第九章 聖なる弟子と縁起





     因果の法則:縁起の要旨

  これがあれば、これが当然ある。

  これが生じたから、これが生じた。


  これが無ければ、これは当然無い。

  これが消滅したから、これが消滅する。


中部マッジマバンナーサ 13巻355頁371項
相応部ニダーナヴァッガ 16巻84頁154項






縁起を勉強するよう諭す

相応部ニダーナヴァッガ 16巻89頁166項他

 世尊がある隠れ家に滞在なさっている時、この説明を独言なさいました。

 目と形に依存して眼識が生じ、三つのダンマ(目+形+眼識)の会合が触だ。触が縁で受があり、受が縁で欲があり、欲が縁で取があり、取が縁で有があり、有が縁で生があり、生が縁で老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが一斉に生じる。すべての苦の山の発生は、当然このようにある。

 耳と声に依存して耳識が生じ、三つのダンマ(耳+声+耳識)の会合が触だ。触が縁で受があり、受が縁で欲があり、欲が縁で取があり、取が縁で有があり、有が縁で生があり、生が縁になって老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが一斉に生じる。苦の山のすべてはこのように発生する。

 鼻と臭いに依存して鼻識が生じ、三つのダンマ(鼻+臭い+鼻識)の会合が触だ。触が縁で受があり、受が縁で欲があり、欲が縁で取があり、取が縁で有があり、有が縁で生があり、生が縁になって老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが一斉に生じる。苦の山のすべてはこのように発生する。

 舌と味に依存して舌識が生じ、三つのダンマ(舌+味+舌識)の会合が触だ。触が縁で受があり、受が縁で欲があり、欲が縁で取があり、取が縁で有があり、有が縁で生があり、生が縁になって老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが一斉に生じる。苦の山のすべてはこのように発生する。

 体と接触に依存して身識が生じ、三つのダンマ(体+接触+身識)の会合が触だ。触が縁で受があり、受が縁で欲望があり、欲望が縁で取があり、取が縁で有があり、有が縁で生があり、生が縁になって老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが一斉に生じる。苦の山のすべてはこのように発生する。

 心と想念に依存して意識が生じ、三つのダンマ(心+想念+意識)の会合が触だ。触が縁で受があり、受が縁で欲があり、欲が縁で取があり、取が縁で有があり、有が縁で生があり、生が縁で老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが一斉に生じる。すべての苦の山の発生は、当然このようにある。



 目と形に依存して眼識が生じ、三つのダンマ(目+形+眼識)の会合が触だ。触が縁で受があり、受が縁で欲望があり、欲望が消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが揃って消滅する。すべての苦の山の消滅は、当然このようにしてある。

 耳とすべての声に依存して耳識が生じ、三つのダンマ(耳+声+耳識)の会合が触だ。触が縁で受があり、受が縁で欲があり、欲が消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが揃って消滅する。すべての苦の山はこのように消滅する。

 鼻とすべての臭いに依存して鼻識が生じ、三つのダンマ(鼻+臭い+鼻識)の会合が触だ。触が縁で受があり、受が縁で欲があり、欲が消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが揃って消滅する。すべての苦の山はこのように消滅する。

 舌とすべての味に依存して舌識が生じ、三つのダンマ(舌+味+舌識)の会合が触だ。触が縁で受があり、受が縁で欲があり、欲が消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが揃って消滅する。すべての苦の山はこのように消滅する。

 体とすべての接触に依存して身識が生じ、三つのダンマ(体+接触+身識)の会合が触だ。触が縁で受があり、受が縁で欲があり、欲が消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが揃って消滅する。すべての苦の山はこのように消滅する。

 心とすべてのダンマーラマナ(想念)に依存して意識が生じる。三つのダンマ(心+想念+意識)の会合、それが触だ。触が縁で受があり、受が縁で欲があり、欲が消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが揃って消滅する。すべての苦の山はこのように消滅する。

