第二章 縁起は四聖諦の完全版





因果の法則:縁起の要旨


 これがあれば、これが当然ある。

 これが生じたから、これが生じる。


 これが無ければ、これは当然無い。

 これが消滅したから、これが消滅する。

中部マッジマバンナーサ 13巻355頁371項
相応部ニダーナヴァッガ 16巻84頁154項





縁起の話は四聖諦の話

増支部ティカニバータ 20巻227頁501項

 比丘のみなさん。普段私が「これが四聖諦です」と説いているダンマは、智者であるサマナ・バラモンの誰も脅かすことができない、私を憂鬱にすることができない、非難も反論もできないダンマです。私がこのように述べるダンマは、何に依存して言うのでしょうか。

 比丘のみなさん。六つすべてのダートゥに依存して胎内に下りることが当然あり、胎内に下りれば当然名形があり、名形が縁で六処があり、六処が縁で触があり、触が縁で受があります。

 比丘のみなさん。私は当然「これが苦」「これが苦の原因」「これが苦の消滅」「これが苦の消滅に至る道」と、受を味わうことができる動物に規定しました。

 比丘のみなさん。苦諦はどのようでしょうか。生まれることも苦、老いも苦、死も苦、悲しみ・嘆き・体の苦・心の苦・憂い・すべての悩みも苦、愛していないものに遭遇するのも苦、愛しているものと離れるのも苦、望んで得られないのも苦、要するにすべての五取蘊は苦です。比丘のみなさん。私はこれを苦諦と言います。

 比丘のみなさん。苦集諦はどのようでしょうか。無明が縁としてあるからすべての行が生じ、行が縁としてあるから識が生じ、識が縁としてあるから名形が生じ、名形が縁としてあるから六処が生じ、六処が縁としてあるから触が生じ、触が縁としてあるから受が生じ、受が縁としてあるから欲が生じ、欲が縁としてあるから取が生じ、

取が縁としてあるから有が生じ、有が縁としてあるから生が生じ、生が縁としてあるから、老死、悲しみ、嘆き、苦、憂い、すべての悩みが揃って生じます。比丘のみなさん。私はこれを苦集諦と言います。

 比丘のみなさん。苦滅諦はどのようでしょうか。無明が薄れて残らず消滅することですべての行が消滅し、行が消滅することで識が消滅し、識が消滅することで名形が消滅し、名形が消滅することで六処が消滅し、六処が消滅することで触が消滅し、触が消滅することで受が消滅し、受が消滅することで欲が消滅し、欲が消滅することで取が消滅し、

取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死、悲しみ、嘆き、苦、憂い、すべての悩みが揃って消滅します。比丘のみなさん。私はこれを苦滅諦と言います。

 比丘のみなさん。苦滅道諦はどのようでしょうか。八項目がある素晴らしい道、つまり正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生活、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。比丘のみなさん。これを私は苦滅道諦と言います。

 比丘のみなさん。私が「これが四聖諦と説明したダンマは、智者であるサマナ・バラモンの誰も抑圧できない、私を憂鬱にすることができない、非難も反論もできないダンマです」と私が述べたこのような言葉のどれも、それはこのような要旨を意味しています。

註: 学習者は、「一般の人は誰でも、四聖諦と縁起は別の物と理解していますが、本当の中身は、縁起の話はこの経で述べられているように、苦集と苦滅に分けた、あるいは縁起の意味で完璧に分けた「完全版である四聖諦」と観察するべきで、苦集は欲の消滅と短く言う代わりに、欲とは何か、何から生じるか、どのように苦を生じさせるか、十一の段階で詳しく説明しています。

 つまり縁起の生起形で、「苦滅とは欲望の消滅」と短く言わないで、同じ十一の段階で詳しく話されたのが縁起の消滅形です。だからこのように述べるのは完全に四聖諦です。私は、縁起で説明された四聖諦を「大聖諦」、一般に知られている四聖諦を「小聖諦」と呼ぶべきと思います。





