初めも中間も終わりも美しい縁起に関わるダンマを説く

祇園精舎で
チャッカスッタ
中部ウパリパンナーサ 14巻509頁810項

 比丘のみなさん。みなさんに初めも美しく中間も美しく終わりも美しいダンマを説き、要旨も細部も完璧な梵行を公開します。つまりそれぞれ六つある六つのダンマです。みなさん、これを聞いて心の中を有益にになさい。今話します。

 比丘のみなさん。(1)内部の六つの処は知るべき物で、(2)外部の六つの処は知るべき物で、(3)六つの識は知るべき物で、(4)六つの触は知るべき物で、(5)六つの受は知るべき物で、(6)六つの欲望は知るべき物です。

 (1)内部の六つの処は知るべき物と私が言ったのは、何に依存して言ったのでしょうか。内部の六処とは内処である目、内処である耳、内処である鼻、内処である舌、内処である体、内処である心があります。私が内部の六つの処は知るべき物と言ったのは、これらに依存して言いました。これが一番のダンマです。

 (2)外部の六つの六処は知るべき物と私が言ったのは、何に依存して言ったのでしょうか。外部の六処とは、外処である形、外処である声、外処である臭い、外処である味、外処である接触、外処である想念があります。私が外部の六つの処は知るべき物と言ったのは、これらに依存して言いました。これが二番のダンマです。

 (3)六つの識は知るべき物と私が言ったのは、私は何に依存して言ったのでしょうか。目と形に依存して眼識が生じ、耳と声に依存して耳識が生じ、鼻と臭いに依存して鼻識が生じ、舌と味に依存して舌識が生じ、体と接触に依存して身識が生じ、心と想念に依存して意識が生じます。六つの識は知るべき物と私が言ったのは、これに依存して言っています。これが三番目もダンマです。

 (4)六つの触は知るべき物と私が言ったのは、何に依存して言ったのでしょうか。目と形に依存して眼識が生じ、三つのダンマ(目+形+眼識)の会合が触です。耳と声に依存して耳識が生じ、三つのダンマ(耳+声+耳識)の会合が触です。鼻と臭いに依存して鼻識が生じ、三つのダンマ(鼻+臭い+鼻識)の会合が触です。

 舌と味に依存して舌識が生じ、三つのダンマ(舌+味+舌識)の会合が触です。体と接触に依存して身識が生じ、三つのダンマ(体+接触+身識)の会合が触です。心と想念に依存して意識が生じ、三つのダンマ(心+想念+意識)の会合が触です。私が六つの触は知るべき物と言ったのは、これらに依存して言いました。これが四番のダンマです。

 (5)六つの受は知るべき物と私が言ったのは、何に依存して言ったのでしょうか。目と形に依存して眼識が生じ、三つのダンマ(目+形+眼識)の会合が触で、触が縁で受があります。耳と声に依存して耳識が生じ、三つのダンマ(耳+声+耳識)の会合が触で、触が縁で受があります。鼻と臭いに依存して鼻識が生じ、三つのダンマ(鼻+臭い+鼻識)の会合が触で、触が縁で受があります。

 舌と味に依存して舌識が生じ、三つのダンマ(舌+味+舌識)の会合が触で、触が縁で受があります。体と接触に依存して身識が生じ、三つのダンマ(体+接触+身識)の会合が触で、触が縁で受があります。心と想念に依存して意識が生じ、三つのダンマ(心+想念+意識)の会合が触で、触が縁で受があります。私が六つの受は知るべき物と言ったのは、これらに依存して言いました。これが五番のダンマです。

(6)六つの欲は知るべき物と私が言ったのは、何に依存して言ったのでしょうか。目と形に依存して眼識が生じ、三つのダンマ(目+形+眼識)の会合が触で、触が縁で受があり、受が縁で欲が生じます。耳と声に依存して耳識が生じ、三つのダンマ(耳+声+耳識)の会合が触で、触が縁で受が生じ、受が縁で欲が生じます。

