第七章 縁起を知らないことの害





     因果の法則:縁起の要旨

  これがあれば、これが当然ある。

  これが生じたから、これが生じた。


  これが無ければ、これは当然無い。

  これが消滅したから、これが消滅する。

中部マッジマバンナーサ 13巻355頁371項
相応部ニダーナヴァッガ 16巻84頁154項







縁起が見えないから、動物の心は結び目のように混乱する

カンマーサダンマニガマで
相応部ニダーナヴァッガ 16巻111頁225項

 プラアーナンダが「不可思議です、猊下。今までにありません、猊下。この縁起を、彼らは深いダンマであり、深いダンマの状態がありますが、猊下には浅いダンマのように現れていると、評判です」と世尊に申し上げました。

 アーナンダ。そのように言ってはいけません。アーナンダ。そのように言わないでください。この縁起は深くもあり、深いダンマの状態もあります。

 アーナンダ。このダンマ、つまり縁起を知らないから、段階的に知らないから、洞察できないから、動物群(の心)は糸の固まりのように、結び目で固くなった糸の固まりのように絡み合い、ムンチャ草パッバチャ草のように混乱して、当然破滅や悪趣、破滅である輪廻から脱せません。

 アーナンダ。比丘が平素から取の基盤である(註1)すべてのダンマをアッサーダ(可愛い、喜ばしい)と見れば、当然すべてに欲望が成長します。欲望が縁で取があり、取が縁で有があり、有が縁で生があり、生が縁で老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが生じます。苦の山のすべての発生は、当然このようにあります。

 アーナンダ。大木は四方に広がった根が下に伸びていて、それらの根は、すべて養分を上に運ぶのと同じです。アーナンダ。そのようなら、そのような状態の大木は、涵養する物があるので永年存在できるように、アーナンダ。比丘が取の基盤であるすべてのダンマを平素から美味と見ていれば当然名形があり、名形が縁で六処があり、

六処が縁で触があり、触が縁で受があり、受が縁で欲望があり、欲望が縁で取があり、取が縁で有があり、有が縁で生があり、生が縁で老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みがあります。苦の山の発生は、当然このようにあります。



 アーナンダ。比丘が平素から取の基盤であるすべてのダンマをアーディナヴァ(下劣な害)と見ていれば、当然欲望は消滅します。欲望が消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが消滅します。苦の山のすべての消滅は、当然このようにあります。

 アーナンダ。大木があり、人が斧と籠を持ってその木を根元から切り、根元を切ったら掘り、掘ったらすべての根をカヤの茎ほどの根も砕き、そして木を大小の丸太にし、大小の丸太にしたら割り、割ったら木端にし、木端にしたら風や日に曝して乾かし、風や日に曝して乾かしたら当然火で燃やし、燃やしたら灰にし、灰にしたら当然強風に撒くか急流に流すようなものです。

 アーナンダ。このような行動でその大木は、先端を切られた砂糖ヤシの木のように根のない木になり、生きられない状態、二度と伸びられない状態に達します。

 アーナンダ。同じよう、比丘が取の基盤であるすべてのダンマを、日頃からアーディナヴァ(下劣な害)と見ていれば、当然欲望が消滅し、欲望が消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みがすべて消滅します。苦の山の消滅は、当然このようにしてあります。

註1: 取の基盤であるダンマとは、形・受・想・行・識(相応部 17巻202頁309項)、目・耳・鼻・舌・体・心(相応部 18巻110頁160項)、形・声・香・味・触・考え(相応部 18巻136頁190項)。





縁起を四聖諦の形で知らない人は縁起を越えることはできない

祇園精舎で
相応部ニダーナヴァッガ 16巻54頁96項

 比丘のみなさん。当然老死を知り尽してなく、老死が生じる原因を知り尽してなく、老死の消滅を知り尽してなく、動物を老死の消滅に至らしめる実践項目を知り尽していないサマナ、あるいはバラモンは誰でも、それらのサマナ、あるいはバラモンは老死を越え、そしてそのように維持することはできません。

 比丘のみなさん。当然生を知り尽してなく、生が生じる原因を知り尽してなく、生の消滅を知り尽してなく、動物を生の消滅に至らしめる実践項目を知り尽していないサマナ、あるいはバラモンは誰でも、それらのサマナ、あるいはバラモンは生を越え、そしてそのように維持することはできません。

