(ナンディが苦を生じさせる)縁起の状態が見えればすべての思い込みが止まる

スパガヴァンの森の沙羅大樹の下で
ムーラパリヤーヤスッタ
中部マッジマバンナーサ 12巻1頁2項

 比丘のみなさん。聞くことがないこの世界の凡夫は、すべての聖人が見えず、聖人のダンマに賢くなく、聖人のダンマの忠告を受けず、すべての善人が見えず、善人のダンマに賢くなく、善人のダンマの忠告を受けないので、

(凡夫が規定する物)

(1)当然土を土と感じ、土を土と感じれば当然土と思い込み、当然「土に」と思い込み、当然「土で」と思い込み、当然「私の土」と思い込み、当然土を非常に喜びます。それはなぜでしょうか。それは、土を凡夫は知り尽していないからと私は言います。

(2)当然水を水と感じ、水を水と感じれば当然水と思い込み、当然「水に」と思い込み、当然「水で」と思い込み、当然「私の水」と思い込み、当然水を非常に喜びます。それはなぜでしょうか。それは、水を凡夫は知り尽していないからと私は言います。

(3)当然火を火と感じ、火を火と感じれば当然火と思い込み、当然「火に」と思い込み、当然「火で」と思い込み、当然「私の火」と思い込み、当然火を非常に喜びます。それはなぜでしょうか。それは、火を凡夫は知り尽していないからと私は言います。

(4)当然風を風と感じ、風を風と感じれば当然風と思い込み、当然「風に」と思い込み、当然「風で」と思い込み、当然「私の風」と思い込み、当然風を非常に喜びます。それはなぜでしょうか。それは、風を凡夫は知り尽していないからと私は言います。

(5)当然すべての動物をすべての動物と感じ、すべての動物をすべての動物と感じれば当然すべての動物と思い込み、当然「すべての動物に」と思い込み、当然「すべての動物で」と思い込み、当然「私のすべての動物」と思い込み、当然すべての動物を非常に喜びます。それはなぜでしょうか。それは、すべての動物を凡夫は知り尽していないからと私は言います。

(6)当然すべての天人をすべての天人と感じ、すべての天人をすべての天人と感じれば当然すべての天人と思い込み、当然「すべての天人に」と思い込み、当然「すべての天人で」と思い込み、当然「私のすべての天人」と思い込み、当然すべての天人を非常に喜びます。それはなぜでしょうか。それは、すべての天人を凡夫は知り尽していないからと私は言います。

(7)当然パジャーバディー(宮女)をパジャーバディーと感じ、パジャーバディーをパジャーバディーと感じれば当然パジャーバディーと思い込み、当然「パジャーバディーに」と思い込み、当然「パジャーバディーで」と思い込み、当然「私のパジャーバディー」と思い込み、当然パジャーバディーを非常に喜びます。それはなぜでしょうか。それは、パジャーバディーを凡夫は知り尽していないからと私は言います。

(8)当然梵天を梵天と感じ、梵天を梵天と感じれば当然梵天と思い込み、当然「梵天に」と思い込み、当然「梵天で」と思い込み、当然「私の梵天」と思い込み、当然梵天を非常に喜びます。それはなぜでしょうか。それは、梵天を凡夫は知り尽していないからと私は言います。

(9)当然すべての極光天をすべての極光天と感じ、すべての極光天をすべての極光天と感じれば当然すべての極光天と思い込み、当然「すべての極光天に」と思い込み、当然「すべての極光天で」と思い込み、当然「私のすべての極光天」と思い込み、当然すべての極光天を非常に喜びます。それはなぜでしょうか。それは、すべての極光天を凡夫は知り尽していないからと私は言います。

(10)当然すべての遍浄天をすべての遍浄天と感じ、すべての遍浄天をすべての遍浄天と感じれば当然すべての遍淨天と思い込み、当然「すべての遍浄天に」と思い込み、当然「すべての遍浄天で」と思い込み、当然「私のすべての遍浄天」と思い込み、当然すべての遍浄天を非常に喜びます。それはなぜでしょうか。それは、すべての遍浄天を凡夫は知り尽していないからと私は言います。

