ブッダ式経営





1988年10月28日

 みなさん、今日は「ブッダ式経営」という題でお話しさせていただきます。しかし仏教徒や仏教には、別の事業があり、みなさんの事業と違います。高さが非常に違うと言うこともできます。つまり精神面を目的にしています。ですから仏教の教えで講義を進める中で、みなさんは自分で調整、あるいは選ばなければなりません。

 みなさんがブッダ式を望むのは、いろいろなタイプがあって選べるので正しいです。しかし今日はブッダ式の話をするので、仏教の要旨である教えで話さなければなりません。どれだけ馴染めるかは、みなさんの調整の仕方次第です。

 仏教の特別な要旨は滅苦です。ブッダが『過去でも現在でも、私は苦と滅苦の話しかしない』と言われているからです。苦について話すのは、苦を知るため、苦を消滅させて滅苦を生じさせるためです。だからそれに沿って「仕事のどの過程にも苦が無い」ことを目指す教えがあり、経営のどの過程にも苦がない経営です。

 しようと考える時に苦があってはならず、始めた時にも苦があってはならず、している時も苦があってはならず、し終わった時にも苦があってはならず、結果を得ても苦があってはならず、結果をしまっておく時も苦があってはならず、利益を使う時も苦があってはなりません。

 今は過大な希望があるので、どの段階も苦になってしまっているように見えます。知性でしません。仏教の教えの知性ですれば、非常に苦は少なくなります。失敗して損をしても、赤字になっても、不正をされても、あるいは事故などがあっても苦は生じません。仏教の教えでは、思い通りになると身の程を忘れさせますが、失望は賢くするので、失望から苦まで、人を賢くする価値は同じくらいあります。

 昔から「ダイヤモンドはヒキガエルの頭の中にある」と言われています。誰でも大嫌いなヒキガエルの頭の中には、ダイヤモンドしかありません。苦、つまり失望や赤字などの中にはダイヤモンドがあります。つまりそうならないようにする方法を発見させます。実際、私たち人間を賢くするのは、障害や失望だけです。失望をしっかり受け留めれば賢くなるので、損失でなくなります。そしてその賢さで、次のことを望みどおりにすることができます。

 望みどおりになるのは、完璧な知性があって、身勝手でない経営をするからです。利己主義は暗いもので、歪曲させ、正しい軌道から逸脱させ、他人のことを考えないので、バランスが取れません。

 知性があれば理想があることを意味します。理想は食べられる物より素晴らしいです。「理想は食えないから、私はお金が欲しい」と言う人がいます。これは何も知りません。理想は食べられる物より素晴らしいです。「私たちは食べ物だけでは生きられない。知性の正しさで生きられる」と知らなければなりません。

 「人は能力を見せるため、世界を美しくするため、他人を満足させるために生まれた」という理念があれば、仕事は利己的にならず、仕事は失敗し難くなります。他人を満足させ、世界を美しくするためであり、食べるため、遊ぶため、自分の楽しさのためではありません。利益があっても、自分が更に世界、あるいは人間同朋の役に立つことをする経費と見なします。

 お金に強欲になりませんが、仕事に欲張ることはあるかもしれません。仕事を欲張るのは大丈夫です。しかしお金に強欲なのは気をつけてください。お金を欲張ると仕事を駄目にしますが、仕事を欲張るとお金を得ます。

 次に事業についてお話します。一般的な意味の事業は、体系的な物質的利益の追求を意味します。庶民の事業は庶民式に利益を追求しますが、タンマ式の事業、宗教式の事業は、自分と他人双方の利益を追求します。みなさん、そのようにできますか。事業を経営するのは自分のためでもあり、他人のためでもあり、自分と他人のためでもあります。このようにできますか。このように目指せば、ブッダ式事業にできます。

 世界の人は物質的利益を追求しますが、お寺の人、あるいはタンマのある人は心の利益を追及します。今一般社会では、公共の善、あるいは世界の平和のためにすることを事業と見ません。よく考えて見てください。どこの世界で、公共の利益を生むこと、地域社会に平和を築くことを事業と見るでしょうか。

