縁起の受の怖さを知れば、五取蘊は生じない


祇園精舎で

サラーヤタナヴィバンガスッタ
中部ウパリパンナーサ 14巻523頁828項

 比丘のみなさん。人が目を真実のままに知って見れば、すべての形を真実のままに知って見れば、眼識を真実のままに知って見れば、眼触を真実のままに知って見れば、幸福でも苦でも、苦とも幸福ともつかなくても眼触が縁で生じる受を真実のままに知って見れば、その人は当然目に欲情せず、すべての形に欲情せず、眼識に欲情せず、眼触に欲情せず、幸福でも苦でも、苦とも幸福ともつかなくても眼触から生じる受に欲情しません。

 その人が欲情せず、夢中にならず、惑溺しないで継続してそれらの害を見ていれば、すべての五取蘊は当然作られない状態に達します。そしてその感情に非常に夢中にさせる陶酔の威力による欲情がある新しい有に導く欲望、それを彼は当然捨てることができ、体の面の焼き炙ることも、彼は当然捨てることができ、心の面の焼き炙ることも、彼は当然捨てることができ、体の焦燥も、彼は当然捨てることができ、心の焦燥も、彼は捨てることができます。

 その人は当然体の幸福を味わい、心の幸福を味わいます。その人がこのようなら、その人の見解は当然正しい見解であり、考えは当然正しい考えであり、努力は当然正しい努力であり、サティは当然正しいサティであり、サマーディは当然正しいサマーディです。一方彼の身業、口業と正しい生活は初めから純潔なダンマで、このような状態でその人の八正道は当然完璧に発展します。

 彼がこのように八正道に励めば、四つの念処はすべて当然完璧に発展に至り、四つの四如意足も当然完璧な発展に至り、五つの根はすべて完璧な発展に至り、五つの力はすべて完璧な発展に至り、七つの覚支はすべて完璧な発展に至り、二つのダンマ、つまり彼のサマタ(止)とヴィパッサナー(観)は当然並行するダンマです。

 その人は人が最高の智慧で認識すべきすべてのダンマを、当然最高の智慧で認識し、人が最高の智慧で捨てるべきすべてのダンマを、当然最高の智慧で捨て、人が最高の智慧で発展させるべきダンマを、当然最高の智慧で発展させ、人が最高の智慧で明らかにするべきすべてのダンマを、当然最高の智慧で明らかにします。

 比丘のみなさん。人が智慧で認識するべきダンマはどのダンマでしょうか。答えはすべての五取蘊、つまり形取蘊・受取蘊・想取蘊・行取蘊・識取蘊であるべきです。これらすべてのダンマは、人が最高の智慧で認識すべきダンマと言われます。

 比丘のみなさん。人が最高の智慧で捨てるべきダンマはどのダンマでしょうか。答えは「無明と有欲」であるべきです。これらのダンマは、人が最高の智慧で捨てるべきダンマと呼ばれます。

 比丘のみなさん。人が最高の智慧で励むべきダンマはどのダンマでしょうか。答えは「サマタとヴィパッサナー」であるべきです。これらのダンマは、人が最高の智慧で励むべきダンマと呼ばれます。

 比丘のみなさん。人が最高の智慧で明らかにすべきダンマはどのダンマでしょうか。答えは「明と解脱」であるべきです。これらのダンマは、人が最高の智慧で明らかにすべきダンマと呼ばれます。

 (耳・鼻・舌・体・心を知って見る場合も、目の場合と同じように話されています)。





縁起の方法で最後までダンマの状態を熟慮する

祇園精舎で
相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻76頁118項

 比丘のみなさん。七つの条件に賢く、三つの方法でダンマを熟慮する比丘を、私は「このダンマヴィナヤの梵行が終わったケヴァリー(註1)である比丘」と呼びます。比丘のみなさん。七つの条件に賢い比丘はどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。この場合の比丘は形、形が生じる原因、形の消滅、形の消滅に至る道、形の旨味、形の害、形から出る方便を明確に知っています。

 比丘のみなさん。形はどのようでしょうか。四大種も四大種に依存する形も、比丘のみなさん、これを形と言います。形の発生は当然食べ物の発生によってあり、形の消滅は当然食べ物の消滅によってあります。八項目からなる道、つまり正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業(生活)、正しい努力、正しく思い出すこと、正しい心の安定が形の消滅に至る道です。

