういうのもあります。重要な意味は執着にあります。「俺、俺の物」と執着しなければ苦はありません。悩みも焦燥も憂鬱もありません。

 タンマを知りたい人、滅苦をしたい人は誰でも、もっぱら自分の心の観察し、今心が何を掴んでいるかを見、心を維持しなければなりません。苦があるなら、疑うまでもなく何らかの執着があるので、見つけて捨ててしまいます。

 今日何かで悩んでいるなら、何か分からなくても憂鬱で不安なら、見てください。座って休憩して見ると、必ず執着していることがあります。俺にしようと、俺の物にしようと、俺の思いのままにしようと目論んでいる物があります。苦になりたかったら、執着し続け、苦になりたくなかったら捨ててしまいます。「俺、俺の物」にしないで、心を新たにします。これは難しく、簡単ではありません。

 しかし理解して正常に実践していれば、難しくありません。簡単になります。非常に愚かなら、この話の意味がまったく分からないので、難しいですよ。何よりも難しく、どうしたら良いか、どうするのか分かりません。しかし執着を見るのに慣れていれば、あるいは嫌うことも恐れることもなければ、苦はありません。理解が増すばかりです。

 だから毎日毎日、何の苦があるか、苦しいか、苦があるなら、何で苦しいのか、あの事、このことに気づく度に、良く心を意識します。朝から昼まで何回あっても、気づくのは全部執着の話です。苦になるまで気づいたのは、昼から夕方まで幾つあるか。宵の口から寝るまで幾つあるか。苦である話、憂鬱な話、焦燥する話はたくさんあります。良く見てください。何に執着しているか気づかなければなりません。ここでし間違うと感覚が止まり、それらに執着してしまいます。

 お金など、無ければならない物に関わる苦も、苦であり心配であり、気がかりで眠れなくて、神経症や精神病になって死んでしまうこともあります。だから捨ててしまいます。しまっておかないで、心を正常にします。心を正常にして、それからどうするか、どのように所有するか、どう保持するか、どう維持するか、どう使うか考えます。そうすれば苦になる必要はありません。

 しかしそれは非常に繊細な仕事で、心がガサツな人はたぶんできません。愚かすぎる人もたぶんできません。いつでも良く調べないで盲信して、執着について何も知らない人もできません。しかし普通の人、正常な人は、正常な考えや感覚があり、正常な知性があるのでできるはずです。

 「これは苦だ。このように執着するから苦しいのだ」と見て、執着せずにします。問題解決や闘い、裁判や何かの闘いでも、執着して苦になっている心を棄ててしまい、執着しないで事を進行させます。そうすれば良くでき、そして勝ちます。それを(何かと)思い込んで断定しません。そうすれば火で炙られるように苦しくなります。そういうのは勝つ術がなく、無駄に苦しいだけです。

 だから誰でも、自分の心を見つめなければならない義務があるということです。これです。よく聞いてください。今何かに狂って執着して、心が火や炭になっているか、あるいは何にも執着していないか。誰にでも、自分の心がどうなっているかを見て、心の現状を知る義務があります。

 何かに執着していれば、心は火に炙られるように苦しく、何にも執着していなければ心は正常だと、煩悩が生じなければ苦が生じないので正常だと、ハッキリと見ます。

 しかしまだできません。まだ愚か過ぎます。執着だけが癖になっています。あるいは「俺は執着する。俺は認めない。俺は絶対こうする。執着しなければいけない」と自慢します。だから必ず苦になります。仕方がありません。誰も助けてやれません。どうぞ、みなさんは自分の心をいつでも覗いて見なければならない義務があると受け入れてください。

 何にも執着していない時はいいですが、何かに執着したら払い捨ててしまってください。心を正常にして執着しなければ、心は爽快で、楽しく働き、快適に働けます。仕事をしても楽しく、休息しても楽しく、何をしても楽しいです。正しいと知っているので苦になりません。もし苦しければ正しくありません。苦がなければ正しく、正しければ苦はありません。同じです。苦にならない点からも、正しさの点からも見えます。