縁起のどの状態も、四聖諦の状態がある

祇園精舎で
相応部ニダーナヴァッガ 16巻51頁91項

 比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘は、当然老死を良く知り、老死が生じる原因を良く知り、老死の消滅を良く知り、動物を老死の消滅に到達させる実践項目を良く知っています。

 当然生を良く知り、生が生じる原因を良く知り、生の消滅を良く知り、動物を生の消滅に到達させる実践項目を良く知っています。

 当然有を良く知り、有(または三界)が生じる原因を良く知り、有(または三界)の消滅を良く知り、動物を有の消滅に到達させる実践項目を良く知っています。

 当然取を良く知り、取が生じる原因を良く知り、取の消滅を良く知り、動物を取の消滅に到達させる実践項目を良く知っています。

 当然欲を良く知り、欲が生じる原因を良く知り、欲の消滅を良く知り、動物を欲の消滅に到達させる実践項目を良く知っています。

 当然受を良く知り、受が生じる原因を良く知り、受の消滅を良く知り、動物を受の消滅に到達させる実践項目を良く知っています。

 当然触を良く知り、触が生じる原因を良く知り、触の消滅を良く知り、動物を触の消滅に到達させる実践項目を良く知っています。

 当然六処を良く知り、六処が生じる原因を良く知り、六処の消滅を良く知り、動物を六処の消滅に到達させる実践項目を良く知っています。

 当然名形を良く知り、名形が生じる原因を良く知り、名形の消滅を良く知り、動物を名形の消滅に到達させる実践項目を良く知っています。

 当然識を良く知り、識が生じる原因を良く知り、識の消滅を良く知り、動物を識の消滅に到達させる実践項目を良く知っています。

 当然行を良く知り、行が生じる原因を良く知り、行の消滅を良く知り、動物を行の消滅に到達させる実践項目を良く知っています。

 比丘のみなさん。老死とは何でしょうか。老いること、古くなること、歯が抜けること、白髪になること、皮膚にシワが寄ること、寿命が終わること、その動物種族のすべての根が老いること。これを老いと言い、終り、移動、崩壊、消失、命の終り、死、一巻の終り、すべての蘊の崩壊、体を捨てること、その動物群の根つまり命を捨てること。これを死と言います。老いも死も当然このようです。

 比丘のみなさん。これを老死と言います。老死の発生は当然生があるからで、老死の消滅は当然生の消滅によってあります。素晴らしい八項目がある道は老死の消滅に至らせる実践項目で、正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業(生活)、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。

 比丘のみなさん。生はどのようでしょうか。発生、(胎内に)下りること、生まれること、一斉に生まれること、すべての蘊が現れること、生き物が、その動物群のすべての蘊を得ること。比丘のみなさん。これを生と言います。生の発生は当然有の発生によってあり、生の消滅は当然有の消滅によってあります。

 素晴らしい八項目がある道は生の消滅に至らせる実践項目で、正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業(生活)、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。

 比丘のみなさん。有とは何でしょうか。比丘のみなさん。この三つ、つまり欲界、形界、無形界を、比丘のみなさん。これを有と言います。有の発生は、当然欲の発生によってあり、有の消滅は、当然欲の消滅によってあります。素晴らしい八項目がある道は有の消滅に至らせる実践項目で、正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。

 比丘のみなさん。取はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この四つ、つまり欲取、見取、戒禁取、我語取を、比丘のみなさん、これを取と言います。取の発生は、当然欲の発生によってあり、取の消滅は、当然欲の消滅によってあります。素晴らしい八項目がある道は取の消滅に至らせる実践項目で、正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。

 比丘のみなさん。欲はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この六つの欲、つまり形欲・声欲・臭欲・味欲・触欲・法欲です。比丘のみなさん。これを欲と言います。欲の発生は、当然受の発生によってあり、取の消滅は、当然受の消滅によってあります。素晴らしい八項目がある道は受の消滅に至らせる実践項目で、正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。