 比丘のみなさん。当然有を知り尽してなく、有が生じる原因を知り尽してなく、有の消滅を知り尽してなく、動物を有の消滅に至らしめる実践項目を知り尽していないサマナ、あるいはバラモンは誰でも、それらのサマナ、あるいはバラモンは有を越え、そしてそのように維持することはできません。

 比丘のみなさん。当然取を知り尽してなく、取が生じる原因を知り尽してなく、取の消滅を知り尽してなく、動物を取の消滅に至らしめる実践項目を知り尽していないサマナ、あるいはバラモンは誰でも、それらのサマナ、あるいはバラモンは取を越え、そしてそのように維持することはできません。

 比丘のみなさん。当然欲望を知り尽してなく、欲望が生じる原因を知り尽してなく、欲望の消滅を知り尽してなく、動物を欲望の消滅に至らしめる実践項目を知り尽していないサマナ、あるいはバラモンは誰でも、それらのサマナ、あるいはバラモンは欲望を越え、そしてそのように維持することはできません。

 比丘のみなさん。当然受を知り尽してなく、受が生じる原因を知り尽してなく、受の消滅を知り尽してなく、動物を受の消滅に至らしめる実践項目を知り尽していないサマナ、あるいはバラモンは誰でも、それらのサマナあるいはバラモンは受を越え、そしてそのように維持することはできません。

 比丘のみなさん。当然触を知り尽してなく、触が生じる原因を知り尽してなく、触の消滅を知り尽してなく、動物を触の消滅に至らしめる実践項目を知り尽してなくサマナ、あるいはバラモンは誰でも、それらのサマナ、あるいはバラモンは触を越え、そしてそのように維持することはできません。

 比丘のみなさん。当然六処を知り尽してなく、六処が生じる原因を知り尽してなく、六処の消滅を知り尽してなく、動物を六処の消滅に至らしめる実践項目を知り尽していないサマナ、あるいはバラモンは誰でも、それらのサマナ、あるいはバラモンは六処を越え、そしてそのように維持することはできません。

 比丘のみなさん。当然名形を知り尽してなく、名形が生じる原因を知り尽してなく、名形の消滅を知り尽してなく、動物を名形の消滅に至らしめる実践項目を知り尽していないサマナ、あるいはバラモンは誰でも、それらのサマナ、あるいはバラモンは名形を越え、そしてそのように維持することはできません。

 比丘のみなさん。当然識を知り尽してなく、識が生じる原因を知り尽してなく、識の消滅を知り尽してなく、動物を識の消滅に至らしめる実践項目を知り尽していないサマナ、あるいはバラモンは誰でも、それらのサマナ、あるいはバラモンは、識を越えそしてそのように維持することはできません

 比丘のみなさん。当然すべての行を知り尽してなく、行が生じる原因を知り尽してなく、行の消滅を知り尽してなく、動物を行の消滅に至らしめる実践項目を知り尽していないサマナ、あるいはバラモンは誰でも、それらのサマナ、あるいはバラモンは行を越え、そしてそのように維持することはできません。





縁起を理解できない人は、体に執着する方が良い

祇園精舎で
相応部ニダーナヴァッガ 16巻114頁230項

 比丘のみなさん。聞いたことがない凡夫が四大種の集合物であるこの体に倦怠することも、欲情が緩むことも手放すこともあります。それはなぜでしょうか。比丘のみなさん。それはこの四大種の集まりである体が作られることも、崩壊も占領も、亡骸を捨てることも当然現れているからです。だから聞いたことがない凡夫がその体に倦怠することも、欲情が緩むことも手放すこともあります。

 比丘のみなさん。一方「心」でも「意」でも「識」と呼ぶ物でも、聞いたことがない凡夫がそれに飽きること、欲情が緩むこと、手放すことはありません。それはなぜでしょうか。比丘のみなさん。心などと呼ぶ物は、聞いたことがない凡夫は欲望に至り、長い間「それは自分の物。それは自分。それは自分自身」という見解で執着するからです。だから聞いてない凡夫は心などと呼ぶものに倦怠すること、欲情が緩むこと、手放すことができません。

 比丘のみなさん。聞いたことがない凡夫は(執着するなら)四大種の集まりであるこの体を、自分と執着する方が良いです。心を自分と執着するのは良くありません。なぜでしょうか。比丘のみなさん。四大種の集まりである体は、一年、二年、三年、四年、五年、十年、二十年、三十年、四十年、五十年、百年、百年以上現れていることもあります。比丘のみなさん。一方「心」「意」「識」と呼ぶ物は、一日中、一晩中、別の心が生じて、別の心が消滅します。