 心を正しく維持すれば苦はありません。でなければ苦がいっぱいです。財産があれば財産ゆえに苦があり、牛や水牛や田畑があれば、牛や水牛や田畑ゆえに苦があり、お金、物品、妻子、夫、何にでも執着するので、苦になります。だから執着しないで所有し、執着しないで関わります。執着のない心で使って、食べて、仕舞って、維持します。そういうのは軽快で苦がありません。昼も夜も、寝ても覚めても苦はありません。

 だから心に執着が生じないように、注意を心がける義務があります。通常、何かが触れた時に生じます。目に何かが触れた時、耳に何かが触れた時、鼻に何かが触れた時、舌に何かが触れた時、体に何かが触れた時、心に何かが触れた時、その時愚かなら、いつでも心で執着を作り出します。概略はこのようです。

 何かが触れた時に心が愚かなら、「俺、俺の物」という方向で考えます。「手に入れた。失った。負けた。勝った」は、すべて「俺、俺の物」の話です。こういうのはどうしようもありません。誰も助けてやれません。必ず苦になります。必ず苦があります。仕方がありません。

 そうしないためには「それは何か、それはどういう状態か、どうしなければならないか、どう対処するべきか、どう解決するべきか」、考えたら実行してください。あるいは何もする必要がなければ、何もしなくて良く、止めます。それらを何とかしなければならないなら、目・耳・鼻・舌・体・心のこと何でも、触れて来た瞬間に間に合う賢さがなければなりません。

 「間に合う賢さ」というのは、世界中で原則にしています。宗教の話でなくても「間に合う賢さ」という原則があります。

 間に合うとは、何かが起きるのに間に合うことで、何かが起きるとは、触れてくる物がある時、遅ければ苦になってしまい、賢さが間に合わないからです。

 間に合う賢さにするために、間に合うようにサティが素早く知識を運んでくるように、サティを敏捷にする訓練をします。これがカンマターナ(念処。業処)をする理由です。

 正しく言えば、サティが早く十分にあるよう訓練すれば、間に合う賢さになります。目・耳・鼻・舌・体・心に何かが触れて来た時、間に合う賢さになるので、それはそういう自然だ」と知ります。激しく急激で、内心に痛みがあっても、あるいはどこが痛んでも、「そういうこと。それだけのこと。なるようになる」と知って、苦にならない状態でします。

 痛んだら「それだけ」です。自分の神経系統に自然に生じた感覚にすぎません。そういう神経系統はそうなのです。当たり前です。痛みはただの痛みにすぎない物、サンカーラ(心身)の物、ただの自然、当たり前の物にしておき、「俺、俺の物」にしません。そうすれば痛みは減ります。目いっぱい激烈な「苦」になりません。

 何が生じても、すぐに「それはそうなる」と見るサティがあります。

 たとえば目から美しい形が入ってきても惚れないで、「それは、そういうもの」。醜いのが入ってきても、「そういうもの」。腹を立てたり嫌ったりしません。耳から美しい声が聞こえてきても「そういうもの」で、それに惚れません。耳障りな声が聞こえても、「そういうもの」で、嫌いません。鼻から良い匂い、悪い臭いが入ってきても同じです。それはそういう物なので、愛したり嫌ったりしません。

 舌の美味しい不味いも「そういうもの」なので、愛したり嫌ったりしてバカになりません。最高に魅了する体の接触である体の面も「そういうもの」です。

 心を正常にしてから、放り捨ててしまうべきか、あるいはどう対処すべきかを考えます。こうすべきと考えたら、サティですれば苦はありません。サティがあればこのように防ぐことができます。

 だからヴィパッサナーや念処をするにも、サティのある練習をしてください。寝言のようにバカみたいな練習をしないでください。地獄を見る、天国を見る、素晴らしくなる、神聖になる、霊験を手に入れるようなのは、すぐに精神病院に入院します。それにサティも得られません。有益に使えるサティがありません。

 心の正常さを維持するサティがあるよう訓練してください。そうすれば「何が何か」真実のままに知ります。神経系統で感じたら、それは神経系統の感覚にすぎません。「そういうこと」です。「俺、俺の物」にしないでください。そうすれば苦になりません。