 鼻と臭いに依存して鼻識が生じ、三つのダンマ(鼻+臭い+鼻識)の会合が触で、触が縁で受が生じ、受が縁で欲が生じます。舌と味に依存して舌識が生じ、三つのダンマ(舌+味+舌識)の会合が触で、触が縁で受が生じ、受が縁で欲望が生じます。体と接触に依存して身識が生じ、三つのダンマ(体+接触+身識)の会合が触で、触が縁で受が生じ、受が縁で欲が生じます。

 心と想念に依存して意識が生じ、三つのダンマ(心+想念+意識)の会合が触で、触が縁で受が生じ、受が縁で欲が生じます。私が六つの受は知るべき物と言ったのは、これらに依存して言いました。これが五番のダンマです。

 「目は自我(自分)だ」という人は誰でも、そのような言葉は当然(道理に)至りません。目の発生も衰退も現れているので、何であれ発生も衰退も現れていれば、それについて言うなら「私の自我は当然現れ、当然衰退する」と、このようでなければなりません。だから「目は自我」という人の言葉は(道理に)至りません。だから目は無我です。

「眼識は自我だ」という人は誰でも、そのような言葉は当然(道理に)至りません。眼識の発生も衰退も現れているので、何であれ、発生も衰退も現れていれば、それについて言うなら「私の自我は当然現れ、当然衰退する」と、このようでなければなりません。だから「眼識は自我だ」という人の言葉は(道理に)至りません。だから眼識は無我です。

 「眼触は自我だ」という人は誰でも、そのような言葉は当然(道理に)至りません。眼触の発生も衰退も現れているので、何であれ、発生も衰退も現れていれば、それについて言うなら「私の自我は当然現れ、当然衰退する」と、このようでなければなりません。だから「眼触は自我だ」という人の言葉は(道理に)至りません。だから眼触は無我です。

 「眼触受は自我だ」という人は誰でも、そのような言葉は当然(道理に)至りません。眼触受の発生も衰退も現れているので、何であれ、発生も衰退も現れていれば、それについて言うなら「私の自我は当然現れ、当然衰退する」と、このようでなければなりません。だから「眼触受は自我だ」という人の言葉は(道理に)至りません。だから眼触受は無我です。

 「眼欲は自我だ」という人は誰でも、そのような言葉は当然(道理に)至りません。眼欲の発生も衰退も現れているので、何であれ、発生も衰退も現れていれば、それについて言うなら「私の自我は当然現れ、当然衰退する」と、このようでなければなりません。だから「眼欲は自我だ」という人の言葉は(道理に)至りません。だから眼欲は無我です。

(自我と執着される耳・鼻・舌・体・心の場合も、目の場合と同じように話されています)。

 比丘のみなさん。サッカーヤ(有身)を一斉に発生させる道はこのようであり、人は当然目を「それは私の物。それは私。それは私の自我」と感じます。(耳・鼻・舌・体・心の場合も、目の場合と同じように話されています)。

 比丘のみなさん。サッカーヤ(有身)の消滅に至らせる道はこのようであり、人は目を「それは私の物ではない。それは私ではない。それは私の自我ではない」とこのように理解します。(耳・鼻・舌・体・心の場合も、目の場合と同じように話されています)。

 (この後、内六処、外六処、識、触が働いて受が生じ、「幸受などの三受に対して間違った実践をすることが受で随眠を増やす」ことについて説かれています。まだ随眠を捨てて抜いてしまうことができず、明を生じさせられなければ、現生で苦を終わらせることはできません。この説法の内容は、第五章の「縁起の受が随眠を生じさせる」にあります。http://buddhadasa.hahaue.com/engi/5-1.html

 そしてもう一度反対の意味で話されていて、この内容は第六章の「縁起の受に気づけば随眠は生じない」にあります。この二つの言葉について詳しく知りたい方は、その章で読むことができます。http://buddhadasa.hahaue.com/engi/6-5.html