 一つあります。聞いたことがないかもしれませんが、聞いてください。チーヴィッタヴォーハラという言葉はパーリ(三蔵の中のブッダの言葉である経)にある言葉で、ブッダ以前からあるサナンタナダンマ(昔からある物)です。いつからあるか分かりません。彼らはチーヴィッタヴォーハラと言います。命で商売の投資をするという意味です。

 ヴォーハラとは「普通以上の結果を出す」という意味です。タイでは話すことに使われ、「弁舌の巧さ」と知られていますが、元のパーリ語はそうではありません。ヴォーハラとは結果や儲けを生じさせる行動という意味、つまり商売です。チーヴィッタヴォーハラと言えば、命を商売にするという意味になります。命で商売をするのは、莫大な儲けのある精神の事業で、物質の事業ではありません。

 命は発展して、命が得るべき最高に善い物を得なければならないので、物質面は見ません。物質は外皮で、心が中身です。外皮も中身も完璧にしたければ、体と心の話でなければなりません。二つ合わせて命と言います。

 この命は、生産物を増やす元手として自然がくれました。商売と呼ぶものの元手として、自然が命をくれました。正しい使い方を知っている人は、莫大な儲けを生じさせて、「人間が得るべき最も善いもの」と言うものを得ます。だから、命を人間が到達するべき最高点に到達させた賢い人、智慧のある人、聖人の話です。

 端的に言えば、最高は阿羅漢であることです。阿羅漢になるために生まれたと言うと、人は首を振って、「ここで庶民として暮らしたい。ここでモタモタしていたい」と言います。それもできます。しかしそれもチーヴィッタヴォーハラであることから逃れられません。

 チーヴィッタヴォーハラにはいろんなレベルがあります。ブッダの時代以前からあるのには、財産や名誉名声、権力、巨万の財産などで成功することもあります。昔は銀行がないので、蓄えとして土に埋めておきました。使うために家に置いて、子や孫が商売を続けるために使わせました。不動産も動産もありました。このように成功をした人も、当時の意味でチーヴィッタヴォーハラの成功者と言いました。

 チーヴィッタヴォーハラの成功者は快適です。適当に俗世を捨てて白衣を着て、白い靴を履いて白い傘を差し、川の畔や爽やかな風が吹く草原を歩きました。これもチーヴィッタヴォーハラの成功例の一つです。このような商売を、彼らは最高と見なしました。

 しかしブッダの時代になると、ブッダはそのよにうせず、もっと高いのがありました。つまり心の苦を絶滅させ、心の面の捨てるべき物を捨てます。普通の人のように炙りつける煩悩がなく、涼しいと言うにふさわしい物だけにしました。涼しさがあり、穏やかな命があり、体も心も涼しく、煩悩がなく、悪である物をすべて捨てられることを「チーヴィッタヴォーハラに成功した」と見なしました。

 更に高い段階は、聖向聖果に到達して阿羅漢になることで、チーヴィッタヴォーハラの極致です。経典にある教えを掴めば、命を元手に投資して、このように儲ける商売をします。みなさんはどの程度の、どのレベルの事業経営をしたいですか。白衣を着て白い靴を履いて、白い傘を差して川べりを散歩するだけですか。それとも際限のない煩悩欲望の世界にいるので、たったこれだけも無理でしょうか。

 堕落がいっぱいなので、こういう堕落と闘わなければなりません。だから満足できるレベル、大金持ちほどたくさんではなく、分相応の財産があり、分相応の名誉があり、人間同朋から信頼尊敬され、そして安定した本当の友情がある、満足できるレベルになりません。

 ユダヤ人式の経営には、このような結果はありません。ユダヤ人を軽蔑している訳ではありません。人々が普通に使っている言葉です。現在のユダヤ人はそうではないかもしれませんが、私たちはこのような言い方をします。そのような利己的な経営は駄目です。半分でも駄目です。

 「すべての人は生老病死の友」と呼べるくらいの友情がないからです。友情という言葉は、非常に不思議な言葉です。パーリ、あるいは古いインドの文化で、「安楽や平和は友情で実現する」と言っています。弥勒菩薩教は、友情という意味があります。経典の中の噺をします。

