序章 縁起に関して初めに知るべきこと







       縁生の法則:縁起の核心

  これがあれば、当然これがある。

  これが生じたから、これが生じた。


  これが無ければ、当然これは無い。

  これが消滅したから、これが消滅する。

中部マッジマバンナーサ 13巻355頁371項
相応部ニダーナヴァッガ 16巻84頁154項






悟りの後、縁起を熟慮された話を、

サンギーティカーチャン(註1)が語る

律蔵マハーヴァーラヴァッガ 4巻1頁1項

 世尊が悟られたばかりで、まだウルベヴェーラー村のネランジャラー川に近い、菩提樹の木の下にいらっしゃった時、七日間菩提樹の下の同じ台座に座られれて、解脱の幸福を味わわれました。

 その時世尊は、初更に、次のように縁起の順観と逆観を思念なさいました。

 無明が縁ですべてのサンカーラ(行)が生じ、

 行が縁でヴィンニャーナ(識)が生じ、

 識が縁でナーマルーパ(名形)が生じ、

 名形が縁でサラーヤタナ(六処)が生じ、

 六処が縁でパッサ(触)が生じ、

 触が縁でヴェーダナー(受)が生じ、

 受が縁でタンハー(欲望)が生じ、

 欲が縁でウパーダーナ(取)が生じ、

 取が縁でバヴァ(有または三界)が生じ、

 有が縁でジャーティ(生)が生じ、

 生が縁で老死、悲しみ、嘆き、苦、憂い、すべての悩みが揃って生じる。この苦の山の発生は当然このようにある。


 無明が薄れて残らず消滅することで行が消滅し、

 行が消滅することで識が消滅し、

 識が消滅することで名形が消滅し、

 名形が消滅することで六処が消滅し、

 六処が消滅することで触が消滅し、

 触が消滅することで受が消滅し、

 受が消滅することで欲が消滅し、

 欲が消滅することで取が消滅し、

 取が消滅することで有(または三界)が消滅し、

 有が消滅することで生が消滅し、

 生が消滅することで老死、悲しみ、嘆き、苦、憂い、すべての悩みが揃って消滅する。この苦の山の消滅は当然このようにある。

 そのように考えられると、世尊は次のように詠嘆なさいました。

 「努力があり熟慮判断するバラモンにとってすべてのダンマが明らかなものになれば、その時そのバラモンの疑念は当然消える。そのバラモンはダンマを原因と共に知り尽すからだ!」とこのように。

 その後、世尊は縁起の順観と逆観を二更の間次のように思念なさいました。

 無明が縁ですべての行が生じ、

 行が縁で識が生じ、

 識が縁で名形が生じ、

 名形が縁で処入が生じ、

 処入が縁で触が生じ、

 触が縁で受が生じ、

 受が縁で欲が生じ、

 欲が縁で取が生じ、

 取が縁で有が生じ、

 有が縁で生が生じ、

 生が縁で老死、悲しみ、嘆き、苦、憂い、すべての悩みが揃って生じる。この苦の山の発生は当然このような状態である。

 その無明が薄れて残らず消滅することで行が消滅し、

 行が消滅することで識が消滅し、

 識が消滅することで名形が消滅し、

 名形が消滅することで処入が消滅し、

 処入が消滅することで触が消滅し、

 触が消滅することで受が消滅し、

 受が消滅することで欲が消滅し、

 欲が消滅することで取が消滅し、

 取が消滅することで有が消滅し、

 有が消滅することで生が消滅し、

 生が消滅することで老死、悲しみ、嘆き、苦、憂い、すべての悩みが揃って消滅する。この苦の山の消滅は当然このような状態である。

 そのように感じられると、世尊は次のように感嘆されました。

 「努力があり熟慮するバラモンにとってすべてのダンマが明らかなものになった時、その時そのバラモンの疑念は当然消滅する。そのバラモンはすべてのダンマの終りを受け取るからだ!」とこのように。

