第五章 煩悩と苦の生滅を見せる縁起





因果の法則:縁起の要旨

  これがあれば、当然これがある。

  これが生じたから、これが生じた。


  これが無ければ、当然これは無い。

  これが消滅したから、これが消滅する。

中部マッジマバンナーサ 13巻355頁371項
相応部ニダーナヴァッガ 16巻84頁154項






縁起の形の我語取(このダンマヴィナヤには完璧な四取の規定がある)

祇園精舎で
チュラシーハナーダスッタ
中部ムーラパンナーサ 12巻123頁156項

 比丘のみなさん。これら四つの取があります。四取はどれでしょうか。カームパーダーナ(欲取)、ディットゥパーダーナ(見取)、シーラッパットゥパーダーナ(戒禁取)アッタヴァードゥパーダーナ(我語取)です。

 比丘のみなさん。サマナ・バラモンのある人たちは「(自分たちは)すべての取を知り尽して宣言する人です」と宣言しますが、そのサマナ・バラモンたちは、正しくすべての取を知り尽して規定していません。つまり知り尽して規定したのは欲取だけで、見取、戒禁取、我語取を知り尽して規定していません。それはなぜでしょうか。そのサマナ・バラモンたちは当然その三つの取を真実のままに知らないからです。

 比丘のみなさん。サマナ・バラモンのある人たちは「すべての取を知り尽して宣言する人です」と宣言しますが、そのサマナ・バラモンたちは、正しくすべての取を知り尽して規定していません。つまり知り尽して規定したのは欲取と見取だけで、戒禁取、我語取を知り尽して規定していません。それはなぜでしょうか。そのサマナ・バラモンたちは当然その二つの取を真実のままに知らないからです。

 比丘のみなさん。サマナ・バラモンのある人たちは「すべての取を知り尽して宣言する人です」と宣言しますが、そのサマナ・バラモンたちは、正しくすべての取を知り尽して規定していません。つまり知り尽して規定したのは欲取と見取と戒禁取だけで、我語取を知り尽して規定していません。それはなぜでしょうか。そのサマナ・バラモンたちは当然その一つの取を真実のままに知らないからです。

 比丘のみなさん。如行(ブッダの一人称。漢訳では如来)は、これらの(四つの取を全部規定していない)ダンマヴィナヤは教祖への帰依、ダンマの帰依、完璧な戒の帰依、法友に愛され満足されることは正しくならないと言います。それはなぜでしょうか。比丘のみなさん。帰依などは人が悪く述べ、悪く知り尽くしたダンマヴィナヤの物になり、動物を苦から出すダンマでなく、静まるためにならず、サンマーサンブッダが公開したダンマでないからです。

 ※

 比丘のみなさん。サンマーサンブッダである如行は、すべての取を知り尽して託宣する人で、当然すべての取、つまり当然欲取、見取、戒禁取、我語取を正しく知り尽して規定します。

 比丘のみなさん。この(四つの取を全部規定している)ダンマヴィナヤでは、教祖への帰依、ダンマの帰依、完璧な戒の帰依、法友に愛され、満足されることなどが正しくなると如行は言います。それはなぜでしょうか。

 比丘のみなさん。帰依などは、私が良く述べ、良く熟知させたダンマヴィナヤのものなので、動物を苦から出すダンマであり、完璧に静まるサンマーサンブッダが公開したダンマだからです。

 比丘のみなさん。この四つの取は何が生じさせる因(ニダーナ)で、何が引き起こす物(集。サムダヤ)で、何が生じさせる物で、何が発生源でしょうか。比丘のみなさん。この四つの取は、欲が生じさせる因で、欲が引き起こす物で、欲が生じさせる物で、欲が発生源です。

 比丘のみなさん。欲は何が生じさせる原因で、何が引き起こす物(集)で、何が生じさせる物で、何が発生源でしょうか。比丘のみなさん。受が欲を生じさせる原因で、受が引き起こす物で、受が生じさせる物で、受が発生源です。

 比丘のみなさん。受は何が生じさせる原因で、何が引き起こす物で、何が生じさせる物で、何が発生源でしょうか。比丘のみなさん。触が受を生じさせる原因で、触が引き起こす物で、触が生じさせる物で、触が発生源です。

 比丘のみなさん。この触は何が生じさせる原因で、何が引き起こす物で、何が生じさせる物で、何が発生源でしょうか。比丘のみなさん。六処が触を生じさせる原因で、六処が引き起こす物で、六処が生じさせる物で、六処が発生源です。

 比丘のみなさん。この六処は何が生じさせる原因で、何が引き起こす物で、何が生じさせる物で、何が発生源でしょうか。比丘のみなさん。名形が六処を生じさせる原因で、名形が引き起こす物で、名形が生じさせる物で、名形が発生源です。

 比丘のみなさん。この名形は何が生じさせる原因で、何が引き起こす物で、何が生じさせる物で、何が発生源でしょうか。比丘のみなさん。識が名形を生じさせる原因で、識が引き起こす物で、識が生じさせる物で、識が発生源です。

 比丘のみなさん。この識は何が生じさせる原因で、何が引き起こす物で、何が生じさせる物で、何が発生源でしょうか。比丘のみなさん。行が識を生じさせる原因で、行が引き起こす物で、行が生じさせる物で、行が発生源です。