 富豪の息子四人が、森で鹿を獲ってきた猟師を待ち伏せて、鹿を貰いました。初めの人が「おい猟師、鹿をくれ」と言うと、猟師は屑肉をたくさん切ってやり、二人目が「猟師の兄さん、鹿をくれないか」と言うと、猟師は肉の固まりをやり、三人目が「猟師の父さん、肉をください」と言うと、猟師は心臓を切ってやり、最後の人が「友よ、鹿をください」と言うと、猟師は荷車ごと全部やりました。

 友という言葉の意味を見ると、彼らは旦那より、兄さんより、父さんより良い意味を規準としています。友という言葉は非常に広大な意味があります。友なら世界中老病死の友で、親や兄弟は二三人だけしかいません。私たちの世界は、友であることで平和に巡り会えます。宗教の意味では、共に生まれ、老い、病んで死ぬ友です。

 精神の事業は世界の平和を築き、物質の事業は自分だけの範囲の狭い利益のためです。利己主義ですれば、厄介で難儀で悪い結果、危機になります。だから利己主義でしないで、人間同朋のことを考えてください。

 俺のための事業、社会のための事業、世界のための事業と段階があるので、利益も体・心・精神のための段階があります。

 冒頭のブッダの言葉でお話したように、仏教は苦を完全に絶滅させることを事業の目的にします。教えにできるのは「経営のどの過程にも苦がないように」だけです。しようと考える時、始める時、している時、し終わった時、結果が出る時、(結果を)しまっておく時、有益に使う時、どの段階にも苦はありません。

 何をするにも希望でする西洋人を真似て、希望でするのは仏教ではありません。仏教は希望でなく、知性でしなければなりません。。

 何でも希望ですれば、しようと考えると希望で苦になります。希望はいつでも噛みつきます。している時も恐れがあり、結果が出ても恐れ、不安があります。お金を銀行に預けておいても、心配で一日中、頭の上に積み上げています。欲で、煩悩欲望でするので、結果もそのようになります。みなさんは希望でしないで、知性でする勇気がありますか。

 「希望がなければ何もできない。motive (動機)になるものが何もない」と言う人がいます。それは何も知らないで言っています。知性は希望より更に motive です。仏教徒式にするには、知性でしなければなりません。絶対に希望でしないでください。このように理解してください。自分のことばかり考えないで、正しさを考え、人間同朋のことを考える教えがなければなりません。


 次に経営という言葉についてお話します。経営とは「事業を進行させる」という意味です。している事業を進行させることを経営と言います。智慧で智慧があるようにします。智慧は後押しをする道具です。するように誘うと言うこともできます。智慧ですれば、抑圧して焼き炙らず、希望ですれば抑圧して焼き炙るからです。智慧の行動は、誘うように丁重な物言いでさせるので熱くなく、涼しい話です。

 経営は、低レベルなら自分の利益のためで、中レベルや高いレベルは社会や世界のためで、広い心の人ならすべてのためです。つまり自分のためでもあり、社会のためでもあり、世界全体のだめでもあります。広い心の人は、全世界の人間同朋の利益のために事業を始め、行動し、経営しますが、間接的です。普通は直接できないので、間接的です。正しく、善く、徳のある人の手本になり、幸福になって見せれば、世界中の人が一斉に真似をします。

 「自分のために生まれれば自分のことしか考えないが、世界のために生まれれば他人のことを考える」と、常に高く目指し、正しさのために他人のことを考えてしてください。

 自分のためにしないでください。自分のためなら委縮して暗く、間違いをし、周到でなく、心が明るくなく、慈悲もなく、正直も倹約も何もありません。命の事業のどの過程も、あるいはチーヴィッタヴォーハラの経営を、話しているように善くすると言います。

