第二章・般若について

 

 その後、韋から再び大師に説法をしてくれるよう招請があった。大師は法台に座り、聴衆に向かって「心を清浄にし、摩訶般若波羅蜜多を一緒に念じてください」と言った。

 「みなさん、菩提般若智(悟りに到達させる智慧)は、すべての人に元々ありますが、無明があるので、自分で見ることができません。だから知識のある人から、自性が見えるように教えてもらわなければなりません。愚かな人も智者も、仏性に違いはなく、ただ迷っているか悟っているかが違うために、愚かさと賢さの違いが生じると知らなければなりません。これからみなさんに「摩訶般若波羅蜜」についてお話します。それは、誰でもこの般若(智慧)で彼岸(悟り)に到達できるからです。

みなさん。みなさんは「般若、般若」と一日中誦えていても、自分の自性が般若であると知りません。食べ物の話をしただけでは、空腹を癒すことができないように、「般若」と口で唱えも、永遠に自性を見ることはできないので、結局は利益がありません。

 この「摩訶般若波羅蜜」という言葉は梵語(サンスクリット)で、彼岸(輪廻の海の向こう岸)に到達する「偉大な智慧」という意味です。しなければならないことは、心で実践しなければなりません。唱えるか唱えないかは重要ではありません。口で唱えても心が実践しなければ、幻か露か電光のように、一瞬で消えてしまいます。口で念じて心で行なえば、心と口が同じになります。私たちの自然は仏陀で、それ以外の仏陀はありません。

 「摩訶」とは、どんな意味でしょうか。「非常に大きい」という意味です。心の大きさは、宇宙と同じくらい広大で、端がなく、丸くもなく、四角でもなく、大きくも小さくもなく、緑色でも黄色でもなく、上もなく下もなく、長くもなく短くもなく、正しさも誤りもなく、善いものも悪いものもなく、頭も尾もありません。すべての仏刹土は虚空と同じで、私たちの妙性も空で、何も得るものはありません。自性もこのように真に空です

 みなさん、私が「空」について述べるのを聞いて、すぐに空を著さないでください。第一に空を著さないことです。もし静坐した時心が空ならば、空でないことの表れです。みなさん。虚空の世界は、たとえば日、月、星、山河、大地、泉や渓谷、草木や森林、善人悪人、善法悪法、天国地獄、大海、ヒマラヤ山脈などすべては空の中にあります。普通の人の自性の空も、これと同じです。

みなさん、自性にはすべてのものを入れることができるので、これは「大」です。すべてのものは、自性の中にあります。人がすべてのものを善いとか悪いとか考えず、選びも捨てもせず、そして染まらなければ、心は宇宙のように「大きい」ので「摩訶」と言います。

 みなさん、愚かな人は口で話すだけですが、智者は心で実践します。また、迷いのある人は静かに座って心を空にする努力をし、何も考えないで「偉大」になると自称します。このような見解の人に教えることはできません。邪見だからです。

 みなさん、心の量は広大なので、心を使って理解すれば、明らかに知ることができ、時と場所を選ばずすべてを知ることができます。すべては一つであり、一つはすべてであり、自由に行き来し、心と体に滞りがないこと、それを般若と言います。みなさん。すべての般若は、自分の自性から生じ、外部から入って来るのではありません。みなさん、これを誤解しないでください。これを「真行性自用」と言います。

 一つが真ならすべて真です。心量が大事です。つまらないことを行ないません。この修行をしないで、一日中空について話している人は、自分は王様だと言っている平民と同じで、結局何も得られません。このような人は、私の弟子ではありません。

 みなさん、「般若」とはどんな意味でしょう。般若とは唐の言葉で「智慧」という意味です。つまり、いつでもどこでも愚かでなく、常に智慧で行動すれば、それを「般若行」と言います。一瞬の愚かな考えは、たちまち般若を消してしまいますが、智慧の考えは、すぐに般若を生じさせます。