 比丘のみなさん。猿が大きな森へ遊びに行くと当然木の枝を掴んで、その木の枝を放して他の枝を掴み、前に掴んでいた枝を放して次の枝を掴み、このように次々に枝を引き寄せて行くように、比丘のみなさん。心とか意とか識とか呼ぶ物は、一つの心が生じ、一つの心が消滅し、一日中生滅を繰り返しています。

 比丘のみなさん。聞いた聖なる弟子は「このような状態でこれがある時はこれがある。これが生じたからこれが生じた。これがないからこれがない。これが消滅したからこれが消滅する。これはつまり、無明が縁ですべての行があり、行が縁で識が生じ、識が縁で名形が生じ、名形が縁で触が生じ、触が縁で受が生じ、受が縁で取が生じ、

取が縁で欲望が生じ、欲望が縁で有が生じ、有が縁で生が生じ、生が縁で老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが生じる。苦の山のすべての発生は、当然このようにある。

 無明が消滅することですべての行が消滅し、行が消滅することで識が消滅し、識が消滅することで名形が消滅し、名形が消滅することで触が消滅し、触が消滅することで受が消滅し、受が消滅することで取が消滅し、取が消滅することで欲望が消滅し、欲望が消滅することで有が消滅し、

有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが消滅する。苦の山のすべての消滅は、当然このようにある」とこのように縁起で心の中を絶妙にします。

 比丘のみなさん。聞いてこのように見ている聖なる弟子は、当然形に倦怠し、当然受にも倦怠し、当然想に倦怠し、当然すべての行に倦怠し、当然識に倦怠します。

 倦怠すれば当然欲情が緩み、欲情が緩めば当然解脱し、解脱すれば当然解脱したと知るニャーナ(知ること。智)が生じ、その聖なる弟子は当然「生は終わった。梵行をするのは終わった。するべき仕事は成功した。このようになるためにしなければならないことは他にない」と明らかに知ります。





見と、五取蘊に執着して見に至ること

祇園精舎で
相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻221頁348項

1.我見・我所有見

 比丘のみなさん。何があるから、何に執着するから、何に心を埋めるから、人は「それは自分の物、それは自分、それは自分自身」と見るのでしょうか。

 すべての比丘たちが「猊下。私たちのすべてのダンマは世尊が根源で、世尊が指導者で、世尊が拠り所です。猊下。正しくはないですか。お話になったことの意味を、どうぞ明らかになさってください。比丘のみなさんが世尊から聞いて記憶します」とこのように申し上げたので、世尊は比丘たちによく聞くよう忠告して話されました。

 比丘のみなさん。形があれば形に執着して形に心を埋めるので、人は「それは自分のもの、それは自分、それは自分自身」と見ます。比丘のみなさん。みなさんこれをどう思いますか。形は不変ですか、不変でないですか。

 「不変ではありません、猊下」。

 不変でないものは幸福ですか、苦ですか。

 「苦です、猊下」。

 不変でなく、苦であり当たり前に変化する物でも、それに執着しなければその人は「それは自分の物、それは自分、それは自分自身」と見ますか。

 「いいえ、見ません。猊下」。

 (受・想・行・識に執着する場合も、形の場合と同じように話されています)。

 比丘のみなさん。聞いてこのように見る聖なる弟子は、当然形、受、想、行、識に倦怠します。倦怠すれば当然欲情が緩み、欲情が緩めば当然解脱します。解脱すれば当然解脱したと知るニャーナ(知ること。智)が生じます。その聖なる弟子は当然「生は終わった。梵行をするのは終わった。するべき仕事は成功した。このようになるためにしなければならないことは他にない」と明らかに知ります。

2.常見(普通)

 比丘のみなさん。何があるから、何に執着するから、何に心を埋めるから「自分と世界は同じ。自分を捨てれば不変で、永遠に変らない人になる」というようなディッティ(見解。この場合は邪見のこと)が生まれるでしょうか。

 すべての比丘たちが「スガタ様。私たちのすべてのダンマは、世尊が根源で、世尊が指導者で、世尊が拠り所です。スガタ様。正しいことでしょう。お話になったことの意味を、どうぞ明らかになさってください。比丘のみなさんは世尊から聞いて記憶します」とこのように申し上げたので、世尊は比丘たちによく聞くよう忠告して話されました。