 次に個人的な問題についてお話します。このようにすることを知っていれば、苦はありません。苦になる必要はありません。友達や同時代人である他人も、お互いに利益になる行動をします。自分に苦がない時は、他の人が苦にならないように助けます。そういうこともすれば完璧で、自分の利益にもなり、他人の利益にもなります。そしてこの地球上の誰も不幸ではありません。

 不幸になる人は誰もいません。誰もがタンマで正しい行動をするからです。苦のある人が誰もいなければ、それで十分です。それ以上望むのはバカな人です。それ以上を望めば狂います。全員が幸福なら十分と言います。苦のある人が誰もいなくて、誰もが自分の苦を全面的に消滅させれば、十分であるべきです。それ以上望めば、狂気で、愚かで、迷いです。煩悩の話なので話しても時間の無駄です。毎日、毎分、毎秒、一日中、一晩中苦がないようにするのは、自分の義務をすべて正しく行なうことに懸っています。

 どんなことも、うっかり「俺、俺の物」を生じさせません。目が覚めた時正常な気分で、怒りや恨み、あるいは気懸りがなく、「俺、俺の物」であるいろんな話がないように暮らします。気持ちが正常で正しければ、目が覚めたらどこへ行きますか。

 トイレへ排便に行くなら、何も支障がないように、普通に正常にします。バカな人は不注意で、どう排便するのが正しいか、どうすれば最善かを知らないので、正しさを維持しません。しかしサティのある人、仏教教団員、ブッダの弟子なら、最善にします。

 排便も排尿も、できるだけの最善を尽くし、いきみ過ぎや不衛生による害がないよう、病気にならないようにします。これです。排泄するにも、トイレから出るまでのすべての瞬間が正しいと言います。そして水浴しても正しく、最高の理性で最善にします。手桶で水を汲んで掛けるにも、最高に正しく水を汲んで掛けます。水浴が済んだら浴室を出て、正しいと感じ、そして満足します。

 食事の時は、食事をしている間中神経質に腹を立てないで、正しくし、そして満足します。一口食べて美味しくないと腹を立て、美味しいと溺れて陶酔すれば、心は上がったり下がったりします。満腹するまで、天国と地獄を何度も行き来するように、上がったり下がったりします。

 そうしなくてもいいです。そうする必要はありません。美味しいのも「そのよう」です。食べるべきなら食べ、食べるべきでないなら食べません。美味しくても「そのよう」で、味はそういうものです。栄養があれば食べます。食べるべきでなければ食べません。

 あるいは果物を噛んで酸っぱければ、こういう果物は酸っぱいと知ります。食べたくないなら食べません。怒ることはありません。恨まなくてもいいです。酸っぱいと思ったら、「そのよう」で食べられます。あるいは味がなくても食べられます。食事をしている間中、腹を立てることは何もありません。終わったら「正しい、最高に良い」と感じ、そして満足します。

 次に仕事をします。常にサティがある感覚で働きます。階段を下りて車に乗り、仕事に行きます。職場に着くまで車に座るにも正しくし、そして満足します。

 職場に着いたら腹を立てないよう、喜んだり悲しんだり陶酔したりしないよう、最高の理性で最高に良くするよう、しっかり心の準備をします。まとめると、喜んだり悲しんだりしなければならない物は何もない、と言います。

 正常な心で働いてください。そうすれば「職務はタンマ。義務はタンマ。タンマは義務」という真実を知ることで、とても気力があります。義務を行なう時はタンマの実践で、タンマの実践をする時は義務を行なう時。そう考えれば、楽しく働けます。

 愚かな人、怠け者、自分に正直でない人は、仕事を愛さないで嫌々働きます。そのように考える方法を知りません。仕事はタンマであり最高の物なので、仕事を愛しません。嫌々仕方なくします。遊びに行きたくて、欲情が欲しくて、そっちの方が欲しくて嫌々働きます。だから働いている間中地獄です。

 しかし「職務こそがタンマ」という真実を見れば、危機を脱すことができます。危機から脱すよう助けるのは、「成し遂げた仕事」です。どこかの神様、どこかの精霊に助けを期待しないでください。それはバカです。騙されて神様や精霊に祈願するためにお金を使い、非常に大きな被害になります。神様を雇って助けてもらうにはお金が要ると、このように騙されます。