 形に依存して生じる幸福と喜びはどれも、それが形の旨味であり、無常であり苦であり当たり前に変化する形はどれも、それが形の害で、満足の威力による欲情を出してしまえること、つまり形に満足する威力による欲情を捨てることはどれでも、これが形から出る方便です。(合わせて知るべき七つです)。

 比丘のみなさん。こういうのが形、こういうのが形が生じる原因、こういうのが形の消滅、こういうのが形の消滅に至る道、こういうのが形の旨味、こういうのが形の害、こういうのが形から出る方便と、最高の智慧でこのように知っているサマナあるいはバラモンは誰でも、倦怠のため、吐き出すため、形の消滅のために実践する人です。

 これらのサマナあるいはバラモンは善い実践をする人で、善い実践をする人は誰でも「このダンマヴィナヤに至った人」と呼ばれます。

 比丘のみなさん。こういうのが形、こういうのが形が生じる原因、こういうのが形の消滅、こういうのが形の消滅に至る道、こういうのが形の旨味、こういうのが形の害、こういうのが形から出る方便と最高の智慧でこのように知っているサマナあるいはバラモンは誰でも、倦怠で、吐き出すことで、消滅することで、形に執着しないことで素晴らしい解脱をした人です。

 素晴らしい解脱をした人は誰でも、それらの人は「人がするべき仕事が終わった人ケヴァリー」と呼ばれます。人がするべき仕事が終わった人は誰でも、それらの人に規定すべき輪廻は当然ありません。

 比丘のみなさん。この場合の比丘は受、受が生じる原因、受の消滅、受の消滅に至る道、受の旨味、受の害、受から出る方便を明確に知っています。比丘のみなさん。受はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この六つの受(身受)は目の触から生じた受、耳の触から生じた受、鼻の触から生じた受、舌の触から生じた受、体の触から生じた受、心の触から生じた受です。比丘のみなさん。私はこれを受と言います。

 受の発生は当然触の発生によってあり、受の消滅は当然触の消滅によってあります。八項目から成る素晴らしい道が、受の消滅に至る道です。すなわち正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業(生活)、正しい努力、正しく思い出すこと、正しい落ち着きです。

 受に依存して生じる幸福と喜びはどれも、それが受の旨味であり、無常であり苦であり当たり前に変化する受はどれも、それが受の害です。満足の威力による欲情を出してしまえること、つまり受に満足する威力による欲情を捨てることはどれでも、これが受から出る方便です。(合わせて知るべき七つです)。

 比丘のみなさん。こういうのが受、こういうのが受が生じる原因、こういうのが受の消滅、こういうのが受の消滅に至る道、こういうのが受の旨味、こういうのが受の害、こういうのが受から出る方便と、最高の智慧でこのように知っているサマナあるいはバラモンは誰でも、倦怠のため、吐き出すため、受の消滅のために実践する人です。

 これらのサマナあるいはバラモンは善い実践をする人です。善い実践者である人は誰でも、それらの人は「このダンマヴィナヤに達した」と言われます。

 比丘のみなさん。こういうのが受、こういうのが受の生じる原因、こういうのが受の消滅、こういうのが受の消滅に至る道、こういうのが受の旨味、こういうのが受の害、こういうのが受から出る方便と、最高の智慧でこのように知っているサマナあるいはバラモンは誰でも、倦怠することで、吐き出すことで、消滅することで、受に執着しないことで素晴らしい解脱をした人です。

 素晴らしい解脱をした人は誰でも、それらの人は、人がするべき仕事が終わった人ケヴァリーと呼ばれます。人がするべき仕事が終わった人は誰でも、それらの人に規定すべき輪廻は当然ありません。

 比丘のみなさん。この場合の比丘は想、想が生じる原因、想の消滅、想の消滅に至る道、想の旨味、想の害、想から出る方便を明確に知っています。比丘のみなさん。想はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この六つの想(身想)は、目の触から生じた想、耳の触から生じた想、鼻の触から生じた想、舌の触から生じた想、体の触から生じた想、心の触から生じた想です。

 比丘のみなさん。これを私は想と言います。想の発生は当然触の発生によってあり、想の消滅は当然触の消滅によってあります。八項目から成る素晴らしい道が、想の消滅に至る道です。すなわち正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生活、正しい努力、正しく思い出すこと、正しい落ち着きです。

 想に依存して生じる幸福と喜びはどれも、それが想の旨味です。無常であり苦であり当たり前に変化する想はどれも、それが想の害です。満足の威力による欲情を出してしまえること、つまり想に満足する威力による欲情を捨てることはどれでも、これが想から出る方便です。(合わせて知るべき七つです)。