 比丘のみなさん。受はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この六つ、つまり眼触受、耳触受、鼻触受、舌触受、身触受、意触受を、比丘のみなさん。これを受と言います。受の発生は、当然触の発生によってあり、取の消滅は、当然触の消滅によってあります。素晴らしい八項目がある道は触の消滅に至らせる実践項目で、正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。

 比丘のみなさん。触はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この六つ、つまり、眼触、耳触、鼻触、舌触、身触、意触です。比丘のみなさん。これを触と言います。触の発生は、当然六処の発生によってあり、取の消滅は、当然六処の消滅によってあります。素晴らしい八項目がある道は六処の消滅に至らせる実践項目で、正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。

 比丘のみなさん。六処はどのようでしょうか。この六つ、つまり眼処、耳処、鼻処、舌処、身処、意処を、比丘のみなさん。これを六処と言います。六処の発生は、当然名形の発生によってあり、六処の消滅は、当然名形の消滅によってあります。素晴らしい八項目がある道は名形の消滅に至らせる実践項目で、正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。

 比丘のみなさん。名形はどのようでしょうか。受、想、思触、思念を名と言い、四大種と、四大種が依存している形を形と言います。名も形も、当然このようです。比丘のみなさん。これを名形と言います。

 名形の発生は、当然識の発生によってあり、名形の消滅は、当然識の消滅によってあります。素晴らしい八項目がある道は名形の消滅に至らせる実践項目で、正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。

 比丘のみなさん。識はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この六つ、つまり眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識を、比丘のみなさん。これを識と呼びます。識の発生は、当然行の発生によってあり、識の消滅は、当然行の消滅によってあります。素晴らしい八項目がある道は識の消滅に至らせる実践項目である正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。

 比丘のみなさん。すべての行はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この三つ、つまり身行、口行、意行のすべての行を、比丘のみなさん。これをすべての行と言います。

 行の発生は、当然無明の発生によってあり、行の消滅は、当然無明の消滅によってあります。素晴らしい八項目がある道は行の消滅に至らせる実践項目で、つまり正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。

 比丘のみなさん。比丘は当然老死を熟知し、老死が生じる原因を熟知し、老死の消滅を熟知し、老死の消滅に至らせる実践項目はこのようだと熟知している時はいつでも、当然生を熟知し、生を生じさせる原因を熟知し、生の消滅を熟知し、生の消滅に至らせる実践項目はこのようと熟知しています。

 当然有を熟知し、有を生じさせる原因を熟知し、有の消滅を熟知し、有の消滅に至らせる実践項目はこのようと熟知しています。

 当然取を熟知し、取を生じさせる原因を熟知し、取の消滅を熟知し、取の消滅に至らせる実践項目はこのようと熟知しています。

 当然欲を熟知し、欲を生じさせる原因を熟知し、欲の消滅を熟知し、欲の消滅に至らせる実践項目はこのようと熟知しています。

 当然受を熟知し、受を生じさせる原因を熟知し、受の消滅を熟知し、受の消滅に至らせる実践項目はこのようと熟知しています。

 当然触を熟知し、触を生じさせる原因を熟知し、触の消滅を熟知し、触の消滅に至らせる実践項目はこのようと熟知しています。

 当然生を熟知し、六処を生じさせる原因を熟知し、六処の消滅を熟知し、六処の消滅に至らせる実践項目はこのようと熟知しています。

 当然名形を熟知し、名形を生じさせる原因を熟知し、名形の消滅を熟知し、名形の消滅に至らせる実践項目はこのようと熟知しています。

 当然識を熟知し、識を生じさせる原因を熟知し、識の消滅を熟知し、識の消滅に至らせる実践項目はこのようと熟知しています。

 当然行を熟知し、行を生じさせる原因を熟知し、行の消滅を熟知し、行の消滅に至らせる実践項目はこのようと熟知しています。比丘のみなさん。その時その比丘を、

 デッィティ(見解)で完璧な人、

 ダッサナ(観)で完璧な人、

 このサッダンマ(正法)に到達した人、

 当然サッダンマが見える人、

 有学であるニャーナ(智)がある人、

 有学である明がある人、

 ダンマの流れに到った人

 煩悩に斬り込む智慧がある素晴らしい人、

 不死の扉の前に立っている人、などと呼びます。

註: 学習者は「縁起の話は四聖諦」という題名で述べているように、縁起全体と同じように、縁起のそれぞれの状態を更に分けて四聖諦にすることができると、観察して見なければなりません。全部合わせると、縁起の話のすべては四聖諦であると更に明白に証明するものになります。いつでも特に銘記してください。





