縁起の消滅の初めであるもの


カンマーサダンマニガマで

マーガンディヤスッタ
中部マッジマバンナーサ 13巻285頁291項

 (異教の修行者マーガンディヤが「私がゴータマ様にこのように帰依したら、ゴータマ様は、私がそれを聞いたら、盲目が治った人のように席から立ち上がる状態で私にダンマを説くことはできますか」と質問しました)。

 マーガンディヤさん。それなら善人と付き合うべきです。マーガンディヤさん。善人と付き合えば、あなたは善人のダンマを聞き、善人のダンマを聞けば、あなたはダンマにふさわしいダンマを実践します。

 マーガンディヤさん。ダンマにふさわしいダンマの実践をすれば、あなたは「これは病気。これは出来物の頭。これは矢」と、自分で本当に知ります。

 この場合の病気、出来物の頭、すべての矢は、取の消滅によって有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで,老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが消滅するのと同じ状態で当然残らず消滅します。すべての苦の山の消滅は当然このようにあります。

註: 学習者は、ここでの出来物の頭、矢というのは欲から生じた苦で、欲はどれも無明で感情に触れることから生じた受から生まれると知らなければなりません。

 そしてその欲は当然その後、取・有・生・苦の基盤である老死を生じさせます。出来物の頭、矢などを知って、何としても駆除してしまうには、善人のダンマにふさわしいダンマの実践に依存しなければなりません。

 だから誰でも善人と付き合い、善人のダンマを聞いて、理解して正しく実践すれば、どんな形であれ、当然どれも滅苦のために縁起の流れを断つ初めの行動です。これと違えば当然何も意味がなく、そして仏教の実践ではありません。





触はニッベーディカダンマのほとんどの原因

増支部チャッカニパータ 22巻457頁334項

 比丘のみなさん。みなさんにニッベーディカパリヤーヤについて説明します。みなさんこれを聞いて、心の中を役立つようになさい。今話します。

 比丘のみなさん。ニッベーディカパリヤーヤ(明らかにすべきダンマ)という名のダンマはどのようでしょうか。比丘のみなさん。

(1)人が明らかに知るべきすべての愛欲、すべての愛欲が一斉に生じる原因、すべての愛欲のいろんな種類、すべての愛欲の報い(結果)、愛欲の消滅、愛欲の滅道は人が知らなければならないダンマです。

(2)人が明らかに知るべきすべての受、すべての受が一斉に生じる原因、すべての受のいろんな種類、すべての受の報い(結果)、受の消滅、受の滅道は人が知らなければならないダンマです。

(3)人が明らかに知るべきすべての想、すべての想が一斉に生じる原因、すべての想のいろんな種類、すべての想の報い(結果)、想の消滅、想の滅道は人が知らなければならないダンマです。

(4)人が明らかに知るべきすべての漏、すべての漏が一斉に生じる原因、すべての漏のいろんな種類、すべての漏の報い(結果)、漏の消滅、漏の滅道は人が知らなければならないダンマです。

(5)人が明らかに知るべきカンマ、カンマが一斉に生じる原因、カンマのいろんな種類、カンマの報い(結果)、カンマの消滅、カンマの滅道は人が知らなければならないダンマです。

(6)人が明らかに知るべき苦、苦が一斉に生じる原因、苦のいろんな種類、苦の報い(結果)、苦の消滅、苦の滅道は、人が知らなければならないダンマです。


(1) 比丘のみなさん。人が明らかに知るべきすべての愛欲はどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。この五つすべての愛欲、つまり望ましい物であり、欲しくなる物であり、満足すべき物であり、愛らしい状態があり、願望の住処であり、欲情の住処である目で明らかに知るべきすべての形、耳で明らかに知るべきすべての声、鼻で明らかに知るべきすべての臭い、舌で明らかに知るべきすべての味、体で明らかに知るべきすべての接触があります。