 その時一人の比丘が、隠れてそれを聞いていました。世尊は隠れて聞いている比丘に視線を投げられ、「比丘。このダンマの話を聞きましたか」と言われました。

 「聞かせていただきました。猊下」。

 比丘。あなたはこのダンマの話を受け取りなさい。比丘。このダンマの話を学習なさい。比丘。このダンマを維持しなさい。比丘。このダンマは利益があり梵行の初めです。





縁起の基盤を知らなければまだこの宗教の弟子ではない

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻52頁85項

 比丘のみなさん。六つすべての触処の集、消滅、旨味、害、そして出る方便を真実のままに知らない比丘は誰でも、その比丘は梵行をしていないということです。彼はこのダンマヴィナヤの遠くにいます。

 世尊がこのように言われると、一人の比丘が「猊下。私はこの場合、まだ心がすっきりしません。というのは六つすべての触処の集、消滅、旨味、害、そして出る方便を、まだ真実のままに知らないからです」と申し上げました。

 比丘。あなたはこれをどう思いますか。あなたは当然目を「これは私の物。これは私。これは私自身」とこのように見ていますか。

 「いいえ、そうではありません。猊下」。

 良い、良い。あなたが目を「これは私の物ではない。これは私ではない。これは私自身ではない」と見ることは、智慧で真実のままに見ていることで、これが苦の終りです。

 比丘。あなたはこれをどう思いますか。あなたは当然耳を「これは私の物。これは私。これは私の自我」とこのように見ていますか。

  「いいえ、そうではありません。猊下」。

 良い、良い。あなたが耳を「これは私の物ではない。これは私ではない。これは私の自我ではない」と見ることは、智慧で真実のままに見ていることです。これが苦の終りです。

 比丘。あなたはこれをどう思いますか。あなたは当然鼻を「これは私の物。これは私。これは私の自我」とこのように見ていますか。

 「いいえ、そうではありません。猊下」。

 良い、良い。あなたが鼻を「これは私の物ではない。これは私ではない。これは私の自我ではない」と見ることは、智慧で真実のままに見ていることです。これが苦の終りです。

 比丘。あなたはこれをどう思いますか。あなたは当然舌を「これは私の物。これは私。これは私自身」とこのように見ていますか。

  「いいえ、そうではありません。猊下」。

 良い、良い。あなたが舌を「これは私の物ではない。これは私ではない。これは私の自我ではない」と見ることは、智慧で真実のままに見ていることです。これが苦の終りです。

 比丘。あなたはこれをどう思いますか。あなたは当然体を「これは私の物。これは私。これは私自身」とこのように見ていますか。

  「いいえ、そうではありません。猊下」。

 良い、良い。あなたが体を「これは私の物ではない。これは私ではない。これは私の自我ではない」と見ることは、智慧で真実のままに見ていることです。これが苦の終りです。

 比丘。あなたはこれをどう思いますか。あなたは当然心を「これは私の物。これは私。これは私自身」とこのように見ていますか。

  「いいえ、そうではありません。猊下」。

 良い、良い。あなたが心を「これは私の物ではない。これは私ではない。これは私の自我ではない」と見ることは、智慧で真実のままに見ていることです。これが苦の終りです。

 次の経:相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻53頁86項と相応部サラーヤタナヴァッガ18巻76頁114項では、六触処の功徳を五つの状況で説かれています。同じ話で最後の分部が違い、「それが苦の終りです」の代わりに「触処を捨てることができ、その触処は二度と生じません」と言われています。

 また別の経:相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻54頁87項では同じように説かれ、その比丘に質問され、無我相経と同じ要旨で詳細に無我を見ること、そして無我相経と同じ結果があると主張されています。

註: 学習者は六触処、つまり目・耳・鼻・舌・体・心は縁起の基礎であり、この基礎に関して知るべきことを知れば、当然確実に縁起の流れを断つことができると観察して見なければなりません。





