預流になるための四十四の縁起のニャーナヴァットゥ

祇園精舎で
相応部16巻67頁118項

 比丘のみなさん。みなさんに四十四のニャーナヴァットゥ(註)について説明します。みなさんそれを聞いて、心の中を役立つようになさい。今から話します。

 註:ニャーナヴァットゥとは、ニャーナ(知ること。智)を熟慮して規定する物。何でも熟慮して規定する物をニャーナヴァットゥと言い、この場合は、十一ある縁起の状況の四つの状況を意味するので、全部で四十四です。

 比丘のみなさん。四十四のニャーナヴァットゥ(ニャーナを認識する物)はどのようでしょうか。四十四種類とは、

(1) ①老死の知識であるニャーナ、②老死が生じる原因の知識であるニャーナ、③老死の消滅の知識であるニャーナ、④動物を老死の消滅に至らせる実践項目の知識であるニャーナ。

(2) ①生の知識であるニャーナ、②生が生じる原因の知識であるニャーナ、③生の消滅の知識であるニャーナ、④動物を生の消滅に至らせる実践項目の知識であるニャーナ。

(3) ①有の知識であるニャーナ、②有が生じる原因の知識であるニャーナ、③有の消滅の知識であるニャーナ、④動物を有の消滅に至らせる実践項目の知識であるニャーナ。

(4) ①取の知識であるニャーナ、②取が生じる原因の知識であるニャーナ、③取の消滅の知識であるニャーナ、④動物を取の消滅に至らせる実践項目の知識であるニャーナ。

(5) ①欲の知識であるニャーナ、②欲が生じる原因の知識であるニャーナ、③欲の消滅の知識であるニャーナ、④動物を欲の消滅に至らせる実践項目の知識であるニャーナ。

(6)①受の知識であるニャーナ、②受が生じる原因の知識であるニャーナ、③受の消滅の知識であるニャーナ、④動物を受の消滅に至らせる実践項目の知識であるニャーナ。

(7) ①触の知識であるニャーナ、②触が生じる原因の知識であるニャーナ、③触の消滅の知識であるニャーナ、④動物を触の消滅に至らせる実践項目の知識であるニャーナ。

(8) ①六処の知識であるニャーナ、②六処が生じる原因の知識であるニャーナ、③六処の消滅の知識であるニャーナ、④動物を六処の消滅に至らせる実践項目の知識であるニャーナ。

(9) ①名形の知識であるニャーナ、②名形が生じる原因の知識であるニャーナ、③名形の消滅の知識であるニャーナ、④動物を名形の消滅に至らせる実践項目の知識であるニャーナ。

(10) ①識の知識であるニャーナ、②識が生じる原因の知識であるニャーナ、③識の消滅の知識であるニャーナ、④動物を識の消滅に至らせる実践項目の知識であるニャーナ。

(11) ①すべての行の知識であるニャーナ、②行が生じる原因の知識であるニャーナ、③行の消滅の知識であるニャーナ、④動物を行の消滅に至らせる実践項目の知識であるニャーナ。

 比丘のみなさん。これを四十四のニャーナヴァットゥ(ニャーナを認識するもの)と言います。

 比丘のみなさん。老死はどのようでしょうか。老い、老いぼれ、歯が抜け、白髪になり、皺がより、寿命が少なくなり、それらの動物属のすべての根が老いること。これを老いと言います。

 終り、移動、崩壊、消失、命の終り、死、一巻の終り、すべての蘊の崩壊、体を捨てること、その動物種属の根つまり命を捨てること。これを死と言います。老いも死も、当然このようです。

 比丘のみなさん。これを老死と言います。老死が揃って生じるのは、当然生があるからです。老死の消滅は、当然生の消滅によってあります。素晴らしい八項目のある道、つまり正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディが老死の消滅に至らせる実践項目です。

 比丘のみなさん。聖なる弟子が当然老死はこのようと知り尽し、老死が生じる原因はこのようと知り尽し、老死の消滅はこのようと知り尽し、生き物を老死の消滅に至らせる実践項目はこのようと知り尽せば、その時その聖なる弟子のこの知識は、このダンマによって見えた、知った、到達した、至ったダンマのニャーナと言われ、時を限定せずに使うことができます。

 その聖なる弟子は当然その知識を過去と未来の意味で「遠い過去のサマナ、あるいはバラモンは老死を極めて知り、老死が生じる原因を極めて知り、老死の消滅を最高に知り、動物を老死の消滅に至らしめる実践項目を最高に知った。そのサマナ、あるいはバラモンのどなたも、私が今最高に知ったように最高に知った。

