凡夫の受は聖なる弟子の受と(縁起の観点で)違う

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻257頁369項

 比丘のみなさん。聞いたことがない凡夫は、幸福でも苦でも、苦でも幸福でもないのでも、当然受を味わい、比丘のみなさん。聞いたことがある聖なる弟子も、幸福でも苦でも、苦でも幸福でもないのでも、当然受を味わいます。比丘のみなさん。このようなら、聞いたことがある聖なる弟子と聞いたことがない凡夫の違いは何で、目的の違いは何で、原因の違いは何でしょうか。

 比丘たちが「猊下。私たちのすべてのダンマは、世尊が根源で、世尊が指導者で、世尊が拠り所です。世尊。正しいことです。お話になったことの意味を、どうぞ明らかになさってください。比丘のみなさんは、世尊から聞いて記憶します」とこのように申し上げたので、世尊は比丘たちによく聞くよう忠告して話されました。

 比丘のみなさん。聞いたことがない凡夫が苦受に触れると、当然悲しみ、当然焦燥し、当然泣き嘆き、胸を叩いてサティが呆けた人になり、その人は当然両方の受、つまり体の受と心の受を味わいます。

 比丘のみなさん。人を矢で射、その人を二番目の矢が射ると、このように二本の矢で射られた人は当然体の受と心の受を味わいます。比丘のみなさん。同じように聞いたことがない凡夫が苦受に触れると、当然悲しみ、当然焦燥し、当然泣き嘆き、胸を叩いてサティがぼやけた人になります。

 その人は当然両方の受、つまり体の受と心の受を味わうと言われ、彼はその苦受が原因での瞋恚のある人で、苦受から生じた瞋恚随眠はどれでも、その瞋恚随眠は当然苦受による瞋恚がある人の心で眠ります。苦受に触れているその人は当然愛欲の幸福に満足します。それはなぜでしょうか。

 比丘のみなさん。それは、聞いたことがない凡夫は、当然(その人が苦受を抑えることができると考える)愛欲の幸福以外に苦受を脱ぎ捨てる方法を知らないからです。その凡夫が愛欲の幸福に非常に満足すれば、苦受から生じた貪随眠のどれでも、その貪随眠は当然その凡夫の中で眠ります。

 その凡夫は当然受が生じる原因、維持できないこと、旨味、低劣な害、そしてそれらすべての受から出る方便を、真実のままに明らかに知らないので、その凡夫が当然受が生じる原因、維持できないこと、旨味、低劣な害、そしてそれらすべての受から出る方便を、真実のままに明らかに知らなければ、不苦不幸受から生じた無明随眠は当然その凡夫の中で眠ります。

 その凡夫が幸受を味わえば当然虜になってその受を味わう人であり、虜になって苦受を味わえば虜になってその受を味わう人であり、不苦不幸受を味わっても虜になってその受を味わう人です。比丘のみなさん。聞いたことがないこの凡夫を、私は「生・老・死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みに関わっている人」と言います。私は「苦に関わっている人」と言います。



 比丘のみなさん。聞いたことがある聖なる弟子が苦受に触れると当然悲しまず、当然イライラせず、当然泣き嘆かず、胸を叩いてサティがぼやけた人になりません。その人は当然一つの受、つまり体の面の受だけを味わい、心の受はありません。

 比丘のみなさん。人が人を矢で射って、それから二番目の矢を射なければ、このようならその人は当然体の面の受だけを味わいます。同じように比丘のみなさん。聞いたことがある聖なる弟子が苦受に触れると当然悲しまず、当然イライラせず、当然泣き嘆かず、胸を叩いてサティが呆けた人になりません。彼は当然一つの受、つまり体の受だけを味わい、心の受はありません。

 その聖なる弟子は、その苦受が原因の瞋恚がある人でなく、苦受から生じた瞋恚随眠はどれも、その瞋恚随眠は当然苦受による瞋恚がない人の心で眠りません。苦受に触れているその聖なる弟子は、当然愛欲の幸福に満足しません。それはなぜでしょうか。

 比丘のみなさん。それは、聞いたことがある聖なる弟子は当然苦受を脱ぎ捨てる方便を明らかに知っているからです。その聖なる弟子が愛欲の幸福に非常に満足しなければ、苦受から生じた貪随眠はどれでも、その貪随眠は当然その聖なる弟子の中で眠りません。