聖なる弟子は他人を信じなくても当然縁起を知っている

祇園精舎で
相応部ニダーナヴァッガ 16巻94頁183項

 比丘のみなさん。聞いた聖なる弟子は「何があるから何があるのだろう。何が生じるから何が生じるのだろう。何がなければすべての行がないのだろう。何がなければ識がないのだろう。何がなけれは名形がなく、何がなければ六処がなく、何がなければ触がなく、何がなければ受がなく、何がなければ欲がなく、何がなければ取がなく、何がなければ有(または三界)がなく、何がなければ生がなく、何がなければ老死がないのだろう」とこのような疑問は当然ありません。

 比丘のみなさん。実際聞いた聖なる弟子は他人を信じなくても「これが生じたからこれが生じた。無明があるからすべての行があり、すべての行があるから識があり、識があるから名形があり、名形があるから六処があり、六処があるから触があり、触があるから受があり、受があるから欲があり、欲があるから取があり、取があるから有があり、有があるから生があり、

生があるから老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが揃って生じる」と、このように洞察するニャーナがあります。その聖なる弟子は、当然「世界は、当然このように生じる」と明らかに知ります。

 比丘のみなさん。聞いた聖なる弟子は、当然「何がないから何がないのだろう。何が消滅するから何が消滅するのだろう。何がないからすべての行がないのだろう。何がないから識がないのだろう。何がないから名形がなく、何がないから六処がなく、何がないから触がなく、何がないから受がなく、何がないから欲がなく、何がないから取がなく、何がないから有がなく、何がないから生がなく、何がないから老死がないのだろう」とこのような疑念はありません。

 比丘のみなさん。実際に聞いた聖なる弟子は他人を信じなくても「これがないからこれはない。これが消滅したからこれが消滅する。無明がないからすべての行がなく、すべての行がないから識がなく、識がないから名形がなく、名形がないから六処がなく、六処がないから触がなく、触がないから受がなく、受がないから欲がなく、欲がないから取がなく、取がないから有がなく、

有がないから生がなく、生がないから老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みはすべてない」と、このように洞察するニャーナがあります。その聖なる弟子は、当然「世界は、当然このように消滅する」と明らかに知ります。

 比丘のみなさん。聖なる弟子が世界の発生と消滅の原因を当然真実のままに熟知すれば、その時はいつでも、その時私はその聖なる弟子を「見解が完璧な人」「見方が完璧な人」「有学であるニャーナがある人」「有学である明がある人」「ダンマの流れに到達した人」「煩悩に突っ込む智慧がある素晴らしい人」「不死の門の前に立っている人」などと呼びます。





アリヤニャーヤダンマとは縁起を知ること

祇園精舎で
増支部ダサカニパータ 24巻197頁92項

 長者さん。アリヤニャーヤダンマ(知るべき素晴らしい物)は、聖なる弟子がどのように良く見え、智慧で洞察した物でしょうか。

 長者さん。このダンマヴィナヤの比丘は「このようにこれがあるからこれがある。これが生じたからこれが生じた。これがないからこれがない。これが消滅したからこれが消滅する」と熟慮して、このように明らかに見えます。

 これはつまり、無明があるからすべての行があり、すべての行があるから識があり、識があるから名形があり、名形があるから六処があり、六処があるから触があり、触があるから受があり、受があるから欲があり、欲があるから取があり、取があるから有があり、有があるから生があり、生があるから老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが揃って生じます。すべての苦の山の発生は、当然このような様相であります。

 無明が薄れて、残らず消滅することですべての行が消滅し、行が消滅することで識が消滅し、識が消滅することで名形が消滅し、名形が消滅することで六処が消滅し、六処が消滅することで触が消滅し、触が消滅することで受が消滅し、受が消滅することで欲が消滅し、欲が消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、

有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みはすべて消滅します。苦の山のすべての消滅は、当然このような様相であります。

