縁起で一番厄介な状態は欲望の状態


増支部チャッカニパータ 21巻288頁199項

 比丘のみなさん。みなさんにタンハー(欲望)につて説明します。欲望は動物を包囲する囲いのようで、普通は流れて溢れ、動物が掴まる物です。欲望に繋がれ包まれているこの世界は、その欲望によって絡まった糸の塊のように、結び目がいっぱいで固まった糸の塊のように混乱し、ムンチャ草パッバチャ草のように絡み合っているので、当然破滅、悪趣、地獄である輪廻から脱せません。みなさんこれを聞いて心の中を役立つようになさい。これから話します。

 比丘のみなさん。欲望がどのようなので、動物を包囲する囲いのようで、通常は流れて溢れ、動物が掴まる物であり、欲望に繋がれ包まれているこの世界は欲望によって絡まった糸の塊のようで、結び目がいっぱいで固くなった糸の塊のように混乱し、ムンチャ草パッバチャ草のように絡み合っていて、当然破滅、悪趣、地獄である輪廻から脱せないと言われるのでしょうか。

 比丘のみなさん。内部の蘊を掴む十八のタンハーヴィチャリタ(欲望の威力で散漫になった思い。欲行)と、外部の蘊を掴む十八のタンハーヴィチャリタがあります。

 比丘のみなさん。内部の蘊を掴む十八の欲行はどのようでしょうか。比丘のみなさん。内部の蘊を掴む十八の欲行とは、

①「私がいる」と、このような思いがある時は、

②「私はこのようだ」と思うことが当然あり、

③「私はそのようだ」と思うことが当然あり、

④「私は違う」と思うことが当然あり、

⑤「私は不変ではない」と思うことが当然あり、

⑥「私は不変だ」と思うことが当然あり、

⑦「私はこのとおりであるべきだ」と思うことが当然あり、

⑧「私はこのようであるべきだ」と思うことが当然あり、

⑨「私はそのとおりであるべきだ」と思うことが当然あり、

⑩「別の私があるべきだ」と思うことが当然あり、

⑪「私は多少このとおりにあるべきだ」と思うことが当然あり、

⑫「私は多少このようにあるべきだ」と思うことが当然あり、

⑬「私は多少そのとおりにあるべきだ」と思うことが当然あり、

⑭「私は多少そのようにあるべきだ」と思うことが当然あり、

⑮「私は(これからも)いる」と思うことが当然あり、

⑯「私はこのようになる」と思うことが当然あり、

⑰「私はそのようになる」と思うことが当然あり、

⑱「私は違う(状態に)なる」と思うことが当然あります。

 比丘のみなさん。これが内部の蘊を掴む十八の欲行です。


 比丘のみなさん。外部の蘊を掴む十八の欲行はどのようでしょうか。比丘のみなさん。外部の蘊を掴む十八の欲行とは、

①「この蘊で私はいる」と、このような思いがある時は、

②「この蘊で私はこのようだ」と思うことが当然あり、

③あるいは「この蘊で私はそのようだ」と思うことが当然あり、

④「この蘊で私は違う」と思うことが当然あり、

⑤「この蘊で私は不変ではない」と思うことが当然あり、

⑥「この蘊で私は変らない」と思うことが当然あり、

⑦「この蘊で私はこのとおりであるべきだ」と思うことが当然あり、

⑧「この蘊で私はこのようであるべきだ」と思うことが当然あり、

⑨「この蘊で私はそのとおりであるべきだ」と思うことが当然あり、

⑩「この蘊で別の私があるべきだ」と思うことが当然あり、

⑪「この蘊で私は多少このとおりであるべきだ」と思うことが当然あり、

⑫「この蘊で私は多少このようにあるべきだ」と思うことが当然あり、

⑬「この蘊で私は多少そのとおりであるべきだ」と思うことが当然あり、

⑭「この蘊で私は多少そのようにあるべきだ」と思うことが当然あり、

⑮「この蘊で私は(これからも)いる」と思うことが当然あり、

⑯「この蘊で私はこのようになる」と思うことが当然あり、

⑰「この蘊で私はそのようになる」と思うことが当然あり、

⑱「この蘊で私は別(の状態)になる」と思うことが当然あります。


 比丘のみなさん。これが外部の蘊を掴む十八の欲行です。

 比丘のみなさん。このような状態で、内部の蘊を掴む十八の欲行と、外部の蘊を掴む十八の欲行があります。比丘のみなさん。だから私は、当然三十六の欲行と言います。比丘のみなさん。このような状態がある過去の欲行が三十六、未来の欲行が三十六、現在の欲行が三十六で、合計百八の欲行があります。 

