内部の縁を熟慮することは、縁起を熟慮すること


カンマーサダンマニガマで

相応部ニダーナサンバヴァ 16巻130頁254項

 比丘のみなさん。みなさんが熟慮する時は当然内部の縁を熟慮しますか。

 世尊がこのように質問なさると、一人の比丘が「猊下。私は熟慮する時当然内部の縁を熟慮します」と答えました。世尊は「比丘。あなたが熟慮する時は、どのように内部の縁を熟慮するのですか」と質問され、その比丘が自分の内部の縁を熟慮する話をすると、どれにも満足なさいませんでした。するとプラアーナンダが

 「猊下。これを説かれる時です。猊下。この話を説かれる時です。世尊が内部の縁を熟慮する話をなされば、比丘全員が世尊からその内部の縁を熟慮する話を聞いて、すべてを記憶します」と申し上げると、「アーナンダ。それならみなさん、心の中を役立つようにして、お聞きなさい。今から話します」と言われ、次の言葉をお話しになりました。

 比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘は、内部の縁を「苦は少なからずありこの世界にいろんな種類の苦、つまり老死のどれも生じる。苦の原因は何だろう。何が苦を生じさせる物で、何が苦を作る物で、何が苦の発生源だろう。何があるから老死があるのだろう。(何がなければ老死がないのだろう)」と熟慮します。

 その比丘は熟慮して「苦は少なからずある。いろんな種類の苦、つまり老死のどれも当然世界に生じる。この苦には原因であるウパディ(煩悩を生じさせるもの。係累。依)があり、苦を生じさせるウパディがあり、ウパディが苦を作る物で、ウパディが苦の発生源だ。ウパディがあるから老死がある。ウパディがなければ老死もない」と知ります。

 その比丘は当然老死を明らかに知り、当然老死を生じさせる原因を明らかに知り、当然老死の消滅を明らかに知り、当然生き物を老死の消滅に至らせる実践項目を明らかに知り、そしてその人は、タンマにふさわしい実践をする人です。比丘のみなさん。私はこの比丘を、すべての苦を正しく終わらせるため、つまり老死の消滅のために実践する人と言います。

 比丘のみなさん。まだあります。比丘が熟慮する時は、当然内部の縁を「それならこのウパディは何が生じさせる原因で、何がウパディを生じさせる物で、何がウパディを作る物で、何がウパディの発生源だろう。何があるからウパディがあるのだろう」とこのように熟慮します。

 その比丘が熟慮していると、当然「ウパディには原因である欲があり、生じさせる欲があり、欲が作る物で、欲が発生源だ。欲があるからウパディがある。欲がなければウパディもない」とこのように知ります。

 その比丘は当然ウパディを明らかに知り、当然ウパディを生じさせる原因を明らかに知り、当然ウパディの消滅を明らかに知り、当然動物をウパディの消滅に至らせる実践項目を明らかに知ります。そしてその人はタンマにふさわしい実践をする人です。比丘のみなさん。その比丘を私は、すべての苦を正しく終わらせるため、つまりウパディの消滅のために実践する人と言います。

 比丘のみなさん。まだあります。比丘が熟慮する時は、当然内部の縁を「その欲が生じる時はどこに生じ、維持する時はどこで維持し、消滅する時はどこで消滅するのだろう」とこのように熟慮します。その比丘が熟慮していると、当然「世界の愛する状態、喜ばしい状態がある物は何でも、欲が生じる時はそれに生じ、維持する時はそこで維持し、消滅する時はそこで消滅する」とこのように知ります。

 その比丘は当然欲を明らかに知り、当然欲を生じさせる原因を明らかに知り、当然欲の消滅を明らかに知り、当然動物を欲の消滅に至らせる実践項目を明らかに知っています。比丘のみなさん。その比丘を私は、すべての苦を正しく終わらせるため、つまり欲の消滅のために実践する人と言います。

(1)目、すべての形、眼識、眼触、眼触受、形想、形意図、形欲、形尋(ヴィタッカ)、形伺(ヴィチャーラ)、(どれも)世界の愛らしい状態、喜ばしい状態があり、その欲は、生じる時は当然その目などに生じ、入り込んで維持する時は、当然その目などに入って維持します。

(2)耳、すべての声、耳識、耳触、耳触受、声想、声意図、声欲、声尋、声伺、(どれにも)世界の愛らしい状態、喜ばしい状態があり、その欲は、生じる時は当然その耳などに生じ、入り込んで維持する時は、当然その耳などに入って維持します。

(3)鼻、すべての臭い、鼻識、鼻触、鼻触受、臭想、臭意図、臭欲、臭尋、臭伺、(どれにも)世界の愛らしい状態、喜ばしい状態があり、その欲は、生じる時は当然その鼻などに生じ、入り込んで維持する時は、当然その鼻などに入って維持します。