 比丘のみなさん。このすべての行は何が生じさせる原因で、何が引き起こす物で、何が生じさせる物で、何が発生源でしょうか。比丘のみなさん。無明がすべての行を生じさせる原因で、無明が引き起こす物で、無明が生じさせる物で、無明が発生源です。

 比丘のみなさん。無明が比丘が捨てることができた物になった時、明が生じ、その時その比丘は無明を吐き出してしまうことで明が生じたので、当然欲取に執着せず、見取に執着せず、戒禁取に執着せず、我語取に執着しません。

 執着しなければ(つまり取がなければ)当然驚愕せず、驚愕しなければ当然自分だけの般涅槃し、彼は当然「生は終わった。梵行をするのは終わった。するべき仕事は成功した。このようになるためにしなければならないことは他にない」と明らかに知ります。

註: 学習者は、自分が般涅槃しないのは、驚愕する原因である煩悩、四番目の取があるからと、深く見えるまで観察しなければなりません。

 そして四番目の取(我語取)を捨てることが、集団の秩序を維持するため、自分の拠り所にするため、そして仏教を三つだけの取を規定している他の宗教と違う物にするために重要です。だから仏教の縁起は、特に取を完璧に知って捨てさせることに関して重要です。

 そして観察しなければならない要点は半分だけ、取からしか述べていなくても完璧です。あるいは流れのすべてが完璧な縁起であり、取、あるいは無明を捨てれば同じだけ苦が消滅し、取を捨てれば無明を捨てることができます。





縁起の受は三つの随眠を生じさせる

祇園精舎で
チャッカスッタ
中部ウパリパンナーサ 14巻516頁822項

 比丘のみなさん。(1)目とすべての形に依存して眼識が生じ、三つのダンマ(目+形+眼識)の会合が触です。触が縁で幸福でも、苦でも、苦でも幸福でもないのでも受があります。

 幸福な受に触れると当然恍惚とし、当然褒めちぎって惑溺し、ラーガ(貪り)である随眠が当然その人の中で眠ります(習性が増える)。

 苦の受に触れると当然悲しみ、当然苦悶し、当然泣き嘆き、当然胸を叩いて泣き、当然呆け、パティガ(憤り)である随眠が当然その人の中で眠ります。

 苦でも幸福でもない受に触れると、当然その受を生じさせた原因、その受の消滅、その受のアッサーダ(旨味)、その受のアーディナヴァ(害)、その受のニッサラナ(出る方便)を真実のままに知らないので、無明である随眠が当然その人の中で眠ります。

 比丘のみなさん。幸受から生じた貪随眠をまだ捨てられず、苦受から生じた瞋恚随眠をまだ軽減できず、不苦不幸受から生じた無明随眠をまだ抜くことができない人は、まだ無明を捨てることができず、まだ明を生じさせることができません。その人が今苦を終わらせること、それはあり得ません。

 比丘のみなさん。(2)耳とすべての声に依存して耳識が生じ、三つのダンマ(耳+声+耳識)の会合が触です。触が縁で幸福でも、苦でも、苦でも幸福でもないのでも受があります。

 幸福な受に触れると当然恍惚とし、当然褒めちぎって惑溺し、ラーガ(貪り)である随眠が、当然その人の中で眠ります(習性が増える)。

 苦である受に触れると当然悲しみ、当然苦悶し、当然泣き嘆き、当然胸を叩いて泣き、当然呆け、パティガ(憤り)である随眠が、当然その人の中で眠ります。

 苦でも幸福でもない受に触れると、当然その受を生じさせた原因を、その受の消滅を、その受のアッサーダ(旨味)を、その受のアーディナヴァ(害)を、その受のニッサラナ(出る方便)を真実のままに知らないので、無明である随眠が当然その人の中で眠ります。

 比丘のみなさん。幸受から生じた貪随眠をまだ捨てられず、苦受から生じた瞋恚随眠をまだ軽減できず、不苦不幸受から生じた無明随眠をまだ抜くことができない人は、まだ無明を捨てることができず、まだ明を生じさせることができません。その人が今苦を終わらせること、それはあり得ません。

 比丘のみなさん。(3)鼻とすべての臭いに依存して鼻識が生じ、三つのダンマ(鼻+臭い+鼻識)の会合が触です。触が縁で幸福でも、苦でも、苦でも幸福でもないのでも受があります。

 幸福な受に触れると当然恍惚とし、当然褒めちぎって惑溺し、ラーガ(貪り)である随眠が当然その人の中で眠ります(習性が増える)。

 苦である受に触れると当然悲しみ、当然苦悶し、当然泣き嘆き、当然胸を叩いて泣き、当然呆け、パティガ(憤り)である随眠が当然その人の中で眠ります。

 苦でも幸福でもない受に触れると、当然その受を生じさせた原因を、その受の消滅を、その受のアッサーダ(旨味)を、その受のアーディナヴァ(害)を、その受のニッサラナ(出る方便)を真実のままに知らないので、無明である随眠が当然その人の中で眠ります。

 比丘のみなさん。幸受から生じた貪随眠をまだ捨てられず、苦受から生じた瞋恚随眠をまだ軽減できず、不苦不幸受から生じた無明随眠をまだ抜くことができない人は、まだ無明を捨てることができず、まだ明を生じさせることができません。彼が今苦を終わらせること、それはあり得せん。