 比丘のみなさん。これら五つの感情は愛欲ではなく、このアリヤヴィナヤではこの五つの感情を五欲と呼びます。しかし、

 考える威力で欲情すること、それが人の愛欲で、

 世界の華麗な感情、それは愛欲ではありません。

 考える威力で欲情すること、それが人の愛欲で、

 世界の華麗な感情は、それなりに存在するだけです。

 だから智慧のある人は、それらの華麗な感情のチャンダ(満足)を取り出してしまいなさい。

 比丘のみなさん。すべての愛欲が一斉に生じる原因はどのようでしょうか。比丘のみなさん。愛欲が一斉に生じる原因は触です。

 比丘のみなさん。すべての愛欲の種類はどのようでしょうか。比丘のみなさん。すべての愛欲の種類は形の感情を望むことが一つ、声の感情を望むことが一つ、臭いの感情を望むことが一つ、味の感情を望むことが一つ、接触の感情の望むことが一つで、比丘のみなさん。私はこれを、すべての愛欲の種類と言います。

 比丘のみなさん。すべての愛欲の報いはどのようでしょうか。比丘のみなさん。何らかの感情に望みがある人は、徳の部分のある人や徳の部分のない人など、当然その感情から生じた個人を生じさせます。比丘のみなさん。私はこれをすべての愛欲の報いと言います。

 比丘のみなさん。愛欲の消滅はどのようでしょうか。比丘のみなさん。愛欲の消滅は触の消滅によってあります。

 比丘のみなさん。愛欲の消滅に至る道はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この八正道が、愛欲が消滅する道で、正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業(生活)、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。

 比丘のみなさん。比丘がすべての愛欲、すべての愛欲が生じる原因、すべての愛欲の種類、すべての愛欲の報い、愛欲の消滅、愛欲の消滅に至る道をこのように明らかに知れば、その時その聖なる弟子は当然煩悩を突き刺すものである梵行は愛欲の消滅であると明確に知ります。


(2)人が明らかに知るべきすべての受はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この三つの受、つまり幸受、苦受、不苦不幸受です。

 比丘のみなさん。すべての受が一斉に生じる原因はどのようでしょうか。比丘のみなさん。すべての受が一斉に生じる原因は触です。

 比丘のみなさん。すべての受の種類はどのようでしょうか。比丘のみなさん。すべての受の種類はアーミサ(餌)で経過する幸受もあり、アーミサのない幸受もあり、アーミサで経過する苦受もあり、アーミサのない苦受もあり、アーミサで経過する不苦不幸受もあり、アーミサのない不苦不幸受もあります。比丘のみなさん。これを私はすべての受のいろんな種類と言います。

 比丘のみなさん。すべての受の報いはどのようでしょうか。比丘のみなさん。何らかの受を味わう人は徳の部分のある人や、徳の部分のない人など、当然その受から生じた体を生じさせます。比丘のみなさん。これを私はすべての受の結果と言います。

 比丘のみなさん。受の消滅はどのようでしょうか。比丘のみなさん。受の消滅は触の消滅によってあります。

 比丘のみなさん。受の消滅に至る道はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この八正道が、受が消滅する道で、正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業(生活)、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。

 比丘のみなさん。比丘がすべての受、すべての受が生じる原因、すべての受の種類、すべての受の報い、受の消滅、受の消滅に至る道をこのように明らかに知れば、その時その聖なる弟子は、当然煩悩を突き刺す物である梵行は受の消滅であると明確に知ります。


(3)人が明らかに知るべきすべての想はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この六つの想、つまり形想、声想、香想、味想、触想、法想です。

 比丘のみなさん。すべての想が一斉に生じる原因はどのようでしょうか。比丘のみなさん。すべての想が一斉に生じる原因は触です。

 比丘のみなさん。すべての想の種類はどのようでしょうか。比丘のみなさん。すべての想の種類は、すべての形の感情の想が一つ、すべての声の感情の想が一つ、臭いの感情の想が一つ、すべての味の感情の想が一つ、すべての接触の感情の想が一つで、比丘のみなさん。私はこれをすべての想の種類と言います。