(11)当然すべての広果天をすべての広果天と感じ、すべての広果天をすべての広果天と感じれば当然すべての広果天と思い込み、当然「すべての広果天に」と思い込み、当然「すべての広果天で」と思い込み、当然「私のすべての広果天」と思い込み、当然すべての広果天を非常に喜びます。それはなぜでしょうか。それは、すべての広果天を凡夫は知り尽していないからと私は言います。

(12)当然アビブー(勝者)をアビブーと感じ、アビブーをアビブーと感じれば当然アビブーと思い込み、当然「アビブーに」と思い込み、当然「アビブーで」と思い込み、当然「私のアビブー」と思い込み、当然アビブーを非常に喜びます。それはなぜでしょうか。それは、アビブーを凡夫は知り尽していないからと私は言います。

(13)当然空無辺処を空無辺処と感じ、空無辺処を空無辺処と感じれば当然空無辺処と思い込み、当然「空無辺処に」と思い込み、当然「空無辺処で」と思い込み、当然「私の空無辺処」と思い込み、当然空無辺処を非常に喜びます。それはなぜでしょうか。それは、空無辺処を凡夫は知り尽していないからと私は言います。

(14)当然識無辺処を識無辺処と感じ、識無辺処を識無辺処と感じれば当然識無辺処と思い込み、当然「識無辺処に」と思い込み、当然「識無辺処で」と思い込み、当然「私の識無辺処」と思い込み、当然識無辺処を非常に喜びます。それはなぜでしょうか。それは、識無辺処を凡夫は知り尽していないからと私は言います。

(15)当然無所有処を無所有処と感じ、無所有処を無所有処と感じれば当然無所有処と思い込み、当然「無所有処に」と思い込み、当然「無所有処で」と思い込み、当然「私の無所有処」と思い込み、当然無所有処を非常に喜びます。それはなぜでしょうか。それは、無所有処を凡夫は知り尽していないからと私は言います。

(16)当然非想非非想処を非想非非想処と感じ、非想非非想処を非想非非想処と感じれば当然非想非非想処と思い込み、当然「非想非非想処に」と思い込み、当然「非想非非想処で」と思い込み、当然「私の非想非非想処」と思い込み、当然非想非非想処を非常に喜びます。それはなぜでしょうか。それは、非想非非想処を凡夫は知り尽していないからと私は言います。

(17)当然見た形を見た形と感じ、見た形を見た形と感じれば当然見た形と思い込み、当然「見た形に」と思い込み、当然「見た形で」と思い込み、当然「私の見た形」と思い込み、当然見た形を非常に喜びます。それはなぜでしょうか。それは、見た形を凡夫は知り尽していないからと私は言います。

(18)当然聞いた声を聞いた声と感じ、聞いた声を聞いた声と感じれば当然聞いた声と思い込み、当然「聞いた声に」と思い込み、当然「聞いた声で」と思い込み、当然「私の聞いた声」と思い込み、当然聞いた声を非常に喜びます。それはなぜでしょうか。それは、聞いた声を凡夫は知り尽していないからと私は言います。

(19)当然感じたことを感じたことと感じ、感じたことを感じたことと感じれば当然感じたことと思い込み、当然「感じたことに」と思い込み、当然「感じたことで」と思い込み、当然「私の感じたこと」と思い込み、当然感じたことを非常に喜びます。それはなぜでしょうか。それは、感じたことを凡夫は知り尽していないからと私は言います。

(20)当然極めて知った物を極めて知った物と感じ、極めて知った物を極めて知った物と感じれば当然極めて知った物と思い込み、当然「極めて知った物に」と思い込み、当然「極めて知った物で」と思い込み、当然「私の極めて知った物」と思い込み、当然極めて知った物を非常に喜びます。それはなぜでしょうか。それは、極めて知った物を凡夫は知り尽していないからと私は言います。

(21)当然一つの状況を一つの状況と感じ、一つの状況を一つの状況と感じれば当然一つの状況と思い込み、当然「一つの状況に」と思い込み、当然「一つの状況で」と思い込み、当然「私の一つの状況」と思い込み、当然一つの状況を非常に喜びます。それはなぜでしょうか。それは、一つの状況を凡夫は知り尽していないからと私は言います。

