第三章 縁起は有や生を跨いだ話ではない





     因果の法則:縁起の要旨


 これがあれば、これが当然ある。

 これが生じたから、これが生じた。


 これが無ければ、これは当然無い。

 これが消滅したから、これが消滅する。


中部マッジマバンナーサ 13巻355頁371項
相応部ニダーナヴァッガ 16巻84頁154項






六処に触れる物があれば縁起がある(有や生に跨がらない)

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻111頁163項他

 目と形に依存して眼識が生じ、三つのダンマの会合が触で、触が縁で受が生じ、受が縁で欲望が生じ、欲が縁で取が生じ、取が縁で有が生じ、有が縁で生があり、生が縁で老死・悲しみ・嘆き・苦・憂いすべての悩みが揃って生じます。苦の山の発生は当然このようにあります。

 耳と声に依存して耳識が生じ、三つのダンマの会合が触で、触が縁で受が生じ、受が縁で欲が生じ、欲が縁で取が生じ、取が縁で有が生じ、有が縁で生があり、生が縁で老死・悲しみ・嘆き・苦・憂いすべての悩みが揃って生じます。苦の山の発生は当然このようにあります。

 鼻と臭いに依存して鼻識が生じ、三つのダンマの会合が触で、触が縁で受が生じ、受が縁で欲が生じ、欲が縁で取が生じ、取が縁で有が生じ、有が縁で生があり、生が縁で老死・悲しみ・嘆き・苦・憂いすべての悩みが揃って生じます。苦の山の発生は当然このようにあります。

 舌と味に依存して舌識が生じ、三つのダンマの会合が触で、触が縁で受が生じ、受が縁で欲が生じ、欲が縁で取が生じ、取が縁で有が生じ、有が縁で生があり、生が縁で老死・悲しみ・嘆き・苦・憂いすべての悩みが揃って生じます。苦の山の発生は当然このようにあります。

 体と接触に依存して身識が生じ、三つのダンマの会合が触で、触が縁で受が生じ、受が縁で欲が生じ、欲が縁で取が生じ、取が縁で有が生じ、有が縁で生があり、生が縁で老死・悲しみ・嘆き・苦・憂いすべての悩みが揃って生じます。苦の山の発生は当然このようにあります。

 心と想念に依存して意識が生じ、三つのダンマの会合が触で、触が縁で受が生じ、受が縁で欲が生じ、欲が縁で取が生じ、取が縁で有が生じ、有が縁で生があり、生が縁で老死・悲しみ・嘆き・苦・憂いすべての悩みが揃って生じます。苦の山の発生は、当然このようにあります。





縁起は(有や生を跨ぐことなく)流れの途中で消滅できる

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻107頁155項

 比丘のみなさん。苦が維持できないことはどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。目と形に依存して眼識が生じます。三つのダンマの会合が触で、触が縁で受が生じ、受が縁で欲が生じます。欲が薄れて残らず消滅すれば取が消滅し、取が消滅すれば有が消滅し、有が消滅すれば生が消滅し、生が消滅すれば老死・悲しみ・嘆き・苦・憂いすべての悩みが揃って消滅します。すべての苦の山の消滅は当然このようにあります。

 耳と声に依存して耳識が生じます。三つのダンマの会合が触で、触が縁で受が生じ、受が縁で欲が生じます。欲が消滅すれば取が消滅し、取が消滅すれば有が消滅し、有が消滅すれば生があり、生が消滅すれば老死・悲しみ・嘆き・苦・憂いすべての悩みが揃って消滅します。すべての苦の山の消滅は当然このようにあります。

 鼻と臭いに依存して鼻識が生じます。三つのダンマの会合が触で、触が縁で受が生じ、受が縁で欲が生じます。欲が消滅すれば取が消滅し、取が消滅すれば有が消滅し、有が消滅すれば生が消滅し、生が消滅すれば老死・悲しみ・嘆き・苦・憂いすべての悩みが揃って消滅します。すべての苦の山の消滅は当然このように消滅します。

 舌と味に依存して舌識が生じます。三つのダンマの会合が触で、触が縁で受が生じ、受が縁で欲が生じます。欲が消滅すれば取が消滅し、取が消滅すれば有が消滅し、有が消滅すれば生が消滅し、生が消滅すれば老死・悲しみ・嘆き・苦・憂いすべての悩みが揃って消滅します。すべての苦の山の消滅は当然このようにあります。

