第十章 いろんな様式の縁起





     因果の法則:縁起の要旨

  これがあれば、これが当然ある。

  これが生じたから、これが生じた。


  これが無ければ、これは当然無い。

  これが消滅したから、これが消滅する。

中部マッジマバンナーサ 13巻355頁371項
相応部ニダーナヴァッガ 16巻84頁154項








縁起の中に隠れている縁起

サーヴァッディーに近い東園で
ダヴァヤターヌパッサナースッタ
小部スッタニパータ 25巻4頁390項

(1) 比丘のみなさん。アリヤであり、苦から出す道具であり、動物を悟りに至らせる善であるダンマのどれも、比丘のみなさん。質問好きな人に「それらの善のダンマを聞く目的である利益はどのようですか」と質問されたら、みなさんは「それらのダンマを聞く目的である利益は、当然すべてのダンマを二つの側に規定したように、真実のままに知るためです」と答えるべきです。二つとはどのようでしょうか。

 二つとは「これが苦。これが苦の原因」というのが一番目のアヌパッサナー(見ること。観)です。「これが苦の消滅。これが苦の消滅に至る道」というのが二番目のアヌパッサナー(見ること)です。

 比丘のみなさん。このように正しく二つの側に規定したダンマを真実のままに見ていれば、不注意な人でなく、煩悩を焼く努力があり、自分をダンマに追い遣っているので、その人が望める結果は、現生で阿羅漢果に到達するか、まだ取が残っていれば当然不還です。

(2) 比丘のみなさん。質問好きな人が続けて「他の説明で正しく二つの側に規定した別のダンマを見ることはありますか」とみなさんに質問したら、みなさんは「あります。生じた苦はどれでも、そのすべての苦はウパティが縁で生じます。これが一番目のアヌパッサナー(見ること)です。すべてのウパティを残らず吐き出して消滅させれば、苦が生じることは当然ありません。これが二番目のアヌパッサナー(見ること)です」と答えるべきです。

 比丘のみなさん。このように正しく二つの側に規定したダンマを真実のままに見ていれば、不注意な人でなく、煩悩を焼く努力があり、ダンマに自分を追い遣っているので、その人が望める結果は、現生で阿羅漢果に到達するか、まだ取が残っていれば当然不還です。

 (ここまで話されると、次の詩を詠まれました)。

  すべての苦は、

  当然発生源であるウパディがあるから生じる

  それは世界にある様々な苦

  無知で当然ウパティを作る人は、

  誰でも愚か者で当然際限なく苦に至る

  だから苦の発生源が見える智者は、

  ウパディを作るべきでない

(3) 比丘のみなさん。質問好きな人が続けて「他の説明で正しく二つの側に規定したダンマを見ることはありますか」とみなさんに質問したら、みなさんは「あります。二つとは「生じる苦は何でも、そのすべての苦は無明が縁で生じます。これが一番のアヌパッサナー(見ること)で、無明を残らず吐き出して消滅させれば、苦が生じることは当然ありません。これが二番目のアヌパッサナーです」と答えるべきです。

 比丘のみなさん。このように正しく二つの側に規定したダンマを真実のままに見ていれば、不注意な人でなく、煩悩を焼く努力があり、ダンマに自分を追い遣っているので、その人が望める結果は、現生で阿羅漢果に到達するか、まだ取が残っていれば当然不還です。

 (ここまで話されると、次の詩を詠まれました)。

  際限なく生と死を繰り返す動物はすべて、

  しばらくはこのようだが、

  すぐにまた別の物になる

  無明はそれらの動物を行かせる物

  無明は動物を永遠に輪廻させる偉大な闇

  明と共に行く動物は誰でも、

  それらの動物は当然新しい有へ行かない

(4) 比丘のみなさん。質問好きな人が続けて「他の説明で正しく二つの側に規定したダンマを見ることはありますか」とみなさんに質問したら、みなさんは「あります。二つとは、生じる苦は何でも、そのすべての苦は行が縁で生じます。これが一番のアヌパッサナー(見ること)です。すべての行を残らず吐き出して消滅させれば、苦が生じることは当然ありません。これが二番目のアヌパッサナー(見ること)です」と答えるべきです。