 その聖なる弟子は、当然受が生じる原因、維持できないこと、旨味、低劣な害、そしてそれらすべての受から出る方便を、真実のままに明らかに知っています。その聖なる弟子が、当然受が生じる原因、維持できないこと、旨味、低劣な害、そしてそれらすべての受から出る方便を、真実のままに明らかに知っていれば、不苦不幸受から生じた無明随眠は、当然その聖なる弟子の中で眠りません。

 その聖なる弟子は幸受を味わっても当然虜になってその受を味わう人でなく、苦受を味わっても虜になってその受を味わう人でなく、不苦不幸受を味わっても虜になってその受を味わう人ではありません。比丘のみなさん。聞いたことがあるこの聖なる弟子を、私は「生・老・死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みに関わらない人」と言います。私は「苦に関わらない人」と言います。

 比丘のみなさん。これが、聞いたことがある聖なる弟子と聞いたことがない凡夫の違い、目標の違い、原因の違いです。

註: 聞いたことがない凡夫の三種類の受は、当然十分な縁起の状態である三種類の随眠を生じさせ、最後に苦が生じます。聞いたことがある聖なる弟子の受は、当然随眠を生じさせず、つまり縁起が生じないので最終的に苦になりません。

 随眠、あるいは縁起を生じさせる類の受とは、当然無明から始まる、あるいは十分な縁起の流れの意味で無明と関わっている受を意味します。だからこの場合のように受についてだけ述べることは、当然目と形などの六処との触がある場合に関わる無明に引き返していく受のすべての原因と縁を意味します。





聖なる弟子は世界の発生と消滅を知る

祇園精舎で
相応部ニダーナヴァッガ 16巻92頁178項

 比丘のみなさん。聞いたことがある聖なる弟子は、当然「何があるからで何があるのだろう。何が生じると何が生じるのだろう。何があるから名形が生じ、何があるから六処が生じ、何があるから触が生じ、何があるから受が生じ、何があるから触が生じ、何があるから受が生じ、何があるから欲が生じ、何があるから取が生じ、何があるから有が生じ、何があるから生が生じ、何があるから老死が生じるのだろう」という疑問はありません。

 比丘のみなさん。実際聞いたことがある聖なる弟子は、当然他人を信じる必要がなく「これがあるからこれがあり、これが生じたからこれが生じた。識があるから名形が生じ、名形があるから六処が生じ、六処があるから触が生じ、触があるから受が生じ、受があるから欲が生じ、欲があるから取が生じ、取があるから有が生じ、有があるから生が生じ、生があるから老死が生じる」と洞察するニャーナ(知ること。智)があります。

 比丘のみなさん。聞いたことがある聖なる弟子は、当然「何がなければ何がないのだろう。何が消滅するから何が消滅するのだろう。何がなければ名形がなく、何がなければ六処がなく、何がなければ触がなく、何がなければ受がなく、何がなければ触がなく、何がなければ受がなく、何がなければ欲がなく、何がなければ取がなく、何がなければ有がなく、何がなければ生がなく、何がなければ老死がないのだろう」という疑問はありません。

 比丘のみなさん。実際聞いたことがある聖なる弟子は、当然他人を信じる必要がなく「これがなければこれがなく、これがなければこれがない。識がなければ名形がなく、名形がなければ六処がなく、六処がなければ触がなく、触がなければ受がなく、受がなければ欲がなく、欲がなければ取がなく、取がなければ有がなく、有がなければ生がなく、生がなければ老死がない」と洞察するニャーナがあります。

 比丘のみなさん。聖なる弟子が当然世界の発生と消滅をこのように真実のままに明らかに知れば、私はその時この聖なる弟子を「見解が完璧な人」「見方が完璧な人」「有学であるニャーナがある人」「有学である明がある人」「ダンマの流れに到達した人」「煩悩に斬り込む智慧がある素晴らしい人」「不死の門の前に立っている人」などと呼びます。





預流とは四聖諦の手法で縁起が良く見える人

祇園精舎で
相応部ニダーナヴァッガ 16巻50頁88項

 比丘のみなさん。無明が縁ですべての行があり、行が縁で識があり、識が縁で名形があり、名形が縁で六処があり、六処が縁で触があり、触が縁で受があり、受が縁で欲があり、欲が縁で取があり、取が縁で有があり、有が縁で生があり、生が縁で老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが一つ残らず生じます。すべての苦の群れの発生は、当然このような状態であります。