(22)当然いろんな状況をいろんな状況と感じ、いろんな状況をいろんな状況と感じれば当然いろんな状況と思い込み、当然「いろんな状況に」と思い込み、当然「いろんな状況で」と思い込み、当然「私のいろんな状況」と思い込み、当然いろんな状況を非常に喜びます。それはなぜでしょうか。それは、いろんな状況を凡夫は知り尽していないからと私は言います。

(23)当然すべての状況をすべての状況と感じ、すべての状況をすべての状況と感じれば当然すべての状況と思い込み、当然「すべての状況に」と思い込み、当然「すべての状況で」と思い込み、当然「私のすべての状況」と思い込み、当然すべての状況を非常に喜びます。それはなぜでしょうか。それは、すべての状況を凡夫は知り尽していないからと私は言います。

(24)当然涅槃を涅槃と感じ、涅槃を涅槃と感じれば当然涅槃と思い込み、当然「涅槃に」と思い込み、当然「涅槃で」と思い込み、当然「私の涅槃」と思い込み、当然涅槃を非常に喜びます。それはなぜでしょうか。それは、涅槃を凡夫は知り尽していないからと私は言います。





有学である人が状態を規定する物


 比丘のみなさん。まだ有学で、まだ自分が到達していない心の望みがあり、それ以上の物がない努力から生じた安全な土地であるダンマを望んでいる比丘は誰でも、その比丘は、

 (1)当然土を土と極めて知り、土を土と極めて知れば当然土と思い込まず、当然「土に」と思い込まず、当然「土で」と思い込まず、当然「私の土」と思い込まず、当然土を非常に喜びません。それはなぜでしょうか。それは、土はその有学の僧が知り尽くすべき物だからと私は言います。

(2)当然水を水と極めて知り、水を水と極めて知れば当然水と思い込まず、当然「水に」と思い込まず、当然「水で」と思い込まず、当然「私の水」と思い込まず、当然水を非常に喜びません。それはなぜでしょうか。それは、水はその有学の僧が知り尽すべき物だからと私は言います。

(3)当然火を火と極めて知り、火を火と極めて知れば当然火と思い込まず、当然「火に」と思い込まず、当然「火で」と思い込まず、当然「私の火」と思い込まず、当然火を非常に喜びません。それはなぜでしょうか。それは、火はその有学の僧が知り尽すべき物だからと私は言います。

(4)当然風を風と極めて知り、風を風と極めて知れば当然風と思い込まず、当然「風に」と思い込まず、当然「風で」と思い込まず、当然「私の風」と思い込まず、当然風を非常に喜びません。それはなぜでしょうか。それは、風はその有学の僧が知り尽すべき物だからと私は言います。

(5)当然すべての動物をすべての動物と極めて知り、すべての動物をすべての動物と極めて知れば、当然すべての動物と思い込まず、当然「すべての動物に」と思い込まず、当然「すべての動物で」と思い込まず、当然「私のすべての動物」と思い込まず、当然すべての動物を非常に喜びません。それはなぜでしょうか。それは、すべての動物はその有学の僧が知り尽すべき物だからと私は言います。

(6)当然すべての天人をすべての天人と極めて知り、すべての天人をすべての天人と極めて知れば当然すべての天人と思い込まず、当然「すべての天人に」と思い込まず、当然「すべての天人で」と思い込まず、当然「私のすべての天人」と思い込まず、当然すべての天人を非常に喜びません。それはなぜでしょうか。それは、すべての天人はその有学の僧が知り尽すべき物だからと私は言います。

(7)当然パジャーバディー(宮女)をパジャーバディーと極めて知り、パジャーバディーをパジャーバディーと極めて知れば当然パジャーバディーと思い込まず、当然「パジャーバディーに」と思い込まず、当然「パジャーバディーで」と思い込まず、当然「私のパジャーバディー」と思い込まず、当然パジャーバディーを非常に喜びません。それはなぜでしょうか。それは、パジャーバディーはその有学の僧が知り尽すべき物だからと私は言います。

(8)当然梵天を梵天と極めて知り、梵天を梵天と極めて知れば当然梵天と思い込まず、当然「梵天に」と思い込まず、当然「梵天で」と思い込まず、当然「私の梵天」と思い込まず、当然梵天を非常に喜びません。それはなぜでしょうか。それは、梵天はその有学の僧が知り尽すべき物だからと私は言います。