 比丘のみなさん。(4)舌とすべての味に依存して舌識が生じ、三つのダンマ(舌+味+舌識)の会合が触です。触が縁で幸福でも、苦でも、苦でも幸福でもないのでも、受があります。

 比丘のみなさん。幸福な受に触れると当然恍惚とし、当然褒めちぎって惑溺し、ラーガ(貪り)である随眠が当然その人の中で眠ります(習性が増える)。

 苦である受に触れると当然悲しみ、当然苦悶し、当然泣き嘆き、当然胸を叩いて泣き、当然呆け、パティガ(憤り)である随眠が当然その人の中で眠ります。

 苦でも幸福でもない受に触れると、当然その受を生じさせた原因を、その受の消滅を、その受のアッサーダ(旨味)を、その受のアーディナヴァ(害)を、その受のニッサラナ(出る方便)を真実のままに知らないので、無明である随眠が、当然その人の中で眠ります。

 比丘のみなさん。幸受から生じた貪随眠をまだ捨てられず、苦受から生じた瞋恚随眠をまだ軽減できず、不苦不幸受から生じた無明随眠をまだ抜くことができない人は、まだ無明を捨てることができず、まだ明を生じさせることができません。その人が今苦を終わらせること、それはあり得ません。

 比丘のみなさん。(5)体とすべての接触に依存して身識が生じ、三つのダンマ(体+接触+身識)の会合が触です。触が縁で幸福でも、苦でも、苦でも幸福でもないのでも、受があります。

 比丘のみなさん。幸福な受に触れると当然恍惚とし、当然褒めちぎって惑溺し、ラーガ(貪り)である随眠が当然その人の中で眠ります(習性が増える)。

 苦である受に触れると当然悲しみ、当然苦悶し、当然泣き嘆き、当然胸を叩いて泣き、当然呆け、パティガ(憤り)である随眠が当然その人の中で眠ります。

 苦でも幸福でもない受に触れると、当然その受を生じさせた原因を、その受の消滅を、その受のアッサーダ(旨味)を、その受のアーディナヴァ(害)を、その受のニッサラナ(出る方便)を真実のままに知らないので、無明である随眠が当然その人の中で眠ります。

 比丘のみなさん。幸受から生じた貪随眠をまだ捨てられず、苦受から生じた瞋恚随眠をまだ軽減できず、不苦不幸受から生じた無明随眠をまだ抜くことができない人は、まだ無明を捨てることができず、まだ明を生じさせることができません。その人が今苦を終わらせること、それはあり得ません。

 比丘のみなさん。(6)心とすべての想念に依存して意識が生じ、三つのダンマ(心+想念+意識)の会合が触です。触が縁で幸福でも、苦でも、苦でも幸福でもないのでも、受があります。

 比丘のみなさん。幸福な受に触れると当然恍惚とし、当然褒めちぎって惑溺し、ラーガ(貪り)である随眠が当然その人の中で眠ります(習性が増える)。

 苦である受に触れると当然悲しみ、当然苦悶し、当然泣き嘆き、当然胸を叩いて泣き、当然呆け、パティガ(憤り)である随眠が当然その人の中で眠ります。

 苦でも幸福でもない受に触れると、当然その受を生じさせた原因を、その受の消滅を、その受のアッサーダ(旨味)を、その受のアーディナヴァ(害)を、その受のニッサラナ(出る方便)を真実のままに知らないので、無明である随眠が当然その人の中で眠ります。

 比丘のみなさん。幸受から生じた貪随眠をまだ捨てられず、苦受から生じた瞋恚随眠をまだ軽減できず、不苦不幸受から生じた無明随眠をまだ抜くことができない人は、まだ無明を捨てることができず、まだ明を生じさせることができません。その人が今苦を終わらせること、それはあり得ません。

 註: 学習者は、随眠はいつでも本性の中に眠っている滓であり、感情があると起き出してきて煩悩・貪・瞋・痴になり、そしてまた次の感情を手に入れるまで眠って待っていると現在理解され、教えられていますが、こういうのは、この経のブッダバーシタと一致しないと観察して見なければなりません。

 この経では、何らかの受を味わった時随眠が生じて眠る(つまりその人にその煩悩が生じる習慣が増える)と言われ、そして普通の凡夫が幸受を味わうと貪随眠(あらゆる種類の貪りである煩悩)が増え、苦受を味わうと瞋恚随眠(あらゆる種類の怒りである煩悩)が増え、不苦不幸受を味わうと無明随眠(あらゆる種類の愚かさである煩悩)が増えると明言されています。

 これは、その度にその煩悩になる癖、あるいはなり易さが増えるという意味です。

 もう一つ特に観察しなければならないのは、貪随眠には「捨てる」という言葉を、瞋恚随眠には「軽減する」という言葉を、無明随眠には「抜く」という言葉を使われている点です。

 私たちがボンヤリ話して随眠を固定したものにしてしまった結果、受を味わう時と味わうのを止めた時の生滅がなくなってしまったように曖昧ではありません。いずれにしても、相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻254頁363項、18巻262頁377項、18巻265頁385項のように、普通の言葉でまとめて話されている場合もあります。