 比丘のみなさん。これが動物を包囲する囲いのようで、通常は流れて溢れ、動物が掴る物であり、欲望に繋がれ包囲されているこの世界は、その欲望によって絡まった糸の塊のように、結び目がいっぱいで固くなった糸の塊のように混乱し、ムンチャ草パッバチャ草のように絡み合っているので、当然破滅、悪趣、地獄である輪廻から脱せないと言われます。

註: 学習者は次の点を観察しなければなりません。

 欲望は縁起の八番目の厄介で混乱した状況で、このパーリ(ブッダの言葉である経)述べられているように、動物の心をムンチャ草や絡まった糸の束のように混乱させる物と見なします。その上縛り付け、計り知れない複雑な状況に広がる網のように、包み込む状況があります。

 たとえば十八のディッティ(見解)は、様々な見解に遊びに行き、内部と外部、過去と未来と現在の蘊に言及し、合わせて百八種類になります。これが見解に依存する人たちです。

 六処に依存する状態を見れば、形・声・香・味・触・考えの六つの感情があり、それに三受つまり幸受・苦受・不苦不幸受と、三欲つまり愛欲・有欲・無有欲を掛ければ、五十四種類になります。

 そして二つの状態、つまり内部と外部を掛けても、あるいは在家と出離の二つを掛けても百八になり、愛欲・有欲・無有欲に使うことができます。

 述べた意味での百八欲行は、愛欲と有欲と無有欲のどれでも説明することができ、冒頭で述べたように百八欲行は、有欲と無有欲を使って反対の意味で説明するのに便利です。

 これが日常生活で生じる縁起の流れの中に潜んでいる欲望の状態の複雑さ、厄介さで、身体的な死後について話す必要はありません。

 在家とは家を治めている人の生活で、愛欲耽溺の形で直接五欲に依存することを意味し、出離とは形界の動物、無形界の動物が天国に生まれるために、苦行耽溺の形で家を出て梵行を行うことを意味します。

 欲行とは欲望の遊び場、ゴーチャラ(牛が草原を好むように、好んで行く場所)を意味し、上記の文に見られるように「見解」であることも「感情」であることもあります。





常見の強靭さが四聖諦を見ることを阻むので、四聖諦や縁起の教えを疑う

祇園精舎で

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻248頁417項

 比丘のみなさん。何があれば何に執着して、何に心を埋めて「風も吹かず、水も流れず、妊婦も出産せず、お日様もお月様も昇らず沈まず、それぞれが頑丈な柱のように堅固に存在する」というディッティ(見解。邪見)が生まれるでしょか。

 「猊下。私たちのすべてのダンマは世尊が根源で、世尊が指導者で、世尊が拠り所です。猊下。正しいことでしょう。そのお話になったことの意味を、どうぞ明らかになさってください。比丘のみなさんは世尊から聞いて記憶します」と、比丘たちがこのように申し上げたので、世尊は比丘たちによく聞くよう忠告して話されました。

 比丘のみなさん。形があれば形に執着することで、形に心を埋めることで「風も吹かず、水も流れず、妊婦も出産せず、お日様もお月様も昇らず沈まず、それぞれが頑丈な柱のように堅固に存在する」というディッティが生まれます。

 比丘のみなさん。受があれば受に執着することで、受に心を埋めることで「風も吹かず、水も流れず、妊婦も出産せず、お日様もお月様も昇らず沈まず、それぞれが頑丈な柱のように堅固に存在する」というディッティが生まれます。

 比丘のみなさん。想があれば想に執着することで、想に心を埋めることで「風も吹かず、水も流れず、妊婦も出産せず、お日様もお月様も昇らず沈まず、それぞれが頑丈な柱のように堅固に存在する」というディッティが生まれます。

 比丘のみなさん。行があれば行に執着することで、行に心を埋めることで「風も吹かず、水も流れず、妊婦も出産せず、お日様もお月様も昇らず沈まず、それぞれが頑丈な柱のように堅固に存在する」というディッティが生まれます。

 比丘のみなさん。識があれば識に執着することで、識に心を埋めることで「風も吹かず、水も流れず、妊婦も出産せず、お日様もお月様も昇らず沈まず、それぞれが頑丈な柱のように堅固に存在する」というディッティが生まれます。