 比丘のみなさん。すべての想の報いはどのようでしょうか。比丘のみなさん。何らかの想を味わう人は当然その想から生じた何らかの発言である結果があります。人はどんな想を作っても、その人は当然、私はこういう想がある(註1)などと口にするからです。比丘のみなさん。これを私はすべての想の報いと言います。

 比丘のみなさん。想の消滅はどのようでしょうか。比丘のみなさん。想の消滅は触の消滅によってあります。

 比丘のみなさん。想の消滅に至る道はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この八正道が、想が消滅する道で、正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業(生活)、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。

 比丘のみなさん。比丘がすべての想、すべての想が生じる原因、すべての想の種類、すべての想の結果、想の消滅、想の消滅に至る道をこのように明らかに知れば、その時その聖なる弟子は、当然煩悩を突き刺す物である梵行は想の消滅であると明確に知ります。


(4)漏について述べているこの項目は、直接触について述べていないので、割愛します。


(5)人が明らかに知るべきカンマはどのようでしょうか。比丘のみなさん。私は意図をカンマと呼びます。なぜなら意図のある人は、当然体で、言葉で、心で行為をするからです。

 比丘のみなさん。すべてのカンマが一斉に生じる原因はどのようでしょうか。比丘のみなさん。すべてのカンマが一斉に生じる原因は触です。

 比丘のみなさん。すべてのカンマの種類はどのようでしょうか。比丘のみなさん。すべてのカンマの種類は動物に地獄の動物の受を味わわせるカンマもあり、畜生の生まれの受を味わわせるカンマもあり、餓鬼の領域の受を味わわせるカンマもあり、人間界の受を味わわせるカンマもあり、天人界の受を味わわせるカンマもあります。比丘のみなさん。これを私はすべてのカンマの種類と言います。

 比丘のみなさん。すべてのカンマの報いはどのようでしょうか。比丘のみなさん。私は、カンマの結果は三種類あると言います。ディッティダンマ(即刻)の結果、ウパパッチャ(その後)の結果、アパラパリヤーヤ(更に後)の結果です。比丘のみなさん。これを私はすべてのカンマの結果と言います。

 比丘のみなさん。カンマの消滅はどのようでしょうか。比丘のみなさん。カンマの消滅は触(註2)の消滅によってあります。

 比丘のみなさん。カンマの消滅に至る道はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この八正道が、カンマが消滅する道で、正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。

 比丘のみなさん。比丘がすべてのカンマ、すべてのカンマが生じる原因、すべてのカンマの種類、すべてのカンマの結果、カンマの消滅、カンマの消滅に至る道をこのように明らかに知れば、その時その聖なる弟子は、当然煩悩を突き刺す梵行は、カンマが消滅するものと明確に知ります。


(6)(漏について述べているこの項目は、直接触について述べていないので、割愛します)。

 比丘のみなさん。これがニッベーディカパリヤーヤ(決択法門)という名のダンマです。

註1: この場合のサンニャー(想)は記憶という意味だけでなく「何だ」「どのようだ」と理解する感覚を意味すると理解しなければなりません。

註2: 学習者は、ここで最も重要な要旨を、カンマが生じる根源は触であり、カンマが消滅する根源は触であり、この個人の中で生滅を繰り返しているので、カンマの報いは、即刻の類も、少し後のも、ずっと後の類も、この個人の中に繰り返しあると観察して見なければなりません。後の二つは死後にあると理解されてきましたが、この場合正しいのはどのようか、熟慮判断してください。

註: 学習者は、触と呼ぶものはどれほど重要か観察して見なければなりません。特に触は愛欲、受、想、カンマが発生する所であり、消滅する所である点です。私たちはまだ触に関する知識が少なすぎるので、愛欲に勝つこと、受を管理すること、想を捨ててしまうこと、そしてすべてのカンマを終わらせる実践を成功させることができません。

 ご存じのように、触は縁起の流れの中の重要なもので、触についてどこで述べられても、このパーリ(ブッダの言葉である経)でニッベーティカダンマである愛欲、あるいは受、あるいは想、あるいはカンマと呼んでも、その中に縁起の流れのずべてが隠れていると知ってください。だからすべての触は、最終的な苦の消滅のために、人が明らかに知って洞察すべき、ほとんどのニッベーティカダンマの原因です。