(4)舌、すべての味、舌識、舌触、舌触受、味想、味意図、味欲、味尋、味伺、(どれにも)世界の愛らしい状態、喜ばしい状態があり、その欲は、生じる時は当然その舌などに生じ、入り込んで維持する時は、当然その舌などに入って維持します。

(5)体、すべての接触、身識、身触、身触受、接触想、接触意図、接触欲、接触尋、接触伺、(どれにも)世界の愛らしい状態、喜ばしい状態があり、その欲は、生じる時は当然その体などに生じ、入り込んで維持する時は、当然その体などに入って維持します。

(6)心、すべての想念、意識、意触、意触受、法想、法意図、法欲、法尋、法伺、(どれにも)世界の愛らしい状態、喜ばしい状態があり、その欲は、生じる時は当然その心などに生じ、入り込んで維持する時は、当然その心などに入って維持します。

 比丘のみなさん。遠い過去のサマナ、あるいはバラモンでも、世界の愛らしい状態、喜ばしい状態がある物を不変と見、幸福と見、自分と見、突き刺さない物と見、安全なものと見る人たちは誰でも、そのサマナ、あるいはバラモンは欲を増進させると言われ、欲を増進させるサマナ、あるいはバラモンは誰でも、そのサマナ、あるいはバラモンはウパティを増進させると言われます。

 ウパディを増進させたサマナ、あるいはバラモンは誰でも苦を増進させたと言われ、苦を増進させたサマナ、あるいはバラモンは誰でも、生・老・死・嘆き・悲しみ・苦・憂い・すべての悩みから解脱しないと言われます。私は「それらのサマナ、あるいはバラモンは苦から脱せない」と言います。

 比丘のみなさん。遠い未来のサマナ、あるいはバラモンでも、世界の愛らしい状態、喜ばしい状態がある物を不変と見、幸福と見、自分と見、突き刺さない物と見、安全なものと見る人たちは誰でも、欲を増進させると言われ、欲を増進させるサマナ、あるいはバラモンは誰でもウパティを増進させると言われます。

 ウパディを増進させたサマナ、あるいはバラモンは誰でも苦を増進させたと言われ、苦を増進させたサマナ、あるいはバラモンは誰でも、生・老・死・嘆き・悲しみ・苦・憂い・すべての悩みから解脱しないと言われます。私は「それらのサマナあるいはバラモンは苦から脱せない」と言います。

 比丘のみなさん。現在のサマナ、あるいはバラモンでも、世界の愛らしい状態、喜ばしい状態がある物を不変と見、幸福と見、自分と見、突き刺さない物と見、安全なものと見る人たちは誰でも、そのサマナあるいはバラモンは欲を増進させると言われ、欲を増進させるサマナあるいはバラモンは誰でもウパティを増進させると言われます。

 ウパディを増進させたサマナ、あるいはバラモンは誰でも苦を増進させたと言われ、苦を増進させたサマナ、あるいはバラモンは誰でも、生・老・死・嘆き・悲しみ・苦・憂い・すべての悩みから解脱しないと言われます。私は「それらのサマナ、あるいはバラモンは苦から脱せない」と言います。

 比丘のみなさん。たとえば色も匂いも味も完璧な毒入りの飲み物が入った青銅のカップがあり、その時非常に暑くて、体中がムシムシして疲れて喉が渇いている男が来ると、一斉に「旦那。このカップは色も匂いも味も完璧だが、毒薬が入っているよ。飲みたければ飲んでもいい。飲んでいる時は色や匂いや味に心を奪われるが、飲めば旦那は死ぬか、あるいは死ぬほどの苦を味わうよ」とこのように言います。その男は熟慮する間もなく急いで飲み干し、それが原因で死ぬか、死ぬほどの苦を味わいます。

 比丘のみなさん。同じように遠い過去のサマナ、あるいはバラモンでも、世界の愛らしいもの、喜ばしい物を当然変わらないものと見、幸福なものと見、実体があると見、突き刺さない物と見、満足な物と見る人は当然欲望を増進させます。

 欲望が増えれば煩悩が増え、煩悩が増えれば苦が増え、苦が増えればそのサマナあるいはバラモンは当然生・老・死・悲しみ・嘆き・体の苦・心の苦・心の困苦から解脱しません。私は当然「そのサマナ、あるいはバラモンは当然苦から脱せない」と言います。

 比丘のみなさん。遠い未来のサマナ、あるいはバラモンでも、世界の愛らしい物、喜ばしい物を、当然変わらない物と見、幸福な物と見、実体があると見、突き刺さない物と見、満足な物と見る人は当然欲望を増進させます。

 欲望が増えれば煩悩が増え、煩悩が増えれば苦が増え、苦が増えれば、そのサマあるいはやバラモンは、当然生・老・死・悲しみ・嘆き・体の苦・心の苦・心の困苦から解脱しません。私は当然「そのサマナあるいはバラモンは当然苦から脱せない」と言います。