(9)当然すべての極光天をすべての極光天と極めて知り、すべての極光天をすべての極光天と極めて知れば当然極光天と思い込まず、当然「すべての極光天に」と思い込まず、当然「すべての極光天で」と思い込まず、当然「私のすべての極光天」と思い込まず、当然すべての極光天を非常に喜びません。それはなぜでしょうか。それは、すべての極光天はその有学の僧が知り尽すべき物だからと私は言います。

(10)当然すべての遍浄天をすべての遍浄天と極めて知り、すべての遍浄天をすべての遍浄天と極めて知れば当然遍淨天と思い込まず、当然「すべての遍浄天に」と思い込まず、当然「すべての遍浄天で」と思い込まず、当然「私のすべての遍浄天」と思い込まず、当然すべての遍浄天を非常に喜びません。それはなぜでしょうか。それは、すべての遍浄天はその有学の僧が知り尽すべき物だからと私は言います。

(11)当然すべての広果天をすべての広果天と極めて知り、すべての広果天をすべての広果天と極めて知れば当然広果天と思い込まず、当然「すべての広果天に」と思い込まず、当然「すべての広果天で」と思い込まず、当然「私のすべての広果天」と思い込まず、当然すべての広果天を非常に喜びません。それはなぜでしょうか。それは、すべての広果天はその有学の僧が知り尽すべき物だからと私は言います。

(12)当然アビブー(勝者)をアビブーと極めて知り、アビブーをアビブーと極めて知れば当然アビブーと思い込まず、当然「アビブーに」と思い込まず、当然「アビブーで」と思い込まず、当然「私のアビブー」と思い込まず、当然アビブーを非常に喜びません。それはなぜでしょうか。それは、アビブーはその有学の僧が知り尽すべき物だからと私は言います。

(13)当然空無辺処を空無辺処と極めて知り、空無辺処を空無辺処と極めて知れば当然思い込まず、当然「空無辺処に」と思い込まず、当然「空無辺処で」と思い込まず、当然「私の空無辺処」と思い込まず、当然空無辺処を非常に喜びません。それはなぜでしょうか。それは、空無辺処はその有学の僧が知り尽すべき物だからと私は言います。

(14)当然識無辺処を識無辺処と極めて知り、識無辺処を識無辺処と極めて知れば当然識無辺処と思い込まず、当然「識無辺処に」と思い込まず、当然「識無辺処で」と思い込まず、当然「私の識無辺処」と思い込まず、当然識無辺処を非常に喜びません。それはなぜでしょうか。それは、識無辺処はその有学の僧が知り尽すべき物だからと私は言います。

(15)当然無所有処を無所有処と極めて知り、無所有処を無所有処と極めて知れば当然無所有処と思い込まず、当然「無所有処に」と思い込まず、当然「無所有処で」と思い込まず、当然「私の無所有処」と思い込まず、当然無所有処を非常に喜びません。それはなぜでしょうか。それは、無所有処はその有学の僧が知り尽すべき物だからと私は言います。

(16)当然非想非非想処を非想非非想処と極めて知り、非想非非想処を非想非非想処と極めて知れば当然非想非非想処と思い込まず、当然「非想非非想処に」と思い込まず、当然「非想非非想処で」と思い込まず、当然「私の非想非非想処」と思い込まず、当然非想非非想処を非常に喜びません。それはなぜでしょうか。それは、非想非非想処はその有学の僧が知り尽すべき物だからと私は言います。

(17)当然見た形を見た形と極めて知り、見た形を見た形と極めて知れば当然見た形と思い込まず、当然「見た形に」と思い込まず、当然「見た形で」と思い込まず、当然「私の見た形」と思い込まず、当然見た形を非常に喜びません。それはなぜでしょうか。それは、見た形はその有学の僧が知り尽すべき物だからと私は言います。

(18)当然聞いた声を聞いた声と極めて知り、聞いた声を聞いた声と極めて知れば当然聞いた声と思い込まず、当然「聞いた声に」と思い込まず、当然「聞いた声で」と思い込まず、当然「私の聞いた声」と思い込まず、当然聞いた声を非常に喜びません。それはなぜでしょうか。それは、聞いた声はその有学の僧が知り尽すべき物だからと私は言います。