四念処に励む時の障害を排除する縁起 

祇園精舎で
相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻207頁716項

 アーナンダ。それはそうです。それはそうです。比丘あるいは比丘尼でも、心が四念処で良く安定していれば、その比丘あるいは比丘尼は、今までにあった素晴らしさよりはるかに偉大な功徳を知り尽すことが期待できます。どの四つの念処で心が良く安定している比丘、比丘尼でしょうか。

 アーナンダ。この場合の比丘は、当然いつでも体の中の体を熟慮して見る人で、煩悩を焼く努力があり、全身に行き渡る感覚があり、世界の喜びと憂いを排除してしまうサティがあります。その人が体の中の体を熟慮して見れば、感情である体がある体の焦燥が生じるのでも、心の委縮が生じるのでも、心が外部に飛散するのでも、比丘のみなさん。その比丘は帰依の基盤である何らかのニミッタに専念すべきです。

  帰依の基盤であるニミッタに専心すれば、当然歓喜が生じ、

  歓喜があれば当然喜悦が生じ、

  喜悦があれば当然体が静まり、

  体が静まった人は当然幸福を感じ、

  幸福を感じれば当然心が安定します。

 その比丘は当然「私がどんな利益のために専心しても、私にとってその利益はある。そうだ、私はその感情だけの心にしよう」とこのように熟慮します。

 その比丘は当然心をその感情にし、ヴィタッカもヴィチャーラもしないで、当然「私はヴィタッカもなくヴィチャーラもなく、サティがあり内部の幸福がある」と明確に知ります。

 (四念処の受・心を熟慮する場合も同じように話されています)。

 比丘のみなさん。この場合の比丘は当然、いつでもダンマの中のダンマを熟慮して見る人で、煩悩を焼く努力があり、全身に行き渡る感覚があり、世界の喜びと憂いを排除してしまうサティがあります。

 ダンマの中のダンマを熟慮して見れば、感情としての体がある体の焦燥が生じるのでも、心の委縮が生じるのでも、心が外部に飛散するのでも、比丘のみなさん。その比丘は帰依の基盤である何らかのニミッタに専念すべきです。

  帰依の基盤であるニミッタに専心すれば、当然歓喜が生じ、

  歓喜があれば、当然喜悦が生じ、

  喜悦があれば、当然体が静まり、

  体が静まった人は、当然幸福を感じ、

  幸福を感じれば、当然心が安定します。

 その比丘は当然「私がどんな利益のために専心しても、私にとってその利益はある。そうだ、私はその感情にだけ心を導こう」とこのように熟慮します。

 その比丘は当然心をその感情に導き、ヴィタッカもヴィチャーラもしないで、当然「私はヴィタッカもなくヴィチャーラもなく、サティがあり内部の幸福がある」と明確に知ります。

 比丘のみなさん。このように専心することで当然バーヴァナー(望みに向かって努力すること)があります。

註: 学習者は、四念処に励む上での障害の解決は最高のダンマですが、それにもこのパーリにあるように縁起と呼ばれる方法を使わなければならないと観察して見なければなりません。

 重要な要旨は、帰依の基盤であるニミッタは、蓋あるいはサマーディの障害を排除できることです。これは知られているより、あるいは教えられているより詳細で深遠な害を排除する方法と指摘しています。





現生での沙門果のための縁起
(阿羅漢2、不還5)

シーラスッタ
相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻98頁373項

 比丘のみなさん。戒とサマーディと、智慧解脱と解脱智見が完璧な比丘を見ること、(話を)聞くこと、訪ねること、傍に座ること、思い出すこと、後に続いて出家することは、(それぞれが)非常に恩恵のあるダンマと言います。

 比丘のみなさん。それは、そのような比丘のダンマを聞けば、誰でも体も心も避ける人になり、当然そのダンマを熟慮熟考し、その人の七覚支のサティは当然十分に発展するからです。