 比丘のみなさん。現在のサマナあるいはバラモンでも、世界の愛らしいもの、喜ばしい物を当然変わらない物と見、幸福な物と見、実体があると見、突き刺さない物と見、満足な物と見る人は当然欲望を増進させます。欲望が増えれば煩悩が増え、煩悩が増えれば苦が増え、苦が増えれば、そのサマナ、あるいはバラモンは、当然生・老・死・悲しみ・嘆き・体の苦・心の苦・心の困苦から解脱しません。私は当然「そのサマナ、あるいはバラモンは当然苦から脱せない」と言います。



 比丘のみなさん。遠い過去のサマナやバラモンでも、世界の愛らしいもの、喜ばしい物を当然無常のものと見、苦と見、自分ではないと見、突き刺す物と見、恐ろしい物と見る人は、それらのサマナ、あるいはバラモンは欲を捨てられたと言われます。欲を捨てられたサマナ、あるいはバラモンは誰でもウパディを捨てられたと言われます。

 ウパディを捨てられたサマナ、あるいはバラモンは誰でも苦を捨てられたと言われ、苦を捨てることができたサマナ、あるいはバラモンは誰でも生・老・死・嘆き・悲しみ・苦・憂い・すべての悩みから解脱したと言われます。私は当然「そのサマナ、あるいはバラモンは当然苦から解脱した」と言います。

 比丘のみなさん。遠い未来のサマナでもバラモンでも、世界の愛らしいもの、喜ばしい物を、当然無常の物と見、苦と見、実体がないと見、突き刺す物と見、恐ろしい物と見る人は、それらのサマナ、あるいはバラモンは欲を捨てられたと言われます。欲を捨てられた、サマナあるいはバラモンは誰でもウパディを捨てられたと言われます。

 ウパディを捨てられたサマナ、あるいはバラモンは誰でも苦を捨てられたと言われ、苦を捨てることができたサマナ、あるいはバラモンは誰でも生・老・死・嘆き・悲しみ・苦・憂い・すべての悩みから解脱したと言われます。私は当然「そのサマナ、あるいはバラモンは、当然苦から解脱した」と言います。

 比丘のみなさん。現在のサマナでもバラモンでも、世界の愛らしい物、喜ばしい物を、当然無常の物と見、苦と見、実体がないと見、突き刺す物と見、恐ろしい物と見る人は、それらのサマナ、あるいはバラモンは誰でも欲を捨てられたと言われます。欲を捨てられたサマナ、あるいはバラモンは誰でもウパディを捨てられたと言われます。

 ウパディを捨てられたサマナ、あるいはバラモンは誰でも苦を捨てられたと言われ、苦を捨てることができたサマナ、あるいはバラモンは誰でも生・老・死・嘆き・悲しみ・苦・憂い・すべての悩みから解脱したと言われます。私は当然「そのサマナ、あるいはバラモンは当然苦から解脱した」と言います。

 比丘のみなさん。たとえば色も匂いも味も完璧ですが毒薬が入っている飲み物が入った青銅カップがあり、その時非常に暑くて体中が蒸れて暑く疲れ切って喉が渇いた男が来ると、誰もが「旦那。この青銅カップの飲み物は色も匂いも味も完璧で、あなたは飲むことができるが、これには毒が入っている。飲みたければ飲んでも良いよ。飲んでいる時はその色や匂いや味の虜になるが、飲めばあなたは死ぬか、死ぬほどの苦を受け取るよ」と言います。

 比丘のみなさん。その時男に「猛烈な喉の渇きは冷たい水、あるいは薄いヨーグルト、あるいはマッダローニカ(という飲み物)、あるいはローナソジラカ(という飲み物)で癒せる。この酒は苦になり私にとって利益にならないから、その酒を飲むべきではない」とこのような考えが生まれます。その男は熟慮して飲まずにその青銅カップを置きます。男はそれによって死に至らず、あるいは死ぬほどの苦を受けません。

 同じように比丘のみなさん。遠い過去のサマナ、あるいはバラモンでも世界の愛らしい物、喜ばしい物を、当然無常の物と見、苦と見、実体がないと見、突き刺す物と見、恐ろしい物と見る人は、それらのサマナ、あるいはバラモンは欲を捨てられたと言われます。欲を捨てられたサマナ、あるいはバラモンは誰でもウパディを捨てられたと、言われます。

 ウパディを捨てられたサマナあるいはバラモンは誰でも苦を捨てられたと言われ、苦を捨てることができたサマナ、あるいはバラモンは誰でも、生・老・死・嘆き・悲しみ・苦・憂い・すべての悩みから解脱したと言われます。私は当然「そのサマナあるいはバラモンは、当然苦から解脱した」と言います。

 比丘のみなさん。遠い未来のサマナあるはバラモンでも、世界の愛らしい物、喜ばしい物を、当然無常の物と見、苦と見、実体がないと見、突き刺す物と見、恐ろしい物と見る人は、それらのサマナ、あるいはバラモンは欲を捨てられたと言われます。欲を捨てられたサマナ、あるいはバラモンは誰でもウパディを捨てられたと言われます。

