縁起の手掛かりはすべてのダンマは執着するべきでないと見ることで捨てられる

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻62頁96項

 一人の比丘が「猊下。比丘がそれを捨てたら、無明が当然捨てられ、明が当然生じるダンマはありますか。猊下」と質問しました。

 比丘。その種のダンマはあります。

 「猊下。そのダンマはどのようですか」。

 比丘。無明ですよ、比丘が捨てたら無明が当然捨てられ、明が当然生じる一つのダンマは。

 「猊下。比丘がどのように知り、どのように見れば無明が捨てられ明が生じますか、猊下」。

 比丘。この場合の比丘が聞いた教えは、当然「すべての物は、誰も(自分、自分の物と)執着するべきでない」という教えであるべきです。比丘。比丘が「すべての物は誰も(自分、自分の物と)執着するべきでない」という教えを聞けば、その比丘は当然すべてのダンマを知ります。

 すべてのダンマを知れば当然すべてのダンマを知り尽し、すべてのダンマを知り尽せば、その比丘は当然すべての物のすべてのニミッタ(相)が別の物(註1)に見えます。

 当然目が別の物に見え、当然形が別の物に見え、当然眼識が別の物に見え、当然眼触が別の物に見え、幸福でも苦でも、苦でも幸福でもなくても眼触が縁で生じる受が当然別の物に見えます。

 当然耳が別の物に見え、当然声が別の物に見え、当然耳識が別の物に見え、当然耳触が別の物に見え、幸福でも苦でも、苦でも幸福でもなくても耳触が縁で生じる受が当然別の物に見えます。

 当然鼻が別の物に見え、当然臭いが別の物に見え、当然鼻識が別の物に見え、当然鼻触が別の物に見え、幸福でも苦でも、苦でも幸福でもなくても鼻触が縁で生じる受が当然別の物に見えます。

 当然舌が別の物に見え、当然味が別の物に見え、当然舌識が別の物に見え、当然舌触が別の物に見え、幸福でも苦でも、苦でも幸福でもなくても舌触が縁で生じる受が当然別の物に見えます。

 当然体が別の物に見え、当然接触が別の物に見え、当然身識が別の物に見え、当然身触が別の物に見え、幸福でも苦でも、苦でも幸福でもなくても身触が縁で生じる受が当然別の物に見えます。

 当然心が別の物に見え、当然想念が別の物に見え、当然意識が別の物に見え、当然意触が別の物に見え、幸福でも苦でも、苦でも幸福でもなくても意触が縁で生じる受が当然別の物に見えます。

 比丘。比丘がこのように知り、このように見ていれば、無明は捨てられ明が生じます。

註1 人がすべての物を正しく明らかに知れば、当然すべての物は、彼がまだ明らかに知らない時に見ていた物と別の物に見えます。例えばかつて「行は変らない」と見ていましたが、今は当然無常に見えます。これを「別の物に見える」と言います。ニミッタとは観察する物、あるいは感じる物、執着する物、あるいは思い込む物である色んな物の、一つ一つの状態を意味します。

註: 学習者は、縁起の発端である無明は、パーリ語で「サッペー ダンマー ナーラム アビニヴェサーヤ」という、仏教の核心と見なすべき「すべての物は誰も(自分、自分のものと)執着するべきでない」という項目を明らかに見ることで捨てられると観察して見なければなりません。