 比丘のみなさん。このように十分発展した七覚支のサティがある比丘は、当然そのダンマを選び、当然熟慮し、タンマを智慧で熟考するに至り、その人の七覚支の択法は当然十分に発展します。

 比丘のみなさん。このように十分発展した七覚支の択法がある比丘は、弛まず努力を始める人で、その人の七覚支の精進は当然十分発展します。

 比丘のみなさん。汚れのない(ダンマに依存した)喜悦は当然このように始めた努力がある比丘に生じ、その人の七覚支の喜悦は当然十分発展します。

 比丘のみなさん。心に喜悦がある比丘の体も心も当然静まり、その人の七覚支の軽安は当然十分発展します。

 比丘のみなさん。(七覚支のサマーディがある人は、)当然そのように心が良く安定した人で、その人の七覚支の捨は当然十分発展します。

 比丘のみなさん。七覚支の七つのダンマが、比丘がこのように励んでたくさんしたものなら、功徳である七つの結果を彼は当然期待できます。

 七つとはどのようでしょうか。七つとは、

(1) 当然間もなく阿羅漢果に到達し、

(2) そうでなければ当然、臨終の時に阿羅漢果に到達し、

(3) そうでなければ下五結がなくなって、当然アンタラーパリニッバージ(寿命の半分に達しないうちに般涅槃する人。中涅槃者。不還)になり、

(4) そうでなければ下五結がなくなって、当然ウパハッチャパリニッバージー(寿命の半分がすぎて、終わりに近い頃、般涅槃する人。生般涅槃者。不還)になります。

(5) そうでなければ下五結が無くなって、当然アサンカーラパリニッバージー(力も使わず努力もしないで般涅槃する人。無行般涅槃者。不還)になります。

(6) そうでなければ下五結がなくなって、当然ササンカーラパリニッバージー(努力と労力によって般涅槃する人。有業涅槃者。不還)になります。

(7) そうでなければ下五結が無くなって、当然アッダンソートーアカニッダガーミー(有頂天まで上流の流れのある人。上流色究竟行者。不還)になります。

 比丘のみなさん。比丘がこのように七覚支の七つのダンマに励んでたくさんすれば、七つの功徳である結果を、当然期待できます。

註: 学習者は七つの功徳について、パーリ(ブッダの言葉である経)には、一般に判断することなく話して教えられているような「死後の話」として説かれているものはない、と観察して見てください。だからここでは「現生での沙門果」と題しました。





縁起は有学でも如実正智慧で見なければならないもの

相応部ニダーナヴァッガ 16巻140頁268項

 プラムシラ、プラパヴィッタ、プラナーラダ、プラアーナンダがゴーサンピーに近いゴーシターラーマに滞在しているある時、プラパヴィッタがプラムシラに言いました。

 「ムシラさん。(世尊から聞いたように)信じることを止め、(ある人が言うように)喜ぶことを止め、人づてに聞くことを止め、(外部の環境の)状況で判断するのを止め、自分の見解と合うかどうか考えることも止めてしまえば、「生が縁で老死がある」という、本当に自分だけのニャーナ(知ること)がムシラさんにあるでしょうか」。

 「パヴィッタさん。(世尊から聞いたとおり)信じることを止め、(ある人が言うように)喜ぶことを止め、人づてに聞くことを止め、(外部の環境の)状況で判断するのを止め、自分の見解と合うかどうか考えることも止めてしまっても、私は当然「生が縁で老死がある」とこのように見て知っています。

 (プラパヴィッタは、生について、有について、取について、欲について、受について、触について、六処について、名形について、識について、同じように順に質問し、プラムシラは、最後まで同じ言葉で主張しました)。

 「ムシラさん。(世尊から聞いたとおり)信じることを止め、(ある人が言うように)喜ぶことを止め、人づてに聞くことを止め、(外部の環境の)状況で判断するのを止め、自分の見解と合うかどうか考えることも止めてしまえば、「無明が縁ですべての行がある」という、本当に自分だけのニャーナがムシラさんにあるでしょうか」。