 (大長老サーリプッタの言葉も、上のブッダバーシタ(ブッダが言われた言葉)と同じように、四聖諦の教えで縁起を、正しい見解として、つまり縁起のすべての状態をハッキリと知る物として述べています。

 つまり四聖諦の意味の正しい見解として、一つ一つすべての状態を知ることは、他の話、つまり原因も含めた善悪、四聖諦の意味の食べ物、四聖諦の意味の苦、そして四聖諦の意味の漏の話で、どれも正しい見解の物ばかりです。縁起については次の項目があるので、上のブッダバーシタの付録として、載せておきます)。

 ご年配のみなさん。聖なる(聖人である)弟子が「正しい見解がありディッティが真っ直ぐで、ダンマに対して揺るぎない帰依がありサッダンマに至った」と言われる、他の説明もあります。

 ご年配のみなさん。その説明とは、聖なる弟子が当然老死も、老死を生じさせる原因も、老死の消滅も、老死の消滅に至らせる実践項目も良く知っている時はいつでも、ご年配のみなさん。それだけで、その時その聖なる弟子は「正しい見解があり、ディッティが真っ直ぐで、ダンマに対して揺るがない帰依がありサッダンマに至った」と言われます。

 まだ他の説明があります。聖なる弟子が、当然生も、生を生じさせる原因も、生の消滅も、生の消滅に至らせる実践項目も良く知っている時はいつでも、ご年配のみなさん。それだけで、その時その聖なる弟子は「正しい見解があり、ディッティが真っ直ぐで、ダンマに対して揺るぎない帰依がありサッダンマに至った」と言われます。

 ご年配のみなさん。まだ他の説明があります。聖なる弟子が当然有も、有を生じさせる原因も、有の消滅も、有の消滅に至らせる実践項目も良く知っている時はいつでも、ご年配のみなさん。それだけで、その時その聖なる弟子は「正しい見解があり、ディッティが真っ直ぐで、ダンマに対して揺るぎない帰依がありサッダンマに至った」と言われます。

 まだ他の説明があります。聖なる弟子が当然取も、取を生じさせる原因も、取の消滅も、取の消滅に至らせる実践項目も良く知っている時はいつでも、ご年配のみなさん。それだけで、その時その聖なる弟子は「正しい見解があり、ディッティが真っ直ぐで、ダンマに対して揺るぎない帰依がありサッダンマに至った」と言われます。

 まだ他の説明があります。聖なる弟子が当然欲も、欲を生じさせる原因も、欲の消滅も、欲の消滅に至らせる実践項目も良く知っている時はいつでも、ご年配のみなさん。それだけで、その時その聖なる弟子は「正しい見解があり、ディッティが真っ直ぐで、ダンマに対して揺るぎない帰依がありサッダンマに至った」と言われます。

 まだ他の説明があります。聖なる弟子が当然受も、受を生じさせる原因も、受の消滅も、受の消滅に至らせる実践項目も良く知っている時はいつでも、ご年配のみなさん。それだけでその時その聖なる弟子は「正しい見解がありディッティが真っ直ぐで、ダンマに対して揺るぎない帰依がありサッダンマに至った」と言われます。

 まだ他の説明があります。聖なる弟子が当然触も、触を生じさせる原因も、触の消滅も、触の消滅に至らせる実践項目も良く知っている時はいつでも、ご年配のみなさん。それだけで、その時その聖なる弟子は「正しい見解があり、ディッティが真っ直ぐで、ダンマに対して揺るぎない帰依がありサッダンマに至った」と言われます。