 ウパディを捨てられたサマナ、あるいはバラモンは誰でも苦を捨てられたと言われ、苦を捨てることができたサマナ、あるいはバラモンは誰でも、生・老・死・嘆き・悲しみ・苦・憂い・すべての悩みから解脱したと言われます。私は当然「そのサマナあるいはバラモンは、当然苦から解脱した」と言います。

 比丘のみなさん。現在のサマナあるいはバラモンでも、世界の愛らしい物、喜ばしい物を、当然無常の物と見、苦と見、実体がないと見、突き刺す物と見、恐ろしい物と見る人は、それらのサマナあるいはバラモンは誰でも欲を捨てられたと言われます。欲を捨てられたサマナあるいはバラモンは誰でもウパディを捨てられたと言われます。

 ウパディを捨てられたサマナ、あるいはバラモンは誰でも苦を捨てられたと言われ、苦を捨てることができたサマナ、あるいはバラモンは誰でも、生・老・死・嘆き・悲しみ・苦・憂い・すべての悩みから解脱したと言われます。私は当然「そのサマナ、あるいはバラモンは、当然苦から解脱した」と言います。





段階的に捨てる縁起の形の実践のダンマ

増支部ダサカニパータ 24巻154頁76項

 比丘のみなさん。この三つのダンマが世界にあるべきでなければ、如行(ブッダの一人称。漢訳は如来)はこの世界に阿羅漢サンマーサンブッダとして生まれる必要はなく、そして如行が公開したダンマヴィナヤも世界で繁栄する必要はありません。三つのダンマとは何でしょうか。三つのダンマは生と老と死です。

 比丘のみなさん。この三つのダンマが世界になければ、如行はこの世界に阿羅漢サンマーサンブッダとして生まれる必要はなく、そして如行が公開したダンマヴィナヤも、世界で繁栄する必要はありません。比丘のみなさん。世界にこの三つのダンマがあるから、如行が阿羅漢サンマーサンブッダとして生まれ、如行が公開したダンマヴィナヤが繁栄しなければなりません。

 比丘のみなさん。人が三つのダンマ、貪・瞋・痴・を捨てなければ、三つのダンマ、つまり生・老・死を捨てることはできません。

 比丘のみなさん。三つのダンマ、有身見・疑法・戒禁取を捨てなければ、三つのダンマ、つまり貪・瞋・痴・を捨てることはできません。

 比丘のみなさん。三つのダンマ、不如意作意(道理で考えること)・悪劣な見解に夢中になること(邪見熱中)・委縮した心(心委縮)を捨てなければ、三つのダンマ、つまり有身見・疑法・戒禁取を捨てることはできません。

 比丘のみなさん。三つのダンマ、忘れたサティ(失念)・無自覚・心の揺れ(心散乱)を捨てなければ、三つのダンマ、つまり不如意作意・邪見熱中・心委縮を捨てることはできません。

 比丘のみなさん。三つのダンマ、聖人を見たがらない・聖人のダンマを聞きたがらない・寄り道する心を捨てなければ、三つのダンマ、つまり失念・無自覚・心の揺れを捨てることはできません。

 比丘のみなさん。三つのダンマ、散漫・集中しないこと・悪い戒を捨てなければ、三つのダンマ、つまり聖人を見たがらない・聖人の話を聞きたがらない・寄り道する心を捨てることはできません。

 比丘のみなさん。三つのダンマ、信仰がない・恩知らず・怠慢を捨てなければ、三つのダンマ、つまり散漫・集中しないこと・悪い戒を捨てることはできません。

 比丘のみなさん。三つのダンマ、支援すべき人やダンマを支援しない・言うことを聞かない・悪友と付き合うことを捨てなければ、三つのダンマ、つまり信仰がない・恩知らず・怠慢を捨てることはできません。

 比丘のみなさん。三つのダンマ、恥じるべきことを恥じない・恐れるべきことを恐れない・不注意を捨てなければ、三つのダンマ、つまり支援すべき人やダンマを支援しない・言うことを聞かない・悪友と付き合うことを捨てることはできません。



 比丘のみなさん。人に恥じるべきことを恥じず、恐れるべきことを恐れず、不注意がある人は、支援すべき人やダンマを支援しない・言うことを聞かない・悪友と付き合うことを捨てることはできません。