愚迷な世間の人たちに般若は見えません。口で般若について話しても、心は常に愚かで、いつでも「私は般若の修行をしている」と言い、絶えず空について話していますが、本当の空を知りません。智慧のある心こそが、姿形がなく、観察する動きがない般若です。このように理解すれば「般若智」と言います。

「波羅蜜多」とはどんな意味でしょうか。この言葉は西国(サンスクリット)語で、唐の言葉にすれば「向こう岸(彼岸)に渡る」という意味で、深い意味は「輪廻から脱す」という意味です。波浪のように発生と消滅が現れる境地を、「こちら岸(此岸)」に譬え、完全に執着を断ち、静かに流れる水のように、生と死から脱出すれば、それを「彼岸」と言います。この生死を超えることを「波羅蜜多」と呼びます。

みなさん。無明の人はみな、「大般若波羅蜜多」と口で唱え、 そして唱えているその時にも、悪や迷信の考えが心に生じていますが、たゆまず実践すれば、それを「真性」と言います。この教えを知ることを「般若法」と言い、これを実践することを「般若行」と言います。この法を実践しない人は凡夫で、一心にこの法を実践する人は仏陀に等しいです。

 みなさん。「凡夫すなわち仏陀」、そして「煩悩はすなわち菩提」です。愚かな考えがある時は凡夫ですが、愚かな考えを無くし悟った後は仏陀になります。感情に執着する気持ちは煩悩ですが、執着を剥ぎ取る考えは菩提です。

 みなさん。『摩訶般若波羅蜜多(衆生を向こう岸へ渡らせる偉大な智慧)』は偉大で最上で一番です。それは止まることもなく、行くこともなく、来ることもなく、摩訶般若波羅蜜多という智慧で、現在過去未来のすべての仏陀は仏陀になりました。私たちもその智慧を使って、五蘊(への執着)や煩悩を打破するべきです。そのような修行は、三悪(貪、瞋、痴)を戒、定、慧に変えて、仏陀にする道です。

 みなさん。この実践法は、般若一つで八万四千の知識を生じさせることができ、それは煩悩の数と同じですが、煩悩の威力から脱した人は、天然の智慧がいつでも現れ、自性から離れることはありません。この実践法を知る人は、考えたり、憶測したり、執着したりせず、騙す心を生じさせず、真如にする智慧ですべてのものの真実を照らして見、そしてすべてのものを愛したり嫌ったりしません。これが自性を見て仏陀になる道です。

 みなさん。法界を洞察し、般若三昧になりたいなら、「般若行」をしなければなりません。金剛般若経を唱えれば、自性が見えます。この経の功徳が無限であることは、経の中で明らかに讃嘆されているので、一つ一つ述べる必要はありません。この教えは、大智の人、優れた資質の人に説く最上乗で、智慧が少なく、深い意味を理解することができない愚鈍な人がこの経を聞くと、疑念が生じ、その経の内容を理解できません。

どうしてでしょうか。これは、次のように譬えることができます。激しい雨が降ると、天の龍王の力で街も村も集落もみな木の葉のように水に流されますが、その雨が大海に降れば、少しも影響がないように、大乗の人、最上乗の人がこの金剛経を聞けば、心は明るく澄んで、般若は自分自身の自性にあると知ることができます。そして、彼は自分自身の智慧で、いつでも照らして見ることができるので、「経典」に頼りません。

 すべての人の自性にある般若を、雨に譬えることができます。お湿りは、樹木や稲や、そしてすべての動物を含めた、命あるすべてのものを瑞々しく潤し、沢山の川が集まって大海に注げば、一つになります。衆生の自性にある般若の智も、このようなものです。

みなさん。激しい雨が降ると、十分根が深くない草木は倒れてしまうように、智慧や能力の少ない人が、「頓悟」の教えを聞いても同じ結果になります。初めから般若の智慧のある人、大いなる智慧の人と同じ法を聞いて、智慧の無い人はどうして悟れないのでしょうか。間違った考えと根が生えた煩悩で、太陽が大きな雲に遮られているように、風も吹かず、陽も射さないないからです。