 比丘のみなさん。老死はどのようでしょうか。
①老い、老いぼれること、歯が抜けること、白髪になること、皺がよること、寿命が少なくなること、それらの動物の種属のすべての根が老いること。これを老いと言います。終り、移動、崩壊、消失、命の終り、死、一巻の終り、すべての蘊の崩壊、体を捨てること、その動物属の根、つまり命を捨てること。これを死と言います。老いも死も当然このようで、比丘のみなさん。これを老死と言います。

②老死が揃って生じるのは当然生があるからで、
③老死の消滅は当然生の消滅によってあります。
④素晴らしい八項目のある道は、老死の消滅に至らせる実践項目で、つまり、正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業(生活)、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。

 比丘のみなさん。生はどのようでしょうか。

 発生、(胎内に)下りること、生まれること、一斉に生まれること、すべての蘊が現れること、生き物が、その動物属のすべての蘊を得ること。比丘のみなさん。これを生と言います。生の発生は当然有の発生によってあり、生の消滅は当然有の消滅によってあります。素晴らしい八項目がある道は生の消滅に至らせる実践項目で、つまり正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。

 比丘のみなさん。有とは何でしょうか。比丘のみなさん。この三つ、つまり欲界、形界、無形界です。比丘のみなさん。この三つを有と言います。有の発生は当然欲の発生によってあり、有の消滅は当然欲の消滅によってあります。素晴らしい八項目がある道は、三界の消滅に至らせる実践項目で、つまり正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。

 比丘のみなさん。取はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この四つ、つまり欲取、見取、戒禁取、我語取。比丘のみなさん。これを取と言います。取の発生は、当然欲の発生によってあり、取の消滅は、当然欲の消滅によってあります。素晴らしい八項目がある道は、取の消滅に至らせる実践項目で、つまり正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業(生活)、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。

 比丘のみなさん。欲はどのようでしょうか。比丘のみなさん。六つの欲、つまり形欲・声欲・臭欲・味欲・触欲・法欲です。比丘のみなさん。これを欲と言います。欲の発生は、当然受の発生によってあり、取の消滅は、当然受の消滅によってあります。素晴らしい八項目がある道は、受の消滅に至らせる実践項目である正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。

 比丘のみなさん。受はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この六つ、つまり眼触受、耳触受、鼻触受、舌触受、身触受、意触受を、比丘のみなさん。これを受と言います。受の発生は、当然触の発生によってあり、取の消滅は、当然触の消滅によってあります。素晴らしい八項目がある道は、触の消滅に至らせる実践項目で、つまり正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。

 比丘のみなさん。触はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この六つ、つまり眼触、耳触、鼻触、舌触、身触、意触です。比丘のみなさん。これを触と言います。触の発生は、当然六処の発生によってあり、取の消滅は、当然六処の消滅によってあります。素晴らしい八項目がある道は、六処の消滅に至らせる実践項目で、つまり正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。

 比丘のみなさん。六処はどのようでしょうか。この六つ、つまり眼処、耳処、鼻処、舌処、身処、意処を、比丘のみなさん。これを六処と言います。六処の発生は、当然名形の発生によってあり、六処の消滅は、当然名形の消滅によってあります。素晴らしい八項目がある道は、名形の消滅に至らせる実践項目で、つまり正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。

 比丘のみなさん。名形はどのようでしょうか。受、想、意思、触、思念を名と言い、四大種と、四大種が依存している形を形と言います。当然このようである名も形も、比丘のみなさん。これを名形と言います。名形の発生は、当然識の発生によってあり、名形の消滅は、当然識の消滅によってあります。

 素晴らしい八項目がある道は、名形の消滅に至らせる実践項目で、つまり正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。

 比丘のみなさん。識はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この六つ、つまり眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識を、比丘のみなさん。これを識と呼びます。識の発生は、当然行の発生によってあり、識の消滅は、当然行の消滅によってあります。素晴らしい八項目がある道は、識の消滅に至らせる実践項目で、つまり、正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業(生活)、正しい努力、正しいサティ、正、しいサマーディです。