 比丘のみなさん。みなさんはこれをどう思いますか。形は不変ですか。

 「不変ではありません。猊下」。

 不変でない物は苦ですか、幸福ですか。

 「苦です、猊下」。

 不変でなく、苦であり、当たり前に変化がある物でも、それに執着しなければ「風も吹かず、水も流れず、妊婦も出産せず、お日様もお月様も昇らず沈まず、それぞれが頑丈な柱のように堅固に存在する」という、このようなディッティは生じますか。

 「いいえ、生じません。猊下」。

 比丘のみなさん。聖なる弟子にこれら六つの疑義がなければ、その時その聖なる弟子は苦にも、苦を生じさせる原因にも、苦の消滅にも、苦の消滅に至る実践項目にも疑念はありません。

 比丘のみなさん。私はこの聖なる弟子を「預流である聖なる弟子で、落ちて普通になることはなく、将来悟ることが確約されている人」と言います。

 註: 「形等は不変な物で、この世界も別の世界も同じ」と見ている人は、この場合の「風も吹かず、水も流れない」という例えのような非常に強い常見が生じます。つまり丈夫な柱のように不動のディッティを変えないので、四聖諦が見えず、四聖諦は縁起なので、ディッティは縁起を見ることを阻害します。





断見は四聖諦を見るのを妨害するので、四聖諦や縁起を疑う

祇園精舎で
相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻254頁425項

 比丘のみなさん。何があれば、何を掴むことで、何に心を埋めれば「人が寄付した布施はない。人がした供え物はない。人が祭った祭祀はない。人がした善行悪行もカンマの報いはない。この世界はない。別の世界もない。母もいない。父もいない。オッパーティカ(不還)もいない。正しく行き、正しく行動し、この世界と別の世界を最高の智慧で明らかにし、世界に公開したサマナ・バラモンもいない。

 人は四大種の集まりにすぎず、死んだら土は土に還り、水は水に還り、火は火に還り、風は風に還り、すべての根は当然空に消える。すべての人に遺体を置く寝台があり、顔を覆って運ばれて行き、残る痕跡は墓だけ。鳩のような色だけがあり、祭祀があり、最後には灰になる多くの骨だけ。布施と呼ぶのは愚かな人の規定で、何でもあると言う人の言葉は意味がなく、偽りであり、戯言である。愚者も智者も体が崩壊すれば当然消滅し、死後は存在しない」とこのようなディッティが生まれるでしょうか。

 「猊下。私たちのすべてのダンマは世尊が根源で、世尊が指導者で、世尊が拠り所です。猊下。正しいことでしょう。そのお話になったことの意味を、どうぞ明らかになさってください。比丘のみなさんは世尊から聞いて記憶します」とこのように申し上げたので、世尊は、比丘たちによく聞くよう忠告して話されました。

 比丘のみなさん。形があれば形を掴んで、形に心を埋めるので「人がした布施はない。人がした供え物はない。人が祭った祭祀はない。人がした善行悪行のカンマに報いはない。この世界はない。別の世界もない。母もいない。父もいない。オッパーティカ(不還)もいない。正しく行き、正しく行動し、この世界と別の世界を最高の智慧で明らかにし、世界に公開したサマナやバラモンもいない。

 人は四大種の集まりにすぎず、死んだら土は土に還り、水は水に還り、火は火に還り、風は風に還り、すべての根は当然空に消える。すべての人は遺体を置く寝台があり、顔を覆って運ばれて行き、残る痕跡は墓だけ。鳩のような色だけがあり、祭祀があり、最後には灰になる多くの骨だけ。布施と言うものは愚者の規定で、何でもあると言う人の言葉は意味がなく、偽りであり戯言である。愚者も学者も体が崩壊すれば当然消滅し、死後は存在しない」とこのようなディッティが生じます。

 (受・想・行・識の場合も同じように話されています)。

 比丘のみなさん。みなさんこれをどう思いますか。形は不変ですか。

 「不変ではありません。猊下」。

 不変でないものは、苦ですか幸福ですか。

 「苦です、猊下」。

 不変でなく、苦であり、当たり前に変化がある物でも、それに執着しなければ「人が寄付した布施はない。人がした供え物はない。人が祭った祭祀はない。人がした善行悪行のカンマの報いはない。この世界はない。別の世界もない。母もいない。父もいない。オッパーティカ(不還)もいない。正しく行き、正しく行動し、この世界と別の世界を最高の智慧で明らかにし、世界に公開したサマナ・バラモンもいない。