遠い未来のサマナ、あるいはバラモンも、老死を最高に知り、老死が生じる原因を極めて知り、老死の消滅を極めて知り、動物を老死の消滅に至らしめる実践項目を最高に知る、そのサマナあるいはバラモンのどなたも、私が今最高に知ったように最高に知った」と、このように使います。その聖なる弟子のこの知識を知るニャーナと言います。

 比丘のみなさん。聖なる弟子のこの二つのニャーナ、つまりダンマニャーナと追って知るニャーナ(随行智)が純潔清浄な自然である時はいつでも、比丘のみなさん。私はその時その聖なる弟子を「見解が完璧な人」「見方が完璧な人」「この正法に至った人」「この正法が見えた人」「有学であるニャーナがある人」「有学である明がある人」「ダンマの流れに到達した人」「煩悩に斬り込む智慧がある素晴らしい人」「不死の門の前に立っている人」などと言います。

 比丘のみなさん。生はどのようでしょうか。発生、(胎内に)下りること、生まれること、一斉に生まれること、すべての蘊が現れること、動物が、その動物属のすべての蘊を得ること。比丘のみなさん。これを生と言います。

 生の発生は、当然有の発生によってあり、生の消滅は、当然有の消滅によってあり、素晴らしい八項目がある道、つまり正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生活、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディが生の消滅に至らせる実践項目です。

 比丘のみなさん。聖なる弟子が当然生はこのようと知り尽し、生が生じる原因はこのようと知り尽し、生の消滅はこのようと知り尽し、生き物を生の消滅に至らせる実践項目はこのようと知り尽せば、その時その聖なる弟子のこの知識は、このダンマによって見え、知り、到達し、至ったダンマのニャーナと言われます。そして時を限定せず使うことができます。

 その聖なる弟子は当然その知識を過去と未来の意味で「遠い過去のサマナあるいはバラモンは生を最高に知り、生が生じる原因を最高に知り、生の消滅を極めて知り、生き物を生の消滅に至らしめる実践項目を最高に知った。そのサマナあるいはバラモンのどなたも、私が今最高に知ったように最高に知った。

遠い未来のサマナあるいはバラモンも生を最高に知り、生が生じる原因を最高に知り、生の消滅を最高に知り、動物を生の消滅に至らしめる実践項目を最高に知る。そのサマナあるいはバラモンのどなたも、私が今最高に知ったように最高に知る」と、このように使います。その聖なる弟子のこの知識の知識であるニャーナと言います。

 比丘のみなさん。聖なる弟子のこの二つのニャーナ、つまりダンマニャーナと追って知るニャーナが純潔清浄な自然である時はいつでも、比丘のみなさん。私はその時その聖なる弟子を「見解が完璧な人」「見方が完璧な人」「この正法に至った人」「この正法が見えた人」「有学であるニャーナがある人」「有学である明がある人」「ダンマの流れに到達した人」「煩悩に斬り込む智慧がある素晴らしい人」「不死の門の前に立っている人」などと呼びます。

 比丘のみなさん。三界はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この三つの界、つまり欲界、形界、無形界を、比丘のみなさん。これを三界(バヴァ)と言います。

 三界の発生は当然欲の発生によってあり、三界の消滅は当然欲の消滅によってあり、素晴らしい八項目がある道、つまり正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生活、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディが有(または三界)の消滅に至らせる実践項目です。(以下はすべて老死の場合と同じなので、省略します)。

 比丘のみなさん。取はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この四つ、つまり欲取、見取、戒禁取、我語取、比丘のみなさん。これを取と言います。

 取の発生は当然欲の発生によってあり、取の消滅は当然欲の消滅によってあり、素晴らしい八項目がある道、つまり正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生活、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディが取の消滅に至らせる実践項目です。(以下はすべて老死の場合と同じなので、省略します)。

 比丘のみなさん。欲はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この六つの欲、つまり形欲・声欲・臭欲・味欲・触欲・法欲です。比丘のみなさん。これを欲と言います

 。欲の発生は、当然受の発生によってあり、欲の消滅は当然受の消滅によってあり、素晴らしい八項目がある道、つまり正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生活、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディが受の消滅に至らせる実践項目です。(以下はすべて老死の場合と同じなので、省略します)。