 悪友との交際があれば、その人は信仰がない・恩知らず・怠慢を捨てることはできません。

 怠惰があれば、その人は散漫・集中しない・悪い戒を捨てることはできません。

 悪い戒があれば、その人は聖人を見たがらない・聖人のダンマを聞きたがらない・非難する心を捨てることはできません。

 非難する心があれば、その人は失念・無自覚・心の混乱を捨てることはできません。

 心の混乱があれば、その人は不如意作意・邪見熱中・心委縮を捨てることはできません。

 心の委縮があれば、その人は有身見・疑法・戒禁取を捨てることはできません。

 疑法があれば、その人は貪・瞋・痴を捨てることはできません。

 貪・瞋・痴を捨てなければ、その人は生・老・死を捨てることはできません。



 比丘のみなさん。人が貪・瞋・痴を捨てれば、生・老・死を捨てることができます。

 比丘のみなさん。人が有身見・疑法・戒禁取を捨てれば、貪・瞋・痴を捨てることができます。

 比丘のみなさん。人が心の中を不如意作意にする・悪い見に夢中になる(邪見熱中)・委縮した心(心委縮)を捨てれば、有身見・疑法・戒禁取を捨てることができます。

 比丘のみなさん。人が忘れたサティ(失念)・無自覚・心の混乱を捨てれば、不如意作意・邪見熱中・心委縮を捨てることができます。

 比丘のみなさん。人が聖人を見たがらない・聖人のダンマを聞きたがらない・非難する心を捨てれば、失念・無自覚・心の混乱を捨てることができます。

 比丘のみなさん。人が散漫・集中しない・悪い戒を捨てれば、聖人を見たがらない・聖人の話を聞きたがらない・非難する心を捨てることができます。

 比丘のみなさん。人が信仰がない・恩知らず・怠慢を捨てれば、散漫・集中しない・悪い戒を捨てることができます。

 比丘のみなさん。人が支援すべき人やダンマを支援しない・言うことを聞かない・悪友と付き合うことを捨てれば、信仰がない・恩知らず・怠慢を捨てることができます。

 比丘のみなさん。人が恥じるべきことを恥じない・恐れるべきことを恐れない・油断を捨てれば、支援すべき人やダンマを支援しない・言うことを聞かない・悪友と付き合うことを捨てることができます。

、・

 比丘のみなさん。人が恥を知り恐れを知り、不注意がなければ、支援すべき人やダンマを支援しない・言うことを聞かない・悪友と付き捨てることができます。

 悪友との交際がなければ、その人は信仰がない・恩知らず・怠慢を捨てることができます。

 怠惰がなければ、その人は散漫・集中しない・悪い戒を捨てることができます。

 悪い戒がなければ、その人は聖人を見たがらない・聖人のダンマを聞きたがらない・非難する心を捨てることができます。

 非難する心がなければ、その人は失念・無自覚・心の混乱を捨てることができます。

 心の混乱がなければ、その人は不如意作意・邪見熱中・心委縮を捨てることができます。

 心の委縮がなければ、その人は有身見・疑法・戒禁取を捨てることができます。

 疑法がなければ、その人は貪・瞋・痴・を捨てることができます。

 貪・瞋・痴を捨てられれば、その人は生・老・死を捨てることができます。

註: 学習者は、縁起という言葉には広い意味があり、「無明が縁で行が生じ」という教えだけでなく、どんな教えでも意味することができると観察して見なければなりません。この文章のように因果と呼ぶ法則で互いに縁として繋がっているものは、実践の状態を説くだけで縁起の状態を明らかに見せています。

 だから学習面と実践面の利益のため、そして縁起あるいは因果という言葉の意味をもっと理解するために引用して紹介しました。このような縁起の形の実践の教えはまだたくさんあり、どれも興味深いものばかりです。





縁起の状態の四食に対する実践法

祇園精舎で
相応部ニダーナヴァッガ 16巻118頁240項

1.例えによる四つの食べ物の状態

 比丘のみなさん。この四種類の食べ物は当然すべての動物を維持するため、あるいはすべての求生者(生まれる所を求めているもの)を支援するためにあります。四種類の食べ物はどのようでしょうか。四種類とは、

 最初の食べ物は下等でも上等でも飯塊(ご飯)で、

 二番目の食べ物は触で、
 三番目の食べ物は意思で、

 四番目の食べ物は識です。

 比丘のみなさん。この四種類の食べ物は、すべての生まれた動物が生存するため、あるいは生まれる場所を探している動物を援けるためにあります。

 比丘のみなさん。カバリカーラーハーラ(飯塊)をどのように見るべきでしょうか。比丘のみなさん。夫婦がわずかな食糧を携えて不毛な地を旅し、その夫婦には可愛い幼子が一人いて、困難な地帯を旅している時わずかな食糧が途半ばで尽きてしまい、夫婦は「持っていたわずかな食料は尽きてしまった。

まだ困難な旅は残っていて、不毛な道を通過できないようになってはいけない。私たちは可愛い幼子を殺して、塩漬けや燻製肉にしてこの子の肉を食べ、まだ残っている困難な旅を乗り越えよう。そうしなければ三人が確実に破滅する」と考えます。

 その時夫婦は可愛い我が子を殺し、塩漬けや燻製肉にしてその子の肉を食べ、残っている困難な旅を続けます。この夫婦は「私の一人子はどこへ行った? 私の一人子はどこへ行った?」とつぶやき、胸を叩きながら我が子の肉を食べます。