 人は四大種の集まりにすぎず、死んだら土は土に行き、水は水に還り、火は火に還り、風は風に還り、すべての根は当然空に消える。すべての人には遺体を置く寝台があり、顔を覆って運ばれて行き、残る形跡は墓だけ、鳩のような色だけがあり、祭祀があり、最後には灰になる多くの骨だけ。布施と言うものは、愚かな人の規定で、何でもあると言う人の言葉は意味がなく、偽りであり戯言である。愚者も学者も体が崩壊すれば当然消滅し、死後は存在しない」とこのようなディッティが生じますか。

 「いいえ生じません。猊下」。

 (受・想・行・識の場合も同じように話されています)。

 比丘のみなさん。人が見たこと、聞いたこと、感じたこと、明らかに知ったこと、到達したこと、探求したこと、心で考えたことも、これらは不変ですか。

 「いいえ、不変ではありません、猊下」。

 不変でないものは苦ですか幸福ですか。

 「苦です、猊下」。

 不変でなく、苦であり、当たり前に変化するものでも、それに執着しなければ「人が寄付した布施はない。人がした供え物はない。人が祭った祭祀はない。人がした善行悪行のカンマの報いはない。この世界はない。別の世界もない。母もいない。父もいない。オッパーティカ(不還)もいない。正しく行き、正しく行動し、この世界と別の世界を最高の智慧で明らかにし、世界に公開したサマナ・バラモンもいない。

 人は四大種の集まりにすぎず、死んだら土は土に還り、水は水に還り、火は火に還り、風は風に還り、すべての根は当然空に消える。すべての人に遺体を置く寝台があり、顔を覆って運ばれて行き、残る痕跡は墓だけ、鳩のような色だけがあり、祭祀があり、最後には灰になる多くの骨だけ。

 布施と言うものは、愚かな人の規定で、何でもあると言う人の言葉は意味がなく、偽りであり、戯言である。愚者も学者も体が崩壊すれば当然消滅し、死後は存在しない」とこのようなディッティは生じますか。

 「いいえ、生じません。猊下」。

 比丘のみなさん。聖なる弟子にこれら六つの立場に疑義がない時、その時その聖なる弟子は、苦にも、苦を生じさせる原因にも、苦の消滅にも、苦の消滅に至る実践項目にも疑念はありません。

 比丘のみなさん。この聖なる弟子を、私は「預流である聖なる弟子で、落ちて普通になることはなく、将来悟ることが確約されている人」と言います。

 註: 述べたような虚無論や断見は無の極致で、反対の常見は有る(または三界)側の極致で、どちらも四聖諦を見ることを妨害し、四聖諦は縁起なので縁起も隠します。

 「布施はない」という言葉から「オッパーティカである動物もいない」まで虚無論の初めの部分は、一般道徳の基礎レベルの誤った見解の説明の言葉として使われています。不善行の邪見などはまだ完璧な虚無論ではないので、ただの誤った見解と言います。





縁起は、誰も反論できない話に含まれる 

増支部ティカニパータ 20巻225頁501項

 比丘のみなさん。私が説いたこのダンマは智者であるサナマ・バラモンの誰も威嚇できない、曇らすことができない、非難できない、反論できないダンマです。

 比丘のみなさん。私が説いたこのダンマは、どのように智者であるサナマ・バラモンの誰も威嚇できない、曇らすことができない、非難できない、反論できないダンマでしょうか。

 比丘のみなさん。私が「この六つのダートゥ」と説いたダンマは、智者であるサナマ・バラモンの誰も威嚇できない、曇らすことができない、非難できない、反論できないダンマです。

 比丘のみなさん。私が「この六つの触処(触の発生源)」と説いたダンマは、智者であるサナマ・バラモンの誰も威嚇できない、曇らすことができない、非難できない、反論できないダンマです。

 比丘のみなさん。私が「この十八のマノーパヴィチャーラ(心が遊ぶ所)」と説いたダンマは、智者であるサナマ・バラモンの誰も威嚇できない、曇らすことができない、非難できない、反論できないダンマです。

 比丘のみなさん。私が「この四つの聖諦」と説いたダンマは、智者であるサナマ・バラモンの誰も威嚇できない、曇らすことができない、非難できない、反論できないダンマです。

 比丘のみなさん。私が「この六つのダートゥ」と説いたダンマは、智者であるサナマ・バラモンの誰も威嚇できない、曇らすことができない、非難できない、反論できないダンマです。私がこのように述べるダンマは、何に依存してこのように言うのでしょうか。比丘のみなさん。この六つのダートゥである、土界、水界、火界、風界、空界、識界です。