 心が迷って外を見、修行をして仏性を探し、まだ自性を悟れない人は小根です。頓悟が理解できれば、外面の修行に執着せず、常に自分の心に正見を起こし、常に煩悩で汚れないようにすれば、すぐに自性が見えます。みなさん。内部にも外部にもこだわらず、自由に行き来し、執着をなくし、滞りを無くしてください。これができれば、般若経に本来違いはありません。

みなさん。大小乗の十二部経のすべては、それぞれ能力が異なる人の、希望と資質にふさわしくするためにあります。すべての経書は説く人に因があり、縁はその人にあるので、愚かさは小人にし、智は大人物にします。愚かな人が智慧のある人に質問し、智慧のある人が愚かな人に説明すれば、愚かな人もたちまち悟って、智慧のある人と同じになります。

 みなさん。仏陀も悟らなければ衆生であり、悟れば衆生も仏陀で、二者に違いはありません。すべては自分の心にあるので、あるがままの自性が見えないはずはありません。菩薩戒経には、『自性は清浄である。自分の心を知り自性が見えれば、みな仏陀になる』とあり、淨名経には、『その時、一瞬にして迷いが消え、自分自身の心が戻る」とあります。

 みなさん。私が弘忍大師の教えを聞いた時、大師の一言で悟りが生じ、たちまち真如の自然が明らかに見えたので、私はこの教え方を広めて、道を学ぶ人に、その場で菩提を悟らせ、各自が自分の心を見れば、自性が見えます。

もし見えなければ、正しい道を教えてくれる深遠な善い知識と、最上乗(最高に早く悟りに到達できる乗り物)である法を理解する人を探さなければなりません。この善い知識のある人は、自性が見えるよう導くことができる、偉大な因と縁があります。自性が見えるように導くすべての善は、善い知識によっては生じさせることができます。過去、現在、未来の仏陀と、十二部の経のすべては、自性に元々具わっています。

自分で悟ることができない場合は、高い知識のある人に見方を教えてもらわなければなりません。自分で悟ることができる人は、外部の助けは要りません。善い知識のある人の助言がなければ解脱できないと執着するのは、間違っています。自ら悟る知識は心の中にありますが、邪見や迷いが生じて妄念になれば、高い知識の人が教えても、教えて救うことはできません。本当の般若を生じさせて心を照らして見れば、一瞬で妄念は消え、自性を知れば、一度悟るだけで仏陀の地位に到達します。

 みなさん。智慧で照らして見れば、内面と外面が明るく澄みきって、自分の心を知り、心を知れば、本当の解脱です。解脱できれば、それが「般若三昧」で、般若三昧なら、心に考えは何もありません(無念)。何を「無念」と言うのでしょうか。心が何かに染まっていない時、これが「無念」です。

心をどこで使っても、どこにも執着せず、心は清浄です。六識で六根ができ、六塵に染まらず混じらず、滞りなく自由に行き来できる状態なら、それが般若三昧であり、解脱も思いのままです。これを「無念行」と言います。しかしすべての考えを考えないように抑制すれば法に縛られ、これを遍見と言います。

 みなさん。この「無念」を理解する人はすべてのものを理解し、諸仏の地位に到達します。今後私の教えを受ける人は、この頓悟の教えです。同じ見解で同じに実践をし、仏陀の教えとして受け入れることを望み、生涯後退しない人は、聖位に入ると決まっているので、代々秘伝として伝授された教えを伝授するべきです。正法を隠す必要はありません。

見解と目的が違う他の宗派の人たちには、この教えを伝授できません。悪い結果ばかりで、利益はありません。理解できない愚かな人たちはこの教えを中傷するので、その人たちの仏性の種を、何百刧、何千世もの間枯渇させてしまう恐れがあるからです。

 みなさん。みなさんが誦えるために「無向」という頌を作りました。出家も在家もこの頌にある教えで実践するべきです。実践しなければ、ただ言葉を書き取っても、何の利益もありません。みなさん良く聞いてください。