 「パヴィッタさん。(世尊から聞いたとおりに)信じることを止め、(ある人が言うように)喜ぶことを止め、人づてに聞くことを止め、(外部の環境の)状況で判断するのを止め、自分の見解と合うかどうか考えることも止めてしまっても、私は当然「無明が縁ですべての行がある」とこのように見て知っています。

 (プラパヴィッタはプラムシラに、滅の側の縁起の状態について、最後まで順に質問しました)。

 「ムシラさん。(世尊から聞いたとおりに)信じることを止め、(ある人が言うように)喜ぶことを止め、人づてに聞くことを止め、(外部の環境の)状況で判断するのを止め、自分の見解と合うかどうか考えることも止めてしまえば、「無明が消滅することで行が消滅する」という、本当に自分だけのニャーナがムシラさんにあるでしょうか」。

 「パヴィッタさん。たとえ(世尊から聞いたとおりに)信じることを止め、(ある人が言うように)喜ぶことを止め、人づてに聞くことを止め、(外部の環境の)状況で判断するのを止め、自分の見解と合うかどうか考えることも止めてしまっても、私は当然「無明が消滅することで行が消滅する」とこのように見て知っています。

 「ムシラさん。(世尊から聞いたとおりに)信じることを止め、(ある人が言うように)喜ぶことを止め、人づてに聞くことを止め、(外部の環境の)状況で判断するのを止め、自分の見解と合うかどうか考えることも止めてしまえば、「有の消滅は涅槃である」という、本当に自分だけのニャーナが、ムシラさんにあるでしょうか」。

 「パヴィッタさん。(世尊から聞いたとおりに)信じることを止め、(ある人が言うように)喜ぶことを止め、人づてに聞くことを止め、(外部の環境の)状況で判断するのを止め、自分の見解と合うかどうか考えることも止めてしまっても、私は当然「有の消滅は涅槃である」とこのように見て知っています。

 「ムシラさん。それならあなたは阿羅漢キーナーサヴァですか」。

 このように訊かれると、プラムシラは黙ってしまいました。

 (その時プラナーラダが介入して、プラパヴィッタに同じ質問をさせ、プラナーラダは、最後までプラムシラが答えたのと同じに答えました)。

 「ナーラダさん。(世尊から聞いたとおりに)信じることを止め、(ある人が言うように)喜ぶことを止め、人づてに聞くことを止め、(外部の環境の)状況で判断するのを止め、自分の見解と合うかどうか考えることも止めてしまえば、「有の消滅は涅槃である」という、本当に自分だけのニャーナがナーラダさんにあるでしょうか」。

 「パヴィッタさん。(世尊から聞いたとおりに)信じることを止め、(ある人が言うように)喜ぶことを止め、人づてに聞くことを止め、(外部の環境の)状況で判断するのを止め、自分の見解と合うかどうか考えることも止めてしまっても、私は当然「有の消滅は涅槃である」とこのように見て知っています。

 「ナーラダさん。それならあなたは阿羅漢キーナーサヴァですか」。

 「あなた。『有の消滅は涅槃』というダンマは、私が如実正智慧(註1)で本当に良く見えるダンマですが、私は阿羅漢キーナーサヴァではありません。あなた。荒涼とした道の畔に井戸があり、その井戸には縄も水桶もありません。

その時、日照りの中を歩いて熱暑に曝されて衰弱し、喉が渇いている男がその井戸にやって来て、その男が井戸を見下ろして「井戸に水はあるが、その水を自分の体で浴びることはできない」と考えるのと同じで、比丘のみなさん、「有の消滅は涅槃」というダンマは私が如実正智慧で本当に良く見えるダンマですが、私は阿羅漢キーナーサヴァではありません」

 (プラナーラダがこのように言うと、プラアーナンダが振り向いて、「パヴィッタさん。あなたはこのように質問好きで、ナーラダさんに何を言ったのですか」と言いました)。

 「アーナンダさん。このように質問好きな私は、ナーラダさんに何も言っていません。美しい話と善の話以外は」とこのように答えました。

註1: 如実正智慧とは他人の言葉を信じること、他人の言葉を喜ぶことなど、述べた五つに依存しないで、真実のままに正しく見る智慧。

註: 弟子たちが(ブッダバーシタについて)話している話をここに収めたのは、これらの弟子たちが言い合う言葉から、学習者が如実正智慧という言葉の意味を明確に理解するためです。この話より、如実正智慧というものの状態を良く見せているものは何処にもないからです。