 比丘のみなさん。受はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この六つ、つまり眼触受、耳触受、鼻触受、舌触受、身触受、意触受を、比丘のみなさん。これを受と言います。

 受の発生は、当然触の発生によってあり、受の消滅は当然触の消滅によってあり、素晴らしい八項目がある道、つまり正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生活、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディが触の消滅に至らせる実践項目です。(以下はすべて老死の場合と同じなので、省略します)

 比丘のみなさん。触はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この六つ、つまり眼触、耳触、鼻触、舌触、身触、意触です。

 比丘のみなさん。これを触と言います。触の発生は当然六処の発生によってあり、取の消滅は当然六処の消滅によってあり、素晴らしい八項目がある道、つまり正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生活、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディが六処の消滅に至らせる実践項目です。(以下はすべて老死の場合と同じなので、省略します)。

 比丘のみなさん。六処はどのようでしょうか。この六つ、つまり眼処、耳処、鼻処、舌処、身処、意処を、比丘のみなさん。これを六処と言います。

 六処の発生は当然名形の発生によってあり、六処の消滅は当然名形の消滅によってあります。素晴らしい八項目がある道、つまり正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生活、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディが名形の消滅に至らせる実践項目です。(以下はすべて老死の場合と同じなので、省略します)。

 比丘のみなさん。名形はどのようでしょうか。受、想、思触、思念を、名と言います。四大種と、四大種が依存している形を形と言います。

 名も形も、当然このようです。比丘のみなさん。これを名形と言います。名形の発生は当然識の発生によってあり、名形の消滅は当然識の消滅によってあり、素晴らしい八項目がある道、つまり正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生活、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディが名形の消滅に至らせる実践項目です。(以下はすべて老死の場合と同じなので、省略します)。

 比丘のみなさん。識はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この六つ、つまり眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識を、比丘のみなさん。これを識と呼びます。

 識の発生は、当然行の発生によってあり、識の消滅は当然行の消滅によってあり、素晴らしい八項目がある道、つまり正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生活、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディが識の消滅に至らせる実践項目です。(以下はすべて老死の場合と同じなので、省略します)。

 比丘のみなさん。すべての行はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この三つ、つまり身行、口行、意行のすべての行を、比丘のみなさん。これをすべての行と言います。

 行の発生は当然無明の発生によってあり、行の消滅は当然無明の消滅によってあります。晴らしい八項目がある道、つまり正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生活、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディが行の消滅に至らせる実践項目です。  

 比丘のみなさん。聖なる弟子が当然、すべての行はこのようと知り尽し、行が生じる原因はこのようと知り尽し、行の消滅はこのようと知り尽し、動物を行の消滅に至らせる実践項目はこのようと知り尽せば、その時その聖なる弟子のこの知識は、このダンマによって見え、知り、到達し、至ったダンマのニャーナと言われます。そして時を限定せずに使うことができます。

 その聖なる弟子は当然その知識を過去と未来の意味で「遠い過去のサマナあるいはバラモンは行を極めて知り、行が生じる原因を極めて知り、行の消滅を極めて知り、動物を行の消滅に至らしめる実践項目を極めて知った。そのサマナあるいはバラモンのどなたも、私が今最高に知ったように最高に知った。

 遠い未来のサマナあるいはバラモンもすべての行を極めて知り、行が生じる原因を極めて知り、行の消滅を極めて知り、動物を行の消滅に至らしめる実践項目を極めて知る。そのサマナあるいはバラモンのどなたも、私が今最高に知ったように最高に知る」と、このように使います。その聖なる弟子のこの知識の知識であるニャーナと言います。

 比丘のみなさん。聖なる弟子のこの二つのニャーナ、つまりダンマニャーナとアンヴァヤニャーナ(追って知るニャーナ)が純潔清浄な自然である時はいつでも、比丘のみなさん。私はその時その聖なる弟子を「見解が完璧な人」見方が完璧な人」「この正法に至った人」「この正法が見えた人」「有学であるニャーナがある人」「有学である明がある人」「ダンマの流れに到達した人」「煩悩に斬り込む智慧がある素晴らしい人」「不死の門の前に立っている人」などと呼びます。