 次にタンマの教えに従って、可能な限り項目に分けます。

 このタンマは分類できる規則があるタンマで、analyse 、つまり意図的に段階的に分けることができ、そしてどの部分にも正しい知識と理解があります。

 研究、つまり探求でも検証でも実験でも、どの部分も詳しく説明できます。

 ブッダは一刀両断のような一面的な言い方をせず、世界のすべての動物にふさわしい形で、段階的に説明することができました。世界の動物にはいろんな種類があり、全部違います。最高に賢いのもいるし、それほど賢くないのもいれば、半分賢いのもいるし、バカなのもいれば、最高にバカなのもいるので、同じ教えを使うことはできません。だから区別て説明し、そしてそのレベル、その段階にふさわしいものを見つけました。

 このような教えがあるので、その行動には正しさがあり、正しくなる理由があります。区別して説明する、あるいは知性で分類するからです。


1.組織の管理

 経営の最初は、仕事の体系の管理です。仕事の過程が順調に行くように体系を管理するには、障害を防ぐことと、解決することがあります。仕事には障害があるので、障害を管理しなければならず、障害を乗り越えなければ達成できません。汗を投資しなければなりません。お金を投資しても障害はあるので、障害を防止する知性がなければなりません。事前に障害を防ぐサティがあることが一つで、障害を解決するサティがもう一つです。

 障害と呼ぶものには、防止と解決の両方が必要です。知性が足りなければ、周到に防ぐ考えがないので、十分勉強しなければなりません。そうすれば事前に防止することができ、当面の解決、あるいは恒久的な解決をしてしまえば、それを正しい解決と言います。

 障害を防止し、障害を解決する類の知識で経営すれば、障害がないので前進します。つまり儲け、あるいは目指した結果があります。阿羅漢を目指すこともできますが、みなさんは欲しくないですね。世俗的な利益、この世界の社会的な利益が欲しいので、経営には防止と解決を知って、仕事の流れが急停止しないよう、そして進歩するよう対処します。


2.お金または資本の管理

 ここで言うお金の管理とは、資本をという意味です。お金は資本だからです。資本とは仏教で最高に重要なもの、つまり「因」「縁」という意味に相当します。すべての物は原因と縁があって生じ、そして進化するので、すべての物には、どうしようもなく原因と縁があります。

 お金、あるいは資本は成長するための最初の重要な縁です。しかし他にも資本と呼べる要素があります。つまり営業する人と自分自身の能力です。これも資本の一種で、知性の資本です。知性の資本がなければ、お金の資本も無駄になります。

 だから「知性は最高の資本」と見てください。物の資本、お金の資本、労力の資本を最高に活かす資本です。だから物質的にも精神的にも、形の面でも名の面でも正しい資本と言います。これが資本の管理で、原因としても縁としても正しさがあります。

 すべては因によって経過し、縁で経過し、仏教で因果(縁生)と呼ぶ教えで経過し、例外はありません。すべては、それ自身の因果の法則になります。破滅や倒産や赤字になるのは、その方向の因果の法則で、儲けや利益があるのは、その方向の因果の法則なので、原因と縁に関した知識、あるいは「どうすれば何が生じる」という、因果と呼ぶ知識がなければなりません。

 因果の法則は、「これがあるからこれがある。これが生じたからこれが生じる。これがないのでこれがない。これが消滅したからこれが消滅する」とあります。因果の法則は、埃の微粒子の一つ一つも、宇宙のすべてを支配しています。聖向聖果涅槃に到達することも、因果の法則で経過します。原因と縁で経過する法則に関わる知性を増やしてください。

 それはお金より大切な資本になります。お金がたくさんあってもこの投資はできないので、知性のある支配人を雇わなければなりません。資本はお金だけで足りると見ないでください。お金の使い方に知性がなければなりません。あるいはお金を正しく管理しなければなりません。一バーツでもと言わないでください。大きすぎます。一サターン(バーツの百分の一)でもです。


3.人の管理

 次は人の管理についてお話します。仕事にふさわしい人を配置し、仕事にふさわしい人が見つからなければ、ふさわしい人材を育てなければなりません。人の管理は物質の管理より、あるいはお金の管理より難しいです。人は気持ちが変わったり嘘を言ったり、騙すことがあるからです。誰にでも煩悩があるので、煩悩の威力になります。煩悩のある人を使えば、その人の煩悩と闘い、その人の不心得と闘わなければなりません。