 比丘のみなさん。こういうのが想、こういうのが想が生じる原因、こういうのが想の消滅、こういうのが想の消滅に至る道、こういうのが想の旨味、こういうのが想の害、こういうのが想から出る方便と、最高の智慧でこのように知っているサマナあるいはバラモンは誰でも、倦怠のため、吐き出すため、想の消滅のために実践する人です。

 これらのサマナあるいはバラモンは善い実践をする人です。善い実践者である人は誰でも、それらの人は、このダンマヴィナヤに達したと言われます。

 比丘のみなさん。こういうのが想、こういうのが想の生じる原因、こういうのが想の消滅、こういうのが想の消滅に至る道、こういうのが想の旨味、こういうのが想の害、こういうのが想から出る方便と、最高の智慧でこのように知っているサマナあるいはバラモンは誰でも、倦怠することで、吐き出すことで、消滅することで、想に執着しないことで素晴らしい解脱をした人です。

 素晴らしい解脱をした人は誰でも、それらの人は、人がするべき仕事が終わった人ケヴァリーと呼ばれます。人がするべき仕事が終わった人は誰でも、それらの人に規定すべき輪廻は当然ありません。

 比丘のみなさん。この場合の比丘はすべての行、行が生じる原因、行の消滅、行の消滅に至る道、行の旨味、行の害、行から出る方便を、明確に知っています。比丘のみなさん。すべての行はどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。この六つの行(身行)は、目の触から生じた行、耳の触から生じた行、鼻の触から生じた行、舌の触から生じた行、体の触から生じた行、心の触から生じた行です。比丘のみなさん。私はこれをすべての行と言います。

 すべての行の発生は、当然触の発生によってあり、行の消滅は、当然触の消滅によってあります。八項目から成る素晴らしい道が、行の消滅に至る道です。すなわち正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生活、正しい努力、正しく思い出すこと、正しい落ち着きです。

 すべての行に依存して生じる幸福と喜びはどれも、それが行の旨味であり、無常であり苦であり、当たり前に変化する行はどれも、それが行の害です。満足の威力による欲情を出してしまえることが、つまり行に満足する威力による欲情を捨てることはどれでも、これが行から出る方便です。(合わせて知るべき七つです)。

 比丘のみなさん。こういうのがすべての行、こういうのがすべての行が生じる原因、こういうのがすべての行の消滅、こういうのがすべての行の消滅に至る道、こういうのがすべての行の旨味、こういうのがすべての行の害、こういうのがすべての行から出る方便と、最高の智慧でこのように知っているサマナあるいはバラモンは誰でも、倦怠のため、吐き出すため、触の消滅のために実践する人です。

 これらのサマナあるいはバラモンは善い実践をする人です。善い実践者である人は誰でも、それらの人は、このダンマヴィナヤに達したと言われます。

 比丘のみなさん。こういうのが触、こういうのが触の生じる原因、こういうのが触の消滅、こういうのが触の消滅に至る道、こういうのが触の旨味、こういうのが触の害、こういうのが触から出る方便と、最高の智慧でこのように知っているサマナあるいはバラモンは誰でも、倦怠することで、吐き出すことで、消滅することで、触に執着しないことで、素晴らしい解脱をした人で、素晴らしい解脱をした人は誰でも、それらの人は人がするべき仕事が終わった人ケヴァリーと呼ばれます。

 人がするべき仕事が終わった人は誰でも、それらの人に規定すべき輪廻は当然ありません。

 比丘のみなさん。この場合の比丘は識、識が生じる原因、識の消滅、識の消滅に至る道、識の旨味、識の害、識から出る方便を、明確に知っています。比丘のみなさん。識はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この六つの識(身識)は、目の触から生じた識、耳の触から生じた識、鼻の触から生じた識、舌の触から生じた識、体の触から生じた識、心の触から生じた識です。比丘のみなさん。これを私は識と言います。

 識の発生は当然触の発生によってあり、識の消滅は当然触の消滅によってあります。八項目から成る素晴らしい道が、識の消滅に至る道です。すなわち正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業(生活)、正しい努力、正しく思い出すこと、正しい落ち着きです。

 識に依存して生じる幸福と喜びはどれも、それが識の旨味です。無常であり苦であり、当たり前に変化する識はどれも、それが識の害です。満足の威力による欲情を出してしまえることが、つまり識に満足する威力による欲情を捨てることはどれでも、これが識から出る方便です。(合わせて知るべき七つです)。