 体と接触に依存して身識が生じます。三つのダンマの会合が触で、触が縁で受が生じ、受が縁で欲が生じます。欲が消滅すれば取が消滅し、取が消滅すれば有が消滅し、有が消滅すれば生が消滅し、生が消滅すれば老死・悲しみ・嘆き・苦・憂いすべての悩みが揃って消滅します。すべての苦の山の消滅は当然このようにあります。

 心と想念に依存して意識が生じます。三つのダンマの会合が触で、触が縁で受が生じ、受が縁で欲が生じます。欲が消滅すれば取が消滅し、取が消滅すれば有が消滅し、有が消滅すれば生が消滅し、生が消滅すれば老死・悲しみ・嘆き・苦・憂いすべての悩みが揃って消滅します。すべての苦の山の消滅は当然このようにあります。これが苦が維持できないことです。

 比丘のみなさん。これが苦の消滅です。





ナンディが生じれば縁起がある

祇園精舎で
相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻18頁27項

 比丘のみなさん。みなさんサマーディに励みなさい。比丘のみなさん。心がサマーディで安定している人は当然真実のままに明らかに知ります。

 その比丘は当然何を真実のままに知るのでしょうか。その比丘は当然形の発生と消滅、受の発生と消滅、想の発生と消滅、行の発生と消滅、識の発生と消滅を真実のままに知ります。

 比丘のみなさん。形の発生はどのようで、受の発生はどのようで、想の発生はどのようで、行の発生はどのようで、識の発生はどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。この場合の比丘は当然陶酔し、当然褒めちぎり、当然惑溺します。その比丘は何に当然陶酔し、当然褒めちぎり、当然惑溺するのでしょうか。

 比丘のみなさん。その比丘はその形に当然陶酔し、当然褒めちぎり、当然惑溺します。その比丘が形に当然陶酔し、当然褒めちぎり、当然惑溺すれば、当然ナンディ(歓び。満足)が生じます。形のどんな歓びも、その歓びは取です。その取が縁になって有が生じ、有が縁になって生が生じ、生が縁になって老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い、すべての悩みが一斉に生じます。すべての苦の山の発生は当然このようにしてあります。

 比丘のみなさん。その比丘は受に当然陶酔し、当然褒めちぎり、当然惑溺します。その比丘が受に当然陶酔し、当然褒めちぎり、当然惑溺すれば、当然ナンディ(歓び)が生じます。受のどんな歓びも、その歓びは取です。その取が縁になって有が生じ、有が縁になって生が生じ、生が縁になって老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い、すべての悩みが一斉に生じます。すべての苦の山の発生は、当然このようにしてあります。

 比丘のみなさん。その比丘は想に当然陶酔し、当然褒めちぎり、当然惑溺します。その比丘が想に当然陶酔し、当然褒めちぎり、当然惑溺すれば、当然ナンディ(歓び)が生じます。想のどんな歓びも、その歓びは取です。その取が縁になって有が生じ、有が縁になって生が生じ、生が縁になって老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い、すべての悩みが一斉に生じます。すべての苦の山の発生は当然このようにしてあります。

 比丘のみなさん。その比丘は行に当然陶酔し、当然褒めちぎり、当然惑溺します。その比丘が行に当然陶酔し、当然褒めちぎり、当然惑溺すれば、当然ナンディ(歓び)が生じます。行のどんな歓びも、その歓びは取です。その取が縁になって有が生じ、有が縁になって生が生じ、生が縁になって老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い、すべての悩みが一斉に生じます。すべての苦の山の発生は当然このようにしてあります。

 比丘のみなさん。その比丘は識に当然陶酔し、当然褒めちぎり、当然惑溺します。その比丘が識に当然陶酔し、当然褒めちぎり、当然惑溺すれば、当然ナンディ(歓び)が生じます。識のどんな歓びも、その歓びは取です。その取が縁になって有が生じ、有が縁になって生が生じ、生が縁になって老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い、すべての悩みが一斉に生じます。すべての苦の山の発生は当然このようにしてあります。

 比丘のみなさん。これが形の、受の、想の、行の、識の発生です。





ナンディが消滅すれば縁起も消滅する

祇園精舎で
相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻19頁29項

 比丘のみなさん。形、受、想、行、識の消滅はどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。この場合の比丘は当然陶酔せず、当然褒めちぎらず、当然惑溺しません。その比丘は何に、当然陶酔せず、当然褒めちぎらず、当然惑溺しないのでしょうか。

