愚者と智者は縁起に違いがある

祇園精舎で
相応部ニダーナヴァッガ 16巻28頁57項

 比丘のみなさん。包む物である無明があり、欲望も全部揃ってある愚かな人は、このような状態の体が揃います。つまりこの体も外部の名形もあり、このような対のものに依存して、当然触が生じ、六処が生じ、すべての、あるいは一種類だけでも触があれば、愚かな人は幸福と苦を味わいます。

 比丘のみなさん。包む物である無明があり、欲望が全部揃っている智者は、このような状態の体、つまりこの体も外部の物である名形もあります。このように対であるものに依存して、当然触が生じ、六つ全部の処が生じ、すべての、あるいは一種類だけでも触があれば、智者は幸福と苦を味わいます。

 比丘のみなさん。愚かな人と智者は何が相違点であり、何が目的の違いであり、何が二者の間に違いを生じさせるのでしょうか。

 比丘たちが「世尊が根源で、世尊が指導者で、世尊が拠り所です。猊下。正しいことでしょう。お話になったことの意味を、どうぞ明らかになさってください。比丘のみなさんは世尊から聞いて記憶します」とこのように申し上げたので、世尊は比丘たちによく聞くよう忠告して話されました。

 比丘のみなさん。愚かな人が何らかの無明に覆われると、どんな欲望も揃うのでこの体が始まります。その無明は愚かな人は捨てることができない物で、その欲望もまだ捨てることができません。

 それはなぜでしょうか。比丘のみなさん。愚かな人は正しく苦を終わらせるために梵行をしないので、体が崩壊することで体に至る人です。その愚かな人は体に至る人なので当然生・老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みがから脱せません。私は、当然苦から脱せないと言います。

 比丘のみなさん。智者が何らかの無明に覆われると、どんな欲望も揃うのでこの体が始まります。その無明は智者が捨てることができた物であり、その欲望も終わりました。それはなぜでしょうか。

 比丘のみなさん。それは智者は苦を正しく終わらせるために梵行をするからです。だから智者は体が崩壊したので体に至らない人です。その智者は体に至らない人なので当然生・老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みから脱します。私は、当然苦から脱すと言います。 

 比丘のみなさん。これが愚かな人と智者の相違、目的の違い、二者に相違を生じさせる物です。つまり梵行の仕方が違います。





サマナかサマナでないかは縁起を四つの意味で知ること次第

祇園精舎で
相応部ニダーナヴァッガ 16巻17頁38項

 比丘のみなさん。サマナ、あるいはバラモンのどの人たちも、当然老死を知り尽さず、老死が生じる原因を知り尽さず、老死の消滅を知り尽さず、動物を老死の消滅に至らせる実践項目を知り尽さず、