   心に精通し、説法が上手な師は

   天空で輝いている 太陽のよう

   教えるのはただ、法性を見ることだけ

   邪宗を退治するために、この世に現れた

 

    法には頓悟も漸悟もない

しかし賢さや愚かさによって、早いと遅いがある

   自性を見る教えは、愚かな人には理解できない

   すべてについて説くと言っても、すべての教えは一つ

 

   煩悩で暗い家の中は

   いつでも智慧の太陽が必要

   邪見は煩悩を生み、正見は煩悩を排除する

   正邪どちらも無用なら

   清浄な涅槃に到達させる

 

   菩提は自性の中にある

   心が生じれば、「妄」である

   清浄な心は「妄」の中にあり

   正しくすれば三障(煩悩障〔貪・愼・痴〕、業障〔五逆十悪〕、報障〔地獄・餓鬼・畜生〕)はない

 

   世の人も道を修めれば、妨げは何もなく

   常に自然に自分の誤りが見え、ふさわしい道になる

 様々な生き物には、それぞれの道があるので、

   お互いに侵害し悩まさない

 

   この道を離れて他の道を探せば、

   生涯道を見ることはない

   生涯探求し続けても

   最後に行き着くところは懊悩

 

   本当の道が見たいなら

 正しい行ないをすること、

 それが道

   心に道がなければ、道が見えずに闇を行く

 

   本当の道を修める人は、世間の誤りを見ない

   他人の非を見れば、自分も同じ過ちに陥っている

   他人の間違いは、自分の過ちではないが

   自分の間違いには、過りがある

 

   自分に心がなければ、煩悩を駆除し、愛憎に関与せず

   手足を伸ばして眠れる

   他人を薫陶したいなら

   善い方便を用いて、彼らに疑問がないようにすれば、

   たちまち自性が現れる

 

   仏法は世間にあり、世を離れて目覚めるのではない

   世間の外に菩提を探すのは、ウサギに角を探すようなもの

   正見を聖(出世)と言い、邪見を俗(世間)と言う

   邪見と正見をことごとく無くせば、菩提はそのまま現れる

 

   ここれが頓悟の教えであり、

   別の名を大法船と言う

   何刧もの間、経を間違って聞いても

   一瞬で悟ることができる

 

 大師は、「いま大梵寺に於いて、みなさんに頓悟の説法をしました。仏性が具わっている衆生であるみなさん、この法を理解して、仏陀に到達してください」と言った。

 大師の説法を聞き終わると、刺史韋拠と官僚、道教の学徒、そして庶民たちの誰もが、反省して過ちを知り、そして一斉に「素晴らしい。嶺南に仏陀が出現したと」感嘆した。

 

第三章・質疑応答

 

 ある日、刺史である韋が集会を開いて大師を食事に招き、そして集まっている満員の人たちに説法をしてくれるようお願いした。食事が終ると、大師を説教台にお招きし、そこに集まった官僚や学士や一般庶民も一緒に、再び拝礼をすると、「和尚様の説法をお聞きして、実に不可思議に感じました。今幾つか疑問があります。和尚様、大慈悲をもって解説してください」と申し上げた。

 大師は、「疑問があるなら訊いてください。説明します」と言った。

 韋が「和尚様が説かれた法は、達磨大師が説かれたものではないでしょうか」と問うと、大師は「その通りです」と答えた。

「私は、達磨大師が初めて武帝に会った時、皇帝から、『朕はお寺を建て、出家を許可し、布施をし、和尚と僧を供養した。どんな功徳があるのか』という質問され、達磨大師は『何も功徳はありません』と答えたと聞いています。なぜ達磨大師がこのように言ったのか、私には理解できません。和尚様、説明してください」。

 大師は、「本当に功徳はありません。先聖の言葉を疑ってはいけません。武帝の心は邪で、正しい教えを知らないので、お寺を建て、出家を許可し、布施や供養をするなどの行為は、ただ満足の喜びをもたらすだけで、功徳と見なすことはできません。功徳は法身の中にあり、福(徳や善のようなもの)を修めることにはありません」。

