第四章 縁起は日常生活で常に生じる





     因果の法則:縁起の要旨


 これがあれば、当然これがある。

 これが生じたから、これが生じた。


 これが無ければ、当然これは無い。

 これが消滅したから、これが消滅する。

中部マッジマバンナーサ 13巻355頁371項
相応部ニダーナヴァッガ 16巻84頁154項






縁起は、受に執着するまで育った赤ん坊にもある

祇園精舎で
マハータンハーサンカヤースッタ
中部ムーラパンナーサ 12巻487頁452項

 比丘のみなさん。三つの縁の会合によって、胎内に生まれる動物の胎内に生まれることが当然生じます。この場合母と父が一緒にいても母に生理がなく、特にカンダッパ(胎内に生まれる動物)がまだ行って維持していなければ、胎内に生まれる動物が胎内に下りて行くことはまだありません。この場合母と父が一緒にいて母に生理があっても、特にカンダッパがまだ入って維持していなければ、胎内で生まれる動物の胎内に下りて行くことはまだありません。

 しかし母と父が一緒にいて、母に生理があり、特にカンダッパが行って維持していれば、胎内に生まれる動物が胎内に下りて行くことは、三つの縁の会合によって当然このような状況であります。

 比丘のみなさん。母は胎内に生まれた動物を、九か月ないし十か月間、非常に心配して、重責として気を配り、比丘のみなさん。九か月ないし十か月後に、その子を非常に心配して、重責として当然出産し、生まれた子を自分の血で養育します。

 比丘のみなさん。このアリヤヴィナヤで言う血とは、母乳を意味します。

 比丘のみなさん。その男児はすべての根の成長に依存して、赤子の玩具、たとえばタイノーイ(訳注: メンコ?)で遊び、飯鍋、汁鍋で遊び、逆立ち、でんぐり返しで遊び、小さな風車で遊び、木の葉で作った升で計って遊び、小さな車で遊び、小さな弓などの子供の玩具で遊びます。

 比丘のみなさん。その男児が成長して根が十分育つと、五欲、つまり目からの形、耳からの声、鼻からの臭い、舌からの味、体の接触の、すべては望ましい物、愛らしい物、満足すべき物、魅惑する物、愛欲の住処であり、欲情の基盤であり、そして愛の基盤である五欲で満たされた人になり、それに喜ばされます。

 その男児が目(耳・鼻・舌・体・心)で形(声・香・味・触・考え)を見ると、魅惑的な形等を喜んで欲しがり、愛の基盤でない形等を嫌い、体に行き渡ったサティがある人でなく、善がある心の人でなく、すべての悪が残らず消滅するチェトーヴィムッティ(心解脱)、パンニャーヴィムッティ(智慧解脱)を真実のままに知りません。

 その男児にこのように喜びや悲しみがあれば、幸福でも、苦でも、苦でも幸福でもなくても受を味わい、当然その受に陶酔し、褒めちぎり、惑溺します。そのようなら当然喜びが生じ、その受になる陶酔は取です。取が縁で有があり、有が縁で生があり、生が縁で老・死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・悩みが揃って生じます。すべての苦の塊の発生はこのような状況であります。

註: 学習者は、このブッダバーシタから、二つの最も重要な要旨を観察して見なければなりません。つまり受への執着を知るまで成長した子は、その子の心の無明の威力で縁起の流れが生じること。これが一つです。

 もう一つは最後の部分で、有とか生とか呼ぶ物も、その受に執着した時に生じたばかりで、普通の人が理解し話しているように、その子が母の腹から生まれた時からあるのではないとハッキリと説明されていることです。

 だから縁起の言葉は本当のダンマ語で話されていて、受がある度に有や生があり、老・死は子供にもあります。これはダンマ語の意味があるからです。すなわち「老・死」の意味から生じるいろんな気が重い問題であり、本当の苦を生じさせることができる、心より威力がある執着された老・死です。