 比丘のみなさん。このアリヤニャーヤダンマは聖なる弟子が良く見え、智慧で良く洞察したものです。

註: 学習者は、説かれている縁起は、一般に知られているように勉強するだけの教え、あるいは考えるためだけの教えのように聞こえますが、詳細に観察して見ると、洞察するダンマ、あるいは如実正慧と呼ぶ智慧の中の智慧で動物を苦から出す道具であるよう望まれていると、観察して見なければなりません。

 そしてここではアリヤニャーヤダンマの洞察と呼ばれています。直接の実践は注意深いサティから始め、目が形を見るなど六処に触れる物がある時、「無明触」と呼ぶ物を生じさせなければ、縁起の流れが生じないか、あるいは進行しません。無明触と呼ぶ物は本書のその題名の項目にあります。





縁起についての大弟子の会話

イシパタナマルガダーヤヴァンで
相応部ニダーナヴァッガ 16巻136頁263項

 プラサーリプッタとプラマハーコッティタがバラナシーの都に近いイシパタナマルガダーヤヴァンに滞在されている時、プラマハーコッティタが夕刻にプラサーリプッタの居所を訪ね、「サーリプッタさん。老死は人が自分で作る物ですか。それとも老死は他人が作る物ですか。老死は自分でも作り、他人も作る物ですか。それとも老死は自分で作る物でも他人が作る物でもなく、それでも生じる物ですか」と質問しました。

 コッティタさん。老死は自分で作る物ではなく、老死は他人が作る物でもなく、老死は自分も作り他人も作る物ではなく、老死は自分も他人も作らないのに生じる物でもなく、老死は生が縁としてあるから生じます。

 「サーリプッタさん。生は人が自分で作る物ですか。それとも生は他人が作る物ですか。生は自分でも作り他人も作る物ですか。それとも生は自分で作る物でも他人が作る物でもなく、それでも生じる物ですか」。

 コッティタさん。生は自分で作る物ではなく、生は他人が作る物でもなく、生は自分も作り他人も作る物でもなく、生は自分も他人も作らなくても生じることができる物でもありません。しかし有が縁としてあるから生が生じます。

 「サーリプッタさん。有は人が自分で作る物ですか。それとも有は他人が作る物ですか。有は自分でも作り、他人も作る物ですか。それとも有は、自分で作る物でも他人が作る物でもなく、それでも生じる物ですか」。

 コッティタさん。有は自分で作る物ではなく、有は他人が作る物でもなく、有は自分も作り他人も作る物でもなく、有は自分も他人も作らなくても生じられる物でもありませんが、取が縁としてあるから有が生じます。

 「サーリプッタさん。取は人が自分で作る物ですか。それとも取は他人が作る物ですか。取は自分でも作り、他人も作る物ですか。それとも取は、自分で作るものでも他人が作る物でもなく、それでも生じる物ですか」。

 コッティタさん。取は自分で作る物ではなく、取は他人が作る物でもなく、取は自分も作り他人も作る物でもなく、取は自分も他人も作らなくても生じられる物でもありませんが、欲が縁としてあるから取が生じます。

 「サーリプッタさん。欲は人が自分で作る物ですか。それとも欲は他人が作る物ですか。欲は自分でも作り、他人も作る物ですか。それとも欲は自分で作る物でも他人が作る物でもなく、それでも生じる物ですか」。

 コッティタさん。欲は自分で作る物ではなく、欲は他人が作る物でもなく、欲は自分も作り他人も作る物でもなく、欲は自分も他人も作らなくても生じられる物でもありませんが、受が縁としてあるから欲が生じます。

 「サーリプッタさん。受は人が自分で作る物ですか。それとも受は他人が作る物ですか。受は自分でも作り、他人も作る物ですか。それとも受は、自分で作る物でも他人が作る物でもなく、それでも生じる物ですか」。

 コッティタさん。受は自分で作る物ではなく、受は他人が作る物でもなく、受は自分も作り、他人も作る物でもなく、受は自分が作らず、他人が作らなくても生じられる物でもありませんが、触が縁としてあるから受が生じます。