 その後、聖なる弟子がこのように見れば、六内処と、六処と並行するダンマに倦怠し、欲情が緩み、解脱すると話されています。この説法の最後に、(この説法で)六十人の比丘が阿羅漢果に到達したとあります)。





教祖と弟子は、当然縁起に関した発言が一致する

祇園精舎で
マハータンハーサンカヤースッタ
中部ムーラパンナーサ 12巻480頁447項

 「生が縁で老死がある」というこのような言葉は、私が述べた言葉です。比丘のみなさん。老死は生が縁であるのですね。そうではないですか。

 「猊下。老死は生が縁であるというのは、そのように違いありません。猊下」。

 有が縁で生があるというこのような言葉は、私が述べた言葉です。比丘のみなさん。生は有が縁であるのですね。そうではないですか。

 「猊下。有が縁で生があるというのは、そのように違いありません。猊下」。

 取が縁で有があるというこのような言葉は、私が述べた言葉です。比丘のみなさん。有は取が縁であるのですね。そうではないですか。

 「取が縁で有があるというのは、そのように違いありません。猊下」。

 欲望が縁で取があるというこのような言葉は、私が述べた言葉です。比丘のみなさん。取は欲望が縁であるのですね。そうではないですか。

 「欲望が縁で取があるというのは、そのように違いありません。猊下」。

 受が縁で欲があるというこのような言葉は、私が述べた言葉です。比丘のみなさん。欲は受が縁であるのですね。そうではないですか。

 「受が縁で欲があるというのは、そのように違いありません。猊下」。

 触が縁で受があるというこのような言葉は、私が述べた言葉です。比丘のみなさん。受は触が縁であるのですね。そうではないですか

 「触が縁で受があるというのは、そのように違いありません。猊下」。

 六処が縁で触があるというこのような言葉は、私が述べた言葉です。比丘のみなさん。触は六処が縁であるのですね。そうではないですか。

 「六処が縁で触があるというのは、そのように違いありません。猊下」。

 名形が縁で六処があるというこのような言葉は、私が述べた言葉です。比丘のみなさん。六処は名形が縁であるのですね。そうではないですか。

 「名形が縁で六処があるというのは、そのように違いありません。猊下」。

 識が縁で名形があるというこのような言葉は、私が述べた言葉です。比丘のみなさん。名形は識が縁であるのですね。そうではないですか。

 「識が縁で名形があるというのは、そのように違いありません。猊下」。

 行が縁で識があるというこのような言葉は、私が述べた言葉です。比丘のみなさん。識は行が縁であるのですね。そうではないですか。

 「行が縁で識があるというのは、そのように違いありません。猊下」。

 無明が縁ですべての行があるというこのような言葉は、私が述べた言葉です。比丘のみなさん。すべての行は無明が縁であるのですね。そうではないですか。

 「猊下。すべての行は無明が縁であるというのは、そのように違いありません。猊下」。

 比丘のみなさん。そうです。比丘のみなさん。みなさんもこのように言い、私も「これがあるからこれがある。これが生じたからこれが生じた(註1)」と、このように言います。

 つまり無明が縁ですべての行があり、行が縁で識があり、識が縁で名形があり、名形が縁で六処があり、六処が縁で触があり、触が縁で受があり、受が縁で欲があり、欲が縁で取があり、取が縁で有があり、有が縁で生があり、生が縁で老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが一つ残らず生じます。すべての苦の群れの発生は、当然このような様相であります。

 ※

 無明が消滅することですべての行が消滅するという、このような言葉は私が述べた言葉です。比丘のみなさん。すべての行の消滅は、無明が消滅することによってあるのですね。そうではないですか。

