縁起を知れば過去と未来の蘊に関した問題はなくなる

ラージャガハの異教のお寺で
チュラサクラダージスッタ
中部マッジマバンナーサ 13巻354頁371項

 異教の修行者サクルダージが「自分は一切智であり、すべての挙措の一切見者である」と宣言している人に何日も質問し、過去の蘊について言及すると、回答者は却ってのらりくらりと話題を変え、愚かにも立腹したので、世尊ならご存知に違いないと思い、世尊が彼の寺を訪れた折にその話をしました。

 ウダージさん。誰が過去に住んだことがある有のいろんな蘊を思い出すには、一つの生、二つの生、三つの生、四つの生、五つの生、十の生、二十の生、三十の生、四十の生、五十の生、百の生、千の生、十万の生、すべての輪廻の始まり、すべての輪廻の終りを「私がその有にいた時、こういう名前こういう姓で、身分は何で、こういう食べ物を食べ、このような幸福と苦を味わい、これだけの寿命で終わり、

その有が終わってあっちの有に生まれ、こういう名前こういう姓で、身分は何で、こういう食べ物を食べ、このような幸福と苦を味わい、これだけの寿命で終わり、その有が終わってあっちの有へ生まれ、等々で、この有に生まれた」と思い出すべきです。

 彼が前の有で住んだことがある蘊を、このような状態と状況で幾つも思い出したら、その人は過去の蘊について言及する問題を質問するか、あるいは私が彼に過去の蘊について質問し、彼が過去の蘊に言及する問題を託宣して私の心を喜ばせるか、あるいは私が未来の蘊に言及する問題を託宣してその人の心を喜ばせるべきです。

 ウダージさん。普通の人間より純潔な天眼がある人は、一般の動物が生まれているか死んでいるか、下賎か上品か、良い身分か悪い身分か、苦があるか幸福があるか見え、「発展したみなさん。この動物群は不正な体、不正な言葉、不正な心があり、阿羅漢のみなさんを非難し、誤った見解で、誤った見解の威力で仕事をし、体が壊れて死んだ後は、全員苦界・悪趣・破滅・地獄に行きます。

 発展したみなさん。こちらの動物群は、正しい体・正しい言葉・正しい心があり、阿羅漢のみなさんを非難せず、正しい見解があり、正しい見解の威力で仕事をし、体が壊れて死んだ後は、全員善趣・天国に行きます」と、カンマに至る動物の群がハッキリ見えます。

 彼に普通の人間より純潔な天眼があり、一般の動物が死んでいるか生まれているか、下賎か上品か、良い身分か悪い身分か、苦があるか幸福があるか見えたら、その人が私に未来の蘊に言及する問題を質問し、あるいは私がその人に未来の蘊に言及する問題を質問し、その人は未来の蘊に言及する託宣をして私たちの心を喜ばせるか、あるいは私が未来に言及する問題を託宣して彼の心を喜ばせるべきです。

 ウダージさん。過去の蘊はさておき、未来の蘊はさておき、私はあなたに「これがあればこれがある。これが生じることでこれが生じる。これがなければこれも当然ない。これが消滅することでこれが消滅する」とこういうダンマを説きます。

 「猊下。この私に生じたすべての出来事を、私は状態と説明を(詳細にも、題目でも)思い出すことができないのに、どうして私がいろいろあった過去の有の、住んだことがある蘊について、世尊のように一つの生、二つの生、三つの生、(略)を、状況も状態も思い出すことができるでしょうか。猊下。私は今でも埃で遊ぶ鬼さえ見えないのに、どうして私が世尊のように、普通の人間より純潔な天眼で、

すべての動物が(略)カンマに到達するのが見えるでしょうか。猊下。世尊が『ウダージさん。過去の蘊はさておき、未来の蘊はさておき、私はあなたに「これがあればこれがある。これが生じることで、これが生じる。これがなければ当然これもない。これが消滅することでこれが消滅する」と、こういうダンマを説きます』と言われた言葉も、私には全く明らかでないのに、

猊下。どうして私が、先生の物である教義の問題を託宣して、世尊の心を喜ばせることができるでしょう」と、サクルダージが申し上げました。

註: 学習者は、「縁起あるいは縁生を理解している人は、過去や未来という規定を引き抜いてしまい、過去や未来と感じない。すべての蘊があるのは縁起の流れにすぎないから」というこの話の要点を観察して見なければなりません。

 もう一つ「宿命智は当然過去の蘊に現れ、天眼智は当然未来の蘊にあらわれる」と、このパーリ(ブッダの言葉である経)で知らなければなりません。学習者は自分で詳細に熟慮して見てください。





縁起が見えることの八つの功徳 

祇園精舎で
マハータンハーサンカヤースッタ
中部マッジマバンナーサ 12巻485頁450項

 比丘のみなさん。そうです。それならみなさんが言ったことと、私如行が言ったことは同じです。つまり「これがなければ、当然これはない。これが消滅したから、当然これが消滅する。つまり無明が消滅することで行の消滅があり、行の消滅があるから識の消滅があり、識の消滅があるから名形の消滅があり、名形の消滅があるから六処の消滅があり、六処の消滅があるから触の消滅があり、

触の消滅があるから受の消滅があり、受の消滅があるから欲望の消滅があり、欲望の消滅があるから取の消滅があり、取の消滅があるから有の消滅があり、有の消滅があるから生の消滅があり、生の消滅があるから老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが揃って消滅する。苦の山のすべての消滅はこのようにある」です。

(1)比丘のみなさん。みなさんがこのように知りこのように見えれば、「遠い昔、私はいたのか、いなかったのか。私は何だったか。どのようだったか。私は何であり、それから何になったのか」と、このように過去に最高に言及するディッティに突っ走ることはありますか。