(19)当然極めて知ったことを極めて知ったことと極めて知り、極めて知たことを極めて知ったことと極めて知れば当然極めて知ったことと思い込まず、当然「極めて知ったことに」と思い込まず、当然「極めて知たことで」と思い込まず、当然「私の極めて知たこと」と思い込まず、当然極めて知たことを非常に喜びません。それはなぜでしょうか。それは、極めて知たことはその有学の僧が知り尽すべき物だからと私は言います。

(20)当然極めて知ったものを極めて知った物と極めて知り、極めて知った物を極めて知った物と極めて知れば、当然極めて知った物と思い込まず、当然「極めて知った物に」と思い込まず、当然「極めて知った物で」と思い込まず、当然「私の極めて知った物」と思い込まず、当然極めて知った物を非常に喜びません。それはなぜでしょうか。それは、極めて知った物はその有学の僧が知り尽すべき物だからと私は言います。

(21)当然一つの状況を一つの状況と極めて知り、一つの状況を一つの状況と極めて知れば当然一つの状況と思い込まず、当然「一つの状況に」と思い込まず、当然「一つの状況で」と思い込まず、当然「私の一つの状況」と思い込まず、当然一つの状況を非常に喜びません。それはなぜでしょうか。それは、一つの状況はその有学の僧が知り尽すべき物だからと私は言います。

(22)当然いろんな状況をいろんな状況と極めて知り、いろんな状況をいろんな状況と極めて知れば当然いろんな状況と思い込まず、当然「いろんな状況に」と思い込まず、当然「いろんな状況で」と思い込まず、当然「私のいろんな状況」と思い込まず、当然いろんな状況を非常に喜びません。それはなぜでしょうか。それは、いろんな状況はその有学の僧が知り尽すべき物だからと私は言います。

(23)当然すべての状況をすべての状況と極めて知り、すべての状況をすべての状況と極めて知れば当然すべての状況と思い込まず、当然「すべての状況に」と思い込まず、当然「すべての状況で」と思い込まず、当然「私のすべての状況」と思い込まず、当然すべての状況を非常に喜びません。それはなぜでしょうか。それは、すべての状況はその有学の僧が知り尽すべき物だからと私は言います。

(24)当然涅槃を涅槃と極めて知り、涅槃を涅槃と極めて知れば当然涅槃と思い込まず、当然「涅槃に」と思い込まず、当然「涅槃で」と思い込まず、当然「私の涅槃」と思い込まず、当然涅槃を非常に喜びません。それはなぜでしょうか。それは、涅槃はその有学の僧が知り尽すべき物だからと私は言います。





(無学の人が状態を規定するもの)


 比丘のみなさん。阿羅漢であり、終わった漏があり、梵行が終り、しなければならない仕事が終り、下ろした重荷があり、到達した自分の利益があり、有が終わったサンニョージャナがあり、正しく解脱した人である比丘は誰でも、その比丘は、

 (1)当然土を土と知り尽し、土を土と知り尽し、当然土と思い込まず、当然「土に」と思い込まず、当然「土で」と思い込まず、当然「私の土」と思い込まず、当然土を非常に喜びません。それはなぜでしょうか。それは、土はそのキーナーサヴァ(阿羅漢)である僧が知り尽した物だからです。

 そして貪りが終わったことで貪りのある人の消滅が当然そのキーナーアヴァにあり、怒りが終ったことで怒りのある人の消滅が当然そのキーナーサヴァにあり、愚かさが終ったことで愚かさがある人の消滅が当然そのキーナーサヴァにあるからと私は言います。

(2)当然水を水と知り尽し、水を水と知り尽し、当然水と思い込まず、当然「水に」と思い込まず、当然「水で」と思い込まず、当然「私の水」と思い込まず、当然水を非常に喜びません。それはなぜでしょうか。それは、水はそのキーナーサヴァ(阿羅漢)である僧が知り尽した物だからです。

 そして貪りが終わったことでそのキーナーアヴァに貪りのある人の消滅が当然あり、怒りが終ったことで怒りがある人の消滅が当然そのキーナーサヴァにあり、愚かさが終ったことで当然そのキーナーサヴァに愚かさがある人の消滅があるからと私は言います。