 「サーリプッタさん。触は人が自分で作る物ですか。それとも触は他人が作る物ですか。触は自分でも作り、他人も作る物ですか。それとも触は、自分で作る物でも他人が作る物でもなく、それでも生じる物ですか」。

 コッティタさん。触は自分で作る物ではなく、触は他人が作る物でもなく、触は自分も作り、他人も作る物でもなく、触は自分が作らず、他人が作らなくても生じられる物でもありませんが、六処が縁としてあるから触が生じます。

 「サーリプッタさん。六処は人が自分で作る物ですか。それとも六処は他人が作る物ですか。六処は自分でも作り、他人も作る物ですか。それとも六処は、自分で作る物でも他人が作る物でもなく、それでも生じるものですか」。

 コッティタさん。六処は自分で作る物ではなく、六処は他人が作る物でもなく、六処は自分も作り、他人も作る物でもなく、六処は自分が作らず、他人が作らなくても生じられる物でもありませんが、名形が縁としてあるから六処が生じます。

 「サーリプッタさん。名形は人が自分で作る物ですか。それとも名形は他人が作る物ですか。名形は自分でも作り、他人も作る物ですか。それとも名形は、自分で作る物でも他人が作る物でもなく、それでも生じる物ですか」。

 コッティタさん。名形は自分で作る物ではなく、名形は他人が作る物でもなく、名形は自分も作り、他人も作る物でもなく、名形は自分が作らず、他人が作らなくても生じられる物でもありませんが、識が縁としてあるから名形が生じます。

 「サーリプッタさん。識は人が自分で作る物ですか。それとも識は他人が作る物ですか。識は自分でも作り、他人も作る物ですか。それとも識は、自分で作る物でも他人が作る物でもなく、それでも生じる物ですか」。

 コッティタさん。識は自分で作る物ではなく、識は他人が作る物でもなく、識は自分も作り、他人も作る物でもなく、識は自分が作らず他人が作らなくても生じられる物でもありませんが、名形が縁としてあるから識が生じます。

 「私たちは、今サーリプッタさんの言葉を『コッティタさん。名形は自分で作る物ではなく、名形は他人が作る物でもなく、名形は自分も作り他人も作る物でもなく、名形は自分も作らず他人も作らなくても生じられる物でもありませんが、識が縁としてあるから名形が生じます』と、

更に『コッティタさん。識は自分で作る物ではなく、識は他人が作る物でもなく、識は自分も作り他人も作る物でもなく、識は自分も作らず他人が作らなくても生じられる物でもありませんが、名形が縁としてあるから識が生じます』と良く知りました。サーリプッタさん。ではこの言葉を私たち全員はどのように見るべきでしょうか」。

ご年配。それでは私がたとえ話をお聞かせします。この世界の一部の智識者は、当然例えでもその言葉の要旨を知り尽すことができます。ご年配。二株の葦が立っていられるのは、互いに依存し合っているからのように、ご年配。名形が縁で識があり、識が縁で名形があり、名形が縁で六処があり、六処が縁で触があり、触が縁で受があり、受が縁で欲望があり、欲望が縁で取があり、

取が縁で有があり、有が縁で生があり、生が縁で老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが揃って生じます。苦の山のすべての発生は、当然このようにあります。

 ご年配。その二株の葦を、人が一株抜いてしまえばもう一株も倒れてしまい、別の一株を抜けばもう一株も倒れてしまうように、ご年配。名形が消滅すれば識が消滅し、識が消滅すれば名形が消滅し、名形が消滅すれば六処が消滅し、六処が消滅すれば触が消滅し、触が消滅すれば受が消滅し、受が消滅すれば欲望が消滅し、欲望が消滅すれば取が消滅し、

取が消滅すれば有が消滅し、有が消滅すれば生が消滅し、生が消滅すれば老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが揃って消滅します。苦の山のすべての消滅は、当然このようにあります。