 「いいえありません。猊下」。

(2)比丘のみなさん。みなさんがこのように知りこのように見えれば、「遠い未来、私はいるのか、いないのか。私は何になるのか。私はどのようか。私は何で、その後何になるのだろう」と、このように未来のことに最高に言及するディッティに突っ走ることはありますか。

 「いいえありません。猊下」。

(3)比丘のみなさん。みなさんがこのように知りこのように見えれば、「私はいるのだろうか。いないのだろうか。私は何なのか。私はどのようか。私は何で、その後何になるのだろうか」と、このように現在に最高に言及するディッティに突っ走ることはありますか。

 「いいえありません。猊下」。

(4)比丘のみなさん。みなさんがこのように知りこのように見えれば、「私たちは教祖が言ったように言わなければならない。教祖を尊敬しているから」とこのように言うべきでしょうか。

 「いいえ。猊下」。

(5)比丘のみなさん。みなさんがこのように知りこのように見えれば、「サマナはこう言うが、私たちは違うことを言う」と、このように言うべきでしょうか。

 「いいえ。猊下」。

(6)比丘のみなさん。みなさんがこのように知りこのように見えれば、他の教祖に敬意を表明するべきでしょうか。

 「いいえ。猊下」。

(7)比丘のみなさん。みなさんがこのように知りこのように見えれば、他の多くのサマナ、あるいはバラモンのやり方で瑞祥行を行うべきでしょうか。

 「いいえ。猊下」。

(8)比丘のみなさん。みなさんは自分で知ったことだけを述べ、自分で見えたことだけを述べるのではありませんか。

 「そうです。猊下」。

 比丘のみなさん。そのとおりです。みなさんは私がダンマで導いた人であり、そのダンマは、

  人が自分自身で見ることができ(サンディティコ)、

  時を限定せずに結果があり(アカーリコ)、

  呼んで来て見せるべき(エヒパッシコ)、

  自分に傾けるべき(オパナジコ)ダンマで、

  智者当人だけが知る(パッチャッタン ヴェダヴォ ヴィンニューヒ)ダンマです。

 比丘のみなさん。この言葉は、私が以前に「そのダンマは人が自分自身で見ることができるダンマで、時を限定せずに結果が出るダンマで、呼んで来て見せるべきダンマで、自分に傾けるべきダンマで、智者当人だけが知るべきダンマです」と言った言葉を指しています。

註: 学習者は、

①知れば過去のディッティも生じず、

②未来のディッティも生じず、

③現在に言及する疑念も生じず、

④教祖が言ったように言う必要がなく、

⑤自分は教祖が言ったことと違うことを言うと感じる必要がなく、

⑥翻って他の教祖を信じず、

⑦二度と戒禁取であるものを信じず、

⑧そしてサンディティコ、アカーリコ、エヒパッシコ、オパナジコ、パッチャッタンヴェダヴォヴィンニューヒで話すと、

 縁起が見える八つの最高の功徳の意味を、観察して見なければなりません。これらの功徳が見えれば、当然縁起を極めて明らかにすることに関心が生じます。





縁起を四聖諦の形で知る人は当然縁起のものを越えることができる

祇園精舎で
相応部ニダーナヴァッガ 16巻55頁97項

 比丘のみなさん。当然老死を知り尽し、老死が生じる原因を知り尽し、老死の消滅を知り尽し、動物が老死の消滅に至る実践項目を知り尽しているサマナ、あるいはバラモンのどの人たちも、それらのサマナ、あるいはバラモンは老死を越え、そのように維持することができます。これはあり得ることです。

 比丘のみなさん。当然生を知り尽し、生が生じる原因を知り尽し、生の消滅を知り尽し、動物が生の消滅に至る実践項目を知り尽しているサマナ、あるいはバラモンのどの人たちも、それらのサマナ、あるいはバラモンは生を越え、そのように維持することができます。これはあり得ることです。

 比丘のみなさん。当然有を知り尽し、有が生じる原因を知り尽し、有の消滅を知り尽し、動物が有の消滅に至る実践項目を知り尽しているサマナあるいはバラモンのどの人たちも、それらのサマナ、あるいはバラモンは有を越え、そのように維持することができます。これはあり得ることです。

 当然取を知り尽し、取が生じる原因を知り尽し、取の消滅を知り尽し、動物が取の消滅に至る実践項目を知り尽しているサマナ、あるいはバラモンのどの人たちも、それらのサマナ、あるいはバラモンは取を越え、そのように維持することができます。これはあり得ることです。

 当然欲を知り尽し、欲望が生じる原因を知り尽し、欲望の消滅を知り尽し、動物が欲望の消滅に至る実践項目を知り尽しているサマナ、あるいはバラモンのどの人たちも、それらのサマナ、あるいはバラモンは、欲望を越え、そのように維持することができます。これはあり得ることです。

 当然受を知り尽し、受が生じる原因を知り尽し、受の消滅を知り尽し、動物が受の消滅に至る実践項目を知り尽しているサマナあるいはバラモンのどの人たちも、それらのサマナあるいはバラモンは受を越え、そのように維持することができます。これはあり得ることです。

 当然触を知り尽し、触が生じる原因を知り尽し、触の消滅を知り尽し、動物が触の消滅に至る実践項目を知り尽しているサマナ、あるいはバラモンのどの人たちも、それらのサマナ、あるいはバラモンは触を越え、そのように維持することができます。これはあり得ることです。

 当然六処を知り尽し、六処が生じる原因を知り尽し、六処の消滅を知り尽し、動物が六処の消滅に至る実践項目を知り尽しているサマナ、あるいはバラモンのどの人たちも、それらのサマナ、あるいはバラモンは六処を越えそのように維持することができます。これはあり得ることです。

 当然名形を知り尽し、名形が生じる原因を知り尽し、名形の消滅を知り尽し、動物が名形の消滅に至る実践項目を知り尽しているサマナ、あるいはバラモンのどの人たちも、それらのサマナ、あるいはバラモンは名形を越え、そのように維持することができます。これはあり得ることです。