(3)当然火を火と知り尽し、火を火と知り尽して、当然火と思い込まず、当然「火に」と思い込まず、当然「火で」と思い込まず、当然「私の火」と思い込まず、当然火を非常に喜びません。それはなぜでしょうか。それは、火はそのキーナーサヴァ(阿羅漢)である僧が知り尽した物だからです。

 そして貪りが終わったことで貪りのある人の消滅が当然そのキーナーアヴァにあり、怒りが終ったことで怒りがある人の消滅が当然そのキーナーサヴァにあり、愚かさが終ったことで愚かさがある人の消滅が当然そのキーナーサヴァにあるからと私は言います。

(4)当然風を風と知り尽し、風を風と知り尽して、当然風と思い込まず、当然「風に」と思い込まず、当然「風で」と思い込まず、当然「私の風」と思い込まず、当然風を非常に喜びません。それはなぜでしょうか。それは、風はそのキーナーサヴァ(阿羅漢)である僧が知り尽した物だからです。

 そして貪りが終わったことでそのキーナーアヴァに貪りのある人の消滅が当然あり、怒りが終ったことで怒りがある人の消滅が当然そのキーナーサヴァにあり、愚かさが終ったことで愚かさがある人の消滅が、当然そのキーナーサヴァにあるからと私は言います。

(5)当然すべての動物をすべての動物と知り尽し、すべての動物をすべての動物と知り尽して、当然すべての動物と思い込まず、当然「すべての動物に」と思い込まず、当然「すべての動物で」と思い込まず、当然「私のすべての動物」と思い込まず、当然すべての動物を非常に喜びません。それはなぜでしょうか。それは、すべての動物はそのキーナーサヴァ(阿羅漢)である僧が知り尽した物だからです。

 そして貪りが終わったことで当然そのキーナーアヴァに貪りのある人の消滅があり、怒りが終ったことで、怒りがある人の消滅が当然そのキーナーサヴァにあり、愚かさが終ったことで愚かさがある人の消滅が当然そのキーナーサヴァにあるからと私は言います。

(6)当然すべての天人をすべての天人と知り尽し、天人を天人と知り尽して、当然天人と思い込まず、当然「天人に」と思い込まず、当然「天人で」と思い込まず、当然「私の天人」と思い込まず、当然天人を非常に喜びません。それはなぜでしょうか。それは、天人はそのキーナーサヴァ(阿羅漢)である僧が知り尽した物だからです。

 そして貪りが終わったことで当然そのキーナーアヴァに貪りのある人の消滅があり、怒りが終ったことで怒りがある人の消滅が当然そのキーナーサヴァにあり、愚かさが終ったことで愚かさがある人の消滅が当然そのキーナーサヴァ(阿羅漢)にあるからと私は言います。

(7)当然パジャーバディー(宮女)をパジャーバディーと知り尽し、パジャーバディーをパジャーバディーと知り尽して、当然パジャーバディーと思い込まず、当然「パジャーバディーに」と思い込まず、当然「パジャーバディーで」と思い込まず、当然「私のパジャーバディー」と思い込まず、当然パジャーバディーを非常に喜びません。それはなぜでしょうか。それは、パジャーバディーはそのキーナーサヴァである僧が知り尽した物だからです。

 そして貪りが終わったことで、当然そのキーナーアヴァに貪りのある人の消滅があり、怒りが終ったことで怒りがある人の消滅が当然そのキーナーサヴァにあり、愚かさが終ったこと、愚かさがある人の消滅が当然そのキーナーサヴァ(阿羅漢)にあるからと私は言います。

(8)当然梵天を梵天と知り尽し、梵天を梵天と知り尽して、当然梵天と思い込まず、当然「梵天に」と思い込まず、当然「梵天で」と思い込まず、当然「私の梵天」と思い込まず、当然梵天を非常に喜びません。それはなぜでしょうか。それは、梵天はそのキーナーサヴァ(阿羅漢)である僧が知り尽した物だからです。