 助けてくれる物は「義務」、「正しく良く行なった義務」です。義務はタンマ。タンマは義務。タンマはブッダの教えであり、それは義務です。

 みなさんは子供たちに「タンマとはブッダの教え」と教えます。そう聞けば子供は意味が分かりやすいので、それも正しいです。

 しかし本当は、ブッダの教えは義務ばかりです。あの人はああいう義務、この人はこういう義務。最も高い義務は、心を維持し、心が間違いをしないよう、苦を生じさせないよう世話をすることです。それが最高の義務です。ヴィパッサナーやカンマダーナ(業処。念処)をするのは、つまり心が間違いをしないように維持するのは、最高の義務です。

 要するに、義務は苦から脱す助けになるものなので、正しい義務で楽しく暮らしなさい。そうすれば義務を行なっている時、幸福になります。義務を行なっている時は非常に幸福で、本当の幸福でもあります。そうしなければ、何一つ手にすることはできません。

 そして自分の義務を楽しく行なえば、義務を行なっている時に幸福な感覚が生じます。仕事の結果も得、幸福も得ます。幸福を求めてどこかへ行く必要はありません。本当の幸福はお金で買えないからです。お金で買えれば、騙す陶酔にすぎません。陶酔はお金で買えます。キリがないのでお金が足りなくなります。しかし本当の幸福はお金では買えません。そしてお金が要らないので、お金が余ります。

 心を本当の幸福にしてしまえば、昼も夜も義務を行ない、幸福を買うためにお金を使わず、お金は余ります。だから本当の幸福はただで貰えます。騙す陶酔は、たくさんお金を出して買わなければならないので、一文無しになります。

 これです。よく聞いてください。本当の幸福なら、一銭も使う必要はありません。ただで貰えます。マヤカシの陶酔、美味しい楽しい陶酔なら、お金を使わなければなりません。そしてたくさん使います。美味しければ美味しいほど、何も考えられず、欺瞞に溺れ、スッカラカンになるまでお金を使います。

 借金をして不正をしなければならず、その結困窮するのは必至で、一文無しになることも、刑務所に入れられることもあります。お金が足りなくなるほど、不正をしなければならないほど、騙す陶酔を崇拝するからです。

 だから義務は最高の物、ブッダが行なうよう教えている物と知れば、行なった時満足し、満足した時は幸福です。その幸福は満足が原因と、明らかに理解してしまわなければなりません。不満なら幸福はありません。非常に満足なら非常に幸福で、少し満足なら少し幸福です。純粋に満足すれば純粋に幸福で、ずるい満足ならずるい幸福で、煩悩の満足なら、煩悩に騙されているマヤカシの満足です。

 だからその満足は、タンマの面から見て正しくなければなりません。騙す物に満足するのではありません。あるいは「私には奪って恐喝し、盗む義務があるので、自分の義務をすれば満足」と、ヤクザのような言い訳をしません。そういうのはヤクザな話で、疑うまでもなく、刑務所や鉄格子の中で終わります。

 正常な人なら「それは悪い。悪だ。間違っている」と常識で分かります。誰も望みません。ヤクザな人たちは、悪だ、間違いだと知っていてもわざとします。煩悩を抑えられないので、欺瞞にしたいので、本当の幸福を欲しがりません。ヤクザな人たちが本当の幸福を欲しがれば、仕事を探し、そして働いている時に満足して喜ぶので、食べきれず、使いきれないので、間もなく自立できます。

 これは非常に重要です。「仕事はタンマ、タンマは仕事」と良く憶えておいてください。働けば満足するので、タンマを崇拝し、職務を崇拝します。どんな仕事をするにも、初めに手を合わせて拝めば、心が安定します。仕事部屋に入る前に、仕事部屋を拝みます。田を耕すなら水牛を拝み、鋤を拝んで、それから田を耕します。こうすれば心が最高に安定して幸福です。

 「すべての仕事は、ブッダやとすべての智者が教えている最高の物。すべての仕事は危機から脱す助けをする」という真実を知っていれば、人から「気が触れた」と笑われる心配はありません。