 当然識を知り尽し、識が生じる原因を知り尽し、識の消滅を知り尽し、動物が識の消滅に至る実践項目を知り尽しているサマナ、あるいはバラモンのどの人たちも、それらのサマナ、あるいはバラモンは識を越え、そのように維持することができます。これはあり得ることです。

 当然行を知り尽し、行が生じる原因を知り尽し、行の消滅を知り尽し、動物が行の消滅に至る実践項目を知り尽しているサマナ、あるいはバラモンのどの人たちも、それらのサマナ、あるいはバラモンは行を越え、そのように維持することができます。これはあり得ることです。





見解が完璧なことの功徳

祇園精舎で
相応部ニダーナヴァッガ 16巻162頁311項他

一番の経

 ある時祇園精舎で世尊が爪の先でわずかな埃を掬われ、そして比丘たちに言われました。

 比丘のみなさん。みなさんこれをどう思いますか。私が爪の先で救ったわずかな埃と大地は、どちらが多いですか

 「猊下。大地の土の方が多いです。爪の先で掬われたホコリはほんの僅かです。大地と比べたら、当然百分の一、千分の一、十万分の一にもなりません」。

 比丘のみなさんこの例えも同じで、特に(正しい)見解が完璧な聖なる弟子、完璧に知る人、その方が終わらせた苦は、当然まだ残っている僅かな苦より多いです。終わった苦、消滅した過去の苦の山と比べると、当然百分の一、千分の一、十万分の一にもなりません。

 それが極七返生(預流の一種)である人の苦の終りです。比丘のみなさん。ダンマを完璧に知ることは、このように偉大な利益のためになり、ダンマの目を得ることは、このように偉大な利益のためになります。


二番目の経

 (二番目の経とその後の経は、阿羅漢のディッティが完璧なことの利益について話されていて、例える物はすべて同じで、違うのはそれそれの例の例えられる物が段階的であることだけです)。

 比丘のみなさん。長さ五十ヨージャナ(註1)、幅五十ヨージャナ、深さ五十ヨージャナの、縁まで水が溢れていて、カラスが水を飲める蓮池があります。その時男が萱の先を浸して水を持ち上げます。比丘のみなさん。みなさんこれをどう思いますか。男が茅の先を浸して持ち上げた水の方が多いですか、それとも蓮池の水の方が多いですか。

 「猊下。蓮池の水の方が多いです。男が茅の先を浸して持ち上げた水は量が少なく、この水を蓮池の水と比較すれば、当然その水の百分の一、千分の一、十万分の一にもなりません。

 比丘のみなさんこの例えも同じで、特に(正しい)見解が完璧な聖なる弟子、完璧に知る人、その方が終わらせた苦は、当然まだ残っている僅かな苦より多いです。終わった苦、消滅した過去の苦の山と比べると、当然百分の一、千分の一、十万分の一にもなりません。

 つまり極七返生(預流の一種)である人の苦の終りです。比丘のみなさん。ダンマを完璧に知ることは、このように偉大な利益のためになり、ダンマの目を得ることは、このように偉大な利益のためになります。

  註1: 1ヨージャナ=16km


三番目の経

 比丘のみなさん。これらの川、つまりガンガ(ガンジス川)、アジラヴァディ川、マヒー川が合流する所に、その時男が水を二滴か三滴持って来るようなものです。比丘のみなさん。みなさんこれをどう思いますか。男が持ってきた二三滴の水の方が多いですか。それとも合流した川の水の方が多いですか。

 「猊下。川の合流点の水の方が多く、男が持って来た二三滴の水の方が少ないです。その水を川の合流点の水と比べると、当然百分の一、千分の一、十万分の一にもなりません」。

 比丘のみなさんこの例えも同じで、特に(正しい)見解が完璧な聖なる弟子、完璧に知る人、その方が終わらせた苦は、当然まだ残っている僅かな苦より多いです。終わった苦、消滅した過去の苦の山と比べると、当然百分の一、千分の一、十万分の一にもなりません。

 つまり極七返生(預流の一種)である人の苦の終りです。比丘のみなさん。ダンマを完璧に知ることは、このように偉大な利益のためになり、ダンマの目を得ることは、このように偉大な利益のためになります。


四番目の経

 比丘のみなさん。これらの川、つまりガンガ(ガンジス川)、ヨムナー川、アジラヴァディ川、マヒー川の合流点で、その水がすべて終わり、二三滴残っているようなものです。比丘のみなさん。みなさんこれをどう思いますか。二三滴残った水の方が多いですか。それとも川の合流点で終わったの水の方が多いですか。

 「猊下。川の合流点の水の方が多く、残った二三滴の水の方が少ないです。その水を川の合流点の水と比べれば、当然その水の百分の一、千分の一、十万分の一にもなりません」。

 比丘のみなさんこの例えも同じで、特に(正しい)見解が完璧な聖なる弟子、完璧に知る人、その方が終わらせた苦は、当然まだ残っている僅かな苦より多いです。終わった苦、消滅した過去の苦の山と比べると、当然百分の一、千分の一、十万分の一にもなりません。

 つまり極七返生(預流の一種)である人の苦の終りです。比丘のみなさん。ダンマを完璧に知ることは、このように偉大な利益のためになり、ダンマの目を得ることは、このように偉大な利益のためになります。


五番目の経

 比丘のみなさん。大風子の種くらいの土塊を七つ、地面に投げるようなものです。比丘のみなさん。みなさんこれをどう思いますか。男が投げた大風子の種くらいの土塊七つの方が多いですか。それとも大地の方が多いですか。