 「不思議です、サーリプッタさん。今までにありません、サーリプッタさん。サーリプッタさんが言われた限り、良い言葉と信じます。私たち全員この三十六の話でサーリプッタさんがお話になったこの言葉を喜びます」と、プラマハーコーディタが述べました。


(1) ご年配。比丘が倦怠のため、欲情の弛緩のため、老死の絶滅のためにダンマを説くなら、その比丘は『法師である比丘』と呼ぶにふさわしいです。

(2)ご年配。比丘が倦怠のため、欲情の弛緩のため、老死の絶滅のためにダンマを実践するなら、その比丘は『ダンマにふさわしいダンマの実践をする比丘』と呼ぶにふさわしいです。

(3) ご年配。比丘が倦怠し、欲情が弛緩し、老死が絶滅して解脱したなら、その比丘は『現生で涅槃に到達した比丘』と呼ぶにふさわしいです。

(4) ご年配。比丘が倦怠のため、欲情の弛緩のため、生の絶滅のためにダンマを説くなら、その比丘を『法師である比丘』と呼ぶにふさわしいです。

(5) ご年配。比丘が倦怠のため、欲情の弛緩のため、生の絶滅のためにダンマの実践をするなら、その比丘を『ダンマにふさわしいダンマの実践をする比丘』と呼ぶにふさわしいです。

(6) ご年配。比丘が倦怠し、欲情が弛緩し、生が絶滅して解脱したなら、その比丘は『現生で涅槃に到達した比丘』と呼ぶにふさわしいです。

(7) ご年配。比丘が倦怠のため、欲情の弛緩のため、有の絶滅のためにダンマを説くなら、その比丘は『法師である比丘』と呼ぶにふさわしいです。

(8) ご年配。比丘が倦怠するため、欲情の弛緩のため、有の絶滅のためにダンマの実践をするなら、その比丘は『ダンマにふさわしいダンマの実践をする比丘』と呼ぶにふさわしいです。

(9) ご年配。比丘が倦怠し、欲情が弛緩し、有が絶滅して解脱したなら、その比丘は『現生で涅槃に到達した比丘』と呼ぶにふさわしいです。

(10) ご年配。比丘が倦怠のため、欲情の弛緩のめ、取の絶滅のためにダンマを説くなら、その比丘は『法師である比丘』と呼ぶにふさわしいです。

(11) ご年配。比丘が倦怠のため、欲情の弛緩のため、取の絶滅のためにダンマの実践をするなら、その比丘は『ダンマにふさわしいダンマの実践をする比丘』と呼ぶにふさわしいです。

(12) ご年配。比丘が倦怠し、欲情が弛緩し、取が絶滅して解脱したなら、その比丘は『現生で涅槃に到達した比丘』と呼ぶにふさわしいです。

(13) ご年配。比丘が倦怠のため、欲情の弛緩のため、欲望の絶滅のためにダンマを説くなら、その比丘は『法師である比丘』と呼ぶにふさわしいです。

(14) ご年配。比丘が倦怠するため、欲情の弛緩のため、欲望の絶滅のためにダンマを実践するなら、その比丘は『ダンマにふさわしいダンマの実践をする比丘』と呼ぶにふさわしいです。

(15) ご年配。比丘が倦怠し、欲情が弛緩し、欲望が絶滅して解脱したなら、その比丘は『現生で涅槃に到達した比丘』と呼ぶにふさわしいです。

(16) ご年配。比丘が倦怠のため、欲情の弛緩のため、受の絶滅のためにダンマを説くなら、その比丘は『法師である比丘』と呼ぶにふさわしいです。

(17) ご年配。比丘が倦怠するため、欲情の弛緩のため、受の絶滅のためにダンマの実践をするなら、その比丘は『ダンマにふさわしいダンマの実践をする比丘』と呼ぶにふさわしいです。