 当然生を知り尽さず、生が生じる原因を知り尽さず、生の消滅を知り尽さず、動物を生の消滅に至らせる実践項目を知り尽さず、

 当然有を知り尽さず、有が生じる原因を知り尽さず、有の消滅を知り尽さず、動物を有の消滅に至らせる実践項目を知り尽さず、

 当然取を知り尽さず、取が生じる原因を知り尽さず、取の消滅を知り尽さず、動物を取の消滅に至らせる実践項目を知り尽さず、

 当然欲望を知り尽さず、欲望が生じる原因を知り尽さず、欲望の消滅を知り尽さず、動物を欲望の消滅に至らせる実践項目を知り尽さず、

 当然受を知り尽さず、受が生じる原因を知り尽さず、受の消滅を知り尽さず、動物を受の消滅に至らせる実践項目を知り尽さず、

 当然触を知り尽さず、触が生じる原因を知り尽さず、触の消滅を知り尽さず、動物を触の消滅に至らせる実践項目を知り尽さず、

 当然六処を知り尽さず、六処が生じる原因を知り尽さず、六処の消滅を知り尽さず、動物を六処の消滅に至らせる実践項目を知り尽さず、

 当然名形を知り尽さず、名形が生じる原因を知り尽さず、名形の消滅を知り尽さず、動物を名形の消滅に至らせる実践項目を知り尽さず、

 当然識を知り尽さず、識が生じる原因を知り尽さず、識の消滅を知り尽さず、動物を識の消滅に至らせる実践項目を知り尽さず、

 当然すべての行を知り尽さず、行が生じる原因を知り尽さず、行の消滅を知り尽さず、動物を行の消滅に至らせる実践項目を知り尽していなければ、

 比丘のみなさん。それらのサマナ、あるいはバラモンはサマナの中のサマナと仮定されるべき人でなく、バラモンの中のバラモンと仮定されるべき人ではありません。更にそれらを知り尽していない人は、サナマであることの利益、バラモンであることの利益を、生きているうちに最高の智慧で明らかにすることはできません。



 サマナあるいはバラモンのどの人たちも、当然老死を知り尽し、老死が生じる原因を知り尽し、老死の消滅を知り尽し、動物を老死の消滅に至らせる実践項目を知り尽し、

 当然生を知り尽し、生が生じる原因を知り尽し、生の消滅を知り尽し、動物を生の消滅に至らせる実践項目を知り尽し、

 当然有を知り尽し、有が生じる原因を知り尽し、有の消滅を知り尽し、動物を有の消滅に至らせる実践項目を知り尽し、

 当然取を知り尽し、取が生じる原因を知り尽し、取の消滅を知り尽し、動物を取の消滅に至らせる実践項目を知り尽し、

 当然欲を知り尽し、欲望が生じる原因を知り尽し、欲望の消滅を知り尽し、動物を欲望の消滅に至らせる実践項目を知り尽し、

 当然受を知り尽し、受が生じる原因を知り尽し、受の消滅を知り尽し、動物を受の消滅に至らせる実践項目を知り尽し、

 当然触を知り尽し、触が生じる原因を知り尽し、触の消滅を知り尽し、動物を触の消滅に至らせる実践項目を知り尽し、

 当然六処を知り尽し、六処が生じる原因を知り尽し、六処の消滅を知り尽し、動物を六処の消滅に至らせる実践項目を知り尽し、

 当然名形を知り尽し、名形が生じる原因を知り尽し、名形の消滅を知り尽し、動物を名形の消滅に至らせる実践項目を知り尽し、

 当然識を知り尽し、識が生じる原因を知り尽し、識の消滅を知り尽し、動物を識の消滅に至らせる実践項目を知り尽し、

 当然すべての行を知り尽し、行が生じる原因を知り尽し、行の消滅を知り尽し、動物を行の消滅に至らせる実践項目を知り尽せば、

 比丘のみなさん。それらのサマナ、あるいはバラモンはサマナの中のサマナと仮定されるべき人、バラモンの中のバラモンと仮定されるべき人です。更にそれらを知り尽している人は、サナマであることの利益、バラモンであることの利益を生きているうちに最高の智慧で明らかにし、そして常にその感覚の中にいることができます。

 註: 他の経:相応部ニダーナヴァッガ 16巻53頁94項では、要旨は上の経と同じですが、言葉を増やしています。

 「老死、老死の原因、老死の消滅」とこのように直言する代わりにダンマという言葉を使われ、「ダンマ、ダンマが生じる原因、ダンマの消滅、ダンマの消滅に至る道」と言われ、その後ダンマと呼ぶものは老死、生、有から識、行と説明され、

「これらのダンマを知らないことがこれらのダンマを生じさせる原因、これらのダンマの消滅がこれらのダンマを消滅させる道、どのダンマを知らないことがどのダンマを生じさせる原因、どのダンマの消滅がどのダンマの消滅に至る道、老死を知らないことが老死を生じさせる原因、老死の消滅が老死の消滅に至る道」とこのように縁起の十一の状態すべて、行まで話されました。

 そしてもう一度ダンマという言葉で「ダンマ、ダンマが生じる原因、ダンマの消滅、ダンマの消滅に至る道を知らなければ」とまとめています。それ以外は初めも終わりも全部上の経と同じです。このようにダンマで説明なさるのは、ダンマと呼ぶものは何もかも一切すべてであると理解させようと望まれているようです。