 比丘のみなさん。このように正しく二つの側に規定したダンマを真実のままに見ていれば、不注意な人でなく、煩悩を焼く努力があり、ダンマに自分を追い遣っているので、その人が望める結果は、現生で阿羅漢果に到達するか、まだ取が残っていれば当然不還です。

 (ここまで話されると、次の詩を詠まれました)。

  生じる苦は何でも、行が縁で生じる

  すべての行が消滅すれば、苦の発生は当然ない

  苦は行が縁で生じ

  すべての行が消滅すれば、当然想の消滅があると、

  行の害を知れば

  苦の終りは当然このようにある

  そのダンマを、本当に正しく知るからだ

  智慧で正しく知ることでヴェーダに至った智者は、

  いろんなものを正しく見、

  悪魔の捕縛具を管理して、当然新しい有に行かない

(5) 比丘のみなさん。質問好きな人が続けて「他の説明で正しく二つで規定したダンマを見ることはありますか」とみなさんに質問したら、みなさんは「あります。二つとは、生じる苦は何でも、そのすべての苦は識が縁で生じます。これが一番のアヌパッサナー(見ること)です。識を残らず吐き出して消滅させれば苦が生じることは当然ありません。これが二番目のアヌパッサナー(見ること)です」と答えるべきです。

 比丘のみなさん。このように正しく二つの側に規定したダンマを真実のままに見ていれば、不注意な人でなく、煩悩を焼く努力があり、ダンマに自分を追い遣っているので、その人が望める二つの結果は、現生で阿羅漢果に到達するか、まだ取が残っていれば当然不還です。

 (ここまで話されると、次の詩を詠まれました)。

  生じる苦は何でも識が縁で生じる

  すべての識が消滅すれば苦の発生は当然ない

  苦は識が縁で生じると行の害を知ることで

  比丘は望む物が残らず消滅する

  それは識が静まるから

(6) 比丘のみなさん。質問好きな人が続けて「他の説明で正しく二つで規定したダンマを見ることはありますか」とみなさんに質問したら、みなさんは「あります。二つとは、生じる苦は何でも、そのすべての苦は触が縁で生じます。これが一番のアヌパッサナー(見ること)です。触を残らず吐き出して消滅させれば苦が生じることは当然ありません。これが二番目のアヌパッサナー(見ること)です」と答えるべきです。

 比丘のみなさん。このように正しく二つの側に規定したダンマを真実のままに見ていれば、不注意な人でなく、煩悩を焼く努力があり、ダンマに自分を追い遣っているので、その人が望める結果は、現生で阿羅漢果に到達するか、まだ取が残っていれば当然不還です。

 (ここまで話されると、次の詩を詠まれました)。

  触に目隠しされている動物は

  有の流れに乗って走り

  誤った道へ行くので、

  その人の結の終りは遠い

  触を知り尽している人は誰でも

  智慧で鎮まるダンマを喜ぶ

  それらの人々は当然望みが無くなった人で

  触を知り尽すことで消滅する

(7)比丘のみなさん。質問好きな人が続けて「他の説明で正しく二つで規定したダンマを見ることはありますか」とみなさんに質問したら、みなさんは「あります。二つとは、生じる苦は何でも、そのすべての苦は受が縁で生じます。これが一番のアヌパッサナーです。受を残らず吐き出して消滅させれば、苦が生じることは当然ありません。これが二番目のアヌパッサナーです」と答えるべきです。

 比丘のみなさん。このように正しく二つの側に規定したダンマを真実のままに見ていれば、不注意な人でなく、煩悩を焼く努力があり、ダンマに自分を追い遣っているので、その人が望める結果は、現生で阿羅漢果に到達するか、まだ取が残っていれば当然不還です。

 (ここまで話されると、次の詩を詠まれました)。

  触に目隠しされている動物は

  有の流れに沿って駆け

  誤った道へ行く

  その人の結の終りは遠い

  触を知り尽している人は誰でも、

  智慧で鎮まるダンマを喜ぶ

  それらの人々は当然望みが無くなった人で

  触を知り尽すことで消滅する

(8) 比丘のみなさん。質問好きな人が続けて「他の説明で正しく二つで規定したダンマを見ることはありますか」とみなさんに質問したら、みなさんは「あります。二つとは、生じる苦は何でも、そのすべての苦は欲が縁で生じます。これが一番のアヌパッサナー(見ること)です。欲を残らず吐き出して消滅させれば苦が生じることは当然ありません。これが二番目のアヌパッサナーです」と答えるべきです。