 比丘のみなさん。その比丘はその形に当然陶酔せず、当然褒めちぎらず、当然惑溺しません。その比丘が形に当然陶酔せず、当然褒めちぎらず、当然惑溺しなければ、当然ナンディ(歓び)は消滅します。その比丘のナンディが消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い、すべての悩みが一斉に消滅します。すべての苦の山の消滅は当然このようにしてあります。

 比丘のみなさん。その比丘は受に当然陶酔せず、当然褒めちぎらず、当然惑溺しません。その比丘が受に当然陶酔せず、当然褒めちぎらず、当然惑溺しなければ、当然ナンディ(歓び)は消滅します。その比丘のナンディが消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い、すべての悩みが一斉に消滅します。すべての苦の山の消滅は当然このようにしてあります。

 比丘のみなさん。その比丘は想に当然陶酔せず、当然褒めちぎらず、当然惑溺しません。その比丘が想に当然陶酔せず、当然褒めちぎらず、当然惑溺しなければ、当然ナンディ(歓び)は消滅します。その比丘のナンディが消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い、すべての悩みが一斉に消滅します。すべての苦の山の消滅は当然このようにしてあります。

 比丘のみなさん。その比丘は行に当然陶酔せず、当然褒めちぎらず、当然惑溺します。その比丘が行に当然陶酔せず、当然褒めちぎらず、当然惑溺しなければ、当然ナンディ(歓び)は消滅します。その比丘のナンディが消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い、すべての悩みが一斉に消滅します。すべての苦の山の消滅は当然このようにしてあります。

 比丘のみなさん。その比丘は識に当然陶酔せず、当然褒めちぎらず、当然惑溺しません。その比丘が識に当然陶酔せず、当然褒めちぎらず、当然惑溺しなければ、当然ナンディ(歓び)は消滅します。その比丘のナンディが消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い、すべての悩みが一斉に消滅します。すべての苦の山の消滅は当然このようにしてあります。

 比丘のみなさん。これが形の、受の、想の、行の、識の消滅です。





縁起の言葉では、カンマを作った体にカンマの結果がある

増支部ティカニパータ 20巻171頁473項

 比丘のみなさん。すべてのカンマを生じさせる三つの原因があります。三つとはどれでしょうか。三つとはローバ(貪り)はすべてのカンマを生じさせる原因であり、ドーサ(憤り)はすべてのカンマを生じさせる原因であり、モーハ(愚かさ)はすべてのカンマを生じさせる原因です。

 比丘のみなさん。人が貪りで作った、貪りから生じた、貪りが原因の、貪りが集であるカンマは何でも、そのカンマは、当然その体に生じたすべての蘊に結果を与えます。即刻(ディッティダンマ)でも、しばらく後(ウッパッジャ)でも、ずっと後(アパラパリヤーヤ)でも、そのカンマがどの体に結果を与えても、彼は当然その体のそのカンマの報いを味わいます。

 比丘のみなさん。人が憤りで作った、憤りから生じた、憤りが原因の、憤りが集であるカンマは何でも、そのカンマは当然その体に生じたすべての蘊に結果を与えます。即刻でも、しばらく後でも、ずっと後でも、そのカンマがどの体に結果を与えても、彼は当然その体のそのカンマの報いを味わいます。

 比丘のみなさん。人が愚かさで作った、愚かさから生じた、愚かさが原因の、愚かさが集であるカンマは何でも、そのカンマは当然その体に生じたすべての蘊に結果を与えます。即刻でも、しばらく後でも、ずっと後でも、そのカンマがどの体に結果を与えても、彼は当然その体のそのカンマの報いを味わいます。

 比丘のみなさん。折れていない、腐っていない、風や陽射しで傷んでいない、良い物だけを選んで良く保存している植物の種を、良く下準備した良い田んぼに蒔き、その上季節の雨が降れば、比丘のみなさん。それらすべての種は確実に発展、成長、繁茂するように、比丘のみなさん。

人が貪りで作った、貪りから生じた、貪りが原因の、貪りが集であるカンマは何でも、そのカンマは当然その体に生じたすべての蘊に結果を与えます。そのカンマが即刻でも、しばらく後でも、ずっと後でも、どの体に結果を与えても、彼は当然その体のそのカンマの報いを味わいます。