四つの行を生じさせる縁起

一番目の行:五蘊に言及する見

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻116頁174項

 比丘のみなさん。人がどのように知り、どのように見ていれば、すべての漏が次第に終わるでしょうか。

形蘊の場合

 比丘のみなさん。この場合聞いたことがない凡夫はすべての聖人が見えず、聖人のダンマに賢くなく、聖人のダンマの提言を受けず、すべての善人が見えず、善人のダンマに賢くなく、善人の提言を受けないので、当然形を自分と理解しています。比丘のみなさん。形を自分と見る理解はどれも、その理解はサンカーラ(行。註1)です。その行は何が生じさせる原因で、何が引き起こす物でで、何が生じさせる物で、何が発生源でしょうか。

註1: この場合の「サンカーラ=行」は、例えばブッダのダンマを聞かないなどの縁で生じる間違った考え、間違った見方を意味します。サンカーラ(行)と呼ぶのは、縁が生じさせた物だからです。

 比丘のみなさん。その行は欲から生じる物で、聞いたことがない凡夫、触れた無明触から生じた受がある人に生じます。

 比丘のみなさん。以上の理由でその行は無常であり、縁が作り出した物であり、縁に依存して生じた物で、その欲も無常であり、縁が作り出した物であり、縁に依存して生じた物で、その受も無常であり、縁が作り出した物であり、縁に依存して生じた物で、触も無常であり、縁が作り出した物であり、縁に依存して生じた物で、無明も無常であり、縁が作り出した物であり、縁に依存して生じた物です。

 比丘のみなさん。人がすべての漏をこのように知りこのように見ていれば、当然順に消滅します。

 聞いたことがない凡夫は形を自分と理解しないことも事実ですが、彼は当然自分は形があると理解します。比丘のみなさん。自分は形があると理解することはどれも、その理解は行です。その行は何が生じさせる原因で、何が引き起こす物で、何が生じさせる物で、何が発生源でしょうか。比丘のみなさん。その行は、聞いたことがない凡夫、無明触から生じた受に触れた人に欲から生じた物です。

 比丘のみなさん。だからその行は無常であり、縁が作り出した物であり、縁に依存して生じた物で、その欲も無常であり、縁が作り出した物であり、縁に依存して生じた物で、その受も無常であり、縁が作り出した物であり、縁に依存して生じた物で、触も無常であり、縁が作り出した物であり、縁に依存して生じた物で、無明も無常であり、縁が作り出した物であり、縁に依存して生じた物です。

 比丘のみなさん。人がすべての漏をこのように知りこのように見ていれば、当然次第に消滅します。

 聞いたことがない凡夫は形を自分と理解せず、自分に形があると理解しないことも事実ですが、彼は当然自分の中の形と理解します。比丘のみなさん。自分は形があると理解することはどれでも、その理解は行です。その行は何が生じさせる原因で、何が引き起こす物で、何が生じさせる物で、何が発生源でしょうか。比丘のみなさん。その行は、聞いたことがない凡夫、無明触から生じた受に触れた人に欲が生じさせた物です。

 比丘のみなさん。だからその行は無常であり、縁が作り出した物であり、縁に依存して生じた物で、その欲も無常であり、縁が作り出した物であり、縁に依存して生じたもので、その欲も無常であり、縁が作り出した物であり、縁に依存して生じた物で、その触も無常であり、縁が作り出した物であり、縁に依存して生じた物で、その無明も無常であり、縁が作り出した物であり、縁に依存して生じた物です。

 比丘のみなさん。人がすべての漏をこのように知りこのように見ていれば、当然次第に消滅します。

 聞いたことがない凡夫は形を自分と理解せず、自分に形があると理解せず、自分の中の形と理解しないことも事実ですが、その人は当然形の中の自分と理解します。比丘のみなさん。自分は形があると理解することはどれも、その理解は行です。その行は何が生じさせる原因で、何が引き起こす物で、何が生じさせる物で、何が発生源でしょうか。比丘のみなさん。その行は、聞いたことがない凡夫、無明触から生じた受に触れた人に、欲から生じた物です。

 比丘のみなさん。だからその行は無常であり、縁が作り出した物であり、縁に依存して生じた物で、その欲も無常であり、縁が作り出した物であり、縁に依存して生じた物であり、その受も無常であり、縁が作り出した物であり、縁に依存して生じた物で、その触も無常であり、縁が作り出した物であり、縁に依存して生じた物で、その無明も無常であり、縁が作り出した物であり、縁に依存して生じた物です。

 比丘のみなさん。人がすべての漏をこのように知りこのように見ていれば、当然次第に消滅します。



受蘊・想蘊・行蘊・識蘊の場合

 (形蘊の場合をこのように話し終わると、続けて、その凡夫が形を四つの状態で理解しなくても、その人は受蘊、想蘊、行蘊、識蘊を四つの状態で理解すると、形蘊の場合と同じように話されました)。

 それぞれの蘊に間違った見方が四つ、つまり①自分と見る、②自分には蘊があると見る、③自分の中の蘊と見る、④蘊の中の自分と見る状態があり、五つの蘊にこの四つの状態があるので、合計二十の状態があり、この二十の状態をまとめて一番目の行とします。

 この文章は、縁起のすべての流れは「行は触れた無明触から生じた受がある人に、欲から生じる」という短い一文に集約されると説いています。

 学習者は「無明は触の時にあり、行・識・名形・六処を揃って生じさせる。受が欲を生じさせれば、苦が生じるまで加工し続ける」と観察して見ることができます。この場合の行は、縁起のどの状態も意味することができます。縁起の流れ全体で、縁生の形で、加工する状態を意味するだけだからです。