 その後、世尊は縁起の順観と逆観を三更の間中次のように思念されました。

 無明が縁ですべての行が生じ、

 行が縁で識が生じ、

 識が縁で名形が生じ、

 名形が縁で処入が生じ、

 処入が縁で触が生じ、

 触が縁で受が生じ、

 受が縁で欲が生じ、

 欲が縁で取が生じ、

 取が縁で有が生じ、

 有が縁で、生が生じ、

 生が縁で老死、悲しみ、嘆き、苦、憂い、すべての悩みが揃って生じる。この苦の山の発生は、当然このような状態である。


 無明が薄れて残らず消滅することで行が消滅し、

 行が消滅することで識が消滅し、

 識が消滅することで名形が消滅し、

 名形が消滅することで処入が消滅し、

 処入が消滅することで触が消滅し、

 触が消滅することで受が消滅し、

 受が消滅することで欲が消滅し、

 欲が消滅することで取が消滅し、

 取が消滅することで有が消滅し、

 有が消滅することで生が消滅し、

 生が消滅することで老死、悲しみ、嘆き、苦、憂い、すべての悩みが揃って消滅する。この苦の山の消滅は、当然このような状態である。

 世尊がそのように考えられた時、次のように詠嘆なさいました。

 「努力があり熟慮するバラモンにとってすべてのダンマが明らかなものになった時、その時そのバラモンはまだ空を照らしている太陽のように、悪魔と悪魔の従者を照りつける!」とこのように。

註1:ブッダの死後初めて結集して三蔵を編纂した五百人の阿羅漢のこと。





縁起と呼ぶもの

祇園精舎で
相応部ニダーナサンユッタ 16巻1頁1項

 ある時祇園精舎で、世尊が比丘たちを集めて、心して聞くように言われた後、次のようにお話しになりました。

 比丘のみなさん。みなさんに縁起の説明をします。みなさんその縁起を聞いて心の中を役立つようになさい。これから話します。

 比丘たちが返事をすると、世尊はお話になられました。


 比丘のみなさん。縁起と呼ぶものは何でしょうか。比丘のみなさん。

 縁である無明があるからすべての行が生じ、

 縁である行があるから識が生じ、

 縁である識があるから名形が生じ、

 縁である名形があるから六処が生じ、

 縁である六処があるから触が生じ、

 縁である触があるから受が生じ、

 縁である受があるから欲が生じ、

 縁である欲があるから取が生じ、

 縁である取があるから有が生じ、

 縁である有があるから生が生じ、


縁である生があるから老死、悲しみ、嘆き、苦、憂い、すべての悩みが揃って生じる。この苦の大軍の発生は、当然このような状態である。

 比丘のみなさん。これを縁起と言います。

 無明が薄れて残らず消滅することで行が消滅し、

 行が消滅することで識が消滅し、

 識が消滅することで名形が消滅し、

 名形が消滅することで六処が消滅し、

 六処が消滅することで触が消滅し、

 触が消滅することで受が消滅し、

 受が消滅することで欲が消滅し、

 欲が消滅することで取が消滅し、

 取が消滅することで有が消滅し、

 有が消滅することで生が消滅し、

 生が消滅することで老死、悲しみ、嘆き、苦、憂い、すべての悩みが揃って消滅する。この苦の大軍の消滅は、当然このような状態である、とこのように。





縁起を見ることはブッダを見ること

マハーハッティパドーパスッタ
中部ムーラパンナーサ 12巻359頁346項

 プラサーリプッタが比丘たちに「『縁起が見える人は、ダンマが見える人と言われ、ダンマが見える人は、縁起が見える人と言われます』というのは、世尊がおっしゃった言葉です」と言いました。。


ヴァッカリスッタ
相応部カンダヴァーラヴァッガ17巻146頁216項

 お止めなさい、ヴァッカリさん。この腐った体を見ても何の利益もありません。ヴァッカリさん。ダンマが見える人は私が見える人で、私が見える人はダンマが見える人です。ヴァッカリさん。ダンマが見えれば私が見えるので、私が見えればダンマが見えます。