 そして貪りが終わったことで、貪りのある人の消滅が当然そのキーナーアヴァにあり、怒りが終ったことで、怒りがある人の消滅が当然そのキーナーサヴァにあり、愚かさが終ったことで、愚かさがある人の消滅が、当然そのキーナーサヴァにあるからと私は言います。

(9)当然すべての極光天をすべての極光天と知り尽し、極光天を極光天と知り尽して、当然極光天と思い込まず、当然「極光天に」と思い込まず、当然「極光天で」と思い込まず、当然「私の極光天」と思い込まず、当然極光天を非常に喜びません。それはなぜでしょうか。それは、極光天はそのキーナーサヴァである僧が知り尽した物だからです。

 そして貪りが終わったことで、貪りのある人の消滅が当然そのキーナーアヴァにあり、怒りが終ったことで当然そのキーナーサヴァに怒りがある人の消滅があり、愚かさが終ったことで愚かさがある人の消滅が当然そのキーナーサヴァ(阿羅漢)にあるからと私は言います。

(10)当然すべての遍浄天をすべての遍浄天と知り尽し、(以下は土の場合と同文)

(11)当然すべての広果天をすべての広果天と知り尽し、(以下は土の場合と同文)

(12)当然アビブーをアビブーと知り尽し、(以下は土の場合と同文)

(13)当然空無辺処を空無辺処と知り尽し、(以下は土の場合と同文)

(14)当然識無辺処を識無辺処と知り尽し、(以下は土の場合と同文)

(15)当然無所有処を無所有処と知り尽し、(以下は土の場合と同文)

(16)当然非想非非想処を非想非非想処と知り尽し、(以下は土の場合と同文)

(17)当然見た形を見た形と知り尽し、(以下は土の場合と同文)

(18)当然聞いた声を聞いた声と知尽し、(以下は土の場合と同文)

(19)当然極めて知ったことを極めて知ったことと知り尽し(以下は土の場合と同文)

(20)当然極めて知った物を極めて知った物と知り尽し(以下は土の場合と同文)

(21)当然一つの状況を一つの状況と知り尽し、(以下は土の場合と同文)

(22)当然いろんな状況をいろんな状況と知り尽し、(以下は土の場合と同文)

(23)当然すべての状況をすべての状況と知り尽し、(以下は土の場合と同文)


(24)当然涅槃を涅槃と知り尽し、涅槃を涅槃と知り尽せば当然思い込まず、当然「涅槃に」と思い込まず、当然「涅槃で」と思い込まず、当然「私の涅槃」と思い込まず、当然涅槃を非常に喜びません。それはなぜでしょうか。それは、涅槃は如行が知り尽した物だからです。

 比丘のみなさん。「ナンディは苦の根源。有があるから生があり、老死は当然生まれた生き物にある」と、このように(縁起の意味で)極めて知ったのですべての欲が終り、残らず吐き出し、残らす消滅し、払い捨て、すべてを返却したことで如行はアヌッタラサンマーサンボーディ(無上正菩提)を悟った人と呼ばれます。


註: 学習者は、上記のすべては、深い部分に縁起または因果の法則があり、緻密な熟慮をしなければ見えないと観察して見なければなりません。

 最初のものは上記のように凡夫の取の基盤である二十四のダンマです。この経で述べているように涅槃一つを取り上げても、当然すべては、直接縁起のものと言うことができます。涅槃が苦滅を意味すれば縁生の範囲、あるいは縁起の滅側です。編者がこの話をここに引用した意図は、学習者がこのように深く熟慮して見るためで、後で縁起と呼ぶものの深さが見えるようになります。

 この経で縁起の状態について話されているのは、「ナンディは苦の根源。有があるから生がある」と話されている最後の分部で「ナンディ」と話されていても当然無明を意味しています。ナンディは無明から生じ、無明が無ければナンディあるいは取でも当然生じられないからです。そのナンディあるいは取は当然有があるようにし、疑うまでもなく必ず生老死を生じさせます。

 以上の理由で縁起の状態について述べることは、一つの状況だけでも、当然実践の意味の縁起全体について述べることです。だから縁起の状態を最高に知れば、「ナンディは苦の根源」という説明だけでも、この経で述べている二十四のダンマに取が生じるのを、凡夫なりに、有学なりに、阿羅漢らしく、そしてサンマーサンブッダとして阻止することができます。縁起の秘密は形がある物にも形がない物にも、形と名の両方が消滅した物にも、当然すべてのダンマの中に隠れていると良く熟慮して見てください。