 比丘のみなさん。私が「この六つのダートゥは、智者であるサナマ・バラモンの誰も威嚇できない、曇らすことができない、非難できない、反論できないダンマです」と、このように述べるダンマはどれも、このような意味で言っています。

 比丘のみなさん。私が「これが十八のマノーパヴィチャーラ」と説いたダンマは、智者であるサナマ・バラモンの誰も威嚇できない、曇らすことができない、非難できない、反論できないダンマです。私がこのように述べるダンマは、何に依存してこのように言うのでしょうか。

 比丘のみなさん。目で形を見ることで心は当然喜びの基盤である形に遊びに行き、当然憂いの基盤である形に遊びに行き、捨の基盤である形に遊びに行き、耳で声を聞くことで心は喜びの基盤である声に遊びに行き、憂いの基盤である声に遊びに行き、捨の基盤である声に遊びに行き、鼻で臭いを嗅ぐことで心は当然喜びの基盤である臭いに遊びに行き、当然憂いの基盤である臭いに遊びに行き、捨の基盤である臭いに遊びに行き、

 舌で味を味わうことで心は当然喜びの基盤である味に遊びに行き、当然憂いの基盤である味に遊びに行き、捨の基盤である味に遊びに行き、体で触れることで心は当然喜びの基盤である接触に遊びに行き、当然憂いの基盤である接触に遊びに行き、捨の基盤である接触に遊びに行き、心で想念を感じることで心は当然喜びの基盤である想念に遊びに行き、当然憂いの基盤である想念に遊びに行き、捨の基盤である想念に遊びに行きます。

 比丘のみなさん。私が「これが十八のマノーパヴィチャーラ」と説くダンマは智者であるサナマ・バラモンの誰も威嚇できない、曇らすことができない、非難できない、反論できないダンマです。このように述べるダンマはどれも、このような意味で言っています。

 比丘のみなさん。私が「これは四つの聖諦」と説いたダンマは、智者であるサナマ・バラモンの誰も威嚇できない、曇らすことができない、非難できない、反論できないダンマです。私がこのように述べるダンマは、何に依存してこのように言うのでしょうか。

 比丘のみなさん。六つのダートゥに依存して胎内に下りて行くことが当然あり、胎内に下りて行くことがあれば、当然名形があり、名形が縁で受があります。比丘のみなさん。私は当然「これが苦、これが苦の原因、これが苦の消滅、これが苦の消滅に至る道」と、受を味わうことができる生き物に規定しました。

 比丘のみなさん。苦諦はどのようでしょうか。生まれることも苦、老いも苦、死も苦、悲しみ・嘆き・憂い・すべての悩みも苦、愛していないものに遭遇するのも苦、愛するものと離れるのも苦、望んで叶わないのも苦、要するにすべての五取蘊が苦です。比丘のみなさん。これが苦諦です。

 比丘のみなさん。苦集諦はどのようでしょうか。無明が縁ですべての行があり、行が縁で識があり、識が縁で名形があり、名形が縁で六処があり、六処が縁で触があり、触が縁で受があり、受が縁で欲望があり、欲望が縁で取があり、取が縁で有があり、有が縁で生があり、生が縁で老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが残らず生じます。すべての苦の山の発生はこのようにあります。比丘のみなさん。これを苦集諦と言います。

 比丘のみなさん。苦滅諦とはどのようでしょうか。無明が残らず消滅することですべての行が消滅し、行が消滅することで識が消滅し、識が消滅することで名形が消滅し、名形が消滅することで六処が消滅し、六処が消滅することで触が消滅し、触が消滅することで受が消滅し、受が消滅することで欲望が消滅し、欲望が消滅することで取が消滅し、

取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが残らず消滅します。すべての苦の山の消滅はこのようにあります。比丘のみなさん。これを苦滅諦と言います。

 比丘のみなさん。苦滅道諦はどのようでしょうか。八項目がある素晴らしい道、つまり正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業(生活)、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。比丘のみなさん。これを苦滅道諦と言います。

 比丘のみなさん。私が「これら、つまり四つの聖諦は智者であるサナマ・バラモンの誰も威嚇できない、曇らすことができない、非難できない、反論できないダンマです」と説いたダンマはどれも、私はこういう意味で述べました。

 註: 学習者は「智者が反論できない」とブッダが挑まれている話は四つあると観察しなければなりません。つまり六ダートゥ(六大種)の話、六触処の話、十八意正行、四聖諦の形の縁起です。縁起で説かれているのは、智者である他のサマナ・バラモンに反論された時のための四聖諦で、要するに縁起は生起形も消滅形も反論できない話に含まれるということです。




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