 比丘のみなさん。このように正しく二つの側に規定したダンマを真実のままに見ていれば、不注意な人でなく、煩悩を焼く努力があり、ダンマに自分を追い遣っているので、その人が望める結果は、現生で阿羅漢果に到達するか、まだ取が残っていれば当然不還です。

 (ここまで話されると、次の詩を詠まれました)。

  欲と付き合う人は永遠の輪廻に走り、

  一時このようで、一時そのようで、

  当然輪廻から脱出できない

  欲は苦の発生源と欲の害を知る比丘は

  当然欲の無い人、

  取が無くサティがあるので

  苦を回避できる

(9) 比丘のみなさん。質問好きな人が続けて「他の説明で正しく二つの側に規定したダンマを見ることはありますか」とみなさんに質問したら、みなさんは「あります。二つとは、生じる苦は何でも、そのすべての苦は取が縁で生じます。これが一番のアヌパッサナー(見ること)です。取を残らず吐き出して消滅させれば苦が生じることは当然ありません。これが二番目のアヌパッサナーです」と答えるべきです。

 比丘のみなさん。このように正しく二つの側に規定したダンマを真実のままに見ていれば、不注意な人でなく、煩悩を焼く努力があり、ダンマに自分を追い遣っているので、その人が望める結果は、現生で阿羅漢果に到達するか、まだ取が残っていれば当然不還です。

 (ここまで話されると、次の詩を詠まれました)。

  取が縁で有あり

  有がある人は、当然苦に至る

  死は当然、生まれた人にあり

  それは苦が揃うこと

  取が終わったことで

  すべての博学者は生の終りを智慧で正しく知った人になり

  当然新たな有へ行かない

(10) 比丘のみなさん。質問好きな人が続けて「他の説明で正しく二つで規定したダンマを見ることはありますか」とみなさんに質問したら、みなさんは「あります。二つとは、生じる苦は何でも、そのすべての苦はアーランバ(註1)が縁で生じます。これが一番のアヌパッサナーです。アーランバを残らず吐き出して消滅すれば、苦が生じることは当然ありません。これが二番目のアヌパッサナー(見ること)です」と答えるべきです。

 比丘のみなさん。このように正しく二つの側に規定したダンマを真実のままに見ていれば、不注意な人でなく、煩悩を焼く努力があり、ダンマに自分を追い遣っているので、その人が望める二つの結果は、現生で阿羅漢果に到達するか、まだ取が残っていれば当然不還です。

 (ここまで話されると、次の詩を詠まれました)。

  生じる苦は何でも、

  そのすべての苦はアーランバ(註2)が縁で生じる

  アーランバが消滅することで、苦の発生は当然ない

  苦はアーランバが縁で生じると 

  アーランバの害を知れば

  すべてのアーランバを捨ててしまい

  アーランバで特別に解脱した人になる

  その比丘が有欲を捨ててしまい

  静まった心があれば

  彼の生と行が終わり

  新たな有は当然その人にない

(11) 比丘のみなさん。質問好きな人が続けて「他の説明で正しく二つで規定したダンマを見ることはありますか」とみなさんに質問したら、みなさんは「あります。二つとは、生じる苦は何でも、そのすべての苦は食べ物が縁で生じます。これが一番のアヌパッサナー(見ること)です。すべての食べ物を残らず吐き出して消滅するので、苦が生じることは当然ありません。これが二番目のアヌパッサナーです」と答えるべきです。

 比丘のみなさん。このように正しく二つの側に規定したダンマを真実のままに見ていれば、不注意な人でなく、煩悩を焼く努力があり、ダンマに自分を追い遣っているので、その人が望める結果は、現生で阿羅漢果に到達するか、まだ取が残っていれば当然不還です。