縁起の端緒は無常を見ることで捨てられる

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻61頁95項

 (一人の比丘が「猊下。比丘がそれを捨てたら、無明が当然捨てられ、明が当然生じるダンマはありますか」と、前項と同じ質問をしました。以下はその答えです)。

比丘。比丘が目を無常と見れば、無明が捨てられて明が生じ、

比丘がすべての形を無常と見れば、無明が捨てられて明が生じ、

比丘が眼識を無常と見れば、無明が捨てられて明が生じ、

比丘が眼触を無常と見れば、無明が捨てられて明が生じ、

比丘が、幸福でも苦でも、苦でも幸福でもなくても、眼触が縁で生じる受を無常と見れば、無明が捨てられて明が生じます。


 比丘。比丘が耳を無常と見れば、無明が捨てられて明が生じ、

比丘がすべての声を無常と見れば、無明が捨てられて明が生じ、

比丘が耳識を無常と見れば、無明が捨てられて明が生じ、

比丘が耳触を無常と見れば、無明が捨てらて明が生じ、

 比丘が、幸福でも苦でも、苦でも幸福でもなくても、耳触が縁で生じる受を無常と見れば、無明が捨てられて明が生じます。


 比丘。比丘が鼻を無常と見れば、無明が捨てられて明が生じ、

比丘がすべての臭いを無常と見れば、無明が捨てられて明が生じ、

比丘が鼻識を無常と見れば、無明が捨てられて明が生じ、

比丘が鼻触を無常と見れば、無明が捨てられて明が生じ、

比丘が、幸福でも苦でも、苦でも幸福でもなくても、鼻触が縁で生じる受を無常と見れば、無明が捨てられて明が生じます。

(舌・身の場合も、目の場合と同じように話されています)。

 比丘。比丘が心を無常と見れば、無明が捨てられて明が生じ、

比丘がすべての想念を無常と見れば、無明が捨てられて明が生じ、

比丘が意識を無常と見れば、無明が捨てられて明が生じ、

比丘が意触を無常と見れば、無明が捨てられて明が生じ、

比丘が、幸福でも苦でも、苦でも幸福でもなくても、意触が縁で生じる受を無常と見れば、無明が捨てられて明が生じます。


 比丘。比丘がこのように知って見ていれば、無明は捨てられて明が生じます。





詳細な無常の状態 (前の話を明瞭に解説するため)

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻85頁124項

 比丘のみなさん。二つのダンマに依存して当然識が生じます。二つとは何でしょうか。二つとは、比丘のみなさん。目にも形にも依存して眼識が生じます。

 目は不変でない物で、変化があり、別の物になります。

 すべての形は不変でない物で、変化があり、別の物になります。

 このような二つのダンマ(目+形)はどちらも揺れ動く物でもあり、病気であり、不変でなく、変化があり、別の物になります。

 眼識は不変でない物で、変化があり、別の物になり 眼識が生じるどの原因もどの縁も、その原因その縁はすべて不変でなく、変化があり、別の物になります。

 比丘のみなさん。このように不変でない縁に依存して生じる眼識が、どうして不変なことがあるでしょうか。

 比丘のみなさん。この三種類すべてのダンマ(目+形+眼識)の会合、集合、同時にあることはどれも、比丘のみなさん。私はこれを眼触と呼びます。比丘のみなさん。眼触も不変でない物であり、変化があり、別の物になります。

 眼触が生じるどの原因もどの縁も、その原因その縁はすべて不変でなく、変化があり、別の物になります。比丘のみなさん。このように不変でない縁に依存して生じる眼触が、どうして不変なことがあるでしょうか。

 比丘のみなさん。触が触れると当然感じ、触が触れると当然考え、触が触れると当然記憶します。これらすべてのダンマもすべて揺れ動くものであり、病気であり、不変でなく、変化があり、別の物になります。

 (耳識・鼻識・舌識・身識の場合も眼識と同じように話されています)。

 比丘のみなさん。心と想念に依存して意識が生じ、意識は不変でないもので、変化があり別の物になり、すべての想念は不変でない物で、変化があり別の物になり、二つのダンマ(心+想念)はどちらも、揺れ動く物であり、病気であり、不変でなく変化があり、別の物になります。

 意識は不変でない物であり、変化があり別の物になり、意識が生じるどの原因もどの縁も、その原因その縁はすべて不変でない物であり、変化があり別の物になります。比丘のみなさん。このように無常である縁に依存して生じる意識が、どうして不変なことがあるでしょうか。

 比丘のみなさん。この三種類すべてのダンマ(心+想念+意識)の会合、集合、同時にあることはどれも、比丘のみなさん。これを私は意触と呼びます。比丘のみなさん。意触も不変でないものであり、変化があり別の物になります。