 比丘のみなさん。形があれば形に執着するので、形に心を埋めるので、人は「自分と世界は同じ。自分を捨てれば不変で、永遠で、変らない人になる」という見解が生まれます。比丘のみなさん。みなさんこれをどう思いますか。形は不変ですか、不変でないですか。

 「不変ではありません、猊下」。

 不変でない物は幸福ですか、苦ですか。

 「苦です、猊下」。

 不変でなく苦であり当たり前に変化する物でも、それに執着しなければその人に「自分と世界は同じ。自分を捨てれば不変で、永遠で、変らない人になる」という見解が生じますか。

 「いいえ、生じません。猊下」。

 (受・想・行・識の場合も、形の場合と同じように話されています)。

 比丘のみなさん。聞いてこのように見る聖なる弟子は、当然形にも、受にも、想にも、行にも、識にも倦怠します。倦怠すれば当然欲情が緩み、欲情が緩めば当然解脱し、解脱をすれば当然解脱したと知るニャーナ(知ること。智)が生じます。その聖なる弟子は、当然「生は終わった。梵行をするのは終わった。するべき仕事は成功した。このようになるためにしなければならないことは他にない」と明らかに知ります。

3.断見(普通)

 比丘のみなさん。何があるから、何に執着するから、何に心を埋めるから「自分はいるべきでない。自分の物もあるべきでない。自分はない。自分の物もない」と、このようなディッティ(見解。邪見)が生まれるのでしょうか。

 すべての比丘たちが「猊下。私たちのすべてのダンマは、世尊が根源で、世尊が指導者で、世尊が拠り所です。猊下。正しくはないですか。お話になったことの意味を、どうぞ明らかになさってください。比丘のみなさんは世尊から聞いて記憶します」とこのように申し上げたので、世尊は比丘たちによく聞くよう忠告して話されました。

 比丘のみなさん。形があれば形に執着するので、形に心を埋めるので、人は「自分はいるべきでない。自分の物もあるべきでない。自分はない。自分の物もない」という見解が生まれます。比丘のみなさん。みなさんこれをどう思いますか。形は不変ですか、不変でないですか。

 「不変ではありません、猊下」。

 不変でない物は幸福ですか、苦ですか。

 「苦です、猊下」。

 不変でなく苦であり、当たり前に変化する物でも、それに執着しなければその人に「自分はいるべきでない。自分の物もあるべきでない。自分はない。自分の物もない」という見解が生じますか。

 「いいえ、生じません。猊下」。

 (受・想・行・識の場合も、形の場合と同じように話されています)。

 比丘のみなさん。聞いてこのように見る聖なる弟子は当然形にも、受にも、想にも、行にも、識にも倦怠します。倦怠すれば当然欲情が緩み、欲情が緩めば当然解脱し、解脱をすれば当然解脱したと知るニャーナ(知ること。智)が生じます。その聖なる弟子は、当然「生は終わった。梵行をするのは終わった。するべき仕事は成功した。このようになるためにしなければならないことは他にない」と明らかに知ります。


4.誤った見解(普通)

 比丘のみなさん。何があるから、何に執着するから、何に心を埋めるから、誤った見解が生まれるのでしょうか。

 すべての比丘たちが「猊下。私たちのすべてのダンマは、世尊が根源で、世尊が指導者で、世尊が拠り所です。スガタ様。正しくはないですか。お話になったことの意味を、どうぞ明らかになさってください。比丘のみなさんは世尊から聞いて記憶します」とこのように申し上げたので、世尊は比丘たちによく聞くよう忠告して話されました。

 比丘のみなさん。形があれば形に執着するので、形に心を埋めるので、人に誤った見解が生まれます。比丘のみなさん。みなさんこれをどう思いますか。形は不変ですか、不変でないですか。

 「不変ではありません、猊下」。

 不変でない物は幸福ですか、苦ですか。

 「苦です、猊下」。

 不変でなく苦であり、当たり前に変化する物でも、それに執着しなければ、その人に誤った見解が生じますか。

「いいえ、生じません。猊下」。

 (受・想・行・識の場合も、形の場合と同じように話されています)。

 比丘のみなさん。聞いてこのように見る聖なる弟子は当然形にも、受にも、想にも、行にも、識にも倦怠し、倦怠すれば当然欲情が緩み、欲情が緩めば当然解脱し、解脱をすれば当然解脱したと知るニャーナが生じます。その聖なる弟子は、当然「生は終わった。梵行をするのは終わった。するべき仕事は成功した。このようになるためにしなければならないことは他にない」と明らかに知ります。