預流になるための縁起の七十七のニャーナヴァットゥ

祇園精舎で
相応部ニダーナヴァッガ 16巻71頁126項

 比丘のみなさん。みなさんに七十七のニャーナヴァットゥ(ニャーナの縁)について説明します。みなさん。それを聞いて、心の中を利益になるようになさい。今から話します。

 比丘のみなさん。七十七のニャーナヴァットゥはどのようでしょうか。七十七のニャーナヴァットゥとは、

(1)
①生が縁で老死が生じると知るニャーナ、
②生がなければ当然老死はないと知るニャーナ、
③遠い過去でも、老死が縁で生があったと知るニャーナ、
④遠い過去でも、老死がなければ、当然生はないと知るニャーナ、
⑤遠い未来でも、老死が縁で生があると知るニャーナ、
⑥遠い未来でも、老死がなければ当然生はないと知るニャーナ、
⑦この場合のダンマディティティニャーナ(この場合は、縁起の教えになるニャーナ)も、当たり前に緩むこと、薄れること、消滅すること、終わりがあると知るニャーナ、

(2) 
①有が縁で生が生じると知るニャーナ、
②有がなければ当然生はないと知るニャーナ、
③遠い過去でも、有が縁で生があったと知るニャーナ、
④遠い過去でも、有がなければ、当然生はないと知るニャーナ、
⑤遠い未来でも、有が縁で生があると知るニャーナ、
⑥遠い未来でも、有がなければ、当然生はないと知るニャーナ、
⑦この場合のダンマディティニャーナも、当たり前に緩むこと、薄れること、消滅すること、終わりがあると知るニャーナ、

(3) 
①取が縁で有が生じると知るニャーナ、
②取がなければ当然有はないと知るニャーナ、
③遠い過去でも、取が縁で有があったと知るニャーナ、
④遠い過去でも、取がなければ、当然有はないと知るニャーナ、
⑤遠い未来でも、取が縁で有があると知るニャーナ、
⑥遠い未来でも、取がなければ当然有はないと知るニャーナ、
⑦この場合のダンマディティニャーナも、当たり前に緩むこと、薄れること、消滅すること、終わりがあると知るニャーナ、

(4) 
①欲が縁で取が生じると知るニャーナ、
②欲がなければ当然取はないと知るニャーナ、
③遠い過去でも、欲が縁で取があったと知るニャーナ、
④遠い過去でも、欲がなければ、当然取はないと知るニャーナ、
⑤遠い未来でも、欲が縁で取があると知るニャーナ、
⑥遠い未来でも、欲がなければ、当然取はないと知るニャーナ、
⑦この場合のダンマディティニャーナも、当たり前に緩むこと、薄れること、消滅すること、終わりがあると知るニャーナ、

(5) 
①受が縁で欲が生じると知るニャーナ、
②受がなければ当然欲はないと知るニャーナ、
③遠い過去でも、受が縁で欲があったと知るニャーナ、
④遠い過去でも、受がなければ、当然欲はないと知るニャーナ、
⑤遠い未来でも、受が縁で欲があると知るニャーナ、
⑥遠い未来でも、受がなければ、当然欲はないと知るニャーナ、
⑦この場合のダンマディティニャーナも、当たり前に緩むこと、薄れること、消滅すること、終わりがあると知るニャーナ、

(6) 
①触が縁で受が生じると知るニャーナ、
②触がなければ当然受はないと知るニャーナ、
③遠い過去でも、触が縁で受があったと知るニャーナ、
④遠い過去でも、触がなければ、当然受はないと知るニャーナ、
⑤遠い未来でも、触が縁で受があると知るニャーナ、
⑥遠い未来でも、触がなければ、当然受はないと知るニャーナ、
⑦この場合のダンマディティニャーナも、当たり前に緩むこと、薄れること、消滅すること、終わりがあると知るニャーナ、

(7) 
①六処が縁で触が生じると知るニャーナ、
②六処がなければ当然触はないと知るニャーナ、
③遠い過去でも、六処が縁で触があったと知るニャーナ、
④遠い過去でも、六処がなければ、当然触はないと知るニャーナ、
⑤遠い未来でも、六処が縁で触があると知るニャーナ、
⑥遠い未来でも、六処がなければ、当然触はないと知るニャーナ、
⑦この場合のダンマディティニャーナも、当たり前に緩むこと、薄れること、消滅すること、終わりがあると知るニャーナ、

(8) 
①名形が縁で六処が生じると知るニャーナ、
②名形がなければ当然六処はないと知るニャーナ、
③遠い過去でも、名形が縁で六処があったと知るニャーナ、
④遠い過去でも、名形がなければ、当然六処はないと知るニャーナ、
⑤遠い未来でも、名形が縁で六処があると知るニャーナ、
⑥遠い未来でも、名形がなければ、当然六処はないと知るニャーナ、
⑦この場合のダンマディティニャーナも、当たり前に緩むこと、薄れること、消滅すること、終わりがあると知るニャーナ、