静かな場所で努力するにも、縁起の手法で五蘊に言及しなければならない

祇園精舎で
相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻228頁364項

 「世尊。私が聞いたら一人で隠遁する人になり、不注意でない人になり、煩悩を焼く努力があり、自分を(実践するダンマに)追い遣るダンマを概略で説いてくださるようお願いする機会をください」と、プラアーナンダが申し上げました。

 アーナンダ。あなたはこれをどう思いますか。形は不変ですか、不変でないですか。

 「不変ではありません。猊下」。

 それなら不変でないものは苦ですか、幸福ですか。

 「苦です、猊下」。

 不変でなく、苦であり、当たり前に変化するものを「それは私の物。それは私。それは私自身」と見るべきですか。

 「いいえ、見るべきではありません。猊下」。

 アーナンダ。だからこれは、何らかの形は過去でも未来でも現在でも、内部にあっても外部にあっても、粗くても繊細でも、劣悪でも緻密でも、そのすべての形は自分のものでなく、自分でもなく、自分自身でもありません。

 あなたはこのようにヤターブータサンマッパパンニャー(真実のままの広い知識。如実正智慧)を見なければなりません。

 (受・想・行・識を見る場合も、形の場合と同じように話されています)。

 アーナンダ。聞いてこのように見ている聖なる弟子は、当然形にも受にも想にも、行にも識にも倦怠し、倦怠すれば当然欲情が緩み、欲情が緩めば解脱し、解脱すれば当然その聖なる弟子に、「解脱した」と、このように知るニャーナが生じます。その聖なる弟子は当然「生は終わった。梵行をするのは終わった。するべき仕事は成功した。このようになるためにしなければならないことは他にない」と明らかに知ります。

註: 学習者は、真実のままに正しく見ることがどれほど重要か、縁起を熟慮して見る話をどれだけしても、当然如実正智慧、つまり一つの見本としてこの話を取り上げたように、真実のままに正しく見ることに言及すると観察して見なければなりません。

 学習者は、五取蘊についてこのように真実のままに正しく見ることの重要性を見なければなりません。





内部の苦楽も、五蘊に言及することで生じる

祇園精舎で
相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻221頁346項

 比丘のみなさん。何があれば何に執着して、何に心を埋めて内部の幸福と苦が生じるのでしょうか。

 比丘全員が「猊下。私たちのダンマはすべて、世尊が根源で、世尊が指導者で、世尊が拠り所です。世尊。正しいことでしょう。どうぞそのお言葉の意味を、ご自身で明らかにしてください。比丘全員が世尊から聞いて、記憶します」と、このように懇願しました。

 世尊は、それらの比丘全員に良く聞くよう忠告し、次の内容を話されました。

 比丘のみなさん。形があれば形に執着し、形に心を埋めるので内部の幸福と苦が生じます。比丘のみなさん。これをどう思いますか。形は不変ですか不変でないですか。

 「不変ではありません、猊下」。

 不変でないものは、幸福ですか苦ですか。

 「苦です。猊下」。

 不変でなく苦であり当たり前に変化する物何でも、それに執着しなければ、内部の幸福と苦は生じますか、生じませんか。

 「それは生じません」。

 (受・想・行・識の場合も形の場合と同じように話されています)。

 比丘のみなさん。聞いてこのように見ている聖なる弟子は、当然形にも受にも、想にも行にも識にも倦怠し、倦怠すれば当然欲情が緩み、欲情が緩めば解脱し、解脱すれば当然その聖なる弟子に「解脱した」と、このように知るニャーナが生じます。その聖なる弟子は、当然「生は終わった。している梵行は終わった。するべき仕事は成功した。このようになるためにしなければならないことは他にない」と明らかに知ります。




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