 比丘のみなさん。人が憤り(瞋恚)で作った、憤りから生まれた、憤りが原因の、憤りが集であるカンマは何でも、そのカンマは当然その体に生じたすべての蘊に結果を与えます。そのカンマがどの体に結果を与えても、彼は当然、即刻でも、しばらく後でも、ずっと後でも、その体のそのカンマの報いを味わいます。

 比丘のみなさん。人が愚かさ(痴)で作った、愚かさから生じた、愚かさが原因の、愚かさが集であるカンマは何でも、そのカンマは当然その体に生じたすべての蘊に結果を与えます。即刻でも、しばらく後でも、ずっと後でも、そのカンマがどの体に結果を与えても、彼は当然その体のそのカンマの報いを味わいます。



 比丘のみなさん。この三つの原因がすべてのカンマを生じさせます。

 比丘のみなさん。この三つの原因はすべてのカンマの発生のためにあります。三つとはどれでしょうか。三つとは貪らないことはすべてのカンマを生じさせる原因であり、瞋らないことはすべてのカンマを生じさせる原因であり、愚かでないことはすべてのカンマを生じさせる原因です。

 比丘のみなさん。人が貪らないことで作った、貪らないことから生じた、貪らないことが原因の、貪らないことが集であるカンマは何でも貪りがないので、そのような状況でそのカンマは当然、その人が当然捨てて無くした、根を抜いた、芽の先端を切られた砂糖ヤシのようにされ、当然二度と生じないようにされたカンマです。

 比丘のみなさん。人が憤らないことで作った、憤らないことから生じた、憤らないことが原因の、憤らないことが集であるカンマは何でも、憤りがないので、そのような状況でそのカンマは当然、その人が当然捨てて無くした、根を抜いた、芽の先端を切られた砂糖ヤシのようにし、当然二度と生じないようにしたカンマです。

 比丘のみなさん。人が愚かでないことで作った、愚かでないことから生じた、愚かでないことが原因の、愚かでないことが集であるカンマは何でも、貪りがないので、そのような状況でそのカンマは当然、その人が当然捨てて無くし、根を抜き、芽の先端を切られた砂糖ヤシのようにし、当然二度と生じないようにしたカンマです。

 比丘のみなさん。このように欠けず腐らず風や陽射しで傷んでいない良い物だけを選んで良く保存している植物の種を、人が火で炙れば灰の粉になり、灰の粉になったら吹いている強風に撒けば、あるいは急流の川に流せば、それらの種は根源を断たれた物になり、根を抜かれ先端を切られた砂糖ヤシの木のように二度と生きられません。

 比丘のみなさん。同じように人が貪らないことで作った、貪らないことから生じた、貪らないことが原因の、貪らないことが集であるカンマは何でも貪りがないので、そのような状況でそのカンマは、当然その人が捨てて無くし、根を抜き、芽の先端を切られた砂糖ヤシのようにし、当然二度と生じないようにしたカンマです。

 比丘のみなさん。人が憤らないことで作った、憤らないことから生じた、憤らないことが原因の、憤らないことが集であるカンマは何でも憤りがないので、そのような状況でそのカンマは当然、その人が当然捨てて無くし、根を抜き、芽の先端を切られた砂糖ヤシのように、当然二度と生じないようにしたカンマです。

 比丘のみなさん。人が愚かでないことで作った、愚かでないことから生じた、愚かでないことが原因の、愚かでないことが集であるカンマは何でも、愚かさがないので、そのような状況でそのカンマは当然、その人が当然捨てて無くし、根を抜き、芽の先端を切られた砂糖ヤシのように当然二度と生じないようにしたカンマです。

 比丘のみなさん。この三つの原因はすべてのカンマを生じさせます。

 行為者が「貪りから生じた」「憤りから生じた」「愚かさから生じた」と見ているカンマはどれも、少し行動してもたくさん行動しても、そのカンマはその人物がその体で結果を味わうべきで、他の物(註1)はありません。だから貪・瞋・痴を明らかに知って明を生じさせた比丘は、当然すべての悪趣を捨てることができます。

註1: この場合の「物」とは、カンマが行為者に結果を出す土地という意味で、カンマを作ってカンマを味わう身体が存在する場所であるすべての蘊です。現生や来生という時を意図する意味はまったくありません。