サマナかサマナでないかは老死を四つの意味で知ること次第

祇園精舎で
相応部ニダーナヴァッガ 16巻158頁306項

 比丘のみなさん。サマナあるいはバラモンのどの人たちも当然老死を知り尽さず、老死が生じる原因を知り尽しません。老死の消滅を知り尽さず、動物を老死の消滅に至らせる実践項目を知り尽さなければ、比丘のみなさん。それらのサマナあるいはバラモンは、サマナの群れ中のサマナと仮定されるべき人でなく、あるいはバラモンの群れの中のバラモンと仮定されるべき人ではありません。

 更にそれらを知り尽していない人は、サナマであることの利益、バラモンであることの利益を、生きているうちに最高の智慧で明らかにすることができません。



 比丘のみなさん。サマナあるいはバラモンのどの人たちも当然老死を知り尽し、老死が生じる原因を知り尽し、老死の消滅を知り尽し、動物を老死の消滅に至らせる実践項目を知り尽せば、比丘のみなさん。それらのサマナあるいはバラモンはサマナの群れの中のサマナ、あるいはバラモンの群れの中のバラモンと仮定されるべき人です。

 更にそれらを知り尽している人は、サナマであることの利益、バラモンであることの利益を、生きているうちに最高の智慧で明らかにし、そして常にその感覚の中にいることができます。





サマナかサマナでないかは、生を四つの意味で知ること次第

祇園精舎で
相応部ニダーナヴァッガ 16巻158頁306項

 比丘のみなさん。サマナあるいはバラモンのどの人たちも当然生を知り尽さず、生が生じる原因を知り尽さず、生の消滅を知り尽さず、動物を生の消滅に至らせる実践項目を知り尽さなければ、比丘のみなさん。それらのサマナあるいはバラモンはサマナの群れ中のサマナ、あるいはバラモンの群れの中のバラモンと仮定されるべき人ではありません。

 更にそれらを知り尽していない人は、サナマであることの利益、バラモンであることの利益を、生きているうちに最高の智慧で明らかにすることができません。



 比丘のみなさん。サマナあるいはバラモンのどの人たちも当然生を知り尽し、生が生じる原因を知り尽し、生の消滅を知り尽し、動物を生の消滅に至らせる実践項目を知り尽せば、比丘のみなさん。それらのサマナ、あるいはバラモンはサマナの群れの中のサマナ、あるいはバラモンの群れの中のバラモンと仮定されるべき人です。

 更にそれらを知り尽している人はサナマであることの利益、バラモンであることの利益を、生きているうちに最高の智慧で明らかにし、そして常にその感覚の中にいることができます。





サマナかサマナでないかは有を四つの意味で知ること次第

祇園精舎で
相応部ニダーナヴァッガ 16巻158頁308項

 比丘のみなさん。サマナ、あるいはバラモンのどの人たちも当然有を知り尽さず、有が生じる原因を知り尽さず、有の消滅を知り尽さず、動物を有の消滅に至らせる実践項目を知り尽さなければ、比丘のみなさん。それらのサマナ、あるいはバラモンはサマナの群れ中のサマナ、あるいはバラモンの群れの中のバラモンと仮定されるべき人ではありません。

 更にそれらを知り尽していない人は、サナマであることの利益、バラモンであることの利益を、生きているうちに最高の智慧で明らかにすることはできません。



 比丘のみなさん。サマナあるいはバラモンのどの人たちも当然有を知り尽し、有が生じる原因を知り尽し、有の消滅を知り尽し、動物を有の消滅に至らせる実践項目を知り尽せば、比丘のみなさん。それらのサマナあるいはバラモンはサマナの群れの中のサマナ、あるいはバラモンの群れの中のバラモンと仮定されるべき人です。

 更にそれらを知り尽している人はサナマであることの利益、バラモンであることの利益を、生きているうちに最高の智慧で明らかにし、そして常にその感覚の中にいることができます。