 学習者が深遠な真実を理解すれば、縁起の学習も簡単になります。どうぞ興味を持って特に復習してください。





受の詳細な縁相

祇園精舎で
相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻16頁48項

 (半月遠離された後、遠離されていた場所を出られて言われました)。

 比丘のみなさん。私は悟ったばかりの頃住んだのと同じヴィハーラダンマの国(註1)にいました。このようにヴィハーラダンマにいると、当然、

 受は誤った見解が縁でも、正しい見解が縁でも当然あり、

 受は誤った考えが縁でも、正しい考えが縁でも当然あり、

 受は誤った言葉が縁でも、正しい言葉が縁でも当然あり、

 受は誤った業が縁でも、正しい業が縁でも当然あり、

 受は誤った生活が縁でも、正しい職業が縁でも当然あり、

 受は誤った努力が縁でも、正しい努力が縁でも当然あり、

 受は誤ったサティが縁でも、正しいサティが縁でも当然あり、

 受は誤ったサマーディが縁でも、正しいサマーディが縁でも当然あり、


 受はチャンダ(喜び。満足)が縁でも当然あり、

 受はヴィタッカ(考えること)が縁でも当然あり、

 受はサンニャー(想)が縁でも当然あり、

 受はまだ静まらない喜び・考え・想が縁でも当然あり、

 受は静まった喜び・考え・想が縁でも当然あり、

 受は当然到達するための努力が縁でもある、とこのようにハッキリと知りました。

註1: ここでの「国」という言葉は、例えば体を維持する所である大地のように、心の感覚を維持する場所を意味します。このように元のままにしたのは、タイ語にはあまりないパーリ語の感覚を読者のみなさんに知っていただくためです。


 (別の経では幾つか違った項目があります)。


 比丘のみなさん。私は悟ったばかりの頃住んだのと同じヴィハーラダンマにいました。このようにヴィハーラダンマにいると、私は当然、

 受は誤った見解が縁でも、誤った見解が静まることが縁でも当然あり、

 受は誤った考えが縁でも、誤った考えが静まることが縁でも当然あり

 受は正しい考えが縁でも、正しい考えが静まることが縁でも当然あり

 受は誤った言葉が縁でも、誤った言葉が静まることが縁でも当然あり

 受は正しい言葉が縁でも、正しい言葉が静まることが縁でも当然あり

 受は誤った仕事が縁でも、誤った仕事が静まることが縁でも当然あり

 受は正しい仕事が縁でも、正しい仕事が静まることが縁でも当然あり

 受は誤った職業が縁でも、誤った職業が静まることが縁でも当然あり

 受は正しい職業が縁でも、正しい職業が静まることが縁でも当然あり

 受は誤った努力が縁でも、誤った努力が静まることが縁でも当然あり

 受は正しい努力が縁でも、正しい努力が静まることが縁でも当然あり

 受は誤ったサティが縁でも、正しいサティが縁でも当然あり、

 受は正しいサティが縁でも、正しいサティが静まることが縁でも当然あり

 受は誤ったサマーディが縁でも、誤ったサマーディが静まることが縁でも当然あり

 受は正しいサマーディが縁でも、正しいサマーディが静まることが縁でも当然あり

 受はチャンダ(喜び)が縁でもあり、チャンダが静まることが縁でも当然あり

 受はヴィタカ(考えること)が縁でもあり、ヴィタカが静まることが縁でも当然あり

 受は想が縁でもあり、想が静まることが縁でも当然あり、

 受はまだ静まらない喜び・考え・想が縁でも当然あり、

 受は静まった喜び・考え・想が縁でも当然あり、

 受は到達するための努力に至ることが縁でも当然あると、このようにハッキリと知りました。

註: 学習者は、大悟されたばかりの頃住まわれたことがあるヴィハーラダンマは、ニャーナあるいはいろんな知識を簡単に生じさせるヴィハーラダンマと観察して見なければなりません。だからブッダは、ヴィハーラダンマの国にいる時これらの受に関わるダンマを明らかに知ったと話されています。

 このパーリ(ブッダの言葉である経)の受という言葉は、普通に「触が縁で生じる受」という言葉の意味より広い意味があり、何らかのレベルの知識やニャーナの状態になる感覚を意味することもできます。

 あるいは、少なくても「想受滅」という言葉の受と同じ意味、あるいは「受がある動物のために四聖諦を説いた」と言われた受の意味を意図しているので、縁は二十二、ないし二十一とたくさんあります。その縁が受を生じさせる、イダッパチャヤター、あるいは縁起の形の縁相とします。





六処は縁起の出発点

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻214頁305項

 比丘のみなさん。すべての手があれば、掴むことと置くことが現れ、すべての足があれば、前進と後退が現れ、すべての膝があれば、屈むことと伸ばすことが現れ、胃腸があれば、空腹と渇きが現れるように、