 

小部イティウタカ 25巻85頁159項

 比丘のみなさん。外衣の裾を掴んで私の後ろから足跡を踏んで来ても、その人に貪りが多く欲貪が強く、復讐心や加害心があり、忘れているサティがあり、自覚がなく、心にサマーディがなくてフラフラ揺れ、根に慎みがなければ、その比丘は私から離れていると言われます。

 私もその比丘から本当に遠いです。それはなぜでしょうか。その比丘はダンマが見えないからです。ダンマが見えなければ私が見えないと言われます。

 (そして反対の意味で反対の比丘について、たとえ百ヨージャナ(千六百粁)離れていても、ダンマがありダンマが見えればブッダが見えると言われると話されています)。





縁起はアリヤニャーヤダンマ(知るべき素晴らしいもの)

祇園精舎で
相応部ニダーナヴァッガ 16巻85頁159項
相応部ニダーナヴァッガ 16巻84頁154項

 比丘のみなさん。聖なる弟子(聖人である弟子)が智慧で良く見え、良く洞察しているアリヤニャーヤダンマ(知るべき素晴らしいもの)はどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。この場合の聖なる弟子は当然「このように、これがあれば当然これがある。これが生じたからこれが生じた。これが無ければ当然これは無い。これが消滅したからこれが消滅する」と心の中を縁起で絶妙にします。これは、

 無明があれば、それが縁ですべての行が生じ、

 行があれば、それが縁で識が生じ、

 識があれば、それが縁で名形が生じ、

 名形があれば、それが縁で六処が生じ、

 六処があれば、それが縁で触が生じ、

 触があれば、それが縁で受が生じ、

 受があれば、それが縁で欲が生じ、

 欲があれば、それが縁で取が生じ、

 取があれば、それが縁で有が生じ、

 有があれば、それが縁で生が生じ、

 生があれば、それが縁で老死、悲しみ、嘆き、苦、憂い、すべての悩みが揃って生じる。この苦の山の発生は当然このような状態である。

 比丘のみなさん。アリヤニャーヤダンマは聖なる弟子が智慧で良く見えたもの、良く洞察したものです。





心が混乱するのは縁起を知らないから

増支部ニダーナヴァッガ 16巻111頁225項
長部マハーヴァッガ 10巻65頁57項

 アーナンダ。ダンマつまり縁起を知らないから、順々に知らないら、洞察できないから、動物の心は結び目がいっぱいの糸玉のようにもつれ、ムンチャ草パッバチャ草のように絡み合って、当然苦界、悪趣、地獄である輪廻から脱すことができません。





縁起は中道の名

相応部ニダーナヴァッガ 16巻21頁44項
相応部ニダーナヴァッガ 16巻91頁173項

 カッチャーナさん。「すべての物はある」というディッティ(見解)で主張する言葉は、これは(中道でない)一つの端(註1)で、「何もない」というディッティで主張する言葉は、(中道でない)もう一つの端です。カッチャーナさん。如行(ブッダの一人称。そのように行ったという意味。漢訳は如来)は当然どちらにも偏らない、中道であるダンマを説きます。つまり如行は次のように説明します。

 無明があれば、それが縁ですべての行が生じ、

 行があれば、それが縁で識が生じ、

 識があれば、それが縁で名形が生じ、

 名形があれば、それが縁で六処が生じ、

 六処があれば、それが縁で触が生じ、

 触があれば、それが縁で受が生じ、

 受があれば、それが縁で欲が生じ、

 欲があれば、それが縁で取が生じ、

 取があれば、それが縁で有が生じ、

 有があれば、それが縁で生が生じ、

 生があれば、それが縁で老死、悲しみ、嘆き、苦、憂い、すべての悩みが揃って生じる。この苦の山の発生は当然このような状態である。

註1: この場合の「端」という言葉は、自我、あるいは反対の形で執着する状態がある、どちらか一方へ思い切り突っ走る見解、あるいは考え方を意味します。

 世尊はあれこれ極端に突っ走らないで「これがあればこれがある。これが消滅すればこれも消滅する」という科学の状態の教えがあり、鎖のように繋がっていて、単独で生じるもの、あるいは消滅するものは何もないので「すべてはある」あるいは「すべてはない」という見解はありません。