 一番の行を細かく分けると二十種類になります。つまり五蘊に分けて、それぞれを四つの状態、つまり①自分と見る、②自分には蘊があると見る、③自分の中の蘊と見る、④蘊の中の自分と見る状態があるので、合計二十種類になります。

 この経は漏の終りを目的として説いていますが、悪である行の状態を詳しく説明していて、行という言葉に関して他よりも特別な知識なので、滅苦の実践の所でなく、煩悩が生じる話の所に収めました。編者



二番目の行:常見

 聞いたことがない凡夫は、形・受・想・行・識を自分と理解せず、自分には形・受・想・行・識があると理解せず、自分の形・受・想・行・識と理解せず、形・受・想・行・識の自分と理解しないことは事実ですが、その人は「自分と世界は同じで、自分を捨てれば不変な人になり、永遠で確実で、当たり前に変化しない」というディッティ(見解)がある人です。

 比丘のみなさん。このようなディッティはどれも、そのディッティを常見と言い、その常見は行です。その行は何が生じさせる原因で、何が引き起こす物で、何が生じさせる物で、何が発生源でしょうか。比丘のみなさん。その行は、聞いたことがない凡夫、無明触から生じた受に触れた人に、欲望から生じた物です。

 比丘のみなさん。だからその行も無常であり、縁が作り出した物であり、縁に依存して生じた物であり、その欲も無常であり、縁が作り出した物であり、縁に依存して生じた物であり、その受も無常であり、縁が作り出したものであり、縁に依存して生じた物であり、その触も無常であり、縁が作り出した物であり、縁に依存して生じた物であり、その無明も無常であり、縁が作り出した物であり、縁に依存して生じた物です。

 比丘のみなさん。人がすべての漏をこのように知り、このように見ていれば、当然次第に消滅します。

註: 二番目の行は一番の行と同じ意味の縁起の状態があります。つまり「行は、無明触から生じた受に触れた人に、欲から生じる」と結論します。



三番目の行:断見

 聞いたことがない凡夫は、形・受・想・行・識を自分と理解せず、自分には形・受・想・行・識があると理解せず、自分の中の形・受・想・行・識と理解せず、形・受・想・行・識の中の自分と理解しないことは事実ですが、その人は「私はなく、私の物はなく、私はこれからも存在せず、私の物もこれからも存在しない」というディッティがある人です。

 比丘のみなさん。このようなディッティはどれも、そのディッティを断見と言い、その断見は行です。その行は何が生じさせる原因で、何が引き起こす物で、何が生じさせる物で、何が発生源でしょうか。比丘のみなさん。その行は、聞いたことがない凡夫、無明触から生じた受に触れた人に、欲から生じた物です。

 比丘のみなさん。だからその行も無常であり、縁が作り出した物であり、縁に依存して生じた物であり、その欲も無常であり、縁が作り出した物であり、縁に依存して生じた物であり、その受も無常であり、縁が作り出した物であり、縁に依存して生じた物であり、その触も無常であり、縁が作り出した物であり、縁に依存して生じた物であり、その無明も無常であり、縁が作り出した物であり、縁に依存して生じた物です。

 比丘のみなさん。人がすべての漏をこのように知り、このように見ていれば、当然次第に消滅します。

註: 三番目の行は、一番の行と同じ意味の縁起の状態があります。つまり「行は、無明触から生じた受に触れた人に、欲から生じる」と結論します。



四番目の行: サッダンマに対する疑念

 聞いたことがない凡夫は、形・受・想・行・識を自分と理解せず、自分には形・受・想・行・識があると理解せず、自分の形・受・想・行・識と理解せず、形・受・想・行・識の中の自分と理解せず、更に「自分と世界は同じで、自分を捨てたら不変な人になり、永遠で、確実で、当たり前に変化しない」というディッティ(見解)がなく、

「私はあるべきなく、私の物もあるべきなく、私はこれからも存在するべきでなく、私の物もこれからも存在するべきでない」というディッティもないのは事実ですが、しかしその人には疑念があり、ためらいがあり、サッダンマ(正法)に確信がありません。

 比丘のみなさん。このように疑念があり、躊躇いがあり、正法に確信がないことはどれも、それは行です。その行は何が生じさせる原因で、何が引き起こす物で、何が生じさせる物で、何が発生源でしょうか。比丘のみなさん。その行は、聞いたことがない凡夫、無明触から生じた受に触れた人に、欲が生じさせた物です。

 比丘のみなさん。だからその行も無常であり、縁が作り出した物であり、縁に依存して生じた物であり、その欲も無常であり、縁が作り出した物であり、縁に依存して生じた物であり、その受は無常であり、縁が作り出した物であり、縁に依存して生じた物であり、その触も無常であり、縁が作り出した物であり、縁に依存して生じた物であり、その無明も無常であり、縁が作り出した物であり、縁に依存して生じた物です。比丘のみなさん。人がすべての漏をこのように知りこのように見ていれば、当然次第に消滅します。