 「猊下。大地の方が多いです。男が投げた大風子の種くらいの土塊七つの方が少ないです。大地と比べると、当然その土の百分の一、千分の一、十万分の一にもなりません」。

 比丘のみなさんこの例えも同じで、特に(正しい)見解が完璧な聖なる弟子、完璧に知る人、その方が終わらせた苦は、当然まだ残っている僅かな苦より多いです。終わった苦、消滅した過去の苦の山と比べると、当然百分の一、千分の一、十万分の一にもなりません。

 つまり極七返生(預流の一種)である人の苦の終りです。比丘のみなさん。ダンマを完璧に知ることは、このように偉大な利益のためになり、ダンマの目を得ることは、このように偉大な利益のためになります。


六番目の経

 比丘のみなさん。終りに至って、大風子の種くらいの土塊が七つ残った大地のようなものです。比丘のみなさん。みなさんこれをどう思いますか。終りに至った大地の方が多いですか。それとも残った大風子の種くらいの土塊七つの方が多いですか。

 「猊下。無くなった大地の方が多いです。残った大風子の実くらいの土塊七つの方が少ないです。大地と比べると、当然百分の一、千分の一、十万分の一にもなりません」。

 比丘のみなさんこの例えも同じで、特に(正しい)見解が完璧な聖なる弟子、完璧に知る人、その方が終わらせた苦は、当然まだ残っている僅かな苦より多いです。終わった苦、消滅した過去の苦の山と比べると、当然百分の一、千分の一、十万分の一にもなりません。

 つまり極七返生(預流の一種)である人の苦の終りです。比丘のみなさん。ダンマを完璧に知ることは、このように偉大な利益のためになり、ダンマの目を得ることは、このように偉大な利益のためになります。


七番目の経

 比丘のみなさん。男が海から二三滴の水を持って来るようなものです。比丘のみなさん。みなさんこれをどう思いますか。男が持ってきた二三滴の水の方が多いですか。それとも海の水の方が多いですか。

 「猊下。海の水の方が多いです。男が持ってきた二三滴の水の方が少ないです。海の水と比べると、当然その水の百分の一、千分の一、十万分の一にもなりません」。

 比丘のみなさんこの例えも同じで、特に(正しい)見解が完璧な聖なる弟子、完璧に知る人、その方が終わらせた苦は、当然まだ残っている僅かな苦より多いです。終わった苦、消滅した過去の苦の山と比べると、当然百分の一、千分の一、十万分の一にもなりません。

 つまり極七返生(預流の一種)である人の苦の終りです。比丘のみなさん。ダンマを完璧に知ることは、このように偉大な利益のためになり、ダンマの目を得ることは、このように偉大な利益のためになります。


八番目の経

 比丘のみなさん。海の水が終りに至り、二三滴の水が残ったようなものです。比丘のみなさん。みなさんこれをどう思いますか。終りに至った海の水の方が多いですか。それとも残った二三滴の水の方が多いですか。

 「猊下。海の水の方が多いです。残った二三滴の水の方が少ないです。海の水と比べると、当然百分の一、千分の一、十万分の一にもなりません」。

 比丘のみなさんこの例えも同じで、特に(正しい)見解が完璧な聖なる弟子、完璧に知る人、その方が終わらせた苦は、当然まだ残っている僅かな苦より多いです。終わった苦、消滅した過去の苦の山と比べると、当然百分の一、千分の一、十万分の一にもなりません。

 つまり極七返生(預流の一種)である人の苦の終りです。比丘のみなさん。ダンマを完璧に知ることは、このように偉大な利益のためになり、ダンマの目を得ることは、このように偉大な利益のためになります。


九番目の経 

 比丘のみなさん。男が大根の種くらいの土の塊を七つ、ヒマラヤ山脈に投げるようなものです。比丘のみなさん。みなさんこれをどう思いますか。男が投げた大根の種くらいの土塊七つの方が多いですか。それともヒマラヤ山脈の方が多いですか。

 「猊下。ヒマラヤ山脈の方が多いです。男が投げた大根の種くらいの土塊七つの方が少ないです。ヒマラヤ山脈と比べると、当然その百分の一、千分の一、十万分の一にもなりません」。

 比丘のみなさんこの例えも同じで、特に(正しい)見解が完璧な聖なる弟子、完璧に知る人、その方が終わらせた苦は、当然まだ残っている僅かな苦より多いです。終わった苦、消滅した過去の苦の山と比べると、当然百分の一、千分の一、十万分の一にもなりません。つまり極七返生(預流の一種)である人の苦の終りです。比丘のみなさん。ダンマを完璧に知ることは、このように偉大な利益のためになり、ダンマの目を得ることは、このように偉大な利益のためになります。


十番目の経

 比丘のみなさん。ヒマラヤ山脈が終りに至り、大根の種くらいの土塊七つが残るようなものです。比丘のみなさん。みなさんこれをどう思いますか。終りに至ったヒマラヤ山脈の方が多いですか。それとも残った大根の種くらいの土塊七つの方が多いですか。

 「猊下。ヒマラヤ山脈の方が多いです。残った大根の種くらいの土塊七つの方が少ないです。ヒマラヤ山脈と比べると、当然その百分の一、千分の一、十万分の一にもなりません」。

 比丘のみなさん。この喩えも同じです。見が完璧で、完璧に知っている聖なる弟子は、その方の終わった苦、無くなった苦の方が多く、まだ残っている苦の方が少ないです。終わった苦、無くなった苦と比較すると、当然その水の百分の一、千分の一、十万分の一にもなりません。

 つまりサッタッカットゥパラマ(極七返生。つまり預流)である人の苦の終りです。比丘のみなさん。ダンマを完璧に知ることは、このように偉大な利益のためになり、ダンマの目を得ることは、このように偉大な利益のためになります。