 まだ他の説明があります。聖なる弟子が当然六処も、六処を生じさせる原因も、六処の消滅も、六処の消滅に至らせる実践項目も良く知っている時はいつでも、ご年配のみなさん。それだけで、その時その聖なる弟子は「正しい見解がありディッティが真っ直ぐで、ダンマに対して揺るぎない帰依がありサッダンマに至った」と言われます。

 まだ他の説明があります。聖なる弟子が当然名形も、名形を生じさせる原因も、名形の消滅も、名形の消滅に至らせる実践項目も良く知っている時はいつでも、ご年配のみなさん。それだけで、その時その聖なる弟子は「正しい見解があり、ディッティが真っ直ぐで、ダンマに対して揺るぎない帰依がありサッダンマに至った」と言われます。

 まだ他の説明があります。聖なる弟子が当然識も、識を生じさせる原因も、識の消滅も、識の消滅に至らせる実践項目も良く知っている時はいつでも、ご年配のみなさん。それだけでその時その聖なる弟子は「正しい見解がありディッティが真っ直ぐで、ダンマに対して揺るぎない帰依がありサッダンマに至った」と言われます。

 まだ他の説明があります。聖なる弟子が当然行も、行を生じさせる原因も、行の消滅も、行の消滅に至らせる実践項目も良く知っている時はいつでも、ご年配のみなさん。それだけで、その時その聖なる弟子は「正しい見解があり、ディッティが真っ直ぐで、ダンマに対して揺るぎない帰依がありサッダンマに至った」と言われます。

 ご年配のみなさん。ご年配のみなさん。聖なる弟子が「正しい見解があり、ディッティが真っ直ぐで、ダンマに対して揺るぎない帰依があり、サッダンマに至った」と言われる他の説明もあります。

 ご年配のみなさん。その説明とは聖なる弟子が当然無明も、無明を生じさせる原因も、無明の消滅も、無明の消滅に至らせる実践項目も良く知っている時はいつでも、ご年配のみなさん。それだけで、その時その聖なる弟子は「正しい見解があり、ディッティが真っ直ぐで、ダンマに対して揺るぎない帰依があり、サッダンマに至った」と言われます。

 (この後プラサーリプッタは四聖諦の意味で、サンマーディッティスッタという経の終りまで、漏について述べています。中部ムーラパンナーサ 12巻90頁117項)

 註: この話の前半の分部のブッダバーシタは、縁起の状態の四聖諦の形で話され、無明まで行っていません。縁起のそれぞれの状態を四聖諦の意味で知ることは、最低でも預流に到達する状態です。このようにブッダの言葉と弟子の言葉で一致します。





苦の発生を説く縁起

祇園精舎で
相応部ニダーナヴァッガ 16巻86頁161項

 比丘のみなさん。苦を生じさせる原因について、みなさんにお話します。みなさん、これを聞いて、心の中を役立つようになさい。今から話します。

 比丘のみなさん。苦を生じさせる原因はどのようでしょうか。

(1)比丘のみなさん。目とすべての形に依存して眼識が生じ、三つのダンマの会合(目+形+眼識)が触です。触が縁で受が生じ、受が縁で欲が生じます。これが苦が生じる原因です。

(2)比丘のみなさん。耳とすべての声に依存して耳識が生じ、三つのダンマの会合(耳+声+耳識)が触です。触が縁で受が生じ、受が縁で欲が生じます。これが苦が生じる原因です。

(3)比丘のみなさん。鼻とすべての臭いに依存して鼻識が生じ、三つのダンマの会合(鼻+臭い+鼻識)が触です。触が縁で受が生じ、受が縁で欲が生じます。これが苦が生じる原因です。

(4)比丘のみなさん。舌とすべての味に依存して舌識が生じ、三つのダンマの会合(舌+味+舌識)が触です。触が縁で受が生じ、受が縁で欲が生じます。これが苦が生じる原因です。