5.有身見

 比丘のみなさん。何があるから、何に執着するから、何に心を埋めるから、有身見が生まれるのでしょうか。

 すべての比丘たちが「猊下。私たちのすべてのダンマは、世尊が根源で、世尊が指導者で、世尊が拠り所です。猊下。正しいことでないですか。お話になったことの意味を、どうぞ明らかになさってください。比丘のみなさんは世尊から聞いて記憶します」とこのように申し上げたので、世尊は比丘たちによく聞くよう忠告して話されました。

 比丘のみなさん。形があれば形に執着するので、形に心を埋めるので、有身見が生まれます。

 比丘のみなさん。みなさんこれをどう思いますか。形は不変ですか、不変でないですか。

 「不変ではありません、猊下」。

 不変でない物は幸福ですか、苦ですか。

 「苦です、猊下」。

 不変でなく苦であり、当たり前に変化する物でも、それに執着しなければ、その人に有身見が生じますか。

 「いいえ、生じません。猊下」。

 (受・想・行・識の場合も、形の場合と同じように話されています)。

 比丘のみなさん。聞いてこのように見る聖なる弟子は当然形にも、受にも、想にも、行にも、識にも倦怠します。倦怠すれば当然欲情が緩み、欲情が緩めば当然解脱し、解脱をすれば当然解脱したと知るニャーナが生じます。

 その聖なる弟子は、当然「生は終わった。梵行をするのは終わった。するべき仕事は成功した。このようになるためにしなければならないことは他にない」と明らかに知ります。


6.我見

 比丘のみなさん。何があるから、何に執着するから、何に心を埋めるから、我見が生まれるでしょうか。

 すべての比丘たちが「猊下。私たちのすべてのダンマは世尊が根源で、世尊が指導者で、世尊が拠り所です。猊下。正しくはないですか。お話になったことの意味を、どうぞ明らかになさってください。比丘のみなさんが世尊から聞いて記憶します」とこのように申し上げたので、世尊は比丘たちによく聞くよう忠告して話されました。

 比丘のみなさん。形があれば形に執着するから、形に心を埋めるから我見が生まれます。

 比丘のみなさん。みなさんこれをどう思いますか。形は不変ですか、不変でないですか。

 「不変ではありません、猊下」。

 不変でない物は幸福ですか、苦ですか。

 「苦です、猊下」。

 不変でなく苦であり、当たり前に変化する物でも、それに執着しなければ、我見が生じますか。

 「いいえ、生じません。猊下」。

 (受・想・行・識の場合も、形の場合と同じように話されています)。

 比丘のみなさん。聞いてこのように見る聖なる弟子は当然形にも、受にも、想にも、行にも、識にも倦怠します。倦怠すれば当然欲情が緩み、欲情が緩めば当然解脱し、解脱をすれば当然解脱したと知るニャーナが生じます。その聖なる弟子は、当然「生は終わった。梵行をするのは終わった。するべき仕事は成功した。このようになるためにしなければならないことは他にない」と明らかに知ります。


7.サンニョージャナービニヴェーサヴィニバンダ

 比丘のみなさん。何があるから、何に執着するから、何に心を埋めるから、結とアビニヴェーサ(煩悩と見解で感情に執着すること)が生まれるのでしょうか。

 すべての比丘たちが「猊下。私たちのすべてのダンマは世尊が根源で、世尊が指導者で、世尊が拠り所です。猊下。正しくはないですか。お話になったことの意味を、どうぞ明らかになさってください。比丘のみなさんが世尊から聞いて記憶します」とこのように申し上げたので、世尊は比丘たちによく聞くよう忠告して話されました。

 比丘のみなさん。形があれば形に執着するので、形に心を埋めるので、結とアビニヴェーサ(執着)が生まれます。比丘のみなさん。みなさんこれをどう思いますか。形は不変ですか、不変でないですか。