 その人の愚かさと闘うのは非常に大変です。昔の人は「トラと格闘してしまう方が、バカな人と争うより良い」と言いました。バカな人とのゴタゴタするより、バカな人と口論するより、トラと格闘する方がマシです。トラに噛まれれば一度で死ねますが、バカな人とは際限ありません。だからバカな人と格闘する覚悟がなければなりません。その人が正直で善良でも、愚かなら、考えて見てください。正直なだけでは足りません。必ずバカでないこと、そして身勝手でない人でなければなりません。

 今、人は誰でも煩悩があります。経営者にも煩悩があり、従業員にも煩悩があります。みなさんにも煩悩があり、部下にも煩悩があるので、調整が難しいです。だから経営者は説得できる人、あるいは人間的に上でなければなりません。そうすれば人間的に低い人を管理することができます。

 人を仕事にふさわしく管理します。仕事にふさわしい人材がいなければ、仕事にふさわしい人材を育てなければなりません。そうすればやっていけます。

 みなさんは、彼らに仕事を任せなければならず、部下は損害を生じさせない賢さがなければなりません。人を使うなら、雇うなら、その人を信用しなければなりません。信用できなければ、その人を雇ってはいけません。仕事を部下に任せて責任を持たせるという意味です。

 それ以外にも、同じ理想がなければなりません。従業員の理想と雇用者の理想が違い、上司の理想と部下の理想が一致しなければ、別々の道を歩きます。従業員と雇用者と、上司と部下の理想が一致すれば、「人間同朋のためにする。俺のためだけにするのではない」と言います。俺だけのためにすれば、助け合って大々的に不正をします。従業員や部下たちと手を組んで不正をします。それで何が生まれるか、考えて見てください。私たちは、人間として最高のものを得る人間になる理想がなければなりません。

 人の管理には、もう一つ隠れたもの、心を掴む道具があります。その人を信用すること、愛すこと、善意であることが心を掴む道具です。一般のタンマの本の、サンガハワットゥ(四摂事。四摂法)について聞いたことがあると思います。支援すること。良い口の利き方をすること。他人に利益を与えること。主人、あるいは意地の悪い管理者になるより、友達のように接す。これを、強く繋ぎ止めて協力を生じさせる「交際の美」と言います。


4.経営全般

 最後は経営全般、あるいは広い範囲の管理です。先ほど仕事の管理、お金の管理、人の管理について話しました。最後は全般の管理です。これらを全部まとめて全般と言います。普通以上の徳行と賢さと能力がなければなりません。指導者や上司は、部下の何倍も賢くなければなりません。

 サップリサダンマ(善人にするタンマ。七善士法)と呼ばれる重要なタンマ集があります。長所しかなく欠点がない善人、仁者のタンマです。この善人のタンマは、一般のタンマの本で読むことができます。サップリサダンマは、原因を知り、結果を知り、自分を知り、適度を知り、時を知り、集団を知り、人物を知っています。

①原因、つまり原因側の物を知っています。

②結果、つまり生じる結果を、どう現れるか、そしてどう関係があるかを知っています。

③自分はどのようか、能力はどれくらいかを知っています。

④適度、つまり正しさ、ちょうど良い加減を知っています。

⑤時、つまりふさわしい時、正しい時を知っていて、時を誤ることがありません。

⑥集団、つまり群れであること、関わって集団になるためのタンマです。そしてその集団には何があり、どうなっているか、その集団と関わるにはどんな態度で接すべきか、どう対処すべきかを知っています。自分の集団と他人の集団が、正しく協調しなければならないからです。

⑦人、つまり一人一人の個人を知っています。先ほど自分を知ると言ったのは、自分一人です。次に、それぞれの人はどうか他人を知り、集団になっている人はどうか、他人を知ります。

 原因を知り、結果を知り、自分を知り、適度を知り、時を知り、集団を知り、人を知ります。憶えやすく略せばこうです。このような知識が十分にあれば、経営全体を管理できます。