 (ここまで話されると、次の詩を詠まれました)。

  生じる苦そのすべての苦は食べ物が縁で生じる

  食べ物が消滅することで、苦の発生は当然ない

  苦は食べ物が縁で生じると 

  食べ物を知り尽せば

  すべての食べ物に欲が住めない人

  病気を探すことができない涅槃を正しく知り

  すべての漏が終わるので

  「ダンマを維持している人、

  すべてを知って味わうヴェーダが終わった人」と呼ばれ

  当然何か(註3)と見なされない


註1: ここでのアーラムバとは心を有欲などの欲でいろんな有に引っ張って行くこと。

註2: アーラムバとは煩悩の威力、あるいは煩悩の望みで始めること。

註3: つまり人間、天人、悪魔、梵天、龍、カンダッパ、阿修羅、あるいは世間の規定で他の「何」と呼ぶにもふさわしくないという意味。

註: 学習者は、このように繋がっている部分は繋がって見える縁起の状態を説いていると分かりますが、それでもそれぞれの分部を熟慮すると、どの部分にも一対の縁起の状態が隠れていると観察して見なければなりません。だから「縁起の中に隠れている縁起」と言うべきです。あるいは「縁起の中に隠れている」も、特別な言い方と見なすことができます。





ヴィパッシーブッダが話した(識だけで終わる) 縁起

祇園精舎で
マハーパダーナスッタ
長部マハーヴァッガ 10巻35頁38項

 比丘のみなさん。その時、隠遁する場所へ行かれて隠遁されていたボーディサッタであったプラヴィパッシーに「この世界の動物はすべての苦に至り、当然生まれ、当然老い、当然死に、当然移動し、そして当然発生する。世界の動物が苦、つまり老死から脱す方便を知らなければ、どうして苦からの脱出が現れるだろう」という考えが生じました。

 比丘のみなさん。その時プラヴィパッシーに「何があるから老死があるのだろう。何が縁で老死が生じるのだろう」という疑問が生じました。

 比丘のみなさん。心の中を絶妙にしたので、その時プラヴィパッシーに「生があるから老死がある。生が縁で老死が生じる」と、智慧でこのように明らかな知識が生じました。

 心の中を絶妙にしたので、その時プラヴィパッシーに「有があるから生がある。有が縁で生が生じる」と、智慧でこのように明らかな知識が生じました。

 心の中を絶妙にしたので、その時プラヴィパッシーに「取があるから有がある。取が縁で有が生じる」と、智慧でこのように明らかな知識が生じました。

 心の中を絶妙にしたので、その時プラヴィパッシーに「欲望があるから取がある。欲望が縁で取が生じる」と、智慧でこのように明らかな知識が生じました。

 心の中を絶妙にしたので、その時プラヴィパッシーに「受があるから欲がある。受が縁で欲が生じる」と、智慧でこのように明らかな知識が生じました。

 心の中を絶妙にしたので、その時プラヴィパッシーに「触があるから受がある。触が縁で受が生じる」と、智慧でこのように明らかな知識が生じました。

 心の中を絶妙にしたので、その時プラヴィパッシーに「六処があるから受がある。六処が縁で受が生じる」と、智慧でこのように明らかな知識が生じました。

 心の中を絶妙にしたので、その時プラヴィパッシーに「名形があるから六処がある。名形が縁で六処が生じる」と、智慧でこのように明らかな知識が生じました。

 心の中を絶妙にしたので、その時プラヴィパッシーに「識があるから名形がある。識が縁で名形が生じる」と、智慧でこのように明らかな知識が生じました。

 比丘のみなさん。その時プラヴィパッシーに「何があるから識があるのだろう。何が縁で識が生じる」という疑問が生じました。

 比丘のみなさん。心の中を絶妙にしたので、その時プラヴィパッシーに「名形があるから識がある。名形が縁で識が生じる」と、智慧でこのように明らかな知識が生じました。

 比丘のみなさん。その時プラヴィパッシーに「この識は当然名形に引き返し、当然通り過ぎない。これだけの理由で世界の動物は生まれたり、老いたり、死んだり、移動したり、発生したりする。これはつまり、名形が縁で識があり、識が縁で名形があり、名形が縁で六処があり、六処が縁で触があり、触が縁で受があり、受が縁で有があり、有が縁で生があり、生が縁で老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが一斉に生じる。すべての苦の発生は当然このようにある」と、智慧でこのように明らかな知識が生じました。

 比丘のみなさん。ヴィパッシーボーディサッタに「揃って生じた! 揃って生じた!」と、このように今まで聞いたことがないダンマの目が生じ、ニャーナが生じ、智慧が生じ、明が生じ、光が生じました。