 大師は続けて、「凡性は『功』、平等を『徳』、そして常に滞りなく自性の不思議な作用が見えることを、功徳と言います。内心が謙っていることを『功』と言い、外の行ないが礼儀に適っていることを『徳』と言います。自性がすべての物を作り出すことを『功』と言い、心と体が考えから解放されることを『徳』と言います。自性から離れないことを『功』と言い、心が何らかの働きをしても、うっかり心を暗くしないことを『徳』と言います。

法身に功徳を探すなら、私が言ったようにしてください。そうすれば、それは本物の功徳です。功徳を修める人は他人を見下さず、そしてどんな時にも、誰でも敬います。心が常に他人を見下す人は、「我」を断つことができず、功がありません。自性が虚妄で不実な人は徳がなくなり、「我」が大きくなります。常にすべてを見下すからです。

 みなさん、心に絶え間なく念(サティ)があることを『功』と言い、心が真っすぐであることを『徳』と言います。心を修めることが『功』で、体を修めることが『徳』です。

 みなさん。功徳は自性の内部を見なければならず、布施や供養(食事を献じること)などに求めるものではないので、心の満足と本物の功徳を知らなければなりません。我が大師の言葉には何も誤りもなく、理を知らないのは皇帝の方です」と言った。

 刺史が続けて、「私は、在家も出家も常に阿弥陀仏の名を口にし、そして西方浄土に生まれることを願っているのを見ます。私の疑問を消すために、和尚様、彼らが揃ってそこに生まれることはあり得るのかどうか、はっきりとお答えください」と質問した。

 大師は、「みなさん、惠能の言うことを注意深く、聞いてください。説明します。仏陀が舎衛城(サーヴァディ)で、衆生を西方浄土に渡すために説いた経で述べれば、浄土はここから遠いところではないことは明らかです。里で言えばたった十万八千里です。この距離は、身中の十悪と八邪を意味し、心が低い人に対しては遠方と説きますが、心が高い人にとっては、「すぐ近く」と言うこともできます。

 仏法は一つでも、人は賢さと愚かさで、理解に早い遅いがあります。愚かな人が阿弥陀仏の名を誦えて浄土に生れるよう祈っている時、賢い人は、自分の心を清浄にします。仏陀は、「心が清浄なら、それが清浄な仏土(仏陀の住むところ)である」と言っているからです。

 東方の人でも、心が清浄なら罪はなく、西方の人でも、心が汚れていれば誤りがあります。東方の人が罪を作ると、阿弥陀仏の名を唱え西方に生まれたいと願いますが、西方の人が罪を作った時は、どこに生まれたいと願うでしょうか。世間の愚かな人は、自性を明らかに理解できず、浄土が身中にあることを知らないので、東や西に生まれることを願いますが、智慧のある人は、「どこに生まれてもどこに住んでも、常に安楽である」と仏陀が言っているように、どこでも同じです。

 あなたの心に不善がなければ、西方もここから遠くなく、不善の心があれば、念仏をして仏陀の国に生まれることはできません。

 ここで最初にしなけらばならないのは、十悪をすべて排除すれば、十万里旅をしたのと同じで、八邪を除けば、後の八千里になり、いつでも自性がはっきりと見え、絶えず十直を行なえば、あっという間に浄土に到着し、そこで阿弥陀仏に会うことができます。

 十善を行なえば、往生(浄土に生まれること)を願う必要はありません。反対に、十悪を完全に断たないで、仏陀を家に迎えることはできません。生まれることがない頓悟の教えを理解すれば、一瞬にして西方浄土を見ることができ、理解できなければ、念仏してそこに生まれたいと願っても、路は遠く、到達できません。私が、あっという間に西方浄土をここへ持って来て見せたら、見たいですか」。