註: 四番目の行は、一番の行と同じ意味の縁起の状態があります。つまり「行は、無明触から生じた受に触れた人に、欲から生じる」とまとめます。





欲が消滅して取が生じる

祇園精舎で
アビサマヤ相応カハパティヴァッガ 16巻86頁161項

 比丘のみなさん。苦が維持できないことについてお話しします。みなさん。これを聞いて心の中を役立つようになさい。これから話します。

 比丘のみなさん。苦が維持できないことはどのようでしょうか。

(1) 比丘のみなさん。目とすべての形に依存して眼識が生じ、三つのダンマ(目+形+眼識)の会合が触です。触が縁で受があり、受が縁で欲があります。欲が残らず消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが一斉に消滅します。すべての苦の山の消滅は、このような様相であります。これが苦が維持できないことです。

(2) 比丘のみなさん。耳とすべての声に依存して耳識が生じ、三つのダンマ(耳+声+耳識)の会合が触です。触が縁で受があり、受が縁で欲があります。欲が残らず消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが一斉に消滅します。すべての苦の山の消滅は、このような様相であります。これが苦が維持できないことです。

(3) 比丘のみなさん。鼻とすべての臭いに依存して鼻識が生じ、三つのダンマ(鼻+臭い+鼻識)の会合が触です。触が縁で受があり、受が縁で欲があります。欲が残らず消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが一斉に消滅します。すべての苦の山の消滅は、このような様相であります。これが苦が維持できないことです。

(4) 比丘のみなさん。舌とすべての味に依存して舌識が生じ、三つのダンマ(舌+味+舌識)の会合が触です。触が縁で受があり、受が縁で欲があります。欲が残らず消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが一斉に消滅します。すべての苦の山の消滅は、このような様相であります。これが苦が維持できないことです。

(5) 比丘のみなさん。体とすべての接触に依存して身識が生じ、三つのダンマ(体+接触+身識)の会合が触です。触が縁で受があり、受が縁で欲があります。欲が残らず消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが一斉に消滅します。すべての苦の山の消滅は、このような様相であります。これが苦が維持できないことです。

(6) 比丘のみなさん。心とすべての想念に依存して意識が生じ、三つのダンマ(心+想念+意識)の会合が触です。触が縁で受があり、受が縁で欲があります。欲が残らず消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが一斉に消滅します。すべての苦の山の消滅は、このような様相であります。これが苦が維持できないことです。

 比丘のみなさん。これが、苦が維持できないことです。





縁起式のカンマの終り

榕樹苑で
増支部チャトゥカニパータ 21巻268頁195項

 ヴァッパさん。あなたが喜ぶべきことを喜び、反対すべきことを反対し、そして私の言ったどれでも意味が分からない時は「これはどうですか。この言葉の意義はどのようですか」と私に問い質すべきなら、私たち二人の会話はあるべきです。(ヴァッパサーキヤがそれに納得すると、世尊が言われました)。

 ヴァッパさん。あなたはこれをどう思いますか。体による努力が縁で生じて困窮させるすべての漏のどれでも、体による努力を避けてしまえば当然困窮させるすべての漏がないので、その人は当然新しいカンマを作らず、当然触れて来た古いカンマを終わらせる行動をします。

 このようにカンマを終わらせるパティパダー(道)は、実践者が自分で見ることができ、時に関わらず、古びることを知らず、見に来るよう友人を呼ぶべき、自分に取り入れるべき、すべての智者が自分だけで知ることができるダンマです。

 ヴァッパさん。苦受になるすべての漏は、何らかの条件が原因で、先々その人に流れて行きます。あなたは当然その条件を知っていますか。

 「いいえ知りません。猊下」。

 ヴァッパさん。あなたはこれをどう思いますか。言葉による努力が縁で生じて困窮させるすべての漏のどれでも、言葉による努力を避けてしまえば当然困窮させるすべての漏は当然ないので、その人は当然新しいカンマを作らず、当然触れて来た古いカンマを終わらせる行動をします。

 このようにカンマを終わらせるパティパダー(道)は、実践者が自分で見ることができ、時に関わらず、古びることを知らず、見に来るよう友人を呼んで来るべき、自分に取り入れるべき、すべての智者が自分だけで知ることができるダンマです。

 ヴァッパさん。苦受になるすべての漏は、何らかの条件が原因で、先々人に流れて行きます。あなたは当然その条件を知っていますか。

 「いいえ知りません。猊下」。

 ヴァッパさん。あなたはこれをどう思いますか。心による努力が縁で生じて困窮させるすべての漏のどれでも、心による努力を避けてしまえば困窮させるすべての漏は当然ないので、その人は当然新しいカンマを作らず、当然触れて来た古いカンマを終わらせる行動をします。

 このようにカンマを終わらせるパティパダー(道)は、実践者が自分で見ることができ、時に限定されず、古びることを知らず、見に来るよう友人を呼ぶべき、自分に取り入れるべき、すべての智者が自分だけで知ることができるダンマです。ヴァッパさん。

 苦受になるすべての漏は、何らかの条件が原因で、先々人に流れて行きます。あなたは当然その条件を知っていますか。

 「いいえ知りません。猊下」。

 ヴァッパさん。あなたはこれをどう思いますか。無明が縁で生じて困窮させるすべての漏はどれでも、明が生じることで、無明をすべて吐き出すことでそれらの困窮させるすべての漏は当然ないので、その人は当然新しいカンマを作らず、当然触れて来た古いカンマを終わらせる行動をします。