註: 学習者は次の内容を観察して見なければなりません。「ディッタダンマ」「ウッパッチャ」「アパラパリヤーヤ」の三つは、「ディッタダンマヴェーダニヤ」「ウッパッチャヴェーダニヤ」「アパラパリヤヴェーダニヤ」という言葉で広く知られ、意味は初めの言葉は「現生で」、後の二つは「死後に」という意味にとられています。

 一方パーリ(ブッダの言葉である経)では、この三種類はすべて現生、あるいはこの身体でのように説明されています。縁起の中の生という言葉の意味は、一度取あるいは苦が生じたら、それが一つの生であり、一日に幾つもの生があります。だからディッタダンマという言葉は即刻という意味で、ウッパッチャはその後しばらくして結果があるという意味で、パラパリヤーヤはもっと後、つまり縁起の意味の二つ目、三つ目、四つ目の生を意味します。

 一時間後、あるいは何日も後、あるいは何年後でも同じ体で、理解しているように死後を意味する必要はありません。死後のいろんな話はまだ話す必要はありません。この体一人だけでも、カンマを作ってカンマの結果を味わう生が、何百、何千、何万、何十万、何百万もの生があるからです。

 縁起の言葉の意味、あるいは述べたような第一義諦の「生」という言葉の意味を観察してください。数えきれないほどの生を考えるよう道徳を教える時に使う言葉も、この意味の生を意味しています。

 だから「生」「ディッタダンマ」「ウッパッチャヴェーダニヤ」「アパラパリヤヴェーダニヤ」という言葉の意味を、ブッダが望まれたとおり正しく理解してしまってください。要するにディッタダンマは「即刻」、サムパラーヤ、つまりウッパッチャとアパラーパラは「後で」という意味で、どんなに長くでも構いません。

 更に、不貪・不瞋・不痴という言葉には、二つのレベルがあると観察して見なればなりません。一般的なレベルはまだ漏がなくなっていない人のもので、そのカンマを作っている間だけ不貪・不瞋・不痴が現れているにすぎませんが、普通の人が慈悲の威力で布施をするように、貪・瞋・痴と反対のクサラチェッタシカ(善心所)があります。

 もう一つの不貪・不瞋・不痴は漏が終わった人の心の状態で、カンマと見なさない行為であるカンマなので、「善行、悪行であるカンマ」と言う必要はありません。このパーリ(ブッダの言葉である経)の中の不貪・不瞋・不痴という言葉は、むしろ前者の意味を意味しているはずです。学習者は良く熟慮して見てください。





縁起が見えればカンマに賢い

ヴァーセッダスッタ
小部スッタニパータ 25巻457頁382項

  人は生まれによってバラモンであるのでなく、

  人は生まれでバラモンであるのでもなく、

  人はカンマによってバラモンになり、

  バラモンでないのもカンマによってです。


  人はカンマによって百姓になり、

  カンマによって職人になり、

  はカンマによって商人になり、

  カンマによって使用人になり、


  人はカンマによって盗賊になり、

  カンマによって戦士になり、

  カンマによって司祭になり、

  国王であるのもカンマゆえです


  カンマをこのように、当然真実のままに見るすべての智者は、

  縁起が見える人、カンマの報いに賢い人と呼ばれます。


  世界は当然カンマで経過し、

  動物群は当然カンマで経過し、

  すべての生き物には、

  走っている車を止めるクサビのように、

  結びつけるものであるカンマがあります。


  苦行をすること、梵行をすること、慎み、そして自分を訓練することで人はバラモンになり、

  それが最高レベルのバラモンです。

  三つの知識で明が完璧な人は静まった人であり、

  終わった新しい有があります(つまり新しい有は無い)。


 ヴァーセッタさん。あなたはこのような人を、すべての智者の帝釈天であるバラモンと知りなさい。

註: 学習者は「カンマが一つの結果を出す状況」だけでも縁起と呼ばれていると観察して見なければなりません。縁起が見えることは「カンマが結果を出す状況が見えること」です。

 このブッダバーシタによれば、世界、あるいは動物の群れは縁起の威力で経過し、その縁起の流れは苦行、梵行、自制、訓練で止めることができ、そしてそのような人をこの宗教の意味の「バラモン」「サッカ(帝釈天)」と呼びます。