  比丘のみなさん。目があれば眼触が縁で内部の幸福と苦が生じ、耳があれば耳触が縁で内部の幸福と苦が生じ、鼻があれば鼻触が縁で内部の幸福と苦が生じ、舌があれば舌触が縁で内部の幸福と苦が生じ、体があれば身触が縁で内部の幸福と苦が生じ、心があれば意触が縁で内部の幸福と苦が生じます。



 比丘のみなさん。すべての手がなければ、掴むことと置くことは現れず、すべての足がなければ、前進と後退は現れず、すべての膝がなければ、屈むことと伸ばすことは現れず、胃腸がなければ、空腹と渇きが現れないように、

比丘のみなさん。目がなければ眼触が縁で内部の幸福と苦は生じず、耳がなければ耳触が縁で内部の幸福と苦は生じず、鼻がなければ鼻触が縁で内部の幸福と苦は生じず、舌がなければ舌触が縁で内部の幸福と苦は生じず、体がなければ身触が縁で内部の幸福と苦は生じず、心がなければ意触が縁で内部の幸福と苦は生じません。

註: 学習者は、目などの六処は、あらゆる種類の作り出すことの始発点で、ここでは幸福も苦も受で、その部分に常自覚がなければ確実に欲や取が生じ、最後に苦が生じると観察していなければなりません。





三門の発生は縁起の無明の発生次第

祇園精舎で
相応部ニダーナヴァッガ 16巻46頁82項

 プラブーミチャがプラサーリプッタに「カンマについて教えるサマナ・バラモンには四つの集団があり、一つは幸福と苦は自分で作ると言い、もう一つは他人が作ってくれると言い、もう一つは自分で作るのも他人が作ってくれるのもあると言い、もう一つは自分で作るのでも、他人が作ってくれるのでもないと言います。

 これについて世尊はどのように言われますか。そして話す時は、どのように言えば、世尊の言葉と一致しますか」とこのように質問した時、プラサーリプッタが世尊と同じように答えた話を、世尊がアーナンダに話て聞かせ、それから言われました。

・・・

 そうです、そうです、アーナンダ。サーリプッタがそのように、その状態で問題に答えたのは正しい回答と言われます。アーナンダ。幸福と苦は何らかの縁に依存して生じると私は言います。幸福と苦は何の縁に依存するのでしょうか。

 幸福と苦は縁である触に依存します。このように言う人は、私が言っているように言うと言われ、事実でない言葉を私の教えと騙るのではない正しい発言で、そして追随して言う法友も、誹謗されません。

 アーナンダ。四種類のカンマについて教えるサマナ・バラモンのある人たちは、幸福と苦は当然自分自身で作る物と教えます。彼らが規定した幸福と苦も縁である触に依存して生じます。

 カンマについて教えるサマナ・バラモンのある人たちは、当然幸福と苦は他人が作ってくれる物と教えます。彼らが規定した幸福も苦も縁である触に依存して生じます。

 カンマを教えるサマナ・バラモンのある人たちは、当然自分で作る幸福も苦もあり、他人が作ってくれる幸福も苦もあると規定します。彼らが規定した幸福と苦も縁である触に依存して生じます。

 カンマを教えるサマナ・バラモンのある人たちは、幸福と苦は、当然自分が作る物でも、他人が作ってくれる物でもないと規定します。彼らが規定した幸福と苦も必ず縁である触に依存して生じます。

 アーナンダ。カンマについて教える四種類のサマナ・バラモンの中で、当然幸福と苦は自分で作ると規定してカンマを教えるサマナ・バラモンたち、そのサマナ・バラモンたちも触を避けてしまって、幸福と苦を感じることができるでしょうか。それはできません。

 当然幸福と苦は他人が作ってくれると規定してカンマを教えるサマナ・バラモンも、触を避けてしまって、幸福と苦を感じることができるでしょうか。それはできません。

 当然幸福と苦は、自分が作る、物もあり、他人が作ってくれる物もあると規定すしてカンマを教えるサマナ・バラモンも、触を避けてしまって幸福と苦を感じることができるでしょうか。それはできません。