 比丘のみなさん。みなさんはこれをどう理解しますか。夫婦は楽しみのため、陶酔のため、飾りのため、あるいは(体を)飾るための食べ物として我が子の肉を食べるでしょうか。

 「いいえ。猊下」。

 それならその夫婦は、困難な旅を続けるためだけに我が子の肉を食べるでしょうか。

 「そうです。猊下」。

 それなら、これも同です。聖なる弟子は段食も同じように(我が子の肉のように)見なければならないと私は言います。

 比丘のみなさん。聖なる弟子が段食を知れば、発生源である五欲があるラーガ(貪)は、当然その聖なる弟子が認識している物で、発生源である五欲のあるラーガがその聖なる弟子が認識している物なら、この世界に再び来る原因になるサンニョージャナ(心と煩悩を結ぶ物。結)は、当然その聖なる弟子にありません。

 比丘のみなさん。パッサーハーラ(触食)を、人はどのように見るべきでしょうか。比丘のみなさん。包んでいる毛皮がない牛の乳房は、壁に寄りかかれば壁に棲んでいる動物に噛まれ、水(たまり)に降りて行けば水中に棲んでいる動物に噛まれ、広い所に住めば空に住んでいる動物につ突かれます。比丘のみなさん。包んでいる毛皮がない牛の乳房は、どんな場所に住んでも、絶えずそこに棲んでいる動物に喰われます。

 同じように比丘のみなさん。私は当然「聖なる弟子は、触食を(包んでいる毛皮がない牛の乳房のようと)見なければならない」と言います。比丘のみなさん。聖なる弟子が触食を認識すれば、三つの受も、当然その聖なる弟子が認識した物になります。三つの受が、その聖なる弟子が認識できた物になれば、私は当然「その聖なる弟子には、それ以上行動すべきことは何もない」と言います。

 比丘のみなさん。マノーサンジェッタナーハラ(意志食)は、人がどのように見るべき物でしょうか。比丘のみなさん。たとえば人の背丈より深い炭の穴に、炎も煙もない炭が燃え盛っていて、その時生きていたい、死にたくない、幸福を愛し、苦を厭っている人がそこへ来ると、力持ちの男二人が両側から腕を掴んで無理やりその炭の穴まで引っ張って行きます。

 比丘のみなさん。その時その男は炭の穴から離れたい考え、望み、決意があります。なぜでしょうか。比丘のみなさん。その男は当然「炭の穴に落ちたら死ぬか、あるいはそれが原因で死ぬほどの苦を受け取る」と知っているからです。

 同じように比丘のみなさん。私は「聖なる弟子が(炭の穴と同じと)見るべき意志食も同じ」と言います。比丘のみなさん。聖なる弟子が意志食を認識すれば、三つの欲望も聖なる弟子が認識できた物になります。三つの欲望が、聖なる弟子が認識できた物なら、私は当然「その聖なる弟子にとって、それ以上するべきことはなにもない」と言います。

 比丘のみなさん。ヴィンニャーナーハーラ(識食)とは、人がどのように見るべき物でしょうか。比丘のみなさん。たとえば卑劣な強盗を捕えた役人が「王様。この者は卑劣な振る舞いの強盗です。どうぞこの者をお望みどおりに罰してください、王様」と国王に説明するようなものです。王は「発展なさった方々。今朝この者を百本の槍で処刑しなさい」と命令すると、役人たちは、その朝、罪人を百丁の槍で処刑します。

 王は昼に「発展なさった方々。あの男はどうしましたか」と質問し、役人が、「王様。あの罪人はまだ生きております」と奏上すると、王は役人に「発展なさった方々。みなさんこの昼に、あの男を百本の槍で処刑しなさい」と命じ、それらの役人は、昼に百丁の槍で、その罪人を処刑します。

 夕方「発展なさった方々。あの男はどうしましたか」と質問し、役人が「王様。あの罪人はまだ生きております」と奏上すると、王は役人に「発展なさった方々。みなさんこの夕に、あの男を百本の槍で処刑しなさい」と命じ、それらの役人は、夕に百丁の槍で、その罪人を処刑します。

 比丘のみなさん。みなさんはこれをどう理解しますか。その罪人は一日中、役人から百本の槍で刺され、それが原因で苦だけを受け取っているのではないですか。比丘のみなさん。その罪人は、たった一本の槍で処刑されるだけでも、それが原因の苦を受け取るのに、百本の槍で処刑されるのは言うまでもありません。それと同じです。

 比丘のみなさん。私は当然「聖なる弟子が(その罪人と同じと)見るべき識食も同じ」と言います。比丘のみなさん。その聖なる弟子が識食を認識すれば、名形は当然その聖なる弟子が認識できた物で、名形がその比丘が認識できた物なら、私は当然「その聖なる弟子にとって、それ以上しなければならないことは何もない」と言います。