 結ぶものを美味と見るから名形になる

祇園精舎で
相応部ニダーナヴァッガ 16巻108頁216項他

 比丘のみなさん。平素からサンニョージャナ(生き物を輪廻に結びつける煩悩)の基盤であるすべてのダンマ(註1)をアッサーダ(美味)と見れば、当然名形があります。名形が縁で六処があり、六処が縁で触があり、触が縁で受があり、受が縁で欲があり、欲が縁で取があり、取が縁で有があり、有が縁で生があり、生が縁で老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みがあります。すべての苦の山の発生は当然このような状態であります。

 比丘のみなさん。大木は根が四方に広がって下に伸びていて、そのすべての根が旨味(養分)を上に運びます。比丘のみなさん。そのようなら、そのような状態の大木は、涵養する物があるので長い時間維持できるように、比丘のみなさん。平素からサンニョージャナの基盤であるすべてのダンマを美味と見れば当然名形があり、

名形が縁で六処があり、六処が縁で触があり、触が縁で受があり、受が縁で欲があり、欲が縁で取があり、取が縁で有があり、有が縁で生があり、生が縁で老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みがあります。すべての苦の山の発生は当然このような状態であります。

註1 サンニョージャナの基盤であるダンマとは、形・受・想・行・識、目・耳・鼻・舌・体・心です。





結ぶものを害と見れば名形はない

祇園精舎で
相応部ニダーナヴァッガ 16巻109頁218項

 比丘のみなさん。比丘が平素からサンニョージャナ(結)の基盤であるすべてのダンマを、アーディナヴァ(下劣な害)と見れば当然名形はありません。、

 名形が消滅することで六処が消滅し、六処が消滅することで触が消滅し、触が消滅することで受が消滅し、受が消滅することで欲が消滅し、欲が消滅することで取が消滅し取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みがすべて消滅します。苦の山の消滅は当然このよ宇な状態であります。

 比丘のみなさん。大木があり、人がスコップと籠を持って来てその木を根元から切り、根元を切ったら掘り、掘ったらすべての根をカヤの茎ほどの根も砕き、そして木を大小の丸太に切り、大小の丸太に切ったら割り、割ったら木端にし、木端にしたら風や日に曝して乾かし、風や日に曝して乾かしたら当然火で燃やし、燃やしたら灰にし、灰にしたら当然強風に撒くか急流に流すようなものです。

 比丘のみなさん。このような行動で、その大木は根のない木になり、先端を切られた砂糖ヤシの木のように、生きられない状態、二度と伸びられない状態になります。

 比丘のみなさん。同じように比丘が平素からサンニョージャナ(結)の基盤であるすべてのダンマをアーディナヴァ(下劣な害)と見れば当然名形はありません。

 名形が消滅することで六処が消滅し、六処が消滅することで触が消滅し、触が消滅することで受が消滅し、受が消滅することで欲が消滅し、欲が消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みがすべて消滅します。すべての苦の山の消滅は当然このようにしてあります。





五取蘊と混ぜて話された縁起

カビラバスツに近い榕樹苑で
相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻113頁167項

 カビラバスツの都での話です。世尊が供物に貪欲な僧たちを追放された後、この比丘たちが教祖を見なければ、母牛がいない子牛のように間違った方向へ行くと考えられ、支援する心で「大梵天が懇願した」という形で忠告する方向へ気持ちを変えられ、そして神変行でそれらの比丘たちを一人ずつブッダに会いに来させ、全部揃ったところで次のように話されました。

 比丘のみなさん。すべての職業の中で最も低い職業は乞食です。比丘のみなさん。この世界で最高の呪いの言葉は「瓦を持って乞食をしろ」とこのように呪う言葉です。

 比丘のみなさん。この職業に至った(訳注:比丘とは、乞食をする人という意味)良家の子息は、利益の威力に依存して利益の威力になる人で、王の罰を逃れた人でも、盗賊に追われて出家した人でも、借金から逃れた人でも、危険から逃れた人でも、職業がないから出家した人でもありません。

 もう一つ、この良家の子息は「私たちは生・老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みに狙われた人で、前方に苦がある。どうすればすべての苦の山の終わりが、私に現れるのだろう」と考えて出家しました。比丘のみなさん。