サマナかサマナでないかは取を四つの意味で知ること次第

祇園精舎で
相応部ニダーナヴァッガ 16巻158頁308項

 比丘のみなさん。サマナあるいはバラモンのどの人たちも、当然取を知り尽さず、取が生じる原因を知り尽さず、取の消滅を知り尽さず、動物を取の消滅に至らせる実践項目を知り尽さなければ、比丘のみなさん。それらのサマナ、あるいはバラモンは、サマナの群れ中のサマナと仮定されるべき人でなく、あるいはバラモンの群れの中のバラモンと仮定されるべき人ではありません。

 更にそれらを知り尽していない人は、サナマであることの利益、バラモンであることの利益を、生きているうちに最高の智慧で明らかにすることができません。



 比丘のみなさん。サマナあるいはバラモンのどの人たちも当然取を知り尽し、取が生じる原因を知り尽し、取の消滅を知り尽し、動物を取の消滅に至らせる実践項目を知り尽せば、比丘のみなさん。それらのサマナ、あるいはバラモンはサマナの群れの中のサマナと仮定されるべき人であり、あるいはバラモンの群れの中のバラモンと仮定されるべき人です。

 更にそれらを知り尽している人はサナマであることの利益、バラモンであることの利益を、生きているうちに最高の智慧で明らかにし、そして常にその感覚の中にいることができます。





サマナかサマナでないかは欲を四つの意味で知ること次第

祇園精舎で
相応部ニダーナヴァッガ 16巻158頁308項

 比丘のみなさん。サマナあるいはバラモンのどの人たちも当然欲望を知り尽さず、欲望が生じる原因を知り尽さず、欲望の消滅を知り尽さず、動物を欲望の消滅に至らせる実践項目を知り尽さなければ、比丘のみなさん。それらのサマナ、あるいはバラモンは、サマナの群れ中のサマナと仮定されるべき人でなく、あるいはバラモンの群れの中のバラモンと仮定されるべき人ではありません。

 更にそれらを知り尽していない人は、サナマであることの利益、バラモンであることの利益を、生きているうちに最高の智慧で明らかにすることができません。



 比丘のみなさん。サマナあるいはバラモンのどの人たちも、当然欲望を知り尽し、欲望が生じる原因を知り尽し、欲望の消滅を知り尽し、動物を欲望の消滅に至らせる実践項目を知り尽せば、比丘のみなさん。それらのサマナ、あるいはバラモンはサマナの群れの中のサマナと仮定されるべき人であり、あるいはバラモンの群れの中のバラモンと仮定されるべき人です。

 更にそれらを知り尽している人は、サナマであることの利益、バラモンであることの利益を生きているうちに最高の智慧で明らかにし、そして常にその感覚の中にいることができます。





サマナかサマナでないかは受を四つの意味で知ること次第

祇園精舎で
相応部ニダーナヴァッガ 16巻158頁308項

 比丘のみなさん。サマナあるいはバラモンのどの人たちも当然受を知り尽さず、受が生じる原因を知り尽さず、受の消滅を知り尽さず、動物を受の消滅に至らせる実践項目を知り尽していなければ、比丘のみなさん。それらのサマナ、あるいはバラモンは、サマナの群れ中のサマナと仮定されるべき人でなく、あるいはバラモンの群れの中のバラモンと仮定されるべき人ではありません。

 更にそれらを知り尽していない人は、サナマであることの利益、バラモンであることの利益を、生きているうちに最高の智慧で明らかにすることができません。



 比丘のみなさん。サマナあるいはバラモンのどの人たちも当然受を知り尽し、受が生じる原因を知り尽し、受の消滅を知り尽し、動物を受の消滅に至らせる実践項目を知り尽せば、比丘のみなさん。それらのサマナ、あるいはバラモンはサマナの群れの中のサマナと仮定されるべき人であり、あるいはバラモンの群れの中のバラモンと仮定されるべき人です。

 更にそれらを知り尽している人は、サナマであることの利益、バラモンであることの利益を、生きているうちに最高の智慧で明らかにし、そして常にその感覚の中にいることができます。