 比丘のみなさん。すべての行はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この三つ、つまり身行、口行、意行のすべてを、比丘のみなさん。これをすべての行と言います。行の発生は、当然無明の発生によってあり、行の消滅は、当然無明の消滅によってあります。素晴らしい八項目がある道は、行の消滅に至らせる実践項目である正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。

 比丘のみなさん。聖なる弟子が当然、縁であるダンマはこのようと知り尽し、縁であるダンマが生じる原因はこのようと知り尽し、縁であるダンマの消滅はこのようと知り尽し、動物を縁であるダンマの消滅に至らせる実践項目はこのようと知り尽せば、比丘のみなさん。その時その聖なる弟子を、私は「見解が完璧な人」「見方が完璧な人」「有学であるニャーナがある人」「有学である明がある人」「ダンマの流れに到達した人」「煩悩に斬り込む智慧がある素晴らしい人」「不死の門の前に立っている人」などと呼びます。






預流支は聖なる弟子の縁起を知ること次第

祇園精舎で
相応部ニダーナヴァッガ 16巻82頁151項

 長者さん。聖なる弟子が五つの災厄を鎮めることができた時はいつでも、その時その聖なる弟子は当然預流の四項目が完璧な人で、そしてアリヤニャーヤダンマ(知るべき素晴らしい物)も当然その聖なる弟子は良く見え、智慧で良く洞察したものです。

 その聖なる弟子が望むなら「私は地獄が終わった人で、畜生に生まれることが終わり、餓鬼の境地が終り、苦界、悪趣、破滅が終わった。流れに到達した人であり、落ちて普通になることはないダンマがある、涅槃が確実な人、将来悟る人だ」と、このように自分で自分に予言することができます。

 長者さん。聖なる弟子が鎮めることができた五つの災厄はどれでしょうか。

(1) 長者さん。普段から動物を殺している人は、当然殺生が縁で直後に何らかの災厄に遭遇し、当然後で何らかの災厄に遭遇し、当然心の苦を味わいます。その災厄は聖なる弟子が殺生を避けることで鎮めることができたものです。

(2) 長者さん。普段から人が与えていない物を盗る人は、当然窃盗が縁で直後に何らかの災厄に遭遇し、当然後で何らかの災厄に遭遇し、当然心の苦を味わいます。その災厄は聖なる弟子が窃盗を避けることで鎮めることができたものです。

(3) 長者さん。普段からすべての愛欲の過ちをする人は、当然邪淫が縁で直後に何らかの災厄に遭遇し、当然後で何らかの災厄に遭遇し、当然心の苦を味わいます。その災厄は聖なる弟子が邪淫を避けることで鎮めることができたものです。

(4) 長者さん。普段から嘘を言っている人は、当然虚言が縁で直後に何らかの災厄に遭遇し、当然後で何らかの災厄に遭遇し、当然心の苦を味わいます。その災厄は聖なる弟子が虚言を避けることで鎮めることができたものです。

(5) 長者さん。普段から不注意の住処である蒸留酒、醸造酒を飲んでいる人は、当然飲酒が縁で直後に何らかの災厄に遭遇し、当然後で何らかの災厄に遭遇し、当然心の苦を味わいます。その災厄は聖なる弟子が飲酒を避けることで鎮めることができたものです。

 長者さん。この五つの災厄は、聖なる弟子が鎮めることができた物です。


 長者さん。聖なる弟子は預流の四つが完璧な人です。四つとはどれでしょうか。

(1) 長者さん。このダンマヴィナヤの聖なる弟子は「このような理由で世尊は煩悩から遠い人で、自分自身で正しく大悟し、知識と品行が完璧な人で、良く行った人で、世界を明らかに知る人で、訓練するべき人を誰よりも良く訓練できる人で、天人とすべての人間の先生であり、智者、目覚めた人、ダンマに明るい人で、ダンマを分類して動物に教える発展した人だ」とこのようにブッダに安定した揺るぎない完璧な信仰があります。

(2) 長者さん。このダンマヴィナヤの聖なる弟子は、「ダンマは世尊が良く説いたもので、学習者と実践者は自分で見ることができるもので、実践できるもの、そして時を限定せず結果を出せるものであり、他の人に見においでなさいと言うべきもので、自分自身に傾けるべきもので、智者が自分だけが知ることができるものだ」とこのようにダンマに安定した揺るぎない完璧な信仰があります。