縁起を学習するよう強く勧められる

相応部ニダーナヴァッガ 16巻90頁168項
相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻113頁164項

 世尊が縁起を繰り返し唱えていると、一人の比丘が隠れて聞いていました。スガタ様はその比丘にちらっと眼をやり、そして言われました。

 比丘。あなたはこのダンマの説明を聞きましたか。

 「はい、聞かせていただきました、スガタ様」。

 比丘。このダンマを受け取りなさい。比丘。このダンマを学びなさい。比丘。このダンマを維持なさい。比丘。このダンマには利益があり、梵行の初めです。





現生で般涅槃できないのは縁起の流れを絶てないから

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻128頁178項他

 「世尊。この世界のある人たちが現生で般涅槃しない原因は何で、縁は何でしょうか。そしてこの世界のある人たちが現生で般涅槃する原因は何で、縁は何でしょうか」と、サッカ王(帝釈天)が世尊に質問しました。

 すべての天人の統領である方。望ましい物、欲しくなる物、満足できる物で、可愛い状態があり、欲望の住処であり、欲情の基盤である目で知るすべての形があり、比丘がその形に夢中になり褒めちぎって惑溺すれば、その比丘がその形に夢中になり褒めちぎって惑溺している時、感情の欲、つまり形に依存している識が当然その人にあります。

 その識(註1)は取です。すべての天人の統領である方。取がある比丘は当然般涅槃しません。

註1: ここでの識はその形に熱中し陶酔を感じる意識を意味し、普通に形を見る眼識ではありません。

 すべての天人の統領である方。望ましい物、欲しくなる物、満足できる物で、可愛い状態があり、欲望の住処であり、欲情の基盤である耳で聞くすべての声があり、比丘がその声に夢中になり褒めちぎって惑溺すれば、その比丘がその声に夢中になり褒めちぎって惑溺している時、感情の欲、つまり声に依存している識が当然その人にあります。

 その識は取です。すべての天人の統領である方。取がある比丘は当然般涅槃しません。

 すべての天人の統領である方。望ましい物、欲しくなる物、満足できる物で、可愛い状態があり、欲望の住処であり、欲情の基盤である鼻で感じるすべての臭いがあり、比丘がその臭いに夢中になり褒めちぎって惑溺すれば、その比丘がその臭いに夢中になり褒めちぎって惑溺している時、感情の欲、つまり臭いに依存している識が当然その人にあります。

 その識は取です。すべての天人の統領である方。取がある比丘は当然般涅槃しません。

 すべての天人の統領である方。望ましい物、欲しくなる物、満足できる物で、可愛い状態があり、欲望の住処であり、欲情の基盤である舌で味わうすべての味があり、比丘がその味に夢中になり、褒めちぎって惑溺すれば、その比丘がその味に夢中になり褒めちぎって惑溺している時、感情の欲、つまり味に依存している識が当然その人にあります。

 その識は取です。すべての天人の統領である方。取がある比丘は当然般涅槃しません。

 すべての天人の統領である方。望ましい物、欲しくなる物、満足できる物で、可愛い状態があり、欲望の住処であり、欲情の基盤である体で感じるすべての接触があり、比丘がその接触に夢中になり褒めちぎって惑溺すれば、その比丘がその接触に夢中になり褒めちぎって惑溺している時、感情の欲、つまり接触に依存している識が当然その人にあります。

 その識は取です。すべての天人の統領である方。取がある比丘は当然般涅槃しません。

 すべての天人の統領である方。望ましい物、欲しくなる物、満足できる物で、可愛い状態があり、欲望の住処であり、欲情の基盤である心で感じるすべての想念があり、比丘がその想念に夢中になり褒めちぎって惑溺すれば、その比丘がその想念に夢中になり褒めちぎって惑溺している時、感情の欲、つまり想念に依存している識が当然その人にあります。