サマナかサマナでないかは触を四つの意味で知ること次第

祇園精舎で
相応部ニダーナヴァッガ 16巻158頁308項

 比丘のみなさん。サマナ、あるいはバラモンのどの人たちも当然触を知り尽さず、触が生じる原因を知り尽さず、触の消滅を知り尽さず、動物を触の消滅に至らせる実践項目を知り尽していなければ、比丘のみなさん。それらのサマナ、あるいはバラモンは、サマナの群れ中のサマナと仮定されるべき人でなく、あるいはバラモンの群れの中のバラモンと仮定されるべき人ではありません。

 更にそれらを知り尽していない人は、サナマであることの利益、バラモンであることの利益を、生きているうちに最高の智慧で明らかにすることができません。



 比丘のみなさん。サマナ、あるいはバラモンのどの人たちも当然触を知り尽し、触が生じる原因を知り尽し、触の消滅を知り尽し、動物を触の消滅に至らせる実践項目を知り尽せば、比丘のみなさん。それらのサマナあるいはバラモンはサマナの群れの中のサマナと仮定されるべき人、あるいはバラモンの群れの中のバラモンと仮定されるべき人です。

 更にそれらを知り尽している人は、サナマであることの利益、バラモンであることの利益を、生きているうちに最高の智慧で明らかにし、そして常にその感覚の中にいることができます。





サマナかサマナでないかは六処を四つの意味で知ること次第

祇園精舎で
相応部ニダーナヴァッガ 16巻158頁308項

 比丘のみなさん。サマナ、あるいはバラモンのどの人たちも当然六処を知り尽さず、六処が生じる原因を知り尽さず、六処の消滅を知り尽さず、生き物を六処の消滅に至らせる実践項目を知り尽していなければ、比丘のみなさん。それらのサマナ、あるいはバラモンは、サマナの群れ中のサマナと仮定されるべき人でなく、あるいはバラモンの群れの中のバラモンと仮定されるべき人ではありません。

 更にそれらを知り尽していない人は、サナマであることの利益、バラモンであることの利益を、生きているうちに最高の智慧で明らかにすることができません。



 比丘のみなさん。サマナ、あるいはバラモンのどの人たちも当然六処を知り尽し、六処が生じる原因を知り尽し、六処の消滅を知り尽し、動物を六処の消滅に至らせる実践項目を知り尽せば、比丘のみなさん。それらのサマナ、あるいはバラモンは、サマナの群れの中のサマナと仮定されるべき人、あるいはバラモンの群れの中のバラモンと仮定されるべき人です。

 更にそれらを知り尽している人は、サナマであることの利益、バラモンであることの利益を生きているうちに最高の智慧で明らかにし、そして常にその感覚の中にいることができます。





サマナかサマナでないかは名形を四つの意味で知ること次第

祇園精舎で
相応部ニダーナヴァッガ 16巻158頁308項

 比丘のみなさん。サマナ、あるいはバラモンのどの人たちも当然名形を知り尽さず、名形が生じる原因を知り尽さず、名形の消滅を知り尽さず、動物を名形の消滅に至らせる実践項目を知り尽していなければ、比丘のみなさん。それらのサマナあるいはバラモンはサマナの群れ中のサマナと仮定されるべき人でなく、あるいはバラモンの群れの中のバラモンと仮定されるべき人ではありません。

 更にそれらを知り尽していない人は、サナマであることの利益、バラモンであることの利益を生きているうちに最高の智慧で明らかにすることができません。



 比丘のみなさん。サマナあるいはバラモンのどの人たちも当然名形を知り尽し、名形が生じる原因を知り尽し、名形の消滅を知り尽し、動物を名形の消滅に至らせる実践項目を知り尽せば、比丘のみなさん。それらのサマナ、あるいはバラモンは、サマナの群れの中のサマナと仮定されるべき人であり、あるいはバラモンの群れの中のバラモンと仮定されるべき人です。

 更にそれらを知り尽している人は、サナマであることの利益、バラモンであることの利益を生きているうちに最高の智慧で明らかにし、そして常にその感覚の中にいることができます。