(9) 
①識が縁で名形が生じると知るニャーナ、
②識がなければ当然名形はないと知るニャーナ、
③遠い過去でも、識が縁で名形があったと知るニャーナ、
④遠い過去でも、識がなければ、当然名形はないと知るニャーナ、
⑤遠い未来でも、識が縁で、名形があると知るニャーナ、
⑥遠い未来でも、識がなければ当然名形はないと知るニャーナ、 ⑦この場合のダンマディティニャーナも、当たり前に緩むこと、薄れること、消滅すること、終わりがあると知るニャーナ、

(10) 
①行が縁で識が生じると知るニャーナ、
②行がなければ当然識はないと知るニャーナ、
③遠い過去でも、行が縁で識があったと知るニャーナ、
④遠い過去でも、行がなければ、当然識はないと知るニャーナ、
⑤遠い未来でも、行が縁で識があると知るニャーナ、
⑥遠い未来でも、行がなければ、当然識はないと知るニャーナ、
⑦この場合のダンマディティニャーナも、当たり前に緩むこと、薄れること、消滅すること、終わりがあると知るニャーナ、

(11) 
①無明が縁で行が生じると知るニャーナ、
②無明がなければ当然行はないと知るニャーナ、
③遠い過去でも、無明が縁で行があったと知るニャーナ、
④遠い過去でも、無明がなければ、当然行はないと知るニャーナ、
⑤遠い未来でも、無明が縁で行があると知るニャーナ、
⑥遠い未来でも、無明がなければ、当然行はないと知るニャーナ、
⑦この場合のダンマディティニャーナも、当たり前に緩むこと、薄れること、消滅すること、終わりがあると知るニャーナです。

 比丘のみなさん。これを七十七のニャーナの縁である物と言います。





縁起の知識であることは六神通の到達と無関係

相応部ニダーナヴァッガ 16巻151頁290項

 世尊がリスの餌場である竹林精舎に滞在されていたある時、世尊と比丘たちは庶民から尊敬崇拝され、衣と食べ物と住まいと八物が豊富でしたが、他の教義の修行者たちは尊敬し崇拝する庶民がいませんでした。

 スシマという修行者は「仏教で出家してダンマを学んで庶民に教えることで、庶民から尊敬され崇拝されて供物が豊かになることが期待できる」と弟子から提言され、プラアーナンダに出家したいと願い出て、プラアーナンダが世尊に拝謁させると、出家させるよう命じられたので出家させました。

 同じ頃大勢の比丘が世尊の施設で一斉に阿羅漢果を託宣し、プラスシマはそれを聞いて、それらの比丘に阿羅漢であることの託宣について質問しに行き、それらの比丘が迎えたので、続いていろんな神通力、つまり神足通、天耳通、他心智通、宿命通、天眼通、漏尽智に到達することについて質問しました。

 するとそれらの比丘たちは「六神通に到達しなくてもパンニャーヴィムッティ(智慧解脱)で阿羅漢果に到達できる」答えました。プラスシマは世尊に拝謁して、比丘たちとの会話の趣旨をお耳に入れました。

 スシマさん。ダンマッティティニャーナ(この場合は縁起になるニャーナ。法住智)が先に生じて、涅槃のニャーナは後から生じます。

 「猊下。私はまだ世尊が概略で話されたこのバーシタ(お話になった言葉)の内容を良く存じていません。猊下。どうぞ私が世尊が概略で話されたその内容をすべて知ることができるようお話しください。猊下」。

 スシマさん。あなたが良く知っても知らなくても、ダンマッティティニャーナは先に生じる物で、涅槃のニャーナは後から生じる物です。スシマさん。あなたはこれをどう思いますか。形は不変ですか、不変でないですか。

 「不変ではありません、猊下」。

 不変でない物は苦ですか、幸福ですか。

 「苦です。猊下」。

 無常であり苦であり当たり前に変化する物は、それを「これは自分の物。これは自分。これは自分自身」と見るべきですか。

 「そうするべきではありません。猊下」。

 (受・想・行・識の場合も、形の場合と同じように質問し、同じように答えています)。

 スシマさん。だからこれは何らかの形があり、過去でも未来でも現在でも、内部でも外部でも、下等でも上等でも、粗雑でも緻密でも、遠くにあっても近くにあっても、それらすべての形を正しい智慧で真実のままに「それは私の物ではない。それは私ではない。それは私自身ではない」とこのように見なければなりません。