 アーナンダ。体(無明で義務を行っている身門)があれば、内部の幸福と苦は当然カーヤサンチェッタナー(行動する決意)が原因で生じます。

 アーナンダ。言葉(無明で義務を行っている口門)があれば、ヴァチーサンチェッタナー(言葉にする決意)が原因で、当然内部の幸福と苦が生じます。

 アーナンダ。心(無明で義務を行っている意門)があれば、マノーサンチェッタナー(考える決意)が原因で当然内部の幸福と苦が生じます。

 アーナンダ。無明が縁で、心の自然は内部の幸福と苦を生じさせる縁である身行を当然自分で作って生じさせ、

 アーナンダ。無明が縁で、心の自然は内部の幸福と苦を生じさせる縁である身行を当然他人の催促に依存して作って生じさせ、

 アーナンダ。無明が縁で、心の自然は内部の幸福と苦を生じさせる縁である身行を当然自覚によって作って生じさせ、

 アーナンダ。無明が縁で、心の自然は内部の幸福と苦を生じさせる縁である身行を当然自覚なしに作って生じさせ、

 アーナンダ。無明が縁で、心の自然は内部の幸福と苦を生じさせる縁である口行を当然自分で作って生じさせ、

 アーナンダ。無明が縁で、心の自然は、内部の幸福と苦を生じさせる縁である口行を当然他人の催促に依存して作って生じさせ、

 アーナンダ。無明が縁で、心の自然は内部の幸福と苦を生じさせる縁である口行を当然自覚して作って生じさせ、

 アーナンダ。無明が縁で、心の自然は内部の幸福と苦を生じさせる縁である口行を当然自覚なしに作って生じさせ、

 アーナンダ。無明が縁で、心の自然は内部の幸福と苦を生じさせる縁である意行を当然自分で作って生じさせ、

 アーナンダ。無明が縁で、心の自然は内部の幸福と苦を生じさせる縁である意行を当然他人の催促に依存して作って生じさせ、

 アーナンダ。無明が縁で、心の自然は内部の幸福と苦を生じさせる縁である意行を当然自覚して作って生じさせ、

 アーナンダ。無明が縁で、心の自然は内部の幸福と苦を生じさせる縁である意行を当然自覚なしに作って生じさせます。

 アーナンダ。そのすべてのダンマに介入する犯人は無明です。

 アーナンダ。無明が薄れて残らず消滅することで、内部の幸福と苦を生じさせる縁になる体(無明で義務を行っている身門)は当然ありません。

 アーナンダ。無明が薄れて残らず消滅することで、内部の幸福と苦を生じさせる縁になる言葉(無明で義務を行っている口門)は当然ありません。

 アーナンダ。無明が薄れて残らず消滅することで、内部の幸福と苦を生じさせる縁になる心(無明で義務を行っている意門)は当然ありません。

 アーナンダ。無明が薄れて残らず消滅することで、土地(内部の幸福と苦が生まれ、成長する場所)としても、物質(内部の幸福と苦が依存するもの)としても、六処(内部の幸福と苦の直接の縁)としても、アディカラナ(内部の幸福と苦を生じさせるもの。事件)としても、内部の幸福と苦を生じさせる縁になるサンチェッタナー(決意)は当然ありません。





無明触は縁起の本当の根源

祇園精舎で
相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻57頁94項

 比丘のみなさん。どのサマナ・バラモンたちも、理解する時は、当然いろんな自分を理解し、それらのサマナ・バラモンは当然五つすべての取蘊、あるいはすべての取蘊のいずれかを(自分と)理解します。

 比丘のみなさん。五取蘊はどのようでしょうか。比丘のみなさん。聞いたことがないこの世界の凡夫は聖人が見えず、聖人のダンマに賢くなく、聖人のダンマの忠告を受けず、すべての善人が見えず、善人のダンマに賢くなく、善人の提言を受けないので、

(1)当然形を自分と理解し、当然自分は形があると理解し、当然自分の形と理解し、当然形の自分と理解し、

(2)当然受を自分と理解し、当然自分は受があると理解し、当然自分の受と理解し、当然受の自分と理解し、

(3)当然想を自分と理解し、当然自分は想があると理解し、当然自分の想と理解し、当然想の自分と理解し、

(4)当然行を自分と理解し、当然自分は行があると理解し、当然自分の行と理解し、当然行の自分と理解し、

(5)当然識を自分と理解し、当然自分は識があると理解し、当然自分の識と理解し、当然識の自分と理解します。

 述べたような理解は当然あり、その比丘は「私はいる」と、このように捉えることもあります。

 比丘のみなさん。その比丘が「私はいる」という考えを掴めば、次に五根すなわち眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根への進行が当然あり、比丘のみなさん、心があり、すべてのダンマがあり、アヴィッチャーダートゥ(無明界)があります。