 すべての仕事は、危機から脱すのを助ける神様なので、仕事を崇拝し、働く時刻になったら、「ナモー タッサ パガワトー」のように心を集中させ、サティを集中させて働きます。誰かに言う必要はありませ。心の中でそうして心を集中させ、それから仕事をします。田んぼの仕事も、商売も労働者も、何をするにもこのように心を良く安定させれば、仕事が終わるまで、働いている間中ずっと幸福です。

 仕事が終わって家に帰れば、正しいと満足します。一歩一歩、満足を感じて帰宅します。ご飯を食べるのも水浴をするのも、排泄をするのも同じです。同じようにすれば何でも満足します。正しいので満足します。正しいと満足します。

 寝る時刻になったら、その日正しく満足したことが幾つあり、失敗して正しく満足できなかったことが幾つあったか、勘定します。すべてに正しく満足したと見たら、自分を拝みます。自分を拝めることが本当の天国です。つまり「すべて正しくできた。誤りは何もない。あるのはタンマの正しさだけ」と感じた時、自分を拝むことができます。本当の天国、騙さない天国です。

 死んだ後の天国は確かではありません。騙す天国、寝言の天国もあります。快楽でいっぱいなのは騙します。今、正しく自分に満足している冷静な天国です。正しいと感じている間中、本当の天国で休息しています。正しく満足すれば、正しさに満足すれば、自分を拝むことができます。

 毎晩寝る前に、このように自分を拝むことができれば、それはすべてを拝むことです。ブッダを拝み、タンマを拝み、僧を拝み、両親を拝み、先生を拝み、何でもすべてを拝むことが、自分を拝むことに含まれています。つまり自分を拝めるほど最高の善があれば天国です。

 地獄とは自分の顔を嫌うことです。何かをして、自分を嫌いと感じる時は地獄です。これが本当の地獄です。このような地獄は死んだ後の地獄ではありません。自分を嫌っている時の地獄は、生きている時の地獄です。だから地獄が無いようにしてください。何かして自分を嫌うのは地獄です。

 自分を拝めることだけにしてください。これは確実に本当の天国・地獄です。「胸の中の天国、心の中の地獄」です。昔の人は正しく言っていました。しかし愚かな人は聞いて意味が分かりません。意味が分からないので、「死んだ後天国に行く。死んだ後地獄に行く」と考えます。こういうのは穏やかな幸福ではありません。

 反対に心の中にある本当の地獄・天国が見えず、意味が分からないのは愚かすぎる人です。それくらい愚かならタンマを知ることはできません。「胸の中の天国、心の中の地獄」を知ることはできません。考えられません。それで、それ以上に高いタンマを知ることなどできるはずがありません。だから急いで、初めに、知らなければならないことを考えましょう。

 した時に心が晴れ晴れして自分を拝めれば、それが生きている時の天国です。した時に自分を嫌いになり、うんざりするなら、それが生きているうちの地獄です。この種の地獄がないようにしてください。いつでも思い出すと、良く考えると喜びを感じ、自分を拝んでいる天国だけにしてください。

 「寝る前は勘定をする大切な時」と言うのは、毎日寝る前にチェックして見て、正しく満足することだけで、自分を拝めれば天国なので、本当の幸福を感じながら眠ります。考えて見てください。お金は、ほとんど使う必要がありません。働いている時に幸福になり、している仕事に満足を感じてしまいます。欲情を買うのは、五欲の遊びに行くのは、ありません。欺瞞や熱い話は、何のためにするか分りません。涼しいこと、つまり正しいこと、正しくて満足し、満足して幸福になると明らかに見えることだけにします。

 幸福な感覚は満足から生じ、満足は正しさから生じるので、一日中一晩中、寝ても覚めても極めて注意深く、正しさだけがあるよう維持しなければなりません。すべては体にあります。お寺やどこかにあるのではなく、体と心にあります。

 だから内面を見なさい。間違いがないように、正しさだけにするために、心で心を、心の中を見てください。これを、本当の仏教教団員と言います。このような心があれば、ブッダのような心、プラタムのような心、僧のような心があります。それからブッダに到達し、プラタムに到達し、僧に到達します。同じ心があるからです。

 だから本当の仏教教団員になりたい人は、急いでこのようにしてください。心に正しさだけしかなければ、ブッダ、プラタム、僧の心のような満足、喜び、歓喜、喜悦があります。