 もう一つの重要な縁は、正しい見解です。経営全般を管理するなら、正しい見解、正しい理解がなければなりません。監督者、あるいは上司の側にも、部下、あるいは配下の人にも、どちらも考えや理解や感覚の正しさがあり、誤った見解ではありません。

 他にも、いつでも、非常に重要な基本の教えに依存しなければなりません。それは身勝手でないことです。上司が身勝手なら部下は往生し、部下が身勝手なら上司は往生します。双方が身勝手なら、噛みつき合いになるに違いありません。従業員も上司も身勝手でないことが基本です。自分のことばかり考えないことは基本であり、仏教では最高の教えです。

 身勝手でなければ煩悩は生じないので、いがみ合いが生じて事故になりません。この抗争をパーリ語でウパッダヴァと言います。順風満帆だけなので、最高である阿羅漢に到達します。身勝手でなければここにいても平安で、平和な社会です。


 さて最後の項目は、「ブッダ式と言うのはどうするのか。どうすればブッダ式か」です。ブッダ式というには、まず「ブッダ」という言葉を知らなければなりません。大昔から信じられている簡単な一般的な基準では、ブッダとは「智者・覚者・明るい人」と言います。身勝手でないことで、そうなれます。身勝手な人は「知る人・目覚めた人・明るい人」にはなれません。身勝手は愚かさであり、知りません。眠りから覚めません。無明なので明るくなれません。妨害ばかり、敵ばかりだからです。

 「知る人」について先にお話します。知る人とは、知るべきことを知ります。「知る」という言葉は、知るべき十分なだけ知ることで、すべてを知る必要はありません。すべてを知れば、知識が頭から溢れても危機を脱すことはできません。自分の職務に正しく十分な知識。こういうのは知らなければなりません。そして、知識を管理する物もなければならないと言わせていただきます。

 今、この世界の教育は最高にバカみたいで、知って賢くするだけで、賢さを管理する物がありません。だから知識を身勝手のために使います。こういうのは「知らない」と言います。つまり知らないのと同じ結果になります。

 知る人であるのは、正しく知るからです。耳目が目覚めている知識は仏教学で、眠っているように知れば呪術です。この眠っている人みたいな知識は多いです。そうしないでください。しかし、人はまだ恐怖があるので、呪術を使った儀式をします。事業の経営にもバラモンの儀式をしなければなりません。お祓いをし、供え物をし、何か知りませんがややこしいです。こういうのは呪術です。

 するなら知恵の足りない人のためにします。智慧が成熟していれば、呪術と呼ばれるものに頼る必要はありません。仏教学に頼るだけで十分です。

 本当に知れば、他人を頼らないで自分を頼り、タンマに頼らなければならないと知ります。ブッダは、ブッダにも頼ってはいけないと教え、自分を頼り、プラタムに頼るよう教えました。しかし人は愚かなので、ブッダに頼ることばかり、ブッダに助けてもらうことばかり期待して、自分に頼りません。自分をタンマで助けません。ブッダが教えたように自分でタンマの実践をして、自らの拠り所を生じさせません。何でもブッダ・プラタム・僧に頼って助けてもらうのは、仏教教団員ではありません。

 仏教教団員なら自分を頼らなければなりません。自分にタンマがあれば、タンマが助けてくれます。ブッダ・プラタム・僧に頼ると言っても、自分に頼ることです。自分でタンマを実践すること、自分で誤りを知り、自分で誤りを正し、自分で正しさを知り、自分で正しさを増やすことを「自分を頼る」と言います。

 次は目覚めた人です。「眠りから覚めた」とは、無知、あるいは無明から覚めることです。世俗的な観点とタンマの観点、高い観点と低い観点があり、これらはすべて無明なので、無明から覚めてしまいます。

 最後のブッダ式は、自分のことばかり考えない人で、慈(他者の幸福を願うこと)があり、悲(他者の苦を除いてやりたいと願うこと)があり、間違った考えがなく、つまりタンマを基準にし、俺を基準にしません。どっちの側の誰も、俺を基準にしないでタンマを基準にします。それが身勝手でない人です。タンマのことだけを考えるので、良好に経営できます。