(3) 長者さん。このダンマヴィナヤの聖なる弟子は、「世尊の弟子である僧は実践者であり、真直ぐな実践をする人で、苦から出るダンマを知るために実践する人で、ふさわしい実践をする人だ。これらの人たちは、四組の対で八人並べることができる。それが世尊の弟子である僧であり、

人々が供物を持って来るにふさわしい僧、迎えるにふさわしい僧、表敬して迎えるべき僧、一般の人が合掌するべき僧、これ以上の徳の田はない世界の徳の田である僧だ」と、このようにサンガに安定した揺るぎない完璧な信仰があります。

(4) 長者さん。このダンマヴィナヤの聖なる弟子は聖人が満足する状態のすべての戒、つまり欠けず突き出ず、シミがなく、まだらでなく、自律していて、智者が称賛し、欲やディッティが撫でまわさない、サマーディになる戒が完璧です。

 長者さん。聖なる弟子はこれら四つの預流支が完璧です。



 長者さん。アリヤニャーヤダンマ(知るべき素晴らしいもの)は、聖なる弟子がどのように良く見え、智慧で良く洞察したものでしょうか。

 長者さん。このダンマヴィナヤの聖なる弟子は、当然「これがあるからこれがあり、これが生じたからこれが生じた。これがないからこれがない。これが消滅したからこれが消滅する」と、縁起で心の中を絶妙にしておきます。

 それはつまりこれらです。無明が縁ですべての行があり、行が縁で識があり、識が縁で名形があり、名形が縁で六処があり、六処が縁で触があり、触が縁で受があり、受が縁で欲があり、欲が縁で取があり、取が縁で有があり、有が縁で生があり、生が縁で老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが一つ残らず生じます。すべての苦の群れの発生は、当然このような形であります。

 無明が消滅することですべての行が消滅し、行が消滅することで識が消滅し、識が消滅することで名形が消滅し、名形が消滅することで触消滅し、触が消滅することで受が消滅し、受が消滅することで取が消滅し、取が消滅することで欲が消滅し、欲が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが消滅する。苦の山のすべての消滅は、当然このようにしてあります。

 長者さん。このアリヤニャーヤダンマは、聖なる弟子が良く見え智慧で良く洞察したものです。

 長者さん。聖なる弟子が五つの災厄を鎮めることができればいつでも、その時その聖なる弟子は、当然預流の四項目が完璧な人で、そしてアリヤニャーヤダンマも当然その聖なる弟子が智慧で良く見え、良く洞察したものです。

 その聖なる弟子が望むなら「私は地獄が終わった人で、畜生の生まれも終わり、餓鬼の境地が終り、苦界、悪趣、破滅が終わった。私は流れに到達した人であり、落ちて普通にならないダンマがある涅槃が確実な人、将来悟る人だ」と、このように自分で自分に予言することができます。

註: 別の経:相応部ニダーナヴァッガ 16巻85頁156項では、同じ内容でアナータピンカ長者でなく比丘たちに話しています。

 また別の経:増支部ダサカニパータ 24巻195頁92項:では、内容は上の経と同じですが「当然縁起で心の中を絶妙にしておきます」という言葉が「当然熟慮して明らかに見ます」になっています。





仏教の沙門果は異教の沙門果と比較にならない

祇園精舎で
相応部ニダーナヴァッガ 16巻168頁331項

 比丘のみなさん。男が緑豆七粒くらいの砂利を、シネル山脈に投げるようなものです。比丘のみなさん、これをどう思いますか。男が(シネル山脈に)投げた緑豆七粒ほどの砂利とシネル山脈とどちらが多いですか。

 「猊下。シネル山脈の方が多いです。男が投げた緑豆七粒ほどの砂利は少ないです。この砂利をシネル山脈と比べると、当然百分の一、千分の一、十万分の一にもなりません」。

 比丘のみなさん。同じように異教義のサマナ・バラモンと修行者の素晴らしい到達を、見解が完璧な人である聖なる弟子の素晴らしい到達と比較すると、当然百分の一、千分の一、十万分の一にもなりません。比丘のみなさん。正しい見解が完璧な人はこのように偉大な到達のある人で、このように偉大な知識のある人です。




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