縁起の仕事が終わった人は現世で涅槃に到達した人と呼ばれる

祇園精舎で
相応部ニダーナヴァッガ 16巻22頁46項

 比丘。比丘が倦怠して、欲情が緩んで、執着しない人であることで老死が消滅して解脱した人なら、その比丘は「現世で涅槃に到達した比丘」と呼ぶにふさわしいです。

 比丘。比丘が倦怠して、欲情が緩んで、執着しない人であることで生が消滅して解脱した人なら、その比丘は「現世で涅槃に到達した比丘」と呼ぶにふさわしいです。

 比丘。比丘が倦怠して、欲情が緩んで、執着しない人であることで有が消滅して解脱した人なら、その比丘は「現世で涅槃に到達した比丘」と呼ぶにふさわしいです。

 比丘。比丘が倦怠して、欲情が緩んで、執着しない人であることで取が消滅して解脱した人なら、その比丘は「現世で涅槃に到達した比丘」と呼ぶにふさわしいです。

 比丘。比丘が倦怠して、欲情が緩んで、執着しない人であることで欲望が消滅して解脱した人なら、その比丘は「現世で涅槃に到達した比丘」と呼ぶにふさわしいです。

 比丘。比丘が倦怠して、欲情が緩んで、執着しない人であることで受が消滅して解脱した人なら、その比丘は「現世で涅槃に到達した比丘」と呼ぶにふさわしいです。

 比丘。比丘が倦怠して、欲情が緩んで、執着しない人であることで触が消滅して解脱した人なら、その比丘は「現世で涅槃に到達した比丘」と呼ぶにふさわしいです。

 比丘。比丘が倦怠して、欲情が緩んで、執着しない人であることで六処が消滅して解脱した人なら、その比丘は「現世で涅槃に到達した比丘」と呼ぶにふさわしいです。

 比丘。比丘が倦怠して、欲情が緩んで、執着しない人であることで名形が消滅して解脱した人なら、その比丘は「現世で涅槃に到達した比丘」と呼ぶにふさわしいです。

 比丘。比丘が倦怠して、欲情が緩んで、執着しない人であることで識が消滅して解脱した人なら、その比丘は「現世で涅槃に到達した比丘」と呼ぶにふさわしいです。

 比丘。比丘が倦怠して、欲情が緩んで、執着しない人であることですべての行が消滅して解脱した人なら、その比丘は「現世で涅槃に到達した比丘」と呼ぶにふさわしいです。

 比丘。比丘が倦怠して、欲情が緩んで、執着しない人であることで無明が消滅して解脱した人なら、その比丘は「現世で涅槃に到達した比丘」と呼ぶにふさわしいです。





縁起を正しい手法で熟慮する最高の功徳

祇園精舎で
相応部ニダーナヴァッガ 16巻97頁188項

 ある時祇園精舎で、世尊が比丘全員を集めて「比丘のみなさん。どれほどの理由で比丘が熟慮する時、すべての苦の終りのために正しく熟慮するべきでしょうか。

 それらの比丘たちが「猊下。私たちのすべてのダンマは、世尊が根源で、世尊が指導者で、世尊が拠り所です。猊下。正しいことでしょう。そのお話になったことの意味を、どうぞ明らかになさってください。比丘のみなさんが世尊から聞いて記憶します」とこのように申し上げたので、世尊は比丘たちに、心の中を役立つようにしてよく聞くよう忠告して話されました。

 比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘が熟慮する時は、当然「この世界に苦は少なくない。いろんな苦が生じる。つまりどんな老死もだ。この苦は何が生じさせる原因で、何が発生させる物で、何が生む物で、何が発生源だろう。何があるから老死があり、何がなければ老死が消滅するのだろう」とこのように熟慮します。

 その比丘が熟慮すると、当然「苦は少なくなく、いろんな種類があり、つまりどんな老死も当然世界に生じる。この苦は生じさせる原因である生があり、発生させる物である生があり、生じさせる物である生があり、発生源である生がある。生があるから老死があり、生がなければ老死は消滅する」とこのように明らかに知ります。

 その比丘は当然老死を明らかに知り、当然老死が生じる原因を明らかに知り、当然老死の消滅を明らかに知り、老死の消滅にふさわしいダンマである、動物を老死の消滅に至らせる実践項目を明らかに知ります。比丘のみなさん。この比丘を私は「すべての苦を正しく終わらせるため、つまり老死の消滅のために実践する人」と呼びます。


 比丘のみなさん。まだあります。比丘が熟慮する時は、当然「この生は何が生じさせる原因、何が発生させる物、何が生む物、何が発生源だろう。何があるから生があり、何がなければ生が消滅するだろう」とこのように熟慮します。その比丘が熟慮すると、当然「生は生じさせる原因である有があり、有が発生させる物で、有が生む物で、有が発生源だ。有があるから生があり、有がなければ生は消滅する」とこのように熟慮します。

 その比丘は当然生を明らかに知り、当然生が生じる原因を明らかに知り、当然生の消滅を明らかに知り、生の消滅にふさわしいダンマである、生き物を生の消滅に至らしめる実践項目を明らかに知ります。比丘のみなさん。この比丘を私は「すべての苦を正しく終わらせるため、つまり生の消滅のために実践する人」と呼びます。


 比丘のみなさん。まだあります。比丘が熟慮する時は、当然「この有は何が生じさせる原因で、何が発生させる物で、何が生む物で、何が発生源だろう。何があるから有があり、何がなければ有が消滅するのだろう」とこのように熟慮します。その比丘が熟慮していると、当然「有は生じさせる原因である取があり、取が発生させるもので、取が生む物で、取が発生源だ。取があるから有があり、取がなければ有は消滅する」とこのように熟慮します。

 その比丘は当然有を明らかに知り、当然有が生じる原因を明らかに知り、当然有の消滅を明らかに知り、有の消滅にふさわしいダンマである、生き物を有の消滅に至らせる実践項目を明らかに知ります。比丘のみなさん。この比丘を私は「すべての苦を正しく終わらせるため、つまり有の消滅のために実践する人」と呼びます。