 比丘のみなさん。聞いたことがない凡夫が無明触から生じた受に触れる人になると、彼は「私はいる」に至ることも、「これが私」になることも、「私はこれからもいる」になることも、「私はこれからいない」になることも、「私は形がある動物」になることも、「私は想がある動物」になることも、「私は想がある動物になる」になることも、「私は想がない動物になる」になることも、「私は想があるのでもなく、想がないのでもない動物になる」とこのようになることも当然あります。

 比丘のみなさん。それらを掴むことに当然五つすべての根があります。しかし無明が、聞いた聖なる弟子が捨ててしまったものである場合は、当然明が生じます。

 無明をすべて吐き出して明が生じれば、その聖なる弟子が「私はいる」に至ることも、「これが私」になることも、「私はこれからもいる」となることも、「私はこれからいない」になることも、「私は形がある動物」になることも、「私は想がある動物」になることも、「私は想がある動物になる」になることも、「私は想がない動物になる」になることも、「私は想があるのでもなく、想がないのでもない動物になる」とこのようになることも、当然その聖なる弟子にはありません。





随眠が起きれば名形になる

祇園精舎で
相応部ニダーナヴァッガ 16巻79頁147項

 比丘のみなさん。人が当然何かについて考え、当然何かを思い、そして当然何かに心を埋めていれば、それは当然識が維持するための感情になります。感情があれば識の維持があり、識が維持して成長すれば、当然名形に進むことはあります。、

 縁である名形があれば六処があり、六処が縁で触があり、触が縁で受があり、受が縁で欲があり、欲が縁で取があり、取が縁で有があり、有が縁で生があり、生が縁で老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが揃って生じます。苦の山のすべての発生は、当然このような様相であります。

 比丘のみなさん。人が当然何かについて考えず、当然何かを思わなくても、当然何かに心を埋めていれば(随眠がある)、それは当然識が維持するための感情になります。感情があれば、識の維持があり、識が維持して成長すれば、当然名形に進むことはあります。

 縁である名形があれば六処があり、六処が縁で触があり、触が縁で受があり、受が縁で欲があり、欲が縁で取があり、取が縁で有があり、有が縁で生があり、生が縁で老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが揃って生じます。苦の山のすべての発生は、当然このような様相であります。

 比丘のみなさん。人が当然何かについて考えず、当然何かを思わず、そして当然何かに心を埋めなれば(随眠がない)、その時それは当然識が維持するための感情になりません。感情がなければ識の維持もなく、当然識の維持と成長もありません。

 名形が消滅することで六処が消滅し、六処が消滅することで触が消滅し、触が消滅することで受が消滅し、受が消滅することで欲が消滅し、欲が消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが揃って消滅します。苦の山のすべての消滅は、当然このような様相であります。





随眠が起きれば欲が生じる

祇園精舎で
相応部ニダーナヴァッガ 16巻80頁149項

 比丘のみなさん。人が当然何かについて考え、当然何かを思い、当然何かが心に潜在していれば、それは当然識が維持するための感情になり、感情があれば識の維持があり、識が維持して成長すれば、当然新しい有に導く物があります。

 新しい有に導く物があれば、当然行くこと来ることがあり、行くこと来ることがあれば移動と発生が当然あり、移動と発生があれば老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが揃って生じます。苦の山のすべての発生は当然このような形であります。

 比丘のみなさん。人が当然何かについて考えず、当然何かを思わないけれど、当然何かが心に潜在していれば、それは当然識が維持するための感情になり、感情があれば識の維持があり、識が維持して成長すれば当然新しい有に導く物があります。

 新しい有に導く物があれば、当然行くこと来ることがあり、行くこと来ることがあれば移動と発生が当然あり、移動と発生があれば老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが揃って生じます。苦の山のすべての発生は当然このような形であります。

 比丘のみなさん。人が当然何かについて考えず、当然何かを思わず、そして当然何かが心に潜在しなれば、その時それは当然識が維持するための感情にならず、感情がなければ識の維持もなく、当然識の維持と成長もありません。