 比丘のみなさん。こういうのが識、こういうのが識の生じる原因、こういうのが識の消滅、こういうのが識の消滅に至る道、こういうのが識の旨味、こういうのが識の害、こういうのが識から出る方便と、最高の智慧でこのように知っているサマナあるいはバラモンは誰でも、倦怠のため、吐き出すため、識の消滅のために実践する人です。

 これらのサマナあるいはバラモンは、善い実践をする人です。善い実践者である人は誰でも、それらの人は、このダンマヴィナヤに到達したと呼ばれます。

 比丘のみなさん。こういうのが識、こういうのが識の生じる原因、こういうのが識の消滅、こういうのが識の消滅に至る道、こういうのが識の旨味、こういうのが識の害、こういうのが識から出る方便と、最高の智慧でこのように知っているサマナあるいはバラモンは誰でも、倦怠することで、吐き出すことで、消滅することで、識に執着しないことで、素晴らしい解脱をした人です。

 素晴らしい解脱をした人は誰でも、それらの人は、人がするべき仕事が終わった人ケヴァリーと呼ばれます。人がするべき仕事が終わった人は誰でも、それらの人に規定すべき輪廻は当然ありません。

 比丘のみなさん。七つの立場に賢い比丘はこのようです。

 比丘のみなさん。三つの方法で熟慮する比丘はどのようでしょうか。比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘は、当然ダートゥ(四大種)であるダンマを熟慮し、当然六処であるダンマを熟慮し、当然縁起であるダンマを熟慮します。比丘のみなさん。比丘はこのような三つの方法で熟慮する人です。

 比丘のみなさん。七つの条件に賢く、三つの方法で熟慮する人を、私はこのダンマヴィナヤの梵行が終わったケヴァリー(阿羅漢)である比丘と言います。

  註1: このような状態のケヴァリとは、苦の消滅の観点ですべての終りである涅槃に到達した阿羅漢を意味し、区別のない不死の状態に到達したことです。





縁起の受を熟知すれば、随眠は生じられない

祇園精舎で
チャッカスッタ
中部ウパリパンナーサ 14巻518頁823項

 比丘のみなさん。(1)目と形に依存して眼識が生じ、三つのダンマ(目+形+眼識)の会合が触です。触が縁で、幸福でも、苦でも、苦とも幸福ともつかなくても受が生じます。その人が幸受に触れても当然夢中にならず、当然褒めちぎって惑溺していなければ、随眠であるラーガ(貪り)は当然その人の中で眠り(習性が増え)ません。

 苦受に触れても当然悲しまず、当然苦悶せず、当然泣き嘆かず、当然胸を叩いて泣いて呆けなければ、随眠であるパティガ(怒り)は当然その人の中で眠りません。

 不苦不幸受に触れても、彼は当然その受が生じた原因を知り、その受の消滅を知り、その受の旨味を知り、その受の害を知り、その受から出る方便を知っているので、随眠である無明は当然その人の中で眠りません。

 比丘のみなさん。その人が受から生じた貪随眠を捨て、受から生じた瞋恚随眠を軽減し、受から生じた無明随眠を抜いてしまい、無明を捨ててしまって明を生じさせれば、彼は現生で苦を終わらせることができます。これはあり得ます。


 比丘のみなさん。(2)耳と声に依存して耳識が生じ、三つのダンマ(耳+声+耳識)の会合が触です。触が縁で幸福でも苦でも、苦とも幸福ともつかなくても受が生じます。その人が幸受に触れても当然夢中にならず、当然褒めちぎらず、惑溺していなければ、随眠であるラーガ(貪り)は、当然その人の中で眠り(習性が増え)ません。

 苦受に触れても当然悲しまず、当然苦悶せず、当然泣き嘆かず、当然胸を叩いて泣いて呆けなければ、随眠であるパティガ(怒り)は当然その人の中で眠りません。

 不苦不幸受に触れても彼は当然その受が生じた原因を知り、その受の消滅を知り、その受の旨味を知り、その受の害を知り、その受から出る方便を知っているので、随眠である無明は当然その人の中で眠りません。

 比丘のみなさん。その人が受から生じた貪随眠を捨て、受から生じた瞋恚随眠を軽減し、受から生じた無明随眠を抜いてしまい、無明を捨ててしまって明を生じさせれば、彼は現生で苦を終わらせることができます。これはあり得ます。