 (受・想・行・識の場合も形の場合と同じように話されています)。

 スシマさん。聞いてこのように見ている聖なる弟子は誰でも、当然形に倦怠し、当然受に倦怠し、当然想に倦怠し、当然すべての行に倦怠し、当然識に倦怠します。

 倦怠すれば当然欲情が緩み、欲情が緩めば当然解脱し、解脱すれば当然「解脱した」と知るニャーナがあります。その聖なる弟子は当然「生は終わった。梵行をするのは終わった。するべき仕事は成功した。このようになるためにしなければならないことは他にない」と明らかに知ります。

 スシマさん。あなたは「生が縁で老死がある」と思いますか。

 「はい、猊下」。

 スシマさん。「有が縁で生がある」と思いますか。

 「はい、猊下」。

 (発生と消滅、二十二のすべての縁起を次々に、同じように会話されています)。

 スシマさん。あなたがこのように知りこのように見えれば、当然いろんな神足通である、一人の自分を何人もの姿にし、何人もの人を一人にし、隠された場所を明るい所に、明るい場所を隠された所にすることができ、どこでも支障なしに行くことができ、何も無い空間のように壁を通り抜け、塀を通り抜け、山を通り抜け、水の中のように地面から浮き上がったり潜ったりし、大地を歩くように水面を歩き、結跏趺坐したまま翼のある鳥のように浮き上がって月と太陽を撫でるなど、このような神足通に達しますか。

 「いいえ、到達できません。猊下」。

 スシマさん。あなたがこのように知り、このように見えたら、当然二種類の声、つまり普通の人間を越えた純潔な天耳があり、天の声と人間の声、遠くの声と近くの声の両方が聞こえますか。

 「いいえ聞こえません。猊下」。

 スシマさん。あなたがこのように知り、このように見えれば、当然他の生き物、他の人の心を、貪りがある心を貪りがあると知り、貪りの無い心を貪りがないと、怒りがあれば怒りがあると、怒りがなければ怒りがないと、愚かさがあれば愚かさがあると、愚かさがなければ愚かさがないと、消沈していれば消沈していると、散漫なら散漫だと、

大きな徳に至れば大きな徳に至ったと、大きな徳に至らなければ大きな徳に至らないと、極めてすごい心があれば極めてすごい心があると、極めてすごい心がなければ極めてすごい心がないと、磐石なら磐石だと、解脱すれば解脱したと、解脱しなければ解脱しないと、自分の心で認識することができますか。

 「いいえできません。猊下」。

 スシマさん。あなたがこのように知り、このように見えた時、過去の有で依存したことがあるたくさんの蘊を、一つの生、二つの生、三つの生、四つの生、五つの生、十の生、三十の生、四十の生、五十の生、百の生、千の生、十万の生から何劫もの生を、その有にいた時はどういう名前で、こういう姓で、こういう階級で、こういう食べ物があり、こういう幸福とこういう苦を味わい、

何歳まで生き、その有が終わるとこの有に生まれ、このような家族があり、身分があり、食べ物があり、こういう幸福と苦を味わい、何歳で亡くなって次にどこの有へ生まれたと、このように思い出せます。過去に住んだことがある数々の蘊を、このような状態と説明も一緒に思い出せますか。

 「いいえできません。猊下」。

 スシマさん。あなたがこのように知り、このように見えれば、すべての生き物が死んでいるのが見え、生まれているのが見え、下品か上品か、良い身分か悪い身分か、幸福か不幸か見ることができる、普通の人間を越えた純潔清浄な天眼を持つことができ、「みなさん。これらの動物は不正な体、不正な言葉、不正な心があり、すべての聖人を非難する間違った見解で、邪見による職業を営み、体が壊れて死んだ後は当然そろって悪趣や罪を受ける場所、地獄に行きます。

 みなさん。こちらの生き物は正しい体、正し言葉、正しい心があり、聖人を非難しない正しい見解で、正見による職業を営み、体が壊れて死んだ後は、当然そろって善趣、極楽の世界に行きます」と、カンマでこのように到達した動物の群れを明らかに見ることができますか。