2.四食の生滅の状態

 比丘のみなさん。この四種類の食べ物は

当然すべての動物を維持し、あるいはすべての求生者(生まれる所を求めているもの)を支援します。四種類の食べ物はどのようでしょうか。四種類とは、

 最初の食べ物は下等でも上等でも飯塊(ご飯)で、

 二番目の食べ物は触で、

 三番目の食べ物は意思で、

 四番目の食べ物は識です。

 比丘のみなさん。この四種類の食べ物は、すべての生まれた動物が生存するため、あるいは生まれる場所を探しているすべての動物を援けるためにあります。

 比丘のみなさん。食べ物、つまり飯塊に貪り、喜び、欲望があれば、識もその飯塊の中で維持でき、成長でき、識が維持でき成長できる所はどこでも、そこに名形への進展があり、すべての行の成長もそこにあります。すべての行の成長がある所はどこでも、新しい有に生まれることがあり、新しい有に生まれることがある所はどこでも、そこには生老死があります。生老死がある所はどこでも、比丘のみなさん、私は「そこには悲しみ、埃、困窮がある」と言います。

 比丘のみなさん。食べ物、つまり触食に貪り、喜び、欲望があれば、識もその飯塊の中で生存でき、成長でき、識が維持でき成長できる所はどこでも、そこに名形への進展があり、すべての行の成長もそこにあります。すべての行の成長がある所はどこでも、新しい有に生まれることがあり、新しい有に生まれることがある所はどこでも、そこには生老死があります。生老死がある所はどこでも、比丘のみなさん、私は「そこには悲しみ、埃、困窮がある」と言います。

 比丘のみなさん。食べ物、つまり意思触に貪り、喜び、欲望があれば、識もその飯塊の中で生存でき、成長でき、識が維持でき成長できる所はどこでも、そこに名形への進展があり、すべての行の成長もそこにあります。すべての行の成長がある所はどこでも、新しい有に生まれることがあり、新しい有に生まれることがある所はどこでも、そこには生老死があります。生老死がある所はどこでも、比丘のみなさん、私は「そこには悲しみ、埃、困窮がある」と言います。

 比丘のみなさん。食べ物、つまり識食に貪り、喜び、欲望があれば、識もその飯塊の中で生存でき、成長でき、識が維持でき成長できる所はどこでも、そこに名形への進展があり、すべての行の成長もそこにあります。すべての行の成長がある所はどこでも、新しい有に生まれることがあり、新しい有に生まれることがある所はどこでも、そこには生老死があります。生老死がある所はどこでも、比丘のみなさん、私は「そこには悲しみ、埃、困窮がある」と言います。

 比丘のみなさん。染色工や絵師は、染料、梓梗(エンジ)、ウコン、藍、あるいは桃色等の染料液があれば、つるつるした壁や板に、必ず女の人や男の人の全身の絵を描くように、比丘のみなさん。飯塊に貪り、喜び、欲望があれば、識が維持でき、その飯塊で成長できます。

 識が維持でき、成長できる所はどこでも、そこに名形への進展があり、名形への進展があれば、そこにすべての行の成長があり、すべての行の成長がある所には新しい有に生まれることがあり、新しい有に生まれることがある所には、後で生老死があります。後で生老死がある所はどこでも、比丘のみなさん、私はそこを「悲しみ、埃、そして困窮がある所」と言います。

 比丘のみなさん。触食に貪り、喜び、欲望があれば識が維持でき、その飯塊で成長できます。識が維持でき成長できる所はどこでも、そこに名形への進展があり、名形への進展があればそこにすべての行の成長があり、すべての行の成長がある所には新しい有に生まれることがあり、新しい有に生まれることがある所には、後で生老死があります。後で生老死がある所はどこでも、比丘のみなさん、私はそこを「悲しみ、埃、そして困窮がある所」と言います。

 比丘のみなさん。意思食に貪り、喜び、欲望があれば識が維持でき、その飯塊で成長できます。識が維持でき成長できる所はどこでも、そこに名形への進展があり、名形への進展があれば、そこにすべての行の成長があり、すべての行の成長がある所には新しい有に生まれることがあり、新しい有に生まれることがある所には後で生老死があります。後で生老死がある所はどこでも、比丘のみなさん、私はそこを「悲しみ、埃、そして困窮がある所」と言います。

 比丘のみなさん。識に貪り、喜び、欲望があれば識が維持でき、その飯塊で成長できます。識が維持でき、成長できる所はどこでも、そこに名形への進展があり、名形への進展があれば、そこにすべての行の成長があり、すべての行の成長がある所には新しい有に生まれることがあり、新しい有に生まれることがある所には、後で生老死があります。後で生老死がある所はどこでも、比丘のみなさん、私はそこを「悲しみ、埃、そして困窮がある所」と言います。



 比丘のみなさん。ご飯である食べ物(段食)にラーガ(貪り)がなく、ナンディ(喜び)がなく、タンハー(欲望)がなければ、識はその中で維持できず、成長できません。識が維持できず成長できない場所はどこでも、そこに名形の進行がなく、名形の進行がない所はどこでも、すべての行の成長はなく、すべての行の成長がない所はどこでも、当然そこに新しい有は生じません。