 聴衆は、大師に敬意を表してから、「ここで浄土を見ることができれば、そこに生まれたいと願う必要がないので、どうぞ浄土を持って来て見せてください」と答えました。

 「みなさん、自分の体は城(都)で、私たちの目・耳・鼻・舌は、城門(関所)で、外の門が五つあり、中には意門があります。心は大地で、自性は王で、王は心の地上にいます。自性があれば王がい、自性が去れば国王はいません。自性があれば体と心があります。自性の中の仏陀のために実践しなければならず、仏陀を自分の外部に求めてはいけません。

自性が迷っていれば衆生、自性が覚めていれば仏陀、慈悲は観音、喜捨は勢至、清浄にできることは釈迦、終始一貫していることは阿弥陀、「我」に執着すれば須弥山、邪悪な心は大海、煩悩は波、三毒は悪龍、虚妄は鬼神、世俗の苦労は様々な魚やスッポン、貪瞋は地獄、痴は畜生です。

 みなさん。常に十善行をしていれば、極楽浄土に至ります。「自分」という考えを追放してしまえば、須弥山は崩れ、邪心は消え、輪廻の海の水は涸れ、煩悩は無くなり、波は静まり、毒害心が消え、怪魚も悪龍も死滅します。

 その心の中に如来の悟りがあり、強い光で外の六門を照らして清浄にし、六欲を討ち、自性が内部を照らして三毒を追い出し、地獄などの罪は一時消滅します。内部と外部を、西方浄土と何も違わくなるまで明るくします。ここまで自分を高める修行をしないで、どうして西方に到達できるでしょうか」。

 大師の話を最後まで聞いた聴衆は、自性を明らかに知り、一斉に「善哉」と感嘆の声を上げ、そして拝礼し、この説法を聞いた衆生が、同時に悟れるよう念じた。

 大師は、「みなさん。修行をしたいなら、寺でなくても、家でできます。家で実践をする人は、東方の善人と同じで、寺に住んでいても何も修行しない人は、西方の悪人と同じです。心が清浄になるだけで、自性は西方浄土になります」と言った。

 「家でどう修行をしたら良いのでしょうか。どうぞお教えください」と韋拠が質問した。

「私が一つ頌を作ったので、みなさんに教えます。みなさんがこれで実践すれば、いつも私と一緒に住んでいるのと同じです。反対にこの修行をしなければ、剃髪して出家しても、何の利益もありません。

   心が平らなら、持戒する必要はなく

   行ないが真っすぐなら、禅を修める必要もない

 

   恩とは、両親を養い、子として仕えること、

   義とは、上下が互いに憐れみ合うこと、

   譲とは、尊卑が互いに睦み合うこと、

   忍とは、邪悪な衆人の中にいても争わないこと。

 

   努力して擦れば点け木から火が生じ、

   泥の中ら紅蓮が生じる

   口に苦いものは、良薬であり、

   耳に逆らう言葉は、本当の忠言

 

   誤りを改めれば必ず智慧が生じ、

   自分の誤りを弁護するのは、心が賢くない

   日常で実践すれば、利益は余りある

   成仏得道は、お金の布施ではできない

 

   菩提とはただ、心に向かい、心を見ることなのに

   なぜ苦労して、外部の物に仏教の玄妙な真実を求めるのか

   この説教を聞いて、本気で実践すれば

 極楽浄土は目の前にある

 大師は、「みなさん、この頌で実践しなければなりません。そうすれば自性が見え、仏道を成就できます。法は待ってくれません。私は曹渓に戻ります。みなさんも解散してください。もしまだ疑問があれば、また説明に来ます」と言った。この時、集っていた刺史と官僚、善男善女の全員が理解し、教えを受け入れ、実直に実践した。 

 

註:

六根 : 目・耳・鼻・舌・体・心。六門も同じ

六塵 : 形・声・臭・味・触・考え

六識 : 六根または六門による識

十善 : 不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不両舌・不綺語・不貪欲・不瞋恚・正見

十悪 : 殺生・偸盗・邪淫・妄語・両舌・綺語・貪欲・瞋恚・邪見


ホームページへ                   著作目次へ                     次へ