 名形が消滅することで六処が消滅し、六処が消滅することで触が消滅し、触が消滅することで受が消滅し、受が消滅することで欲が消滅し、欲が消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが揃って消滅します。苦の山のすべての消滅は当然このような形であります。





新しい有は随眠が起きた時に生じる

祇園精舎で
相応部ニダーナヴァッガ 16巻78頁145項

 比丘のみなさん。人が当然何かについて考え、当然何かを思い、当然何かに埋もれている心があれば(註1)、それは当然識が維持するための感情です。感情があれば識の維持があり、識が維持して成長すれば新しい有の発生は当然あります。次の有の発生があれば老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが揃って生じます。苦の山のすべての発生は、当然このようにあります。

 比丘のみなさん。人が当然何かについて考えず、当然何かを思わないけれど、当然何かに心を埋めれば、それは当然識が維持するための感情です。感情があれば識の維持があり、識が維持して成長すれば当然新しい有に導くものがあります。新しい有に導くものがあれば老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが揃って生じます。苦の山のすべての発生は当然このようにあります。

 比丘のみなさん。人が当然何かについて考えず、当然何かを思わず、そして当然何かに心を埋めなれば、その時それは当然識が維持するための感情ではありません。感情がなければ識の維持もなく、その識の維持がなければ当然成長もしません。新しい有が生じなければ老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが揃って消滅します。苦の山のすべての消滅は当然このようにあります。

註1: 「何かに埋もれている心」とは「アヌセティ=潜在する」という言葉の訳で「眠っている」という意味です。つまり中部ウパリバンナーサ 18巻517頁822項のチャッカスッタに「幸受を味わって陶酔すれば貪随眠が起き、苦受を味わって悲しめば、瞋恚随眠が起き、不苦不幸受を味わって真実を知らなければ無明随眠が起きる」とあるアヌサヤ(随眠)の状態です。

 これは、心が何かでアヌセティの状態になれば、当然そこで随眠が起きるので、新しい界を作ることができるという意味です。チェテティあるいはパカッペティという言葉と違って、考えるだけでは当然新しい有は作られません。しかし非常に強くなって何らかの感情に心を埋めれば、その時だけ識が生じて新しい有を作ることができます。





サンニョージャニヤダンマを美味と見れば識が生じる

祇園精舎で
相応部ニダーナヴァッガ 16巻109頁220項

 比丘のみなさん。比丘がサンニョージャナ(結)の基盤であるすべてのダンマ(註1)をアッサーダ(美味)と見れば、当然識になります。識が縁で名形があり、名形が縁で六処があり、六処が縁で触があり、触が縁で受があり、受が縁で欲があり、欲が縁で取があり、取が縁で有があり、有が縁で生があり、生が縁で老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが揃って生じます。すべての苦の山の発生はこのようにあります。

 比丘のみなさん。下に伸びている根、周囲に広がっている根がある大木はすべての根が養分を上に吸い上げます。比丘のみなさん。そのような時、そのような食べ物、涵養する物がある大木は長い間維持できます。同じように比丘のみなさん。

 比丘がすべてのダンマ(物)を美味と見ればサンニョージャナ(結)の基盤になり、当然識になり、識が縁で名形があり、名形が縁で六処があり、六処が縁で触があり、触が縁で受があり、受が縁で欲があり、欲が縁で取があり、取が縁で有があり、有が縁で生があり、生が縁で老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが揃って生じます。すべての苦の山の発生はこのようにあります。

註1: 第三章「名形は、サンニョージャナの基盤であるダンマを、美味と見ることである」のサンニョージャナの基盤であるダンマを参照してください。





識にならないのはサンニョージャニヤダンマを害と見るから

祇園精舎で
相応部16巻110頁222項

 比丘のみなさん。比丘が普段からサンニョージャナ(結)の基盤であるすべてのダンマを下劣な害と見ていれば、当然識はありません。

 識が消滅することで名形が消滅し、名形が消滅することで六処が消滅し、六処が消滅することで触が消滅し、触が消滅することで受が消滅し、受が消滅することで欲が消滅し、欲が消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが揃って生じます。すべての苦の山の消滅はこのような様相であります。

 比丘のみなさん。大木があり、人がスコップと籠を持って来てその木を根元から切り、根元を切ったら掘り、掘ったらすべての根をカヤの茎ほどの根も砕き、そして木を大小の丸太に切り、大小の丸太に切ったら割り、割ったら木端にし、木端にしたら風や日に曝して乾かし、風や日に曝して乾かしたら当然火で燃やし、燃やしたら灰にし、灰にしたら当然強風に撒くか急流に流すのと同じです。