 「不変ではありません、猊下」。

 不変でない物は幸福ですか、苦ですか。

 「苦です、猊下」。

 不変でなく苦であり、当たり前に変化する物でも、それに執着しなければ、結とアビニヴェーサ(執着)が生じますか。

 「いいえ、生じません。猊下」。

 (受・想・行・識の場合も、形の場合と同じように話されています)。

 比丘のみなさん。聞いてこのように見る聖なる弟子は当然形にも、受にも、想にも、行にも、識にも倦怠します。倦怠すれば当然欲情が緩み、欲情が緩めば当然解脱し、解脱をすれば当然解脱したと知るニャーナ(知ること。智)が生じます。

 その聖なる弟子は、当然「生は終わった。梵行をするのは終わった。するべき仕事は成功した。このようになるためにしなければならないことは他にない」と明らかに知ります。


8.サンニョージャナビニヴェーサヴィニバンダーチャナサーナ

 比丘のみなさん。何があるから、何に執着するから、何に心を埋めるから、結とアビニヴェーサによる執着に至ることが生まれるのでしょうか。

 すべての比丘たちが「猊下。私たちのすべてのダンマは世尊が根源で、世尊が指導者で、世尊が拠り所です。猊下。正しくはないですか。お話になったことの意味を、どうぞ明らかになさってください。比丘のみなさんは世尊から聞いて記憶します」とこのように申し上げると、世尊は比丘たちによく聞くよう忠告して話されました。

 比丘のみなさん。形があれば形に執着するから、形に心を埋めるから、結とアビニヴェーサによる執着に至ることが生まれます。比丘のみなさん。みなさんこれをどう思いますか。形は不変ですか、不変でないですか。

 「不変ではありません、猊下」。

 不変でない物は幸福ですか、苦ですか。

 「苦です、猊下」。

 不変でなく苦であり、当たり前に変化する物でも、それに執着しなければ、結とアビニヴェーサによる執着に至ることがありますか。

 「いいえ、ありません。猊下」。

 (受・想・行・識の場合も、形の場合と同じように話されています)。

 比丘のみなさん。聞いてこのように見る聖なる弟子は、当然形にも、受にも、想にも、行にも、識にも倦怠します。倦怠すれば当然欲情が緩み、欲情が緩めば当然解脱し、解脱をすれば当然解脱したと知るニャーナが生じます。その聖なる弟子は、当然「生は終わった。梵行をするのは終わった。するべき仕事は成功した。このようになるためにしなければならないことは他にない」と明らかに知ります。

註: 学習者は、何らかの触や受が先に生じるので、見方、あるいはその人の心に生じるにふさわしいそれぞれのディッティが生じ、五取蘊に言及することで執着の基盤であるすべての種類の見が生じ、各種のディッティとまとめることができると観察して見なければなりません。これも全部隠れている縁起の状態ですが、そのディッティに完全に隠されているので、それぞれのディッティは当然縁生つまり縁起を隠すと見なします。





縁起の基盤を管理しないから苦が生じる

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻88頁128項

 比丘のみなさん。この六つの触処は人が訓練しなければ、管理しなければ、維持しなければ、注意しなければ、当然著しい苦をもたらす物です。比丘のみなさん。六触処はどのようでしょうか。六つとは、

 目である触処は人が訓練しなければ、管理しなければ、維持しなければ、注意しなければ、当然最高に苦をもたらす物です。

 耳である触処は人が訓練しなければ、管理しなければ、維持しなければ、注意しなければ、当然最高に苦をもたらす物です。

 鼻である触処は人が訓練しなければ、管理しなければ、維持しなければ、注意しなければ、当然最高に苦をもたらす物です。

 舌である触処は人が訓練しなければ、管理しなければ、維持しなければ、注意しなければ、当然最高に苦をもたらす物です。

 体である触処は、人が訓練しなければ、管理しなければ、維持しなければ、注意しなければ、当然最高に苦をもたらす物です。

 心である触処は人が訓練しなければ、管理しなければ、維持しなければ、注意しなければ、当然最高に苦をもたらす物です。

 比丘のみなさん。この六触処は人が訓練しなければ、管理しなければ、維持しなければ、注意しなければ、当然最高に苦をもたらす物です。

 註: 学習者は、六触処は「目と形に依存して眼識が生じ、三つのダンマの会合が触で、触が縁で受が生じ、云々」とパーリにあるように、縁起の実践面での根源、あるいは糸口であると観察して見なければなりません。

 六触処を管理しないことは縁起が生じるのを管理しないことなので、苦が生じます。




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