 比丘のみなさん。(3)鼻と臭いに依存して鼻識が生じ、三つのダンマ(鼻+臭い+鼻識)の会合が触です。触が縁で幸福でも苦でも、苦とも幸福ともつかなくても受が生じます。その人が幸受に触れても当然夢中にならず、当然褒めちぎらず、惑溺していなければ、随眠であるラーガ(貪り)は、当然その人の中で眠り(習性が増え)ません。

 苦受に触れても当然悲しまず、当然苦悶せず、当然泣き嘆かず、当然胸を叩いて泣いて呆けなければ、随眠であるパティガ(怒り)は当然その人の中で眠りません。

 不苦不幸受に触れても、彼は当然その受が生じた原因を知り、その受の消滅を知り、その受の旨味を知り、その受の害を知り、その受から出る方便を知っているので、随眠である無明は当然その人の中で眠りません。

 比丘のみなさん。その人が受から生じた貪随眠を捨て、受から生じた瞋恚随眠を軽減し、受から生じた無明随眠を抜いてしまい、無明を捨ててしまって明を生じさせれば、彼は現生で苦を終わらせることができます。これはあり得ます。


 比丘のみなさん。(4)舌と味に依存して舌識が生じ、三つのダンマ(舌+味+舌識)の会合が触です。触が縁で、幸福でも苦でも、苦とも幸福ともつかなくても受が生じます。その人が幸受に触れても当然夢中にならず、当然褒めちぎって惑溺していなければ、随眠であるラーガ(貪り)は当然その人の中で眠り(習性が増え)ません。

 苦受に触れても当然悲しまず、当然苦悶せず、当然泣き嘆かず、当然胸を叩いて泣いて呆けなければ、随眠であるパティガ(怒り)は当然その人の中で眠りません。

 不苦不幸受に触れても、彼は当然その受が生じた原因を知り、その受の消滅を知り、その受の旨味を知り、その受の害を知り、その受から出る方便を知っているので、随眠である無明は当然その人の中で眠りません。

 比丘のみなさん。その人が受から生じた貪随眠を捨て、受から生じた瞋恚随眠を軽減し、受から生じた無明随眠を抜いてしまい、無明を捨ててしまって明を生じさせれば、彼は現生で苦を終わらせることができます。これはあり得ます。


比丘のみなさん。(5)体と接触に依存して身識が生じ、三つのダンマ(体+接触+身識)の会合が触です。触が縁で幸福でも苦でも、苦とも幸福ともつかなくても受が生じる、その人が幸受に触れても当然夢中にならず、当然褒めちぎって惑溺していなければ、随眠であるラーガ(貪り)は当然その人の中で眠り(習性が増え)ません。

 苦受に触れても当然悲しまず、当然苦悶せず、当然泣き嘆かず、当然胸を叩いて泣いて呆けなければ、随眠であるパティガ(怒り)は当然その人の中で眠りません。

 不苦不幸受に触れても、彼は当然その受が生じた原因を知り、その受の消滅を知り、その受の旨味を知り、その受の害を知り、その受から出る方便を知っているので、随眠である無明は当然その人の中で眠りません。

 比丘のみなさん。その人が受から生じた貪随眠を捨て、受から生じた瞋恚随眠を軽減し、受から生じた無明随眠を抜いてしまい、無明を捨ててしまって明を生じさせれば、彼は現生で苦を終わらせることができます。これはあり得ます。


 比丘のみなさん。(6)心と想念に依存して意識が生じ、三つのダンマ(心+想念+意識)の会合が触です。触が縁で幸福でも苦でも、苦とも幸福ともつかなくても受が生じます。その人が幸受に触れても当然夢中にならず、当然褒めちぎって惑溺していなければ、随眠であるラーガ(貪り)は当然その人の中で眠り(習性が増え)ません。

 苦受に触れても当然悲しまず、当然苦悶せず、当然泣き嘆かず、当然胸を叩いて泣いて呆けなければ、随眠であるパティガ(怒り)は当然その人の中で眠りません。

 不苦不幸受に触れても、彼は当然その受が生じた原因を知り、その受の消滅を知り、その受の旨味を知り、その受の害を知り、その受から出る方便を知っているので、随眠である無明は、当然その人の中で眠りません。

 比丘のみなさん。その人が受から生じた貪随眠を捨て、受から生じた瞋恚随眠を軽減し、受から生じた無明随眠を抜いてしまい、無明を捨ててしまって明を生じさせれば、彼は現生で苦を終わらせることができます。これはあり得ます。