 比丘のみなさん。このような行動でその大木は根のない木になり、先端を切られた砂糖ヤシのように生きられない状態、二度と伸びられない状態に達します。

 同じように比丘のみなさん。比丘がサンニョージャナ(結)の基盤であるすべてのダンマを低劣な害と見れば当然識になりません。

 識が消滅することで名形が消滅し、名形が消滅することで六処が消滅し、六処が消滅することで触が消滅し、触が消滅することで受が消滅し、受が消滅することで欲が消滅し、欲が消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが揃って生じます。すべての苦の山の消滅はこのような様相であります。





人の心に縁起が生じる度に世界が生じる

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻108頁156項

 比丘のみなさん。世界の発生はどのようでしょうか。(世界の発生は次のようです)。

 目とすべての形に依存して眼識が生じ、三つのダンマ(目と形と眼識)の会合が触です。触が縁で受があり、受が縁で欲があり、欲が縁で取があり、取が縁で有があり、有が縁で生があり、生が縁で老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが揃って生じます。これが世界の発生です。

 耳とすべての声に依存して耳識が生じ、三つのダンマ(耳と声と耳識)の会合が触です。触が縁で受があり、受が縁で欲があり、欲が縁で取があり、取が縁で有があり、有が縁で生があり、生が縁で老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが揃って生じます。これが世界の発生です。

 鼻とすべての臭いに依存して鼻識が生じ、三つのダンマ(花と臭いと鼻識)の会合が触で、触が縁で受があり、受が縁で欲があり、欲が縁で取があり、取が縁で有があり、有が縁で生があり、生が縁で老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが揃って生じます。これが世界の発生です。

 舌とすべての味に依存して舌識が生じ、三つのダンマ(舌と味と舌識)の会合が触です。触が縁で受があり、受が縁で欲があり、欲が縁で取があり、取が縁で有があり、有が縁で生があり、生が縁で老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが揃って生じます。これが世界の発生です。

 体とすべての接触に依存して身識が生じ、三つのダンマ(体と接触と身識)の会合が触です。触が縁で受があり、受が縁で欲があり、欲が縁で取があり、取が縁で有があり、有が縁で生があり、生が縁で老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが揃って生じます。これが世界の発生です。

 心とすべてのダンマーラマナ(想念。イメージ)に依存して意識が生じ、三つのダンマ(心と想念と意識)の会合が触です。触が縁で受があり、受が縁で欲があり、欲が縁で取があり、取が縁で有があり、有が縁で生があり、生が縁で老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが揃って生じます。これが世界の発生です。

 比丘のみなさん。これが世界の発生です。





人の心で縁起が消滅する度に世界が消滅する

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻108頁157項

 比丘のみなさん。世界の消滅はどのようでしょうか。(世界の消滅は次のようです)。

 目とすべての形に依存して眼識が生じ、三つのダンマ(目+形+眼識)の会合が触です。触が縁で受があり、受が縁で欲があります。欲が消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが揃って消滅します。これが世界の消滅です。

 耳とすべての声に依存して耳識が生じ、三つのダンマ(耳+声+耳識)の会合が触です。触が縁で受があり、受が縁で欲があります。欲が消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが揃って消滅します。これが世界の消滅です。

 鼻とすべての臭いに依存して鼻識が生じ、三つのダンマ(鼻+臭い+鼻識)の会合が触です。触が縁で受があり、受が縁で欲があります。欲が縁で取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが揃って消滅します。これが世界の消滅です。

 舌とすべての味に依存して舌識が生じ、三つのダンマ(舌+味+舌識)の会合が触です。触が縁で受があり、受が縁で欲があります。欲が消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが揃って消滅します。これが世界の消滅です。

 体とすべての接触に依存して身識が生じ、三つのダンマ(体+接触+身識)の会合が触です。触が縁で受があり、受が縁で欲があります。欲が消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが揃って消滅します。これが世界の消滅です。

 心とすべての想念に依存して意識が生じ、三つのダンマ(心+想念+意識)の会合が触です。触が縁で受があり、受が縁で欲があります。欲が消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが揃って消滅します。これが世界の消滅です。

 比丘のみなさん。これが世界の消滅です。




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