 ブッダ式なら「知る人・目覚めた人・明るい人・身勝手でない人」でなければなりません。そうすればブッダ式と復習します。智者、覚者、明るい人であること、身勝手でないことで経営してください。明るいと言うのは、どんな問題も解決できるので、満足し、萎れず、枯れず、悲しまず、苦にせず、挫けないことを意味するので、失望しても挫けず、まだ明るいです。失望を受け止めて新たに賢さにするので、明るく、苦も落胆もありません。

 知る人、目覚めた人、明るい人、身勝手でない人を教えにしてください。どんなレベルのどんな経営も、仏教教団員であることで経営します。

 さて、まとめると、知性で経営します。知性のある人、智者であり、智慧で事業を運営し、煩悩や欲望で運営しないでください。希望は煩悩欲望であり、欲望は希望です。しかし望みと目標はあります。正しい目標を立て、期待でしないで知性でします。いつでも希望に心を蝕まれないでください。知性を主役にして、煩悩欲望を主役にしません。子供たちに希望で生きるように教えれば、病気になって全員死にます。知性で暮しましょう。

 身勝手でなく経営します。他人を安心させるために生まれました。私たちは一人では生きられません。世界に一人で住まわせられたら、自分一人のための世界をもらったら、貰っても生きられません。どんな事業経営も、全世界の人から世界全部を貰えるようにすることはできません。貰って世界の所有者になっても、暮せません。関わらなければならないので、できません。人も動物も植物も、全部関わり合わなければなりません。

 だから私たちは「共に生きる」という言葉を考えなければなりません。他人と共に生き、他人を安心させ、この世界を美しく創造し、生老病死の友のように生きなければなりません。

 この目的、あるいは理念は高すぎますか。高すぎれば好きにしてください。採用しなくても結構です。しかし仏教の教えでは、正しくてちょうど良いとします。目的から正しく、行動も正しく、行動の結果も正しいです。

 仏教教団員は、知る人、目覚めた人、知性と正しい見解で明るい人でなければなりません。知識があり、考えがあり、確信があり、真実のままの正しい理解があります。

 みなさんに理解できない奇妙な言葉で言うと、あるいは受け入れるかもしれませんが、「自分でない自分にしなさい」です。俺の自分でなく、タンマの自分、自然の自分にしてください。「俺の自分」にすれば自然を盗む人なので、自然から平手打ちを食らわないように気をつけてください。正しい自分を持つ方がいいです。こういうのを「自分でない自分がいる」と言います。自分がいるなら、人間同朋全員の自分にする方がいいです。自分の物である自分にしないでください。身勝手になり、初めから終わりまで間違いだけです。

 これが経営で、そのレベルでもできます。ブッダ式経営は、世界で暮す世界の事業でもでき、タンマの面で発展する事業の経営もできます。阿羅漢になるため、世界を越えて生きるための事業でもいいですが、事業と呼ばず、「チーヴィッタヴォーハラ」、命の投資と言います。

 こういうのを事業経営、あるいはブッダ式命の事業と言います。ブッダ式はこうでなければなりません。

 自分の物である自分は居ません。人間同朋全員の物である自分が居ます。すぎれば止めてください。できると見たら、します。ブッダ式ならこう言わなければなりません。他の言い方はできません。

 楽しく働き、働いている時幸福におなりなさい。お金を使って遊興する時が幸福ではありません。それはバカみたいです。本当の幸福は、自分で仕事の能力を発揮して働いている時にあります。自分を拝めること、それが正しさです。

 どうぞ働いている時に幸福になってください。そうすれば汗こそ聖水です。しかし身勝手な人の汗は熱湯です。身勝手でない人の汗は冷水で聖水なので、掛ければ涼しく快適で、掛ければ進歩します。

 どうぞみなさん全員が、仕事を始める時、仕事をしている時幸福になり、聖水である汗を流してください。時間になりました。あまり話す体力がないので、これで終わらせていただきます。




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