 比丘のみなさん。その時プラヴィパッシーに「何がなければ老死がないのだろう。何が消滅すれば老死が消滅するのだろう」という疑問が生じました。

 比丘のみなさん。心の中を絶妙にしたので、その時プラヴィパッシーに「生がなければ老死はない。生が消滅すれば老死も消滅する」と、智慧でこのように明らかな知識が生じました。

 心の中を絶妙にしたので、その時プラヴィパッシーに「有がなければ生はない。有が消滅すれば生も消滅する」と、智慧でこのように明らかな知識が生じました。

 心の中を絶妙にしたので、その時プラヴィパッシーに「取がなければ有はない。取が消滅すれば有も消滅する」と、智慧でこのように明らかな知識が生じました。

 心の中を絶妙にしたので、その時プラヴィパッシーに「欲望がなければ取はない。欲望が消滅すれば取も消滅する」と、智慧でこのように明らかな知識が生じました。

 心の中を絶妙にしたので、その時プラヴィパッシーに「受がなければ欲はない。受が消滅すれば欲も消滅する」と、智慧でこのように明らかな知識が生じました。

 心の中を絶妙にしたので、その時プラヴィパッシーに「触がなければ受はない。触が消滅すれば受も消滅する」と、智慧でこのように明らかな知識が生じました。

 心の中を絶妙にしたので、その時プラヴィパッシーに「六処がなければ受はない。六処が消滅すれば受も消滅する」と、智慧でこのように明らかな知識が生じました。

 心の中を絶妙にしたので、その時プラヴィパッシーに「名形がなければ六処はない。名形が消滅すれば六処も消滅する」と、智慧でこのように明らかな知識が生じました。

 心の中を絶妙にしたので、その時プラヴィパッシーに「識がなければ名形はない。識が消滅すれば名形も消滅する」と、智慧でこのように明らかな知識が生じました。

 比丘のみなさん。その時プラヴィパッシーに「何がなければ識がないのだろう。何が消滅すれば識も消滅する」という疑問が生じました。

 比丘のみなさん。心の中を絶妙にしたので、その時プラヴィパッシーに「名形がなければ識はない。名形が消滅すれば識も消滅する」と、智慧でこのように明らかな知識が生じました。

 比丘のみなさん。その時プラヴィパッシーに「私が到達した悟りの道はこれだ。すなわち名形が消滅することで識が消滅し、識が消滅することで名形が消滅し、名形の消滅によって六処が消滅し、六処が消滅することで触が消滅し、触が消滅することで受が消滅し、受が消滅することで欲が消滅し、欲が消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが一斉に消滅する。すべての苦の消滅は当然このようにある」と、智慧でこのように明らかな知識が生じました。

 比丘のみなさん。ヴィパッシーボーディサッタに「残らず消滅する! 残らず消滅する!」と、このように今まで聞いたことがないダンマの目が生じ、ニャーナが生じ、智慧が生じ、明が生じ、光が生じました。





ヴィパッシーブッダ式に話した縁起

祇園精舎で
相応部ニダーナヴァッガ 16巻126頁250項

 比丘のみなさん。私がま大悟する前、まだボーディサッタだった時、私に「世界の動物は苦難に至り、当然生まれ、当然老い、当然死に、当然移動し、当然発生する。それは世界の動物が苦、つまり老死から出る方便を知らなければ、苦つまり老死からの脱出など現れる道理がない」と、このような考えが生じました。