 「いいえ見えません。猊下」。

 スシマさん。あなたがこのように知り、このように見えれば、当然すべての形を越えてしまうことができ、静かな無形解脱に名形で触れることができますか。

 「いいえできません。猊下」。

 スシマさん。あなたのさっきの言葉と、これらの六神通に到達しなくても良いと(あなたが今言った)言葉を、この場合、私は何と言いましょう。

 その時スシマは、頭が世尊の両足に触れるくらい平伏して申し上げました。

 「猊下。愚かな人のように、無知な人のように、悪の考えがあるように、私には罪が山とあり、私はスガタ様が良く話されたダンマヴィナヤを盗むために出家しました。世尊。今後不注意がないように、どうぞ私の罪を罪としてお受け取りください。猊下」。

 さて、スシマさん。愚者のように、迷い人のように、悪の考えがある人ように、あなたの罪は山とあり、あなたは如行が良く話したダンマヴィナヤを盗むために出家しました。スシマさん。役人が悪を行った盗賊を捕えて来て王に見せ、「天人である方。この者は王様に対して不届きを働きました。どうぞお望みのままに処罰なさってください」とこのように奏上するようなものです。

 王は役人に「役人のみなさん、この男を後ろ手に丈夫な縄できつく縛り、それから頭を剃ってしまい、堅い音の太鼓でいろんな街道、いろんな辻を引き回し、タクシナの側の門から出し、都のタクシナ側で頭を落としてしまいなさい」と命じます。

 役人はその盗賊を縛り、王命で処刑します。スシマさん。あなたはこれをどう思いますか。その男はそれによって苦悶を味わいますか。

 「はい、猊下」。

 スシマさん。その男がその罪によってどれほどの苦を味わわなければならなくでも、このように如行が良く述べたダンマヴィナヤを盗むために出家したことには、更に苦しい報い、更に熾烈な報いがあり、その上破滅のためになります。

 スシマさん。しかしあなたは罪を罪と見ることができ、ダンマで返したので、私はあなたの罪を受け取ります。罪を罪と見てダンマで返却した人は誰でも、その後は慎みに至ります。これはその人のダンマヴィナヤでの発展です。





人の最後の縁起 

祇園精舎で
マハータンハーサンカヤースッタ
中部ムーラパンナーサ 12巻494頁458項

 (この経で世尊は阿羅漢サンマーサンブッダである如行が世界に生まれて、初めも中間も終わりも美しいダンマを説いて梵行を公開すると、長者や長者の息子がそのダンマを聞いて信仰が生じ、「在家は窮屈で埃の来る場所。出家は広々とする機会。在家で純潔な梵行をするのは難しすぎる」と、在家の生活を捨てて出家することについて熟慮して見ます。

 出家すると比丘の生活規範である戒を十分に遵守し、知足の人になり、飛ぶための翼しか重荷がない鳥のように完璧に軽い振る舞いがあります。喜びと憂いが生じないような形で心を支配して六つの根を慎み、すべての挙措に完璧な常自覚があり、静かな住まいで暮らし、アディチッタ(高い心)の努力をし、五蓋を排除することができ、普通に四番目の形禅定に到達します。

 そしてチェトーヴィムッティ・パンニャーヴィムッティを明らかにし、次に述べるように、自分の人生の最後の縁起の流れを消滅させることができると話されました)。

(1)その比丘は目で形を見ても、愛の基盤である形を当然喜んで欲しがらず、憎しみの基盤である形を当然嫌悪せず、自分が維持している体になるサティで暮らす人で、量ることができない心がある人で、すべての罪悪であるダンマが残らず消滅したチェトーヴィムッティ(心解脱)・パンニャーヴィムッティ(慧解脱)を当然真実のままに明らかに知ります。

 その比丘がこのように喜びと悲しみを捨ててしまうことができれば、幸福でも、苦でも、苦でも幸福でもなくても、どんな受でも当然その受に夢中にならず、褒めちぎって陶酔しません。

 その比丘がその受に夢中にならず褒めちぎって陶酔しなければ、それらすべての受のナンディ(喜んで欲しがること)は当然消滅します。その比丘のナンディが消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが消滅します。すべての苦の山の消滅は、当然このようにしてあります。

(2)その比丘は耳で声を聞いても、愛の基盤である声を当然喜んで欲しがらず、憎しみの基盤である形を当然嫌悪せず、自分が維持している体になるサティで暮らす人で、量ることができない心がある人で、すべての罪悪であるダンマが残らず消滅したチェトーヴィムッティ・パンニャーヴィムッティを当然真実のままに明らかに知ります。