 比丘のみなさん。まだあります。比丘が熟慮する時は、当然「この取は何が生じさせる原因で、何が発生させる物で、何が生む物で、何が発生源だろう。何があるから取があり、何がなければ取が消滅するのだろう」と、このように熟慮します。その比丘が熟慮していると、当然「取は生じさせる原因である欲望があり、欲望が発生させる物で、欲望が生む物で、欲望が発生源だ。欲望があるから取があり、欲望がなければ取は消滅する」と、このように熟慮します。

 その比丘は当然取を明らかに知り、当然取が生じる原因を明らかに知り、当然取の消滅を明らかに知り、取の消滅にふさわしいダンマである、動物を取の消滅に至らせる実践項目を明らかに知ります。比丘のみなさん。この比丘を私は「すべての苦を正しく終わらせるため、つまり取の消滅のために実践する人」と呼びます。


 比丘のみなさん。まだあります。比丘が熟慮する時は、当然「この欲望は何が生じさせる原因で、何が発生させる物で、何が生む物で、何が発生源だろう。何があるから欲望があり、何がなければ欲望が消滅するのだろう」と、このように熟慮します。その比丘が熟慮していると、当然「欲望は生じさせる原因である受があり、受が発生させる物で、受が生む物で、受が発生源だ。受があるから欲望があり、受がなければ欲望は消滅する」とこのように熟慮します。

 その比丘は当然欲望を明らかに知り、当然欲望が生じる原因を明らかに知り、当然欲望の消滅を明らかに知り、欲望の消滅にふさわしいダンマである、動物を欲望の消滅に至らせる実践項目を明らかに知ります。比丘のみなさん。この比丘を私は「すべての苦を正しく終わらせるため、つまり欲望の消滅のために実践する人」と呼びます。


 比丘のみなさん。まだあります。比丘が熟慮する時は、当然「この受は何が生じさせる原因で、何が発生させる物で、何が生む物で、何が発生源だろう。何があるから受があり、何がなければ受が消滅するのだろう」とこのように熟慮します。その比丘が熟慮していると、当然「受は生じさせる原因である触があり、触が発生させる物で、触が生む物で、触が発生源だ。触があるから受があり、触がなければ受は消滅する」とこのように熟慮します。

 その比丘は当然受を明らかに知り、当然受が生じる原因を明らかに知り、当然受の消滅を明らかに知り、受の消滅にふさわしいダンマである、動物を受の消滅に至らせる実践項目を明らかに知ります。比丘のみなさん。この比丘を私は「すべての苦を正しく終わらせるため、つまり受の消滅のために実践する人」と呼びます。


 比丘のみなさん。まだあります。比丘が熟慮する時は、当然「この触は何が生じさせる原因で、何が発生させる物で、何が生む物で、何が発生源だろう。何があるから触があり、何がなければ触が消滅するのだろう」とこのように熟慮します。その比丘が熟慮していると、当然「触は生じさせる原因である六処があり、六処が発生させる物で、六処が生むもので、六処が発生源だ。六処があるから触があり、六処がなければ触は消滅する」とこのように熟慮します。

 その比丘は当然触を明らかに知り、当然触が生じる原因を明らかに知り、当然触の消滅を明らかに知り、触の消滅にふさわしいダンマである、生き物を触の消滅に至らせる実践項目を明らかに知ります。比丘のみなさん。この比丘を私は「すべての苦を正しく終わらせるため、つまり触の消滅のために実践する人」と呼びます。


 比丘のみなさん。まだあります。比丘が熟慮する時は、当然「この六処は何が生じさせる原因で、何が発生させる物で、何が生む物で、何が発生源だろう。何があるから六処があり、何がなければ六処が消滅するのだろう」とこのように熟慮します。その比丘が熟慮していると、当然「六処は生じさせる原因である名形があり、名形が発生させる物で、名形が生む物で、名形が発生源だ。名形があるから六処があり、名形がなければ六処は消滅する」とこのように熟慮します。

 その比丘は当然六処を明らかに知り、当然六処が生じる原因を明らかに知り、当然六処の消滅を明らかに知り、六処の消滅にふさわしいダンマである、動物を六処の消滅に至らせる実践項目を明らかに知ります。比丘のみなさん。この比丘を私は「すべての苦を正しく終わらせるため、つまり六処の消滅のために実践する人」と呼びます。


 比丘のみなさん。まだあります。比丘が熟慮する時は、当然「この名形は何が生じさせる原因で、何が発生させる物で、何が生む物で、何が発生源だろう。何があるから名形があり、何がなければ名形が消滅するのだろう」とこのように熟慮します。その比丘が熟慮していると、当然「名形は生じさせる原因である識があり、識が発生させる物で、識が生む物で、識が発生源だ。識があるから名形があり、識がなければ名形は消滅する」とこのように熟慮します。

 その比丘は当然名形を明らかに知り、当然名形が生じる原因を明らかに知り、当然名形の消滅を明らかに知り、名形の消滅にふさわしいダンマである、動物を名形の消滅に至らせる実践項目を明らかに知ります。比丘のみなさん。この比丘を私は「すべての苦を正しく終わらせるため、つまり名形の消滅のために実践する人」と呼びます。


 比丘のみなさん。まだあります。比丘が熟慮する時は、当然「この識は何が生じさせる原因で、何が発生させる物で、何が生む物で、何が発生源だろう。何があるから識があり、何がなければ識が消滅するのだろう」とこのように熟慮します。その比丘が熟慮していると、当然「識は生じさせる原因であるすべての行があり、すべての行が発生させる物で、すべての行が生む物で、すべての行が発生源だ。行があるから識があり、行がなければ識は消滅する」とこのように熟慮します。