 比丘のみなさん。私に「何があるから老死があるのだろう。何が縁で老死が生じるのだろう」という疑問が生じました。

 比丘のみなさん。心の中を絶妙にしたので、その時私に「生があるから老死がある。生が縁で老死が生じる」と、智慧でこのように明らかな知識が生じました。

 心の中を絶妙にしたので、その時私に「有があるから生がある。有が縁で生が生じる」と、智慧でこのように明らかな知識が生じました。

 心の中を絶妙にしたので、その時私に「取があるから有がある。取が縁で有が生じる」と、智慧でこのように明らかな知識が生じました。

 心の中を絶妙にしたので、その時私に「欲望があるから取がある。欲望が縁で取が生じる」と、智慧でこのように明らかな知識が生じました。

 心の中を絶妙にしたので、その時私に「受があるから欲がある。受が縁で欲が生じる」と、智慧でこのように明らかな知識が生じました。

 心の中を絶妙にしたので、その時私に「触があるから受がある。触が縁で受が生じる」と、智慧でこのように明らかな知識が生じました。

 心の中を絶妙にしたので、その時私に「六処があるから受がある。六処が縁で受が生じる」と、智慧でこのように明らかな知識が生じました。

 心の中を絶妙にしたので、その時私に「名形があるから六処がある。名形が縁で六処が生じる」と、智慧でこのように明らかな知識が生じました。

 心の中を絶妙にしたので、その時私に「識があるから名形がある。識が縁で名形が生じる」と、智慧でこのように明らかな知識が生じました。

 比丘のみなさん。その時私に「何があるから識があるのだろう。何が縁で識が生じるのだろう」という疑問が生じました。

 比丘のみなさん。心の中を絶妙にしたので、その時私に「名形があるから識がある。名形が縁で識が生じる」と、智慧でこのように明らかな知識が生じました。

 比丘のみなさん。その時私に「この識は当然名形に戻り当然先へ行かない。これだけの理由で世界の生き物は生まれたり、老いたり、死んだり、移動したり、発生したりする。つまり名形が縁で識があり、識が縁で名形があり、名形が縁で六処があり、六処が縁で触があり、触が縁で受があり、受が縁で有があり、有が縁で生があり、生が縁で老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが一斉に生じる。すべての苦の発生は当然このようにある」と、智慧でこのように明らかな知識が生じました。

 比丘のみなさん。私に「揃って生じた! 揃って生じた!」とこのように今まで聞いたことがないダンマの目が生じ、ニャーナが生じ、智慧が生じ、明が生じ、光が生じました。



 比丘のみなさん。その時私に「何がなければ老死がないのだろう。何が消滅すれば老死が消滅するのだろう」という疑問が生じました。

 比丘のみなさん。心の中を絶妙にしたので、その時私に「生がなければ老死はない。生が消滅すれば老死も消滅する」と、智慧でこのように明らかな知識が生じました。

 心の中を絶妙にしたので、その時私に「有がなければ生はない。有が消滅すれば生も消滅する」と、智慧でこのように明らかな知識が生じました。

 心の中を絶妙にしたので、その時私に「取がなければ有はない。取が消滅すれば有も消滅する」と、智慧でこのように明らかな知識が生じました。

 心の中を絶妙にしたので、その時私に「欲望がなければ取はない。欲望が消滅すれば取も消滅する」と、智慧でこのように明らかな知識が生じました。

 心の中を絶妙にしたので、その時私に「受がなければ欲はない。受が消滅すれば欲も消滅する」と、智慧でこのように明らかな知識が生じました。

 心の中を絶妙にしたので、その時私に「触がなければ受はない。触が消滅すれば受も消滅する」と、智慧でこのように明らかな知識が生じました。

 心の中を絶妙にしたので、その時私に「六処がなければ受はない。六処が消滅すれば受も消滅する」と、智慧でこのように明らかな知識が生じました。

 心の中を絶妙にしたので、その時私に「名形がなければ六処はない。名形が消滅すれば六処も消滅する」と、智慧でこのように明らかな知識が生じました。

 心の中を絶妙にしたので、その時私に「識がなければ名形はない。識が消滅すれば名形も消滅する」と、智慧でこのように明らかな知識が生じました。

 比丘のみなさん。その時私に「何がなければ識が無いのだろう。何が消滅すれば識も消滅する」という疑問が生じました。

 比丘のみなさん。心の中を絶妙にしたので、その時私に「名形がなければ識はない。名形が消滅すれば識も消滅する」と、智慧でこのように明らかな知識が生じました。

 比丘のみなさん。その時私に「私が到達した悟りの道はこれだ。すなわち名形が消滅することで識が消滅し、識が消滅することで名形が消滅し、名形の消滅によって六処が消滅し、六処が消滅することで触が消滅し、触が消滅することで受が消滅し、受が消滅することで欲望が消滅し、欲望が消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが一斉に消滅する。すべての苦の消滅は当然このようにある」と、智慧でこのように明らかな知識が生じました。

 比丘のみなさん。「残らず消滅する(滅)! 残らず消滅する(滅)!」と、私にこのように今まで聞いたことがないダンマの目が生じ、ニャーナが生じ、智慧が生じ、明が生じ、光が生じました。




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