 このようにカンマを終わらせるパティパダー(道)は、実践者が自分で見ることができ、時を限定せず、古びることを知らず、見に来るよう呼ぶべき、自分に取り入れるべき、すべての智者が自分だけで知ることができるダンマです。

 ヴァッパさん。苦受になるすべての漏は、何らかの条件が原因で、先々人に流れて行きます。あなたは当然その条件を知っていますか。

 「いいえ知りません。猊下」。

 ヴァッパさん。比丘の心がこのように正しく解脱すれば、六つのサッタヴィハーラダンマ(註1)は、その比丘が到達したということです。その比丘が目で形を見ても喜ぶ人でなく、悲しむ人でなく、捨にいる人で、常自覚があり、耳で声を聞いても、鼻で臭いを嗅いでも、舌で味を味わっても、体で接触を感じても、心で想念を感じても喜ぶ人でなく、悲しむ人でなく、捨にいる人で常自覚があります。

 その比丘が終わった体がある受を味わえば、当然「私は終わった体のある受を味わっている」とハッキリと知り、終わった命がある受を味わえば、当然「終わった命のある受を味わっている」とハッキリと知ります。彼は当然「私はすべての受に陶酔しない。体が崩壊して命が終わるまで、この個人の中で冷えた物になった」とハッキリと知ります。

 ヴァッパさん。影は当然、柱に依存して生じますが、その時男が斧と籠を持ってきて柱を根元から切り、根元から切ったら掘り、掘ったら根をカヤの茎ほども残さず刻みます。男はその柱を大小の丸太にし、大小の丸太にしたら割り、割ったら小さな木端にし、小さな木端にしたら風と陽射しで乾かし、乾いたら火で燃やし、燃やしたら灰にし、灰にしたら強風に撒くか川の急流に流せば、

ヴァッパさん。柱に依存していた影はどれも、その影は当然根源のない物になって維持できないように、先端を切られた砂糖ヤシの木のように、当然その後は生きられないようになります。

 ヴァッパさん。同じように比丘の心がこのように正しく解脱すれば、六つのサッタヴィハーラダンマに、その比丘は到達したということです。その比丘は目で形を見ても喜ぶ人でなく、悲しむ人でなく、ウペッカー(捨)にいる人で、常自覚があり、耳で声を聞いても、鼻で臭いを嗅いでも、舌で味を味わっても、体で接触を感じても、心で想念を感じても喜ぶ人でなく、悲しむ人でなく、ウペッカー(捨)にいる人で、常自覚があります。

 その比丘が終わった体がある受を味わえば当然「私は終わった体のある受を味わっている」とハッキリと知り、終わった命がある受を味わえば当然「終わった命のある受を味わっている」とハッキリと知り、その人は当然「私はすべての受に陶酔しない。体が崩壊して命が終わるまで、この体の中で冷えた物になった」とハッキリと知ります。

 世尊がこのように話されると、異教の教祖の弟子であるヴァッパサーキヤは世尊に「猊下。仔馬を育てて売って儲けを得たい男は非常に苦労するので儲けがないように、私は利益を求めて、智慧が貧弱な異教徒と付き合いましたが、非常に苦難があったので儲けがありませんでした。猊下。今日より私は智慧が貧弱な異教への帰依を強風に撒いてしまいます。あるいは川の急流に浮かべてしまいます。

 猊下。非常に素晴らしいです。スガタ様、非常に素晴らしいです。猊下。伏せてある物を裏返したようで、閉じていた物を開けたようで、道に迷っている人に道を教えるようで、目のある人はすべての形が見えるよう暗闇の中に油の灯火のようです。世尊がいろんな説明で公開されたダンマもそのようです。

 猊下。私は拠り所である世尊に至り、ダンマに至り、サンガに至りました。どうぞ世尊。本日より死ぬまで、拠り所に至った清信士として私を憶えておいてください」と申し上げました。

註1: ここでの「サッタヴィハーラダンマ」とは、目・耳・鼻・舌・体・心の触に、継続して常自覚があり、継続して喜びや悲しみが生じず、ぼんやりする時間がないことを意味し、サティがこのように継続して六処を管理すれば、このような生活を「六つのサッタヴィハーラダンマ」と言います。

註: 学習者は、本当のカンマの終りは縁起の流れが終わることであり、体による努力、言葉による努力、心による努力が無ければ、あるいは現在漏を生じさせる原因であり、自分で感じることができる状態の無明、特に困窮や焦燥が静まって体による努力等が止まれば、縁起の一つの流れでも一回のカンマの終りと呼ぶことができると観察して見なければなりません。

 縁起が二度と生じられなければカンマの永遠の終りであり、死後のことだけを意味するべきではありません。心が取を作り出さず、有にならなければ、現在カンマが結果を出す義務を行う場所である有、あるいは現在の生と呼ぶ物がないので、新しいカンマを作らず、古いカンマが終わるので縁起の流れの中でカンマが終わったと見なします。





六処が義務をしなければ五取蘊は生じない

祇園精舎で
マハーハッティパドーパマスッタ
中部ムーラパンナーサ 12巻358頁346項

 (これはブッダバーシタではなく、サーリプッタの言葉ですが、ブッダバーシタを良く説明しているので、本当のアビダンマ〈無上のダンマという意味。論蔵のことではない〉として引用します)。