取の基盤である五つのダンマを明らかに知れば縁起の流れは断たれる

祇園精舎で
相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻39頁63項

 比丘のみなさん。みなさんがすべての取を知るための、ダンマの説明をします。このダンマをお聞きなさい。

 比丘のみなさん。すべての取を知り尽すためのダンマはどのようでしょうか。

(1)比丘のみなさん。目と形に依存して眼識が生じ、三つのダンマ(目+形+眼識)の会合が触で、触が縁で受があります。比丘のみなさん。聞いたことがある聖なる弟子がこのように見れば、当然①目に倦怠し、当然②すべての形に倦怠し、当然③眼識に倦怠し、当然④眼触に倦怠し、当然⑤受に倦怠します。

 倦怠すれば当然欲情が緩み、欲情が緩めば当然解脱し、その聖なる弟子は「取(註1)は解脱するためにすべて知り尽くした物」と明確に知ります。

(2) 比丘のみなさん。耳と声に依存して耳識が生じ、三つのダンマ(耳+声+耳識)の会合が触で、触が縁で受があります。比丘のみなさん。聞いたことがある聖なる弟子がこのように見れば当然耳に倦怠し、当然すべての声に倦怠し、当然耳識に倦怠し、当然耳触に倦怠し、当然受に倦怠します。

 倦怠すれば当然欲情が緩み、欲情が緩めば当然解脱し、その聖なる弟子は「取は解脱するためにすべて知り尽くした物」と明確に知ります。

(3) 比丘のみなさん。鼻と臭いに依存して鼻識が生じ、三つのダンマ(鼻+臭い+鼻識)の会合が触で、触が縁で受があります。比丘のみなさん。聞いたことがある聖なる弟子がこのように見れば当然鼻に倦怠し、当然すべての臭いに倦怠し、当然鼻識に倦怠し、当然鼻触に倦怠し、当然受に倦怠します。

 倦怠すれば当然欲情が緩み、欲情が緩めば当然解脱し、その聖なる弟子は「取は解脱するためにすべて知り尽くした物」と明確に知ります。

(4) 比丘のみなさん。舌と味に依存して舌識が生じ、三つのダンマ(舌+味+舌識)の会合が触で、触が縁で受があります。比丘のみなさん。聞いたことがある聖なる弟子がこのように見れば当然舌に倦怠し、当然すべての味に倦怠し、当然舌識に倦怠し、当然舌触に倦怠し、当然受に倦怠します。

 倦怠すれば当然欲情が緩み、欲情が緩めば当然解脱し、その聖なる弟子は「取は解脱するためにすべて知り尽くした物」と明確に知ります。

(5) 比丘のみなさん。体と接触に依存して身識が生じ、三つのダンマ(体+接触+身識)の会合が触で、触が縁で受があります。比丘のみなさん。聞いたことがある聖なる弟子がこのように見れば当然体に倦怠し、当然すべての接触に倦怠し、当然身識に倦怠し、当然身触に倦怠し、当然受に倦怠します。

 倦怠すれば当然欲情が緩み、欲情が緩めば当然解脱し、その聖なる弟子は「取は解脱するためにすべて知り尽くした物」と明確に知ります。

(6) 比丘のみなさん。心と想念に依存して意識が生じ、三つのダンマ(心+想念+意識)の会合が触で、触が縁で受があります。比丘のみなさん。聞いたことがある聖なる弟子がこのように見れば当然心に倦怠し、当然すべての想念に倦怠し、当然意識に倦怠し、当然意触に倦怠し、当然受に倦怠します。

 倦怠すれば当然欲情が緩み、欲情が緩めば当然解脱し、その聖なる弟子は「取は解脱するためにすべて知り尽くした物」と明確に知ります。

 比丘のみなさん。このダンマは、すべての取を知り尽すためになります。

註1: 形・受・想・行・識の五つが取の基盤である物で、これらを良く知り、これらに倦怠し、欲情が緩んで解脱すれば、通常欲取、見取、戒禁取、我語取であるすべての取について知り尽したことを意味します。

註: この後の経(相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻40頁64項)はほとんど同じ内容ですが、二つだけ言葉が違っています。つまり「すべての取を知り尽すため」と「知り尽くした」という言葉が「すべての取を支配するため」と「支配した物」になっているだけです。

 この二つの経の要旨は、受の終りがある五つのダンマは縁起の因縁にすぎない、つまりその項で明確に述べているように依存して生じるので、受の時に縁起は当然崩壊するか、あるいは初めから生じることができないということです。




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