 「猊下。すべての行の消滅は無明が消滅することであるというのは、そのように違いありません。猊下」。

  行が消滅することで有が消滅するという、このような言葉は私が述べた言葉です。比丘のみなさん。有の消滅は行が消滅することであるのですね。そうではないですか。

 「猊下。行が消滅することで有が消滅するというのは、そのように違いありません。猊下」。

 有が消滅することで取が消滅するという、このような言葉は私が述べた言葉です。比丘のみなさん。取の消滅は有が消滅することであるのですね。そうではないですか。

 「猊下。有が消滅することで取が消滅するという言葉は、そのように違いありません。猊下」。

 取が消滅することで欲が消滅するという、このような言葉は私が述べた言葉です。比丘のみなさん。欲の消滅は取が消滅することであるのですね。そうではないですか。

 「猊下。取が消滅することで欲が消滅するという言葉は、そのように違いありません。猊下」。

 欲が消滅することで受が消滅するという、このような言葉は私が述べた言葉です。比丘のみなさん。受の消滅は欲が消滅することであるのですね。そうではないですか。

 「猊下。欲が消滅することで受が消滅するという言葉は、そのように違いありません。猊下」。

  受が消滅することで触が消滅するという、このような言葉は私が述べた言葉です。比丘のみなさん。触の消滅は受が消滅することであるのですね。そうではないですか。

 「猊下。受が消滅することで触が消滅するという言葉は、そのように違いありません。猊下」。

 触が消滅することで六処が消滅するという、このような言葉は私が述べた言葉です。比丘のみなさん。六処の消滅は触が消滅することであるのですね。そうではないですか。

 「猊下。触が消滅することで六処が消滅するという言葉は、そのように違いありません。猊下」。

 六処が消滅することで名形が消滅するという、このような言葉は私が述べた言葉です。比丘のみなさん。名形の消滅は六処が消滅することであるのですね。そうではないですか。

 「猊下。六処が消滅することで名形が消滅するという言葉は、そのように違いありません。猊下」。

 名形が消滅すること識が消滅するという、このような言葉は私が述べた言葉です。比丘のみなさん。識の消滅は名形が消滅することであるのですね。そうではないですか。

 「猊下。名形が消滅することで識が消滅するという言葉は、そのように違いありません。猊下」。

 識が消滅することですべての行が消滅するという、このような言葉は私が述べた言葉です。比丘のみなさん。すべての行の消滅は識が消滅することであるのですね。そうではないですか。

 「猊下。識が消滅することですべての行が消滅するという言葉は、そのように違いありません。猊下」。

 すべての行が消滅することで無明が消滅するという、このような言葉は私が述べた言葉です。比丘のみなさん。すべての行が消滅することで無明が消滅するのですね。そうではないですか。

 「猊下。すべての行が消滅することで無明が消滅するというのは、そのように違いありません。猊下」。

 比丘のみなさん。そうです。比丘のみなさん。みなさんもこのように言い、私も「これが無ければこれが無い。これが消滅すればこれが消滅する(註2)」と、このように言います。

 つまり無明が消滅することですべての行が消滅し、行が消滅することで識が消滅し、識が消滅することで名形が消滅し、名形が消滅することで触が消滅し、触が消滅することで受が消滅し、受が消滅することで取が消滅し、取が消滅することで欲が消滅し、欲が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが消滅します。

 苦の山のすべての消滅は、当然このような様相であります。

註2: この二つの文を「イダッパッチャヤター(因果の法則)の消滅」と言います。学習者はこの縁起がどれほど重要かを知るために、この言葉に触れる度に観察しなければなりません。ある静かな所で、ブッダが一人で暗唱なさっていたと述べている経(次の章の冒頭を参照)まであります。

註: 学習者は、教祖と弟子は見解が一致する、特に縁起の場合は口だけでなく、教祖を尊敬するから言うのではなく、縁起と呼ぶ物のすべての状況を良く知り、そして因果の法則、つまり互いに依存して生じるすべての状況が見える弟子という意味を観察して見なければなりません。




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