 その比丘がこのように喜びと悲しみを捨ててしまえれば、幸福でも、苦でも、苦でも幸福でもなくても、どんな受でも当然その受に夢中にならず、褒めちぎって陶酔しません。

 その比丘がその受に夢中にならず、褒めちぎって陶酔しなければ、それらすべての受のナンディは当然消滅します。その比丘のナンディが消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが消滅します。すべての苦の山の消滅は、当然このようにしてあります。

(3)その比丘は鼻で臭いを嗅いでも、愛の基盤である臭いを当然喜んで欲しがらず、憎しみの基盤である形を当然嫌悪せず、自分が維持している体になるサティで暮らす人で、量ることができない心がある人で、すべての罪悪であるダンマが残らず消滅したチェトーヴィムッティ・パンニャーヴィムッティを当然真実のままに明らかに知ります。

 その比丘がこのように喜びと悲しみを捨ててしまえれば、幸福でも苦でも、苦でも幸福でもなくても、どんな受でも当然その受に夢中にならず、褒めちぎって陶酔しません。

 その比丘がその受に夢中にならず、褒めちぎって陶酔しなければ、それらすべての受のナンディは当然消滅します。その比丘のナンディが消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが消滅します。すべての苦の山の消滅は、当然このようにしてあります。

(4)その比丘は舌で味を味わっても、愛の基盤である味を当然喜んで欲しがらず、憎しみの基盤である形を当然嫌悪せず、自分が維持している体になるサティで暮らす人です。量ることができない心がある人で、すべての罪悪であるダンマが残らず消滅したチェトーヴィムッティ・パンニャーヴィムッティを当然真実のままに明らかに知ります。

 その比丘がこのように喜びと悲しみを捨ててしまえれば、幸福でも苦でも、苦でも幸福でもなくても、どんな受でも当然その受に夢中にならず、褒めちぎって陶酔しません。

 その比丘がその受に夢中にならず、褒めちぎって陶酔しなければ、それらすべての受のナンディは当然消滅します。その比丘のナンディが消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが消滅します。すべての苦の山の消滅は、当然このようにしてあります。

(5)その比丘は体で接触を感じても、愛の基盤である接触を当然喜んで欲しがらず、憎しみの基盤である形を当然嫌悪せず、自分が維持している体になるサティで暮らす人です。量ることができない心がある人で、すべての罪悪であるダンマが残らず消滅したチェトーヴィムッティ・パンニャーヴィムッティを当然真実のままに明らかに知ります。

 その比丘がこのように喜びと悲しみを捨ててしまえれば、幸福でも、苦でも、苦でも幸福でもなくても、どんな受でも当然その受に夢中にならず、褒めちぎって陶酔しません。

 その比丘がその受に夢中にならず、褒めちぎって陶酔しなければ、それらすべての受のナンディは当然消滅します。その比丘のナンディが消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが消滅します。すべての苦の山の消滅は、当然このようにしてあります。 

(6)その比丘は心で想念を感じても、愛の基盤である想念を当然喜んで欲しがらず、憎しみの基盤である想念を当然嫌悪せず、自分が維持している体になるサティで暮らす人です。量ることができない心がある人で、すべての罪悪であるダンマが残らず消滅したチェトーヴィムッティ・パンニャーヴィムッティを当然真実のままに明らかに知ります。

 その比丘がこのように喜びと悲しみを捨ててしまえれば、幸福でも、苦でも、苦でも幸福でもなくても、どんな受でも当然その受に夢中にならず、褒めちぎって陶酔しません。

 その比丘がその受に夢中にならず、褒めちぎって陶酔しなければ、それらすべての受のナンディは当然消滅します。その比丘のナンディが消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが消滅します。すべての苦の山の消滅は、当然このようにしてあります。

註: 学習者は本当に梵行が終わった人は最後の縁起の流れが止まった人であり、その後は目・耳・鼻・舌・体・心でどんな感情を受け取っても、二度とそのような縁起の流れは生じないと観察して見なければなりません。

 この文章で説かれいているいろんな状況と理由を観察して見てください。特に「すべての苦の山の消滅はこのようにある」というのは、その人が(棺に入る)死後に消滅するという意味ではないことです。

 すべての受でナンディが消滅するのは、チェトーヴィムッティ・パンニャーヴィムッティの威力で、今ここで消滅する、今ここでの無明の消滅です。その人の生の初めは、数えきれないほどの縁起があふれていても、人の最後の縁起はこのような状態であります。学習してこの事実を明らかにすれば、この知識から完璧な利益が得られ、そして不可能ではありません。




縁起目次へ ホームページへ 次へ