 意触が生じるどの原因もどの縁も、その原因その縁はすべて不変でないものであり、変化があり別の物になります。比丘のみなさん。このように不変でない縁に依存して生じる意触が、どうして不変なことがあるでしょうか。

 比丘のみなさん。触が触れると当然感じ、触が触れると当然考え、触が触れると当然記憶し、これらすべてのダンマもすべて揺れ動く物であり、病気であり、不変でなく、変化があり別の物になります。





縁起が生じる隙を塞ぐ秘訣

祇園精舎で
ウッデーサヴィバンガスッタ
中部ウパリパンナーサ 14巻411頁639項他

 比丘のみなさん。比丘は、それを熟慮熟考すれば識(心)が外部に飛散せず、内部で平伏しないような熟慮をしなければなりません。そうすれば執着がないので驚愕しません。比丘のみなさん。識が外部に飛散せず内部で平伏せず、このように心に執着がないので驚愕しなければ、苦の山、つまり生老死は当然その後は生じません。

 (このように話され、世尊は住まいへ入って行かれました。このブッダヴァチャナの意味を詳細に理解できない比丘たちは、プラマハーカッチャーナを訪ね、次のように詳しい説明を受けました)。

 ご年配のみなさん。『比丘のみなさん。比丘は、それを熟慮熟考すれば識(心)が外部に飛散せず、内部で平伏しないような熟慮をしなければなりません。そうすれば執着がないので驚愕しません。

 比丘のみなさん。識が外部に飛散せず内部で平伏せず、心にこのように執着がないので驚愕しなければ、苦の山、つまり生老死は当然その後は生じません(註1)』とこのように世尊が概略で例えを説かれ、詳しく分類されないでお住まいへ入って行かれたその例えは、ご年配のみなさん。その内容を私は次のように知っています。

 ご年配のみなさん。「識が外部に飛散しない」というのはどのような詳しい要旨があるのでしょうか。

 ご年配のみなさん。この場合目で形を見た比丘の識(心)は、形のニミッタに駈けて行く識で、形のニミッタの味に至る識で、形のニミッタの味に夢中になり、形のニミッタの味への執着があります。これが「外部に飛散する識」と概略で述べられた要旨です。

 (耳で聞いた場合、鼻で臭いを嗅いだ場合、舌で味を味わった場合、体で接触を感じた場合、心で想念を明らかに知った場合も、目で形を見た場合と同じように話されています)。


註1: ここでの縁起の発生を防ぐ秘訣とは、プラマハーカッチャーナの詳細な説明による実践法で「熟慮している時はいつでも心が外部に飛散せず、内部に平伏せず、どんな執着によっても驚愕しない熟考をするべき」と言われている言葉です。ブッダが「私が説明しても同じように説明する」と保証されている説明なので、学習の便宜と明らかさのために、この弟子の言葉をブッダの言葉の最後に掲載します。

 ご年配のみなさん。「外部に飛散する識」と述べられた言葉は、このように詳細な要旨があります。

 ご年配のみなさん。「識が内部にひれ伏している」というのはどのような詳しい要旨があるでしょうか。

 ご年配のみなさん。この場合の比丘は愛欲とすべての悪が静まって、ヴィタッカとヴィチャーラ(熟考)、ヴィヴェカ(隠遁。遠離)だけから生じるピーティ(喜悦)とスッカ(幸福)がある初禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。

 その比丘の識はヴィヴェカ(遠離)から生じた喜悦と幸福に駈けて行く識で、まだ遠離から生じた喜悦と幸福の味に至る識で、遠離から生じた喜悦と幸福に夢中になっていて、遠離から生じた喜悦と幸福の味に執着がある識です。これが「内部に平伏している心」と述べられた言葉の要旨です。

 ご年配のみなさん。まだあります。比丘はヴィタッカとヴィチャーラが静まることで、一つの感情しかないサマーディを生じさせ、ヴィタッカはなく、ヴィチャーラもなく、あるのはサマーディから生じた喜悦と幸福だけの、心の内面を明るくする物である二禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。