(18) ご年配。比丘が倦怠し、欲情が弛緩し、受が絶滅して解脱したなら、その比丘は『現生で涅槃に到達した比丘』と呼ぶにふさわしいです。

(19) ご年配。比丘が倦怠のため、欲情の弛緩のため、触の絶滅のためにダンマを説くなら、その比丘は『法師である比丘』と呼ぶにふさわしいです。

(20) ご年配。比丘が倦怠するため、欲情の弛緩のため、触の絶滅のためにダンマの実践をするなら、その比丘は『ダンマにふさわしいダンマの実践をする比丘』と呼ぶにふさわしいです。

(21) ご年配。比丘が倦怠し、欲情が弛緩し、触が絶滅して解脱したなら、その比丘は『現生で涅槃に到達した比丘』と呼ぶにふさわしいです。

(22) ご年配。比丘が倦怠のため、欲情の弛緩のため、六処の絶滅のためにダンマを説くなら、その比丘は『法師である比丘』と呼ぶにふさわしいです。

(23) ご年配。比丘が倦怠するため、欲情の弛緩のため、六処の絶滅のためにダンマの実践をするなら、その比丘は『ダンマにふさわしいダンマの実践をする比丘』と呼ぶにふさわしいです。

(24) ご年配。比丘が倦怠し、欲情が弛緩し、六処が絶滅して解脱したなら、その比丘は『現生で涅槃に到達した比丘』と呼ぶにふさわしいです。

(25) ご年配。比丘が倦怠のため、欲情の弛緩のため、名形の絶滅のためにダンマを説くなら、その比丘は『法師である比丘』と呼ぶにふさわしいです。

(26) ご年配。比丘が倦怠するため、欲情の弛緩のため、名形の絶滅のためにダンマの実践をするなら、その比丘は『ダンマにふさわしいダンマの実践をする比丘』と呼ぶにふさわしいです。

(27) ご年配。比丘が倦怠し、欲情が弛緩し、名形が絶滅して解脱したなら、その比丘は『現生で涅槃に到達した比丘』と呼ぶにふさわしいです。

(28) ご年配。比丘が倦怠のため、欲情の弛緩のため、識の絶滅のためにダンマを説くなら、その比丘は『法師である比丘』と呼ぶにふさわしいです。

(29) ご年配。比丘が倦怠するため、欲情の弛緩のため、識の絶滅のためにダンマの実践をするなら、その比丘は『ダンマにふさわしいダンマの実践をする比丘』と呼ぶにふさわしいです。

(30) ご年配。比丘が倦怠し、欲情が弛緩し、識が絶滅して解脱したなら、その比丘は『現生で涅槃に到達した比丘』と呼ぶにふさわしいです。

(31) ご年配。比丘が倦怠のため、欲情の弛緩のため、行の絶滅のためにダンマを説くなら、その比丘は『法師である比丘』と呼ぶにふさわしいです。

(32) ご年配。比丘が倦怠するため、欲情の弛緩のため、行の絶滅のためにダンマの実践をするなら、その比丘は『ダンマにふさわしいダンマの実践をする比丘』と呼ぶにふさわしいです。

(33) ご年配。比丘が倦怠し、欲情が弛緩し、行が絶滅して解脱したなら、その比丘は『現生で涅槃に到達した比丘』と呼ぶにふさわしいです。

(34) ご年配。比丘が倦怠するため、欲情の弛緩のため、無明の絶滅のためにダンマを説くなら、その比丘は『法師である比丘』と呼ぶにふさわしいです。

(35) ご年配。比丘が倦怠するため、欲情の弛緩のため、無明の絶滅のためにダンマの実践をするなら、その比丘は『ダンマにふさわしいダンマの実践をする比丘』と呼ぶにふさわしいです。

(36) ご年配。比丘が倦怠し、欲情が弛緩し、無明が絶滅して解脱したなら、その比丘は『現生で涅槃に到達した比丘』と呼ぶにふさわしいです」。




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