 その比丘は当然識を明らかに知り、当然識が生じる原因を明らかに知り、当然識の消滅を明らかに知り、識の消滅にふさわしいダンマである、動物を識の消滅に至らせる実践項目を明らかに知ります。比丘のみなさん。この比丘を私は「すべての苦を正しく終わらせるため、つまり識の消滅のために実践する人」と呼びます。


 比丘のみなさん。まだあります。比丘が熟慮する時は、当然「すべての行は何が生じさせる原因で、何が発生させる物で、何が生む物で、何が発生源だろう。何があるからすべての行があり、何がなければすべての行が消滅するのだろう」と、このように熟慮します。

 その比丘が熟慮していると、当然「すべての行は生じさせる原因である無明があり、無明が発生させる物で、無明が生むもので、無明が発生源だ。無明があるからすべての行があり、無明がなければすべての行は消滅する」とこのように熟慮します。

 その比丘は当然すべての行を明らかに知り、当然すべての行が生じる原因を明らかに知り、当然すべての行の消滅を明らかに知り、すべての行の消滅にふさわしいダンマである、動物をすべての行の消滅に至らしめる実践項目を明らかに知ります。比丘のみなさん。この比丘を私は「すべての苦を正しく終わらせるため、つまりすべての行の消滅のために実践する人」と呼びます。

 比丘のみなさん。無明に到達した人が徳である行を作れば、識も徳である報いに到達し、彼が徳でない行を作れば、識も徳でない報いに到達し、彼が不動の行を作れば、識も不動である報いに到達します。

 比丘のみなさん。比丘が無明を捨てることができ明が生じた時はいつでも、その時その比丘は、無明を残らず吐き出すことで、明が生じたことで、当然徳である行為(アビサンカーラ)をせず、当然徳でない行為もしません。

 行為しなければ、一斉に生じさせなければ、その人は当然世界の何にも執着しません。執着しなければ当然驚愕せず、驚愕しなければその人は当然自分だけの般涅槃します。その人は当然「生は終わった。梵行をするのは終わった。するべき仕事は成功した。このようになるためにしなければならないことは他にない」と明らかに知ります。


 比丘のみなさん。幸受を味わえば「その受は不変ではない。それに私は酔って平伏さない。それにうっとりしない」とこのようにハッキリ知り、苦受を味わえば「その受は不変ではない。それに私は酔って平伏さない。それにうっとりしない」とこのようにハッキリ知り、不苦不幸受を味わえば「その受は不変ではない。それに私は酔って触れ伏さない。それにうっとりしない」とこのようにハッキリ知ります。

  比丘のみなさん。その比丘が幸受を味わう時は、縛り付ける物である煩悩がなくその受を味わい、苦受を味わう時は、縛り付ける物である煩悩なしにその受を味わい、不苦不幸受を味わう時は、縛りつける物である煩悩なしにその受を味わいます。

 比丘のみなさん。終わった体がある受を味わえば、当然「私は終わった体がある受を味わっている」とこのように明らか知り、終わった命のある受を味わえば、当然「私は終わった命がある受を味わっている」と明らかに知ります。その比丘は当然「すべての受に、私は特に夢中にならない。この体の中で冷えた物になった。体が壊れて命が終わる時まで、すべての体が残る」と明らかに知ります。

 比丘のみなさん。男がまだ熱い土鍋を焼き窯から出して土間に置くと、鍋の湯気が自然に治まってたくさんの焼き物が残るように、比丘のみなさん。この場合の比丘も同じで、終わった体がある受を味わうと、当然「私は終わった体がある受を味わっている」と明らかに知ります。彼が終わった命がある受を味わうと、当然「私は終わった命のある受を味わっている」と明らかに知ります。

 その比丘は、当然「すべての受に、私は夢中にならない」と明らかに知り、当然「この体の中では冷えたものになった」と明らかに知り、当然「体のすべては、体が崩壊して命が終わるまで残る」と明らかに知ります。

 比丘のみなさん。みなさんはこれをどう理解しますか。キーナーサヴァ(阿羅漢)である比丘は善であるカンマ、あるいは悪のカンマ、あるいは不動のカンマを作るでしょうか。

 「そうなりません。猊下」。

 すべての行が消滅してすべての行がなければ、識は現れるでしょうか。

 「いいえ、現れません、猊下」。

 識がすべて消滅して識がなければ、名形は現れるでしょうか。

 「いいえ、現れません。猊下」。

 名形がすべて消滅して名形がなければ、六処は現れるでしょうか。

 「いいえ、現れません。猊下」。

 六処がすべて消滅して六処がなければ、触は現れるでしょうか。

 「いいえ、現れません、猊下」。

 触がすべて消滅して 触がなければ、受は現れるでしょうか。

 「いいえ、現れません、猊下」。

 受がすべて消滅して受がなければ、欲望は現れるでしょうか。

 「いいえ、現れません、猊下」。

 欲望がすべて消滅して欲がなければ、取は現れるでしょうか。

 「いいえ、現れません、猊下」。

 取がすべて消滅して取がなければ、有は現れるでしょうか。

 「いいえ、現れません、猊下」。

 有がすべて消滅して有がなければ、生は現れるでしょうか。

 「いいえ、現れません、猊下、」。

 生がすべて消滅して生がなければ、老死は現れるでしょうか。

 「いいえ、現れません。猊下」。

 比丘のみなさん。そうです。そのとおりです。比丘のみなさん。みなさんこれはそのように理解し信じなさい。比丘のみなさん。この項目の信仰を捨て、この項目に疑念のない人になりなさい。それが苦の終りです。