(5)比丘のみなさん。体とすべての接触に依存して身識が生じ、三つのダンマの会合(体+接触+身識)が触です。触が縁で受が生じ、受が縁で欲が生じます。これが苦が生じる原因です。

(6)比丘のみなさん。心とすべての想念に依存して意識が生じ、三つのダンマの会合(心+想念+意識)が触です。触が縁で受が生じ、受が縁で欲が生じます。これが苦を生じさせる原因です。

 比丘のみなさん。これらが苦を生じさせる物です。





苦の消滅を説く縁起

祇園精舎で
相応部ニダーナヴァッガ 16巻86頁161項

 比丘のみなさん。苦が維持できないこと(苦の絶命)に至ることついてみなさんにお話します。みなさん、これを聞いて心の中を役立つようになさい。今から話します。

  比丘のみなさん。苦が維持できないことに至るのはどのようでしょうか。

(1)比丘のみなさん。目とすべての形に依存して眼識が生じ、三つのダンマの会合(目+形+眼識)が触です。触が縁で受が生じ、受が縁で欲が生じます。

 欲が残らず消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・体の苦・憂い・すべての悩みが消滅します。苦の山すべての消滅は当然このようです。これが苦が維持できないことです。

(2)比丘のみなさん。耳とすべての声に依存して耳識が生じ、三つのダンマの会合(耳+声+耳識)が触です。触が縁で受が生じ、受が縁で欲が生じます。

 欲が残らず消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・体の苦・憂い・すべての悩みが消滅します。苦の山すべての消滅は当然このようです。これが苦が維持できないことです。

(3)比丘のみなさん。鼻とすべての臭いに依存して鼻識が生じ、三つのダンマの会合(鼻+臭い+鼻識)が触です。触が縁で受が生じ、受が縁で欲が生じます。

 欲が残らず消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・体の苦・憂い・すべての悩みが消滅します。苦の山すべての消滅は当然このようです。これが苦が維持できないことです。

(4)比丘のみなさん。舌とすべての味に依存して舌識が生じ、三つのダンマの会合(舌+味+舌識)が触です。触が縁で受が生じ、受が縁で欲が生じます。

 欲が残らず消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・体の苦・憂い・すべての悩みが消滅します。苦の山すべての消滅は当然このようです。これが苦が維持できないことです。

(5)比丘のみなさん。体とすべての接触に依存して身識が生じ、三つのダンマの会合(体+接触+身識)が触です。触が縁で受が生じ、受が縁で欲が生じます。

 欲が残らず消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・体の苦・憂い・すべての悩みが消滅します。苦の山すべての消滅は当然このようです。これが苦が維持できないことです。

(6)比丘のみなさん。心とすべての想念に依存して意識が生じ、三つのダンマの会合(心+想念+意識)が触です。触が縁で受が生じ、受が縁で欲が生じます。

 欲が残らず消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・体の苦・憂い・すべての悩みが消滅します。苦の山すべての消滅は当然このようです。これが苦が維持できないことです。

 比丘のみなさん。これが苦が維持できないことです。





縁起の形の聖諦は受の時にある

増支部ティカニパータ 20巻227頁501項

 比丘のみなさん。六つのダートゥに依存して胎内に下りて行くことが当然あります。胎内に下りて行けば当然名形があり、名形が縁で六処があり、六処が縁で触があり、触が縁で受があり、受が縁で取があります。比丘のみなさん。私は当然「これが苦」「これが苦を生じさせる原因」「これが苦の消滅」「これが苦の消滅に至る道」と、このように受を味わうことができる動物に規定します。

註: 学習者は、この事実は非常に重要と観察して見なければなりません。つまり本当に受を味わわなければ、その受から生じた欲望から生じる苦諦は見えません。そしてその受の欲望が消滅した時心に八正道があれば、苦は自然に消滅します。

 だから受一つがないだけでは、四聖諦でも縁起でも、まだ本当にある物ではないので、ブッダが上の経で言われているように「縁起、聖諦は受がある時にある」と言うことができます。




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