 これです、苦はありません。この種の心に苦は生じられません。滅苦であり、いつでも涅槃の冷静さがあります。もう一つ簡単に言えば、涼しい暮らしで、涼しい生活は涅槃です。暑い暮らしは輪廻で地獄です。清涼な命になり、満足でいつでも自分を拝め、いつ自分のことを考えても、即座に自分を拝めるまで、すべての事項に対処してください。これが、まったく苦のない涼しい暮らしです。

 みなさんが急いで理解する努力をし、満足できる涼しさに出合われるよう望みます。無駄死にしないでください。無駄死にしないでください。生まれて来て無駄に死なないでください。どこを見る必要もありません。どこを駆け回る必要もありません。心の中だけを見て、執着を生じさせないよう、迷いを生じさせないよう、愚かさを生じさせないよう管理する方法を見つけてください。

 特に目・耳・鼻・舌・体・心に触れて来る物があると、私たちには外部の物が触れる場所である目・耳・鼻・舌・体・心があり、何処にも捨てることができません。目・耳・鼻・舌・体・心は必ずあり、あれば触れてくる物があります。つまり形が目に触れ、声が耳に触れ、臭いが鼻に触れ、味が舌に触れ、触が肌に触れ、考えが心に触れるので、接触があります。

 接触がある時は、愚かにならないよう、愚かさで触れないよう対処しなければなりません。愚かさを介入させなければ、考えや執着をしません。それは止まり、静かです。正しさの中にいれば、正しさだけにすれば苦になることはありません。

 サティがぼんやりすれば、サティが弛んだ自然のままになるので、愚かさしかありません。愚かさがあれば、考えは煩悩の方向になるだけです。貪り・怒り・迷い、執着、俺、俺の物で火のように熱いです。これしかありません。管理できるサティがあれば涼しいです。「水のように」とは言いません。水よりもっと涼しいからです。

 利益になる物を求めてお出でになったみなさん、後で自分の拠り所にできる利益のある知識と、理解を受け取ってください。つまり毎日毎日、寝ても覚めても、いつでも自分の拠り所になる行動、正しさと満足しかない生活です。朝起きてトイレに行く時から、水浴をし、ご飯を食べ、仕事に行き、皿を洗っても、皿を洗う手伝いをしても幸福なのは、それを義務と考えるからです。義務はタンマと考えるので正しく、そして満足します。

 だから使用人が皿を洗い、掃除をするのを手伝っても満足します。正しく、そして満足します。高い仕事も正しく、そして満足します。正しくて満足しない物は何もありません。お金を使う必要のない本当の幸福で、お金が余ります。仕事の結果であるお金は、何にも使えるので、後で考えます。それは別の話で、難しくありません。

 お金が残ったら何に使うこともでき、直接利益のあることに使います。本当の幸福になるには、お金を使う必要はありません。「仕事はタンマの実践、タンマの実践は仕事」「仕事はタンマ、タンマは義務。義務はタンマ」と感じて働いている時は満足し、瑞々しい幸福です。

 仕事は、私たちが危機を脱すのを助けます。いろんなお守りを首に提げないでください。無駄です。危機を脱す助けになりません。正しく行なった義務が危機から脱す助けをします。いろんな霊験のある物に依存していれば仏教でなく、仏教教団の話でなく、呪術です。時間の無駄をする必要はありません。

 ブッダが教えているように、自分を拠り所にしてください。そして自分で自分の義務を行ない、そして満足し、喜び、歓喜し、いつでも自分を拝みます。話はこれで終わりです。

 人間に生まれたら、滅苦をしなければならない義務があると言います。あるいは苦を生じさせないように注意深くするのも義務で、苦が生じないように注意することも義務です。生じている苦を消滅させ、何としても消滅させるのも義務です。自分の苦を消滅させたら、人間同朋が滅苦をするのを手助けします。だから自分も、人間同朋も幸福になります。これで話は終わりです。

 みなさんがこれを良く熟慮し、この方法で自分を維持し、幸福と平安があり、いつでも涼しい生活をなさるよう望みます。







苦が生じるのは

  触の時に間違って見るから

  苦は心に生じる


  触の時に愚かでなければ

  苦は生じない


  触の話を理解すれば

  苦は生じられない



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