縁起を知れば、途端に盲目が消える

カンマーサダンマニガマで
マーガンディヤスッタ
中部マッジマバンナーサ 12巻284頁290項

 マーガンディヤさん。生まれつき目が見えない男は、白や黒や緑や赤や黄色のすべての物が見えず、平らかデコボコしているかも見えず、星や月や太陽を見ることもできません。彼は「旦那。美しくて汚れがなく、清潔で生地の良い白い布が(世の中に)あります」と、目の良い男が言うのを聞いて白い布を探しに行くと、

別の男が「旦那。これが美しくて汚れがなく、清潔で生地の良いあなたのための布です」と、すすけた粗悪な生地の布で騙すと、目が見えない男はその布を受け取って身に着けます。

 その後彼の親族、親戚、相談役、友人が手術に習熟した医者を呼んで来ると、その医者は上の害を排泄する薬、下の害を排泄する薬、噛む薬、嗅ぎ薬を出し、その薬に依存して彼は目が良くなります。目が良くなると同時に、彼は当然煤けた粗悪な生地の布への愛着を捨ててしまうことができ、彼は騙した男にとって敵になり、仇になり、狙う人になります。

 あるいは「ご年配のみなさん。私はこの男に『旦那。これが美しくて汚れがない、あなたのための清潔で生地の良い布です』と、煤けた粗末な生地の布で、長い間騙されました」と言って「恨みで命を奪うべきだ」と考えるかもしれません。

 同じようにマーガンディヤさん。私があなたに「これが病気がないこと、これが涅槃です」とこのようにダンマを説き、あなたが病気がないことを知って涅槃が見えるのは、五取蘊の取への陶酔を捨て、欲情を捨てることができた時です。同時にあなたにダンマの目が生じ、更に「ご年配のみなさん。この不正な心に騙され、形に、受に、想に、行に、識に執着したのは、実に長かったです」という気持ちが生じます。

 私たちの執着が縁で有があり、有が縁で生があり、生が縁で老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが揃って生じます。すべての苦の群れの発生はこのような様相であります。

註: 学習者は、この場合の縁起は「この不正な心に騙される結果、形、受、想、行、識に執着する」という言い方で無明について説いている、と観察して見なければなりません。これらの蘊に執着が生じるには、目や耳などを通して感情が触れて来て、それから無明がその感情に触れ、最後に受、欲、取が生じなければなりません。

 特に受の味への執着は五種類全部、つまり形・受・想・行・識の執着になり、執着(取)になってから最後に有、生になります。これが縁起の流れのすべてです。しかし言葉としては二つ三つの状態しか述べていないので、これを正しく理解できない人は縁起のすべての流れになると感じません。

 取が捨てられれば苦が消滅して明が生じるので、途端に盲目が治ったように感じ、その時の自分の如実正智慧で、すべてのもの、特に縁起の生起型と消滅型を真実のままに知ります。





縁起を知れば、三時世の自分の疑念が消える

祇園精舎で
相応部ニダーナヴァッガ 16巻31頁63項

 比丘のみなさん。この縁起とこれらの縁起のダンマを、聖なる弟子が正しい智慧(如実正智慧)で真実のままに明らかに見ている時はいつでも、その時その聖なる弟子は「遠い昔、私はいたのだろうか。いなかったのだろうか。私は何だったのか。私はどのようだったのか。私は何で、その後何になったのだろう」と、過去に言及するディッティに駈けて行くことはあり得ません。

 その聖なる弟子は「遠い未来、私はいるのだろうか。いないのだろうか。私は何になるのか。私はどのようか。私は何で、その後何になるのだろう」と、未来に言及するディッティに駈けて行くこともあり得ません。

 その聖なる弟子が「私はいるのだろうか。いないのだろうか。私は何なのか。私はどのようか。私は何で、その後何になるのだろうか」と、自分に関わる疑念のある人になることもあり得ません。

 それはなぜでしょうか。比丘のみなさん。この縁起と縁起のダンマは、その聖なる弟子が正しい智慧で真実のままに明らかに見ている物だからです。




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