 その比丘の識はサマーディから生じた喜悦と幸福に駈けて行く識で、サマーディから生じた喜悦と幸福に至る識で、サマーディから生じた喜悦と幸福に夢中になり、サマーディから生じた喜悦と幸福に執着がある識です。

 これが「内部で平伏している心」と概略で述べられた言葉の要旨です。

 ご年配のみなさん。まだあります。比丘は喜悦が薄れることで捨にいて、サティと自覚があり、そして当然名身で幸福を味わい、聖人の方々が「この定を得た人はウベカー(捨)にいる人で、サティがあり、正常な幸福に暮らしている」と言われる三禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。

 その比丘の識は捨に駈けて行く識で、捨に至る識で、捨に夢中になり、捨に執着がある識です。これが「内部に平伏している心」と概略で述べられた言葉の要旨です。

 ご年配のみなさん。まだあります。比丘は幸福と苦を捨てることができたので、過去のすべての喜びが薄れることで、苦も幸福もなく、あるのは捨ゆえに純粋な自然であるサティだけの四禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。

 その比丘の識はアドゥッカマスッカ(苦でも幸福でもない状態)に駈けて行く識で、アドゥッカマスッカに至る識で、アドゥッカマスッカに夢中になり、アドゥッカマスッカに執着がある識です。これが「内部に平伏している心」と概略で述べられた言葉の要旨です。

 ご年配のみなさん。「執着があるので当然驚愕がある」というのはどのようでしょうか。ご年配のみなさん。この場合の聞いたことがない凡夫はすべての聖人が見えず、聖人のダンマに賢くなく、聖人の忠告を受けず、善人が見えず、善人のダンマに賢くなく、善人の提言を受けないので、

(1) 彼は当然形を「自分」と見、当然「自分は形がある」と見、当然「自分の形」と見、当然「形の中の自分」と見るので、その形が彼にとって別の状態に変化した時、彼の識は形が別の状態に変化することによって、当然形の変化に応じて変化する識です。形の変化に応じた変化から生じた驚愕は、ダンマ(驚愕させる物)が生じることで当然彼の心を支配します。心に執着するので彼は当然執着ゆえの恐怖があり、困窮があり、杞憂と驚愕がある人です。

(2) 彼は当然受を自分と見、当然自分は受があると見、当然自分の受と見、当然受の中の自分と見るので、その受が彼にとって別の状態に変化した時、彼の識は受が別の状態に変化することによって、当然受の変化に応じて変化する識です。受の変化に応じた変化から生じた驚愕は、ダンマ(驚愕させるもの)が生じることで当然彼の心を支配します。心に執着するので彼は当然執着ゆえの恐怖があり、困窮があり、杞憂と驚愕がある人です。

(3) 彼は当然想を自分と見、当然自分は想があると見、当然自分の想と見、当然想の中の自分と見、その想が彼にとって別の状態に変化した時、彼の識は想が別の状態に変化することによって、当然想の変化に応じて変化する識です。想の変化に応じた変化から生じた驚愕は、ダンマ(驚愕させる物)が生じることで当然彼の心を支配します。心に執着するので彼は当然執着ゆえの恐怖があり、困窮があり、杞憂と驚愕がある人です。

(4) 彼は当然、すべての行を自分と見、当然自分はすべての行があると見、当然自分のすべての行と見、当然すべての行の中の自分と見、そのすべての行が彼にとって別の状態に変化した時、彼の識はすべての行が別の状態に変化することによって、当然すべての行の変化に応じて変化する識です。

 すべての行の変化に応じた変化から生じた驚愕は、ダンマ(驚愕させるもの)が生じることで当然彼の心を支配します。心に執着するので彼は当然執着ゆえの恐怖があり、困窮があり、杞憂と驚愕がある人です。