サマナかサマナでないかは識を四つの意味で知ること次第

祇園精舎で
相応部ニダーナヴァッガ 16巻158頁308項

 比丘のみなさん。サマナ、あるいはバラモンのどの人たちも当然識を知り尽さず、識が生じる原因を知り尽さず、識の消滅を知り尽さず、動物を識の消滅に至らせる実践項目を知り尽していなければ、比丘のみなさん。それらのサマナ、あるいはバラモンは、サマナの群れ中のサマナと仮定されるべき人でなく、あるいはバラモンの群れの中のバラモンと仮定されるべき人ではありません。

 更にそれらを知り尽していない人は、サナマであることの利益、バラモンであることの利益を生きているうちに最高の智慧で明らかにすることができません。

※  比丘のみなさん。サマナあるいはバラモンのどの人たちも当然識を知り尽し、識が生じる原因を知り尽し、識の消滅を知り尽し、動物を識の消滅に至らせる実践項目を知り尽せば、比丘のみなさん。それらのサマナ、あるいはバラモンは、サマナの群れの中のサマナと仮定されるべき人、あるいはバラモンの群れの中のバラモンと仮定されるべき人です。

 更にそれらを知り尽している人は、サナマであることの利益、バラモンであることの利益を生きているうちに最高の智慧で明らかにし、そして常にその感覚の中にいることができます。





サマナかサマナでないかは行を四つの意味で知ること次第

祇園精舎で
相応部ニダーナヴァッガ 16巻158頁308項

 比丘のみなさん。サマナ、あるいはバラモンのどの人たちも当然すべての行を知り尽さず、行が生じる原因を知り尽さず、行の消滅を知り尽さず、生き物を行の消滅に至らせる実践項目を知り尽していなければ、比丘のみなさん。それらのサマナ、あるいはバラモンはサマナの群れ中のサマナと仮定されるべき人でなく、あるいはバラモンの群れの中のバラモンと仮定されるべき人ではありません。

 更にそれらを知り尽していない人は、サナマであることの利益、バラモンであることの利益を生きているうちに最高の智慧で明らかにすることができません。



 比丘のみなさん。サマナあるいはバラモンのどの人たちも当然すべての行を知り尽し、行が生じる原因を知り尽し、行の消滅を知り尽し、動物を行の消滅に至らせる実践項目を知り尽せば、比丘のみなさん。それらのサマナ、あるいはバラモンはサマナの群れの中のサマナと仮定されるべき人、あるいはバラモンの群れの中のバラモンと仮定されるべき人です。

 更にそれらを知り尽している人は、サナマであることの利益、バラモンであることの利益を生きているうちに最高の智慧で明らかにし、そして常にその感覚の中にいることができます。





縁起の基盤を管理すれば幸福が生じる

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻88頁129項

 比丘のみなさん。六触処は人が訓練し、管理し、維持し、注意深くすれば、当然幸福をもたらす物です。比丘のみなさん。六触処はどのようでしょうか。六つとは、

 目である触処は人が訓練し、管理し、維持し、注意すれば、当然最高に幸福をもたらす物です。

 耳である触処は人が訓練し、管理し、維持し、注意すれば、当然最高に幸福をもたらす物です。

 鼻である触処は人が訓練し、管理し、維持し、注意すれば、当然最高に幸福をもたらす物です。

 舌である触処は人が訓練し、管理し、維持し、注意すれば、当然最高に幸福をもたらす物です。

 体である触処は人が訓練し、管理し、維持し、注意すれば、当然最高に幸福をもたらす物です。

 心である触処は人が訓練し、管理し、維持し、注意すれば、当然最高に幸福をもたらす物です。

 比丘のみなさん。六触処は人が訓練し、管理し、維持し、注意すれば、当然最高に幸福をもたら物です。

註: 学習者は、これらの六触処は「目と形に依存して眼識が生じ、三つのダンマの会合が触です。触が縁で受が生じ、云々」とパーリ(ブッダの言葉)にあるように、縁起の実践の基礎あるいは糸口であると観察して見なければなりません。六触処を管理することは縁起が生じるのを管理することなので、幸福になります。




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