 その識は取です。すべての天人の統領である方。取がある比丘は当然般涅槃しません。

 すべての天人の統領である方。これがこの世界のある人たちが現生で般涅槃しない原因であり縁です。



 すべての天人の統領である方。望ましい物、欲しくなる物、満足できる物で、可愛い状態があり、欲望の住処であり、欲情の基盤である目で知るすべての形があります。

 比丘がその形に夢中にならず褒めちぎって惑溺しなければ、その比丘がその形に夢中にならず褒めちぎって惑溺しない時、感情の欲、つまり形が依存している識はその人にないので、取になる識はありません。すべての天人の統領である方。取がない比丘は当然般涅槃します。

 すべての天人の統領である方。望ましい物、欲しくなる物、満足できる物で、可愛い状態があり、欲望の住処であり、欲情の基盤である耳で聞くすべての声があります。

 比丘がその声に夢中にならず褒めちぎって惑溺しなければ、その比丘がその声に夢中にならず褒めちぎって惑溺しない時、感情の欲、つまり声が依存している識はその人にないので、取になる識はありません。すべての天人の統領である方。取がない比丘は当然般涅槃します。

 すべての天人の統領である方。望ましい物、欲しくなる物、満足できる物で、可愛い状態があり、欲望の住処であり、欲情の基盤である鼻で嗅ぐすべての臭いがあります。

 比丘がその臭いに夢中にならず褒めちぎって惑溺しなければ、その比丘がその臭いに夢中にならず褒めちぎって惑溺しない時、感情の欲、つまり臭いが依存している識はその人にないので、取になる識はありません。すべての天人の統領である方。取がない比丘は当然般涅槃します。

 すべての天人の統領である方。望ましい物、欲しくなる物、満足できる物で、可愛い状態があり、欲望の住処であり、欲情の基盤である舌で味わうすべての味があります。

 比丘がその味に夢中にならず褒めちぎって惑溺しなければ、その比丘がその味に夢中にならず褒めちぎって惑溺しない時、感情の欲、つまり味が依存している識はその人にないので、取になる識はありません。すべての天人の統領である方。取がない比丘は当然般涅槃します。

 すべての天人の統領である方。望ましい物、欲しくなる物、満足できる物で、可愛い状態があり、欲望の住処であり、欲情の基盤である体で感じるすべての接触があります。

 比丘がその接触に夢中にならず、褒めちぎって惑溺しなければ、その比丘がその接触に夢中にならず、褒めちぎって惑溺しない時、感情の欲、つまり接触が依存している識はその人にないので、取になる識はありません。すべての天人の統領である方。取がない比丘は当然般涅槃します。

 すべての天人の統領である方。望ましい物、欲しくなる物、満足できる物で、可愛い状態があり、欲望の住処であり、欲情の基盤である、心で感じるべきすべての想念があります。

 比丘がその想念に夢中にならず褒めちぎって惑溺しなければ、その比丘がその想念に夢中にならず褒めちぎって惑溺しない時、感情の中の欲、つまり想念に依存している識はその人にないので、取になる識はありません。すべての天人の統領である方。取がない比丘は当然般涅槃します。

 すべての天人の統領である方。これがこの世界のある人たちが現生で般涅槃する原因であり縁です。

註: このように現在般涅槃できないことについて質問するのは天人も人間も所帯を持っている在家ばかりで、比丘が質問しているのは(プラアーナンダがプラサーリプッタに質問している、増支部チャッカニパータ 21巻226頁179項以外に)まだありません。

 これは、すべての比丘にとって明らかになっていることだからかもしれません。それともいったい何なのか、更に般涅槃と呼ぶ物は縁起の終りにすぎないということも、みなさんに考えていただきたい問題です。




縁起目次へ ホームページへ 次へ