 新しい有が生じない所はどこでも、そこに老と死はありません。その後老と死がない所はどこでも、比丘のみなさん、私はそこを「悲しみがない、埃がない、そして困窮のない所」と言います。

 比丘のみなさん。触である食べ物(触食)にラーガ(貪り)がなく、喜びがなく、欲望がなければ、識はその中で維持できず、成長できず、識が維持できず成長できない場所はどこでも、そこに名形の進行がなく、名形の進行がない所はどこでもすべての行の成長はなく、すべての行の成長がない所はどこでも、当然そこに新しい有は生じずません。

 新しい有が生まれない所はどこでも、そこには老と死はありません。その後老と死がない所はどこでも、比丘のみなさん、私はそこを「悲しみがない、埃がない、そして困窮のない所」と言います。

 比丘のみなさん。マノーサンチェッタナー(意志食)に貪りがなく、喜びがなく、欲望がなければ、識はその中で維持できず、成長できず、識が維持できず成長できない場所はどこでも、そこに名形の進行がなく、名形の進行がない所はどこでも、すべての行の成長はなく、すべての行の成長がない所はどこでも、当然そこに新しい有は生じません。

 新しい有が生じない所はどこでも、そこには老と死はありません。その後老と死がない所はどこでも、比丘のみなさん、私はそこを「悲しみがない、埃がない、そして困窮のない所」と言います。

 比丘のみなさん。識である食べ物(識食)に貪りがなく、喜びがなく、欲望がなければ、識はその中で維持できず、成長できません。識が維持できず成長できない場所はどこでも、そこに名形の進行がなく、名形の進行がない所はどこでも、すべての行の成長はありません。

 すべての行の成長がない所はどこでも、当然そこに新しい有は生じず、新しい有が生まれない所はどこでも、そこには老と死はありません。その後老と死がない所はどこでも、比丘のみなさん、私はそこを「悲しみがない、埃がない、そして困窮のない所」と言います。

 比丘のみなさん。北あるいは南に建っている楼閣、あるいは屋根の尖った東屋でも、東側に窓があれば、太陽が昇ると、窓から入った光は、その家のどの部分に現れるでしょうか。

 「猊下。太陽の光は家の中の西側の壁に現れます」。

 比丘のみなさん。西側に壁がなかったら、太陽の光はどこに現れるでしょうか。

 「猊下。太陽の光は、床に現れます」。

 比丘のみなさん。床がなかったら、太陽の光はどこに現れるでしょうか。

 「猊下。太陽の光は水に現れます」。

 比丘のみなさん。水がなかったら太陽の光はどこに現れるでしょうか。

 「猊下。太陽の光は、当然現れません」。

 比丘のみなさん。同じように飯塊である食べ物に貪りがなく、喜びがなく、欲望がなければ、その食べ物、つまり飯塊などに識は維持できず、成長もできません。識が維持も成長できない所はどこでも、名形は進行できず、名形が進行できない所はどこでも、すべての行の成長はなく、すべての行の成長がない所はどこでも、当然新しい有が生まれることはありません。

 新しい有が生じない所はどこでも、そこには生、老、死はありません。続いて生老死のない所はどこでも、比丘のみなさん、私はそこを、「悲しみがない、埃がない、そして困窮がない所」と言います。

 比丘のみなさん。触食に貪りがなく、喜びがなく、欲望がなければ、識はその中で維持できず、成長できません。識が維持できず成長できない場所はどこでも、そこに名形の進行がなく、名形の進行がない所はどこでもすべての行の成長はなく、すべての行の成長がない所はどこでも、当然そこに新しい有は生じません。

 新しい有が生じない所はどこでも、そこには老死はありません。その後老と死がない所はどこでも、比丘のみなさん、私はそこを「悲しみがない、埃がない、そして困窮のない所」と言います。

 比丘のみなさん。意思食に貪りがなく、喜びがなく、欲望がなければ、識はその中で維持できず、成長できません。識が維持できず成長できない場所はどこでも、そこに名形の進行がなく、名形の進行がない所はどこでもすべての行の成長はなく、すべての行の成長がない所はどこでも、当然そこに新しい有は生じません。

 新しい有が生じない所はどこでも、そこには老と死はありません。その後老と死がない所はどこでも、比丘のみなさん、私はそこを「悲しみがない、埃がない、そして困窮のない所」と言います。

 比丘のみなさん。識食に貪りがなく、喜びがなく、欲望がなければ、識はその中で維持できず、成長できません。識が維持できず成長できない場所はどこでも、そこに名形(名色)の進行がなく、名形の進行がない所はどこでもすべての行の成長はありません。

 すべての行の成長がない所はどこでも、当然そこに新しい有は生じず、新しい有が生じない所はどこでも、そこには老死はありません。その後老と死がない所はどこでも、比丘のみなさん、私はそこを「悲しみがない、埃がない、そして困窮のない所」と言います




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