縁起を断つ人は理想の人

祇園精舎で
相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻80頁124項

 比丘のみなさん。三つの方法でダンマを熟慮する比丘はどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。この場合の比丘は当然ダンマをダートゥ(四つの元素。四大種)で熟慮熟考し、当然ダンマを六処で熟慮し、当然ダンマを縁起で熟慮します。比丘のみなさん。比丘はこのようにダンマを三つで熟慮する人です。

 比丘のみなさん。比丘が七つの条件(註1)に賢く、三つの方法でダンマを熟慮熟考する人なら、私はその比丘を「ケヴァリーであり、梵行が終わった、このダンマヴィナヤの理想の人」と呼びます。

 註1:七つの条件とは、
①形・受・想・行・識、
②形・受・想・行・識の原因、
③形・受・想・行・識の消滅、
④形・受・想・行・識の滅道、
⑤形・受・想・行・識の味、
⑥形・受・想・行・識の害、
⑦形・受・想・行・識から出る方便です。  詳しくは337頁の「縁起の流れで最後までダンマの状態を熟慮する」を見てください。

http://buddhadasa.hahaue.com/engi/6-5.html

註:学習者は、ケヴァリーという聞きなれない言葉を観察して見なければなりません。この言葉は、他のある宗教では、その宗教の梵行をする最終目的であるカイヴァラ、あるいはパラマートマン(大我)に到達した人を意味します。

 ここではカイヴァラ、あるいはパラマートマンと対比することができる涅槃への到達を意味すると理解します。今まで「すっかり」「すべて」「全部」「それだけ」と訳されて来たような形容詞や副詞ではないと思います。





博学者とは縁起に賢い人

祇園精舎で
バフタートゥカスッタ
中部ウパリパンナーサ 14巻166頁235項

 比丘のみなさん。どんな危険も当然すべて愚かな人から生じ、博学者からは生じません。

 どんな不吉も当然すべて愚かな人から生じ、博学者からは生じません。

 どんな障害も当然すべて愚かな人から生じ、博学者からは生じまん。

 比丘のみなさん。葦や草でできた家の火事は、石膏を塗り上げ塗り下げた塔があっても、丈夫な取っ手があっても、隙間のない窓や扉があっても燃え上がります。比丘のみなさん。同じようにどんな危険が生じるのも当然すべて愚かな人から生じ、博学者からは生じません。

 どんな不吉が生じるのも、当然すべて愚かな人から生じ、博学者からは生じません。どんな障害が生じるのも当然すべて愚かな人から生じ、博学者からは生じません。

 比丘のみなさん。だから愚かな人は目前に危険がある人と呼ばれ、博学者は目前の危険がない人と呼ばれ、愚かな人は不吉な人と呼ばれ、博学者は不吉でない人と呼ばれ、愚かな人は障害がある人と呼ばれ、博学者は障害がない人と呼ばれます。

 比丘のみなさん。危険は当然博学者からは生じず、不吉は当然博学者からは生じず、障害は当然博学者からは生じせん。比丘のみなさん。だからこれはみなさん。心の中を「私たちは博学者になる」とこのようになさい。比丘のみなさん。このように心に銘じなさい。

 世尊がそのように言われると「比丘はどれだけの理由で、熟慮する智慧がある博学者と呼ばれるべきですか」と、プラアーナンダが質問し、七つの条件、つまり

①形・受・想・行・識、

②形・受・想・行・識の原因、

③形・受・想・行・識の滅、

④形・受・想・行・識の滅道、

⑤形・受・想・行・識の旨味、

⑥形・受・想・行・識の害、

⑦形・受・想・行・識から出る方便によって」と答えられました。

 「猊下。比丘が縁起に賢い人と呼ばれるのはどれだけの理由ですか、猊下」。

 アーナンダ。この場合の比丘は、当然「これがあるからこれがあり、これが生じたからこれが生じた。これがないからこれがない。これが消滅したからこれが消滅する」とこのように知ります。つまり、

 無明が縁ですべての行があり、

 行が縁で識があり、

 識が縁で名形があり、

 名形が縁で六処があり、

 六処が縁で触があり、

 触が縁で受があり、

 受が縁で欲があり、

 欲が縁で取があり、

 取が縁で有があり、

 有が縁で生があり、

 生が縁で老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが残らず生じます。

 すべての苦の山の発生はこのようにあります。


 無明が消滅することですべての行が消滅し、

 行が消滅することで識が消滅し、

 識が消滅することで名形が消滅し、

 名形が消滅することで触消滅し、

 触が消滅することで受が消滅し、

 受が消滅することで取が消滅し、

 取が消滅することで欲が消滅し、

 欲が消滅することで有が消滅し、

 有が消滅することで生が消滅し、

 生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが消滅する。

 苦の山のすべての発生は、当然このようにしてあります。

 アーナンダ。これだけの理由で比丘は縁起に賢い人と呼ばれます。

註: 学習者は、博学者であるには、四つのうちのいずれか一つの理由でなると観察して見なければなりません。四つは言葉は違っても中身は同じで、入れ替えることもできます。ダートゥに賢ければ、生起型(順観)も消滅型(逆観)も、縁起の流れの基盤であるすべてのダートゥを知っているからです。

 六処に賢ければ、六処の触で無明触を生じさせないよう注意深くすること、条件や非条件に賢ければ賢いほど、苦が生じる道である縁起と、そして直接滅苦に賢いことも意味します。

 だからこの話の初めで、熟慮する智慧がある博学者にする四つの条件について述べられる時、ブッダが「あるいは」という言葉の代わりに「~も」という言葉を使われているのは、当然一つを知れば、四つすべてを知るという意味です。ここで述べている限りの「縁起に賢い人であること」は、項目だけで述べられていて、詳細は、当然本書にまとまられているように、いろんな意味があると言うことができます。 

 更に論蔵には「パティッチャサムッパーダクサラター」という言葉で少し説明しているだけで、消滅型はありません。そして「因果の法則」と呼ぶ縁起の心臓部である言葉もありません。




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