 ご年配のみなさん。木と蔦蔓と粘土と草で塞がれている空間を当然家と見なすように、ご年配のみなさん。骨と腱と肉と皮膚で塞がれている空間を当然形(体)と見なします。

 ご年配のみなさん。内部の処である目が崩壊せず、外部の処であるすべての形がまだ(目の)流れに入ってなく、二つの処から生じるサマンナーハーラチッタ(註1)もなければ、その二つの処から生じる識もまだありません。

 ご年配のみなさん。内部の処である目が破壊されず、外部の処である形が(目の)支配下になくても、二つの処から生じるサマンナーハーラチッタがなければ、その二つの処から生じる識はまだありません。

 ご年配のみなさん。内部の処である目が崩壊せず、外部の処である形が(目の)支配下に入っていて、二つの処から生じるサマンナーハーラチッタもあれば、このような時その二つの処から生じる識は当然あります。

 そのように(同時に)生じたサマンナーハーラチッタの形はどれも、その形は当然形取蘊に集約されます。そのように(同時に)生じたサマンナーハーラチッタの受はどれも、当然受取蘊に集約され、そのように(同時に)生じたサマンナーハーラチッタの想はどれも、当然想取蘊に集約され、そのように(同時に)生じたサマンナーハーラチッタの行はどれでも、当然行取蘊に集約され、そのように(同時に)生じたサマンナーハーラチッタの識はどれも、当然識取蘊に集約されます。

 比丘は当然「五取蘊の集約、会合、一まとめにすることは、当然このような状態と聞いた」と明らかに知ります。

 この言葉は「縁起が見える人はダンマが見えると言われる。ダンマが見える人は縁起が見えると言われる」と世尊がこのように言われた言葉です。これらすべてのダンマは縁起のダンマ、つまり五取蘊と呼ばれます。

 これらの五取蘊を愉しみ、懐かしみ、追いかけて陶酔するダンマはどれも、苦集(苦を生じさせる原因)と呼ばれます。

 これらの五取蘊のチャンダラーガを取り出し捨てて無くしたダンマはどれも、苦滅(苦の生滅)と呼ばれます。

 ご年配のみなさん。これだけの実践で、世尊の教えは比丘が沢山した行動と呼ばれます。

註1: サマンナーハーラチッタとは、無明があり、あるいはサティがなく、あるいは解脱する明がなく、門に触れる度に感情を意識する心のこと。

 (一番の処、つまり目と形に関した文章は終わって、次に二番目から六番目の処までありますが、ここでは二番目から五番目つまり耳・鼻・舌・体・心の処については省略します)。

 ご年配のみなさん。内部の処である心が崩壊せず、外部の処である想念がまだ支配下になく、その二つの処から生じたサマンナーハーラチッタもなければ、その二つの処から生じる識もありません。

 ご年配のみなさん。内部の六処である心が崩壊せず、外部の六処である想念が(心の)支配下にあっても、その二つの処から生じたサマンナーハーラチッタがなければ、その二つの処から生じる識はまだありません。

 ご年配のみなさん。内部の処である心が崩壊せず、外部の処である想念が(心の)支配下に入っていて、その二つの処から生じるサマンナーハーラチッタもあれば、このような時その二つの処から生じる識は当然あります。

 そのように(同時に)生じたサマンナーハーラチッタと形どれでも、当然形取蘊に集約され、そのように生じた(一緒に)サマンナーハーラチッタの受はどれでも、当然受取蘊に集約され、そのように(同時に)生じたサマンナーハーラチッタの想はどれでも、当然想取蘊に集約され、

そのように(同時に)生じたサマンナーハーラチッタの行はどれでも、当然行取蘊に集約され、そのように(同時に)生じたサマンナーハーラチッタの識はどれでも、当然識取蘊に集約されます。

 比丘は当然「五取蘊の集約、会合、一まとめにすることは当然このような状態であると聞いた」と明らかに知ります。

 この言葉は「縁起が見える人はダンマが見えると言われる。ダンマが見える人は縁起が見えると言われる」と世尊が言われた言葉で、これらすべてのダンマは縁起のダンマ、つまりすべての五取蘊と呼ばれます。

 この五取蘊を愉しみ、懐かしみ、追いかけ、陶酔するダンマはどれでも、そのダンマは苦集(苦を生じさせる原因)と呼ばれます。

 この五取蘊のチャンダラーガ(欲貪)を取り出し捨ててなくしたダンマはどれでも、そのダンマは苦滅(苦の消滅)と呼ばれます。

 ご年配のみなさん。これだけの実践で、世尊の教えは比丘が沢山した物と言われます。

註: 学習者は、このサーリプッタの言葉は、識あるいは五取蘊が、いつ、どのように生じるかを説明していると観察して見なければなりません。そして最も重要なことは、この経で述べているような識や五取蘊の発生こそ、縁起の発生であることです。

 もっとハッキリさせれば、六処のいずれかにサマンナーハーラチッタが生じる時、このような発生と消滅を見ることは縁起を見ること、あるいは苦集と苦滅を見ることです。実践面では智慧の目、あるいは如実正慧で本当に四聖諦を見ることです。だからダンマが見えること、あるいは如行が見えることと同じ価値があります。

 この話の要旨は六処で義務を行う時にサマンナーハーラチッタが始まる所にあります。縁起に関して重要な教えとして憶えておいてください。




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