 しかしこのように出家した良家の子息は貪りの多い人になり、すべての愛欲に強い欲情があり、恨む心があり、加害になる考えがあり、忘れたサティがあり自覚がなく、心が不安定で心が間違った方へ転がり、慎みのない根があります。

 比丘のみなさん。両側が燃えていて、真ん中が糞で汚れている火葬の死体の下に積まれている薪は、家で使う木としても利益がなく、森の木としても利益がないように、比丘のみなさん。この人はこれに例えられると言います。つまり在家の財産も衰退し、サマナの利益も完璧にしない人です。

 比丘のみなさん。この三つのアクサラヴィタッカ(悪である考え)つまり愛欲の考え、復讐の考え、加害の考えがあります。比丘のみなさん。この三つの悪である考えは、当然心が四念処で良く安定している時、あるいはニミッタのないサマーディに励んでいる時に残らず消滅します。

 比丘のみなさん。ニミッタのないサマーディに励むにはこれだけの利益で十分です。比丘のみなさん。その人が励んでたくさんしたニミッタのないサマーディは、当然偉大な結果、偉大な功徳があります。

 比丘のみなさん。この二つのディッティ、つまりバヴァディッティ(有見)とヴィバヴァディッティ(無有見)があります。比丘のみなさん。この二つのディッティの場合は、聞いたことがある聖なる弟子は、当然「この世界に、私が掴んだ時罪のない人になれるものはないだろうか」とこのように熟慮して見、その聖なる弟子は「この世界に、私が掴んで罪のない人になれるものは何もない」とこのように明らかに知ります。

 その聖なる弟子は当然「私が掴むのは形・受・想・行・識だ。掴むこと(取)が縁で有が生じ、有が縁で生が生じ、生が縁で老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが生じる。苦の山すべての発生はこのようにしてある」と、このように明らかに知ります。

 比丘のみなさん。みなさんはこれをどう思いますか。形は不変ですか不変ではないですか。

 「不変ではありません、猊下」。

 不変でないものは苦ですか、幸福ですか。

 「苦です、猊下」。

 不変でなく、苦であり、当たり前に変化するものは何でも、それを「これは私の物。これは私。これは私の実体」と見るべきですか。

 「それはできません。猊下」。

 (受・想・行・識の場合も、形の場合と同じように話されています)。


 比丘のみなさん。だからこの話は、何らかの形は過去でも未来でも現在でも、内部にあっても外部にあっても、上等でも下等でも、粗雑でも緻密でも、遠くにあっても近くにあっても、それらの形をすべて「それは私の物ではない。それは私ではない。それは私自身ではない」と、このように正しい智慧で真実のままに見なければなりません。

 何らかの受は、過去でも未来でも現在でも、内部にあっても外部にあっても、上等でも下等でも、粗雑でも緻密でも、遠くにあっても近くにあっても、それらの受をすべて「それは私の物ではない。それは私ではない。それは私自身ではない」とこのように正しい智慧で真実のままに見なければなりません。

 何らかの想は、過去でも未来でも現在でも、内部にあっても外部にあっても、上等でも下等でも、粗雑でも緻密でも、遠くにあっても近くにあっても、それらの想をすべて「それは私の物ではない。それは私ではない。それは私自身ではない」とこのように正しい智慧で真実のままに見なければなりません。

 何らかの行は、過去でも未来でも現在でも、内部にあっても外部にあっても、上等でも下等でも、粗雑でも緻密でも、遠くにあっても近くにあっても、それらの行はすべて「それは私の物ではない。それは私ではない。それは私自身ではない」とこのように正しい智慧で真実のままに見なければなりません。

 何らかの識は、過去でも未来でも現在でも、内部にあっても外部にあっても、上等でも下等でも、粗雑でも緻密でも、遠くにあっても近くにあっても、それらの識をすべて「それは私の物ではない。それは私ではない。それは私自身ではない」とこのように正しい智慧で真実のままに見なければなりません。

 比丘のみなさん。聞いてこのように見ている聖なる弟子は、当然形・受・想・行・識に倦怠し、倦怠すれば当然欲情が緩み、欲情が緩むことで当然解脱し、解脱すれば当然「解脱した」と知るニャーナ(知ること。智)があります。その聖なる弟子は当然「生は終わった。梵行をするのは終わった。するべき仕事は成功した。このようになるためにしなければならないことは他にない」と、このように明らかに知ります。




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