(5) 彼は当然、識を自分と見、当然自分は識があると見、当然自分の識と見、当然識の中の自分と見、その識が彼にとって別の状態に変化した時、彼の識は識が別の状態に変化することによって、当然識の変化に応じて変化する識です。識の変化に応じた変化から生じた驚愕は、ダンマ(驚愕させる物)が生じることで当然彼の心を支配します。心に執着するので彼は当然執着ゆえの恐怖があり、困窮があり、杞憂と驚愕がある人で

 ご年配のみなさん。執着が原因で当然驚愕があるというのは、このようです。



 ご年配のみなさん。「執着がないので当然驚愕がない」というのはどのようでしょうか。ご年配のみなさん。この場合の聞いたことがある聖なる弟子はすべての聖人が見える人で、聖人のダンマに賢く、聖人の忠告を受け、善人が見え、善人のダンマに賢く、善人の提言を受けるので、

(1) 彼は当然形を自分と見ず、当然自分は形があると見ず、当然自分の形と見ず、当然形の中の自分と見ないので、その形が彼にとって別の状態に変化した時、彼の識は形が別の状態に変化することによって当然形の変化に応じて変化する識ではありません。形の変化に応じた変化から生じた驚愕は、ダンマ(驚愕させる物)が生じることで当然彼の心を支配しません。心が執着しないので彼は当然執着ゆえの恐怖がなく、困窮がなく、杞憂と驚愕がない人です。

(2) 彼は当然受を自分と見ず、当然自分は受があると見ず、当然自分の受と見ず、当然受の中の自分と見ず、その受が彼にとって別の状態に変化した時、彼の識は受が別の状態に変化することによって当然受の変化に応じて変化する識ではありません。受の変化に応じた変化から生じた驚愕は、ダンマ(驚愕させる物)が生じることで当然彼の心を支配しません。心が執着しないので、彼は当然執着ゆえの恐怖がなく、困窮がなく、杞憂と驚愕がない人です。

(3) 彼は当然想を自分と見ず、当然自分は想があると見ず、当然自分の想と見ず、当然想の中の自分と見ず、その想が彼にとって別の状態に変化した時、彼の識は想が別の状態に変化することによって当然想の変化に応じて変化する識ではありません。想の変化に応じた変化から生じた驚愕は、ダンマ(驚愕させる物)が生じることで当然彼の心を支配しません。心が執着しないので彼は当然執着ゆえの恐怖がなく、困窮がなく、杞憂と驚愕がない人です。

(4) 彼は当然、すべての行を自分と見ず、当然自分はすべての行があると見ず、当然自分のすべての行と見ず、当然すべての行の中の自分と見ず、そのすべての行が彼にとって別の状態に変化した時、彼の識はすべての行が別の状態に変化することによって当然すべての行の変化に応じて変化する識ではありません。

 すべての行の変化に応じた変化から生じた驚愕は、ダンマ(驚愕させる物)が生じることで当然彼の心を支配しません。心が執着しないので彼は当然執着ゆえの恐怖がなく、困窮がなく、杞憂と驚愕のない人です。

(5) 彼は当然、識を自分と見ず、当然自分は識があると見ず、当然自分の識と見ず、当然識の中の自分と見ず、その識が彼にとって別の状態に変化した時、彼の識は識が別の状態に変化することによって当然識の変化に応じて変化する識ではありません。識の変化に応じた変化から生じた驚愕は、ダンマ(驚愕させる物)が生じることで当然彼の心を支配しません。心が執着しないので彼は当然執着ゆえの恐怖がなく、困窮がなく、杞憂と驚愕のない人です。

 ご年配のみなさん。執着がないから当然驚愕がないというのは、このようです。

註: この内容は非常に長くて混乱するといけないので、これらの言葉はプラマハーカッチャーヤナの言葉でも「ブッダの説明と一致する」とブッダが保証されているので、便宜のためにブッダバーシタの終りに挿入したと、繰り返させていただきます。

 ここでの秘訣は、この経で説明したように心が外部に飛散せず、内部で平伏しなければ苦を作る縁起は作られない点にあります。




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